○戸
叶武君 一九七八年八月十二日は、
日本にとっても
歴史的な
条約を
締結した日でありまして、この
調印の知らせを私は郷里の
夏季大学に行って聞きましたときに、思わず涙がこぼれ落ちました。
一九六〇年の
安保闘争のときに、私と早稲田大学以来の盟友であった
浅沼稲次郎君の、
アメリカ帝国主義は
日中共同の敵だというあの激しい一九五九年の春の演説を受けて、
社会党は共産党か
社会党かわからないじゃないかというまでの非難を浴びせられましたが、これに対して
浅沼稲次郎君は
一言も
自己弁解はしなかったのです。私は
浅沼君の
心情を思うときに、同志からまで
浅沼はばかだとまで言われました。近い人からももっとあれを修正するような
発言をするように、あるいは取り消しをするようにと言われましたが、
浅沼君はやはり
政治家です。
浅沼君はあの
段階において、
兄弟党とまで結盟しておった
ソ連から突き離された
中国が
近代化の道をどうやってたどろうかと苦悩した際に、やはり
浅沼君に対して
周恩来なりあるいは廖承志君なり、そういう人が心を込めて私は説き伏せたのだと思います。
浅沼には素朴な――
孫文がかつて大正十三年、神戸の女学校を訪れて、
北京で
国共合作に踏み切る前に
日本に呼びかけたことがあります。
日本の反響のむなしさを知りながらも、
中国におけるあの腐敗した
軍閥政権を武力を使っても倒さなければ
中国の前途は真っ暗やみだという気持ちで
最後の
訴えをしたのでありますが、あの
孫文の悲壮な叫びは、すでに第一次
世界戦争が勃発したどさくさのときに
加藤高明によって二十一カ条の、
背後における山県や
井上馨の思想によってつくり上げられたイギリス帝国主義的な冷酷無情の二十一カ条の
突きつけによって、
中国の若者は皆
日本に絶望し、
日本と戦わなければならないという決意を持っていながらも、
孫文はそのはやる心を押さえて
最後の
訴えをしたんです。
日本と
中国、この第、次
世界戦争の始まった
断初の帝国主義的二十一カ条が
中国のナショナリズムを高揚させ、五七及び五四
運動の
反日抵抗運動から今日の新
中国はつくられたのですが、その憎しみを乗り越えて、なおかつ
ソ連から突き離されたときに、
浅沼君にお願いしたその
心情というものは、最近
周恩来の
アメリカに対する打診も公表されておりますが、千々に心を砕いたものだと思います。
浅沼君は、みずからの
責任において、このことを成就させるのは容易なことじゃない、他の人にゆだねることはできない、
自分の
責任で死のうということはあのときから決したと思います。
浅沼君が
河上委員長と
委員長を争ったのも、左派の謀略に乗ったのでなく、
浅沼は余人をして死を賭して
日中関係を正常化することはできない、
自分が最高の
責任者としてこのために骨を埋めようというのが
浅沼の悲願だったと思います。私は七日間も
河上さんと
浅沼君の間に立って、その周囲の
人々にもせき立てられて交渉しましたが、
浅沼君は
一言も言を発しませんでした。それだけに今日
浅沼のあの
悲劇を見るときに、日中のために命を捨てた人がここにもある。
今度の
園田君の
外務大臣としての行き方には、私は、
浅沼と同様、敬服するんです。党内からもずいぶん誤解を受け、そねみを受け、そういう中において、あの
鄧小平との
最後の
詰めは、やっぱりこれを物にしなければ私は
日本に帰れないというのは芝居ではない、死を賭して
園田君も
鄧小平に迫ったのだと思います。十数年も
チンピラ革命家にさいなまれて苦難のイバラの道を歩んだ
鄧小平が、
自分というものを捨てて次の
時代の
指導者を育てようと決意している
苦労人の
鄧小平が、その心をくみ取ったところにあうんの呼吸が合ったのです。さすが
園田君も武道の
達人だけあって、
無念無想、あの瞬間における
気合いというものが十分加わっているから、このごろ病気をするのも無理はないと思いますが、どうぞ体は大切にしてもらいたい。
問題は、しかし、あれでいいんじゃない。私は、きょうの質問は、今後のことに対して大まかにあの
条約に込められている三点だけを質問します。
前文における
国連憲章と
日本の
平和憲法を引用しての、いままでの
同盟条約や
安保条約と違って烈々たる
理想主義の
理念が
国際条約の中に初めて、
日本と
中国において、みずからの反省の上に立って、これからの
