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1978-03-17 第84回国会 衆議院 社会労働委員会 第5号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和五十三年三月二日(木曜日)委員長の指名で、 次のとおり小委員及び小委員長を選任した。  医療保険制度に関する小委員       相沢 英之君    井上  裕君       大坪健一郎君    斉藤滋与史君       住  栄作君    津島 雄二君       戸沢 政方君    羽生田 進君       橋本龍太郎君    湯川  宏君       大原  亨君    金子 みつ君       川本 敏美君    村山 富市君       古寺  宏君   平石磨作太郎君       和田 耕作君    浦井  洋君       工藤  晃君  医療保険制度に関する小委員長 斉藤滋与史君 ――――――――――――――――――――― 昭和五十三年三月十七日(金曜日)     午前十時一分開議  出席委員    委員長 木野 晴夫君    理事 越智 伊平君 理事 住  栄作君    理事 竹内 黎一君 理事 羽生田 進君    理事 村山 富市君 理事 森井 忠良君    理事 和田 耕作君       井上  裕君    石橋 一弥君       大坪健一郎君    川田 正則君       瓦   力君    斉藤滋与史君       津島 雄二君    戸沢 政方君       友納 武人君    葉梨 信行君       橋本龍太郎君    山口シヅエ君       安島 友義君    枝村 要作君       大原  亨君    金子 みつ君       川本 敏美君    栗林 三郎君       斉藤 正男君    矢山 有作君       草川 昭三君    古寺  宏君      平石磨作太郎君    田中美智子君       工藤  晃君  出席国務大臣         厚 生 大 臣 小沢 辰男君  出席政府委員         内閣総理大臣官         房管理室長   藤井 良二君         厚生政務次官  戸井田三郎君         厚生大臣官房長 山下 眞臣君         厚生省年金局長 木暮 保成君         厚生省援護局長 河野 義男君  委員外出席者         総理府恩給局次         長       小熊 鐵雄君         総理府恩給局恩         給問題審議室長 手塚 康夫君         法務省民事局第         五課長     宮崎 直見君         社会労働委員会         調査室長    河村 次郎君     ――――――――――――― 委員の異動 三月三日  辞任         補欠選任   大原  亨君     石橋 政嗣君   金子 みつ君     小林  進君   田中美智子君     不破 哲三君   工藤  晃君     大原 一三君 同日  辞任         補欠選任   石橋 政嗣君     大原  亨君   小林  進君     金子 みつ君   不破 哲三君     田中美智子君   大原 一三君     工藤  晃君 同月六日  辞任         補欠選任   大原  亨君     横路 孝弘君 同日  辞任         補欠選任   横路 孝弘君     大原  亨君 同月十七日  辞任         補欠選任   小坂徳三郎君     瓦   力君   田口 一男君     斉藤 正男君 同日  辞任         補欠選任   瓦   力君     小坂徳三郎君   斉藤 正男君     田口 一男君     ――――――――――――― 三月六日  生活協同組合の育成に関する請願(市川雄一君  紹介)(第一六三六号)  同(草野威君紹介)(第一七五二号)  国民年金改善に関する請願外一件(長田武士君  紹介)(第一六三七号)  同(大柴滋夫君紹介)(第一六五一号)  同(坂口力君紹介)(第一六九三号)  同(岩垂寿喜男君紹介)(第一七三三号)  同(浦井洋君紹介)(第一七三四号)  同(加藤万吉君紹介)(第一七三五号)  同(小林政子君紹介)(第一七三六号)  同(佐野進君紹介)(第一七三七号)  同(沢田広君紹介)(第一七三八号)  同外三件(高沢寅男君紹介)(第一七三九号)  同(寺前巖君紹介)(第一七四〇号)  同(不破哲三君紹介)(第一七四一号)  同(鈴切康雄君紹介)(第一七八〇号)  福祉年金引き上げ及び社会保障拡充等に関する  請願(瀬野栄次郎君紹介)(第一六三八号)  同(浦井洋君紹介)(第一七四二号)  同(田中美智子君紹介)(第一七四三号)  消費生活協同組合育成強化等に関する請願(  鳥居一雄君紹介)(第一六三九号)  同(田邊誠君紹介)(第一六五五号)  同(田畑政一郎君紹介)(第一六五六号)  同(小川省吾君紹介)(第一六九〇号)  同(古寺宏君紹介)(第一六九一号)  同(安宅常彦君紹介)(第一七三二号)  失業対策事業就労者通勤交通費支給に関する  請願(鳥居一雄君紹介)(第一六四〇号)  同(野村光雄君紹介)(第一六四一号)  同(池田克也君紹介)(第一六五〇号)  同(池田克也君紹介)(第一六八九号)  同(玉城栄一君紹介)(第一七八七号)  准看護婦制度廃止に関する請願外一件(大柴滋  夫君紹介)(第一六五二号)  同外二件(楢崎弥之助君紹介)(第一六五三  号)  同(奥野誠亮君紹介)(第一七五〇号)  同外六十六件(竹下登君紹介)(第一七八六  号)  療術の単独立法化阻止に関する請願(佐野嘉吉  君紹介)(第一六五四号)  同(加藤紘一君紹介)(第一七五一号)  同(吉田之久君紹介)(第一七八九号)  保育事業振興に関する請願(丹羽久章君紹介)  (第一六五七号)  同(谷口是巨君紹介)(第一六九四号)  社会保障社会福祉拡充等に関する請願(和  田耕作君紹介)(第一六五八号)  同外一件(浅井美幸君紹介)(第一六七五号)  同(池田克也君紹介)(第一六七六号)  同外一件(近江巳記夫君紹介)(第一六七七  号)  同(貝沼次郎君紹介)(第一六七八号)  同外一件(草川昭三君紹介)(第一六七九号)  同(草野威君紹介)(第一六八〇号)  同(坂口力君紹介)(第一六八一号)  同(瀬野栄次郎君紹介)(第一六八二号)  同(田中昭二君紹介)(第一六八三号)  同(竹入義勝君紹介)(第一六八四号)  同(谷口是巨君紹介)(第一六八五号)  同(林孝矩君紹介)(第一六八六号)  同外一件(平石磨作太郎君紹介)(第一六八七  号)  同外二件(吉浦忠治君紹介)(第一六八八号)  同(鈴切康雄君紹介)(第一七八一号)  同(中井洽君紹介)(第一七八二号)  同外一件(野村光雄君紹介)(第一七八三号)  同(春田重昭君紹介)(第一七八四号)  同外一件(広沢直樹君紹介)(第一七八五号)  老齢福祉年金年齢段階別支給に関する請願(  越智伊平君紹介)(第一六九二号)  児童福祉法に基づく学童保育制度化に関する  請願(中西積介君紹介)(第一六九五号)  老人医療費有料化反対及び現行制度の改善に  関する請願外一件(吉浦忠治君紹介)(第一六  九六号)  老人医療費有料化中止等に関する請願(浦井  洋君紹介)(第一七四四号)  医療保険制度拡充等に関する請願(浦井洋君  紹介)(第一七四五号)  同(瀬崎博義君紹介)(第一七四六号)  同(藤原ひろ子君紹介)(第一七四七号)  同(松本善明君紹介)(第一七四八号)  戦時災害援護法制定に関する請願外一件(岡田  哲児君紹介)(第一七四九号)  同外一件(河上民雄君紹介)(第一七七九号)  腎臓病患者医療改善等に関する請願(齋藤邦  吉君紹介)(第一七五三号)  雇用保険法改善に関する請願(安田純治君紹  介)(第一七五四号)  建設国民健康保険組合に対する国庫負担の増額  等に関する請願(加藤万吉君紹介)(第一七七  八号)  生活協同組合育成強化に関する請願(玉置一  徳君紹介)(第一七八八号) 同月九日  社会保障社会福祉拡充等に関する請願(飯  田忠雄君紹介)(第一八二二号)  同外二件(池田克也君紹介)(第一八二三号)  同外一件(石田幸四郎君紹介)(第一八二四  号)  同(瀬野栄次郎君紹介)(第一八二五号)  同(伏屋修治君紹介)(第一八二六号)  同外一件(山田太郎君紹介)(第一八二七号)  同(渡部一郎君紹介)(第一八二八号)  同外一件(新井彬之君紹介)(第一八五八号)  同外一件(松本忠助君紹介)(第一八五九号)  同(矢野絢也君紹介)(第一八六〇号)  同外一件(池田克也君紹介)(第一八七二号)  同(宮井泰良君紹介)(第一八七三号)  同(大久保直彦君紹介)(第一九三七号)  同外一件(大橋敏雄君紹介)(第一九三八号)  同(斎藤実君紹介)(第一九三九号)  失業対策事業就労者通勤交通費支給に関する  請願外一件(池田克也君紹介)(第一八二九  号)  保育事業振興に関する請願(大原一三君紹介)  (第一八三〇号)  同(河上民雄君紹介)(第一八三一号)  同(谷川寛三君紹介)(第一八七六号)  同(平石磨作太郎君紹介)(第一八七七号)  福祉年金引き上げ及び社会保障拡充等に関する  請願(後藤茂君紹介)(第一八三二号)  同(瀬野栄次郎君紹介)(第一八三三号)  消費生活協同組合育成強化等に関する請願(  斉藤正男君紹介)(第一八六一号)  国民年金改善に関する請願(松本忠助君紹介)  (第一八六二号)  同(曽祢益君紹介)(第一九四一号)  療術の単独立法化阻止に関する請願(稻村左近  四郎君紹介)(第一八七四号)  同(奥野誠亮君紹介)(第一八七五号)  同(山崎拓君紹介)(第一九四八号)  奄美大島医師介輔身分喪失に伴う補償措置  に関する請願(玉城栄一君紹介)(第一八七八  号)  同(林孝矩君紹介)(第一八七九号)  同(平石磨作太郎君紹介)(第一九四五号)  同(宮井泰良君紹介)(第一九四六号)  同(吉浦忠治君紹介)(第一九四七号)  腎臓病患者医療改善等に関する請願外二件(  大橋敏雄君紹介)(第一九四〇号)  国民健康保険制度等に関する請願(中野四郎君  紹介)(第一九四二号)  視覚障害者雇用促進に関する請願(西岡武夫  君紹介)(第一九四三号)  同(村上茂利君紹介)(第一九四四号) 同月十四日  旧軍人兵役年数各種年金への加算に関する請  願(甘利正君紹介)(第一九六三号)  社会保障社会福祉拡充等に関する請願(安  藤巖君紹介)(第一九七八号)  同(荒木宏君紹介)(第一九七九号)  同(浦井洋君紹介)(第一九八〇号)  同(工藤晃君(共)紹介)(第一九八一号)  同(小林政子君紹介)(第一九八二号)  同(柴田睦夫君紹介)(第一九八三号)  同(瀬崎博義君紹介)(第一九八四号)  同(瀬長亀次郎君紹介)(第一九八五号)  同(田中美智子君紹介)(第一九八六号)  同外一件(武田一夫君紹介)(第一九八七号)  同(津川武一君紹介)(第一九八八号)  同(寺前巖君紹介)(第一九八九号)  同(東中光雄君紹介)(第一九九〇号)  同(不破哲三君紹介)(第一九九一号)  同(伏木和雄君紹介)(第一九九二号)  同(藤原ひろ子君紹介)(第一九九三号)  同(正森成二君紹介)(第一九九四号)  同(三谷秀治君紹介)(第一九九五号)  同(安田純治君紹介)(第一九九六号)  同(山原健二郎君紹介)(第一九九七号)  同外二件(沖本泰幸君紹介)(第二〇六五号)  同外一件(池田克也君紹介)(第二一三〇号)  同(和田一郎君紹介)(第二一三一号)  視覚障害者雇用促進に関する請願(安藤巖君  紹介)(第一九九八号)  同(阿部文男君紹介)(第一九九九号)  同(愛野興一郎君紹介)(第二〇〇〇号)  同(荒木宏君紹介)(第二〇〇一号)  同(浦井洋君紹介)(第二〇〇二号)  同(工藤晃君(共)紹介)(第二〇〇三号)  同(小林政子君紹介)(第二〇〇四号)  同(柴田睦夫君紹介)(第二〇〇五号)  同(瀬崎博義君紹介)(第二〇〇六号)  同(瀬長亀次郎君紹介)(第二〇〇七号)  同(田中美智子君紹介)(第二〇〇八号)  同(津川武一君紹介)(第二〇〇九号)  同(寺前巖君紹介)(第二〇一〇号)  同(中西啓介君紹介)(第二〇一一号)  同(西村英一君紹介)(第二〇一二号)  同(野田卯一君紹介)(第二〇一三号)  同(原健三郎君紹介)(第二〇一四号)  同(東中光雄君紹介)(第二〇一五号)  同(不破哲三君紹介)(第二〇一六号)  同(福田篤泰君紹介)(第二〇一七号)  同(福田一君紹介)(第二〇一八号)  同(藤原ひろ子君紹介)(第二〇一九号)  同(正森成二君紹介)(第二〇二〇号)  同(松本善明君紹介)(第二〇二一号)  同(三谷秀治君紹介)(第二〇二二号)  同(村上勇君紹介)(第二〇二三号)  同(安田純治君紹介)(第二〇二四号)  同(山崎武三郎君紹介)(第二〇二五号)  同(山原健二郎君紹介)(第二〇二六号)  同(田口一男君紹介)(第二〇六七号)  同(足立篤郎君紹介)(第二一三五号)  同(青木正久君紹介)(第二一三六号)  同(有馬元治君紹介)(第二一三七号)  同(池田行彦君紹介)(第二一三八号)  同(石田博英君紹介)(第二一三九号)  同(枝村要作君紹介)(第二一四〇号)  同(加藤常太郎君紹介)(第二一四一号)  同(倉石忠雄君紹介)(第二一四二号)  同(佐野嘉吉君紹介)(第二一四三号)  同(竹中修一君紹介)(第二一四四号)  同外一件(西田八郎君紹介)(第二一四五号)  同(葉梨信行君紹介)(第二一四六号)  同(長谷川峻君紹介)(第二一四七号)  同(福永健司君紹介)(第二一四八号)  同(坊秀男君紹介)(第二一四九号)  同(本名武君紹介)(第二一五〇号)  同(増田甲子七君紹介)(第二一五一号)  同(森美秀君紹介)(第二一五二号)  同(和田耕作君紹介)(第二一五三号)  医療保険制度改悪反対等に関する請願(浦井  洋君紹介)(第二〇二七号)  同(松本善明君紹介)(第二〇二八号)  腎臓病患者医療改善等に関する請願外一件(  大橋敏雄君紹介)(第二〇二九号)  奄美大島医師介輔身分喪失に伴う補償措置  に関する請願(瀬野栄次郎君紹介)(第二〇三  〇号)  同(山田太郎君紹介)(第二〇三一号)  脊髄損傷者傷病補償年金給付改善に関する請  願(大橋敏雄君紹介)(第二〇六二号)  看護付添婦災害保障に関する請願(大橋敏雄  君紹介)(第二〇六三号)  脊髄損傷者再発認定に関する請願(大橋敏雄  君紹介)(第二〇六四号)  保育事業振興に関する請願(北側義一君紹介)  (第二〇六六号)  公衆浴場法の一部改正に関する請願外二件(土  井たか子君紹介)(第二〇六八号)  療術の単独立法化阻止に関する請願(林孝矩君  紹介)(第二〇六九号)  失業対策事業就労者通勤交通費支給に関する  請願(大橋敏雄君紹介)(第二一二八号)  同(正木良明君紹介)(第二一二九号)  戦時災害援護法制定に関する請願(石野久男君  紹介)(第二一三二号)  児童福祉法に基づく学童保育制度化に関する  請願(大橋敏雄君紹介)(第二一三三号)  消費生活協同組合育成強化等に関する請願(  千葉千代世君紹介)(第二一三四号) 同月十六日  社会保障社会福祉拡充等に関する請願(市  川雄一君紹介)(第二一九五号)  同外一件(竹内勝彦君紹介)(第二一九六号)  同(中川嘉美君紹介)(第二一九七号)  同外一件(正木良明君紹介)(第二一九八号)  同外一件(池田克也君紹介)(第二二四二号)  同(受田新吉君紹介)(第二二四三号)  同外一件(鍛冶清君紹介)(第二二四四号)  同(瀬野栄次郎君紹介)(第二二四五号)  同外二件(池田克也君紹介)(第二二六〇号)  同(浦井洋君紹介)(第二三〇二号)  同外二件(岡本富夫君紹介)(第二三〇三号)  同外一件(権藤恒夫君紹介)(第二三〇四号)  同(薮仲義彦君紹介)(第二三〇五号)  奄美大島医師介輔身分喪失に伴う補償措置  に関する請願(飯田忠雄君紹介)(第二一九九  号)  同(鍛冶清君紹介)(第二二四〇号)  同(大橋敏雄君紹介)(第二二六四号)  同(貝沼次郎君紹介)(第二二六五号)  視覚障害者雇用促進に関する請願外四件(大  橋敏雄君紹介)(第二二〇〇号)  同(安島友義君紹介)(第二二二九号)  同(内海英男君紹介)(第二二三〇号)  同(斉藤滋与史君紹介)(第二二三一号)  同(篠田弘作君紹介)(第二二三二号)  同(鈴木善幸君紹介)(第二二三三号)  同(塚原俊平君紹介)(第二二三四号)  同(辻英雄君紹介)(第二二三五号)  同(中野四郎君紹介)(第二二三六号)  同(羽田孜君紹介)(第二二三七号)  同(林義郎君紹介)(第二二三八号)  同(平泉渉君紹介)(第二二三九号)  同(大橋敏雄君紹介)(第二二六三号)  同(矢山有作君紹介)(第二三一三号)  腎臓病患者医療改善等に関する請願(古寺宏  君紹介)(第二二〇一号)  戦時災害援護法制定に関する請願(安島友義君  紹介)(第二二二五号)  同(加藤清二君紹介)(第二二二六号)  同(多賀谷真稔君紹介)(第二二二七号)  同(山本政弘君紹介)(第二二二八号)  同(西田八郎君紹介)(第二二六八号)  同(和田耕作君紹介)(第二二六九号)  同(安藤巖君紹介)(第二二九三号)  同(浦井洋君紹介)(第二二九四号)  同(渋沢利久君紹介)(第二二九五号)  同(田口一男君紹介)(第二二九六号)  同(田中美智子君紹介)(第二二九七号)  同(成田知巳君紹介)(第二二九八号)  同(平石磨作太郎君紹介)(第二二九九号)  同(矢山有作君紹介)(第二三〇〇号)  同外一件(山花貞夫君紹介)(第二三〇一号)  消費生活協同組合育成強化等に関する請願(  千葉千代世君紹介)(第二二四一号)  同(大内啓伍君紹介)(第二二六二号)  同(渋沢利久君紹介)(第二三〇九号)  失業対策事業就労者通勤交通費支給に関する  請願(瀬野栄次郎君紹介)(第二二四六号)  同(北側義一君紹介)(第二二六七号)  福祉年金引き上げ及び社会保障拡充等に関する  請願(瀬野栄次郎君紹介)(第二二四七号)  療術の制度化に関する請願外三件(越智伊平君  紹介)(第二二六一号)  同外四件(斎藤実君紹介)(第二三〇七号)  同外四件(野村光雄君紹介)(第二三〇八号)  保育事業振興に関する請願(春日一幸君紹介)  (第二二六六号)  同(瀬長亀次郎君紹介)(第二三一〇号)  身体障害者福祉充実に関する請願(羽田孜君  外一名紹介)(第二二七〇号)  国民年金改善に関する請願(工藤晃君(共)紹  介)(第二三〇六号)  青森県内重症心身障害児施設の増床に関する請  願(津川武一君紹介)(第二三一一号)  公衆浴場法の一部改正に関する請願外二件(土  井たか子君紹介)(第二三一二号)  老人医療費有料化反対及び現行制度の改善に  関する請願外四件(薮仲義彦君紹介)(第二三  一四号) は本委員会に付託された。     ――――――――――――― 三月十三日  国民健康保険制度等に関する陳情書  (第一五一号)  老齢者医療制度確立に関する陳情書外二件  (第一五二  号)  老人医療費無料化制度存続等に関する陳情書  外八件(  第一五三号)  母子家庭医療費公費負担制度実現に関する陳  情書外六件  (第一五四号)  療術行為法制化促進に関する陳情書  (第一五五  号)  精神障害者対策強化促進に関する陳情書  (第一五六号)  難病対策拡充強化に関する陳情書  (第一五七号)  カネミ油症被害者救済対策に関する陳情書  (第一五八号)  福祉年金スライド制実施に関する陳情書  (第一五九号)  児童福祉法に基づく学童保育制度化に関する  陳情書(第一六〇  号)  労働行政体制確立に関する陳情書  (第一六一号)  雇用対策の強化に関する陳情書外二件  (第一六二号)  定年延長促進に関する陳情書  (第一六三号)  失業対策事業強化改善に関する陳情書外一件  (第一六四号)  季節労働者対策の推進に関する陳情書外一件  (第一六五  号)  一般廃棄物処理施設整備事業国庫補助率引き  上げ等に関する陳情書外一件  (第一六六号)  原子爆弾被爆者援護法の制定に関する陳情書  (第一  六七号) は本委員会に参考送付された。     ――――――――――――― 本日の会議に付した案件  連合審査会開会申入れに関する件  戦傷病者戦没者遺族等援護法等の一部を改正す  る法律案内閣提出第二七号)      ――――◇―――――
  2. 木野晴夫

    木野委員長 これより会議を開きます。  戦傷病者戦没者遺族等援護法等の一部を改正する法律案を議題とし、質疑に入ります。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。瓦力君。
  3. 瓦力

    瓦委員 自由民主党の瓦でございます。援護法の一部改正につきまして若干の質問をいたしたいと思います。  局長に、まずお尋ねをいたします。  先般、厚生省で「引き揚げと援護三十年の歩み」という約八百ページに及ぶ戦後引き揚げ者の問題また遺骨収集について援護の手を差し伸べてまいりました経緯をまとめられました。大変膨大な資料をよくおまとめいただいたと存じております。私も時間がありませんので項目をかいつまみながら拝見をしたわけでございますが、国民のたくさんの犠牲を強いた第二次世界大戦、八月十五日にポツダム宣言受諾をして以来、また昭和二十年十月に厚生省が引き揚げの中央責任官庁に指定されて以来の歴史がつづられておるわけでございます。こうした上で三十三年を経て、これからまた援護の問題をいかに取り上げてまいるか、その基本的な姿勢について、お伺いをしたいと思います。
  4. 河野義男

    河野(義)政府委員 戦没者遺族援護につきましては、従来から恩給法戦傷病者戦没者遺族等援護法によりまして、逐年その充実強化を図ってきているところでございます。遺族援護の柱となっております公務扶助料遺族年金あるいは遺族給与金につきましては、五十三年度におきましても四月から公務員のべースアップに準じまして七・一八%の引き上げを考えております。それから六月から再度引き上げまして月額七万一千円にするよう改善措置を考えております。それから、特に戦没者遺族の中でも老齢化の著しい父母に対する援護といたしまして、戦没者父母に対する特別給付金国債の償還を終えました父母等に対しまして、改めて額面六十万の国債を支給することといたしております。また、すでに戦後三十年余を経過いたしておりまして、遺族方々老齢化してまいってきております。こういった実態を踏まえまして、今後とも年金等改善に努力してまいりたいと思いますし、遺族方々の心情を十分しんしゃくしまして遺骨収集慰霊巡拝その他の援護の諸施策の推進を図ってまいりたい、かように考えております。
  5. 瓦力

    瓦委員 昭和二十年十一月二十四日、連合軍最高司令官の覚書で、世界に類例を見ない悪らつきわまると烙印を押された恩給でございました。しかし、厚生省は、この遺族、遺家族の問題につきまして、そういう占領下、非常に困難な中を、いろいろ手だてを講じながら今日までやってきた。三十数年を経て、もうその方々老齢化を迎えておるというようなことで、これからも年金恩給に手厚い手だてを講じてまいりたいというような御返事でございます。  この老齢化の問題でございますが、御案内のとおり、父母にいたしますと平均で八十歳を超えておるという状況でございますし、妻におきましては六十四、五歳になっておるということでございます。この老齢化に対しまして、これからまだまだ手だてを講じていかなければならぬ問題が幾つかあろうと思うわけであります。その一つを取り上げてみますと、ことに遺族会から熱心に要望のあります裁定手続の簡易化でございますが、裁定をめぐりまして今日なお大変時間がかかっておる問題もございます。年をとってまいります遺族にとりますと、早く裁定を進めてもらいたいという要望も強いわけでございますが、老齢化が進んでいる事態に対処する課題、こういったものをどう踏まえておられるか、お尋ねをしたいと思います。
  6. 河野義男

    河野(義)政府委員 御指摘のように、遺族関係者の老齢化が進んでおるのは事実でございまして、また戦後三十年余を経過した現在、年金等の裁定あるいは、そういった問題についての不服の処理の問題、なかなか容易ではないわけでございますが、これらにつきまして、できるだけ早く裁定して支給してほしいという気持ちは、われわれも十分理解できるわけでございます。私どもといたしましては、裁定はできるだけ早くして年金を支給したい、そういう気持ちで従来から努力をしておりますが、現在そういった事例につきましては、一方では、その傷病についての公務性の立証の問題とか、あるいは遺族要件についての問題、いろいろむずかしい問題がございまして、これらについての裏づけ、立証等に手間暇がかかるわけでございます。私どもといたしましては、そういう場合におきましても遺族の立場に立って十分そういった事情を解明いたしまして、適正な裁定ができるように努力をいたしております。したがいまして、できるだけ早くということと遺族の立場に立って適正な裁定ができるよう、両方の兼ね合いでございまして、今後とも一層努力をしてまいりたい、かように考えております。
  7. 瓦力

    瓦委員 件数は二百件近くあると伺っておりますが、その程度でございますか。
  8. 河野義男

    河野(義)政府委員 いま二百件という御指摘ございましたが、それは裁定申請が出まして却下されまして、それに対する異議申し立てにつきまして援護審査会で審査しておるわけでございます。従来四、五百件、案件が滞留しておりましたが、最近におきましては二百件から二百五十件ぐらい手元にあります。これらにつきましては、いずれも先ほど申しましたように傷病の公務性とか、あるいは遺族要件について、いろいろ資料を求めたりしておる関係もありまして、ある程度の案件が手元にあるわけでございますが、これにつきましても今後できるだけ努力をしまして、そういった手元にあります案件の処理を迅速にやっていきたい、かように考えております。
  9. 瓦力

    瓦委員 大変老齢化がはなはだしいわけでございますので、スムーズに処理が進むようにお願いをしたいと思います。  老齢化の問題といいますと、この戦没者遺族相談員の手当も増額されてきておるわけでございまして、いい相談相手ができたと遺族方々、喜んでおられるわけでございます。これも一つ、ありがたいことだ、かように存じておりますが、ひとつまたお願いをいたしたいのは、遺族年金の支払いにつきましては年四回、一月と四月そして七月と十月の四回にしようということでございますが、遺族年金で生活の支えにしておられる、こういった方々もいらっしゃるわけでございますから、この一月支給を繰り上げて、たとえば十二月に持ってくる。これはもう国民年金の方では三月、六月、九月、十二月というぐあいになっておりますので、ひとつ一月を繰り上げていくようなことでお考えいただけないかと思うわけでございますが、いかがでございましょう。
  10. 河野義男

    河野(義)政府委員 遺族年金等につきましては従来から年二回の支給をしていたわけでございますが、近年その年金額の大幅な改善によりまして、いま先生からお話がございましたように、年金が生活の支えになってまいっております。そこで、そういった事情を考えまして今回、恩給とか他の公的年金に合わせまして、支払いの回数を年四回、一月、四月、七月、十月に支払うこととしているわけでございますが、この中でも一番必要なのは盆、暮れだろうと思いますが、盆は七月に支払い期がございますので、そういった遺族の御要望にこたえられると思いますが、十二月につきましては、また盆あるいは盆以上に切実な御要望があると思いますが、これにつきましては、すでに年四回払いでございます障害年金も含めまして、受給者の請求があるときには、前の十二月においても支払うことができるように受給者の便宜を図っていくこととしたい、こういうふうに考えております。
  11. 瓦力

    瓦委員 ぜひ、そのようにお願いをしたいと思います。  次に、満州開拓青年義勇隊のことにつきましてお尋ねをいたします。  すでに御案内のとおり昭和十二年十一月三十日の閣議決定に基づいて満州に対して青年移民をした。この経緯を踏まえますと開拓団を援護法で処遇することはできないかということでございます。内原訓練所で二カ月訓練をして、それで大訓練所で一年やる。特に実務訓練を二年積む。三年の訓練を積んで開拓団に散った方々、経緯を見ますと、この援護法で処遇してあげなければならぬ方々でないか、かように存ずるわけでございますが、局長から、また御答弁を賜りたいと思います。
  12. 河野義男

    河野(義)政府委員 今回の改正におきまして満州開拓青年義勇隊につきましては、先ほど先生からお話がございましたように、従来、昭和十四年の閣議決定以降でございましたものを昭和十二年の閣議決定以降の青年義勇隊にまで範囲を拡大することとしたいというふうに考えておりますが、御指摘のように、その青年義勇隊の訓練、三年間の訓練を終えまして義勇隊開拓団に移行した者についての援護法の適用の問題でございますが、この訓練期間を経過いたしまして開拓民に移行した後の青年義勇隊開拓団について考えてみますと、他の一般の開拓団と同様に、国との間に軍人軍属に準ずるような特別な身分関係を認めることができないのでございます。また、そうした関係に基づく軍の命令を受けまして特別の軍事に関する業務に従事したという事情も認められないわけでございまして、援護法におきましては、国とのそういう軍人軍属のような関係それから軍事に関する業務につくということが前提になっておりますので、そういったことから、これらの人々につきましては援護法の対象にするということはできないわけでございます。
  13. 瓦力

    瓦委員 一般開拓団と同様であるという見解でございますが、私は、これは大臣にもお尋ねをしておきたい、お願いをしておきたいと思うのですが、昭和十二年十一月三十日の閣議決定の文面を見ましても、そしてまた開拓団にそれぞれ張りついていたわけでございますが、これは辺境の地の警備に当たるという一面もまたあったわけでございます。後で従軍看護婦の問題のときに、この資料を見たいと思ったのですが、満蒙開拓に従事した人たちの悲惨さは目を覆うものがあった。そして辺境の地で警備をしながら御苦労をされたという従軍看護婦の記録を見ましても、これは一般の開拓団と同じように見るわけにはいかない問題である、かように思いますので、この開拓団の実情を十分調査をしていただきたい。資料も乏しいゆえをもって局長のような御認識があろうかと思うわけでございますが、再度この問題についてお願いをしたいと思います。
  14. 河野義男

    河野(義)政府委員 青年義勇隊開拓団というような一つの集団が準軍属として援護の対象になるかどうかということは、当時の資料、文献とか、あるいは関係者の証言等に基づきまして、先ほど申しましたように、その集団が国と特別の身分関係ないしは使用関係に準じた関係にあったかどうか。それからまた、そうした関係に基づきまして軍事に関する業務に従事した局面があったかどうかということを検討した上で結論が下されるわけでございます。青年義勇隊開拓団につきましても、そういった文献とか資料による調査あるいは関係者から意見を聞くなどいたしまして、国との間に軍人、軍属に準ずるような特別な身分関係があったかどうか検討したわけでございますが、そういった身分関係はないというふうに結論づけておるわけでございますけれども、なお関係者の間から、いろいろ御要望もあることは承知しております。今後も資料とか、あるいは文献調査あるいは関係者からの意見聴取、関係の機関あるいは団体と連絡をとりながら検討してまいりたい、かように考えております。
  15. 瓦力

    瓦委員 重ねて局長にお願いをしておきます。関係文献また関係諸団体と実情をよく調査するということでございますので、早急にこれも調査をして位置づけをしてあげていただきたいということをお願いをいたします。  次に、日赤従軍看護婦の問題でございますが、すでに、日赤救護員が戦争により傷病にかかったり、また死亡した場合は、援護法により、それぞれ障害年金遺族年金が支給されることになっておる。また、その後、日本へ帰りまして国立病院等にお勤めの場合は在職年数が加算をされておるわけでございますが、従軍看護婦も戦地に、広い戦域に出かけまして、帰還いたしましてから消息が不明であったり、また連絡が不十分であるために実態がつかめないというぐあいにも、また聞いておるわけでございますが、この従軍看護婦を何とか処遇してあげようという動きが出ておるわけでございまして、厚生省としては、日本赤十字社を監督するという立場からも、これらの経緯を踏まえながら調査を進めておられるかどうか。このことにつきまして伺いたいと思います。
  16. 河野義男

    河野(義)政府委員 日赤の従軍看護婦につきましては、いま先生からお話がございましたように、不幸にして病気にかかられたり、あるいは死亡された方につきましては現在、援護法によりまして障害年金あるいは遺族年金等が支給されまして、援護措置が講ぜられておるわけでございます。  元気でお帰りになりました日赤救護員の処遇の問題につきまして関係者から強い要望が出ておることも承知しておりますが、この問題につきましては援護法の体系におきましては、いま申しましたように、けがをされた人、死亡された方の遺族の処遇がその対象になっておるわけでございまして、生存された日赤救護員についての在職期間を評価して何らかの処遇をするということについては、現在の制度の体系の中に取り入れることは困難でございます。この問題につきましては現在、総理府で検討が続けられておるわけでございます。厚生省としましても不十分ではございますけれども、戦時衛生勤務につかれたこれらの方々に関する資料がございますので、そういった面からの協力をすることにはやぶさかではございません。
  17. 瓦力

    瓦委員 日赤の資料によりますと、外地派遣が一万三千四百八十二名ということで、すでに資料も相当に用意をしておられます。それから恩給で救ってもらいたいという請願もすでに出ております。所管は総理府ということになろうかと思いますが、厚生省でも、この従軍看護婦の実態というものを詳細に調査しておく必要がある、私はかように思います。ことに政務次官、奥さんは従軍看護婦という経験もあるわけでございますので、政務次官の手腕をもって、この従軍看護婦問題に力をおかしいただかなければならぬというぐあいに思っておるわけでございます。  私、くにへ帰りまして、この「日赤石川従軍看護婦の記録」という記録を一冊ちょうだいしてまいりました。どのページを開いても、実は涙が出るようなことばかり手記として載っておるわけなんです。ちょっと読みますと、「チチハルへ着いたが、陸軍病院は収容能力を遥かに越えていた。看護婦達は小学校へ移される。小学校も雑多な避難民で溢れていた。やっと二階の一隅に落着く。ここで全員に青酸カリを渡される。カミソリで何処を切ったら効果的に死ねるかと考える者もいた。」というぐあいに、最前線に出た看護婦は、もう戦傷者を何とかして手当てをしなければならぬという気概もさることながら、非常に多くの危険を冒して最前線まで出ておられる。  こういったことを考えますと、何としてもこれは恩給の方でも考えてもらわなければならぬと思っておるわけでございますが、肝心の厚生省は、日赤とよく連携を密にしていただいて資料を整理していただく、こういうことをやっていただきませんと、この恩給にのせるということはなかなかむずかしいわけでございますので、この間の取り組みといいますか、決意につきまして、この際、政務次官に一言伺っておきたいと思います。
  18. 戸井田三郎

    ○戸井田政府委員 救護看護婦の問題でございますが、私も現地でよく見ております。看護婦さんが兵隊と同じように、従軍されるときには万一の場合に自決するというような決意のもとに、短刀なりそういうものを持って戦地に従軍しているということも知っております。実際に働いている姿を見ると兵隊さん、あるいはそれ以上に、あるいは兵隊さんの士気を鼓舞する上では、看護婦さんがかいがいしく働いているということによって一層士気が鼓舞されたり、そういう意味では従軍看護婦が果たしてきた役割りというものは大変なものだろうと思うのです。  そこで、いま問題になっているのは、これらの人たちに対して国がどういう処遇をするかということで、身分関係が国との問題になってくると思うのです。その場合、いま局長がお答えいたしましたように、ない。給与は日赤で給与しておる。たしか、あの時分に兵隊が八円ぐらいで、看護婦さんが、外地勤務ということで百円ぐらいだったのじゃないかと思います。外地は、いまお話しのチチハルかハルビンでございますが、そういうようなところで寒い。そういうような手当こういうものも赤十字の方からされておったようであります。そういう待遇の面から見ると兵隊とは大分違いますが、実際には、いま瓦議員が言われたような勤務関係にあります。  心情的には、これをどうかして救ってあげたいという気持ちが当然わいてくるわけでありますが、これをどういうふうにやるかとなると、恩給というものと結びつけて考えれば、厚生省における援護法の中身はどうもなじみが薄い。そこで、この問題を総理府がいまいろいろと検討されておるわけでありますが、私たちの立場からしても、いろいろそういう総合的に判断する資料、こういうものも提供することを積極的にしなければいけないし、さらに解決の方に一層の努力を重ねていきたいと思っております。
  19. 瓦力

