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坂本参考人 いま御紹介いただきました
坂本でございます。
日本の
教育の問題につきまして御造詣の深い国会の
先生方に、私のそれに関する
私見を述べさせていただける場を与えてくださいまして、本当にありがとうございました。
私は
青少年教育の
研究と
実践をやっております。たとえば、
青少年の
教育につきまして、
実践で言いますと、総理府の
青年の船などにも乗らせていただきましたし、その他いろいろな
青少年教育を実際
一緒に
青少年とともに
研究並びに
活動しているという
立場でございます。そういうことで、
青少年教育の
観点から少し
私見を述べさせていただきたいと思います。
御
承知のように、いまいろいろな
教育問題があります中で、
発達課題ということが大きな
関心になるのじゃないか。すなわち、特に、
発達課題と申しましても、いわゆる
パーソナリティー特性、
人格特性としての
発達課題、いわゆる成長の道しるべといいますか、それぞれの
段階でどういうような
能力を
子供たちが備えていかなくちゃいけないか。たとえば
幼稚園の
時代にはどういう
能力を備えなければいけないか、
小学校の間にはいわゆる
パーソナリティー特性としてどういう
能力をつけなければいけないかというような、
人格特性としての
発達課題というものが考えられてしかるべきだ。
結論的に言いますと、いまの
子供たちはいわゆる、
新聞の
言葉を借りますと、私はいやな
言葉で余り使いたくないわけですけれ
ども、
知的に落ちこぼれている
子供が多いというようなことをよく
新聞で拝見しておりますし、いまの
教育課題になっておりますけれ
ども、もっと深刻なのは、
知的に落ちこぼれているという
子供じゃなくて
人格特性として
発達課題も落ちこぼれている
子供たちの方がもっと深刻じゃないか。
人格特性の
発達課題をそのまま達成していかないと、勉強の面を幾らいろいろ努力してもなかなかうまくいかないかもしれないというような面すら考えられるぐらい重要な
特性ではないかということを考えますので、いわゆる
パーソナリティー特性としての
発達課題というものをこれから少し、
先生方に御説明するのは大変申しわけないのですけれ
ども、日ごろ
学生に説明しておりますので、そんなことで
学生に説明する口調になればお許しいただきたいのですが、そういう意味合いで
発達課題を少し述べさせていただきたいと思うのです。
そうしますと、
発達課題ですから順番を追っていかなければいけませんで、これを
累加性と言っておりますけれ
ども、途中もしどこかで欠落してしまいますとそれでそれは終わってしまう。ですから、たとえて言いますと、
小学校の
発達課題をやっておきませんでその
子供が
中学生、
高校生になりますと、もうそこで
中学生、
高校生の
発達課題はやれない、そこでとまってしまうというような
累加性を持ったものだと言われているわけですが、そういう点で、小さいときからのことをちょっと申し上げて、いわゆる
青少年教育のところは若干詳しく申させていただきたいのです。
いわゆる
乳児期におきましては
パーソナリティー特性としては、いろいろ言われますけれ
ども、端的に言えば
信頼感ということですね。
信頼感ということが
発達課題だと言われています。これは、わが国の
子供たちを見ましたときに、大
部分発達課題を達成しているというふうに見ていいだろう。これは
親子関係におきまして
乳児は
自分の欲求は大体満たされる。おむつがぬれればその要求にこたえてくれる、空腹になればこたえてくれるという形において、人間に対しての
信頼感をだんだん育てていける。しかし、それもすべてかというと、気ままに扱われれば、信頼していたと思ったらソファーの上にたたきつけられるというようなことがあればそういうことはないわけですけれ
ども、
日本の
子供たちは、
乳児期における
信頼感という
パーソナリティー特性としての
発達課題はまず卒業しているだろう。
そうしますと今度は大体
幼稚園の
年代でございますが、五、六歳ぐらい、大ざっぱに言えばその
年代とお考えいただきたいわけですけれ
ども、このあたりの
発達課題というのは
自立感ということです。これは、
自分で立つということと
自分で律するという律と両方含めております。その
自立感、これもまだフィーリング、感情の感の
