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大塚喬君 ただいまの
木野理事の誠意を込めた
答弁をいただき、
法制局関係者の
皆さん方の明快な
お答えをいただいて、この点については私も快くいまの問題についての疑問を氷解して、
質問を続けさせていただきたいと思います。
それで、まあ
沖繩の問題は
皆さん方もいろいろお聞き願っておると思いますが、総論、各論、それぞれ幾つか大きな問題を抱えております。私は、まあ総論、そして各論、こう相互に交錯するところが幾つかあると思いますが、そこらの問題を踏まえながら、できるだけ
現実の問題に即してこれらについての明快な
説明をお聞きをし、私
どもも十分
理解の上にこの
審議に参加をいたしたいと、こういう強い念願でございます。
で、初めに総論的なことを申し上げますが、
沖繩の本土復帰、これはもう
沖繩百五万県民の多年にわたる血のにじみ出るような切実な念願でございました。これが本土並み復帰ということでいまから五年前に実現をし、それから五年という年月が経過をいたしたわけであります。ところが、現在依然として占領当時あるいは
戦争当時そのままの姿で居残っておる問題が数限りなくございます。私は、その象徴的にあらわれております
沖繩中部にあります読谷の飛行場
跡地の問題について、大蔵
大臣、それから官房長官、それから法務
大臣、それから自治
大臣、関係の各
大臣にそれぞれ
質問をいたしたいと思います。あるいは、この問題について余り具体的に
内容をお聞きいただいておらない方もいらっしゃるかと思いますが、ごく若干の時間をいただいて、この簡単な経過を少しく私の方から
説明をさせていただいて、具体的な
事項について数
項目にわたって
質問をさせていただきます。
読谷、これは読売新聞の読という字と谷という、そういう字を書いて読谷村、こういう村が
沖繩にございますが、その読谷の読谷飛行場用地の所有権回復の問題、こういうことに具体的に第一番にしばってお尋ねをいたします。
で、その経過をごく急いで申し上げますが、読谷飛行場は
昭和十八年夏、旧日本軍が本土防衛のために
土地を強制的に接収し建設したものである。その用地接収に際し、軍の責任者は、陸軍として不要になったら
土地は元地主に返すと口約しておったのであります。ところが、国は戦後三十二年経過した現在、いまだに戦後処理をしないばかりか、世論に反して、私もここへ三度参りましたが、新たにアンテナ
基地を建設しようとしておるわけであります。で、読谷の皆さんは、地主に犠牲を強要する、不当に強奪された
土地の回復権を再び侵害をすると、こういうことで大変大きな憤りを持って、私
どもが参りますと、数十人、数百人という関係地主の
皆さん方が大ぜい詰めかけて、私
どもはそれらの方々から強い要請を受け続けてまいりました。
その地主
たちの返還要求の
理由と申しますか、それについて少しく述べさせていただきますと、読谷飛行場、これは当時陸軍が
使用しておったときには、北飛行場という名称で呼ばれておったようであります。これは旧日本軍が太平洋
戦争を遂行するために、読谷の中心部、座喜味、それから喜名、伊良皆、大木、楚辺、それから波平、上地、これらの名字の地域にまたがって約六十五万五千坪、約一千七百五十筆であります。これらの広大な農耕地を強制接収し飛行場を建設したものであります。で、この当時はここに居住をいたしておった関係村民は、民家が六十八戸、地主が約六百五十名、ここに居住をしておらない人
たちでもそこに
土地を所有しておった、こういう人
たちがおおよそ三千六百名おるわけであります。
で、その人
たちの生活の根拠地になっておったところでありますが、
昭和十八年に入って戦況がいよいよ悪化し、日本軍は二月、ガダルカナル島を撤退し、五月にアッツ島の全滅、そして七月のキスカ島撤退、後退をし続けた結果、四囲から包囲される形勢の中でこの
沖繩に防空
基地をつくる、訓練を行う、こういうことで
戦争準備体制が強化されていった中でこの読谷飛行場の建設が行われたわけであります。
で、この飛行場の建設が、
土地の売買契約、これが私はいま