    瓦委員 なかなかこれも資料を集めてまいらなければならぬという事情もあろうかと思いますが、鋭意取り組んでいただきたい。従軍看護婦に出られた方々は、そのときは二十かそのころであったろうと思うのです。日赤の学校で三年間勉強されて、そしてすぐ赤紙召集をもらって出かけるというような実態であったわけでありますし、また、終戦間際には相当短期間で出されたという経緯もある。この記録にも、そうした経緯も載っておりますので、もう援護局でも持っておられると思いますが、お読みをいただきたいと思います。  次に、相当今日まで援護の制度や中身が拡充されてまいってきておるわけでございますが、未処遇の問題もまだあるわけでございます。完結するまでには、まだ道が遠いと思うわけでございますが、当委員会では、できるだけこうした問題を取り上げて、やはり福祉の光というものを当てていかなければならぬ、かように存じます。そうした中に、判任文官の遺族に対して特別弔慰金を支払ってもいいのではないかということもあろうかと思うわけでございます。過去の経緯からいたしまして、これまた困難であろうことは十分にわかるわけでございますが、判任文官の遺族に対する特別弔慰金、この問題についてお尋ねをいたしたいと思います。
  20. 河野義男

    河野(義)政府委員 判任文官等の遺族につきましては戦後、軍人の遺族と異なりまして恩給の停止がされなかったわけでございますが、したがって、弔慰金も支給されないわけでございます。特別弔慰金というのは、いま御指摘ございましたように弔慰金の支給を受けたことが要件となっておりますので、したがいまして、判任文官等の遺族につきましては特別弔慰金が支給されないわけでございます。特別弔慰金は、戦後二十年あるいは三十年こういう時点で、国の慰謝の誠意を示すということで支給されておりますが、恩給が復活されましてすでに二十年余を経過しておるわけでございますので、この特別弔慰金の制度の趣旨などを十分踏まえまして、今後検討してまいりたい、かように考えております。
  21. 瓦力

    瓦委員 次に、戦傷病者の特別援護につきましてお尋ねをいたします。  戦傷病者が置かれている特別の状態、状況にかんがみまして、この援護の施策を広げていかなければならぬということで、傷痍軍人会が中心になりまして、またわれわれも努力をしておるところでございますが、このたび、国鉄の特急料金免除の扱いについて、また一歩前進をしたと伺っております。そこで、この実施の時期等につきましてお尋ねをしたい、かように思うわけでございます。ちなみに、五十年度の実績を見てみますと、引きかえ証の交付枚数が二十四万五千枚を超えておるわけでございますし、介護人を含みましても利用人数は二十七万六千六十一名、こういうぐあいに聞いておるわけでございます。戦傷病者にとりまして福音であろうと思うわけでございますが、この特急料金の実施時期、これにつきましてお尋ねをしたいと思います。
  22. 河野義男

    河野(義)政府委員 戦傷病者につきましては、御指摘がございましたように、国鉄無賃乗車制度を利用するに際しまして従来、急行料金が無賃の扱いになっておりましたが、五十三年度から急行料金にあわせまして特急料金についても免除の取り扱いをするということにしておるわけでございます。この実施の時期を含めまして、その取り扱いの細部につきましては目下、関係各省と鋭意協議をして詰めておるわけでございます。できるだけ早く実施できるように努力していきたい、かように考えております。
  23. 瓦力

    瓦委員 関係官庁と打ち合わせをして、できるだけ早くということでございますが、これは年度が変わりまして四月中にというわけにはいかないのですか。打ち合わせがなかなか困難な問題……。
  24. 河野義男

    河野(義)政府委員 いろいろ細部の問題をたくさん抱えております。たとえば関係官庁の中には国鉄当局もあるわけでございますが、国鉄の財政の問題もございますし、財政再建の一環としても、これを見直さなければならぬという状況もございますので、そういったことも含めまして関係機関と十分詰めを急ぎまして、できるだけ早く実現したい、こういうふうに考えております。
  25. 瓦力

    瓦委員 時間も参りましたので、最後にお尋ねをするわけでございますが、くにで未亡人のお世話を長くされまして、石川県の母子福祉協会の理事長になられた飯田寿美子さんという方が実は先般亡くなられまして、私そのお参りに参ったわけであります。たくさんの参詣の方々がいらっしゃいましたが、ほとんどは戦争で深い傷を持たれた方々ばかりでございました。女手一人で一人息子を育て上げるかたわら、たくさんの未亡人の方々のお世話をしてこられた方でございます。そういったことに触れますと、どうしても戦没者の遺骨の収集、また慰霊巡拝、慰霊碑の建設、こうした問題も今後進めていってもらわなければならぬ問題である。残された方々にとりましては、一日も早く遺骨が帰ってくる、このことを待つ気持ちでおるわけでございます。しかし、三十三年も経ますと、これはだれの遺骨かわからないというような状況下にもあろうかと思うわけでございますが、今後の計画等についてお尋ねをしたい。  ことに、本年は沖繩墓苑の建設ということがあるわけでございますが、沖繩は外国ではない日本でございますから、遺骨収集については、まだ徹底的にやってもらわなければならぬ、かようにも存じますし、また、国交回復間近し、こういう感を持ちます中国の問題でございますが、この中国の問題につきましても、遺族とすれば、国交回復するような時点即遺骨収集も図ってもらいたい。また、慰霊を兼ねて行きたいという気持ちもつのってこようかと思うわけでございます。こうしたことを含めまして、局長並びに政務次官から遺骨収集慰霊巡拝、慰霊碑建設、また中国の問題、このことにつきまして御答弁を賜りたいと思います。
  26. 河野義男

    河野(義)政府委員 戦没者遺骨収集あるいは慰霊巡拝等の事業につきましては、遺族のお気持ちを十分考えまして、今後も努力してまいる所存でございますが、まず戦没者遺骨収集につきましては、昭和五十年度までに三次にわたりまして計画的に実施してまいったわけでございますが、五十一年度以降につきましては、その期間におきまして、いろいろな事情でその地域に入れなかった、あるいは新たに非常に確度の高い情報がもたらされた地区に重点を置きまして遺骨収集を行っていきたいというふうに考えております。五十三年度におきましてもマリアナ諸島、エニウェトク環礁、沖繩、硫黄島の各地において実施する予定でございます。  また慰霊巡拝につきましても、遺骨収集という事業は完全にこれを収集するということは困難であります。そういった特殊性から遺骨を完全に収集することは事実上不可能でございますので、主要な戦域となりました陸上とか、あるいはもともと遺骨収集が望めない海上における戦没者を追悼するために五十一年度から計画的に慰霊巡拝の事業を推進してまいっておりますが、五十三年度におきましてもアリューシャン列島、インド、中部太平洋、沖繩の四地区で実施する予定でございます。  また戦没者の慰霊碑の建設事業でございますが、主要な戦域に逐次、戦没者の慰霊碑を建設していくというふうに考えておりますが、その一環といたしまして、五十二年度から沖繩に戦没者墓苑の建設事業を進めておるわけでございます。五十三年度の秋には完成させまして、その機会をとらえまして全国各県から代表を招きまして慰霊祭を実施する、そういうことも考えておるわけでございます。  また御指摘の沖繩における遺骨につきましては、現在残っておりますのはごうの中の遺骨とか、あるいは南部地方の山林の中の遺骨が主でございますが、ごうの中の遺骨につきましては、みずから機械を使って遺骨を収集する。それから山林原野にあります遺骨につきましては、従来から県に委託してやっておりますので、引き続き県に委託して遺骨収集事業を進めていきたい、かように考えております。  以上でございます。
  27. 戸井田三郎

    ○戸井田政府委員 いま局長から具体的に経過の御説明がありましたが、戦後三十数年たって、だんだん三十年の歴史的な時間的な経過の中に、そういったことが忘れ去られていっております。私は厚生政務次官になってから御遺骨の帰還をお迎えしたことは四回ありますが、その中で痛切に感じたことは、やはり歴史的な空間の中に、われわれが日本人として忘れてはいけないことを一日一日の日にちの経過の中で忘れていっているような感じをいたしております。われわれ特に戦地体験を持っている生存者として、やはり国のために亡くなった方々に対する丁重なお迎えをしなければならない、こういうふうに考えて、鋭意私たちのできるだけの努力を積み重ねていこうと思っております。特に、その担当であります厚生省としては、今後も引き続き十分な努力を重ねていきたいと思います。  ただ、いままでの遺骨収集に対する局長の答弁の中で触れてない中国の問題があります。中国の問題は、御承知のとおりに中国で多くの日本の兵隊さんが亡くなっております。しかし戦争というものは、お互いに中国と日本、両方の国の立場に立って考えていかなければいけないのじゃないか。日本の遺族からすれば一人でも多くの遺骨を中国から日本へ帰還させたい、こういう心情があります。一方に中国からすると、やはりあのときの戦争というものはいい思い出ではない。早くこういったことを忘れたい。そして再び、そういうようなことを繰り返したくない。これは攻めていった日本と攻められた中国の感情では国民感情が違うと思うのです。そういうことを考えれば、私たちが早く遺骨を収集したいという気持ちはわかりますけれども、外交関係を通じながら、お互いに双方の理解の上に、こういったことが実現されるよう努力をしていきたいと思います。  たまたま昨日、中国大使館の方々が別の用件で政務次官室に来られまして、これからのいろいろな医療交流の問題等でございましたが、ちょっと、この話をしてみましたところ、やはり古傷には触れられたくないという感懐の方が中国側には強いように私は感じ取りました。しかしながら、お互いにこれから戦争というような悲惨なことを繰り返さないために、こういったことをしないのだというために、お互いの国でこの条約が締結された後に、何らかのそういった御遺族の気持ちをくんだ慰霊のことが記念に残されないかというようなことも話してみました。そういうことに対して中国側も、いずれ皆さんとお話をさせていただきましょうということで別れたわけですが、そういう意味で相手国のこともあることでございますから、それらと関連して十分に御期待に沿うような努力を重ねていきたいと思います。
  28. 瓦力

    瓦委員 終わります。
  29. 木野晴夫

    木野委員長 次に、川本敏美君。
  30. 川本敏美

    川本委員 厚生大臣がまだお見えでございませんので、まず厚生政務次官以下、局長さんにお聞きをいたしたいと思います。  私は昨年の四月八日のこの社会労働委員会におきまして、満蒙開拓青少年義勇隊の援護法適用について、いわゆる第二条第四号の関係でございますけれども、これが従来、昭和十四年十二月二十二日の閣議決定以後の義勇隊に適用する、こういう内容になっておるのがおかしいのではないか。少なくとも、その以前の昭和十二年十一月三十日の閣議決定の線まで、さかのぼるべきではないかということを主張いたしたわけであります。今回、その点については法律の改正が提案をされておる次第でありまして、政府当局が非常に誠意を持って、この問題に対処しておられるということについて、まず冒頭、敬意を表しておきたいと思うわけです。  しかし、しさいに検討してまいりますと、この援護法の適用に当たって、その中心的な精神として流れるものは、やはり一つは戦闘参加者であること、あるいは軍務に協力をした者、こういうようなところに、いわゆる法律適用についての焦点がしぼられておると私は思うわけです。そのために、仮に現実的、具体的にこの法律の適用を受けようとして申請をしようということになりますと、ただ、その地域におったということだけではいけないわけでして、戦闘に参加をしたとか、あるいは軍の命令によって軍務に協力をしたという立証がなされない限り、これは適用されないという問題があるわけであります。そういうことのために、仮に昭和十二年十一月三十日の閣議決定の線までさかのぼられても、これを適用を受けようというときには、いま申し上げたように、いわゆる戦闘に参加したとか軍に協力したという立証がなされない限り、この適用は事実上受けられない、こういうようなことになるのではなかろうかと思うわけであります。その点について、ひとつまず政府の見解をお聞きいたしたいと思う。
  31. 河野義男

    河野(義)政府委員 満州青年義勇隊の適用につきまして、いま先生からお話がございましたように、前回におけるいろんな審議、御意見を踏まえまして今回、昭和十二年の閣議決定までに拡大したいということで御審議をいただいておるわけでございますが、実際にこれを適用する場合におきまして、戦後三十余年経過しておりますし、おっしゃいますように当時の実態がどうであったかとか、また個別の請求される場合に、その人が軍事に関する業務にどういうふうにつかれたか、そういったことを立証することが非常にむずかしくなってきているわけでございます。本来そのたてまえは、請求者がそういった資料を整備して出されるわけでございますが、そういった戦後三十余年もたちましたし、直接それを証明する資料等も、恐らく、そういう戦争前後の実情からしまして非常にむずかしいと思いますので、私ども厚生省といたしましては、そういう実情を十分考えまして、請求者の立場に立ちまして、考え得る直接あるいは間接の資料、あるいは厚生省が持っております。個別の資料は別としましても、そういう義勇隊の方々の実態、そういったものをできるだけ活用いたしまして、裁定さるべき人に年金等が裁定できるように努力をしていきたい、かように考えております。
  32. 川本敏美

    川本委員 そこで、いま局長から御答弁いただきましたが、この問題については立証ということになると、なかなか大変なやはり問題がある。そこで私の意見を申し上げますと、この援護法の第二条の三項第四号では「閣議決定満洲開拓民に関する根本方策に関する件に基いて組織された満洲開拓青年義勇隊の隊員」という言葉を使っておる。ところが、あの当時一般的に日本の国で雑誌とか新聞とか、あるいはいろいろ言われた言葉は満蒙開拓青少年義勇軍と言ったと思う。これは閣議決定の言葉は青少年義勇隊ですけれども、一般に新聞等で報道をされ、あるいは隊員の募集に当たって使われた言葉は青少年義勇軍という言葉を使っておる。全く私はこれは軍だと思うわけです。だから、その三年間の訓練期間の内容を見ましても、いわゆる訓練所には配属将校がおって一週間に五時間以上の軍事教練がなされておる。一年間に二百時間以上の軍事教練が、実地演習が行われ、そして現実に小銃とか機関銃、軽機ですね。それに実弾も渡されて完全に武装をした、軍隊と何ら変わらないわけです。だから、この隊員の援護法の適用に当たっては、あるいは戦闘に参加したとか、あるいは軍の行動に協力をしたとかいうような立証がなされなくとも、その隊の隊員であったということさえ立証されれば、すべて適用するというたてまえをとるのが正しいのではないか、私はこのように考えるわけですけれども、その点についてもう一度お答えをいただきたいと思うわけです。
  33. 河野義男

    河野(義)政府委員 御指摘のように、満州青年義勇隊は満蒙開拓少年義勇軍とも呼ばれていたことは事実でございます。この満州開拓青年義勇隊を援護法の適用の対象にいたしましたのは、この開拓義勇隊は本来、開拓農民――農業訓練を受けて満州の農業の開拓をするというのが主たる任務であったわけでございますが、そのほかに訓練期間中におきましては軍事に関する業務、たとえば、ある期間、軍隊の業務につくとか、あるいは軍の補給廠あるいは重要工場に派遣されまして軍事に関する業務についた、こういう実体があるわけでございまして、その実体に着目いたしまして援護法を適用いたすこととしたわけでございまして、義勇軍という名前がついていたから、すべてその問の業務は軍事業務だというふうに考えることは無理があるのじゃないか、こういうふうに考えております。
  34. 川本敏美

    川本委員 私は、これは屯田兵方式の軍だと思う。だから二十四時間すべてこれ国家の軍事目的に沿った、地域に駐とんする守備隊と同じような役割りを果たしながら開拓あるいは訓練に努力をしてきた、そういうのが実情ではなかろうかと思うわけです。そういう点から考えまして、いま局長の御答弁ありましたけれども、やはり私は本来これの取り扱いについては、青少年義勇軍である、こういう観点に立ったならば、その隊員がすべて、戦闘参加の証明あるいは軍に協力したことの立証、こういうのがなされなくとも、隊員であったこと自体によって直ちに本法の適用を受けられるように私は厚生省としては措置すべきではなかろうかと、この点について考えておるわけです。この点について、もう一度お考えをお聞きしたいと思う。  それから、今度三年間の訓練期間を終わりますと、これは開拓団になっていくわけです。ところが、いまのこの援護法でいきますと訓練期間中は適用されるけれども、これが開拓団として入植をいたしました後は今度は適用されない、こういう形になっておる。ところが、開拓団という問題になりますと、義勇隊開拓団と一般の移民の開拓団と二とおりあるわけです。これは昭和十四年十二月二十二日のいわゆる閣議決定で「満洲開拓政策基本要綱」この要綱の中で明らかにされておることは御承知のとおりでありますけれども、私は義勇隊開拓団も一般の移民開拓団も、やはりすべて開拓団そのものを、この援護法の対象にすべきであると考えておるわけです。  それはなぜかと申し上げますと、この「基本方針」の中にどういうふうに書かれておるかといいますと、いわゆる満洲開拓政策は「日滿不可分関係ノ鞏化、民族協和ノ達成、國防力ノ増強及産業ノ振興ヲ期シ兼テ農村ノ更生発展ニ資スルヲ以テ目的トス」というふうに「基本方針」の目的の中に「國防力ノ増強」という言葉が入っておる。これは開拓団そのものは軍事目的を兼ねておるということを私は明らかにしておるのではなかろうかと思うわけです。  そうして、その「第二 基本要領」の中の第五項目には「開拓民ノ移住ニ付テハ各種開拓民ノ按配ヲ適切ナラシメ日本内地人開拓民ハ差当リ原則トシテ北滿方面ヲ主トスルノ外全滿ニ於ケル交通、産業開發上ノ重要地点ニ定著セシムルモ理想トシテハ広ク分布シ各地ニ於ケル民族協和ノ中核的分子タラシムルコトヲ期ス」こういうふうに書かれておるわけです。だから、いわゆる日本人の開拓団と朝鮮等からの開拓団と二通りあったわけですけれども、特に日本人の開拓団については北満の国境方面それから、いわゆる「交通、産業開発上ノ重要地点ニ定著セシムル」こういう基本的方針を持っておるわけです。これはもういわゆる辺境守備のための国策以外の何物でもない。  このことを考えましたならば、訓練期間中を終わりまして入植地に入った開拓団員、義勇隊開拓団員それからその後、新たにこの「基本要綱」によって全国各地で結成されて送り込まれたいわゆる開拓団、この団員すべてについても、私はこの援護法の適用範囲に入れるべきではないか、このように考えておるわけですけれども、それについてもう一度、御答弁を賜りたいと思う。
  35. 河野義男

    河野(義)政府委員 最初は、満州開拓青少年義勇隊を義勇軍と一方で言われておりましたので、その訓練期間の義勇隊員につきましては、すべていわゆる軍務として援護法の適用を考えろ、こういう御趣旨でございますが、援護法のたてまえは、まず国との間に軍人軍属に準ずるような特別な身分関係がある。それに基づきまして国の使用責任を援護法によって果たす。こういうたてまえになっておりますし、それからまた、その業務が軍事に関する業務に際して傷病にかかった場合に遺族年金等の給付をする。こういうことになっておるわけでございまして、したがいまして、軍という名称が使われていたということをもちまして、すべての業務にわたりまして、それに基づきまして傷病にかかった方を援護法の対象とするということは困難でございます。しかし、先ほども申しましたように、なかなかその関係を立証するということはむずかしいということは、私ども承知しておりますので、私どもの持っておりますいろいろな関係の資料とか、あるいは関接的な資料あるいは関係者の証言、供述とか、そういったものを総合して、できるだけ、そういった方たちの立場に立って事務を処理したい、こういうふうに考えております。  それから後段につきましては、青年義勇隊の三年間の期間を終えまして義勇隊開拓団に移られた方につきましても援護法を適用すべきである、こういう御意見でございますが、いま申しましたように、援護法は国との間に使用関係あるいはそれに準ずるような特別な身分関係が前提になっておるわけでございまして、その点に関しましては義勇隊開拓団は他の一般の開拓団と同様に、そういった国との間の特別な身分関係というものを認めることができないわけでございます。それからまた開拓団の業務の中に軍事に関する業務といったものも認められないわけでございまして、そういった意味から義勇隊開拓団につきまして援護法を適用するということは困難である、こういうふうに考えております。ただ、その義勇隊開拓団の目的につきまして「国防力ノ増強」というようなこともあるという御指摘でございますけれども、私どもはあくまでその実体に着目いたしまして、特別な身分関係と、それから軍事に関する業務があったかどうかという観点から考えていきたい、かように考えております。
  36. 川本敏美

    川本委員 入植しました開拓団が武装してなかったのかといったら、そうじゃないわけですね。調べてみますと全部、武装をして、そしてやはり連日二十四時間体制で歩哨を立てて、そして何か変わったことがあれば、あるいは軍に通報する場合もある。あるいは土匪等の襲撃にあっては、みずから開拓団を守るために戦う。あるいは時には軍の土匪討伐の軍事行動、作戦行動にも一緒に行動をするというような、やはり半ば軍事目的を持って行動したことは、もう明らかに今日までわかっておるわけです。私どもは、そういう開拓団の持っておった使命、こういうことを考えますと、いま局長はおっしゃいますけれども、すべてこの援護法の適用にしていくべきではなかろうかと考えておるのですけれども、これについて政務次官、ひとつ御意見を聞きたい。
  37. 戸井田三郎

    ○戸井田政府委員 いま川本先生の御意見、そして局長の答弁、相互をいろいろ聞いて、私も大体あの辺の事情はよく知っているつもりなんですが、開拓団が、あるいは義勇隊が当時の満州に出ていくということは、いわゆる安全な地域へ行っているわけではないと思うのです。したがって、自分たちの生活というものをやっていく上において、当時の満州あたりでしたら、いまお話がありましたように匪賊やなんか出ますから、そういったものからも守っていかなければならない。そういうような環境の中に行っているということが、同時に武器を開拓団の中に幾つか蓄えているということがあります。これはまさに義勇隊あるいは開拓団の自衛に等しいものも含まれていると思うのです。同時に、それらの開拓団が満州へ行っているという中で、当然そこに駐とんしている軍隊というものは、やはり日本人でありますから、そういった人を守っていかなければならない。そういう意味の軍隊の役割りもある。それに相互的に協力して守っていくという性格があるのではないか、こういうふうに私は考えます。  そしてもちろん、この問題を、そういう大きな国家目的という網をかぶせると、その中に当然入ってくるわけでありますから、その中において援護法をどう適用するかという場合に、やはり最終的には兵隊でも軍人でも、それが公務勤しているかどうかという問題等も含まれて審査されるわけですから、当然その公務勤に関連した戦闘行為、あるいは討伐とか、こういったものが立証する資料として出されてしかるべきではないか、私はかように考えます。
  38. 川本敏美

    川本委員 この開拓団につきましては昭和二十年の八月七日のソ連軍の参戦以後は、開拓団員であっても、あるいは義勇隊開拓団であっても、戦闘参加者として全部、援護法の適用範囲に入っているわけです。ところが、それ以前においては、いわゆる満州が戦闘地域とみなされていなかったために、開拓団当時、土匪の襲撃等の際に戦って、そこで亡くなられたり、あるいは負傷された方、そういう方の遺族等については援護法は現在適用されていないわけです。そのことについては軍の協力者としての立証がなされた場合は、これは適用されていると思うけれども、そうでない場合には適用されていない。  いわゆる昭和十四年十二月二十二日の「満州開拓政策基本要綱」に基づいて送り出された開拓団の悲惨な運命というものは、いまさら私が申し上げるまでもなく皆さんも御承知だと思いますけれども、一つの例として申し上げますと、私ども奈良県の吉野郡から出ました開拓団に大塔村開拓団というのがあるわけです。もうすでに亡くなられました団長の梅本国義さん以下総隊員数は二百七十八名、昭和十七年の五月に結団式を挙げまして、第一次が昭和十七年五月に四十一名、第二次が昭和十八年三月に百四名、第三次が昭和十九年二月に七十九名、第四次が昭和二十年五月に五十四名、合計二百七十八名が満州国の延寿県長発というところで入植をして大塔開拓団を組織したわけです。これは南満洲鉄道の朱河駅より馬で二時間ほど国境近くに入った僻地にあったわけですけれども、この開拓団は連日のように土匪の襲撃に遭って、毎日が苦難の連続であったというふうに、その記録では伝えておるわけです。  皆さん御承知か知りませんけれども、奈良県吉野郡大塔村というところは、天誅組の入った昔の十津川郷の一部で、山紫水明の非常に平和ないい山村です。そんなところで生活をしておれば平和で安穏で爆撃も受けない。こういうような理想的な郷土を捨てて、全財産を処分をして満州に骨を埋めるつもりで、国家的な政策に本当に義勇心を起こして勇躍参加をしていった人たちです。ところが、この人たちの運命はどうかといいますと、最終的にソ連の参戦した時点でソ連軍と戦い、団長の命令によって青酸カリで自決したのが百五十四名、病死五十名、帰還者六十一名、末帰還者十三名、こういうような悲惨な状態に立ち至ったわけです。この昭和二十年の五月に出発した五十四名というのは、まさに冥途への旅立ちであったと言っても過言でないような悲惨な運命をたどっておるわけです。この人たちの中で、いわゆるソ連参戦後、戦闘状態の中で亡くなられた方あるいは自決をした方等については援護法が適用されています。しかし、それ以前の土匪の襲撃等において亡くなられた方は、すべて適用されていないわけです。私は、こんな平和な自分の故郷を捨てて、国家の政策に従って北満の酷寒零下三十度の僻地まで骨を埋めるつもりで一家眷族打ちそろって参加した人たちが、先ほど来のお話のように国の公の仕事ではなかったのだということで、救護の措置援護措置から除外をされておるということには、正義の立場からも、これを見過ごすことはできないと思っておるわけなんです。ひとつ、この点について局長から、もう一度御答弁をいただきたいと思う。
  39. 河野義男

    河野(義)政府委員 いまのお話で多くの方が入植されて大変苦労されたという実態、それから土匪等の襲撃によりまして、とうとい犠牲も出られたというような点につきましては、私ども十分同情いたしますが、援護法のたてまえにつきましては、先ほど申しましたように、そういった開拓団の方々と国との関係がまず前提になるわけでございまして、軍人軍属と同様な、それに準ずるような関係、国との間に、そういった身分関係があるということが前提にありまして、そういう関係に立ちまして国家補償ということで援護法を適用するわけでございます。いま、そういった開拓団の実情は理解できるわけでございますが、援護法のたてまえからいたしましては、その方たちを援護の対象として救済することはむずかしいのじゃないか、こういうことでございまして、なお、ソ連参戦後におきましてのいろいろの戦闘協力、戦闘参加によりまして、けがをされたり、あるいは亡くなられた方につきましては当然、援護法の対象になりまして、年金その他の給付が行われるわけでございます。
  40. 川本敏美

    川本委員 どうも私は、現在の局長の答弁では不満なんです。これはやはり近い将来、公平な行政という立場から見ても、国家の至上目的に勇躍参加をした人たちを、あたら犬死にさせるようないまの制度では私は納得できないと思う。この点について再度、強く要望いたしておきたいと思うわけです。  そこで話を進めますが、いま申し上げた大塔開拓団の団員の中で自決百五十四名ということを申し上げましたけれども、その自決者百五十四名の中の一人が、昨年九月に一時帰国者として実は帰ってきた。これは岡村清昭さん、現在四十五歳の方です。そして、きょうは十七日ですけれども、この三月二十日に伊丹空港発の飛行機で、六カ月間の帰国期間を満了して、また中国へ帰っていかれるわけです。この方は当時十三歳でした。本人の話によりますと、そのとき青酸カリを与えられて飲んだけれども、それを無意識のうちに吐き出してしまったために倒れておったのを中国人に助けられて、育てられて、今日五人の子供がある父親として中国で元気にがんばっておられるわけです。  これは自決者という計算の中に入っておった人がたまたま生きておられたということがわかって、自決者百五十四名というのを百五十三名に訂正することになったわけですけれども、この方が今度帰ってきました場合の、いわゆる一時帰国者に対する援護措置というのは、現在の国の法制上は何もないのじゃないか。あるいは未帰還者に関する特別措置法とか未帰還者留守家族等援護法等がありますけれども、これらはこういう一時帰国者の場合には全然関係がない。引き揚げて帰ってきた人たちも、この法律に準じて取り扱われておるようでありますけれども、この点についてはどうなっておるのですか。
  41. 河野義男

    河野(義)政府委員 現在、一時帰国者に対しましては、主として中国からでございますが、中国の居住地から本邦の帰郷先までの往復の旅費を負担しております。それからまた、個別のケースにおきまして滞在期間中、生活に困られる方につきましては生活保護を適用して生活の援助をする、こういうふうな措置を講じているわけでございます。
  42. 川本敏美

    川本委員 大臣が三十五分から参議院に行かなければいかぬそうですので、それまでに大臣にひとつお聞きをしておきたいと思うのです。  私、聞きますと一時帰国者に対する処遇として今度、政府は、三月二十日に中国へ帰る際の伊丹から北京までの航空券と、北京の駅から朱河の駅までの汽車代一万三百二十円を直接本人に厚生省の方から郵送していただいたそうです。ところが、その六カ月の滞在期間については生活保護を適用いたしておるわけです。県は特別にということで五万円の手当を出したそうです。村は、岡村さんが帰ってこられたために、この六カ月間、特別扶助料として三十万円を支出しておるわけです。それから帰国の際には伊丹空港まで村長、議長あるいは役場の職員等が出迎えに行って、村へ帰ったときには歓迎会を開き、あす十八日には歓送会を開いて、今度また伊丹の空港まで送って行く、そういうことをしますと、その経費が往復で約四十万円ほど要るそうです。そういう一時帰国者の処遇に関する問題が現在、全部、村の負担において賄われておる。あるいは言葉は全然通じないそうです。言葉が通じませんので、どうするかといいますと、奈良県にあります拓友会の方で、前に帰国されました黒滝村の向井よし子さんという方が中国語と日本語を両方しゃべるので、その方を連れてきていただいて通訳をしてもらうとか、天理大学の中国語科の生徒にボランティアで来てやってもらうとか、そういうことについても現在まで来ていただいた人には、村は一日一万円ぐらいの謝礼をするというような形で何とか賄っておると言っておるわけです。  中国の帰国者に対する帰国手当あるいは旅費、交通費については、今度予算で五万円が十万円とか、千円の交通費が三千円とかということで増額されておりますけれども、一時帰国者に対しては何らそういうことがなされていない。私の調べたところによりますと、五十年には一時帰国者が千三十八世帯、千六百三十五名、五十一年には五百六十七世帯、八百八十六名帰ってきておるわけです。こういう方々に対して、やはり帰ってきたときには、村で三十万円支出しておる特別扶助料的なものを国が半分支出するとか、その他、村が支出しておる経費については国が半分肩がわりをするとか、こういうような温かい措置があってしかるべきだと私は思うのですけれども、そういう一時帰国者に対する処遇について、大臣から温かい御答弁をいただきたいと思うわけです。
  43. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 先生のお気持ちはもう十分わかるのでございますが、一時帰国者というのは大体、墓参とか親戚の訪問とか、生活の本拠は中国にあるが一度なつかしい故国に行ってみたいとか、そういう方々でございますので、いま局長から申し上げたように、往復の旅費を支給し、しかも生活に困る人には生活保護をやるという程度しか国としてはできないわけです。  そこで、村の方で生活保障みたいな形で見舞い金を何十万かやっておる、それを一部でも国が負担したらどうだとおっしゃるのですけれども、これはなかなかめんどうな問題です。ただ、言葉が不自由だから行動にいろいろ不自由するとか、あるいは生活保護を受けておっても、日本における生活保護世帯とは少し事情が違うわけですから、そうしたものを検討してあげるくらいがせいぜいじゃないかというような感じがするのです。しかし、それもできるかできないか、私もいま初めてのお尋ねでございますから、よく検討させていただきますが、それは私どもの方から自治省と相談をして、そういう帰還者、一時帰国者の多い町村について特交で何らかの措置を考えてやるとかいうようなことで、できるだけ配慮をする以外には、いまのところ、ちょっとないのじゃないかと思いますので、もう少し検討させていただきたいと思います。
  44. 川本敏美

    川本委員 やはり村は責任を感じておるわけです。昭和十四年十二月の閣議決定の線に基づいて村が指導して開拓団を送り出した。この岡村さんの場合は、一家十人のうち九人が亡くなられて、この人一人だけが生きておる。こういう悲惨な運命をたどった人が帰ってきたときに、一般の旅行者と同じような考え方で、いま大臣がおっしゃった旅行者の一時滞在のような考え方で、そういう形で村が見過ごしていけるのかどうか。国もその点について責任を感じてもらわなければいけない、このように私は考えるわけです。この点について再度強く要望いたしておきたいと思うのです。  そこで、大臣が三十五分から参議院の方へ行かれるそうですので、ちょっと質問をはしょりますけれども、元軍人の方々恩給法の適用を受けて現在、軍人恩給あるいは一時金等の待遇を受けておるわけですが、九年に満たないとか十二年に満たないとかいうことで、この軍人恩給の欠格者がありますね。ところが、帰ってこられた方々の中で戦後、国家公務員になるとか地方公務員になるとか、あるいは三公社五現業等の公務員的な仕事についた方は、みんな、それぞれの共済組合において軍人期間を在職年限として通算されて、現在、老齢年金等のいわゆる共済の勤続年数に加算をされておるわけです。  昨年の四月だったと思うのですが、自民党の加藤紘一議員がここで年金の官民格差の問題について意見を述べられました。私は、その官民格差と言われる中の一つに軍歴の期間の通算の問題があると思うのです。戦場で肩を並べておった戦友であっても、戦後帰ってきて一人は官公庁に入った、あるいは三公社五現業等の仕事についた。そうしたら、その軍人の期間は共済組合において在職年数として通算されておる。ところが、片一方は帰ってきてから民間の私企業に勤めたとなると、これは厚生年金が適用されるわけです。厚生年金が適用されておる方に対しては軍人としての在職期間は全然通算されない。こういう制度は役人が立案するわけですから、これは全く役人が自分の田に水を引いた我田引水の行政のあらわれだと私は思うわけです。だから、少なくとも私企業に勤めた、民間の厚生年金の適用を受けておる元軍人の方々に対しては、官民格差をなくすという以上は、軍人としての在職年限はまず厚生年令法を改正して通算すべきではないか、このように私は考えるのですが、大臣どうですか。
  45. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 先生は、帰ってきた者が官庁に行ったら通算されて、民間に行ったら通算されない。その面だけをとらえて不公平だ、こうおっしゃいますが、それはちょっと公平論からいいますと、それでは同じような軍属だとか準軍属だとか、そういう厚生年金発足前に民間人であった人たちのことを考えますと、むしろ今度は逆に公平を失することになるわけです。大体、恩給制度というのは国家との特別権力関係にある方々についての制度になっておる。したがって、共済というものは恩給制度を引き継いでいるものですから、特別権力関係にあった軍人さんの期間が三年であろうと二年であろうと、そういう期間は共済が引き継ぐというのは、これはあたりまえのことであって、役人が自分のところへ来たものだけということで考えたわけじゃないのですね。ですから、われわれ厚生年金の方は、したがって旧厚生年金の関係の適用者はそのまま引き継いでいる。同じことなんです。両方引き継いでいるわけですから。  したがって、そう考えてきますと、一面から見ると先生のおっしゃることは確かにもっともだなという議論が出ますけれども、半面から見ると、またそういう不公平等もあります。しかも御承知のように、この数がべらぼうに多いわけですね。そうしたら、もう厚生年金は、あるいは国民年金制度というものは、これはみんなの拠出でやっておるわけですから、これは私は、いまここで検討しますと申し上げる勇気はちょっとないのです。ですから、もう少し根本的な年金制度の改正のときに、もう一度、御議論を願いたい。
  46. 川本敏美

