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小笠原貞子君 それじゃ、ぜひますますの御努力を期待しておりますので、よろしくお願いします。
時間がなくなりました。最後に、
戦傷病者戦没者遺族等援護法等の一部を
改正する
法律案についてお尋ねしたいわけですけれ
ども、きのう御承知のように沖繩地籍法がああいう形で通ってしまいました。私は本会議場で、あの流れの中で、どうしても沖繩のいろいろなことが目に浮んで、本当に何とも言えない思いでございました。五十一年の七月に沖繩戦被災者補償期成連盟という組織です。会長は翁長助静氏という方で、これは元自民党の県会議員をなすっていらっしゃる方ですけれ
ども、この方から厚生省に、沖繩戦被災者に対する補償要請についてという要請書が提出されているわけです。御承知のとおりだと思います。大臣もいらっしゃるので、私はぜひここのところで、沖繩のこの組織の、私
どもはどの党であろうと当然のことだということで、翁長さんを会長とするこの問題についていろいろ見せていただいたわけですけれ
ども、私は本当にここでもう一度考えていただきたいと、ちょっとしばらく時間をかしていただきたいと思います。
沖繩戦被災者の死亡者、負傷者に対しては、国の責任において戦後処理の一環として補償すべきであるということが第一に書かれているわけです。特に、沖繩は国内戦が行われた県であり、県民の
被害も他に類を見ないものがあるという前提に立っています。沖繩の戦災と他府県の戦災との相違なんです。十二項目あるんです。
その第一は、第二次世界大戦中、沖繩戦は唯一の国内戦で、本土防衛のとりでとして軍部において、ここなんです、軍部において計画策定された戦争であったと。
第二の場合は、本県のように、極地的であったがゆえに、敵艦船千三百有余隻で包囲攻撃された県がどこの県にあったでしょうか。
第三、軍命で老幼婦女子以外の十七歳以上四十五歳までの者の疎開を許されないと、疎開する自由さえも許されなかった県がどこにあるでしょうか。
第四番目、本県以外に米軍上陸後、年齢性別を問わず戦闘に
強制参加させられた県がどこの県にあったでしょうか。
第五番目は、唯一の国内戦が行われた県では、敗戦の様相が濃厚になったとき、県民がスパイ容疑をかけられ悲惨な死を遂げた事実、これがどこの県にあっただろうか。
また、六番目、戦争中飢えた乳児の、子供の泣き声が敵に聞こえるということで、私も何回も行って具体的に聞きました。あの防空ごうの中の水たまりに子供の口を押しつけて、そして窒息死させたとか、そういうことで、子供の声が敵に知られるということで子供が殺された。
戦争中、食糧の補給が絶たれ、軍隊も食糧不足になったときに、国民を守る軍隊ではなくて、県民から食糧を馬賊よろしく略奪していくというような、そういう状況に置かれたという県がどこにあるだろうか。
八番目には、戦争中、敗戦が決定的になったとき、戦火を避けるために県民が防空ごうに入っていたら、この防空ごうは軍隊が必要なんだと言って、そこから県民は追い出されて、そしてそこでたくさんの
人たちが死んでしまった、こういう県がどこの県にあっただろうか。
こういうように、沖繩戦におけるあの悲惨な事実というものが、いまだにこれが本当に報われていないで、大変な
被害をしょわされているということなんです。こういうことから、私はお伺いしたいんですけれ
ども、これはまさに戦闘要員として
強制され、疎開もさせられない。そして、軍の命令で犠牲になったということですから、これは本当にほかの県と一緒に考えるものではなくて、具体的な問題として考えていただきたいと思います。で、これは私はプリントしてきたんですけれ