日本も
中国も
東南アジアその他の
国々に迷惑をかけないようにという配慮からみずからも反省し、いかなる国の
覇権主義にも反対するという
気合いのかかった堂々たる
発言は
世界史の中における初めての記録だと私は思います。マキャベリズム的な暗い
権謀術策の
外交から、光明に背面なし、ざっくばらんに腹を割って
お互いに忠告もし、語り合い、理解を深め、
相互信頼の上に立ってつくり上げた
条約の
前文はみごとなものです。今後、
世界の
外交史の中において私は非常な参考になると思います。
日本の
外務省にはなかなかの
達人がいるものだ。気負った
園田さんも
最終段階の
詰めにおいては、
外務官僚のエキスパート、
能吏に任せて、そしてあれだけの
条文をつくり上げたということは後世の範になると思います。私は
立場は違うけれども、かつて
西村条約局長の
時代、
日華条約の
条約技術を見て、
蒋介石一派があれほどはやりにはやっているのにもかかわらず、
自分の現に統治していない
地域における主権というものを認めない断固たる
条約をつくり上げたというのは、あの
段階においても私は
世界の
条約の
歴史の中において画期的なものだと思いますが、あれ以上に新しい
歴史をこの
条約の中にぶち込んだ。
政府の中における見識ある
政治家、
外務省の
能吏――私は
官僚と
軍閥は大きらいだが、しかし、やはり
時代の流れを敏感に把握してデタントの方向へ
世界が動いている。第三次
世界戦争を夢想することは勝手だが、頭が変になったやつ以外にそんなことを考えるのはどうかしている。
アメリカでも
ソ連でも、第三次
世界戦争が誘発したならば自国も破滅に帰するということを百も承知の上で、
第三国を揺すぶって
武器弾薬を補給し
代理戦争をやらしているんじゃないですか。その悪
風潮に便乗して、日中の
平和条約を
締結したから、今度は右向きの号令をかけてもいいというような徒輩が自民党の中には、うじゃうじゃと言わないけれども、それ相当にいると私は認めているのであります、これはあなたの
関係ではありませんが。
国民は何百万という人の
悲劇の
戦争を通じてあの
憲法をつくり上げたのです。
マッカーサーから押しつけられたと言うが、
マッカーサーは滅びていったじゃないですか。スイスのように
日本をするとか、あるいは
日本に再
軍備させて朝鮮に派兵のできるようにするとか、一貫した
文明史観と哲学を持たない。しかし、
日本が
マッカーサーの権力に屈したんじゃなく、
天皇みずからも、まだ
象徴時代でないでしょうが、あの声をふるわせて再び
戦争をやらせない、
外交に
戦争手段を用いない、
平和憲法にたたみ込まれている
精神を泣いて
国民だけでなくて全
世界に
訴えたじゃありませんか。
天皇も退位でもして、
象徴天皇でも放置するのなら別だが、
政治の
原則は
信義です。国内だけでなく、外国にも誓ってそうして
日本の窮状を打開しようとした
天皇からあらゆる人民の声を無視して
日本憲法を徐々に変えよう、なし崩そうなどという
風潮の中にいま再
軍備への足音が聞こえてきている。最近における
法制局長官、自衛隊の
要人、
防衛庁長官、まちまちの
発言がなされておりますが、
緊急事態に入ってからということが前提ですけれども、
緊急事態に陥れないようなことが
外交の本領です、これが第一線です。
園田君はまあ
北京で腹かき切ってこないで無事帰還したということはいいことですが、健康に気をつけてください。そのかわり
福田さんの
忠犬ハチ公になることだけはやめてもらいたい。
福田さんに対するあなたの
知己であるということに対する
感激はあるかもしれないが、最近の
福田さんの動向はだれが見てもおかしいと見られている。新聞の論説を見てごらんなさい。きのうは左、きょうは右、みずてん芸者じゃあるまいし、一国の宰相が貫く
理念を持って
外交なり
防衛を
指導しないでだれが
指導するんですか。こんなばかげた
三流政治家になり下がったならば、
日中平和条約を
締結させた
福田はあっ
ぱれなやつだというほめ声があるが、さらに人気が上がらないのはそういう疑念が
国民の中にわだかまっているからだと思うんですが、まず第一
段階に、よくあの
平和友好条約はつくり上げたと思いますが、どういう点にその一番の秘訣があったか、そのことをちらりと承りたいと思います。