    川本委員 いま大臣は、それは数が大変多い、ということはお金もたくさん要るということだと思いますけれども、厚生年金というものは被保険者の保険料によって賄われておる一つの会計を持っておるのだから、そこで軍人の在職期間を計算するというのはおかしい、そういうような御趣旨のようですけれども、これは共済組合法についても同じことが言えますよ。いわゆる共済組合法による場合も、元軍人とかいうことで恩給法の適用を受けておる部分については、加藤紘一議員の主張によると、整理資源という形で、われわれの税金の中から毎年それだけ共済年金の支給金額の上に足されておるのではないか。だから、そうすれば厚生年金の中で元軍人の期間を通算するとしても、整理資源という形で、その負担分は国庫が負担をすれば、それで被保険者の掛金には何ら関係なく措置できるはずだと思うのです。これは制度上の問題だけであって、それは一面、私の言うことが公平に見えるけれども、大きな立場から見ると不公平だという大臣の御答弁ですけれども、そういう立場から見ると、公務員だけに、共済組合の組合員だけに在職年数を通算しておるということが不公平だということになりますけれども、私はそれはそれなりに正しいと思う。だから、それを三十何年間やってきたのですから、その上に立って、元軍人期間を厚生年金の被保険者にも全員通算をして、その在職期間の分については国庫で負担をしていくということにすれば、公平な政治になるんじゃなかろうか。不公平の差をできるだけ小さくする。完全に公正ということになると大臣のおっしゃる面はあるかもわかりませんけれども、その公正、不公正感というものをできるだけ小さなものにしていくことができるんじゃなかろうかと私は思うわけです。その点について大臣もう一度、御答弁願いたい。
  47. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 詳しい説明は後で年金局長からいたしますが、だから厚生年金国民年金は、やはり高齢者の、もう発足時、年齢に達したような人たちの過去の期間を生かす方法、高齢加入者の優遇措置というものを一方においてやっておるわけでございますから、いろいろな点を勘案してみますと、私は、どうも必ずしも不公平だというのは当たらないのじゃないかと思うのです。  なるべく縮めていけというのですが、そうすると軍人として特別権力関係のもとにあった人だけを、いま取り上げておられますけれども、準軍属等の立場を考えると、これはやっぱり……。しかし、それも全部というようなことになったら、これは大変なことになりますので、その辺をひとつ御理解をいただかなければいかぬのでございますが、官民格差問題というのは、そのほかにもまだございますので、その姿勢は将来正していきたいと私は考えております。ことし一年待っていただいて、来年には何とか年金の根本的な制度の改正というものもひとつ考えていきたいと思いますので、ひとつテークノートさしておいていただきまして、なおよく検討さしていただきますが、いまのところは、ひとつ御勘弁願いたいと思います。
  48. 藤井良二

    ○木暮政府委員 厚生年金昭和十七年にできたのでございますが、その当時は十人以上の男子の工場労働者を対象として出発したわけでございます。その後、女子を入れ、それから一般の事務系の職員にも拡大をし、さらに五人以上の事業所に拡大をするというような経過をたどってきたわけでございます。したがいまして、厚生年金で過去のことを考えてやれということになりますと、厚生年金の立場からいたしますと、昭和十七年当時男子の工場労働者だけであったわけでございますが、女子の労働者を拾うとか工場労働者じゃない職員を拾うということが先になるわけでございます。したがいまして、軍歴がある人だけにつきまして整理資源を入れて厚生年金につなぐということは、そこでいわば軍民格差みたいなものが非常に大きく出てくるわけでございまして、一般の社会保障制度という立場の厚生年金では、軍歴者だけを選んで取り上げるというふうにはいかないというふうに考えておる次第でございます。
  49. 川本敏美

    川本委員 いろいろ大臣からも年金局長からも御答弁いただきましたけれども、それは全く、あなたも国家公務員ですからね、そういうのを我田引水の論法というのです。そういうようなことがまかり通っている、これが日本の官僚政治の本体なんです。やっぱり全国民的な立場に立って考えたら、役人だけが通算できて役人以外の私企業に勤めておる者は通算できないで、それがあたりまえだと思っておる、その感覚が今日、日本の中にたくさんの不公平を生ずる原因をつくっておると私は思うわけです。だから、その点について年金局長は法制上の問題として、あるいは法制上の整合性とか、そういうような立場から議論をされますけれども、私はやっぱり、これは国民感情の立場から、国家公務員や共済組合で通算されておる人たちは、軍人というのも国家の公務で、その後も公務だから、それでいいんだというだけでは済まないと思うのです。命をかけて戦場で戦うたその戦友、一緒に鉄砲を持って、どろまみれになって戦うた。一人はその年金が通算をされて一人は全然通算されない。通算されないとしたら、その二十歳から二十五歳までの間の青春時代を戦場で過ごして、帰ってきてから私企業で勤めておる人は、その人の人生というものは、そこで三年なら三年間、これはなかったということになるのですか。空白ですか。それは空白じゃない。空白ということでやむを得ませんというのなら、これは仕方がないですけれども、その間死んでおったんじゃないのですからね。一生懸命国のために戦うておったんだ。間違うとったかわからぬけれども、その当時の政府の、醜の御楯としてという言葉に操られて、一銭五厘の召集令状一本で駆り出されて、命をかけて戦うた者が、その期間は全然認められない。空白だ、何にもない。こんなことが果たして正しいのだろうか。この点について局長もう一度、前向きの……。
  50. 藤井良二

    ○木暮政府委員 共済組合で恩給をつないでおりますのは、昭和三十四年に恩給制度を変えまして共済制度にいたしたわけでございますから当然、恩給期間をつなぐことになるわけでございます。それは軍歴者に限らず、文官関係の恩給資格者も引き継いだわけでございます。  一方、厚生年金でございますが、先生のおっしゃること、私も工場に動員されましたり、最後には兵隊に行きましたのでよくわかるわけでございますが、あの当時、戦場も銃後も同じだということで、現実にも国内で空襲で亡くなられた方も大ぜいいるということでございますから、厚生年金のように民間の保険という立場でございますと、軍歴のある方だけを拾って適用するということはできないわけでございます。厚生年金昭和十七年に適用になったわけでございますが、その前にさかのぼらせる、あるいは当時の適用範囲を広げるということであれば、やはり、さらに一般のサラリーマン、労働者と一緒に措置を講じなければならない、こういうふうに思っているわけでございます。で、軍歴のある人だけを拾うということは、一方ではまた、民間の工場で働いている方や銃後で働いておった方の大きな不満を引き起こすということではないかというふうに考えておるわけでございます。
  51. 川本敏美

    川本委員 ただいま局長は、昭和三十四年の法律改正によって、いわゆる軍人等の期間を現在の共済組合法で戦前の文官も含めて通算することにしたのだというお話です。厚生年金法も昭和五十三年に改正をして、そういうものも通算できるようにすればいいと思う。  私は前から、この問題について、まだ質問はいたしておりませんけれども、年金局の担当者の方々や課長とか課長補佐に来ていただいて、何度か私の議員会館で討論をいたしました。その都度、返ってくる答弁は、すべて旧軍人等については恩給法の所管でございますので、これは総理府恩給局の所管でございまして、私ども年金局には関係がございません、こういう言い方で、今日まで何度やっても同じことだった。私はきょうは、わざと恩給局は呼ばなかったわけです。というのは、これを恩給法の問題として片づけるのではおかしい、共済組合法と同じように厚生年金法の改正によって処置すべきではないか、私はこのように考えておるわけなんです。  いろいろ申し上げたいこともありますけれども、時間も参りましたので以上、私の意見を申し上げて、きょうの質問を終わりたいと思います。
  52. 木野晴夫

    木野委員長 この際、午後一時まで休憩いたします。    午前十一時四十三分休憩      ――――◇―――――    午後一時六分開議
  53. 木野晴夫

    木野委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  戦傷病者戦没者遺族等援護法等の一部を改正する法律案質疑を続行いたします。斉藤正男君。
  54. 斉藤正男

    斉藤(正)委員 委員長並びに同僚各位の御理解をいただいて、差しかえて参りました。  私は戦争の犠牲によって多くの方々が大変な御苦労をなさったことに対し、特に軍人軍属あるいは準軍属といったような方々に対する援護の手が、必ずしも十分でないにしても今日いろいろな立法措置がとられ手当てが行われている中で、問題になっております非戦闘員という言葉が的確であるかどうかわかりませんけれども、いわゆる一般戦災者に対する援護の手がきわめて不十分ではないかという認識に立って、数点をお尋ねいたしたいと思うわけであります。  その前に、戦後三十三年、佐藤総理大臣は、沖繩返還問題を論議する際、沖繩の復帰なくして日本の戦後は終わらないという有名な言葉を残しましたけれども、私は、沖繩が復帰した今日もなお戦後は終わっていないと思うわけであります。歯舞、色丹、国後、択捉を含めた千島列島の返還は、これまた国民的な熱望でもあり、あらゆる国際法規に照らしましても返還されて当然でありますから、このようなことも当然、戦後の処理として行われなければならない問題だというように思っておりますが、同時に、前段申し上げましたように、一般戦災者の援護が遅々として進んでいない現状もまた、戦後の処理が終わってない一つではなかろうかというように思うわけであります。  冒頭、大臣に御答弁をいただきたいわけでありますけれども、まさに戦後は終わっていない、まだ処理すべき事柄はあるという認識に立って、厚生行政を進めていただいているというように思いますけれども、日本の戦後は、政治的な処理として終わったのか、あるいは終わらないのかという点を、まず伺いたいと思います。
  55. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 おっしゃるように、私も戦後は終わったという感じを持たないんですよ。いま、おっしゃいました北方領土の問題もありますし、日ソ平和条約も締結されておりませんし、日中平和条約も締結されておりません。また、国内から見ますと、いま、おっしゃったような戦争による万般の犠牲者のたくさんおられる今日、大部分はだんだん、だんだん解決をしてきておりますけれども、まだまだ、そういう面からいいましても、気持ちの上では、政治家として戦後は終わったということを言う気持ちになれないというのが率直な考えです。
  56. 斉藤正男

    斉藤(正)委員 大臣の見解、私も正しいと思うし、そういうお気持ちで、この一般戦災者の扱い等につきましても熱意を持って対処をいただきたいというように思うわけであります。  三十三年たちましたので、軍人にいたしましても軍属にいたしましても、あるいは準軍属と申しますか、これらに類する、いわゆる国と雇用関係というと余りにも割り切った考え方でありますけれども、そうした関係にありて、援護の対象になっている方々の数は、戦後三十三年の時日的な経過によって減っているのではないか。ここに確たる資料を持っているわけではございませんけれども、一面、国会並びに政府の配慮によって範囲が拡大をされ、救済という言葉は適当でありませんけれども、対応の範囲も広がっておりますから、一体どういう推移になっておるのか。法律に基づく援護の対象になっている件数の増減は、いまがピークではない。ピークを過ぎて減少の傾向にあるのではないかというように思いますけれども、局長から概略のお答えをいただければと思います。
  57. 河野義男

    河野(義)政府委員 援護法におきます遺族年金あるいは遺族給与金、あるいは障害者に対する障害年金、そういった数の推移でございますが、これはもともと遺族年金にいたしましても、遺族の関係者は非常に老齢化が進んでおるわけでございまして、そういったことから年金受給者が死亡されますと、だんだん減る傾向をたどるわけでございますし、それは障害年金についても同様でございます。  また一方、法律改正によりまして、その範囲が拡大されて、新たに年金受給者等が発生するわけでございますが、今回御提案申し上げております満州開拓義勇軍の適用につきましても、昭和十二年の閣議決定以降のものにまで範囲を拡大いたしますと、それによりまして対象者がふえてまいるわけでございます。しかし、大勢といたしましては、年金受給者につきましては減る傾向でございます。  現在、援護法におきます遺族年金遺族給与金の受給者は、昭和四十年で見ますと二十一万七千人でございますが、それが五十一年十一月末現在で見ますと十四万五千件となっておりまして、これは、だんだん老齢化が進みまして失権されるということから出てくる必然の結果だろうと思います。
  58. 斉藤正男

    斉藤(正)委員 お答えにありましたように、いろいろな対象範囲の拡大に努力をされている中でも、対象者というのが四十年の二十一万から五十一年の十四万に減っている。これは時日の経過が何といっても圧倒的な理由であろうというように思うわけであります。しかし、給付の額は年々改正、向上をされていると思います。いまお話のありました四十年の対象者二十一万、五十一年の十四万というようなものに対比をして、金額ではどのような傾向にあるか、おわかりでございましょうか。傾向だけで結構でございます。
  59. 河野義男

    河野(義)政府委員 遺族年金あるいは障害年全等の改善につきましても、逐年、制度改正によりまして改善されてまいっておるわけでございます。今回御提案申し上げている遺族年金におきまして例をとりますと、現在、月六万円、六万円年金と称されておりますが、その六万円年金を今回七万円年金にしたい、月七万一千円の遺族年金改善したいというふうに考えております。改善の方法は段階的でございますけれども、二段階で、まず四月には公務員のベースアップ率に対応する分を改善いたしまして、それから六月から、さらにそれを上乗せまして七万一千円の年金にしたい、こういうふうに考えておるわけでございます。過去のことについては、また後であれいたしますが……。
  60. 斉藤正男

    斉藤(正)委員 金額は、予算規模あるいは貨幣価値等いろいろありますから、ふえていることは当然であるし、また、ふやさなければならないというように思うわけでありますけれども、いずれにしても対象者が三十三年の経過によって減少の方向に行っていることは間違いない。一方、国と雇用関係といいますか、指揮命令系統の関係になかった、いわゆる一般戦災者に対する対策といったようなものも、今日の段階では、もう一遍検討をしなければならないときに来ているのではないかというように私は思うわけであります。  しかし、残念なことに、いろいろ資料を拝見をいたしましても、戦災都市で戦災によって亡くなった方あるいは戦災によって負傷された方等々の的確な人数の把握ができていないというように聞いているわけであります。総理府からも御出席をいただいておりますけれども、一体これらの方々の人数の把握はどのようにされているのか、おわかりであったなら教えていただきたいと思います。
  61. 河野義男

    河野(義)政府委員 一般戦災者の把握ということは非常にむずかしいわけでございまして、御承知のように戦災でそういった資料がなくなっているということ、それから戦後三十余年たちまして関係者の記憶も薄れる、そういったことから、現時点における、そういう一般戦災者の数を把握することはむずかしいと思いますが、私どもが承知しております数字は、昭和二十四年に経済安定本部がまとめました調査結果によりますと、死亡者が二十九万九千五百人、行方不明の方が二万四千人、それから負傷者が三十四万五千人、こういうふうな調査結果が出ております。また全国の戦災都市連盟調べによりますと、戦災による死亡者は約五十万九千五百人、こうなっております。また厚生省昭和四十九年に行いました厚生行政基礎調査によりますると、昭和四十九年六月一日現在で戦災による障害者の数は約三万五千人、こういうふうに把握いたしております。
  62. 斉藤正男

    斉藤(正)委員 これはいろいろな調査があるようでございまして、お話のありましたように経済安定本部が昭和二十四年七月に調査をされた結果、厚生省が調査をされた結果、さらにお話のありましたような戦災都市連盟が調べた結果、いろいろございますが数字が違うわけであります。これは数字が違ってあたりまえだとも思うわけでありますけれども、問題は、これらの数字の把握が非常に困難だということだと思うわけであります。たとえば経済安定本部が行った調査で戦災死没者が二十九万九千余人、負傷者が三十四万五千というような形になっているにもかかわらず、戦災都市連盟の調査によりますと戦災死没者は五十万を超しているというようなことにもなっているわけであります。厚生省の四十九年調査による戦災による負傷者の三万五千という数字と経済安定本部が調査をした当時の三十四万五千というのも、これまた十倍というようなことですから、容易ではないというように思いますが、これらの調査はこのままでいいのかどうなのか。何かこの際もう一遍、画期的な一般戦災者の死亡者あるいは負傷者の調査をやる意思があるのかないのか。あるいは四十九年の厚生省が行った調査が基本的な数字として国が責任を持って把握している数と見ていいのか。この辺の見解はいかがですか。
  63. 河野義男

    河野(義)政府委員 厚生省昭和四十九年に実施いたしました厚生行政基礎調査におきまして把握、推計しました三万五千人の戦災障害者の数は、その昭和四十九年六月一日現在における現存者を押さえておるわけでございます。したがいまして、二十四年の経済安定本部の数字とは、その後死亡された方もありますので、数字が相当開くのはまた事実でございます。そのほかのいわゆる戦災によりまして死亡された方の数字につきましては総理府で調査をなされておりますので、その方でお願いします。
  64. 藤井良二

    ○藤井(良)政府委員 私どもの方で現在、本年度の予算ないし来年度の予算で調査しようとしておりますことは戦災の史実の調査でございます。全国各地が空襲や艦砲射撃によるなど戦災を受けてから、すでに三十余年を経過しているわけでございますけれども、一部を除いては、ほとんどその記録というのが整理されておりません。これを戦後三十年を一区切りといたしまして、こういうような資料を収集し、戦災の惨禍を後世に伝え、戦災犠牲者の慰霊に資するということを目的としておりますので、必ずしも私どもの資料で正確な数字が上がってくるかどうかはわかりません。
  65. 斉藤正男

    斉藤(正)委員 戦災による負傷者は、厚生行政の一環として四十九年に厚生省でお調べになった結果が出ている。しかし、戦災による死亡者は総理府で、いま関係団体にお願いをして調査をしているということのようでございますけれども、なぜ、そういうことをされるのか。厚生省が四十九年、厚生行政の一環として調査をされた中にも戦災による死亡者の数というのは調査をされたのではないかと思うのですが、そのときには、おやりになっていないのでございますか。
  66. 河野義男

    河野(義)政府委員 厚生行政基礎調査におきまして戦災による障害者を把握いたしましたねらいは、一般の身体障害者と、それから戦災による障害者との比較におきまして、どういう違いがあるかということを考えまして、そういう調査を実施いたしたものでございまして、戦争による死没者についての調査は厚生行政基礎調査自身の中に入っておりません。
  67. 斉藤正男

    斉藤(正)委員 大変、役人的な答弁でありますけれども、戦争による戦没者の調査というのは厚生行政ではない。どこにも属さないから便宜上、総理府にお願いしているのだということでございましょうか。いかがですか。
  68. 河野義男

    河野(義)政府委員 厚生行政基礎調査と申しますのは、この調査の名称のとおり厚生行政を実施する上におきまして必要な基礎的な資料を得るわけでございます。その中で一般の身体障害者とそれから戦災による身体障害者を比較して、どういう状況にあるかということを見たわけでございまして、もともと、そういう死没した人を調査するために企画されたものではございませんので、そういった意味で申し上げたわけでございます。
  69. 斉藤正男

    斉藤(正)委員 総理府に伺いますけれども、関係団体にお願いをして予算もつけて調査をいただいているということでございますけれども、いつごろ、その実態は明らかになるのでありましょうか。
  70. 藤井良二

    ○藤井(良)政府委員 一応今年度調査いたしまして、まだ全部終わっておりませんので、来年度いっぱいかかって調査する予定でございます。ただ、これは先ほど申し上げましたように史実の調査でございまして、死没者の数そのものが、そう明確に出てくるというふうには考えておりません。
  71. 斉藤正男

    斉藤(正)委員 史実の調査のようでございますが、その際やはり数字の上で一般戦災死亡者の数も出てくると見て差し支えありませんか。
  72. 藤井良二

    ○藤井(良)政府委員 もちろん、ある程度は出てくると思います。ただ全国、大きく空襲をやられたところなどは、それぞれのところで調べていただきますけれども、必ずしも悉皆調査みたいな形で調査するわけではございませんので、それほど正確な数字が出てくるかどうかは疑問でございます。
  73. 斉藤正男

    斉藤(正)委員 いずれにいたしましても、厚生省の調査によります戦争による障害者の数あるいは総理府が行っております戦争による一般戦没者の数等々、ここ一、二年のうちにはある程度明らかになってくるということでございます。しかし、今日なお一般戦没者並びに一般戦傷者に対しましては、援護の手が差し伸べられていないというのが実態であろうというように思うわけです。  過去における国会のいろいろな質疑討論の中で明らかにされていることは、まず第一に、その実態がきわめて不明確だ、把握をしにくいということが一つ。もう一つは、果たして援護の対象にしていいのかどうかというようなことが論議されてきたようであります。もし仮に、数の上で実態が把握されたといたしますれば、これはちゅちょすることなく、たとえば一般障害者とは別に、これは戦争による障害ですから、あるいは空襲によるものもありましょうし、あるいは艦砲射撃によるものもありましょう。いずれにいたしましても戦争による障害であり死亡だということになりますれば、何らかの援護の対象にしてしかるべきだというふうに私は思うわけであります。  いろいろの関係があることは承知をいたしておりますけれども、遺族の気持ち、あるいは負傷された御本人の気持ちに立ったときに、このまま放置していいという問題ではない。国家総動員法のもと国民皆兵という精神的な気持ち、あるいは実態的な生活様式等々からいたしましても、これはほっておけない問題だというように私は思うわけでありますが、大臣、先ほど戦後の処理の問題はいろいろ残っている、これからも十分配慮しなければならないというお話でございましたけれども、いま私が申し上げている一般戦災による死亡者並びに負傷者に対して、どのようにお考えになっておられますか。見解を伺いたいと思います。
  74. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 先生御承知のようにドイツとかイタリーは、戦災による死亡者、負傷者に援護措置をとっておるわけですね。日本ではそれはとっていなかったわけでございます。それで直接、軍との関係の戦闘ないしは戦地という概念でとらえまして、それで恩給法なり、あるいは援護法なりで、その対象にしている、そういうことでございます。実は、いろいろな政策のとり方、議論はあるだろうと思うのですが、そのかわり日本は一般の社会保障の系列の中で、それを同じように考えていくということで、やってなかったわけでございますが、私は、たとえば銃後であっても兵営の中におっても、銃後にあっても近代戦は一つの補給戦ですから、しかも国民挙げて戦いに加わったと同じ意味なんで、そういう面から言えば、おっしゃることは私もよく理解できるのです。  ただ今日現在で、すでに戦後三十年もたち、そうして生活も経済力の回復とともに非常によくなり、一般の社会保障も非常に前進してきた今日、改めて取り上げるということについて、一体どういう考え方でいくべきなのか。私のように、総力戦なのだから、家庭にあって一般の民家におる人も、すべてが国力の培養のためにやっておるので、その銃後があってこそ戦争ができたんだという考えに立てば、全部同列に扱えという思想も出てきますけれども、今日の厚生省の考え、というよりも国全体の考え方が、どこかで割り切って、みんなの税金でやるんだから、どこかで線を引こうということで考えられておるものですから、お話の気持ちもよくわかるし、これは亡くなった方もさることながら、非常に大きな身体障害を受けた方もいらっしゃるので、そういう方々が、公務に起因する非常に軽度な戦傷の方と、われわれがどうして差別がつくんだ、こういうことを言われますと、私どもも本当に気持ちとしてはもっともだな、こう思わざるを得ないわけでございますが、制度の立て方が、戦後三十年そういうことで来ましたので、しかも今度、今日から振り返ってみますと先生のような議論もあって、戦後は終わらぬのだから、これをやれとおっしゃいますけれども、もう三十年たって生活もよくなり、社会保障も進んできた今日、そちらの社会制度の面で、一般の福祉政策の面で解決をしていくべき問題だから、改めてここで、公務というもので戦後引っぱった線を、いまさら崩す必要はないのじゃないかという意見で、いままでは一貫して来ておるわけです。検討を要する問題ではあると思いますけれども、いま私はここで大野伴睦さんのあれを前にして、でんとあの人の調子のように腹をたたくような勇気は、どうもなかなか出てこない。いろいろ検討さしていただきます。  それから、調査は確かにやっておいた方がよかったのではないかと思うのですが、こういう調査をやりますのは、恐らく調査をやった目的というものがあるわけですね。戦災による死亡者の調査をやる、それならどういう目的でやるんだ。その援護のためならわかりますけれども、何の目的もないのに調査をやるというわけにもいかないんですね。ところが、それじゃ目的を持ってやるかというと、その方針を決めてからでなければ本当の調査はできませんから、実際のところ厚生行政基礎調査でも結局、身体障害者の分類をするための調査というような形が出てきて、したがって戦争犠牲者から見ますと、まだ不十分な調査になる。ですから今度の総理府でやっていただくこれは、日本戦災遺族会に委託してやるわけですから、史実の調査ではあるが、同時に、やはり正確に実体をつかむような内容にしてもらうように私もお願いをしたいと思うのです。いま改めて厚生省が調査しますというと目的を持って調査しなければならぬ。それは目的の政策が決まらぬうちには、なかなかできないということでございますので、総理府の方で何とか、できるだけ正確につかんでほしいなと思います。それを見た上で、いろいろ、いままでの方針を変えるか変えないかは検討させていただきます。
  75. 斉藤正男

    斉藤(正)委員 大臣も、この席に立てば私のような気持ちで質問をすると思うのですよ。歯切れの悪い御答弁――まあきわめて明快な御答弁だと思いますけれども、気持ちの上では、ずいぶんお迷いになって答弁をされているというように思うわけです。  そこで、たとえば徳島県徳島市は、戦災による死亡者に、一時金ではありますけれども、ある程度の金額を給付したという実体もあるわけであります。これは法律に基づくものではございませんので、徳島市が特殊な措置をとったのだというように言われるかもしれません。また総理府の資料を拝見いたしますと、沖繩開発庁の予算の中に対馬丸遭難学童遺族特別支出金支給事務委託費というのがございます。この対馬丸遭難学童というのは沖繩の戦火を予想して沖繩から本土のしかるべきところへ学童を疎開するという措置をとり、対馬丸がその任に当たり、途中で爆沈されて、ほとんど犠牲になったということだと思うのですよ。この対馬丸遭難学童の遺族に対して特別支出金を支給されるということは私は結構なことだと思うわけです。しかし、これは法律に基づく措置ではないと思うのでありまして、なぜ、この対馬丸遭難学童の遺族にこうした措置をおとりになったのか。この措置を悪いと言うのじゃないのです。結構なことなんです。こういうこともあるのですから、解釈なりあるいは厚生行政の一環とじての配慮というようなものは幅を広げてしかるべきものだというように思うわけですけれども、大臣に総理府所管のことを聞いてもどうかと思うのですが、大臣は一体この措置をどのようにお考えになっていますか。
  76. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 対馬丸の遭難学童の遺族に対して、実は私ども、特に社労の皆さん方の御意見が非常に強かったものですから、これは沖繩における戦闘に参加した学童には準軍属としての処遇をいたしておりましたのに、そういう点を考慮しまして、対馬丸の遭難の時点に乗っておられた学童も準軍属としてやはり処遇すべきじゃないかというようなことから、こういうことを社会労働委員会の皆さんが、何とかそういう面から取り上げて、これだけは解決しろという強い要望がありましたので、今年、五十二年度から実施をされたわけでございまして、したがって、それじゃ他の引き揚げ船の方も一緒に同じようなことをすべきじゃないかという意見も、進んでまた出てくるわけでございますが、やはり沖繩の学童という同じ取り扱いというような線で一応引っ張ったわけでございます。これは長い間の懸案だったものですから、いわば善政だったのじゃないかなと私は思うわけでございます。
  77. 斉藤正男

    斉藤(正)委員 おっしゃるように大変結構なことだと思うのです。ただ、この対馬丸の件について、社会労働委員会の超党派の長い間の熱望でもあったということで、五十二年度から予算化したということでありますが、そうすると戦災による一般死亡者、さらに戦災による障害者、これは社会労働委員会における超党派、全部の委員の熱望でないということになるのでしょうか。もし社全労働委員会が全員挙げて口を酸っぱくお願いをすれば実現できるというようなことにもなる。言葉じりをとらえるようで大変申しわけないのですけれども、そういうような考え方も生まれてくるわけでございまして、私は、戦後は終わっていないという解釈の中から、この対馬丸に乗っていた学童の遺族に対して弔慰の制度が設けられたこと等々も考えて、やはり一般戦災死亡者なり、あるいは負傷者に対する援護の手も順次伸べていくような方向で御検討をいただくのが善政であり、政治であり、戦後の措置の一つであろうというように思えてならないわけでありますけれども、大臣の所見をもう一度伺いたい。
  78. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 戦争の関係で起こったもろもろの悲劇というものを、あるいはまた人命あるいは身体的、財産的な損害について、いろいろな対策をとっていかなければいかぬことは、戦争を過去に経験した国あるいは政治といたしますと、考えていかなければいかぬだろうと思うのです。ただ、その場合に、どうしてもやはり一定の制約が出てきて、どこかで限界といいますか線を引かなければいかぬというようなことから、そうした総力戦の場合には広がりというものを考えますから、どうしても国民の税金を使う場合に、どこかで線を引かなければいかぬということで、今日の段階で、いま斉藤先生から、おまえ、一般の戦災者、負傷した方あるいは亡くなられた方に対して何かやるべきじゃないか、こう言われて、いま今日現在で私が、それはもうもっともです。やりましょうということには、どうもまだ残念ながら、そこまでのお答えはできないわけでございまして、何らかのその前に、いろいろな解決をしなければいかぬ問題がまだございます。率直に言いまして同じ戦闘に参加した人でも、まだ処遇をされていない方々もいらっしゃいますので、逐次やはり考えていかなければいかぬということから考えますと、もうちょっと先の問題として、ひとつ御論議をいただきたいと言わざるを得ないわけでございますので、御了承いただきたいと思うわけであります。
  79. 斉藤正男

    斉藤(正)委員 際限がない、どこかで線を引かなければならない。それはもう政治の常道でございますが、際限はあるのですよ。先ほどお話のありました厚生行政基礎調査による戦争による負傷者は三万五千人だ。それから死亡者だって大体三十万人台だろうというような統計も出ているわけなんですね。したがって私は、一線を引くならば、ここで一線を引いても、それは国民のコンセンサスを得られない問題ではない。ぜひひとつ今後の配慮によって、こうした方々に対する援護の手を広げていただきたいというように思うわけでございます。と申しますのは同じ障害者にしても、戦争による障害という歴然たる事実があるわけです。同じ死亡者にいたしましても、空襲なり艦砲射撃による、戦争による犠牲という大義名分があるわけですから、これに配慮をして、悪政だというようなそしりを受ける心配は毛頭ないというように思うわけでございます。大臣のおっしゃること、わからないわけでもありませんけれども、もう一度これらの配慮についてお答えをいただいて、私の質問を終わりたいと思います。
  80. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 ひとつまた社会労働委員会の皆さん方とも相談しながら逐次、援護対策というものは進めていかなければいかぬと思います。ただ、厚生行政基礎調査で障害者という観点から、障害者一般と、それからやけど等の障害による方々と、それから国内空襲による障害者等の方々の、たとえば病気があった場合に入院だ、通院をやっている方々、あるいは病気がない方々、あるいは、その他のいろいろな調査をしてみた結果では、どうも特別そういうような援護を必要とするという実体的なものが統計上、基礎調査では出なかったのですね。それで厚生省としては、これは特に取り上げてというより、一般の社会保障、福祉政策の観点からやるべきだなという結論に、そのときはなったようでございます。  いま先生のそういうようなお話でございますし、この問題は前からあることを私も知っておりますし、特に障害者の方々は非常に強い要望をしておられます。また一方においては、ただ空襲だけでなくて、一般の空襲で焼夷弾が落ちた。それについてうまく処理した方と、そうでない方、あるいはやむを得ず負傷した方と、艦砲射撃でまさに戦闘行為がどんどん行われて亡くなった方とは、やはり軽重もつけるべきではないかという議論もあるだろうと思うのです。したがって、どこからどういうふうにやっていくかという問題もございますし、それらはもう少しよく検討させていただきたいと思うのです。
  81. 斉藤正男

    斉藤(正)委員 終わります。
  82. 木野晴夫

    木野委員長 次に、金子みつ君。
  83. 金子みつ

    金子(み)委員 私は、戦争に絡んで、戦争がありましたからこそ存在する従軍看護婦さんの問題につきまして、いままでも、ここ二、三年来たびたび、いろいろな委員会あるいは予算の分科会等で討議があったことでございますけれども、何遍やっても一向らちが明かないという感じが強くいたします。それで、きょうは改めてまた、この問題を提起して、そして厚生省と総理府の御見解を承りたい、こういうふうに思って質問させていただくわけです。  前回の戦争のときに従軍看護婦と呼ばれておられる方たちは、いわゆる旧陸海軍看護婦のほかに赤十字の救護看護婦の人たちもあるわけです。そして御承知だと思いますけれども、この人たちは日華事変以来、軍の命令に基づいて戦時衛生勤務というのを命じられたわけです。しかも、そのときにはこの赤紙です。兵士と一つも違いません。全く同じ赤紙による戦時召集状なんです。  これは昭和十二年九月一日救護看護婦山崎近衛さんに出されたもので「特別救護班要員トシテ召集ス依テ九月弐日午後拾時高知縣高知市西弘小路日本赤十字社高知支部ニ參著シ此ノ召集状ヲ以テ届出ラルヘシ 日本赤十字社高知支部」と書いてあります。これが出されております。  あるいはまた、陸軍大臣東篠英機の名前によりまして陸軍省から出た「救護班派遣ノ件達」と書いてありますが、これは昭和十七年一月十四日です。「日本赤十字社社長公爵徳川圀順殿」となっておりまして「南方軍及臺灣軍ニ於ケル衛生勤務幇助ノ爲別紙要領ニ依リ其社ヨリ救護班ヲ派遣スヘシ」これは陸軍大臣から赤十字社の社長に命令が出ています。そこで赤十字社が看護婦を召集するわけです。いまのは南方軍及び台湾軍、これはまさしく外地の戦地です。同じようなものは内地の「病院ニ派遣スヘシ」という命令も出ております。  いずれにいたしましても、このような形で、兵が赤紙による召集令状を受けて、そして戦地に、あるいは内地におけるそれぞれの部署に派遣されたのと全く同じ形で派遣された人たちなのです。数の上から言えば、赤十字の看護婦さんたちは延べ三万五千七百人。何遍も行った人もあるのです。召集令状を二度も三度も受けた人があるのです。たった一遍だけじゃないのです。それですから実数といたしましては二万六千五百人ぐらいになります。この赤紙召集令状というのは、申し上げるまでもありませんけれども待ったなしですし、それから拒否することは絶対できない。国の絶対命令ですね。ですから看護婦さんたちは病院で働いている単身の看護婦さんとは限らないわけです。もう第一線を退いて家庭に入って母親として、あるいは主婦として過ごしていた人たちもたくさんあるわけですね。そういう人たちにも召集令状は来たわけです。ですから子供があっても、乳飲み子を抱えて授乳中の若いお母さんですら、子供をほうり出して行かなければいけなかった、そういう実態があったことは御承知だと思うのです。  そういう人たちが戦地で、任期は二年となっているのです。原則は二年です。しかし二年で帰ってきた人というのは少ないわけです。二年でしたけれども大方の人たちは、それ以上五年も六年も、あるいは七年も八年も、一番長い人は十四年五カ月、長い期間です。戦争が終わってからでも内地へ帰ることができない。一般の人は帰っちゃったのです。一般の人は引き揚げましたけれども、看護婦さんたちは看護の技術を持っているという特殊技能者であるということがゆえに残されちゃったのです。抑留されたのです。そして七年も八年も外地で働かされて帰ってきたという人たちがたくさんいらっしゃるわけですね。  ところが、この方たちに対して国は何を処遇しているかという問題なのです。前々からお話が出ておりますように、戦争によって召集された全くの公務ですから、この人たちはどうやって遇するかということになれば、いままでのほかの人たちの例を見れば恩給法で遇されているわけですね。兵士の場合は、まあ軍人さんたちもそうですけれども、恩給法の適用をもちろん受けるほかに、戦時加算というのもされているわけですね。ちゃんと優遇された待遇をされております。しかし、同じ形で召集された看護婦さんたちが何もされてないというのはどういうことか。もちろん婦長さんたちは、任官している人――陸海軍の人たちは任官者がいたと思います。赤十字の人たちは任官ということはありませんね。しかし任官者と同等の扱いをして、看護婦長は恩給法の適用を受けることができました。これは当然だと思うのです。しかし婦長でなかった、いわゆるスタッフの看護婦ですね、平の看護婦と申しますか、その看護婦の人たちは何の恩恵もないのです。先ほど大臣は斉藤議員の質問にお答えになって、現在はいろいろな社会保障が発展してきているから一般の社会保障でというふうにおっしゃっていらっしゃいましたけれども、この方たちは召集されたときは二十代の若々しい人たちだったと思いますが、今日ではもう平均年齢五十五歳以上です。人によっては七十歳超えていらっしゃる方もあるので、先はそう待てないわけですね、いつまで待て、いつまで待てと言われても。それで、この何の国家的補償がないまま今日まで放置されていらっしゃる方たちに対して、国は、どうしてあげようと考えておられるのかということがポイントなわけでございます。  昭和五十三年二月十六日の日付で、この看護婦さんたちが組織をつくりました。恩給請願の会というのをつくったわけです。そして、恩給法を適用させてもらいたいという切なる願いを何回も何回もお願いしているはずでございます。もう細かく申し上げなくても御存じだと思いますけれども「公務員歴のない者は全く法の恩恵を受ける事なく除外されており、未だ問題解決の立法化はされるに至っておりません。皆五十五才をこえる年となり不安のため今日各地より再度請願のため上京して参りました。」というのを提出しているわけでございます。  さらに日本赤十字社からは、五十三年三月六日、厚生大臣あてと総理府総務長官あてに「戦時衛生勤務に服した元日赤救護員に対する国家的優遇措置の実現について(要望)」というのが出されておりますのは厚生大臣ごらんになりましたでしょうか。御存じでいらっしゃいますか。これは皆さんにもわかっていただきたいから読みたいと思います。一部読ませていただきますが「かつて戦時下の国家的要請に基づき、二万数千人にのぼる救護員を召集、派遣した」これは正確には日赤の調べですと二万四千九百六十四名となっておりますが赤紙による召集です。そして戦地へ派遣しております。戦地へ一万三千百三十九人派遣いたしております。そのように「派遣した日本赤十字社といたしましては、このような関係方面のご高配、ご尽力に対し深く感謝申し上げておりますが、それにつけても、この際あらためて往時の日赤救護員が残した偉大な功績を忍び、かつ多年にわたる数々の辛苦に思いをいたし、今日なおその労に報いるところの余りに少ないことを痛感しているものでございます。ついては、特別のご詮議によりまして、戦時衛生勤務に服した元日赤救護員に対する国家的優遇措置が一日も早く実現されますよう、格段のご配慮を賜わりたく重ねてお願い申し上げます。」。何遍も出ているわけです。「重ねてお願い」でございます。こういうものが出ておるわけでございます。が、これをお聞きになりまして、厚生大臣そして総理府にもお尋ねしたいのですが、どういうふうにお感じになりますか。いま率直に、その心境をお聞かせいただきたい。
  84. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 日赤の社長からも、この三月六日の書面をいただきました。その前にも何回か実は日本赤十字社社長から恩給局長なり援護局長なりに、たくさんいただいております。私は非常に同情的なんです。     〔委員長退席、越智(伊)委員長代理着席〕 先ほど私、斉藤先生に申し上げたように、同じ戦地において戦闘に参加した人で、まだ処遇を受けていない方々をまずやって、それから一般戦災者の問題に移りたいと申し上げたのも、そういうのが念頭にあったからでございます。ただ問題は、いま金子先生その赤紙をお示しになりました。これは日赤部内における赤紙なんですが、その背後には国家権力があるわけですね。ところが戦地に勤務した準軍属なり軍属なり何百万という人は、それと同じように、むしろ逆に、国家権力が直接命じたという方々もまだいっぱいいるわけですね。したがって恩給局の問題なんですが、総理府でいま、いろいろ検討しているのは、そういう広がりがどこまでいくかということになると、なかなか容易でないということで、その均衡論から、なかなかめんどうだな、こういう態度でおるわけですよ。  しかし私は率直に言いまして、本当に戦闘部隊と一緒になって看護婦さんが移動し、勤めていったのですから、だから、この社会労働委員会で与野党の先生方御相談願って、ひとつどうでしょうか。そういう国の立場も頭の中に置いていただいて、もっと厳密にひとつ、この範囲だけでもというような何かお考えを、なるべくまとめていただいて、それから一歩一歩いくような考え方でやっていただくと、私それを持って今度、政府部内で一生懸命にまた努力をする。そういうような方向でもとっていただかないと、どうも私、政府の立場として、そういう広がり等を考えますから、しかも国家権力で直接行った軍属や準軍属の方も、とにかく何百万とおられるわけでございますので、いま従軍看護婦さんだけを、すぐここでどうということは、何かもう少し整理をした上で、本当にここだけということで考えていかないと、現実問題として予算との関係もあり、いろいろあるものですから、その辺の考え方をひとつ与野党で御相談願って、われわれも一緒になっていくような方法はないものかなという感じがいたします。
  85. 金子みつ

