○
嶋崎委員 いままでの
議論で、
上越と
兵庫の
大学院の
あり方というのはいままでの
大学の
大学院のつくり方から見て特殊なんだよね。それで、ある意味では
学部と
大学院は積み上げでもなければ、それは連続もあれば断続もありますね。その
大学院がいまから現場の教師が行けるところです。開放されているのは
兵庫と
上越。それはよそでも行けますよ。今度は入学するものですね、いままでの
研修ともまた違いますよね。そうすると、現場の
先生方が優秀な先生になりたいというときに、自分
たちの出てきた
大学、いままでの総合
大学の中の
教育学部で免許を取って先生になってきた、そこなら経験的認識ありますね、どこの
大学院へ行ってやればあの先生だというようなことはわかる。ところが今度の
教員養成大学は先ほど言うように非常に特殊なつくり方をしているだけに、そこに行く教師の自発性というものから考えて、まだ見えないもの、成果がどのように上がるかわからないもの、そこだけが開放されている。いままだ未熟だけれ
ども二生懸命に
努力して
大学院をつくろうとしている、または現に
大学院がある、そこが受け入れれば、それは
大学自治がありますからなかなか簡単に、受け入れろという力でそんなことはできないにしても、受け入れられる可能性を持っている
大学は閉ざされていて、未熟で、
大学のつくり方が特殊である
大学院は現場の先生の再
教育には開放されている。異常じゃありませんか。それは皆さんだってどんなものができるかわからぬでしょう。まだ
室長が
検討していて、どんな
教官が集まって、どんな授業が行われ、どんな
研究センターができ、どんな業績が上がり、それが日本の
教育にどんな影響を与えるか、何もまだわからないよ。しかしそこには再
教育のための
教員の道は開放されている。しかし既存の
大学の
大学院は十分に開放されていない。たまたま行くのは、私のところでもそうですけれ
ども、筑波
大学の公開講座に行くとか、
研修を受けに行くのにいままでの
大学院を使ったことはある。しかし、今度のように、入学試験を受けて、そして二年間マスターをやって、優秀な
教員になれるという見通しがはっきりせぬまま開放しているという制度は、これは全く上から、現場の教師の
意見を聞いてもいなければ、
国大協の
意見も聞いていなければ、いままでの日本の
大学全体の
教員養成の潮流から見たら全く異質なものがぽかんと
教員に再
教育の場として開放されている。私にはこういうふうに見えますね、構図を情緒的に描けば。おかしいじゃありませんか。現場の先生の
研修というものの自由を認めるならば、たとえば入学に際しても、既存の経験のある
大学の中で、いま行われている
大学院の
あり方というものの中で何が再
研修に対して隘路なのか、それをどうしたら再
研修の条件として開放されるようになるのか、つまり開かれた国民の
大学にするにはどうするかという基本的な文教政策についての積極的な政策を打ち出さずに、どうもむずかしい、どうも制度上隘路がある、それなら新しいものをつくる、つくり方は全く基礎のないつくり方、そしてそこを開放するというようなことが、将来の日本の
教員養成に対して、すぐれた教師を
養成するという保証になりますかと言うのですよ。将来の日本の
教育を考えたら、そんなあいまいな条件では私は自信を持ってこの
法案を通せませんね。私はそう思います。
したがって、
大学局長、
文部省の方で考えてほしいのは、いままでの既存の
学部ないし
教育系大学で
大学院をつくろうとしたときに隘路になっていたと考えられる、先ほど言った
教員免許制度の問題、それからまた低学年と高学年を含めて、小
学校教員の教師の質というものを考えたときにいまの
大学の
あり方でどこに問題があるか。同時にまた、他の
学部に比べて
教育系大学の
学部が予算措置の上でも非常に劣悪な条件に置かれてきた、それは
教育というものの持っている特殊性ですよ。そして、長い日本の伝統の中に、小
学校の
教員より中学の
教員が上や、それよりも
大学の
教員はなお上や、そのような卑俗な
教育観が支配している、そういうものまで絡まって日本の初等
教育の
教員養成に既存の
大学の中でたくさんの改革すべき課題があるのに手がつかずにいる。それをどうするかということについて
国大協としっかり
議論をしていかなければならぬ。そして、
国大協が真剣に考えている諸課題、同じ
教育系の
大学でも
国大協の出しているのを読みますと、カリキュラムの組み方から実験のやり方から、みんな多様なんです。
大学というものはそういうものなんだと思うのです。将来の日本の
教員というものをつくっていくときに、何も画一的な教師をつくる必要はないのですから、
大学自身が教師をつくるときに、日本のすぐれた教師をつくる多様なつくり方というものを現実に追求している、そういうものに耳を傾けて、いま
大学をつくるに当たっては
国大協の
意見をもっともっと積極的に聞いた上で
準備室長や
文部省もこれに対処をしてもらわなければ困る、こうぼくは思います。
それでは最後に聞きますが、現場の
教員、
先生方がこの
大学に
研修に行きますね。そのときには平等性と自主性が前提ですね。どこからでもいいのですね。北海道からでもよければ鹿児島からでもよい。そういう意味での平等性はまず確認できますね。