段階ですが、これはいわゆる、
子供たちが、
自分の行為が
自分自身のものだということを確かめようとしていろいろやるのですけれ
ども、
成功したり失敗したりする
経験があるわけで、ここでちょっと重要なことは、
成功経験、うまくいく
経験と失敗する
経験とがうまくバランスがとれていないと
自立感にならないわけです。いまの
日本の
子供たちを見ますとそうなっているだろうか。
成功経験が多過ぎないか。いわゆる事前に、周囲の
大人たちが、失敗しそうな
事柄はあらかじめやらせなかったり、あるいは失敗しそうな
事柄は幾つか手を打って、そして
成功へばかり持っていってしまう。そうなりますと
自立感が育たないで何が育つかと申し上げますと、
小児万能感が育ってしまうわけです。
小児万能感、すなわち、世の中は
自分を
中心に回っているという
発想ですね。「世界は二人のために」なんという歌がありましたけれ
ども、まさに
自分一人のためにというような
発想が
子供の中に育って、そのままで
高校生、
大学生になっている
青年諸君がどのくらいいるだろうか。これは私、統計的にはわかりませんけれ
ども、少なくないのじゃないかという感じがするくらいです。
そういうことを卒業してきた
子供に対して、今度はこれは
小学校、
中学校の
段階ですけれ
ども、いわゆる
活動性、
自発性というものが
発達課題です。
青少年教育ではまずこの辺をねらうわけですが、言うなれば、
自立感を育ててきた
子供には、
活動性、
自発性の場を
学校教育でも
社会教育でも与えていきたい。端的に言いますと、いわゆる何でもやってやろう、いろいろな興味、
関心に向かって何でもやってやろうという場を与える。もちろん、何でもやってやろうと言ったらおかしなことをやる
心配がないかというようなことになるわけですけれ
ども、その辺はその前の
段階で、すなわち
自立感というものを育ててきております。それは
先ほどの
失敗経験から
意思力も育てておりますのでその辺の
心配はないわけですが、
活動性、
自発性を
子供たちに育てていきたい。
そこでいま
日本の
子供たちの
現状を見ますときにそういう
状況にあるだろうか。たとえ話で申し上げますと、いわゆる
コンクリートと鉄でできた
遊園地、すなわち鉄の鎖の
ブランコと、
コンクリートでできた滑り台、そしていわゆる鉄のさくあるいは金網で囲われたような
場所の中にはうり込まれているような現実が多いだろう。その中で
活動性、
自発性を発揮せよと言われても発揮のしようがない。本来で言えば広い
野原に放たれて、これもまた図式的、例示的なんで、そのとおりという意味ではございませんが、広い
野原に放たれて、そこには小山もあるし、大木もあるし、
小川も流れているし、ヘビもいるかもしれませんが、そういうところで木からなわをつけて
ブランコをやったり、穴ぼこを掘ったりというような形で
活動するという
状況をつくりたいということ、そういう
事柄が
子供たちの中にありませんと、
活動性、
自発性が発揮できない。ですから、そのままで終わってしまった
子供が
中学生あるいは
高校生、
大学生になっているのがいっぱいおりまして、そして
高校生時代になってから
小学校時代の
活動性、
自発性をやろうとしますから、ナナハンのオートバイをぶっ飛ばしてみたり、シンナーを吸ってみたりというような
状況も出てくるだろう。ですから、そういう
子供たちにそれじゃ何かというと、そのままほうり出しておけばいまのようなことになりますので、ある
整備された
教育環境に入れて、
学校とかあるいは
社会教育施設とか、そういう形で
小学校時代の
活動性、
自発性を発揮するような
場所を取り戻すということもまた必要なわけです。そういうようなことで、
子供たちにその
時点で、
小学校や
中学校の
時点でそれを与えるとともに、それで落ちこぼれた
子供たち、
大学生にもいるわけです。
大学生にも、
活動性、
自発性を発揮するために、大学祭の一部ではお汁粉屋とかお化け屋敷しかやらないというようなこともあるくらいですから、あれも
教育的に見ればあるいは
整備された中での
活動性、
自発性かとも言えるのですけれ
ども、それじゃ非常にさびしいということになるわけです。
そういう点になりますと、いかにしてそれをやろうか。それでたとえば、
先生方御
承知のように、学習指導要領も改定して、
学校教育ではゆとりと充実という形で、
活動性、
自発性を発揮するような