    金子(み)委員 いまの大臣の御答弁ですと、いつも同じような答弁がどの場合にでも出てくるんですね。何かのものを一つ取り上げると、いやそれだけじゃない、こういうのもある、こういうのもある。だからそういうものを一緒にやらなければ、それは決まらないとか、それをやるためには特別に何か考えてもらいたいとか、いつも同じような御答弁。小沢厚生大臣からは私はいま初めてお聞きしたのですが、過去の大臣たちが皆そのようにおっしゃるわけなんです。ということは結局何もできないということになりますし、どれもやる気がないということにしかならないんじゃないでしょうか。そして、げたを預けたというかっこうになるみたい。しかし、いまのは、げたを預けられたかっこうに聞き取れるのですけれども、そうだったらば与野党集まって理事会で決めてということだって考えられると思いますから、これは理事の先生方に御相談することといたしますけれども、そういう姿勢は私はやはりその当該者にとってみれば非常に痛恨だと思いますね。  これは役所の立場とすると、看護婦さんだけのことを考えていられないのだというふうに聞こえてしまいます。それはほかにもいろいろあったと思いますけれども、私が非常に問題だと思いますのは、あとの方たちは男性ですよ、みんな男子です。ここに男女の格差があるとか差別があるとかいうことは、もちろん言いたくありませんし、そんなことはないんだと思っていますけれども、しかし戦争が終わって引き揚げてこられた時点では、女の人の就職の場所なんてないですよね。男子は何とか就職の場所はあったかもしれませんが、あの時代に、なかなか女の人にはなかったということもあります。というようなことで、全く同じだというふうに考えることは無理なんじゃないでしょうか。しかし、この議論ばかりやっていますと時間がかかりますので、その考え方は私たちはいただけませんということで預からせていただいて、話を先に持っていかなければならないというふうに思うわけでございます。  厚生大臣はそのようにおっしゃいましたけれども、いままでの国会における何回かございます質疑応答の中で具体的になりましたのは、五十年から五十一年、五十二年とずっと続いておりますが、五十年のときに十一月六日参議院内閣委員会、十二月十八日衆議院の内閣委員会、どちらも内閣委員会ですが、恩給法の一部改正がありました。そのときに、この問題につきましては附帯決議がついているのです。「戦地勤務に服した日本赤十字社の救護看護婦の処遇については、旧軍人、軍属に比して不利となっているものがあるので、その救済措置を図るよう検討すること。」という附帯決議がついております。これがついたのが五十年ですよ。いまは五十三年に入ったところですから、少なくともまる二年半近く時がたっているのですが、その間に何が検討され、何が努力され、どのようなことになったのかということ、これは恩給法の関係でございますので、総理府からお答えいただきたいと思います。
  86. 手塚康夫

    ○手塚説明員 先生御承知のとおり私ども、いま研究中で、御指摘の点は先ほど厚生大臣からお話しいただきましたが、実は先生御指摘のとおり五十年、私いまのポストにつきましてすぐ、この問題が起きました。国会で附帯決議もつけられまして検討を進めたわけですが、当初われわれが検討しておりましたのは、御要望が恩給法を適用していただきたい。これは心情的に本当によくわかる点がございますが、ただ制度を預かる者といたしましては、そこになかなかむずかしい問題があるわけなんです。たとえば身分的に違う方、恩給法の適用をされてない方、しかし仕事を全く同じにしている方といたしましては、たとえば昔であれば雇用人ということで、机を並べて仕事をしていても身分が違うということで、いまだに恩給法の適用はされておりません。やはり、そういった方のことも考えなければいけないということで、いろいろ研究を進めたわけでございますが、恩給制度をそのまま適用する、すなわち振り返って、この人たちをたとえば公務員としてみなしてしまうといったような方法は、一つの制度としてはなかなかとれないという大きな壁にぶち当たっているわけでございます。  そういった研究に数年かかってきているわけでございますが、ただ最近は、やはりそれだけではだめだということで、もう少し広い観点から検討し、解決策を求めたいという立場で研究を進めているわけでございます。
  87. 金子みつ

    金子(み)委員 検討を何回続けても、なかなからちが明かないのはその辺にあるわけですね。その後ずっと、この問題については国会の中で論議が進められておりますが、五十二年四月十二日の衆議院内閣委員会で前総務長官、藤田総務長官が、恩給法の内部でするか別の措置をとるか、できるだけ早く、二年、三年と言わず、できるだけ早く何らかの措置をとりたい、こういうふうに答弁していらっしゃる。それから、ことしに入ってからも今度は稻村長官になりますが、稻村長官が、各機関に連絡をとり合い、何らかの形で問題を詰めていきたい、一つずつ詰めていきたい、このようにおっしゃっていらっしゃる。そうすると何らかの形とか、何らかの措置とかという言葉があちこちに使われているのですね。これは、恩給法は絶対だめだから何らかの形、別の形でという意味なのかどうか、それが一つ。いま一つは各機関と連絡をとり合ってというふうにおっしゃっていらっしゃいますが、各関係機関に連絡をとり合ってなさったのかどうか。それを聞かしていただきたい。
  88. 手塚康夫

    ○手塚説明員 私ども本当に五十二年度に、実は五十年度から調査費がついておるのですが、(金子(み)委員「時間がございますので簡単にお答えください」と呼ぶ)私ども研究で、恩給制度をそのまま適用するということについては、やはりかなりむずかしい壁があるということは認識いたしております。その辺も踏まえられまして、現在の総務長官、前の総務長官もやはり、しかし心情的には御同情され、さらに何かの方法はないかということで、そういう御発言になったわけでございます。それを受けまして、やはり恩給局でやっている限りでは恩給制度の範囲内だけの検討になってしまうのではないかということで、最近では総理府の内部でも全体として受けとめる検討を行うようになっております。必要に応じ関係省庁にも御協力をいただくようにしております。
  89. 金子みつ

    金子(み)委員 もう一つ落ちていますね。関係機関と連絡をして何かなさいましたかというのは、どうなりましたか。
  90. 手塚康夫

    ○手塚説明員 恩給制度を超えての方策を探すとなりますと、先ほど厚生大臣のお話に出ましたように、たとえばほかの軍属の方、そういった方とどういう関係にあったのか、日赤の救護員という方にどういった特殊性があり得るのか、そういった点まず資料的にも整備しなければいけません。そういう意味で関係省庁にも御協力いただいて資料等提出していただいたり、打合会を開いたりしてやっております。
  91. 金子みつ

    金子(み)委員 その問題に関して厚生大臣は前回こういうふうに答弁していらっしゃいますね。問題は恩給局の系統の問題だから、恩給局の方で方針が決まれば厚生省としては協力はできるだけする、協力を惜しまない、こういうふうな御答弁をなさっていらっしゃるわけでございますが、私は、それはそうに違いないと思うのです。それは当然のことだと思うのです。そうでなくて、もっと積極的に、この問題に取り組む姿勢を示していただきたかったと私は思うわけでございます。それは看護婦さんだけではないからと、またおっしゃるかもしれませんけれども、しかし、この人たちが戦地で何をやっていたかというのを御存じなんでしょうか。どんな仕事をしていたかということを御存じでいらっしゃいますでしょうか。  このことは日本赤十字社が細かく報告書を持っております。これは戦地に行った人たちは義務になっていたようでございますが、毎月ちゃんと報告書を出しているんです。細かい報告書が出ております。これは婦長さんの手で書かれている。これは特別な便でこっちへ届いているんだと思いますが、こういうものはきれいに整理されて保存されていますから、厚生省にお願いがあるのですが、それを日赤からお取り寄せになって、ごらんになっていただいて、どんな仕事を、どんな業務をさせられていたかということをぴちっと見きわめていただきたいのです。病院の看護婦さんがふだん仕事をしているような仕事かどうか、それを見ていただきたい。そしてその調査をなさって、その結果を恩給局に見せてあげてほしいのです。こういうことなんだよということを。  恩給局の方たちが、恩給法を適用するとかしないとかということをいろいろおっしゃいますけれども、私は考え方だと思うのです。法律の解釈の仕方はいろいろあるんですね。それですから、これは恩給法を適用させよう、あるいは準公務員として扱ったらいいじゃないかというふうなことを考えるか考えないかというのは、その所管をなさる方々の気持ちで変わってくると思うのです。気持ちで決まると思うのです。法律は人間がつくっているのですから絶対なものじゃないのです。ですから、それを私はお願いしたい。しかし、恩給局の人たちがそれを考えつくのに参考資料がないと思います。何となく看護婦さんだから病人の世話をしたんだろう、けが人の世話をしたんだろうぐらい思っていらっしゃるかもしれませんけれども、それももちろん仕事ですからやっていますが、それ以外にもさせられる仕事があるわけです。ですから、そういうものを全部お調べになって、恩給局が、これで何とか準公務員のような形で何とかして恩給法の適用をしてあげようかとか、あるいはこれは無理だとすれば、ほかの方法で、こういうことを考えようじゃないかとか、何か考えていただくための参考に使っていただけるだろうと思うのです。ですから、それをぜひ厚生省にお願いしたいと思いますが、やっていただけますでしょうか。
  92. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 従来は厚生省の態度は、もし処遇の方法が決まった暁においては、それらのデータとして日赤から調査をし、資料をとり、いろいろ協力を申し上げようという態度だったと思います。ところが、いま先生から、たとえば恩給局が、他の砲煙弾雨の中で基地建設に従事したような一般の準軍属と比較しても特別取り上げるだけの、いろいろな、どこかで線を引っ張ったりなんかする材料がないじゃないか。その材料として提供しろという御意見はもっともだと思いますので、もし恩給局との協議の中で、そういうような必要性があれば、すぐ私の方は協力いたします。
  93. 金子みつ

    金子(み)委員 大変に素直に御答弁いただいてうれしいと思います。それはぜひやっていただきたいと思うのです。  それで、稻村長官がおっしゃったように、各機関と連絡を取り合い何らかの形でというのが、それに該当してくるのですけれども、各機関と連絡を取り合い、やると稻村長官がおっしゃっているのは二月なんですよ。いま予算の審議が行われていて忙しくてできないというふうにおっしゃるのかもしれませんけれども、私は、いますぐでなければならないというようなことは申しませんけれども、長官のこの発言は非常に重みがあると思うのです。ですから、これは単独でなかなかできないことはよくわかりますから、関係の省庁が寄り合って最もいい線を出していただきたいわけなので、それをイニシアチブをとってやるのはどこかと言えば総理府ですよ。ですから、きょうは恩給局の次長がお見えになっていらっしゃいますから、次長から一言お考えを述べていただきたいのですが、この長官の発言を尊重して、できるだけ近い機会に、関係省庁寄り合って、そして知恵をしぼっていい案を、第一段階ぐらいのことはやっていただけないでしょうか、それをお約束いただけないでしょうか。
  94. 小熊鐵雄

    ○小熊説明員 先ほども御説明いたしましたように、ただいま総理府を挙げて検討しておりますが、これも先般の稻村長官の御意思に沿いまして、できるだけ早い時期に方向づけをいたしたい、このように努力いたしておりますので御了承いただきたいと思います。
  95. 金子みつ

    金子(み)委員 いまの御答弁は、総理府の中だけでやっていらっしゃるのでしょう。
  96. 小熊鐵雄

    ○小熊説明員 先ほどありましたように各省からも十分御協力をいただいております。たとえば厚生省からも、いろいろ資料の提供等もお願いいたしております。
  97. 金子みつ

    金子(み)委員 それでは、そのことにさらにつけ加えて申し上げたいと思いますのは、二月の二十七日の予算委員会の第一分科会で稻村長官の御答弁があります。「これほど各党の意見の一致を見ておることはないと私は思います。」というのは、この問題については、私は社会党ですが、公明党の先生も、あるいは共産党の方たちも、あるいは自民党の方もあったかもしれません、とにかく各政党から意見が出ていたわけですね、質問もなされております。そういう意味で「各党の意見の一致を見ておることはないと私は思います。そういう意味から、実施というその時期は別といたしまして、」いつからということは別といたしまして「その方向だけは今国会中に結論をつけたいと思っております。」今国会中にでございますよ、そう長い時期じゃございませんね。そのことは二度もおっしゃっているのです。「先ほど申し上げましたように、その他の方法で処遇を考えていきたい、」これは恩給法でなくという意味だと思います。「今国会中に必ずその方向を決定してまいりたい、こういうふうに思っております。」と答弁していらっしゃいます。ですから、今国会中と言えば五月の十七日が会期末でございますから、それまでの間に、この問題については方向だけでも出したいということをはっきりおっしゃったわけでございますから、このことはぜひ実現していただかなければならないと思います。これは公約でございますし、もし、このことができないようなことがあったら問題になると思います。そこで、必ずそれまでの間にやっていただけるかどうかということを、稻村長官にかわって恩給局次長、御答弁いただけますでしょうか。
  98. 小熊鐵雄

    ○小熊説明員 私、先ほど来申し上げました、稻村長官の御意思に沿ってと申しますのは、いま先生がお読みになられた御答弁を体してということでございまして、できるだけ早くというのは、そういう意味でございます。
  99. 金子みつ

    金子(み)委員 そういたしますと、その方向を決めるについては、総理府だけで御見解をお出しになることは不可能に近いというふうにも考えられます。ですから関係省庁、特に一番関係の深い厚生省が、そのことに大きく一枚加わらなければならないと思うのですけれども、そのことについて厚生大臣の御見解を聞かせていただきたい。
  100. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 関係が深いということは、日赤の従軍看護婦さんであるというようなことと、それからもう一つは、恩給法援護法というのは大体うらはらになって、いろいろ相関関係がございますから、そうおっしゃるのだろうと思うのでございますが、私どもは本件は、少なくとも援護法というのは、負傷をされたか、または亡くなられた方々援護法でございますから、元気でお戻りになった方々の問題は、これは恩給法の枠内で考えていかなければいかぬ、こういう制度になっておりますので、したがって私どもは、資料の提供なり、いろいろなことについては御協力申し上げますけれども、これはいま金子先生がおっしゃる、おまえも関係が一番深い方なんだが、どうするのだ、こう言われると、応援団としては大いに稻村君とはひとつ、いろいろな知恵を出すように、私の方がどっちかというと社労は長いし、専門家でございますから、そういう意味においては大いにやりますけれども、役所の立場では、線がちゃんと決まっておりますので、そちらのいまの方は恩給法の総体の枠内で考えていただく、こういうことになろうかと思うのです。国務大臣としては、御承知のように何でも予算が伴うものでございますから、そういうときの応援団がいるかいないかでは大きな違いですから、そういう面では皆さんの御意思を体して、私がひとつ応援団長になりましょう、こういうことでございます。それははっきり、ひとつ区分して考えていただきたいと思います。
  101. 金子みつ

    金子(み)委員 役所の縦割り行政はよくわかっております。ですから、いま大臣がおっしゃったことは私もよく了解できることなんです。ただ、応援団長になりましょうとおっしゃったから、それは忘れません。それはぜひやっていただきたい。  お金の問題が出てきました。必ず、どこかで出るだろうと思っていたら出てきましたが、そのお金の問題では、そんなに金はかからないということなんです。計算したわけではありませんけれども、こういう数字になるのです。生還していらっしゃった方々のうちの約二一%の方々は公務員になっていらっしゃるんです。それから民間に就職なさったのは四〇%という数字があります。そうして約一万何がしかの帰還者でございますが、そのうちの死亡なさった方を除き、それから恩給法の該当者がございます。これは約二千人ぐらいだそうですか、これを除いて、残った方々の中で、召集期間は原則二年ですから、そうすると三年未満の短期の方々はまた除くわけです。これは大体半分か半分ちょっとあるそうです。これを除きますと残るのは、私たちがいま問題にしております五十五歳以上の、そうして恩給法適用をお願いしている方々の総数が、日赤の調べでございますと約三千名だそうです。ですから大した数じゃないでしょう。そうして、この方々は失礼ですけれども五十五歳以上です。七十歳の方もあると先ほど申し上げました。ですから恩給法を適用したといたしましても、二十歳の方や三十歳の方に適用するのと違いますから、予算の上では、そんなに大きな打撃を国に与えることはもちろんない。  ですから国としては、命をかけて働いてきたこの方たち、家族も何も全部捨てて、そうして自分の命もかけて働いて、幸い九死に一生を得て帰ってこられた方たちなんですから、その方々の処遇として、これぐらいのことは国がするのは当然じゃございませんでしょうか。それは立場が違うからとか、ほかにも同じような人たちがいるから、それだけはできないとかというような考え方は一つの理屈ではございますけれども、赤紙の召集令状を受けて戦地に行った看護婦さんたちの処遇を何もやらないというのは、社会保障が二十年立ちおくれている日本の場合に、何にかえて、この人たちに報いるかということは考えるものは何もないですね。自分で働いて自分で生きていきなさいと言われているのと同じでございます。国はそんな冷たい態度でいていいのだろうか。厚生大臣は国務大臣でいらっしゃいますから、国務を預かるお一人として国の立場で考えていただきたい。厚生省の立場だけで考えないで国の立場で考えていただきたいということを強く要望したいと私は思うのですが、それはだめでしょうか。
  102. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 いや実は冷たいのじゃないのですね。従軍看護婦さんに温かい心を持つと同じように、それと同じように自分の家を捨て、兄弟と別れ親と別れ、そして一身を犠牲にして、やはり同じようなところで基地建設なり、あるいはまた炊事のこともやった、そういう準軍属の方や軍属の方々に対しても、やはり温かい感情を持たなければいかぬからで、冷たければ、これはどっちも考えません。三千人くらいじゃないかと言われれば、それは幾らでもないのですよ。そうじゃなくて、やはりみんなに温かい心を持つから、これだけにしぼるということに苦労があるわけでございますので、そういう意味で御理解をいただいて、しかし、もしいま言ったように、それがまず第一段階としては、きちっと線が引けるという何らかの方途を見出すことができれば、この問題の解決が非常に容易でなかろうか、進んでいくんじゃないか。  そういう意味では、むしろその金目の関係も、といいますのは、やはり財政当局から見ますと、これだけ考えればいいのかな、あるいは、もっとずっとそれがふくれていくのかな、数百万人になった場合はどうするかなということを考えるのはもう間違いないのです。予算というものは、やはりほかのこともみんな頭に置いてやらなきゃいかぬものですから、そういう意味で申し上げたわけでございまして、本来なら、これはやはり政治が解決すべき問題なんです。したがって、特にその道の専門家の集まりである社会労働委員会で、与野党の皆さんでいろいろ協議をしながら――ただ単に理事会だけじゃないと思うのですよ。皆さんがよく相談もして、ひとついい道を、したがって、その際には、できましたらどこかで線を引いて、やりいいような実現可能な方向を、みんなで見出していただいて、われわれ政府も一緒になってやるという方向が一番いいんじゃなかろうか、こう申し上げておるわけです。
  103. 金子みつ

    金子(み)委員 もう時間がございませんので、これで終わりますけれども、大ぜいの中の一つの職種だからという問題で、国側、政府側の方も大変に悩んでいらっしゃるようです。しかし、何でもできる人は何もできないというのと同じなのでございまして、全部やらなければ、この人のこともできないというようなことになるおそれが非常に強いと私は思いますから申し上げているのでして、むしろ私から申し上げさせていただくならば、この従軍看護婦の人たちを優先させるべきだというふうに考えます。人数も少ないことでございますし、予算的な問題もそんなに問題にならないし、まず突破口として第一にこの人たちを、そしてその次、その次と順位を決めて、そして成立させる方向へ進めていただきたい。みんな抱えちゃってるとどうにもならないと思うのですよ。だから一つずつ整理をしていくという意味におきまして、まず最優先にこの看護婦さんたちの問題を取り上げるということを決めていただきたい。私はそれをぜひやっていただきたいと思いまして、強くそれを要望いたしまして、質問を終わりたいと思います。ありがとうございました。(拍手)
  104. 越智伊平

    越智(伊)委員長代理 大原亨君。
  105. 大原亨

    大原(亨)委員 昨年の戦傷病者戦没者遺族等援護法で附帯決議をいたしたわけです。その附帯決議の第一項は「第二次大戦末期における閣議決定に基づく国民義勇隊、」これは現行援護法の第二条第三項第三号「昭和二十年三月二十三日の閣議決定国民義勇隊組織に関する件に基いて組織された国民義勇隊の隊員」これがあるわけですが、「国民義勇戦闘隊の組織、活動状況及び旧義勇兵役法・」これは六月で、昨年は法律、勅令、国会審議の議事録も全部出して一部引用いたしました。「国民義勇戦闘隊員に対する陸軍刑法等の適用に関する法律の実施状況を明確にし、公平適切な援護措置をとりうるよう検討すること。」こういう附帯決議をいたしたわけです。この附帯決議の意味がわからぬと言うた者が政府の中におるけれども、この附帯決議について調査し、それぞれ勉強いたしましたか、いかがです。
  106. 河野義男

    河野(義)政府委員 まず義勇隊あるいは義勇戦闘隊の活動状況につきましての実施状況を調査しろ、こういうことでございますが、これらの事情につきましては、いまの段階では各種の文献、資料あるいは当時の新聞あるいは関係者の意見、そういうものを集めまして、その状況の把握に努めたわけでございます。そのうちで義勇兵役法等に基づきまして、国民義勇隊、これは閣議決定に基づく国民義勇隊でございますが、これが国民義勇戦闘隊に事実として転移した、いわゆる戦闘隊の編成下令が行われた例というものは、私どもが調査した限りにおきましては、そういう事実はないというふうに考えております。
  107. 大原亨

    大原(亨)委員 厚生大臣、あなたは昭和二十年はどこで何をしていましたか。
  108. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 私は現役の海軍士官として昭和二十年は海軍省におりました。
  109. 大原亨

    大原(亨)委員 いま局長の答弁で、これは一々やっていたら大変なんですが、たとえば船舶については船舶運営会を設けまして、従業員は全部、国民義勇戦闘隊に入れたわけです。最終段階。それから、この間、森井委員等もずっとやってきまして、私も前からやってきましたが、通信関係は、やはりコミュニケーションは生命でしたから軍がしておりましたから、やって、この戦闘隊に編成したわけです。ただし、この国民義勇戦闘隊というのは状況に対応してすぐ変わる、こういうふうになっておるのだということは、これはいままで議論いたしまして、ここの閣議決定の中にあるわけです。  それで、一つ私が聞いておきたいのは、指摘をいたしました現行の援護法で適用いたしました国民義勇隊の閣議決定、昭和二十年三月二十三日、最初これを引用したときには二十二日閣議決定になっていた。一日違っていた。二十二日には閣議はなかったわけです。私が調べたら二十三日だった。指摘いたしまして法律を改正したのです。しかし、閣議があって、閣議の基礎に基づいて、国民にそういう権利義務が発生をして、こういう被害が発生をしたということで、これは事実は事実として、たとえ事実に反する法律であっても、それはよかろうというふうに見逃しました。  事ほどさように、政府が戦傷病者戦没者遺族等援護法昭和二十七年につくったときには、資料を検討いたしまして、どこで線引きをするかということで部内で大問題になりました。そこで、いろいろな経過をたどって、閣議決定に基づく国民義勇隊に関する件も対象にしたわけです。ただし、それに関係する資料は占領期間中は一切封印しておったわけです。それを私は、新聞記事の縮刷版から逆に指摘をいたしまして、昭和四十二年十二月十三日、総務長官の手元に封印してあったのを、官房長官がサインいたしまして国会に出してまいりました。しかし、事が示しておるように、当時の国民義勇隊に関しての閣議決定については、これは全部を詳細に検討してない。これは三月二十三日ですが、三月十日に東京大空襲があった。第二次が二十五日。十日のものは二、三日前に、どこかのテレビで特集いたしました。死屍累々だあっとなっている。これは国際法からいっても、一般非戦闘員に対する無差別爆撃ですから国際法違反だというふうに、だれもが指摘いたしております。原爆も国際法違反だ。これは害敵手段として制限を超えておる。だから、そのこと自体でも国が中に介在いたしまして戦後処理した際には責任があるわけですけれども、それを受けて三月二十三日に閣議決定があったわけです。そして矢継ぎ早に、ずっと国民義勇戦闘隊との関係、他の法律との関係を閣議決定いたしまして、そして六月に義勇兵役法で、総動員法も引用してありますが、一般兵役法に義勇兵役法は含まれている。空襲警報下の国会で、答弁の矢面には陸軍省の那須兵務局長政府委員として立っておりますけれども、ずっと法律をやって、勅令をやって、公布、即日施行というふうになっておる。その閣議決定や勅令、政令の関係を、封印しておって明らかにしていない。そういう事実をはっきりさせて、そして戦争犠牲者に対する措置を公平にすべきであるというのが私どもの見解です。  それを私どもがなぜ要求するかというと、これは歴史的に、二十七年に援護法が成立して、二十八年に軍人恩給が復活いたしまして、そして戦傷病者戦没者遺族等援護法から抜き去って、恩給法で法律を決定したわけです。これは安保条約と平和条約の二法の後で軍隊をつくるために、まず軍人関係、軍属関係については援護法を適用しろ、これは占領軍の命令で恩給法は廃止いたしましたから、ですから、これと結びつけて復活しようということで線引きをしたわけです。その線引きに非常に無理があった。そういう当時の状況を反映いたしまして、基本的な問題が議論されないままに戦傷病者戦没者遺族等援護法が今日まで手直しをされておる。そこでそういう前提あるいは法律の関係、そういう事実について明確にして、そうしてこの援護法を洗い直してみる。他に関係した条項があるならば、これを洗い直すことが重要であるということを指摘いたしまして、附帯決議になったわけです。政府委員や皆さん方は非常に不勉強であります。いまの話を聞きますと、ほとんど勉強していない。  たとえば、この適用の基礎になりました準軍属なんかの国民義勇隊という例のものですが、たとえば組織については、「国民義勇隊ハ官公署、会社工場事業場等相当多数ノ人員ヲ擁スルモノニ付テハ当該職域毎ニ其ノ他ノモノニ付テハ一定ノ地域毎ニ之ヲ組織セシムルモノトス」とあって、老幼病者等は除外するというふうになっているわけです。職域でも地域でも全部の国民国民義勇隊に組織をいたしまして、そして「運用」のところにありますが「国民義勇隊ハ軍部隊ノ補助ノ為出動スル場合ハ当該陸海軍部隊長ノ指揮ヲ受ケ警防活動ノ補助ノ為出動スル場合ハ当該官署長ノ指揮ヲ受クルモノトス」ここで今度、四十九年に出ました準軍属になります警防団との関係が出てくるわけです。そして、一朝有事の際においては直ちに戦闘隊に改編するんだ、国民義勇隊で全部国民を職域、地域ごとに組織しておいて、直ちに改編するんだ、そういう仕組みをつくったわけです。  そして私どもの見解によると六月には、それを総括するために閣議決定ではいけないということで義勇兵役法という法律をつくって、十五歳から六十歳までとか、女性につきましては若干のハンディがありますが、しかし、そうなれば子供も年寄りも一蓮托生ですから、全部の国民が戦闘体制にあったわけです。  だから援護法をつくった際に、公務という場合の国家補償の精神による援護法をつくっている。それが一つ。あるいは特別権力関係、命令服従の関係で仕事についた者についてはということになっている。これは準軍属を頭に置きながら範囲を広げてきたわけです。そういうことでこの法律ができており、国民義勇隊は一部を取り上げておりますが人数は少ないわけです。少ないのですけれども、国民は全部そういう体制の中で戦闘隊に転移するという体制で最終段階の本土決戦に臨んだ、これは間違いないです。  後で時間があれば指摘をいたしますが、沖繩の状況で援護法の適用がある。斉藤さんが指摘をいたしました浜松等における艦砲射撃がある。何も知らないのに艦砲射撃で非戦闘員がやられた問題がある。つまり居住についても夜、昼問わず常に空襲とか、あるいは原爆とか、艦砲射撃とか、そういう状況の中であったわけです。これは権力の中で命令服従の関係にあったわけです。即軍の中に編入する。空襲がある、艦砲射撃がある、そういう場合に編入をする、艦砲射撃は敵前上陸の前提みたいなものですから。本土決戦ですから。それから東京空襲が始まってからは、ずっとそういう態勢にあったんだから、これはもう少し明確にしておいて、そしていろんな点で政治的な判断をする場合には、財産被害については触れない。大蔵省の役人が、財産被害までいくと家が焼かれたのまで補償しろということになると言ったけれども、だれもそういうことを言っておる者はいない。生命や健康に対する被害については、少なくともやはり公平な措置をしなければならない。斉藤さんの質問のように、障害者については三万数千人、一般戦災者の死没者については、原爆その他入れて三十四万五千人とか五十万人という資料がありますが、軍人恩給等の適用は二百数十万人ですから、これをいまの状況でもう一回見直してみる必要があるのではないか。  だから政治的には、たとえば特別給付金という制度もできておる。これは特別権力関係ではない。軍人軍属、戦争犠牲者の父や母、妻、子というのは特別権力関係ではない。そこへ一時金の特別給付金や弔慰金等を繰り返して、こういうふうに改正してあるし、去年以来も改正がある。ここにも出ておる。ですから、そういう点で自衛隊をつくるとか軍隊の根性をつけるとかという前提で考えるのでなしに、戦争犠牲者については公平にやるんだということで、それぞれの特性に基づいて、予算はそれほどたくさん要らぬわけですから、交付公債の制度もあるわけですから、一時金やあるいは障害者に対する措置や、そういう問題については、それぞれのジャンルはあるかもしれぬ、そういうことは予想し得る。財産被害までは及ばない。そういうことを頭に置きながら整理をしないと、この法律自体が非常に不公平で矛盾を犯すことになるという点を指摘をしてきたわけだ。  私は、そういう点について国民義勇隊に、いま質問をしぼって言いますが、国民義勇隊についてどういう考え方で、いま適用されておる準軍属の対象者は何人いるのか、こういうことについて、まずお答えいただきたい。
  110. 河野義男

    河野(義)政府委員 最初に、先ほど国民義勇戦闘隊の編成についでちょっと申し落としましたが、先生御指摘のように、職域における国民戦闘義勇隊につきましては、鉄道あるいは船舶、そういったところについては編成されておるわけでございます。私が申し上げましたのは、地域について、そういう国民義勇戦闘隊の編成の事実がなかったということでございます。  それから、いま国民義勇隊員の処遇の問題でございますが、これまでに国民義勇隊につきまして援護法上の処遇をいたしました件数は約一万五百件でございます。そのうち約六千件が国民義勇隊と学徒隊ということになっております。
  111. 大原亨

    大原(亨)委員 それで国民義勇隊の中で、空襲で被害を受けた、あるいは艦砲射撃で被害を受けた、そういう死没者や障害者を対象に施策を進めてきたわけでしょう。それを一万五百というふうにしぼったということは何を根拠にしてしぼったのかという点ですね。
  112. 河野義男

    河野(義)政府委員 国民義勇隊員で援護法上の処遇をしたのは一万五百件でございますけれども、国民義勇隊の業務以外で、あるいは死亡された方もあるかと思いますが、援護法上の処遇の対象は、国民義勇隊が閣議決定で定められました任務につきまして、それによりまして死亡し、あるいはけがをした場合に、援護の対象になるわけでございまして、義勇隊員であっても、それ以外の事由で亡くなられた者は、その対象にはなっていないわけでございます。
  113. 大原亨

