○湯山
委員 だれか見ておりませんか。——これは一九七八年の四月八日です。午後十時十五分からNHKの第一の「ルポルタージュにっぽん」で、永井道雄さんが授業をされました。それは長野県の篠ノ井旭高校という、退学したぼろい子供ばかりを集めた
学校です。ですから、そこの
先生の話では、ここに入ったときは九九のできないのもいた、アルファベットを十分書けないのもいる、それからドリルのような形で試験をしておるのが、二xプラス三は七、この答えがなかなか出ない。そういう子供を前にして永井元文部
大臣は敢然と授業に立ちまして、まず
最初に、「きょうは飛び入りの
先生です。
勉強します」と言って、「A」というのは人の名前でしょう、「A レッツ スピークアンド リード」これだけ授業するのが出ていました。初めお手本で読んで、それからその高校生に読ましたら、声が出ないのです。小さな声でぶすぶす言っておる。それで永井さんは、「もっと大きな声で」それから「歌を歌うような楽な気持ちで」と言った。それでもまだ小さいから、「大きな声を出したって建物は壊れやしません」と言ってやって、短い放送なんですが、終わりには実にりっぱに全部の子供が声をそろえてこれを読みました。私はりっぱな授業だなと思ったのです。何がそれをやらせたかというと、その要素は少なくとも
二つある。
一つは、この人が英語について自信があるからです。「A レッツ スピーク アンド リード」とまことに簡単なんですけれ
ども、大勢の前で日本じゅうにテレビ放送しておるときに、やはり正しい発音をしてやれる自信がなければなかなか立てるものではありません。これはこの人の言葉に対する自信が
一つあったと思うのです。それから、そのやんちゃ坊主と言っては悪いのですが、その連中が緊張して声が出なかったのは、やはり前の前の文部
大臣で偉い人だという意識があったと思うのですね。感心したのは、この
子供たちに大きい声で読ませるということにしぼったところに、私は
教育的に非常にりっぱな観察、対処の仕方があったと思います。これと比べると、この間参考人で来た
先生で、じゃ、あなたは子供の前で授業がおできになりますかと言ったら、ボクシングのコーチはボクシングができなくてもコーチできますと言ったのをお聞きになりましたね。名前は言いませんけれ
ども、こんな人が
教育したって実践的な
教育の研究はできませんよ。
同時に、私はもう
一つの私の経験したことを申し上げたい。それは若い女の
先生です。小
学校二年生に、青竹を縦に割って笛を鳴らす、こういうのがありました。大勢が見に行った授業です。女の
先生で、前もってこしらえておった笛は鳴るわけです。鳴って、こういうふうにつくりますと言って、割ってやったところが鳴らない。皆さんもやってみてと言って、やった
子供たちのも鳴らない。
先生はびっくりして、鳴ると思っておったのが鳴らないのですから、バケツの水の中につけ込んだりもんだり、一生懸命、真っ赤になった。そして笛を吹くのも、あらかじめこしらえたのは涼しそうな顔で吹きましたが、鳴らぬから、ぐっとかがみ込んでこうやって吹いて、そして鳴ったわけです。この教材は非常にむずかしくて、えらく練達した人がやっても、四十人くらいのクラスで
二つか三つ鳴ったら、ああ鳴った、さあ次へ行くというのが普通の授業です。ところがこの組の子供は半分ぐらい鳴ったんです。これは何が鳴らさせたか。
先生は失敗したと思って真っ赤になっていましたけれ
ども、そうじゃなくて、これはたまらぬ、鳴らぬから一生懸命もんだりし、吹くのもこう簡単に吹くのではなくて、プーっとこうやって吹くものですから、それが子供に反映をして、一生懸命もんだり吹いたりするものですから、大方の子供のが鳴って、それをピーピー鳴らしながら帰っていく。だからこの授業は大変な成功です。これは一体どうなのか。これは技術じゃないのですよ。
教育は技術じゃありません。そういうことを
先生がどれだけ真剣にやるかがやっぱりいい授業につながってきておる。だから、一般の人が見たら、ああ失敗だ、鳴らなくてあわてふためいて、何やら音の高いのはどうか、低いのはどうか、振動はどうかというのはできなかったけれ
ども、とにかく物をつかまえて、その物を鳴らした、それが一番基本です。それはやはり本当に真剣にやったというところから出ている。こういうのを忘れて、単に教科
教育学、これをどんなに見たっていい授業はできやしません。どんなにこのとおりやったって生きた授業にはならない。私はここを本当にわかってもらいたいのです。
そこで、
子供たちの環境も違いますし、それからいまの永井
大臣のそういうのもあるし、野球の川上哲治氏が行くと子供がよう聞いてようやっておるでしょう。やはり教え方の上手下手ではなくて、川上という人の力、人間の全体の力があの小さい子供にあれだけの真剣な学習をやらしておる。ここいらで、私はきょうあるいはこの前の御説明を聞いておって、この
教員大学院がどうも
教育技術というものに偏っていっているという
感じがしてならないし、またそれでできるものじゃない、ここを
一つぜひ申し上げたい。そうなってくると、この
大学院ができても、本当にそういうことで指導のできる永井元文部
大臣のような教授はいませんよ。この間のように、ボクシングのコーチはボクシングのできぬ人でもできるというような
考え方の人でどうして
教育実践の指導ができますか。第一、
先生に人がなくて困るでしょう。これはどうする。ここから養っていかなければこの
大学院は
目的を達することができない。上手下手は別です。
自分の子供の名前はどんなお母さんだって大体
学校に入るまでに教えるのですから。小
学校の子供に
大学の
先生が教えられない、上手下手とかいうのではなくて。それはいまのような
大学からそういう
先生を持ってくるということはできない、ここを
一つ頭に入れておいていただきたい。
そこでその次に申し上げたい点は、今度はやはり
現職で悩みがあります。
現職教育を受けなければならない問題は山ほどあるのです。これは後で申し上げます。この着想は悪いとは申しません。ただ、それを既成の
大学院というものの枠の中でやっていこうというところに私は疑問を
感じているので申し上げているわけです。そこで、そうやって
現場で本当に苦労して、はてこれはどうなのかという悩みを持った、研究したいという人を入れる
大学院へ、なぜ一体卒業したての者を三分の一入れるのでしょうか。三年余りの経験のある者と、その経験の何もない、先ほど来御
指摘のあった実習もろくにしていない者とをごっちゃにして、一体それで効果が上がるかどうか。これはむしろいまのような実践的な
教育をやって、偉い
先生が教えてくれなくても、お互いの相互研究でもやれるものはやっていこうというのかどうか。何にしても、なぜこの三百人の中へ百名の経験のない者を入れてきて一緒にして
教育しなければならないのか。なぜそうしなければならないかという
理由をわかるように御説明願いたい。