指摘をしようとする大きなかぎになる問題でありますので、
土地の売買契約について当時の経過を私も何度も再三にわたって関係地主の皆さん、当時役場にお勤めになっておった方方、その人の家族あるいは現在の村役場関係者の
皆さん方に、もうしつこくお尋ねをしてまいりましたが、いずれもこの売買契約については一言も話がなくて、地主の
意見を聞くというような態度はみじんもなく、全く強制的に
土地の接収がされた、こういうことであります。で、確かにこの接収に当たって地上耕作物の補償、民家の立ち退き料を払う、こういう契約は行われたわけでありますが、飛行場の緊急整備、こういう問題があって、この農作物と立ち退き料の一部、これが建設工事が大分進んだ中で一部行われたようであります。こういう現況でありまして、私はこの読谷飛行場のいわゆる現在国有地、そしてアメリカ軍の
軍用地、こういうことで
使用されておるこの読谷の旧飛行場の問題について、幾つか具体的にお尋ねをいたすわけであります。
もう少しちょっと補足をさせていただきますが、この軍関係の
土地の買収あるいは接収に当たった方、当時の記録を、あるいは当時の関係者等を調べてみますというと、もと
沖繩にありました第三十二軍参謀陸軍中佐の神直道さん、それから旧陸軍大佐の八原博道さん、旧陸軍中佐の釜井耕輝さん、それから同じく元三十二軍経理附陸軍主計中尉の田中護利さん、こういう方が関係をいたしておったようであります。ところが、これらの関係者はお一人を除いて全部
沖繩戦に戦死をされてしまって、先ほど申し上げました元陸軍中佐の神直道さんという方だけが生存をされて、現在東京都世田谷にお住まいになっておられます。で、これは防衛施設庁から多分出されたことだと思うわけでありますが、この方について照会をいたして、この方から防衛施設庁に対して当時の経過についての報告がなされております。
これは後ほどの
質問に関係する
事項でありますので、その際にまた申し上げることにして、私がお尋ねをしたいのは、この
沖繩で本土復帰前、日本の国有地、これは米国の財産管理官のもとに管理をされて、本土復帰前は米国の施政権下と申しますか、そういう状態が続いたわけであります。で、これらの
土地に対し、その米国の管理官に対して関係地主、これらの方は返還するよう要求を続けてきたわけでありますが、具体的には一九五八年、
昭和三十三年、元三十二軍の陸軍中佐神直道氏等関係者等の証言、これらを添えて
提出をいたしましたところ、西原飛行場、これらは同じような飛行場が建設をされ、旧陸軍に
使用され、そして
米軍の占領下も
米軍によって
使用されておったその
基地が、片方の飛行場は、これは先ほど申し上げました証人の証言によって関係地主、元地主に返還をされておるのであります。ところが、この読谷飛行場に関しては現在まだ返還をされておらない。で、私
どもは当然旧地主に返還をさるべきであると、こういう考え方を強く持っておるわけでありますが、異国民である米国軍
政府当局、それですら国有地の元地主への返還問題に真剣に取り組んで、先ほど申し上げたように別の方の飛行場は現に返還をされておるわけであります。ところが、日本
政府がこの問題に関して、もう戦後三十二年過ぎておるのに、この読谷飛行場についてはここにまたアンテナ
基地を設置する。いまその建設は地元関係地主の強い抗議に遭って中止をされておりますけれ
ども、これらの飛行場が旧地主に返還をされておらないわけであります。
で、私は官房長官にお尋ねをいたします。この問題についてお聞きになっていらっしゃるかどうか。先ほど申し上げたように、立ち退き料や地上耕作物、こういうものについての補償は行われたようでありますが、その
土地の買収費については、だれに聞いても、現在残るどんな物的な証拠を調べても、そういうものについては証拠がございませんし、その証人、先ほど申し上げました元陸軍中佐の証言にも、支払いは行われておらない、こういうことがあったわけでございますが、日本
政府はこれらの問題、重大な戦後処理として一日も早く解決をするために取り組むべきだと考えておりますが、官房長官として、こういう問題が現存するこの読谷の問題についてどういう所見をお持ちか、お聞かせいただきたいと思います。