    大原(亨)委員 そこで、この援護法を適用する場合には、言うならば業務というか公務というか、そういうものに限定をしてやるわけですね。それで、斉藤さんの質問のような一般戦災者の場合には、空襲なんかというのは、ある日突然来るのですから、警戒警報なしに入ったのがあるわけですから、その場合に、国民は直ちに地域や職域において直ちに対応しなければならぬという責任を持つわけです。ですから目の前でぱんぱん鉄砲を撃つようなかっこうではないわけだ。ですから戦闘参加ということ、公務ということは、そこが非常に判断としてむずかしい。法律の構成や権利、義務の関係について見ておかないとむずかしい。特に原爆の場合には非常に普遍的な被害ですから、放射能等の障害等で毒ガス以上の副作用がある障害があるわけですから、そういう点で問題点を整理をしながら、施策について厚い、薄いということはあるけれども、それを整理をしてやらないと、戦争犠牲者に対する公平な法律の適用とは言えない。  そこで、この問題に関係いたしまして沖繩における一般戦災者、いわゆる軍人軍属等の身分のない人が、この援護法の適用になっていますね、これは第十次空襲以降。沖繩の第十次空襲は大体いつであったのか。この法律の適用の一つの区切りですね、それは沖繩の場合には、どういう根拠でやったのかという点について、お答えいただきます。
  114. 河野義男

    河野(義)政府委員 沖繩に空襲がありましたのは十九年の十月の中旬だったと思います。  それから沖繩におきまして軍人軍属以外の者が援護法上の処遇を受けているケースは、沖繩が戦場になりまして戦闘参加した者につきましては準軍人として処遇するたてまえになっておりますので、それに該当する者について処遇いたしておるわけでございます。
  115. 大原亨

    大原(亨)委員 それで十次空襲というのを区切ったのは、どういう根拠なんですか。
  116. 河野義男

    河野(義)政府委員 先生のおっしゃいます十月十日の空襲以後の問題でございますが、それ以後、沖繩を戦地として取り扱っておるわけでございますが、これは、その十月十日の大空襲以降、沖繩につきましては連合軍の沖繩上陸の危険が切迫しているということと、それから、そうした中で、いま申しましたような大きい空襲もありますし、いろいろ沖繩を取り巻く、補給路も絶たれまして水とか食糧も枯渇した、衛生状態もきわめて悪い状態である、そういった非常に劣悪な環境の中で、その後に戦地となったわけでございます。そういったことを総合いたしまして戦地の取り扱いをしたわけでございますが、その戦地という意味は、その戦地として取り扱う場合には、そこにおける公務とみなす、こういうことでございます。     〔越智(伊)委員長代理退席、羽生田委員長代理着席〕
  117. 大原亨

    大原(亨)委員 大臣、沖繩は十次空襲の昭和十九年の十月以降を戦地とみなして、一般戦災者の犠牲者に対しましては援護法の適用をしたわけです。これは、いつ敵前上陸が来るかもしれないし、空襲があったら直ちに即応態勢をとる。それは日本も、どこで時間的に線引きをするかということは問題であるけれども、そういう態勢にあったわけですよ、終戦のときには。特に三月十日の東京空襲以降は、中枢部がやられたわけですから、急速に閣議決定その他で応急の措置をとりながら、法律や勅令の整備をして、それで最後の戦争に直面をし、八月六日、九日の原爆を受けたわけです。そういう情勢にあるわけです。いま言われたように戦闘状況です。艦砲射撃もあった。ですから四六時中制空権を向こう側でとっている場合における、当時の戦闘状況の中における戦闘員と非戦闘員、軍人軍属等との差別というものは基本的になかった、こういうふうに考えて、一般戦災者について、公務について、権力関係について、あるいは原爆被爆者援護法の根拠について、それぞれの特殊事情を考えて整理をする必要があるだろう。国として何らかの措置をする必要があるだろう。特別給付金という現行援護法の制度を含めて考える必要があるのではないかというわけですね。  そこで、いままで記録にとどめなかったことで、一つ出てきておる文書を読み上げてみますと、大臣、これは後で答えてもらいたいのですが、これは広島県の県史の中の「原爆資料編」というところにあるのです。これは昭和二十年五月十日に義勇隊結成協議会において当時の知事の大塚知事が訓示をいたしました要旨がここに載っておるわけです。場所も書いてありますが、それを見てみますと、これは少し長いのですけれども途中でやめますが、   申ス迄モナク戦局ノ現段階ハ有史以来文字通リ未曾有ノ難局ニ際会致シ将ニ皇国興廃ノ関頭ニ立ツテヰルノデアリマス。此ノ難局ヲ克服シ之ヲ打開シテ以テ天壌ト共ニ窮リナキ皇運ヲ扶翼シ奉ルコトハ、生ヲ皇国ニ享ケマシタ我等国民ノ光栄アル使命デアリ責任デアルノデアリマス。我々国民ノ一人一人ガ愈々必勝ノ信念ニ燃ヘ断乎勝チ抜ク不退転ノ大勇猛心ト其ノ勇猛心ヨリ出ヅル決死ノ活動ニヨリ全国民一人モ洩レナク汗ヲ流シ血ヲ流シテ、此ノ決戦ヲ戦ヒ抜クトイフ真ニ物心全面ニ亙ツテノ不動ノ防衛態勢ヲ速カニ確立致サネバ相成ラヌ誠ニ重大ナル事態ニ直面致シテヰルノデアリマス。   政府ガ今回国民義勇隊組織ノ方針ヲ決定セラレマシタ所以モ亦茲ニアルノデアリマス。国民義勇隊ハ此ノ意味ニ於キマシテ最後ノ国民組織トモ考ヘテヨイノデアリマス。従来ノ国民組織乃至ハ運動ト同巧異曲ノモノニ終ル程ナラバ、何モ好ンデコノ戦争ノ真只中ニ於テ殊更ニ組織スルノ必要ハ無イノデアリマス。   国民義勇隊ハ軍ト言ハズ官ト言ハズ将亦民ト言ハズ、全国民一億ガ悉ク戦列ニ参加スル組織デアリ最後ハ此ノ義勇隊ノ一員トシテ欣然死地ニ就キ得ル組織トナラネバナラヌト存ズルノデアリマス。而シテ其ノ目的トスル所ハ隊員各自ヲシテ其ノ全能力ヲ最高度ニ発揮セシメ、其ノ職任ヲ十全ニ完遂セシメツツ戦局ノ要請ニ即応シテ、活発敏活ナル行動ヲナサシメル組織デナケレバナラヌノデアリマス。   即チ生産シツツ防衛ヲ為シ防衛シツツ生産ヲ行フ所謂生産防衛ノ一体的飛躍的増強コソ国民義勇隊組織ノ眼目ナノデアリマス。決シテ上ツ調子ナ運動乃至竹槍訓練等ガ目的デハ無イノデアリマス。 こういうことをずっと訓示しておるわけです。関係団体全部を呼びまして、国民運動団体、翼賛組織等全部を呼びまして、そして軍がここに出席をいたしました。義勇隊については、中央本部長は内務大臣でしたから、陸軍大臣、海軍大臣と協議をしてこれを遂行する。戦闘隊に変わったら軍に変わる、こういう仕組みでありました。だから、閣議決定を受けて、県知事が全部の団体を網羅したところで言っておるわけです。  当時の空襲その他の状況におきましては、戦闘状況が始まったら戦闘隊に切りかわるのだ、軍の指揮下に入るのだ、こういうことになっておるわけですよ。だから占領期間中、非戦闘員を戦闘に組織的に動員したならば戦犯に追及されるということで、資料を抹殺をいたしまして封印をしたのです。それで途中で一部復活したときも線引きをしたわけです。ですから、沖繩の問題を判断したときと同じような判断が、東京空襲前後からは全国民にありまして、そして、その締め上げを戦争中この国会で臨時議会を開きまして義勇兵役法を可決をし、そして即日公布したわけです。公布できる態勢はあったわけですから、私はそこを研究しなさいと言ったのだ。これは附帯決議もその趣旨だ。  これは法律やその他全部できておりますが、事実はこの法律が施行されたという確証はございませんと最近言い逃れで言い出した。それはだめですよ。それは自民党の中に聞いても、だれに聞いてもそうですよ。その地域の姫路にしろ浜松にしろ、みんな言っておる。一般戦災者をやはり何らかの措置をして国で弔慰の心を表しなさい、そう言うと、政府の方は、責任者は、これはそうすると原爆の方へ影響いたします。こう言う。原爆の方へいきましたら、原爆を国家補償でやりますと一般戦災者にいきます。こう言うわけです。そこで援護法の適用のときに、この事実を率直に認めて、そして、それぞれの濃淡はあるわけです。あるいはやり方はあるわけですから、それに応じた施策をやる。いまの軍人恩給その他の対象は二百数十万ですから、これは大した人数じゃないわけですよ。交付公債の手もあるし、これは景気対策にもなるわけです。非常に苦しんでいる人たちはお年寄りが多いですから、これに対する措置をするのは、それほど莫大な金ではないわけです。問題は、いままでの経過を率直に反省をして、施策について洗い直す必要がある。私は、これこそ調査会を設けて、小委員会を設けて、社労で合意をすべき問題ではないかと思っております。そういう点は非常に明らかになったわけです。大蔵省の役人は、財産被害までいくと言うのだが、家が焼けたことなんか言ってはいないですよ。それは全部強制疎開とか四散したわけだから、そんなことまではだれも言う人はいない。ただし、生命や健康における被害については、国はやはり何らか弔慰の心を表すべきではないのか、国家として国家補償の意思を表明すべきではないのかということを言っておるわけです。そういう合意を得る方法はいろいろあると思うのです。  厚生大臣、あなたはいつまで厚生大臣をおやりになるかわからぬが、あなたもいままでずっと厚生省におられたのだし、ここら辺について、それほどむちゃなことを言っている者はいないのです。たとえば、これをやれば原爆の国家補償の問題はちゃんと出てきますよ。出てきますが、これもいままで五百億円、一年間に二法案で出しているのです。その基礎の上に、これをどういうふうに構築していくかという問題が残っているわけですから、その結論を早く出すということは、国の政治の立場として、あるいは政治家としては必要なことではないかと私は思います。これは否定する論拠はないでしょう。否定しますか、いかがです。
  118. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 三月二十三日に「国民義勇隊組織ニ関スル件」という閣議決定をやりまして、さらに四月十三日に「状勢急迫セル場合ニ応スル国民戦闘組織ニ関スル件」という閣議決定をやって、そして六月二十三日にいよいよ義勇兵役法という法律をつくった。これは御承知のとおり軍の方では、いよいよ戦況急迫だというので、いわば一億本土決戦だというような決意をした。いろいろな段階に応じてこういう経過になっておるわけでございます。そこで、おっしゃるように、こういうような閣議決定があり、また、それぞれの県知事あるいは必要な指導者がさっきお読みになったような演説をやった。そういう決戦態勢を国民に訴えたという事実は否定できないわけでございます。沖繩はまさにあの十月何日かの空襲以来いよいよ敵の上陸というものがもう現実の問題として迫ってきた。そこで、このような閣議決定は当時はありませんでしたが、まさにそういうような観点から、沖繩全体をひとつ決戦の場として戦地にも認定するような措置をとった。ところが本土の方は、そういうような危険も感じながらも、まだいわゆる本土上陸を迎えての一億本土決戦という状態に至るような措置を政府、軍が具体的にとらなかったわけでございます。その違いがあって援護法や何かの関係でも取り扱いを別にしておるわけでございます。  実態的には先生のおっしゃるとおりだと思うのです。しかし、どこかで形式で線を引くとなると、やはりいま言った六月二十三日の法律の制定もありましたし、その前に四月、三月の閣議決定もありましたが、現実に戦闘隊に編入するという措置は遺憾ながら行われなかったわけでございますので、したがって、そういうような形式上の点から、いま言った援護法上の取り扱いの差異を設けているわけでございます。  したがって、実態は先生のおっしゃるように、すべての国民がどこにあろうと本土決戦の構えで、また指導者もそういう指導をやってきたという事実は、もうそのとおりでございますから、そういう論点からずっと説き起こされて、一般戦災者についても当然援護の対象にすべきじゃないか。むしろ国家補償の観点から、そういう亡くなった方と負傷された方については同じような考え方でいくべきじゃないかということは、よくわかるわけでございますけれども、行政というものは、どこかでやはり線を引っ張らなければいかぬといういままでの観念で、このような措置をとってきたのだろうと思うのです。  それを附帯決議のときに先生の御主張のような御意見で、社会労働委員会においては、やはり実態的には同じじゃないか。ただ、たまたま八月終戦という時期で、そういう違いが出た。あるいは敵の進攻の順序等から考えてそういうことになった。浜松の艦砲射撃等を考えた場合に、いつ上陸してくるか、あるいは千葉において軍の移動等もやり、あるいは戦時のいろいろなことをやりましたのも私承知しております。そういう点から見れば、いつ何時、本土のどこへ敵が上陸してくるかもわからぬじゃないかという態勢にあったことは事実でございますから、そういう意味においては、発動はされなかったけれども一億本土決戦の構えでおったことは事実です。ですから、そういう意味に考えれば、みんなそのつもりになって、しかも、いま広島の知事さんの演説を読み上げられましたが、欣然死地に赴く覚悟で、みんなやれという気持ちで一億国民があったことは事実でございますので、そういう面からいいますと、そこで大原さんのおっしゃるような、財産は言わないが身体の傷害と生命の喪失ということについては何らかの措置をすべきだという議論は議論として私はわかる。わかるけれども結局、日本政府がドイツやイタリーと違って戦争犠牲者に国民全体を対象し得なかったのは、当時の国力もありましたり、いろいろするものですから、どこかで線を引こう、こうしたわけでございますので、それはそれなりに一つの理屈で一応割り切っているわけでございます。  今日現在で財政も豊かになったし、これらの問題をやはり考えてやれという御意見は御意見として私は成り立つだろうと思うのでございます。ただ、政策としてそこまで踏み切るかどうかは、これはもう政治なり行政の判断である、こういうことになるわけでございますので、私は決して先生のお考えを否定して申し上げているわけじゃない。ただ、そこまで一体、政策として踏み切るかどうかの問題だ、こう私は思っております。  ただ、先生のお話の中で、私も実は若干、自分の頭の中に去来している点にお触れになりました。そう全部が全部援護法と同じような、あるいは恩給法と同じようなことを言っているんじゃないんだ。いわゆる特別弔慰金なりあるいは特別の給付金なりという制度もあるじゃないか。だから何らかの意味でのそういう扱いというものはできぬか、こういう御意思のように承りますので、そういう面では、特に戦死者の方々や戦災による死亡者の方々、あるいは原爆に遭った自分の家族を弔いたいと思うその精神に報いる道というものを、いわゆる国家補償というところまでいきますと、いま私答弁できませんが、そういうような意味において何らか考慮できないかということになれば、私どもとしては、どもというより私個人でございますが、検討をしてみる必要があるんじゃなかろうかなという感じはいたしますけれども、これ以上ちょっといま、私も勉強不足でございまして、きょうは非常によく、いろんな経過と、その考え方の立論根拠というものを詳細に承りましたので、なおひとつよく検討させていただきたいという限度しかできませんけれども、御了承をいただきたいわけでございます。
  119. 大原亨

    大原(亨)委員 戦傷病者戦没者遺族等援護法の昨年の附帯決議も関係しているのですが、これは政府委員でよろしい。国民義勇隊と、これは四十九年にここで議論いたしましてやりましたが警防団、医療従事者、その旧防空法の法律の関係と事実の関係を調査いたしておりますか、把握しておりますか。これは現行法に関係したことです。
  120. 河野義男

    河野(義)政府委員 防空従事者につきましては、昭和十六年の旧防空法の改正によりまして防空従事者、これは基幹要員と申しますか、幹部でございますが、それから医療従事者等が援護法の対象になったわけでございます。     〔羽生田委員長代理退席、委員長着席〕 それと警防団令でございますか、それに基づく警防団の活動があるわけでございますが、援護法上処遇の対象にいたしておりますのは、昭和十六年の改正によりまして警防団の幹部と、それから医療従事者が対象になったわけでございます。それにつきましては、これらの人が地方長官から従事令書が出まして、医療従事者あるいは警防団として業務につきまして、その業務に関しましては、また罰則の規定がありまして強い強制力があったわけでございます。そういった関係から、その人たちにつきましては援護法上の処遇をするということになったわけでございます。それ以外の一般の警防団の活動につきましては、そういう国との間に特別な強い関係がないわけでございますので、援護法上の処遇は考えられないわけでございます。
  121. 大原亨

    大原(亨)委員 勉強するのは非常にむずかしいと思うけれども、あなたは全然――全然じゃないが、まあ五〇%だな。理解の程度は点数で言えば四十点ぐらいだな。  大塚広島県知事が五月の十、十一、十二日に国民義勇隊結成協議会、これは三日間やったわけです。そのときの訓示で、後で兵隊が、何々少将というのが出てきてやっていますが、その訓示がありますけれども、同じようなことです。一緒にやったわけですから。それから、これは地元の当時の中国新聞からコピーしたのですが、二十年六月二日付で広島市は国民義勇隊の結成式を挙げているわけです。各団体全部集めて。だから、そういう状況で八月六日にずっと突っ込んだわけですから、命令服従の関係についても、六月の二日ごろからは指定した者は疎開してもよろしいが、それ以外は疎開してはいかぬというふうな措置をとっているわけです。だから、居住についても全部制限を受けて、いつでも出動できる態勢で、それから戦闘隊、軍の編制に入るような態勢だったわけです。ですから、これは当時の戦争状況からいって完全に特別権力関係のもとにあった、命令服従の関係にあった、自由はきかなかった。  いま八時十五分からテレビで「風見鶏」というのをやっている。ヒマワリみたいにあっちこっち回ることだろうけれども、政治家によくおるけれども、有名な人が、あれは風見鶏だと言われている、ヒマワリだと言われている、次にどこの政権にいくだろうかと、こう言う。これはまあ別だ。別だが、いまテレビでやっている、あの当時の状況はよくわかっているとおりです。  だから援護法の基礎は「国家補償の精神」により「公務上」と第一条に書いてある。もう一つは、いろいろな補強をする中で、身分関係がない場合もありますから、特別権力関係というふうに幅を広げて準軍属に拡大していったわけです。しかし、これはやはり本土決戦の段階で、沖繩と同じような状況で全部が権力の指揮下に入ったということですね。ですから、そういうときにおける権力関係というものは否定できない。実際的にも法律的にも否定できない。どんなにあわてたかということは、本法の一部根拠になっているのは閣議決定でもやったわけです。国民義勇隊は、最初は。それで権利義務を拘束していくというのですから、政府も法律で一部認めざるを得なかったわけですから、これがだんだん進んでくればこうなったのだということについて実体を明らかにしながら、やはりいろいろな政策はあるわけですが、しかし、これはほっておくのは、いかにもおかしいのじゃないか、それをもう一回洗い直す必要があるというわけです。  特に、国民義勇隊と、旧防空法による警防団、医療従事者等の従事令書を個々にもらった者と、包括的にもらった者がある。職場警防団、地域、隣組の警防団というのが包括的にもらっておる。しかし、いままでの議論では法制局も、個別的に命令をもらおうが包括的にもらおうが命令服従に差はありません、こう言っている。そうすると二つの流れがある、内務大臣をトップにして。その法律関係と実体を明らかにしなさい、こういうことを附帯決議でやっているわけだ。それはやはり勉強していない、やはりこれは議論をする必要がある、こういうことで議論をいたしたわけです。  これは一部で言われるように、無制限に大きいじゃないか、そんな問題じゃないですよ。やはり政策の質の問題。そういうことはやはりどこかで結末をつけるということが必要であるというふうに思います。そういう点で、ひとつ厚生大臣はよく政府を督励し、関係機関とも話をし、それから、この社会労働委員会においても、しかるべくこれはさらに決議として残しておいて、そして小委員会等で早急に一つの方向を出すということなどが国会のあり方としては当然の責任ではないか、私はこう思うわけです。私の見解に対して、厚生大臣、国務大臣小沢辰男先生の見解を求めます。
  122. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 まず私は早急に検討してみたいと思うことは、六月二十三日に義勇兵役法という法律が制定をされた。その内容をよくひとつ勉強をいたします。そして、おっしゃるように特別権力関係が一億国民と国家の間にいつ成立をすると考えるべきか、これがまず第一点だと思うのです。それは法律をよく読んでみまして、当時の立法の趣旨、提案理由の説明等もありましょうから、それをよく検討してみたいと思います。ただ、その前の二回の三月二十三日と四月十三日の閣議決定だけで私は特別権力関係ができるとは思わない。広島の例をいまお挙げになりましたが、その閣議決定に基づいて義勇隊の組織をやって、それができ上がってからの兵役法の制定でありますから、この兵役法の制定によって一体どういう特別権力関係が一億国民と国家の間にできたか、これは法律をよく検討してみたいと思います。  それともう一つは、今度は実体論でございますが、大原先生が言われるような理論構成でいってみますと、当時の本土決戦の構えというものが、いつの時点でできたのか。たとえば私は当時をいま振り返ってみますと、確かに本土上陸の地点がどの辺かという検討を軍において行っておったことが記憶にございます。それはいつごろだったかということは、いまの私の記憶にありませんが、私は海軍省にいて、いろんな機密電報等も見ておった者の一人でございますので、そういうような構えが、沖繩と同じような構えがいつごろできておったのか、そういうような事例等も、ことに艦砲射撃後、急速にそういう考え方が、本土決戦の構えによるいろいろな軍の警備体制の強化あるいは国民義勇隊のやり方についての考え方が固まってきたように私は思いますのですが、その辺のところをよく検討いたします。  そして、いまおっしゃるのは、要するに何らかの措置を、少なくとも、こういうような一億本土決戦の気構えで国との間で自由を奪われ、特別権力関係という法的な関係まででないにしても、実体的にはそういうような状況にあったときに犠牲を受けた、その戦災死亡または戦災の傷害というものに何らかの措置をしなければいかぬというお話でございますので、この辺はおっしゃるように、ひとつ社会労働委員会でも御検討をいただき、われわれも検討を進めてまいろう、こういうふうに考えます。
  123. 大原亨

    大原(亨)委員 いままで議論した中で、こういう問題だけあるということを記録にとどめたいのですが、いわゆる東京空襲でも、おとといかテレビで出ておりましたように、やはり非戦闘員を対象とした無差別爆撃は、ヘーグの陸戦法規で禁止しておる。日本も入っておるしアメリカも入っておるわけです。それから、広島、長崎の場合には、これは害敵手段としての兵器の使用が人道と平和の原則に反しておる、こういう点で、原爆が落ちました直後の八月十日、猛烈な抗議の声明を政府は出しておるのです。毒ガス以上じゃないか、無警告、無差別爆撃、非戦闘員を対象とした爆撃じゃないかといって出しておるのです。アメリカ軍が占領してさましたら、それは全然知らぬ顔をして逃げたわけですね。これが今日ずっと尾を引いておるわけです。これは毒や毒物の使用あるいは毒ガス、ダムダム弾、そういうふうなものは国際法上明定してあるのですが、しかし原爆というのは当時なかったわけですから、なかったが瞬間的に死んだ人は数万人、まだわからぬが。あと複合汚染というか複合破壊によりまして、放射能を含めて、ずっと今日まで後遺症を残しているというのがあの戦争犠牲の特色です。ですから、これは国際法に違反するという立場を日本はとっていいわけです。佐分利さんという公衆衛生局長がいましたけれども、あの人はやはり法律屋じゃないから、私は国際法違反だと思うと去年はっきり言ったのです。そうしたら外務省がちょっととめようとしたけれども、言っておるのです。だれが考えたって国際法違反なんですよ。ただし、それは真珠湾があるじゃないか、いろいろな議論が出ているから、それを講和条約で全部パアにしたわけですが、そうして対米請求権を放棄したのですが、しかし、やはり人道の原則でつくっておる国際法の精神というものは、そういうものは戦争といえども使ってはならぬということを、人類の立場で、国民一人一人の生命と人権を守る立場で認め合っているのです。だから、これが国内法のいろいろな解釈の問題だけで放置されるということもおかしいわけです。だから、日本は唯一の被爆国というのですから、明確なそれに対する見解を持って、国際場裏において、原爆は、核の使用は国際法違反であるということを終始一貫主張すればいい、そのことが人道と平和に寄与する日本の道であると思う。  そういう意味において私は結論といたしまして、第一は、現行援護法について、小さいことであるといっても、もう一回洗い直してみるということが必要である。たとえば、私ども賛成いたしておりますけれども、戦没者の妻や父母や子供に対しては、何回も特別給付金というのを出して、これは継いでおるわけです。一時金を。  それから第二の問題は、原爆二法案を洗い直して、やはり歴史的にも、国際法上も、人道の上からも、政治の上からも非難をされないような、そういう正しい立場をとる。  それからもう一つのジャンルとしては、第三には、一般戦災者についてやはり、人数については限定があるわけですし、財産被害には及ばぬということはだれも言っておるわけですから、それに対する国として何らかの意思表明を行う、そういうことの三つの点について洗い直す必要があるだろう、こういう点であります。  厚生大臣は、これからひとつ新しい気持ちで勉強すると言われるのですから、私は以上の三つの点を結論として申し上げておきまして、時間が参りましたから、ちょうど参りましたから、質問を終わります。
  124. 木野晴夫

    木野委員長 この際、午後四時四十分まで休憩いたします。    午後三時三十五分休憩      ――――◇―――――    午後四時四十九分開議
  125. 木野晴夫

    木野委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  戦傷病者戦没者遺族等援護法等の一部を改正する法律案質疑を続行いたします。森井忠良君。
  126. 森井忠良

    ○森井委員 私は、第一に朝鮮人被爆者の皆さんの処遇の問題についてお伺いをいたしたいと思います。  御承知のとおり、きわめてのろいテンポでありますが、戦傷病者戦没者遺族等援護法は年々歳々中身が充実をされてまいりました。しかし、古くて新しい問題といいますか、朝鮮人被爆者あるいは朝鮮人の戦争犠牲者の皆さんに対する援護措置というのは皆無であります。一体どこに原因があるのか、まず、そのあたりからお伺いをしたいと思います。
  127. 河野義男

    河野(義)政府委員 朝鮮の方の取り扱いでございますが、援護法恩給法を補完する法律として昭和二十七年に制定されたわけでございますが、援護法恩給法と同様に、その適用要件としまして日本の国籍を有する者というふうになっておるわけでございます。いま、おっしゃいました朝鮮の方につきましては、たとえ元日本の陸海軍の軍人であったといたしましても、日本の国籍がございませんので援護法の適用はないわけでございます。
  128. 森井忠良

    ○森井委員 理由は恩給法に書いてありますという言い方でありますが、恩給法の所管の役所に聞きますと、これは厚生省所管の援護法と同じでございますという答弁が返ってくるわけであります。確かに先導的には恩給が物を言っておりますけれども、きわめて問題があると私は思うわけです。  第一、いま局長が答弁をいたしましたように、少なくとも終戦以前は朝鮮人の方は、たとえば兵役に服するとか徴用工として強制的に仕事をさせられるとか、ひどい目に遭ってこられました。しかも、明確にその当時は日本人であります。だからこそ徴用になったり、あるいは軍人軍属等の身分で事実上、日本のためにいろいろ尽くされてきた。もちろん、その根底には日本軍国主義のいわゆる植民地政策があったわけですけれども、いずれにいたしましても当時は紛れもなく日本人であった。  戦傷病者戦没者遺族等援護法におきましても、たとえば第二十四条等を見てまいりますと「死亡した者の死亡の当時日本の国籍を有していたもの」となっておりますね。亡くなった人の要件は整っていると私は思うのです。意味がわかりますか。つまり、戦傷病者戦没者遺族等援護法によりますと死亡した方の死亡した当時の国籍が問題である。そういたしますと、先ほど申し上げましたように朝鮮人の方は紛れもなく日本人なんです。これは争いのないところだと私は思うのです。  問題は受給資格で、たとえば戦傷病者戦没者遺族等援護法の三十一条で日本国籍でなければ受給権がない、ここに私は問題があると思うわけですね。「日本の国籍を失ったとき」に権利が消滅するとなっていますね。一体、本人の意思で日本国籍を失わしたものかどうなのかというのも問題です。先ほど申し上げましたように、亡くなられた方の要件からすれば当時日本人であった。死亡した当時の国籍が第一の要件であります。それから遺族給与金あるいは遺族年金等に関して言えば、今度は受給をされる妻、子あるいは両親といった方々の国籍が日本国籍でなければならない。ここに問題があるわけですね。これはもうこの辺でぜひ直すべきだと私は思う。厚生省はいままで、たび重なる朝鮮人犠牲者の皆さんの要求があったにもかかわらず一顧だにしてない。この辺でそろそろ考え直す必要があるのではないかと考えるけれども、いかがですか。意味はおわかりいただいたと思いますので、できれば政務次官からお答えいただきたい。
  129. 河野義男

    河野(義)政府委員 御指摘のように、援護法は死亡した際における国籍要件それから受給者についての国籍要件を規定しておりまして、そういった意味で援護法の適用については日本国籍を有するということが前提になるわけでございます。  おっしゃるように朝鮮の方が戦争中、日本の軍人として、あるいは徴用工として、軍務につかれ、あるいは徴用業務につかれまして、不幸にして亡くなられた方につきましては私ども十分同情はいたすわけでございますが、制度のたてまえといたしまして国籍要件がございまして、そういう方につきまして援護法を適用するということはできないわけでございます。ただ、その朝鮮の方でございますが、韓国につきましては日韓平和条約によりまして、その問題についての取り決めで外交的に解決いたしておるわけでございまして、いま、その問題につきましては外交ベースで処理すべき性質の問題であろう、かように考えるわけでございます。
  130. 森井忠良

    ○森井委員 教わったとおりの答弁が返ってくるわですけれども、具体的に申し上げましょう。  広島市に現在もあるわけでありますが、広島ガスという会社がございます。それから広島電鉄という会社があります。私の理解では、これは総動員法によりますところの軍需充足会社と判断をいたしておるわけでありますが、そういう認識ですか。
  131. 河野義男

    河野(義)政府委員 そのとおりでございます。
  132. 森井忠良

    ○森井委員 この軍需充足会社としての広島ガス、広島電鉄に、孫さんというごきょうだいでありますけれども、当時二十三歳の方と、それから十八歳の方が徴用工として勤めておりました。どういう手違いかわかりませんけれども、この二つの会社は、いままで援護法の適用によります弔慰金等の請求がなされておりませんでした。いろいろ運動やあるいはまた実態の把握がありまして弔慰金の請求をされた事実がございます。それは御存じだと思うのでありますが、広島電鉄で申し上げますと約六十人の方について、本法によりますところの援護法の申請をされ、受理をされております。  日本人として一緒に働いておったのです。いま申し上げました孫きょうだいも、そのほかの徴用工員も同じように働いておった。その当時は、この孫さんというのは日本人であった、これは間違いございませんか。
  133. 河野義男

    河野(義)政府委員 孫さんきょうだいが広島電鉄へ戦争中勤務されていたという、いまのお話でございますが、当時、戦争中は朝鮮の方も日本人であったわけでございますから、間違いないと思います。
  134. 森井忠良

    ○森井委員 問題点が明らかになってまいりました。たまたま、これは固有名詞を挙げて恐縮でありますけれども、同じようなケースはずいぶんとあるわけであります。  そこで、この人々が原爆で亡くなられた。したがって、本来でしたら当然この法律によりますところの弔慰金の請求権がある。ところが肉親が、日本が戦争に負けて、御承知のとおり本人の意思と関係なく国籍が変えられたと私は理解をしていいと思う。その結果、残念ながら他の六十人については弔慰金を渡すが、おまえさんだけは渡さないよという形になってきておるわけであります。  私は率直に申し上げまして、他の外国人と違って、特に国家補償法であります戦傷病者戦没者遺族等援護法については、私は当然別枠として考えるべきだ。少なくとも亡くなったときには、この法律に言うところの死亡時には、日本国籍があったということなんですから、この問題についてはもう少し再考の余地がある。しかも、これは徴用工ですから日本の政府は大きな責任がある。総動員法に基づくところの徴用を受けた人たちなんです。該当する会社も軍需充足会社なんです。いま大臣がいらっしゃいませんから政務次官からお答えをいただくわけでありますけれども、とにかく非常に深刻な問題ですから、この機会に政務次官から、せめて直ちに検討を開始するというお答えをいただきたい。実を言いますと、きょう昼に厚生大臣と朝鮮人被爆者の代表の方と会見をされました。大臣も涙ながらに聞いておられたわけでありますけれども、先ほど申し上げましたように、亡くなられた当時、日本人だったということに目を向ければ少なくとも償いは日本政府はすべきである。戸井田政務次官は私の尊敬をする政務次官でありまして、大臣はいらっしゃいませんけれども、私は大臣以上の御勇断をもってお答えがあるものと確信をいたしておりますが、いかがですか。
  135. 戸井田三郎

    ○戸井田政府委員 戦時中というのは、やはり法律等で、あるいは、われわれの判断の及ばない事件、状態が次々と発生していると思います。したがって、その一つがいまのようなものだと思います。本人の意思によらないで国籍が変わる、こういうようなことは、やはり平時では考えられない、法律以前の超越した事態に遭遇していると思います。したがって、こういうようなことが他にもたくさんあろうかと思います。そこで、特にその中における原子爆弾による被爆者、これもやはりその中で特にまた特殊な状況の中に置かれたものと思います。  そこで、いま言った受給の資格が、現在国籍が違う。亡くなったときには日本人であり、しかもそういう異常な状態で亡くなって、他の者は、日本人である、その後の受給者も日本人であるということで受けている。これは非常にむずかしい問題でありますが、私は、そういった特殊な状況の中における特殊な判断というものがあっていいものと思います。そういう意味から考えて、前向きでひとつ検討をしてみたいと思います。
  136. 森井忠良

    ○森井委員 前向きな御検討という御答弁をいただきまして意を強くしているわけでありますが、もう一つ明らかにしておきたい点は、実は朝鮮人の方々の日本軍国主義に引っ張られた当時の状況の調査が非常におくれている。あるいは、わかっていても明らかにしないという事実があるわけであります。私どもはたびたび、当時の実態を調査をして厚生省として適当な処置をとりなさいという要求をしてまいりましたけれども、明らかになっていません。したがって、いまの答弁は、申し上げましたように具体的な調査を厚生省としても、していただく、そういうことも含めて前向きだというふうに理解をしてよろしゅうございますか。
  137. 河野義男

    河野(義)政府委員 朝鮮の方につきましては、先生のおっしゃるように日本の軍需工場に働く、あるいは中には軍人の方もあるわけでございますが、その人たちが不幸にして亡くなられた。非常に同情に値するわけでございますが、現在の恩給法、それからそれを補完する援護法におきましては、従来から日本の国籍を有するということが前提になっておるわけでございます。  しかし、事実として非常に気の毒だということは、われわれ理解できるわけでございまして、いま具体的なケースにおきましても、原爆によって亡くなられたときは日本人であった。それからその遺族に相当する方は、その後、平和条約によりまして自分の意思にかかわらず国籍を失われた。そういうケースでございますが、そういったケースは、先ほど申しましたように韓国とかあるいは北朝鮮あるいは台湾の方々、そういう方々は多数おられるわけでございまして、そういった方の問題につきましては、先ほど申しましたように、韓国につきましてはそういう請求権の処理につきまして外交的に解決をしていくというような例もあるわけでございます。そういったこともひとつ念頭に置いて検討しなければならぬ、かように考えるわけでございます。
  138. 森井忠良

    ○森井委員 また話がややこしくなりましたね。時間の関係で、きょうは外務省呼びませんでしたけれども、だから私は型どおりの答弁だと、最初のあなたの答弁でそういう評価をしたわけですけれども、それでは韓国が現在いわゆる支配をしている地域というのは朝鮮の半分でしょう。朝鮮民主主義人民共和国、地域的に北朝鮮の部類に入る人については、それじゃあなたの答弁は適用しないわけですね。台湾についても違いますか。
  139. 河野義男

    河野(義)政府委員 北朝鮮に属する部分につきましては、まだ現在外交関係がありませんので、直ちにそういった外交的な処理をするということはなかなかむずかしいと思いますし、それから台湾につきましては、日華平和条約に基づきまして、そういった問題について特別取り決めの議題として話が進められていたわけでございますが、これにつきましても四十七年に日中国交が回復した際に、またそういった台湾との関係が断たれまして、現在中断されている、こういう状況でございまして、いま直ちに、それがこれらの問題について話が進展するということはなかなかむずかしいのじゃないか、こういうふうに思います。
  140. 森井忠良

    ○森井委員 ちょっと酷な質問で恐縮ですけれども、百歩譲って、それでは韓国籍のある人については外交的に解決済みだという、これは私は認めておりませんよ。認めておりませんが、百歩譲ってと申し上げておきますが、そうなる。そういたしますと、朝鮮民主主義人民共和国、北朝鮮の国籍を持っておられる皆さんについては、まだ解決をしていないという、そういう理解ですね。
  141. 河野義男