教育課程を組もうじゃないかという形で学習指導要領が公布されまして、
学校教育もそういう
方向でだんだんとゆとりと充実を入れていこう。やはりゆとりと充実ということは、いま言いました
活動性、
自発性を入れていこうという趣旨になろうかと思うのです。
それと同時に、やはり
社会教育の分野でもそういうような形で何らかの
方向が打ち出せなければいけないのじゃないかという気がするわけです。そして、たとえばそういう
事柄で、
子供たちにそういうような場とかあるいはその他
施設はどういうふうに考えられなければいけないか、
学校教育の学習指導要領のゆとりに対比して考えますと、まず、いわゆる多様な、
子供たち、少年たち、
青年たちのニードに応ずるような
機能を持った、いわゆる大規模な
青少年施設がたくさんなければいけないのじゃないか。現在、多様なニードに応ずる
機能を持った
施設というのはなかなかございません。都道府県にございます公民館その他は多様なニードに応ずる規模とは言い切れませんし、そういう形でます大規模な
青少年施設が必要だろうというのが一つです。
それからもう一つは、日常
活動ができないと困るのじゃないか。日常
活動というところにポイントがあります。ですから、余り山奥にあっても困りまして、足の便利な、いわゆる地の利があるような、日帰りができるような形で、さっと行ってさっと帰れるというような
場所で大規模なものがないといけないのじゃないか、これが第二番目でございます。
それから三番目としては、在学している
青少年——
青少年と言います場合にはみんな
学校へ行っているわけです。大体高校までで言いますと。行っていない生徒も若干おりますが、大
部分学校に行っているとすれば、ある場合には児童、生徒の
学校外
活動という形で、
社会教育と
学校教育との
連携を持つ、そういう
施設の
役割りもあるだろうというようなのが三番目でございます。
それから、そういうものを受けていきますと、当然たくさんの
青少年が来るわけですから、高いお金は取らないで、安い費用で、そうしてその
施設が寝泊まりできたり、いろいろなものが活用できるという場でなければいけないだろう。
それとともに、
青少年というようなときに、特に
青年ということが強調されて、これは私の偏見かもしれませんけれ
ども、少年ということが余り考えられないという点もございますので、そういうような特に
青少年施設ですと、
青少年、また少年ということも十分お考えいただいて、じゃ
青少年だから
青年と少年だけかというと、そうではございません。これは
青少年を指導していただく、あるいは
青少年にいろいろな
教育的影響を与えていただける大人の
方々、指導者の
方々も含めてのことでございますが、そういう
方々の
活動の場というような
機能も持たなければいけないだろう。
そしてまた、ちょうど
先ほど申し上げましたように、いまの
子供たちは自然に飢えておりまして、これも図式的に言いますと、
コンクリートのアパートの中に生活をしていて、また
コンクリートの
学校に行く。何か四六時中
コンクリートに近い。できるだけ
コンクリートというような図式的な場じゃなくて、これは大都市の中にあって足が便利だということもありますけれ
ども、できるだけ空間の多い場で、もっとぜいたくを言えば、できるだけ豊かな自然があるような場でそういうような
教育がされたいものだというふうに考えているわけです。
こういうようにある程度いまの
現状を押さえて、私としては
青少年教育という
立場に立って考えますときに、このような条件に合ったような
教育施策というものはぜひ国でやっていただかなければいけないんじゃないか。なぜかといいますと、これは多くの予算を必要とします。
施設設備その他を充実していかなければいけないと思います。また人間も、多様な
能力を持った人間、現在もいろいろな
施設にそういう人がいるわけですが、
学校の先生の御
経験のある人、またあるいは
運動のすぐれた
能力を持った方、あるいは
芸術的な
能力を持った方、いろいろな
方々がそこに入り込んでそして
青少年の
教育、あるいは
青少年の指導者のための
研修という場にするとすればそういう
方々も必要だし、そういうことになりますと、そういう施策というのはぜひ国でつくっていただきたいというのが私の日ごろ考えている所信でございます。
以上で最初の所信は終わらせていただきたいと思います。どうも失礼いたしました。(拍手)