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野口忠夫君 いまのお話は私には一向通らないんです、私は
暴力団対策というものが最大の問題であろうと思っておるわけですから。今日の国民の安全を図るのは
暴力団対策だということになると思うのですね。その
暴力団に余り供給しないようにしようという中では、
猟銃は使われているということですよ、どんな厳重な許可をしても。実包はその中からやっぱり買われている。やっぱり
相当な
暴力団の基礎をなしているんじゃないかということもあわせて申し上げるわけですね。ですから、そういう法の
体系の中でもう乱れているわけですね、次から次へとやってくる中では。それじゃ、
猟銃をいま禁止するかといっても、それはなかなかできないだろうと思いますよ。ただ、これがずっと
規制されている方向が
モデルガン、
モデルガンと言って、
モデルガンというようなものにばかり集中してきちゃうんですね、いまのこの法
改正は。そのことが
取り締まりの対象ではなくて、
自主規制でやっていくのがいいじゃないかということをいま申し上げたが、その
自主規制には信用ができないというお答えなんだ。結論はそうじゃないですか。
ある部面、つまり
自主規制は業界ぐるみでやってもらわなくちゃいけないわけですね。ところが
自主規制が
強化されればされるに従って、余り
規制しないものの方が売れ行きがいいと。それで、アウトサイダー的なものが出てきて、何らかの法
規制がないと 一生懸命
規制をやった方の人たちの商売が成り立たぬと。だから、法の
改正をひとつやってくれないかというような意見の方もあったと。だから、業界全体に対しては、やっぱり
警察としては
自主規制というものはなし得ない、そういう要素を持っている、だから今回
取り締まりの方でやっていこうと、こういうふうに出てこられたと私は思うんですがね。その点について私はやっぱり疑問を感ぜざるを得ないわけですよ。何で
警察の方々はそういう
業者の方々を呼んで、いまこういう事態でこうなっているんだと、おまえたちがようやくやってきたのはこうなんじゃないかと、こう言ってそういうものを指導する
行政指導、これはやっぱり通産省と一緒になってそういう
行政指導の徹底の中で何とか
自主規制の方向を守っていくという態度こそ、今回の
モデルガンに対するやっぱり正しい
警察のやり方じゃなかろうか。そこには
憲法の問題もなければ、あるいは
生活権を奪うものもなければ、幸福追求を奪うものでもない、国民の合意された方向での
規制ができ上がっていくわけだと私は思うのです。
何か、業界の中には賛成の者と反対の者がいて、業界同士がけんかをやっていてそっちは動かないから
法律だみたいなことでは、私の申し上げている精神とは違うわけです。民主化というようなものは、一挙に向こうの彼岸にぽうんと飛び上がるものではないと思っているんです。私も、少なくともいま
改造ガンというものがあるということについては認めているし、なくさねばならぬと思っている。ただ、それをなくすということのために、最も人間の
基本的な権利というような問題にまで踏み込んでいくような
警察権のあり方というものについては、これは十分検討せねばならぬと、こういうふうに思っているわけです。
何らかの
方法はないのか。ある面では
取り締まりも必要だろうけれども、もっと国民の良識を信頼するとか、国民の協力を得るとか、また、そうしなければこの問題の解決はないでしょう。先ほどもお聞きしましたが、
改正したって実際の効力はどのくらいあるかわからぬというお答えをいただいているわけですよ。ここでいま真剣に論議すべき問題は一体何だろう。大分時間をかけてここで論議されるべき問題は何だろうと言ったら、私は、その問題の所在は国民の中に
暴力団がなくなるようなことだと思うのです。そういう意識を持った国民をつくり上げることがわれわれの悲願でなければならぬと思うのですよ。一挙にいまできないかもしれません。それはわれわれ人類の長い理想ですから、一日一日はそういう民主化の問題に向かって進んでいるわけでしょう。ですから、その路線の中で今回の
取り締まりというような問題も
考えていくというような方向の中では、せっかく芽生えてきた
自主規制というような、国民がみずからの利益を損しても、お聞きすると一億くらいの
自主規制の金をお出しになられたと聞く。
私もここに、どういう
組合かと思って持ってきてもらったので、
製造協同
組合の定款もあります。それから、「
モデルガン製造業者の安全確保に対する共通の理念と具体的な
自主規制の
内容」というようなものもあって、
内容を読んでみますと、安全マークの使用許諾契約書というようなものもありまして、この安全マークに反した者は百万円ですか、「甲は、乙が本契約に違反したときは、百万円の
範囲内で、甲が任意に定める違約金の支払を乙に求めることができる。」と、こういうふうなことは御存じなんでしょう。これをつくるときにはお触れになったんでしょう。
業者と話し合って四十九年に
自主規制に入っていくときには、こういうものがあるということは御承知であったし、そういうものがつくられたこともお認めになったんでしょう。
製造協同
組合のこういう定款もお認めになったはずです。それでおまえらやってみろと言っていたところが、そこに
一つになっていけないような課題が生まれてきたということを
理由としてこれをつぶしてしまうということは、私は行政としての立場として非常に何か残念でならない。なるほど
取り締まりでやっていくことは一番簡単です。国家権力であり
警察権力ですから、もしこれが施行されれば、ちょっと何か持っていても、おまえは販売の目的を持っているのかどうかというような尋問を
警察官の方によって行われるわけですから、何日かの勾留もそこで行われるかもしれないというような、力を持ってこれをやっていくということは簡単だと思うんですよ。しかし、それはせっかく進行しつつある
日本の民主化の路線の中では法によって威圧された人間をつくるにすぎない。法にみずから服していこうとする人間をつくるのではなくて、法によって処罰しようとする人間をつくっていくというような方向きりないわけですよ、そこには。せっかくいま目覚めたこの
自主規制というような国民的な民主的な
方法というものを今回一挙に捨てられて、法
改正という姿の中で
総理府令に依存していくという、このあり方の中では何か飛躍しているのではなかろうかと思うんですがね、いかがでございましょう。