    河野(義)政府委員 援護法上につきましては、先ほどから申し上げておりますように日本の国籍を有するということが前提であるわけでございまして、国籍を有しない韓国あるいは北朝鮮あるいはその他の国の方につきましては援護法の適用がないということが、まず言えるわけでございますが、先ほど申しましたように、そういう方々の気の毒な事情というのは、われわれは十分理解するわけでございますが、一方、韓国につきまして、そういった外交的な処理がされているケースがあるということを申し上げまして、仮に、この問題についてそういう処理をするとしても、いま外交関係がございませんので、なかなか直ちにこれについて話が進行するということはむずかしいのじゃなかろうかと私は思うわけでございます。
  142. 森井忠良

    ○森井委員 だから要するに、あなたの論理で言えば、韓国の国籍を持っておられる人については外交的には処理ができているけれども、北朝鮮の部分については処理ができていないということになりますね、外交的には。
  143. 河野義男

    河野(義)政府委員 もし北朝鮮につきまして、この問題が外交的な処理をするということでありますれば、まだ決着がついていないということでございます。
  144. 森井忠良

    ○森井委員 ちょっとはっきりしないから、それでは、調査をするのですか、しないのですか。先ほどの戸井田政務次官の前向きの検討をしましようということは、調査をしなければどうしようもないわけですから、まず実態を御調査なさい。あるいは、あなたの方に資料があるのなら、それを公開しなさい。そうすれば調査にかわるわけですから。その点についてイエスかノーだけ一言、言ってください。
  145. 河野義男

    河野(義)政府委員 戦争中における朝鮮あるいは台湾、そういった方々の軍人としてのいろいろな資料、あるいは徴用工その他につきましての資料は、十分ではございませんけれども、実態を知るためには調査したいと思います。
  146. 森井忠良

    ○森井委員 では、時間の関係がありますから、次の問題に入らせていただきたいと思います。  けさほど来、問題になっております満州開拓青少年義勇隊。私どもは実は年ごろがちょうどそういう時期でございまして、私の小学校の同級生が何人も満蒙開拓青少年義勇軍に行ったという、そういう非常に悲惨な体験を私もしているわけであります。この問題につきましては、昭和四十年代に入りまして、もう議論がずっと出てまいりました。本委員会でも、去年も、そして、ことしのきょうの委員会でも問題になりました。これが終わらなければ戦後は終わらないという感じで、私は、もうどうしてもこの辺で決着をつけていきたい、こういうふうに考えておるわけです。  そこで、このたび厚生省としても昨年よりはちょっと進んだ方策をお立てになりました。昭和十二年の十一月三十日の閣議決定の時点まで延長する、こういうことでありまして、私は一定の評価ができると思うわけであります。これは該当者は何人ですか。
  147. 河野義男

    河野(義)政府委員 今回、昭和十二年の閣議決定まで適用の範囲を拡大したわけでございますが、実際に何人ぐらい出てくるであろうかという正確な推計はなかなかむずかしいわけでございますが、一応、従来、前回におきまして適用範囲を拡大した際に出てきた数字をもとにしまして、そのまま推計いたしますと、五十三年度に四十一名ぐらい該当者として出てくるのではなかろうかというふうに推計いたしております。
  148. 森井忠良

    ○森井委員 これまでは、昭和十四年の十二月二十二日、満洲開拓民に関する根本方策に関する件という閣議決定で、それ以降の人、しかも、訓練期間中のいわゆる義勇隊あるいは義勇軍に属している人のみ、若干例外としてソ連参戦ということがありますけれども、大体そういうふうに限っておやりになりました。今度はこれを昭和十二年の時点までさかのぼられたわけですけれども、これは理由は何ですか。
  149. 河野義男

    河野(義)政府委員 満州開拓青年義勇隊の範囲拡大につきましては、昨年の委員会におきましても、いろいろ御議論があったわけでございますが、考え方としましては、開拓青年義勇隊につきましては三年の訓練期間、国との特別な関係にあるということと、それから、それらの業務の中に軍事に関連した業務がある、そういうことを前提にいたしまして、そこまで範囲を拡大したわけでございますが、十四年から十二年までに拡大するに当たりまして、この義勇隊の訓練期間に軍事に関する業務ということにつきまして、いろいろ文献その他あるいは関係者の意見も聞くなどして検討したわけでございますが、当初なかなかそういったことが確認できる資料がなかったわけでございますが、今回そういったことを推測させる資料がありましたので、先生方のいろいろな御意見を踏まえまして、今回、昭和十二年の閣議決定の線までに拡大した次第でございます。
  150. 森井忠良

    ○森井委員 推測させるに足りる資料というのは、どんな資料だったのですか。
  151. 河野義男

    河野(義)政府委員 満州開拓青年義勇隊につきまして、関東軍の機関から感謝状が出てまいりまして、そのことから軍事に関連する勤務があったというふうに推測できるのではないかということで判断したわけでございます。
  152. 森井忠良

    ○森井委員 たまたま感謝状が出てきたということなんですが、これはまあ、せっかくおやりになっていただいて、私どもも評価をしておりますから悪口は決して申し上げません。御苦労さまでしたと申し上げたいのですが、発見が遅かったわけですね、結局。気がついてみたら、あの十四年の時点の閣議決定と同様なことを十二年の十一月三十日の閣議決定でやっておった。本質は変わっていなかったということで、そこで十四年を十二年まで延ばしたといいますか、前に延ばした、こういうことになったわけですね。
  153. 河野義男

    河野(義)政府委員 いろいろ御意見もございまして、一方では一応、文献、資料等で、そういう資料をわれわれなかなかつかみ得なかったわけでございますが、いろいろ御意見もございまして、並行してそういった資料の収集、検討をしたわけでございます。それで十四年あるいは十二年の閣議の要綱等を見ますと、十四年の閣議決定の内容には、客観的にそういった軍事訓練等、あるいは軍隊の業務につき得るような規定があったわけでございますが、十二年には直接そういった表現がなかったわけでございます。ところが、いま申しましたようなそういった事実が出てまいりましたので、そのことから、それからまた関係者の御意見もございましたので、そういうことを総合いたしまして適用範囲に加えた、こういう次第でございます。
  154. 森井忠良

    ○森井委員 これは後の議論でも関係してきますから、もう少し聞かしていただきたいのですが、昭和十二年十一月三十日閣議決定、満州に対する青年移民送出に関する件というのは、これは厚生省は早くから把握しておられたわけですね。そうでしょう。
  155. 河野義男

    河野(義)政府委員 いま先生の御指摘の満州に対する青年移民送出に関する件、これはいろいろ資料がございまして、これは承知しておりました。
  156. 森井忠良

    ○森井委員 大原委員から指摘がありましたように、一ころ封印をして隠しておったそうですから、それに入っておったかどうか知りませんけれども、いずれにしても私は、この時点、これが発見できたときに当然措置をされなければならないものが今日まで延び延びになったと理解をせざるを得ない。いまの御説明でも明らかになりましたように、事実上、昭和十四年の閣議決定以降の義勇隊、義勇軍と、それから、この昭和十二年の閣議決定以降の義勇軍、義勇隊とは質的に変わりなかったということで御提案になっていると思うのですね、私は。  それをまず確認をしておきたいのでありますが、ちょっととっぴな質問で恐縮ですけれども、私どうも良心の苛責を感じることがあるのは、とにかく措置をされるとき以降で、本件につきましても、さかのぼるということがないわけですね。実際には早く苦労しているんですよ。実際には昭和十三年の一月くらいから、少なくとも春くらいから渡満しているのです。後から昭和十四年から行った義勇軍については一応、本法の措置を受けておる。これはずばり申し上げれば、やはり行政の怠慢と申しますか行政のおくれだと私は思うのですけれども、同じ条件の人を、いまから、これ以降に何とかするというのは、私は実際問題として問題があると思う。まだ、これからいろいろ戦後処理の問題につきましては問題点が幾つか出てくるでしょうけれども、本来、国家補償というのは社会保障と違って遡及し得ると私は理解をしておるのです。社会保障はあくまでも、そのとき以降ということになりますが、援護法についても申請を待ってということがありますね。申請をしようにも法律がないのですから申請もできない。結果として、こういうふうに遅く出てまいりましたものが損をする。こういった場合に、ただ単にこれから実施をしますよという形でいいのかどうなのか。先ほど言いましたように、私は政治家の一人として自責の念に駆られるわけです。この点いかがですか。
  157. 河野義男

    河野(義)政府委員 援護法につきましてのいろいろ制度の改善につきましては、その一つが適用範囲の拡大でありまして、処遇の公正を期する上から処遇の範囲を逐次拡大するということで改善を図ってまいったわけでございますが、それにつきましては、もうすでに時日は経過しておるわけでございますが、適用範囲に拡大する、その時期から適用するというのも一つの方法でありますし、従来から、そういう方法をとってまいっておるわけでございます。
  158. 森井忠良

    ○森井委員 義勇軍の問題は後で続けますが、同じような問題で政務次官、警防団があるのですよ。御案内のとおり、四十九年に警防団の方も準軍属として扱われるようになりました。これは進歩でありますが、しかし警防団が準軍属として扱われるのは昭和十六年以降である、こういうことになっているわけですね。ところが警防団ができたのは、昭和十四年の一月二十四日勅令第二十号というのがあるんですね。昭和十四年にできているわけです。私はコピーをとって持ってまいりましたけれども、こういう仰々しい辞令を皆さんもらっているんですね。これを見ますと昭和十四年の四月一日、ですから先ほど申し上げましたように警防団ができたのは昭和十四年だということは、これはもう明らかになっている。援護局長、この点については問題ありませんね。
  159. 河野義男

    河野(義)政府委員 御指摘のように、警防団につきましては昭和十四年四月一日付で警防団令が施行されたわけでございます。その規定に基づきまして警防団の活動というのはあったわけでございます。
  160. 森井忠良

    ○森井委員 では、どうして昭和十六年以降の警防団員しか、この法律を適用しないのですか。
  161. 河野義男

    河野(義)政府委員 援護法の適用の対象といたしますのは、旧防空法の規定に基づきまして防空従事者としての特別の教育訓練を受けた警防団の幹部について援護法を適用するわけでございます。それはどういうことかと申しますと、国との特別な関係、軍人軍属と同様もしくはそれに準ずるような関係が必要であるわけでございますが、旧防空法の昭和十六年における改正によりまして、警防団の幹部要員につきまして旧防空法上の特別の任務につくというような改正があったわけでございます。その点に着目いたしまして、昭和十六年から防空法の改正によりまして防空法に基づく公共防空の業務についた場合に援護法を適用する、こういうふうになったわけでございます。
  162. 森井忠良

    ○森井委員 防空法との関係については私も議論がございます。第一、防空法の方が先にできているのですから、後で先ほど申し上げました警防団に関する昭和十四年の勅令二十号というのができていますから、その結びつきにつきましては、まだ私は議論があると思いますが、時間の関係もありますから、これはしばらくさておきます。  そこで、大臣もお見えでありますから、こういうのがあるのですよ。ちょっと読んでみますと、  門司市警防団員第一分団警護員故太田一夫君ハ昭和十四年四月九日警戒警報下命ノ為メ出動任務ニ従事中特命ヲ受ケ団員百五十名ト共二○○指揮ノ下ニ市内風師山山頂ニ向ケ○○運搬作業中(同所ハ登攀路狭隘ニシテ屈曲多ク而モ警戒管制中ニテ灯火ヲ用フル事能ハズ咫尺ヲ弁ゼザル暗夜困難ナル作業ニ従事中)ノ処如何ナル機ミナリシカ○○ノ下敷トナリ右大腿部全骨盤部ニ重傷ヲ負ヒ人事不省ニ陥リタルヲ以テ直チニ応急処置ヲ講ジ最寄病院ニ急行ノ途中午後八時五十六分絶命門司市警防団最初ノ尊キ犠牲者トナリタルモノナリ  尚仝君殉職ノ状況ハ之ヲ詳記スルコトヲ特ニ差控ヘ候ニ付御諒知下サレ度シ」 実は、これは非常に古い文章でありますが、私の下手な説明よりも読んだ方がいいと思って、そのまま読んだわけであります。  これは昭和十四年四月九日に、○○とありましたのは高射砲の陣地であります。これは目撃者も、そして亡くなられた犠牲者の診察に当たられたお医者さんもまだ現存しておられます。当然、関係の地方自治体に書類も残っております。いま私が読み上げましたものも、その一部だと御理解いただいて結構でございます。これは明確に警戒警報が発令されておりまして、そしていまお聞きのように高射砲陣地を構築する。これは昼は軍の機密に属することですからできない。結果として夜、しかも、いまはいい道路がついているそうでありますけれども、ここは読みましたように登はん路が狭隘で、しかも「屈曲多ク」となっておりますから曲がりくねった道でありましょう。それを百五十人ぐらいの警防団員が軍に指揮をされて山に登っていって、その途中高射砲の下敷きになった、こういうケースであります。この人は、ここに辞令があるわけでありますけれども、これは昭和十四年四月九日付になっておりまして、ついでに名前も申し上げますと太田一夫さんという方で「門司市警防團第一分團警護部班長ヲ命ズ 門司警察署長 地方警視北村兼而」こうなっておるわけです。  これはもう多くを申し上げません。ちょうど大臣がお見えになりましたから申し上げるのでありますが、あの満州開拓青少年義勇隊の人が、役所の発見によって結果として十四年の閣議決定を十二年の時点までさかのぼらされました。そして救済をなさるという。私は全くこれと同じケースだと思うわけでありまして、先ほど御確認をいただきましたように、警防団があったということについても、もうすでに勅令で明確になっているものであります。しかも、やっておりました仕事も全く同じ。ただ厚生省と私どもで争いがありますのは、旧防空法の適用があったかどうかという問題が一つ残ってまいります。これは防空法の改正の問題とも考え合わせまして、恐らく先ほど援護局長が答弁になったようなことだろうと私は思うのでありますが、しかし先ほど言ったこととは別に、いままでの厚生省の姿勢からすれば、明らかにこれは軍の命を受け、そして軍の行動にそのまま服従をした結果、殉職をしたわけであります。ここに私は写真も持ってきておるわけでありますが、そういうことで、初めての殉職ということで大々的な町葬が行われていることが明らかになっております。  私は全国的にそうたくさんの人数ではないと思うのです。何といいましても、太平洋戦争が始まりまして以降は御承知のとおり防空業務は急速にふえてまいりましたけれども、まだ十四年発足当時の警防団員につきましては、そう人数は多くなかったし、また業務についても、そう忙しい状態ではなかったと思うので、全国的には満州開拓青少年義勇隊と同じように本当に数は非常に少ないのじゃないかというふうに理解をいたしておりますが、これについても、今回の満蒙開拓青少年義勇隊が十二年の時点までさかのぼられたのを契機として私は片手落ちではないかと思うのです。警防団という性格、それから軍の命令に服した。まさにこれは特別権力関係と同じでありまして、もし拒否したら、それこそこれは大変であります。第一、警防団は委嘱するものじゃない。「班長ヲ命ズ」こうなっているわけです。先ほども読み上げましたとおりでありまして、拒否ができるというような性質のものじゃないわけであります。これ以上申し上げませんけれども、これはひとつぜひとも、少なくとも来年度以降において検討の上、具体的な措置をとられるように要求をいたしたいと思うわけであります。大臣いかがですか。
  163. 河野義男

    河野(義)政府委員 御指摘のケースにつきましては、命をなげうって防空活動をされまして、その献身的、協力的な行為につきましては、われわれも敬服しますし、またお気の毒に思うわけでございますが、援護法におきましては、やはり国との特別な関係ということが一つ要件になるわけでございます。そこで、昭和十六年の防空法の改正によりまして「地方長官ハ勅令ノ定ムル所ニ依リ防空ノ實施ニ關スル特別ノ教育訓練ヲ受ケタル者ヲシテ防空ノ實施ニ從事セシムルコトヲ得」こういう改正がされまして、そういう特別の防空の実施に従事する職員には地方長官が従事令書を出す。しかも、その業務については非常に強い罰則の規定があるわけでございます。こういった国との特別な関係に着目いたしまして、従事令書の出た防空従事者が防空の実施について傷病にかかった場合に援護法で救済する、こういうたてまえでございまして、いまのお話の実態につきましては非常に気の毒だと思いますけれども、援護法の体系の中でこれを考えるということは非常にむずかしいのではないか、こういうふうに考えるわけでございます。
  164. 森井忠良

    ○森井委員 もうあそこまで言えばわかってもらえると思うから私は言わなかったのですが、先ほど読み上げたのは昭和十四年四月九日なんです。この殉職の状況を読み上げてみたわけですが、亡くなった日が四月九日なんです。これは正確に言いますと四月一日で警防団員の辞令をまずもらった。亡くなったから「第一分團警護部班長ヲ命ズ」と一階級昇格をさせて、この人の労をねぎらったというこれは辞令なんですよ。だから、きょう持ってきておりませんけれども、恐らく遺族は持っていると思うのですが、この前に四月一日付の警防団の辞令が出ていた。これは何ら疑いの余地がない。いまあなたが言われましたように、これは防空法でも、先ほど申し上げました昭和十四年一月二十四日の勅令第二十号でも、やはり同じように地方長官がかんでいるのです。警防団については原則として軍や国が直接ということではなかったわけです。これは御案内のとおりであります。ですから、あなたがおっしゃった答弁から見ても国との特別権力関係というのは、警防団をつくるというのは根拠は先ほど申し上げたとおり勅令です。勅令で警防団をつくれとなっている。それぞれの必要な人に辞令を渡して、もらった辞令に基づいて高射砲陣地の築造に当たっている。深夜危険な仕事をして殺された。亡くなった結果、先ほど申し上げましたように町葬の写真もありますけれども、現実にはこのときに、消防でも、あるいはかつての軍隊でも、亡くなられたときに一階級、二階級特進というのがよくありますね。それで恐らく亡くなられた方の労に報いるために、わざわざ班長という辞令を続いてお出しになったのじゃないかと私、理解をいたしますけれども、いずれにしても、一つの例に挙げたわけでありまして、私は警防団につきましては防空法という根拠でなくて、くどいようでありますけれども、それ以前に具体的に満州の義勇隊と同じようにこれも少しさかのぼる必要があるということについては紛れもないことなんで、きょうというのは、なかなかむずかしい点があるかもわかりませんけれども、ひとつぜひとも再検討の上、来年度以降、具体的な措置をしていただきますように私はお願いをしておきたいと思うのです。大臣いかがですか。
  165. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 恐らく大東亜戦争勃発後、防空法の改正をやって、そういう強力なる命令といいますか特別権力関係におきまして防空の実施に従事せしめるというようなことをやったのじゃないかと思うのでございますが、警防団の場合は団員を命ずるあるいは役職の班長にするとかということはあっても、いま先生がお挙げになったのは、実態としては確かに〇〇の命令、こうなっておるのですが、実は今度防空法の改正以後のものには、いわゆる従事命令というものを一つの要件にしております。その従事命令というものが、いま先生がおっしゃったのは命令書が出たのか、出ないのか。実態は恐らくそうだったんだろうと思うのですが、高射砲陣地を構築するために警防団がたまたまできたものだから、署長なり、あるいは当時の県庁なり、あるいはそこにいる軍隊、どういう師団構成かわかりませんけれども、そこから何か口頭指示をやったのだろうと思うのです。実態は同じなんですけれども、従事令書というもの、それと大東亜戦争後のこの法律改正というものを着目してやったものですから、実態は同じでも、どうもそういうはみ出た人が出てくる、こういうことだろうと思うのでございますが、おっしゃるように非常にレアケースだと思いますから、私も、まだ余り詳しくないものですから、検討させていただきたいと思います。
  166. 森井忠良

    ○森井委員 きょうのところは、それで結構ですけれども、御参考までに申し上げますと、太平洋戦争はもちろん始まっていなかったわけでありますが、日華事変中ではあったわけです。特に場所が下関という、言うなれば中国大陸に近いところであったために、警戒警報はしばしば発せられておったということが一つ。それから、命令があったかどうかということにつきましては、これは本当に、もう、うかつだったのですが、どこのどういう文書だというのは調べればすぐわかるのですが、きょうのところは間に合わないから、いま読み上げただけなんですけれども、これは公文書に近いものだろうと思うのです。やはり「命ヲ受ケ」と、こうなっているのです。命を受けて行った。だから、この文書が、仮にその当時の町村役場とか、あるいは県庁とか、きちっとしたところが発行したものなら、それだけで十分証拠になり得る文書だと私は理解をいたしております。そういう点を含んで御検討いただきたいというふうに思います。  それでは、時間がありませんから、また満州開拓青少年義勇隊の問題に入りたいと思いますが、例の、昭和十二年の十一月三十日の閣議決定でありますけれども、これは紛れもなく閣議決定でありますから、こういうのをお出しになったのでありますが、その当時、日本の国としては、この閣議決定を所管する役所はどこだったのですか。
  167. 河野義男

    河野(義)政府委員 昭和十二年の満蒙開拓青年義勇隊に関する閣議決定は、当時は拓務省がございまして、拓務省の所管になっていたわけでございます。
  168. 森井忠良

    ○森井委員 そうしますと、当時の満州国ですね、そこではどこが所管しておったのでしょうか。
  169. 河野義男

    河野(義)政府委員 満州国政府との関係もございますが、具体的に政府の中のどの部局かという点につきましては、いまちょっと手元に資料がございませんので、調べまして、また御回答いたします。
  170. 森井忠良

    ○森井委員 この問題については二つ問題があったわけですね。一つは、十四年の閣議決定を十二年の閣議決定まで引き上げる問題と、もう一つは、いわゆる義勇隊開拓団ですね、これの関係と、二つ問題が残っていまして、そのうち一つは今回、解決になられたということで、私も先ほど来、評価を申し上げておるわけでありますが、義勇隊開拓団の問題は、先ほど来わが党の川本委員等の御質問に対しては、いろいろ極端に言えば民間の開拓移民と同じような側面もあるということを盛んに話しておられまして、これは川本委員と見解が大きく食い違っておりましたけれども、では、満州国で一体義勇隊開拓団の所管の役所が厚生省でおわかりにならないのですか。
  171. 河野義男

    河野(義)政府委員 満州国政府の機関の対応する役所は、満州開拓総局のようでございます。
  172. 森井忠良

    ○森井委員 時間がもうありませんから、私の方で申し上げるわけでありますが、おっしゃるとおり満州国興農部開拓総局というところが開拓行政の総元締めだったわけですね。義勇隊開拓団にしぼって申し上げますと、所管の役所あるいは団体、そういったものだけは言ってもらえますか。どうもぼくから言うのも変でね。明らかにしておきたい点でございますから。
  173. 河野義男

    河野(義)政府委員 満州国政府の所管の大臣は産業部大臣でございます。
  174. 森井忠良

    ○森井委員 間違いがあれば指摘をしてもらうとして、時間の関係もありますから私から申し上げたいと思うのでありますが、開拓に関するすべての経済的援助、義勇隊開拓団ですね、こういったところの、たとえば土地の取得とかあるいは配分とか、そのほか指導とか、そういったものも含めてやっておったところに満州拓殖公社というのがございましたね。これは満州拓殖委員会というところの指導を受ける機関になっていますね。しかも、これは川本委員と角度が違うわけでありますが、満州拓殖公社の総裁は、これは総裁という名称を使っていますが、陸軍中将二宮治重ですね。それから、いわゆる義勇隊の訓練をやっておりましたけれども、訓練本部の本部長は陸軍中将井上政吉、どちらも日本の将軍であります。ここで一切を取り仕切っておった、このことはお認めになりますか。
  175. 河野義男

    河野(義)政府委員 いま、その当時の公社の長が陸軍中将二宮とか、そういった具体的な方の名前は承知しておりませんけれども、拓殖公社は義勇隊の訓練所の経営をしていたことは承知しております。
  176. 森井忠良

    ○森井委員 時間が参りましたので、これはきわめて残念でありますが、もう残さざるを得なくなりましたけれども、明確に申し上げておきたいと思うのでありますが、結論から言えば、満州開拓青少年義勇隊開拓団、もう御承知のとおり、これは青年義勇隊から一定の訓練を終えた者が義勇隊開拓団という名前になっておる。一般の開拓団と違って、上に義勇隊という名称がくっついているわけですね。けさほどわが党の川本委員が具体的に当時の状況を申し上げましたように、これは関東軍よりもさらに北の方に、ずっと開拓団として赴任をさせられた。移動一つできないのです。私はここに持っておりますが、その当時の貴重な一つだっただろうと思うのでありますが、義勇隊開拓団の団員がたまたま旅行しようとするときの旅行の証明書、証明書となっておりますが、実質的にはこれは許可書だと思うのでありますが、勝手に動いてはならぬということになっておりました。先ほど申し上げましたように、拓殖公社も含めて、要するに入植についても、すべて、その当時、権力が介入した。  もとは、申し上げましたように義勇隊から、訓練を終えた者がいやおうなしに義勇隊開拓団にさせられた。しかも、御承知のとおり甲、乙、丙という三つの現地訓練所がありますけれども、丙になりますと、あなた方のいままでの説明と合わなくなってくるわけでありまして、たとえばお医者さんだとか特殊な技術を要するものは、基礎的な三年の訓練を終えた後に、さらに次の訓練に行かなければならない。私の持っておる資料でいきますと、実は三年間の訓練以外に義勇隊開拓団訓練所というのがあるのです。本来、義勇隊開拓団には訓練所はないはずなんです。ところが、これは私もまだ自分の力が足りませんから、きょう皆さんに明確に申し上げることはできないので、調べていただきたいのでありますが、問題点としては、いままでは、内原の二カ月の訓練所から渡満をいたしまして、基礎、現地の訓練を合わせて三年、正確には三年二カ月になるのですか、いずれにいたしましてもその程度の期間で、後は義勇隊開拓団です。こう御説明がありました。ところが、これは康徳九年十月十九日となっておりますから日本のあれに直して何年かわかりませんが、その当時の東安省勃利県大東、そこの開拓団におられた方で、私が具体的に証明書も持っておりますけれども、この人は傷病年金の申請をしたいということで出しまして、みごと厚生省にけられたケースの一つでありますが、供述書をずっと読んでみますと、どうも三年以降のまた訓練所があったと見られます。具体的に傷病年金の請求の原因になったのは、軍事用の木炭のための材木を伐採中に破片が目に飛んで失明をしたというケースであります。軍事用の木炭ということであり、御承知のとおり燃料がなかったですから、木炭をたいて自動車を走らせたということなんでしょうけれども、きわめて深刻なケースであります。  時間が参りましたからやめますけれども、いずれにいたしましても今回一つの前進として先ほど申し上げましたような措置をおとりになりましたけれども、まだ義勇隊開拓団の問題について大きな問題が残されている。私どもも調査をしますが、受けて立つということじゃなくて、ぜひとも厚生省としても前向きにお考えをいただきたい。大臣は先ほど、とにかくどこかで線を引かなければならぬが、せめて社会労働委員会で議論が煮詰まるものについては、やはり少しでも何とかしたいという気持ちに変わりはないということもおっしゃいました。あくまでも、これは社会労働委員会での合意ということもありますけれども、こういうことなんですね。この法律ができました昭和二十七年以降のたとえば遺族年金等の対象者を見ますと、大臣、最初は五十五万二千百三十三人該当者があったんですね。これはもちろん軍人が入っていましたから、それが二十八年に軍人恩給ができましたから、実質的には、その次の数字だと思うのでありますが、三十六万一千四百五十三人、二十八年当時いらっしゃった。それが五十二年の時点では、大臣、もう三分の一以下に減ってついに十万を割りまして、いま九万六千九百人の該当者になった、こういうふうになっておるわけです。つまり、遺族年金等の該当者は年をとられてどんどん亡くなっていくわけです。したがって、経費のことをいろいろ言われますけれども、むしろ該当者が減った分だけ、これからはふやしやすい要素もあるわけだから、とにかく、この問題については、きょうのところはこれで終わりますけれども、ぜひともひとつ調査も含めて前向きに、これから検討していただく、このことを強くお願いをしておきたいと思うのです。最後に大臣のお答えをいただきたい。
  177. 河野義男

    河野(義)政府委員 いま御指摘がございまして開拓団訓練所の問題を提起されましたが、私ども、その辺、承知しておりませんので、いろいろ開拓団の周辺の問題でわからない点もあると思いますが、今後そういった点につきまして実態の解明につきましては調査、検討を続けていきたい、かように考えております。
  178. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 開拓青年義勇隊というものは、実は私、戦後東京で厚生省時代なんですが、ここから帰ってきた青年を私の家に四年ばかり置きまして、夜間に入れて、りっぱな水道の技術者にして、いま川崎市で働いておりますが、いろいろ聞いて、当時こんな問題が直ちに起こるとは思いませんから、詳しくは聞かなかったのですが、いろんな事態、例があるようでございます。ただ、当時出ましたパンフレット等には、ほかの事情があったのかどうかわかりませんが、全く軍とは関係ないんだというパンフレット等もありまして、これは恐らく何らかいろいろな意味で、むしろそれを強調したんじゃないかと思われるのですけれども、私は先生のおっしゃるような点も調べてみれば、いろいろあるのだろうと思うのでございます。できるだけ援護局の方で詳細に調べてみまして、将来いやしくも同じような人たちが公平な取り扱いを受けないということではいかぬと思いますので、十分念を入れて調査をし研究をさせますから、その上でまた、いろいろ御議論いただきたいと思います。
  179. 木野晴夫

    木野委員長 次に、和田耕作君。     〔委員長退席、竹内(黎)委員長代理着席〕
  180. 和田耕作

    和田(耕)委員 いま同僚の委員から満州の開拓民の問題と青年義勇隊の問題についての御質問がございました。ちょうど私も、そのころ満州の新京におりました。今度の敗戦で日本の民族にとってさまざまな悲惨な状態があったのですけれども、あの敗戦のときの満州の開拓団あるいは青年義勇隊その他の人たちの置かれた状態というのは、私は世界の歴史にも残るほど大きな規模の、しかも深刻な内容を持ったものだと思うのですね。ちょうど私も新京で難民の救済の片手間の仕事をしたこともありましたけれども、特に開拓団を中心に地方から新京へ、ハルビンへ、奉天へ、あるいは撫順へと流れてくる人たちの難民救済所というのは全く目を覆うような状態だったと思います。お母さん、お父さんがばたばた倒れていく、子供さんが当時の満人と言われる中国人に引き取られていく、そういう状態がいまだに目の前にほうふつといたします。  厚生省として戦後処理と言われるいろいろな引揚げの問題についての補償等については、ある線を引きたいという気持ちはわからぬではないのですけれども、余りその気持ちでもって、こういう問題に対処しますと非常に不公正な問題が出てくる気がするのですね。たとえば、いまの満蒙開拓青年義勇隊の問題にしましても、昭和十四年までの閣議決定まではカバーされたが、今回は昭和十二年十一月三十日の閣議決定まで延ばされた。こういう問題も、いまも同僚委員の質問のように、同じような性質の人が後からの調べでカバーすべきものであったというふうなこともあるわけで、これはひとつ今後ともそういう目で、やはり救済すべきものは救済するのだという立場で、余り、あるところで線を引くということを重視されないで、そのような立場で、このような問題に対処していくという心構えが必要じゃないかと思うのです。  私が申し上げる中国の、いわゆる親を捜しておる孤児の問題も、これは二代目なんですね。しかも、これはぜひとも国としても、ある種の責任を持って対処しなければならない問題だとも思うのですけれども、大臣、このような問題について厚生省の、厚生大臣としての基本的な一つの考え方、姿勢というものを、まずお伺いいたしたいと思います。
  181. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 私も、その点はもっともだと思うので、先ほど言いましたように、やはり取り扱いの公平というものだけは考えていかなければいかぬだろう。その場合に、やはりいままでの国の考え方というのは、国とのつながりという、ある命令によりあるいは強制力により、何らかの意味で、そうした特別権力関係というものを最低の要件にしておるわけでございますから、そこで実態上ちょっと公平を失するじゃないか。あるいは、こういう人も同じように気の毒じゃないかというケースが、どうしてもはみ出して出てくるわけでございます。したがって、援護法の国家補償という立場から見ますと、やはり特別権力関係というものを、しっかりした条件として把握しておかなければどうしてもだめなんで、その場合に起こってくる、はみ出してくる方々に対する援護あるいは何らかの救済措置というものは、それとは別個な面で考えなければいかぬのではないだろうか。  そういうものなら、やはり厚生大臣として、また厚生省が、引き揚げてきた方々に対するいろいろな援護措置を考える場合に、そういう柔軟なところが必要なら、また対象者も柔軟に考えていただく方がいいんじゃないか。国家補償でぴしっとやる場合には条件としては、どうしても特別権力関係にきちっとした態様がないと、またそれが明確でないと、なかなか踏み切れない。しかし、さりとて、その人たちがオール・オア・ナッシングになるということについてはいいか、こう言われますと、それはやはり、ただゼロでなくて何らかの措置をとるべきじゃないか。内地の戦災者についてもいろいろと考えてみますと、そういう点がどうもいままでは、もうオール・オア・ナッシングですべて考えますので、そうでない行き方を少し考えてみたらどうかなという気がしておるわけでございます。
  182. 和田耕作

    和田(耕)委員 やはり中国との関係においての戦後処理の問題を考えてみる場合に、田中総理大臣が昭和四十七年九月に北京に飛んで、そして日中の国交回復のための共同宣言を行った。これは、私は当時のことを思い出しますと、本当に画期的な歴史的な大きな仕事だったと思うのですね。この仕事、私どもも必ずしもその当時、賛成したわけではありませんけれども、あの険しい賛否の中で、そして重大ないろんなことも起こり得る状態のもとで田中総理大臣が中国へ飛んで、この問題をみごとな形で解決をした。これは私は田中さんの大きな功績の一つだと思うのですね。この問題を経て日中のいろんな問題が公式に処理されるような形になってきたわけでございます。  そこで、その状態のもとで起こってきた幾つかの問題があるわけですけれども、中国大陸、特に北方、東北各省の地に多いのですけれども、敗戦によって、いろんな形で中国に残された人たちで、しかも日本に帰還したい、日本に永住したい、そういうふうな人たちが公然と、その希望を述べられるような形になってきたわけですね。きょうは時間も余りありませんから、ひとつ簡明にお答えいただきたいと思いますけれども、その四十七年の日中共同声明がされてから、日本に帰国したい、永住したいという形で日本に帰ってきた人の数をどういうふうに厚生省はつかまえておられるのか、まず、そこからお伺いいたしたい。
  183. 河野義男

    河野(義)政府委員 日中国交回復後におきまして中国から帰国された方は三百七十六世帯であり、千二百九十三人となっております。そのほかに一時帰国者が三千九百六十六名ということでございます。
  184. 和田耕作

    和田(耕)委員 前の数字千二百九十三、この数字の中にはどういう人たちが入っておりますか。たとえば中国へ残った人で、中国政府の必要でもって向こうへ徴用された人だとか、あるいは子供が、おやじさんが亡くなって、あるいは子供を見ることができなくて中国人に引き取られたとか、あるいは戦犯だとか、いろんな形があると思いますけれども、これはそれ全部の数字ですか。
  185. 河野義男

    河野(義)政府委員 この帰国者の千二百九十三名個々について、どういう事情であったかということは、いま手元に資料ございませんが、いろいろ事情があって帰国できなかった人だろうと思います。その中には中国人と結婚していて、あるいは子供さんの教育とか、いろいろ問題があって帰国がおくれた人であろうというふうに思うわけでございます。  その中で先ほど、ちょっとお話がございました中国孤児の引き揚げの状況を見ますと、日中国交正常化後、現在まで十四人でございます。これが永住帰国です。それから一時帰国された方が五十七人、こういうふうになっております。
  186. 和田耕作

    和田(耕)委員 孤児と言われる人が十四人ですか。
  187. 河野義男

    河野(義)政府委員 永住のために帰国した人です。
  188. 和田耕作

    和田(耕)委員 それで、親を捜してほしいという申し出があった人、厚生省にそういう願いがあった人はどれぐらいになっていますか。
  189. 河野義男

    河野(義)政府委員 中国にいる孤児からの依頼とか、あるいは大使館等を通じて調査の依頼、そういったものの数は七百七十三名でございます。
  190. 和田耕作

    和田(耕)委員 その数を厚生省で調べた結果、親あるいは身寄りの人がわかった数はどれぐらいになりますか。
  191. 河野義男

    河野(義)政府委員 そういう調査の依頼がございますと、厚生省に持っております資料とか、あるいは都道府県にあります資料などと照合するという方法をとりまして、身元が判明いたしましたのが四百二十二名でございます。現在調査中の者が三百五十一名でございます。
  192. 和田耕作