ども、「沖繩県史」というのが八巻ありまして、「沖繩戦通史」というのを見てみたんです。ここにまた具体的に名前も事件も記録が載っておりました。これも時間がないから簡単に要約いたしますと、これはスパイ容疑で、つまりスパイだという容疑で殺された人の、このスパイ容疑だけで本部国民学校長の照屋忠英さん。久米島の村民が十数名殺されました。久米島郵便局の安里正二郎さんという人が殺された、スパイ容疑で。妻のカネ子さんは悲嘆と恐怖から山田川に投身自殺しました。宇北原区区長の小橋川友晃さん外八名がスパイ容疑で死んでいる。それから仲村渠明勇、この方一家三人がスパイ容疑で殺されている。それから今度、塩屋湾内の大宜味村の字渡野嘉屋というところ、村の婦女子三十人、四、五発の手榴弾で殺され、そのほかに男の村民四、五名が殺されている。その他八件、十五名というような、こういうスパイ容疑で殺されたのがこれだけあるわけです。
時間がないから続いてお伺いしますけれ
ども、今度スパイ容疑ではなくて、軍の命令で集団自決させられたと。もう御承知だと思います。私もいろいろ調べまして、一番胸打たれたのは、渡嘉敷村というところなんですけれ
ども、ここで赤松大尉というのが命令して約千五百人の住民に、もういよいよ日本は負けるんだと、生きて恥をさらすなというので、二、三十人ずつ集めて、一発の手榴弾を囲んで自決させているわけですね、大尉が、具体的に。それから、手榴弾が足りないところは集めまして、一人で自分で死ぬということはこれはなかなかできないことだから、だから集団でお互いに自決しろという命令で自決させているんです。私も聞きましたけれ
ども、くわだのすきだの、いろいろな刃物でもって、だれが一番先に殺すかと。気の弱い者は殺せない。だから若い者、勇気を出せる者がといって、婦女子や年寄りを次々と虐殺して、そして殺されていっている。これが渡嘉敷村です。ここで三百二十九人ですわ。渡嘉敷村で三百二十九人が集団自決させられております。それから座間味島、ここへ来ますと、梅沢少佐、これが三月二十六日、村民七十五名を殺しております。それから阿嘉島、ここは古賀少佐、野田少佐の命令で二百八十四名が集団自決されているわけなんですね。これもぜひ——援護局はもう御承知だろうと思いますけれ
ども、私はきのうの本会議を見ながら、こういう沖繩戦の犠牲者というものがいまどうなっているだろうかということを考えざるを得なかったし、再びこういうことがあってはならないと、もう本当に心から考えさせられた本会議でございましたけれ
ども、いまこういう例というのは全部名前が具体的に出ているわけですね。こういう具体的な名前が出ているにもかかわらず、これが援護法の対象になっていないという、漏れがあるわけです。いろいろと対象に救っていただいたということは、私も御努力のほどよく承知しておりますけれ
ども、まだこういうふうな
人たちが漏れているのがたくさんあるわけです。だから、私は具体的に
調査をなすって、県を通じて
調査をなされば、これはできることですし、こういう漏れが救われる。これはもうまさに沖繩戦が済んだと、済んだけれ
ども、済んだ後にこういうふうにやられているというところもたくさんあるわけですから、そういう
意味からは、当然援護法の対象として十分配慮していただきたいと思うわけなんです。それについて、大臣も沖繩のこの問題についてのどういうふうに努力していただくかということを
お答えいただきたいこと。
それからもう
一つ、最後でございますので、続けてお伺いいたしますが、おとといですか、戦争犠牲者の方たちがお集まりいただきました。そのときにも、もう本当に涙ながらに訴えられていたことは、
自分たちも自分の意思ではなくて戦争の犠牲を受けたんだということから、戦時災害援護法と、これもわが党も賛成をして出しておりますけれ
ども、こういうような戦時災害援護法
制定という
要求が非常に大きい。ここに具体的なはがきをちょっと持ってきたわけですけれ
ども、たとえば品川区のこの方は、空襲を受けて七歳の長男が死没、私は左手、右足不能となり三十二年、いまだ全治せず、毎日病院に通院加療しておりますと。これ全部具体的な例なんですね。そういう方たちが戦時災害援護法というものを非常に希望しておられます。公明党、社会党、共産党と、共同提出しております。この立場を御理解いただいて、これはもう時期としてはすぐにでも取りかかっていただかなければならない問題ではないかということの二つです。沖繩のそういう犠牲者が漏れなく援護されるように努力していただくかどうかということと、戦時災害援護法についての考え、二つを
お答えいただいて終わりにしたいと思います。