○
政府委員(
中江要介君) まず
韓国側が非常に積極的であって、
日本よりも、
先ほどのお言葉ですと、先手必勝ということでどんどん乗り出してきたではないかと。現象として見ますと、
日本の法制整備あるいは鉱区設定、
開発権付与というようなそういう手続面では、確かに
韓国が次々とやっていたことは事実ですが、他方それに対して重大な
関心を示しました
日本政府が、
日本と
話し合いをすることなく、
日本が自分の
大陸だなと思っているところに、たとえそれが物理探査であろうと、それを行うことは認められないということで、
韓国の
国内法の
実施を思いとどまらせて、この法律論争を足かけ三年間やったというのも事実なんでございまして、
韓国は決してごり押しに既成事実をつくって何とかしようということでなかったということは、
一つ言っておきたいことだと思います。
それから、そういうことで始まりまして、昭和四十五年から、つまり一九七〇年から七二年まで足かけ三年にわたって法律論争をいたしました。その中身は、これは将来に向かって多少広く管轄権をとっておこうというようなそんな発想からは通用しないような、非常に精緻な法律論をやったわけでございまして、先方もわが方も、
国際法のいろいろの学者の議論、国際司法裁判所の判例、あるいは
国際社会で方々で行われている先例、そういったものをそれぞれ自国に有利なものを巧みに使って争ったわけでございまして、これを延々とやりましたけれ
ども、勝負がつかない。この勝負がつかないにはそれだけの理由があったと、私は当時自分でやっておりましたから感じたのですけれ
ども、これはどちらにもなかなかの理由、理屈、論拠がありました。したがいまして、こういうものこそ国際司法裁判所で裁いてもらうことが将来の
国際法秩序の先例として、いい判例がもらえるんではないかというのが
日本側の
考え方で、多少時間は待たされるかもしれないけれ
ども、あるいは経費もかかるかもしれないけれ
ども、国際司法裁判所に行こうじゃないかということを昭和四十七年の四月に正式に提案いたしました。これは相当の決心であったわけです。
といいますのは、それほど議論は伯仲しておりまして、必ず
日本が勝つという確信があるほどのものでもないし、
韓国側では国際司法裁判所に行くんなら自分の方が勝つからやってみようじゃないかということを言う人もいたぐらいだったわけです。ところが、いつか申し上げましたけれ
ども、時間と経費をかけて法律的な決着をつけるほど悠長な
資源開発問題かどうかということについては、
日本側でも昭和四十七年ごろはその意識があったわけでございます。その翌年に訪れましたオイルショックのような、ああいう急激なものが予想されたかどうかは別といたしまして、
日本の高度工業化の実態から見まして、このエネルギー
資源、特に
石油問題というのは、やがてこれは大問題になる。したがって、できることならば、早く
開発に着手しても七、八年から十年かかる話ではないかという気持ちは
日本側にもあったわけでございまして、そういう雰囲気の中で第六回の定期閣僚会議が行われまして、この定期閣僚会議が——私、
先ほど先生がきちんと九月五日、六日とおっしゃいましたのを、四日、五日と言いましたが、これは私の方の間違った資料で申し上げて大変失礼いたしました。
先生の言われたのが正しゅうございまして、五日、六日が第六回の閣僚会議で、その前日の四日に大平
外務大臣が朴大統領のところに表敬に行かれた。そのときには
双方とも、三年越しの法律論争に実はもう飽き飽きしていると言うと不謹慎かもしれませんが、これは幾ら続けてもらちが明かないなあと、そこで国際司法裁判所に行くという話も
韓国は受けない、どうしたものだろうかということで、ちょっと私
先ほど申し上げましたように、第三の線を引くかあるいは
共同開発にするかというようなことを内々私
ども考えておりました。ですから、その時点で大平
大臣の方からここまではおれのものだから一方的、自主的
開発するよと通報すれば足りるというような状況では実は全くなかったことは御
認識いただきたいと思うんでございます。
そういうところで定期閣僚会議に先立つ日の先方大統領との表敬の話のときに、この
共同開発構想というので考えられないだろうかという話がありまして、他方、私
どもでも
一つの具体的な実際解決として考えておりましたものですから、持ち帰って検討しましょうということで検討いたしまして、九月八日に先方に返事をいたしましたのは、
先ほどの
先生の御
質問に答える形で申し上げますと、具体的な鉱区とか具体的な地域とか、あるいは法律論をたな上げにしてとか、そういうところにまで及ばない、原則的にそれでは
共同開発というようなことが一体成り立つかどうか検討してみようと、そういう原則的な合意であったわけであります。
といいますのは、
先ほど申し上げましたように先例のない話でございまして、
国際社会で
共同開発構想というものはもし実行できますればこれは非常に新しい先例で、地球上方々にあります
大陸だな紛争の
一つの実際的解決の方法として、新しい分野を開くということでありましたので、
双方でこれを何とかうまく成功させることができるかどうかということで、鋭意昭和四十七年の十月から翌年の七月にかけて十回にわたる実務者の会議、締結交渉を行ってこの
協定にたどりついた。その
協定にたどりつく中で
双方の法律的な
立場、あるいは
双方が考えている
境界線、あるいはそれに対する
主権的権利というものの
内容、そういったものを慎重に突き合わせてつくったわけでございまして、これは先手必勝と言って先に手をつけた
韓国がどれだけ勝ったかと言いますと、半分しか勝ってない。つまり、
韓国はこのみぞのところまで全部一〇〇%
開発できるところを五〇%にまでまあ自制するという結集に終わっております。しかし他方わが方も、
中間線まで一〇〇%とれるという
立場から出発して五〇%のところにとどまっている。これがいわゆる実際的解決、
共同開発の構想ということになっておるわけですが、それですべてを手を打ってしまうのはこれは将来の
韓国にとりましても
日本にとりましても
立場を害するというので、
協定の二十八条でこの解決の仕方というのは、
双方の
大陸だなに対する
主権的権利の
主張の
立場を害するものではないし、ここで決められた
境界線というのは、
国際法上画定した
境界線ではないと。将来微調整もあるし、変更もあり得るという余地を残した、文字どおり実際的な解決ということで落ちついたのがこの
協定である、こういうことでございます。