    和田(耕)委員 この人たちは日本に帰りたいという希望を持っておるかどうか、その状態はどういうことになっていますか。
  193. 河野義男

    河野(義)政府委員 この七百七十三名は日本に帰国したいという希望のある方でございます。
  194. 和田耕作

    和田(耕)委員 これが帰国を希望しておりながら実現しないということについて、これは実情はどうなんですか。これは中国の方で調べがまだ完了していないとか、あるいは日本の方で、いろいろまだ問題があるとか、いろいろな事情があると思いますけれども、この帰りたい希望を持っている人たちがいまだに帰れないという理由は、どういうことなのですか。
  195. 河野義男

    河野(義)政府委員 まだ現在調査中の者が三百五十一名と申しましたが、これらの者につきましては、いろいろの関係資料等照合などをしておりますが、一番問題は、こういった中国孤児というのは、引き揚げるとき中国人に預けて帰るとか、非常に小さいときのことでございまして、当時の留守家族とか親についての記憶とか、そういうものが定かでないというようなことがございまして、なかなか身元あるいは留守家族を捜すのが困難なケースが多いわけでございます。したがいまして、そういった事情がございますので、いろいろ手持ちの資料その他で照合して手がかりをつかむわけでございますが、手がかりのつかみにくい者につきましては、報道機関の協力を得まして公開調査をする、こういうようなこともやっておるわけでございます。  帰れない理由は、肉親とか留守家族、そういう方たちが把握できないということが一番の原因でございます。
  196. 和田耕作

    和田(耕)委員 わかっている四百二十二人という人は、帰ろうと思えば帰れるわけですね。
  197. 河野義男

    河野(義)政府委員 身元が判明したわけでございますので、帰ろうと思えば帰れるような状況にある人でございます。
  198. 和田耕作

    和田(耕)委員 その中で現に帰った人は。
  199. 河野義男

    河野(義)政府委員 その数字は先ほど申し上げましたように、中国孤児の引き揚げの状況は、日中国交回復後、現在まで十四名というふうに申し上げましたわけでございまして、その十四名が帰ってきている、こういうことでございます。
  200. 和田耕作

    和田(耕)委員 十四名ですか。何か私が普通聞いているのと、えらいずいぶん数が違うのだけれども。
  201. 河野義男

    河野(義)政府委員 受け入れる方の側、それから中国から出国する場合のいろいろな問題等がございまして、主として、その人たちのいろいろな事情によりまして直ちには帰国できない。それからまた、帰国についての許可の手続が必要であるわけでございますが、まだ許可がおりていない、そういうケースが多いわけでございます。
  202. 和田耕作

    和田(耕)委員 それで重ねて聞きますけれども、実際にその孤児として帰った人は十四名、それから検討中が五十七名……。
  203. 河野義男

    河野(義)政府委員 五十七名は一時帰国された方です。
  204. 和田耕作

    和田(耕)委員 一時帰国が五十七名、実際に帰ったのは十四名。そうですか。三百数十名の人が帰ったというふうに私、聞いておりましたけれども、これはどういう数字ですか。
  205. 河野義男

    河野(義)政府委員 三百五十一名と申しますのは、中国孤児で身元がなかなかわからぬわけでございますが、その身元調査の依頼を受けた者につきましていろいろ調査いたしまして、三百五十一名について身元が判明いたしまして、そのうち受け入れる方の側あるいは出国するにつきましてのいろいろな手続等ができまして帰ってみえたのが十四人でございまして、これには、その同伴家族は含まれておりませんので、同伴家族を含めますと若干数字がふえると思います。
  206. 和田耕作

    和田(耕)委員 それは私が調べた数字とえらい違うので、これからの質問がまるっきり変わってくるわけでございますけれども、十四名しか帰っていない。一時帰国が五十七名。これは共同宣言が行われてからずっと五年間の数字ですね。
  207. 河野義男

    河野(義)政府委員 そうでございます。
  208. 和田耕作

    和田(耕)委員 それだと、その人たちの実態調査ですが、昨年、社会党の山本政弘君が政府に尋ねたものに対する政府の回答があるのですけれども、この人たちに、政府が予算三千万円ぐらいつくって生活指導員を置くとか、いろいろなあれがありましたね。この人たちの対象は、この全部の人ですか、孤児だけでなくて。
  209. 河野義男

    河野(義)政府委員 引揚者生活指導員が個別のケースについて生活指導あるいは習慣あるいは言葉、それから就職、そういった指導をしておるわけでございますが、これは先ほど申しました中国からの引き揚げ者全体を対象にして、そういう仕事をやっていただいておるわけでございます。
  210. 和田耕作

    和田(耕)委員 その中の孤児が、いまの十四名ということですね。それでよくわかりました。  そういうことになりますと、話を前の問題に戻しまして、中国からの引き揚げ者ということになると、この人たちが非常に困っている問題が幾つかあるわけですね。たとえば言葉がわからないということがまず第一番困る問題。この言葉がわからないということに対して、政府としてどのような対策を持っておりますか。
  211. 河野義男

    河野(義)政府委員 御指摘のように特に中国孤児につきましては日本語がわからないわけでございまして、日本で生活するため、あるいは就職して仕事をする場合に、まず言葉の問題があるわけでございます。そこで日本語の習得につきましては一番力を入れていろいろな援助をしておるわけでございます。  まず引揚者生活指導員、これは五十二年度からこの制度を発足させたわけでございますが、個別のケースにつきまして日本語の習得とか、あるいは生活習慣、就労あっせん、いろいろな指導をしております。それからまた日本語習得のための教科書と申しますか、そういうものも渡しておるわけでございますが、教科書となりますと目で見て読むわけでございますが、やはり言葉を習得するためには耳からのなにも必要であるわけでございまして、五十三年度からはカセットテープとかそれからテープコーダー、そういったものも支給したいというふうに考えておりますし、それからまた職業につく場合にも、先ほど申しましたように日本語をまず習得しなければならぬという場合に、生活保護の生業扶助、そういう生活保護法の援助も活用できる、そういう道も開いて、中国からの引き揚げ者にまず日本語を早く習得していただくというような努力を続けておるわけでございます。
  212. 和田耕作

    和田(耕)委員 いま生活指導員の人が総括的な相談相手になって、いろいろ言葉の問題とか就職の問題、住宅の問題、そういうことを援助するわけですね。
  213. 河野義男

    河野(義)政府委員 引揚者生活指導員の仕事と申しますか、やっていただくことは、まず中国と日本とは生活習慣が違うわけでございますが、日本の生活に早くなれてもらうためには、その生活習慣についていろいろ指導するとか、あるいは日本語の習得につきまして、これらの人はかつて早く中国から帰国されたような方が中心でございまして、中国語、日本語ができる方でございますし、また、そういった方の心情とかも十分理解される人だろうと思います。それから、就労についていろいろお世話する、それから福祉のいろいろな制度の活用につきましても相談に応じて助言、援助していただく、こういうことを期待しておるわけでございます。
  214. 和田耕作

    和田(耕)委員 引き揚げ者の千何人という中で身寄りのない人がおりますね。身寄りのない人はどれくらいおりますか。
  215. 河野義男

    河野(義)政府委員 帰国者の千二百九十三名中、身寄りがないケース、いまちょっと手元に資料がございませんので、また後で御報告したいと思います。
  216. 和田耕作

    和田(耕)委員 私の調べた数字では約三分の一強の人が身寄りがない。千二百人の三分の一となると四百人。身寄りのある人なら、まだ、いまお話しのようなことで不十分ながらある程度できると思うけれども、身寄りのない人は、それをやるだけでは何ともならないと私は思うのですが、どうでしょう。
  217. 河野義男

    河野(義)政府委員 身寄りのない方につきましては市町村長が身元引き受けと申しますか、これらの人について定着先でいろいろ世話をしていただく、こういうことになるわけでございますが、私の方でとらえておりますのは、非常に少ない数だというふうに理解しております。
  218. 和田耕作

    和田(耕)委員 「ボランタリー」に、いろいろ、そういう世話をしている人の数字が出ておりますけれども、驚くほど多いのですね。これは後から、その数字を申し上げますけれども、つまり各県とか市がいろいろ世話をしておるということですけれども、その世話が各県によって非常にばらばらだし、よくやっているところもあれば、非常にまずい、ごく形式的なところもあると聞いておりますけれども、そういう問題、厚生省は大体うまくいっていると判断されておられますか。
  219. 河野義男

    河野(義)政府委員 中国からの引き揚げ者を受け入れるにつきましては、厚生省、都道府県、市町村と緊密な連絡をとりまして、それぞれの方に最も適合したいろいろな援助をしていくということでやっておるわけでございます。全国画一的な援助というわけではございませんで、その方に最も適した温かい援助をするという考え方で緊密な連絡のもとにやっておるわけでございますが、実際のケースでは言葉とか就労とか、うまくいっているケースもございますし、あるいは非常に苦労されているケースもございます。それからまた時間の経過等によりまして、苦労されても後で非常に成功されるとか、いろいろございまして、画一的にどうだという評価はむずかしいんじゃないか、こういうふうに思います。
  220. 和田耕作

    和田(耕)委員 仕事の問題はどうなんでしょう。帰国して大体どれくらいのうちに、どれくらいの人が仕事を見つけられるでしょう。
  221. 河野義男

    河野(義)政府委員 実際に個々の引き揚げられた方が、どういう仕事に、どのぐらいの期間たって就職されたか、その後の状況はどうかということを統計的に把握はしておりませんけれども、先ほどの生活指導員の指導状況の報告、その他、県等からのいろいろな連絡によりまして部分的に把握しているという状況でございます。
  222. 和田耕作

    和田(耕)委員 去年の十月二十三日の山本政弘君への政府からの報告ですけれども、これにはいろいろ就職、生活状況等について実情を把握したいということですが、このためにどういう措置を講じておりますか。
  223. 河野義男

    河野(義)政府委員 いま申し上げましたように、全体についてはまだ把握しておりませんけれども、今後、今年度末かあるいは来年度早々に全体についていろいろ調査をしてみたい、その結果を踏まえて、また適切な指導をするための資料にしたい、こういうふうに考えております。
  224. 和田耕作

    和田(耕)委員 問題は、中国政府としては向こうでよく調べて、日本で身元がしっかりしている、帰しても十分やっていけると思う人を帰しているわけですね。それに対して日本側として、いま、こういう問題を一生懸命に自発的にやっておる団体の調べによりますと、五百人ぐらいを引き抜いて一定の調査をしているのですけれども、たとえば帰ってから仕事があると言った人が百十人に対して、仕事がないと言った人が四百五人、つまり四倍の人が仕事がないという状態ですね。これは帰ってから後の長い調査じゃないのですけれども、そういう数字もあるし、生活保護の適用については、同じ人数の調査によると百二十五の世帯が生活保護の適用を受けておるし、三十一世帯が生活保護の適用を受けていない。生活保護を受ける生活をしている状態なんですね。こういうふうに、言葉はわからないし、また後から申し上げる国籍等の問題もあって、なかなか仕事につけないというのが実情なんですね。  そういう問題については早く調べて、日本に帰っても大丈夫りっぱに生活できておるということがないと、これは国と国との約束事ですから、向こうの方は相当好意を持って、日本に帰りたいという人について調べて、話によると、かなり優遇した形で旅費その他も与えて帰すらしいのですけれども、肝心の受け入れる日本の方で、こうやっています。こうやっていますと言っても実際に仕事についていない。生活保護の生活をしている。あるいは言葉のわからない人が非常に多い。この調査によると、これは当然のことだけれども話せる人が二二%、全然話せない人が七八%。言葉を覚えるのは並み大抵じゃないですね。こういうような状態のもとで受け入れ側が、せっかく日本に行っても、かえってつまらぬからなというような感じを与えるような状態ではないかという感じがするのですね。  こういうことでは大臣、向こうの方も安心してこっちへ送ってこられないということにもなりかねないことであって、もっと日本側の受け入れ体制を整備していくということが非常に重要な問題だと思うのですね。これから平和条約が間近い段階のようですけれども、そういう問題について日本側が大丈夫、責任持って受け入れてあげようというような体制をもっと整備する必要があるのではないかと思うのですが、この点いかがでしょう。
  225. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 おっしゃるとおりだと思います。いまの永住帰国者千二百九十三名の方々につきまして、これは私どもの援護局の方でわかると思いますから、早急に都道府県、市町村と連絡をとって実態をよく調べてみます。できるだけ早く調べまして、どこが足りないのか、どうしたらいいのかということについて、調査の結果で私どもとしても対策をひとつ立ててみたいと思います。
  226. 和田耕作

    和田(耕)委員 特にその問題を考える場合に、中国から帰って来た人を羽田に迎えて各都道府県の関係官がそれを案内するとか、いろいろな形があるようですけれども、それを見届けておるいろいろなボランタリーな団体があるのです。その人は自分の持ち出しで、いろいろな世話をしているのですが、その人の話を聞きますと、これはやはり身寄りのしっかりした人はいいのですけれども、そうでない人が相当おるようです。実際問題として。そういう人は三カ月なりあるいは半年なり、希望にもよりますけれども、国が引き揚げに対する、ある一つのお世話のセンターでもつくって、日本語を教えてあげるとか、あるいは生活指導のための職業の訓練をするとか、あるいは日本人として日本人の中に伍して生活できるような基礎的な要素をそこで訓練――訓練というよりも教えてあげる。そうしてまた日本語を教えることにしても、あるいは職業のあっせんにしても、あるいは住宅にしても、そういういろいろな問題を集中してお世話をしてあげるような機関、いわゆるセンターのようなものが必要じゃないかと思うのですね。  人によっては、こういうこと聞くのですよ。それは文部省にも行かなければいかぬ、厚生省にも行かなければいかぬ、労働省にも行かなければならぬ。事によっては他の分かれた行政各省庁あちこち回って、しかもまともなことは出ないというような問題もたくさんあるのですね。     〔竹内(黎)委員長代理退席、委員長着席〕 そういうことを自発的に世話をしているボランタリーな機関が主な機関でも三つあるのです。そういう機関の人たちと、もっと接触を深めて、お世話をする中心機関をつくる。私、大して金はかからぬと思いますよ。中心機関をつくってボランタリーな人の協力を得て、中国から帰る人たちが日本人の中に入って十分生活できるような窓口をぜひともつくらなければいかぬじゃないか。  各県に任すといっても県それぞれ本当にまちまちのようですよ。そして生活指導員というものがあるかないかわからぬ人がたくさんおりますよ。今年の予算で二十人あるいは三十人にするということらしいですけれども、そういう人があるかないかわからぬ人がたくさんおるのですよ。そういう状態じゃなくて、帰った人にとにかく日本人としての一応基礎的なことを教えられるようなセンター、必要でない人は必要でないのですよ。そういうことが必要な人が大部分おると思うから、そういうような機関をぜひともつくっていただきたい。大臣、いかがでしょうかね、こういう問題をひとつぜひとも具体的に検討してほしいと思うのですが。
  227. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 実は和田先生と同じように私も思いまして、その方がいいのじゃないかと言って事務当局とも二、三回やってみたのですが、しかし非常に調査をして留守家族等の連絡がとれた人に通知してやって、向こうとしては、それじゃ大体帰郷先があるなということで帰ってこられるわけですが、中国のいろいろな事情から、集団的に一遍に何十人とお帰りにならないわけですね。ぼつぼつと帰ってこられる。実は厚生省から大使館に一人、若い事務官を駐在員にやって、この問題の処理に向こうの方でいろいろやってもらっておるのです。私も行ったときに会って、いろいろ実情を聞いたのですけれども、そうしますと、これを集団的にセンターでまず訓練をしてというようなことは、非常に間欠的なものですし、それと今後そんなに多くなっていく問題でもない。大体向こうの方で帰国希望のいろいろな調査もやっておりますので、私が先生と同じような意見で事務当局といろいろやってみると、なるべく早く帰郷先に行って、そこの地域社会になじむということの方がよりいいじゃないか。そこで指導員等が連絡をとって、都道府県、市町村、国等がめんどうを見ていった方が、より引き揚げ者のためじゃないかと言われますと、なるほどそれもそうだなと思ったりして、実はまだそちらの方のセンターの設置までよう踏み切ってないわけでございます。  要は引き揚げ者の方々が早く日本の社会になじんで、そうしていつまでも生活保護というのじゃなくて、言葉もある程度なれてきたら就職をして、安定した生活を得ることが大事なものですから、先ほど言いましたように、五十三年度いっぱいで調査もいたしてみたいと援護局の方でも計画しているようでございますので、できるだけ早く、いままでの実態調査をやってみて、その援護の欠陥がどこにあるかということを正確につかんだ上で、必要があれば対策をやりますし、そういうように考えさせていただきたいと思います。
  228. 和田耕作

    和田(耕)委員 ごもっともだと思います。特に、いまの実態の把握をひとつ組織的に、ぜひとも早くやっていただきたいと思うのです。これは先ほど私ボランタリーの機関ということを申し上げたのですけれども、たとえば善隣協会、日中孤児問題連絡協議会、日中友好手をつなぐ会、これは私どもも関係しておるのですけれども、主として満州関係におった人たちが多いのです。特に下部の人たちに満蒙関係が多いわけですけれども、こういう人たちは一生懸命やっているわけですね。厚生省援護局としても、こういう人たちの経験と知識を積極的に活用するような態勢をとってほしいと思うのです。センターといっても、ここにりっぱな建物をつくってというのじゃないのです。そういう一生懸命やっている方々がもっともっと、こういう仕事のために働けるようなシステムをぜひとも考えてほしいと思うのです。これは十分な月給を出すとかいうようなことは全然必要じゃないのです。必要な行動費が出せるような状態でもいいと思うのですが、そういうような関係の人たちに頼らないと、親元のことにしても実際がよくわからない。ぜひとも、その問題についてお願いしたいと思うのです。  最後に、もう時間がなくなりましたけれども、国籍問題で非常に困っているのですね。法務省の方いらっしゃいますか。国籍の問題、これはいろいろむずかしい問題があるようで、時間がありませんから詳しく申し上げることはできないのですけれども、帰った人で帰化なら帰化するという申請をされた人、その条件に合った人はいよいよ日本の国籍を得るまでの間は国籍を得たと同じような処遇ができるような、そういう法改正というものはむずかしいものですか、それだけ一つお伺いしたい。
  229. 宮崎直見

    ○宮崎説明員 中国孤児の国籍については、いろいろむずかしい問題がございます。現在、先生が問題になされておるのは、帰化申請しましてから許可までの間、少し時間がかかるということで、その間、仮に国籍がある者と同じような法的扱いはできないかという趣旨でございますけれども、現在の国籍法ではかなりむずかしいのじゃないかと思います。  ただ、日本国籍がある者とない者との法的な違いというものは、これは一般的に決めるわけにはいかないので、たとえば社会保険とか、そういう待遇については、それぞれに国籍の有無にかかわらず日本人と同じような処遇をするということは、これはそれぞれの分野で考えるべき問題ではないかと思います。ただ、特に中国孤児の問題に関する限り元日本人でございまして、国籍法上の帰化要件は非常に緩和されておるという事情もございますので、まず不許可になるというようなことは通常はございません。その意味で、そういう事情をくんで他のいろいろな行政で、国籍がないという一事だけでもって日本国民に与える権利を与えないというような形を行政上できるだけしないようにやっていく。とともに法務省としては特にこの中国孤児の帰化事件については、本人の特殊事情も考えまして、できるだけ便宜的な手続でもって早く処理するよう十分努力しているところでございます。
  230. 和田耕作

    和田(耕)委員 これは中国側の問題もありますし、なかなかこちら側の考えどおりいかぬと思いますけれども、やはりいろいろな面を考えると、日本側の受け入れ体制というものが十分整ってないということが、せっかく日本に帰りたいという熱望を持っている人たちの気持ちに水をかけたり何かすることのないように、ひとつこれは関係各省で、きょう外務省の方もお願いしておったのですが、もう時間がございませんから失礼ですけれども、外務省の方の関係よりは、むしろ国内の厚生省、文部省、法務省その他のところに問題があると私は思うのです。いまも法務省の方のお話のように、正式の国籍の取得ができなければ、できるだけ行政的な措置で同じような待遇が与えられて、早く日本の国内になじめるようなことを、ぜひとも研究してほしいと思うのです。そしてまたセンターといっても、いかめしい事務所を持ったセンターではないのです。いろいろなボランタリーの人たちの知識と経験を活用して、帰ってくる人たちに十分でなくても、日本に来てよかったという感じを与えられるような体制をぜひとも御努力をしていただきたいと思うのです。生活問題を含めて厚生省が一番の中心になっていきますから、ぜひともひとつお願いを申し上げたいと思います。時間が若干超過して申しわけないと思いますが、よろしくお願いします。
  231. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 わかりました。
  232. 木野晴夫

    木野委員長 次に、古寺宏君。
  233. 古寺宏

    古寺委員 いま和田委員からも御質問がございましたように、日中友好の兆しが間近に迫ったわけでございますので、帰還される引き揚げ者に対しては十分な施策がとられなければならないと思うわけでございますが、今後、引き揚げられる方がどのくらいいるというふうに推計をしておられるか、承りたいと思います。
  234. 河野義男

    河野(義)政府委員 私の方で把握しております未帰還者でございますが、帰国の意思のある方で、まだ帰国していない方が約二千二百数十名だと思います。そのうち約八割が中国でございます。具体的にいつ帰られるか、そういういろいろな事情がございまして、直ちに帰れる、そういうことじゃございませんで……(古寺委員「数字をもう一回」と呼ぶ)全体が二千二百二人でございまして、そのうち中国が千七百六十三人でございます。
  235. 古寺宏

    古寺委員 これは、この条約が締結された後でも、これだけの人数でございますか。
  236. 河野義男

    河野(義)政府委員 現在、未帰還調査をやっておりますが、その結果、現在把握しておる未帰還者が千七百六十三名でございます。しかし生存の資料の非常に新しいもの、あるいは十数年前の生存資料があって、その当時生存して帰国の意思があるという方もおりますので、実際の数字はそれより少なくなるのじゃないかというふうに考えられるわけです。
  237. 古寺宏

    古寺委員 その中で一時帰国を希望している方は何人でございますか。
  238. 河野義男

    河野(義)政府委員 その中で一時帰国を希望している人の数は把握しておりません。把握することはなかなかむずかしゅうございます。
  239. 古寺宏

    古寺委員 むずかしいでしょうけれども、対応していくためには、やはりどのくらいあるかということを一応把握する必要があるのじゃないかと思うのです。  それから、引き揚げ者に対して現在、帰還手当というものが支給されておりますが、これは現在は五万円でございます。来年は十万円になるそうでございますが、十万円の帰還手当だけでは、せっかく帰ってこられても、いろいろな生活をしていくために非常にお金がかかるわけでございますね。今後、十二分に温かく迎え入れてあげるための手当の増額が必要ではないかと思うのですが、いかがでございますか。
  240. 河野義男

    河野(義)政府委員 帰還手当につきましては、現在は先生御指摘のように五万円でございますが、これはいかにも少ないということで大幅な引き上げをいたしまして、五十三年度から十万円としたわけでございまして、これは一人につき十万でございます。家族で帰られる場合には家族数、ただし子供は五万円でございますが、そういうことになっております。今後も、この帰還手当の増額、改善につきましては努力をしていきたい、かように考えております。
  241. 古寺宏

    古寺委員 大幅に増額して十万円でございますので、これはいままでが低過ぎるわけですから、さらに十分に生活が保障されるような帰還手当を支給するように改善をしていただきたいと思うのです。  なお、一時帰国の方、こういう方に対しては帰還手当がございません。したがいまして帰還中の手当というものを支給すべきだと思うのですが、いかがですか。
  242. 河野義男

    河野(義)政府委員 一時帰国者につきましては、帰国されるための旅費を負担しておりますし、それから一時帰国中の生活の苦しい方につきましては生活保護法を適用する、こういうふうに現在、援助の措置を講じておるわけでございます。
  243. 古寺宏

    古寺委員 やはり一時帰国でありましても帰還者には変わりがないわけですから、そういう方々に対しては、やはり帰還中の手当というものを、これから考えていただきたいと思うわけでございます。  それから、言葉の障害につきましては先ほど和田先生からもお話がございましたが、この問題について生活指導員ですが、現在何名いらっしゃるわけですか。
  244. 河野義男

    河野(義)政府委員 引揚者生活指導員につきましては、それぞれ帰国された世帯につくわけでございますが、現在六十四世帯につけております。指導員の数は四十四名でございます。
  245. 古寺宏

    古寺委員 今後、日中友好によりまして相当数の帰還者があると思うわけですが、その際に生活指導員の増員は可能でございますか。
  246. 河野義男

    河野(義)政府委員 この引揚者生活指導員の制度は五十二年度から取り入れまして七月から実施しておるわけでございます。今後、帰国される世帯、方につきましては引揚者生活指導員をつけて、いろんな生活の面にわたる指導、援助をしていく、こういうふうに考えております。
  247. 古寺宏

    古寺委員 次は中国孤児の問題ですが、先ほどもお話があったわけでございますが、今後この中国孤児に対してはどういうような施策をお考えでしょうか。
  248. 河野義男

    河野(義)政府委員 中国孤児の問題でございますが、この人たちの身元を把握するためには、その手がかりとなりますものが非常に少ないわけでございます。したがいまして、先ほど申しましたように、いろいろ厚生省あるいは都道府県にあります資料と突き合わせて身元を把握するとか、あるいは、それでも身元がわからない者につきましては、その方についての、いろいろな属性を取り上げまして報道機関を利用して公開調査をする、そういう方法をとって身元の把握に努めておるわけでございます。
  249. 古寺宏

    古寺委員 今後こういう問題が非常に多くなると思いますので、十二分に対応できるような体制をひとつ考えていただきたいと思うのです。  なお、中国に遺骨収集に参りたいとか、あるいは墓参をしたいという希望者が相当いるわけでございますが、この点については中国政府との関係もあろうかと思いますが、厚生省としては、どういうような姿勢で今後この問題と取り組むお考えですか。
  250. 河野義男

    河野(義)政府委員 中国、特に旧満州の地区には、まだ相当多数のお遺骨があるわけでございます。その遺族その他の関係者が遺骨の収集あるいは墓参したい、こういうお気持ちは切実なものがあろうと思うわけでございます。この問題につきましては外務省を通じまして、外務省の協力を得まして、そういったことが実現するように努力をしてまいっておりますが、今後もそういった遺族の心情を十分くみまして、その遺骨収集あるいは墓参等ができるよう努力をいたしますが、中国につきましては、戦場になりまして中国の国民自身も生命、身体、財産、いろいろな被害を受けておられるわけでございまして、そういった国民感情も十分踏まえまして、できるだけ早く、そういったことが実現できるように努力していきたい、かように考えております。
  251. 古寺宏

    古寺委員 先ほどお話がございましたが、引き揚げ者センターの構想があるわけですが、このセンターの構想については厚生省としてはどういうような検討をしておられますか。
  252. 河野義男

    河野(義)政府委員 引き揚げ者の窓口と申しますかセンターの構想につきましては、先ほども大臣からも申し上げましたが、まず現在の引き揚げ者に対する援護措置といたしましては、引き揚げ者の定着先の環境に見合った生活設計を立てまして、一日も早くその環境になじんで自立更生していただく、こういうふうな考え方に立っておりまして、そのために、言語とか、あるいは生活習慣、就業、そういった面の援助、指導をするための生活指導員に各世帯についていただく。あるいは日本語の習得につきましては、教科書とかあるいはカセットテープ、いろいろな手段を使いまして日本語の習得について援助していくというふうに考えております。  それからまたセンター方式につきましては、考え方としてはありますけれども、現在引き揚げ者、帰国される方が年間に大体三百名前後でございまして、しかも、それが散発的に帰ってみえるというような実情も考えますと、現在やっております定着先の援護が適当ではなかろうかというふうに考えております。しかし、先ほどもお話がございましたように、現在帰ってこられております引き揚げ者のいろいろな実情等も調査いたしまして、今後、帰国者の援護措置についての参考にしていきたい、かように考えております。
  253. 古寺宏

    古寺委員 先ほどから大臣もお聞きになって、御答弁もお聞きしたわけでございますが、せっかく中国との友好回復が実現しましても、こういうような問題に対するしっかりした取り組み方というものが十二分でありませんと、いろいろと、これからまた問題が起きてまいりますし、戦後は終わったとは言われないわけでございまして、こういう点については、いろいろいまお話を承っておりますと、何か後手後手の感がするわけでございます。今後は積極的にこの問題と取り組んでいただきたいと思うのですが、大臣のお考えを承りたいと思います。
  254. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 ただいま、いろいろ申し上げましたように、まだ帰国を希望されると推定されます方々が千数百人もおられるわけでございますから、現在までの帰還の方々の実態を早急に調べまして、どこにどういうものが必要かということを、まずしっかり最初に把握したいと思います。そしてその結果、必要と考えられる援護指導体制というものを早急にひとつ私もみずから事務当局と相談をいたしまして、対策が必要であれば対策をとってまいりたいと思います。  センターの構想は、先ほど言われました和田委員のお話のようなものは確かにあるいは必要かなというふうにも思います。したがって、そういうボランティア活動でいろいろ奉仕をしていただく方々等との連絡を密にしまして、どういう組織体制をとったらいいのか、これらもよく検討させていただいて処理していきたいと思っております。  一番大事なことは、やはり究極的には自分の帰郷先の地域社会で安定的に生活していただく方が、よりいいんじゃないかと思いますので、まず帰郷先との連絡を十分密にして、それから来ていただくような措置も、事前の措置として非常に大事じゃないかと思いますので、それらの調査にできるだけの努力をしまして、帰還希望の方々との事前の連絡等を十分やって、それから一方こちらの内部では国と都道府県と市町村と援護体制についての打ち合わせも十分やり、帰ってこられた人が、そこで何かすぐいろいろな障害にぶつかって困難をきわめることのないような準備体制をとっていくということが一番大事だと思いますので、日中国交回復、正常化が行われる時期等も、もうそう遠くないと思いますから、真剣に私も取り組んでまいります。
  255. 古寺宏

    古寺委員 国交正常化に対応するような施策を十二分にこれから検討して、早急に考えていただきたいと思います。  次は公務扶助料遺族年金でございますが、五十三年の六月から月額七万一千円になるように承っておりますが、いままで遺族年金が支給されましてから今日まで、一番最初から年金を受け取った方で生存している方が、累計でどのくらいの額になっているか承りたいと思います。
  256. 河野義男

    河野(義)政府委員 遺族年金のトータルで申し上げますと、五十三年三月までですが、三百八十九万七千九百円というふうになっております。
  257. 古寺宏

    古寺委員 いまお話がございましたように、トータルでは非常に低いわけでございまして、今日、自賠責保険等は一千五百万円、また生活保護家庭におきましても、標準家庭で子供さんお二人で住宅、教育の扶助を受けておられる方は十七万三千円でございますか、それに比較しますと七万一千円というのは非常に低いように感ずるのですが、いかがでございますか。
  258. 河野義男

    河野(義)政府委員 遺族年金等の額の改善につきましては毎年改善がなされておるわけでございますが、現在はいわゆる六万円年金と言われておりますが、これを五十三年度からは御指摘のように七万一千円というふうに改善されるわけでございまして、いろいろ比較の仕方はあると思いますけれども、従来からの改善の過程を見てまいりますと、まあある程度の改善がなされたというふうに評価していいのじゃないかと考えます。
  259. 古寺宏

    古寺委員 次に、再婚解消の妻に対する遺族援護法の適用の問題でございますが、昭和四十四年に防空監視隊員、それから昭和四十九年でございますか、防空従事者が、この援護法の対象になっているわけでございますが、それらの対象になっている方の再婚解消の妻に対する遺族援護法の適用がないようでございますが、これはどういうわけでございますか。
  260. 河野義男

    河野(義)政府委員 この再婚解消妻の遺族年金の支給の特例措置でございますが、これは軍人軍属等の配偶者が、本来、恩給法が当時あったわけでございますが、これが二十一年に停止になったわけでございます。そこで、その生計の道を立てるというような事情もありまして余儀なく再婚された方を、恩給法が復活した時点までに再婚を解消されたケースにつきましては権利を認めよう、こういう趣旨で、この制度ができたわけでございまして、その後、防空監視員あるいは防空従事者について援護法の適用が拡大されたわけでございますが、この特例措置は、いま申しましたような恩給法が停止されて恩給法に頼ることができないという方に対する特例措置でございますので、これらの、その後四十四年以降に援護法を適用されるようになった方については、特例措置については考えていないわけでございます。
  261. 古寺宏

    古寺委員 どうも、その説明が私にはわからぬのですが、軍属とか、それから被徴用者いわゆる準軍属、こういう方々はこの適用を受けているわけです。その以後において防空監視隊員とか防空従事者、こういう方々も適用を受けるようになったのですが、法の適用を受けていながら、このいわゆる再婚解消の妻に対する遺族援護法の適用がないというのはおかしいじゃないですか、不公平じゃないですか。
  262. 河野義男

    河野(義)政府委員 この再婚解消妻に対する特例措置を設けました趣旨は、先ほど申しましたように、恩給法が停止されて恩給法が期待できない、そのために余儀なく再婚をしたようなケースもたくさんあるわけでございます。そういう人たちにつきまして、恩給法が復活した時点までに再婚を解消して復籍された方につきまして救済しようというわけでございまして、そういう一つの基本的な精神があるわけでございまして、この再婚解消妻の特例措置ができました時点におきまして、そういう方を中心に、また、それ以外につきましても経過的に再婚解消妻についての特例を認めた、こういう経緯がございます。あくまで、その基本的な考え方は、恩給法が停止された、そのために恩給法による生活の支えが期待できない、こういうことが中心でございますので、その後において援護法の適用が拡大されまして対象になった人については考えていない、こういうわけでございます。
  263. 古寺宏

    古寺委員 どうも、そこがちょっとわからないのですよ。恩給を受けられる方が停止されたので、そういう人を対象にしてこの適用を考えました。しかし、その後、恩給の対象でない人もこの適用の範囲を拡大しているわけですから、当然いまの防空監視隊員ですか、防空従事者についても同じように取り扱わなければいけない問題じゃないか、どうなんですか。
  264. 河野義男

    河野(義)政府委員 私、申し上げましたのは、この特例措置の基本的な考え方は、恩給法との関係で考えられたわけでございます。しかし、この特例措置を設けましたその時期におきまして恩給とかかわりのない方もあったわけでございますが、そういう方につきましては例外として、この特例措置が認められたわけでございますが、それ以後、新たに援護法の適用が拡大された方につきましては、やはり基本的な考え方がそういうところにあったわけでございますので、そういう方には再婚解消妻に係る遺族年金等の特例措置は認めることは困難である、こういう考え方でございます。
  265. 古寺宏

    古寺委員 大臣、いまの答弁をお聞きになっておわかりになりますか。
  266. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 実は、いま申し上げていることは、三十九年及び四十一年以降の法改正で特に対象を広げたわけでございますね。その広げた人は、恩給法の対象にならなかったときの例外として認めた方々と、ちょっと事情が違うものですから、そこで認めない、こういうことを言っているわけでございますので、恩給法の適用になるような方々の再婚問題も、再婚を一たんおやりになった方々は遠慮してもらおうという精神で最初はきたわけでございます。ところが、どうも恩給法の点から考えて、それが少し不公平になる点があるので、そこで再婚を解消した人にも適用するということをやったわけで、それに、いわば周辺の方々については、そこまでの特例を考える必要はなかろう、こういう判断でやっているものですから、どうも、それについては、いろいろ異論があることはわかりますけれども、一応恩給法の適用になる以外の周辺の方というふうな考えで、いままで私どもは、これはやむを得ぬな、こう思ってきたわけでございます。
  267. 古寺宏

    古寺委員 ですから、最初は恩給法の適用の方だけが対象だったのですが、その後、拡大しまして恩給法の対象でない人も入ってきたわけですね。昭和四十一年以後において今度は、いま申し上げましたように四十四年とそれから四十九年に、いま申し上げた方々が対象になってきたわけですから、当然、恩給法の対象ではなくとも、以前に恩給法の対象でなかった人がこの問題について適用を受けているように、やはり対象にすべきだと思うのです。そうしませんというと私は公平でないと思うのですが、いかがですか。
  268. 河野義男

    河野(義)政府委員 この特例措置が設けられた時期と、それ以後におきまして援護法の対象を拡大されまして、遺族年金等の対象になった方等の取り扱いの問題だろうと思いますが、先ほど申し上げましたように、この制度の基本的な考え方は、恩給法が当時あったわけでございますが、恩給法が停止になった。それに期待していたものが恩給法が停止になったので、やむなく再婚された方を主として対象として考えたわけでございますが、しかし、おっしゃるようにそれ以外の人も、この制度が設けられた時点にはあったわけでございますが、それにつきましては、この制度が実施された段階では例外として、この制度の対象としたわけでございますが、それ以後につきましては、もともと恩給法が停止されたからといって何ら不利益を受ける人ではなかったわけでございますので、線を引く時点におきまして、入った人と入らなかった人とのバランスと申しますか、公平感といいますか、そういったものは多少ございますけれども、そこは、この制度の考え方に立ちまして一つの線を引いたというふうに御理解をいただきたいと思うわけでございます。
  269. 古寺宏

    古寺委員 そのお話をしていますと、どこまでいっても同じでございますので、いずれにしても最初の、恩給法が停止になった人を対象にしたという、いわゆる原則的な考え方は、それはわかります。しかし、途中から方向が変わったのですから、そして拡大されているわけですから、そういう人も当然、私としては対象にすべきだ、こう考えますので、今後ひとつ十二分に検討していただきたいと思います。  次にお尋ねしたいのは、よく育ての親というのがあるのですね。こういう方々の場合には遺族年金の対象にはなっていないのですが、これはどういうわけでございますか。
  270. 河野義男

    河野(義)政府委員 育ての親がすべて援護法の対象になっていないというわけではございません。事実上の父母と同様な関係にある者につきましては遺族年金の支給の対象となっておるわけでございます。
  271. 古寺宏

    古寺委員 それは二十三条の三項、四項というところで一応わかるのですよ。しかし、戦前におきましては民法上、私が長男だとしますね、長男の場合は養子緑組みができなかったのです。そういう人は、せっかく育てて、戦地へ行きまして戦死しましても、育ての親は遺族年金の対象になっていないのですよ。おわかりですか。
  272. 河野義男

    河野(義)政府委員 いまの事実上の父母につきましては、先生もおっしゃいましたように二十三条の三項、四項、この規定に該当するケースで、しかも、援護審査会の判断を仰いで決定しておるわけでございます。いま、長男であって養子緑組みができないという事例等もあるかと思いますが、そういった具体的なケースについての判断は、やはり援護審査会で審査、検討しておりますので、ここで、そういったケースが事実上の父母となり得るかどうかということは、具体的な事情を十分検討した上でなければ申し上げかねるわけでございます。
  273. 古寺宏

    古寺委員 そういうケースがたくさんあるのです。それがいままで認められていないのですよ。実際には、審査を請求しても、そういう場合には認められていないという人がたくさんいらっしゃる。ですから、こういうようないわゆる民法上の理由によって養子緑組みができなかった人についても、やはり実態に応じて遺族として認めるということを、きちっとひとつ厚生省として、してもらいたいのですが、どうですか。
  274. 河野義男

    河野(義)政府委員 先ほど申しましたように、そういったケースが事実上の父母と同視し得るケースかどうかということは、そのケースについてのいろいろな状況があるわけでございまして、ここでいま、それについて事実上の父母というふうに同視できるかどうかということを一律に申し上げることは非常にむずかしいと思うわけでございます。
  275. 古寺宏

    古寺委員 いや、非常にむずかしいとおっしゃいますが、いま、お話しなさっている二十三条の規定でいきますと、それはいろいろな解釈はあるでしょうが非常にむずかしくなるのであって、実際は親子として生活をし、これはもう第三者もみんな認めているわけです。しかし、そういうような戸籍上の問題、旧民法のいろいろな制約、そういう関係から認められないという方が相当数いらっしゃるのですよ。現実に私どもが窓口を担当している方々や、あるいは遺族会の方々からお聞きしますと、相当いらっしゃるわけです。ですから今後、審査に当たっては、そういう方についても適用するように、ひとつきちっとした指導なり方針というものを厚生省としても打ち出していただきたいと思うのですが、いかがですか。
  276. 河野義男

    河野(義)政府委員 事実上の養親子の問題でございますので、まず、その養育の関係、そういった実態とか、あるいは親子としての意識の問題とか、いろいろあるわけでございまして、そういった条件を十分慎重に検討いたしまして結論が出されるわけでございますが、今後とも、そのように慎重に検討いたしまして結論を出すようにいたしたい、かように考えております。
  277. 古寺宏

    古寺委員 慎重に検討というのはわかるのですが、ますます慎重にやりますと、これは法の運用の問題ですから実態に即した運用をしていただきませんと非常に困るのですね。窓口の方では、これはもう当然だれが見ても遺族に適用される方である、こう思って同情しましても、今度は審査をしますと、これはいかぬと、こうなるわけですね。そういう現実と全然かけ離れた結果が出ているわけでございますので、慎重にというのは前向きにひとつ慎重に検討していただきたいと思います。  次は病気の場合でございますが、外地で病気になりまして内地でいろいろ療養なさる。そして死亡なさった場合に病名が違うという場合には、その遺族に対しては現在はどういうふうになっておりますか。
  278. 河野義男

    河野(義)政府委員 いまの先生の御指摘のケースというのは、戦地等におきまして公務上の傷病にかかられて、それから内地に帰るなり、あるいはその職を離れまして、ただの病気で亡くなられた、そういうケースだろうと思いますが、それにつきましては従来一時金が支給されておりましたが、五十二年度の改正によりまして年金化されたわけでございます。
  279. 古寺宏

    古寺委員 それは一時金、今度九万円、わかるのですよ。ところが、たとえば結核なら結核で入院しますね。そして死亡したときには何か心不全とか心機能不全とか、いろいろな別な病名で死亡している、そういう場合ですね。その場合に、この方は結核で入院したのだ、結核で療養したのだ。病名が違うから対象にならぬ、こういうことがあるのですが、その病名がたとえば結核であって、結核から想定できる合併症でこの人が死亡しておるという場合には、これは同じように取り扱うべきだと思いますが、どうでございますか。
  280. 河野義男

    河野(義)政府委員 いまのケースは、先ほど申しましたように公務で結核にかかられる。そして帰ってこられて、かぜを引いて気管支を悪くして亡くなられた、そういったようなケースだろうと思います。そういったケースにつきましては、先ほど申し上げましたように従来一時金であったものを年金化されたというわけでございますが、その処遇につきましては、やはり援護法におきましては、その病気が公務であるかどうかの公務についての貢献度、それから併発した病気でこのケースは亡くなられておりますので、だんだん公務との関係が薄くなってまいるわけでございます。そういったことを総合的に勘案いたしまして特設年金の制度が設けられたわけでございます。
  281. 古寺宏

    古寺委員 公務で発病した病気があるのです。その病気で療養しておりまして、合併症で死亡しているのですが、その合併症は、その発病した病気と非常に関係の深い、結核という場合にいろいろな例があるでしょうが、病名は結核なんですけれども、死亡の病名が違うという理由で適用を受けていないというのがあるのです。ですから、その合併症が公務との関係が非常に薄いとおっしゃられますけれども、実際は、その最初に発病した傷病が原因であって、その原因によって合併症を併発して死亡しているわけでございますから、診断書の書き方が死因として最初に発病した病名が書かれておればいいのですが、書かれていない場合に、合併症だけを書いている場合には、これが適用にならないというような不合理があるのです。そういう面についてはやはり実際によく調査をして適用をしていただきたいと思うのですが、どうですか。
  282. 河野義男

    河野(義)政府委員 いまの公務傷病に併発した病気との関係でございますが、公務傷病が原因となりまして亡くなられた場合は、もちろん公務による遺族年金になるわけでございますが、それに併発して、それ以外の病気で亡くなられた場合につきましては、全く無関係な場合にはこれには該当しないと思いますが、何らかの関係がある場合、先ほど申しましたように結核とかぜとか、そういったような関連がある場合につきましては、公務ではありませんけれども一時金を年金化した特設年金が支給される、こういうわけでございまして、しかも、その額につきましては先ほど申しましたように公務との関係の強弱と申しますか、そういったこと、それから恩給法のこれと同種の年金との額、そういったことの均衡など考えまして、この額が決定されたわけでございます。それから、公務そのものとは、このケースについては違うわけでございまして、公務が原因であれば、もちろん公務の傷病による遺族年金でございますが、その辺が非常に程度の問題とか個々のケースについての併発した病気のかかわりぐあい、そういったことで決まるわけでございます。
  283. 古寺宏

    古寺委員 それから、これは実際にある例なんですよ。外地へ行きまして発病しまして、内地に送還されてまいりました。ところが死亡したときの診断書が火災で焼失して、ないわけです。その当時のお医者さんもいないわけです。そういう場合にはどうなりますか。
  284. 河野義男

    河野(義)政府委員 戦争というさなかの問題、それからまた、もう三十数年もたっておりまして、公務についての立証というのはなかなかむずかしいわけでございます。いま直接公務について立証でき得る死亡診断書がないケースでございますが、そういう場合におきましても、その人のいろいろな行動が私の方の兵籍その他の資料で判明する場合もありますし、また関係者などの証言等もあれば、そういうものもとりまして、そういった直接、間接の資料をできるだけ集めまして、それについての公務であるかどうかという認定をしておるわけでございます。できるだけ遺族と申しますか、その立場に立って資料の整備その他にも助力しているわけでございます。
  285. 古寺宏

    古寺委員 それは後で改めて御相談申し上げます。  遺骨収集の問題でございますが、五十三年度以降の計画についてお伺いしたいと思います。
  286. 河野義男

    河野(義)政府委員 遺骨収集につきましては、五十年までに第三次遺骨収集計画で計画的に実施してまいったわけでございますが、五十一年度以降におきましては、その計画期間中におきまして、いろいろな相手国の事情その他によりまして入域できなかったところとか、あるいはいろいろな確かな情報が入ってくるケースもあるわけでございます。そういったところを中心に遺骨収集の事業を進めておるわけでございまして、五十三年度につきましてはマリアナ諸島、エニウェトク環礁、沖繩、硫黄島、そういうところを予定しておるわけでございます。
  287. 古寺宏

    古寺委員 フィリピン、四十九万人戦死していらっしゃるそうでございます。それから、あと玉砕をされたところでございますね、インドネシアとかサイパン、ブーゲンビル、こういうところはまだ完全に遺骨収集が行われていない。そういうところをぜひやっていただきたい、こういう要望があるのですが、五十三年度の計画には入っておりますか。
  288. 河野義男

    河野(義)政府委員 フィリピンにつきましては五十数万という多くの犠牲者が出まして、まだ相当な数の遺骨があるわけでございます。三十三年から十数回遺骨収集をやっておりますが、五十三年度におきましては、いま申しましたようなところを一応予定しておりまして、またフィリピンについて、いろいろな情報等が今後入ってくると思います。そういった段階で今後も誠心誠意努力をしていきたい、かように考えております。
  289. 古寺宏

    古寺委員 次に戦没者の遺児に対する対策でございますが、就職の問題あるいは就労の問題ですとか、非常にいろいろなハンディがあるわけですね、非常に苦労して育っていらっしゃいますから。そういう方々に対して適切な補償を考えていただきたい、こういう強い要望があるのですが、戦没者遺児に対する国の補償についての考え方はいかがですか。
  290. 河野義男

    河野(義)政府委員 戦没者の遺児につきましては、援護法上の遺族に該当する者につきましては、それに従った援護措置がございますが、それ以外の遺児等につきましては厚生行政全般の中で適切な援護措置が従来から実施されておるわけでございまして、今後もそういった戦没者の遺児という境遇を十分踏まえまして援護については努力をしていきたい、かように考えております。
  291. 古寺宏

    古寺委員 中国との問題も関係ございますが、当時、引き揚げててられる途中に朝鮮とか、あるいは中には引き揚げ船が潜水艦なんかに襲撃されて亡くなられた、そういう子供さんがたくさんいるのだそうでございますが、そういう方々遺族に対しては、どういう方法を考えていらっしゃいますか。
  292. 河野義男

    河野(義)政府委員 現在、援護法によりまして遺族等についての援護をしておるわけでございますが、それはあくまでも国との関係におきまして軍人軍属等々に準ずるような関係があるということが前提で、しかも、戦争、公務との関係が必要になってくるわけでございますが、いまの引き揚げ者の、引き揚げの途中におきまして亡くなられた小さい方々につきましては、援護法上の援護措置の対象とはならないわけでございます。
  293. 古寺宏

    古寺委員 これはひとつ大臣に今後検討していただきたいと思うのですが、児童とか学生、こういう方々で相当の方が引き揚げの途中亡くなっていらっしゃるわけでございますが、そういう遺族に対して今後何らかの措置を検討していただきたいと思うのですが、いかがですか。
  294. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 どうも遺族援護法のいまのたてまえ、あるいは恩給法のたてまえというのは、おっしゃるようなケースには全く適用がないということになっておるわけですね。何も本人が好きこのんで旅行したわけでもないし、いろいろな戦時状態の中で、やむを得ず、そういうようなことになったのだから救済をすべきじゃないかという御意見だろうと思うのですが、これは、例の沖繩の学童が乗りました対馬丸の事件等の救済にも、いろいろな議論がありまして、ようやく五十二年度、今年度ですね、これなんかも沖繩の戦闘に従事した学童との関連を考えて、ようやく救済措置をとるようにしたわけでございますので、ただ単に移動中にそういう事故に遭ったという人は、これはやはり先ほど来いろいろ議論がありました戦争状態全体の中での国民のいろいろな被害、身体的な障害あるいは死亡という事故全体の中で考慮をしなければ、どうもこれだけ特別にいわゆる戦争犠牲者として援護するということには、いま直ちに私はなかなか結論は出ません。したがって、もう少しよく検討させていただきます。
  295. 古寺宏

    古寺委員 特別弔慰金の問題でございますが、これは戦後二十年とかあるいは三十年という一つの区切りをつけて弔慰金が出ているわけでございますが、その後の方については対象になっていないわけですが、これは今度三十五年なり四十年というときにおやりになるのか、その点について承りたいと思います。
  296. 河野義男

    河野(義)政府委員 特別弔慰金につきましては、戦後二十年あるいは三十年という時期を切りまして、公務扶助料とかあるいは遺族年金の支給の対象になる遺族がない遺族に対しまして国の弔慰の誠をささげようということで、この制度ができたわけでございまして、時期を区切って、その時期におきまして該当する遺族に特別弔慰金を支給しよう、こういうことでございますので、その後に該当する者につきまして考えていくということは、制度の趣旨と大きく隔たることでございますので非常にむずかしいというふうに考えております。
  297. 古寺宏

    古寺委員 大臣、これは国債で発行しているのですよ。一年に二万円ずつなんです。ですから十年とか区切らぬでも毎年、対象者には特別弔慰金というものは差し上げることができるわけでございますので、その点を特に要望して終わります。
  298. 木野晴夫

    木野委員長 次に、田中美智子君。
  299. 田中美智子

    ○田中(美)委員 行政改革の第三次案で五十三年度、厚生省では二課を削減するというふうに聞きましたけれども、具体的にどのように削減になるのか、おわかりの点をお知らせ願いたいと思います。
  300. 山下眞臣

    ○山下政府委員 現在、官房統計情報部の統計調査官、それと援護局の調査課を予定をいたしております。
  301. 田中美智子

    ○田中(美)委員 私も、そのように伺っているわけですけれども、援護局の調査課がなくなるということは、中の業務までなくなるのではないかという心配をしていられる向きがあるわけです。それで、三十年たったといっても、まだ未帰還者を抱えているわけですから、せっかく、そういうものがあるのがなくなるというと、もう、あとのことはしないのではないかという心配になりますので、その点はいかがでしょうか。
  302. 河野義男

    河野(義)政府委員 調査課の仕事につきましては、課が存続する、あるいは廃止するにかかわらず、従来から、その業務についての努力はしてまいっておりますが、なくなった場合におきましても、それぞれ新しい組織の中で調査課の業務は引き継いでいくわけでございまして、私どもむしろ、この機会にさらに調査課の業務につきましては一層の努力をしていきたい、こういう気持ちでおるわけでございます。
  303. 田中美智子

    ○田中(美)委員 それでは、どこでそれを保証されるのですか。中の業務の仕事というのはどこへ行くわけですか。
  304. 河野義男

    河野(義)政府委員 まず、課の機構は削減になりますけれども、定員の減ということは考えてないわけでございます。  それからまた、この調査課の仕事をどういうふうに配分した方が、より効率的であるかとか、あるいは責任体制上好ましいかというようなことは、いま詰めておるわけでございまして、決して課がなくなることによりまして業務に支障を来すというようなことはないというふうに考えております。
  305. 田中美智子

    ○田中(美)委員 削減によって支障がないようにお願いしたいと思います。  先ほどからのお話の中で未帰還者がこれからも約二千人近くあるだろうと予測されるというふうに言われています。それで、まず帰還者のことを言いますが、この帰還者に対して、いままでいろいろなものを出していましたけれども、五十三年度新しく出したものというのは何でしょうか。
  306. 河野義男

    河野(義)政府委員 まず、帰還手当につきましては従来五万円であったものを倍額にいたしまして十万円支給する、こういう措置を考えております。  それから、帰還者が一番困られるのは日本語の習得でございますが、従来、教科書をつくって配付しておりましたけれども、やはり耳から入るいろんな器材も必要であろうということで、カセット、テープレコーダー、そういったものを支給したいというふうに考えております。大体大きいところはそういうところを考えておるわけでございます。
  307. 田中美智子

    ○田中(美)委員 カセットとテープレコーダー、これを差し上げるということは非常にいいことだと思うのですけれども、われわれが英語を勉強するというので一生懸命私などもカセットを聞いているのですけれども、能力もあれかもしれませんけれども上達がなかなかできない。もちろん日本に帰ってこられるのですから私が英語を勉強するのとは違うと思いますけれども、やはり実際には語学をカセットや教科書だけでは私はなかなかできないというふうに思うのですね。この人たちに対して、やはり先ほどから語学の問題が出ていましたけれども、どうやって語学を上達してもらうかということが非常に大切だということを私は痛感するわけです。  これは大臣も御存じだと思いますが、ことしの二月二十三日の読売新聞の記事ですけれども「ことば通じぬ異郷の悲劇 いとこの嫁刺す」自分は自殺ということが出ているわけです。この中身を読んでみますと新聞情報だけでは、やはり誤解ではないかというふうに思うのですね。というのは、この張さんという方は中国孤児で、向こうに自分の意思で残ったのではなくて、結局子供として養子にやられた、と言えばいい言葉ですけれども、悪く言えば向こうに捨てられてきた方ですね。この方が向こうで中国人をお嫁さんにもらい、そしてお子さんを三人つくった。それで一時帰国という形で、里帰りというのですか、おばさんのお家に戻ってこられたわけですね。ですから、いずれ中国の妻と子のところへ帰る人なわけです。この人が結局、言葉が十分でなかったということで、生活費を出せと言われたというので、いとこのお嫁さんを包丁で刺す、重傷を負わせる、自分はその包丁で首を切って死んだということなんですね。  新聞の報道によりますと生活保護費を毎月五万八千円もらっていた。それでみんなの話し合いの上で五万円は貯金をして八千円を小遣いに自分が使う。この五万円というのは、いずれ帰るわけですから、帰るときに自分の妻や子に日本からのおみやげを買うのだというので、生活費を出さなくてもいい、貯金をするということですから、非常に日本側だって善意だったのだと思うのですね。そういう話し合いになっていた。それが言葉が十分に通じないものですから、生活費を要求されたのだというふうに、この張さんが誤解をしたわけですね。そうしてこういう問題が起きている。  すべて善意で、そしてここで仲よくして、日本からたくさんのいろいろな珍しいおみやげを生活保護費で買って、それを中国に持って帰るということは、今後日本と中国が仲よくおつき合いをしていく、理解を深めていくという意味では非常にいいケースであったはずなんですね。それが結局は裏目に出まして、恐らく向こうの奥さんやお子さん三人というのは、いろいろ話を聞かされたとしても、日本で殺されたのではないかという実感を持つと思うのです。それほど逆上して人を刺し自分が自殺しなければならないところに、なぜ追い詰めたのだというふうに向こうの遺族は思われると思うのです。こういう遺族に対してどうするかという問題ではなくて、これは中国と日本の親善に対して非常に不幸なことだと思う。考えてみれば何であったかといえば、言葉なんですね。  それで、いま実際には、あっちこっちでやっています。私が知っているのは愛知県を一番よく知っているわけですけれども、全国で日中友好協会がありますので、そういうところで、こういう方たちに頼まれて通訳をしたり、それから日本語を教えたりということをしているわけですね。こういう人たちがボランティアでやってあげているわけです。これは全く自分持ちです。時間も使うわけですし、旅費も使うわけです。私は、そんなにたくさんのお金がかかるわけではないので、こういう民間の方たちが善意でやっているものに対して補助金を出していただけないかと考えるわけです。ですから、機械を与える、テープレコーダーを与えただけで事足れりとしないで、こういう問題は数が少ないわけですから、そのために大きな額を立てるなどということはできないわけです。一般のボランティアの、それも中国語のできる人たちにお手伝いを願う。若い人たちで中国語を勉強している人が最近はたくさんいるわけですね。そういう人たちが積極的にやってやろうという意欲を持っているのですから、それに対して、かかった実費だとか多少の食事代ぐらいを出すということをしていただかないと、こういう悲劇は後を絶たないと思うのですけれども、どうお考えでしょうか。
  308. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 あの痛ましい事件は、語学の問題以外にも、いろいろな事情があったのだろうと思うのです。しかし、これはまだ家族もいらっしゃることでもありますから、余りいろいろの議論は差し控えたいと私は思う。ただ、おっしゃる御意見の中心は、ボランティア活動の方々をできるだけ国としても活用する。国と県と市町村と予算上の措置もある程度考えて、そして、それらのボランティアの方々の能力をできるだけ活用していったらどうだ。和田さん以来、皆さんからもそういう御意見がございます。これは大変いいことだと思いますので、私も十分検討さしていただきたいと思います。
  309. 田中美智子

    ○田中(美)委員 その点、ただ精神的にするだけでなくて、物として具体的な援助をぜひお願いいたしたいと思います。  次に、いまいろいろな問題があるとおっしゃいましたが、確かに同じ家に二世帯が住んでいますと、どんなに仲のいいきょうだいでもけんかになるわけですので、こうした帰還者にしても一時の帰国者にしても、住む所を身寄りだけに任せないで――愛知県の場合なんかですと、二Kに三人家族が住んでいるところに里帰りしてきているというところがあるのですね。三人住んでいる、そこへまた三人来るわけです。これは一時帰国ですから永遠にいるわけではないわけですけれども、二Kの家に六人も住むということでは大変なわけですね。そういう意味で、身寄りの家が非常に狭い場合は、半年なりの間ですから、本人の希望があれば施設なり何かを開放して近所に住めるようにして、そして行き来ができるようにしていただくと人間関係がうまくいくのではないかと私は思うのです。  先ほど、ちょっとお話ししましたけれども、名古屋に大橋満男さんという方がいらっしゃるのです。この方は日中友好協会の方ですけれども、一生懸命になって、こうした人たちのお世話に飛び回っているわけですね。こういうのが昨年も新聞に大きく報道されまして、善意の通訳奉仕などという形で報道されているのです。こういう方は通訳もやるし、そして住宅などもお世話をしようとしているわけですけれども、やはりそれは費用もかかるわけですので、そういう点で希望があったときには――常識で考えたらわかると思うのです。大きな家で離れもあるとか、そういう家ならいいわけですけれども、いまのような大都会の中では小さい家で、小さいから親子、夫婦でさえけんかが多くなるという状態にあるわけです。そこへ一日、二日ならいいですけれども、半年なりということになると問題が起きるわけですね。そしてそういう点でも、施設がなければどこかに入った場合には、その住宅の補助とか、そういうものなどを考えていただけないかというふうに思うのですけれども、いかがでしょうか。
  310. 河野義男

    河野(義)政府委員 一時帰国者を受け入れるにつきましては、従来から受け入れ先あるいは市町村、都道府県と十分緊密な連絡をとりましてやっておるわけでございますが、中には、いまおっしゃるように、受け入れ先の住宅事情からなかなかむずかしい問題が起きるというケースもないわけではないと思います。しかし、そういった問題につきましても、できるだけ市町村、県と相談いたしまして解決の方法を見出すべく検討したいというふうに考えております。
  311. 田中美智子

    ○田中(美)委員 何といっても私は、里帰り、一時帰国の人にしても帰還する人にしても、最初の半年が大事だと思うのですよ。半年たつと少し日本の状態というものがわかるわけですけれども、全く国のあれも違いますし、社会に対する考え方も違うわけですね。こういう人が半年というのは、やはりかかると思うのですね。そのときが大事なわけですから、そのときに一日も早く日本の社会に溶け込むように、一日も早く周りの人たちを理解できるようにする、ここに手厚くする。ですから私は永遠に住宅を補助し、永遠にと、こういうふうに言っているのではなくて、せめて半年、一年の間というものは国が手厚くあれしてあげるということが、結局、国と国との誤解を生ずるような事件を起こさなくて済むことだというふうに思いますので、この点をぜひ十分に検討して、早急にしていただきたいというふうに思います。大臣、よろしいですね。
  312. 河野義男

    河野(義)政府委員 いまのお話は、永住帰国される方につきまして、まず日本の生活に入られる場合に一番問題は、いろんな人間関係を考えた場合に住宅の確保ということは重要なことだというふうなお話でございますが、私ども同様に考えておりまして、都道府県、市町村、受け入れ先、そういったところとも十分相談をいたしまして、住宅に対する手当てを考えていきたい。中には、住宅の必要なものにつきまして公営住宅を割り当てる、そういうケースもあるわけでございますが、それぞれのケースについて最も適切な方法を見出していきたい、かように考えております。
  313. 田中美智子

    ○田中(美)委員 では、次に特別弔慰金の問題についてです。この特別弔慰金は昭和四十年と五十年に二回ほど支給されているわけですけれども、これを支給した趣旨というのはどういうものだったのか、もう一度ちょっとお聞かせ願いたいと思います。
  314. 河野義男

    河野(義)政府委員 特別弔慰金につきましては、戦後二十年を迎えまして、その時期に遺族年金の受給者がいない、きょうだいとかそういった方々遺族に対しまして、お灯明料としまして特別弔慰金を支給したわけでございます。それからまた三十年目、そういった時期を区切りまして特別弔慰金を支給していたわけでございまして、一つの時期を切って、その時点でひとつ国としての弔慰の誠を示したい、こういう制度でございます。
  315. 田中美智子

    ○田中(美)委員 この制度がいい、悪いということを言っているわけではありませんけれども、いままでのあれでいきますと、昭和四十年、五十年です。そうすると、今度は昭和六十年にまた、いま言われた墓守代というのか灯明代というのか、一応そういうものを出す、これはいいことだと思うのですけれども、今度六十年になりますと、現在遺族年金をもらっている人、これは私の母ももらっているわけなんですね。現在まだ八十九歳で生きておりますので、いまは遺族年金もらっているからいいわけですね。しかし、八十九歳ですので、いつどうなるかというのを、いつも私は恐れているわけなんです。いつ兄のところから連絡があるかという気持ちでいるわけなんですけれども、それは兄が戦死しまして、その兄の遺族年金をもらっているわけなんですね。今度は母が亡くなりますと、そうすると、もう兄の灯明代というのは、それきりでおしまいですね。私どもの兄の亡くなったものというのは、それきりでおしまいになるわけです。六十年まで待たなければならない。これはいま私の事例として話しただけで、こういう方がたくさんあると思うのですね。ですから、いま公務扶助料遺族年金をもらっている方は、私の母のように非常に高齢者が多いというように思うのです。  そういう点でちょっとお聞きしたいのですけれども、昭和五十年の四月一日以降、この受給者の数がどれぐらい減っているか。ちょっと数をお知らせ願いたいのです。
  316. 河野義男

    河野(義)政府委員 いま、ちょっと資料でざっと計算したわけでございますが、最近、二年間で大体一万人失権している、こういうような傾向でございます。
  317. 田中美智子

    ○田中(美)委員 私が調べた数では約一万八千というふうに出ているのですけれども、これはこの一、二年というもの急激に受給者が減っているというふうに思いますけれども。
  318. 河野義男

    河野(義)政府委員 遺族方々の高齢化が進みますので、失権される数というのがだんだんふえるということは事実でございますが、いま、ここにございます資料によりますと、五十年から五十二年、二年間におきまして約一万一千でございます。
  319. 田中美智子

    ○田中(美)委員 それはもう一度、後でちゃんと調べてみてほしいと思うのですけれども、私の計算では一万八千六十五という数なんです。その数がどうということではなくて、常識で考えてもわかりますけれども、急激に減ってきているわけなんですね。ですから、私はやはり昭和六十年まで待つのではなくて、いま遺族年金公務扶助料をもらっている人が亡くなった場合には、その時点ですぐに弔慰金を出して、そしてそれで終わりだというふうにした方が、何年もたって、六年か七年かたってから忘れたころに来るということよりも、亡くなった時点で弔慰金を出すというふうに変えた方がいいんではないかというふうに思いますけれども、いかがでしょうか。
  320. 河野義男

    河野(義)政府委員 この制度ができましたのは戦後二十年の時期、昭和四十年が第一回でございます。特別弔慰金というのは年金と違いまして、毎年あるいは毎月支給される性質のものではないわけでございまして、ある一定の時期を区切りまして、国が、その年金受給者である遺族以外の遺族に対しまして弔慰の誠を示そうということで発足したわけでございまして、時期を切ってやるということにも大きな意義があったわけでございます。それが十年ごとということになっておるわけで、現実には十年、二十年あるいは三十年ということでございますので、現在は十年という時点で特別弔慰金が支給されておるわけでございます。したがいまして、そういう趣旨でできた制度でございますので、失権されるごとに特別弔慰金を支給するというふうに制度を変えるということは、この制度ができた趣旨から考えても非常に無理があるのではなかろうか、こういうふうに考えております。
  321. 田中美智子

    ○田中(美)委員 この制度をつくった趣旨からと言えば、趣旨からすれば、これは灯明代で便宜上十年ごとにというふうに決めただけであって、余りこれに固執する必要はないんじゃないですか。現実に私のうちの例で言いますと母がもらっています。母が亡くなりますと、もう兄は六十ですので、この灯明代をもらう人ももう高齢化してきているわけなんですね。それで、恐らく御存じだと思いますけれども、日本遺族会の方たちがこれを非常に大きく要求していらっしゃるんですよね。ですから、もらえる資格のある人も高齢化してきていますので、また、こんなに長くあれしていますと、その人も今度いなくなってしまうわけですね。それだけ国が節約できるという考え方をされたんでは、むしろ本当の灯明代という趣旨に反するのであって、もらえる人がもう高齢化しているわけですからね。  そういう点から考えて、私としては、やはり変わってきているわけですから、十年ごとだ、十年ごとだ、それが趣旨なんだ、こういうふうに言わないで、生きた人間を対象にしてやっているわけですし、これを未来永劫に子孫にずっとくれるというものであるならば、もらっている人の息子、いやその人の孫、曽孫、これもずっと十年ごとにもらっていくというなら、いまの趣旨で私はわかりますけれども、そうではないわけですからね。ですから、いずれは弔慰金をもらう人はもう日本には一人もいなくなるわけですよね。そのもらう人たちが高齢化してきているわけですから。そういう点からすれば、やはり本当にお灯明代だ、国が勝手に息子やきょうだいを連れていって殺してしまったんだから、そのお墓に対して灯明、お線香を上げるという形で出すならば、やはりその人たちがなるたけ生きて元気でいるときに出すということの方が、国として最後をきちっと全うできるんじゃないか、そう思うのです。どうせ出すというものならば、そうして出すべきではないか。いまおっしゃったような最初の趣旨に反するという考え方は非常に硬直した考え方だというふうに思います。大臣、いかがでしょうか。
  322. 小沢辰男

    ○小沢国務大臣 この特別弔慰金は、実は遺家族に対して公務扶助料というものを毎年毎年相当の増額をしてきておりますので、本来は特別弔慰金制度というものは考えないでもいいんじゃないかということだったのです。ところが、考えてみますと、その遺族扶助料をもらえないというような方もあったものですから、それと、たとえば親が亡くなって子供さんが扶助料をもらっている。ところが、二十になるとだめだというようなことで、そういうようなこと等も考えて、これは十年ごとにずっと継続してやりますという制度じゃないんですね。いわば二十周年の記念事業で、ひとつお灯明料を差し上げようか、それからまた、それが三十周年として考えた場合に、また差し上げようかということで、実は定期的に十年ごとに差し上げますという制度にはなってない。したがって、今度は六十年に上げます。特別弔慰金を支給しますと、いまから決まっているわけでもないのですね。  で、いろいろ考え方があろうかと思うのですけれども、やはり国民の生活の程度もずっと向上してきておりますし、それぞれ自分の身内の方々にに対して十分ひとつ自分たちの弔意を表するということは、それはそれぞれで、ひとつもう考えていただいていい時期ではないか、こういうような考えもございます。  それともう一つは、本日いろいろ御議論がありましたように、遺族年金あるいは援護法の対象にならないような戦争の被害者の方々には、いろいろな理由がありまして、まだ実は、ほとんど国家の特別権力関係だけにしぼって、いまやっておりますことも考えますと、そうこれだけに固執して議論をされると私どもも困るのでございまして、あれやこれや考えますと、おっしゃることもわかります。しかも考えようによっては、先生はいま亡くなって失権したら、その年に出しなさい、そして後出さぬでもいいじゃないか、こうおっしゃるのですが、どうも、それも特別弔慰金という、いわばお弔いをしていただくという趣旨から見ると、一回やってもらって、もう失権者が出たんだから、その年だけやって後はお弔いは結構ですよというのも、ちょっとおかしな理屈にもなりますし、どうもいろいろ特別にこういう制度をつくったがゆえに、またいろいろな議論が出てきますので、そうなりますと新しい制度をつくることに、どうしても国が消極的になるというようなこともございますので、御趣旨はよくわかるのですが、いまのところ、もう少しひとつ将来の検討材料ぐらいにしておいていただきたいと思うのです。
  323. 田中美智子

    ○田中(美)委員 後は出さなくてもいいと私は言っているわけじゃなくて、十年ごとにいままで出たということで、私は遺族会の方たちからの要請を受けたわけです。遺族の方たちが言われるのと、私のうちが事例として、ちょうどマッチしていたものですから、うちの事例を出したわけですけれども、遺族会の方たちが、灯明を上げるその人自体が高齢化しているので何十周年を待てないということを言っているのであって、せっかくそうした制度をつくったわけですから、やはりそれは生きているわけですし、じゃ、早いこと死んだ人の方が得したじゃないかというようなことにもなりますので、日本遺族会の方の要求というのは、高齢化しているわけですから当然じゃないか。ですから亡くなってから十年後に、そういうことを、もう二度と戦争はしないんだという形で国がお灯明を上げるということ、冥福を祈るということは、どういう形でもしていくべき問題だというふうに思うのですけれども、いま言っているのは、それをする本人がもういなくなってしまう。そうしますと、あとは子孫で自分は顔を知らない人ということになってしまうわけですから、そういう点で私としては日本遺族会の要求というのは当然ではないかというふうに思ってお願いしたわけです。ぜひ検討していただきたいと思います。質問を終わります。      ――――◇―――――
  324. 木野晴夫

    木野委員長 連合審査会開会申し入れの件についてお諮りいたします。  商工委員会で審査中の特定不況産業安定臨時増置法案について、商工委員会に対し連合審査会開会の申し入れをいたしたいと存じますが、御異議ございませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  325. 木野晴夫

    木野委員長 御異議なしと認め、さよう決しました。  なお、連合審査会の開会日時については、関係委員長間で協議の上、公報をもってお知らせいたしますので、さよう御了承願います。  次回は、来る二十二日水曜日午前十時三十分理事会、午前十時四十分委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。    午後八時十四分散会