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政府委員(
中江要介君) 経緯を大きく流れを申し上げますと、まず第一に一九六八年、
昭和四十三年にエカフェがこの地域の調査をいたしました。この調査は
大陸だなの帰属を調査するのではなくて、この地域の天然資源の分布状況がどうであろうかという全く科学的な調査をいたしたわけでございます。この科学的調査の
内容に着目しました沿岸諸国が、それほど有望な
大陸だなであるならば
開発しようではないかということを考え始めたのは、これはもう当然のことでございまして、
日本でも
昭和四十三年から四十八年にかけて鉱区設定の出願がございましたし、
韓国側でも四十四年から四十五年にかけて
開発権を付与するという事態が相次いで行われたわけでございます。
そういうふうに沿岸国がそれぞれ
開発を目指して法の整備あるいは
開発権の付与というものを行っております状況を
日本政府としていろいろ見ておりましたところが、
韓国で、
国内法に基づいていま
共同開発区域になっております
部分についてまで、つまり
日本に非常に近いところまで鉱区を設定して
開発権を与えているということを知るに及びまして、これは
日本として看過するわけにまいらぬと、この
部分はまさしく
日本が
大陸だなの主権的権利を行使し得る地域であるということで、
韓国側にその一方的な
国内法に基づく
開発を行うことは再考すべきではないか、この
部分は
日本と
韓国の間にまたがる
大陸だなであるのであるから、
日本と
韓国の間で境界線を画定する話をしよう、こういうことを申し入れたわけでございます。これが
昭和四十五年の六月のことでございます。
ところが
韓国は、それでは話をしましようとすぐ言わなかったわけでありまして、なぜ言わなかったかというと、
韓国は、
日本と
韓国の間には境界を画定しなければならないような共通の
大陸だなはないと、
韓国の方からは沖繩海溝まで及ぶ自然の延長の
大陸だながあるけれ
ども、
日本の方からは何もないじゃないかと、もうすぐに深い海溝があってそこで終わっている、
日本には
大陸だなはない、したがってそもそも
境界画定の話をする必要がない、こういうことでなかなか話し合いに応じないで、そういう
日本の立場は国際法的におかしいと、
大陸だな条約に徴しましても自然の延長の外縁までが沿岸国の権利主張の限度だということになっているんだから一点の疑問もない、
日本と話し合う必要はないと、こういう強硬な
議論であったわけです。
そこで
日本は、
日本の立場からいたしますと、そこに海溝はあるにしても
一つの
大陸だなをはさんでいるんだから当然話し合いによって境界を画定すべきだ、もし、にもかかわらず
韓国が自然の延長の外縁までだと言って一方的に
開発するならばこれは日韓間にゆゆしい紛争になると、したがって自重してもらいたいということで、まず
国内法に基づく
単独開発の自粛を促したわけです。
〔
委員長退席、
理事秦野章君着席〕
韓国はその自粛をすることについてはしぶしぶ応じまして、話し合いをするといっても、それは
法律的な立場に基づいて境界を話し合うのではなくて、当然
韓国としては
単独開発できるということを
日本に納得してもらうために、それじゃあ話し合いをすると言うんなら話し合いをしてみようじゃないかと、こういう当初は態度であったわけです。したがいまして、まず
日本側の
韓国に対してやりました努力は、
韓国と
日本と
境界画定のための話し合いだという、その話し合いの場に引きずり出すことにあったわけです。
日本としましては、先ほど申し上げましたように、この
大陸だなは
一つの
大陸だなで、たまたまそこにみぞが入っているだけだという
議論を展開いたしますし、
韓国はみぞのあるところまでは
自分のもので、
日本側には
大陸だなの権利主張はないと。この
法律論争が四十五年の十一月からやっと始まりまして、四十七年の二月まで三回にわたって
法律専門家小
委員会というものを開いていまの論争を続けました。
この論争をやりますうちに、だんだん
韓国も
法律的にそれじゃ
境界画定はどうするかという
日本側の立場に歩み寄ってまいりまして、やっぱり何とか
境界画定しなきゃいけない。その場合に、どこに
境界画定するかということで
議論をしたんですけれ
ども、全く立場が違うものですから折り合いがつかない。いつまでもそういう論争だけをしておりますと資源の
開発は先に延びるばかりでいつになっても
開発ができないと、これは日韓双方にとって有益な、利口なことではないということで、それではもう純粋に
法律的な国際法上の紛争であるから、これは国際司法裁判所に付託するのが一番国際社会の認める道ではないかということで、国際司法裁判所に提訴することを
日本側から提案いたしたわけでございます。これが
昭和四十七年の四月のことでございます。
ところが、
韓国は御承知のように国際司法裁判所規程の当事国でもございませんし、したがいまして、国際司法裁判所に服するということを一般的に受諾宣言しておりませんものですから、どうしてもこの法廷に日韓
両国が出ていくためには、
日本と
韓国との間で特別の合意書というものが必要なわけです。
ところが、
韓国は国際司法裁判所に持っていくことに応じない。応じない理由の
一つには、基本的には国際司法裁判所に持っていくまでもなく
自分の方が正しいと、こう思っている。これは
韓国の立場ですからそういうことでしょうが、それプラス国際司法裁判所でこういったたぐいの問題を処理いたしますには大変な時間と経費がかかる。それだけの金をつぎ込み、時間をかけて国際司法裁判所の法的判決を得るまで努力することに
韓国は乗り気でなかった。
韓国が応じません以上は、
幾ら日本が一方的に持っていこうとしてもこれができないのが実情でありますので、
韓国としてはもう手がないじゃないか、
法律論争しても平行線、国際司法裁判所に持っていこうとしても
韓国がそれに応じない、そうすればもう平行線で決着がつかない 決着がつかないなら
韓国は独自で原点に戻って、
昭和四十五年のときにやろうとしたことを四十七年の夏ごろには着手しますと、試掘の井戸も掘りますというところまで情勢が緊迫したわけでございます。
そういうことで、両方で話し合いをしたけれ
ども話がつかない、ついに
韓国が一方的に踏み切ったということは、これは
日本にとりましても
韓国にとりましても、
日本がまず資源を失う、
韓国はそういうことで
日本との大きな紛争を巻き起こす、どちらもこれは政治的に決断すべき段階に相なったということで、四十七年の九月の五日、六日にソウルで第六回の定期閣僚会議が開かれました。この定期閣僚会議が開かれます前でございまして、ここははっきりしておく必要があるのですが、定期閣僚会議で持ち出された問題ではなくて、定期閣僚会議が五日、六日に開かれました前日の四日に、ソウルで、これはたまたまそちらに赴いておりました閣僚の一人であります当時の大平外務大臣と朴大統領とが会談する機会があったわけでございまして、この席で
韓国側から、あの問題は両方ともなかなかがんばっていると、
法律的に決着がつきにくいと、こういうままでほっておくということは、私が先ほど申し上げましたように日韓双方にとって得策でない、ひとつ
共同開発というようなアイデアでこれを
開発することを考えたらどうだろうということがありました。
大平外務大臣は、
自分一存でもちろん決められる問題でありませんので、
韓国がそういう実際的解決についての
一つの提案が出たということはこれは非常に注目すべきことであったわけです。なぜ注目すべきことであったかと言いますと、それまで
韓国はとにかく
単独開発か否かという姿勢しか持っていなかったわけです。
日本が説得されるまでがんばると、そして
単独開発すると、こういう線できておりましたのが実際的解決に歩み寄ったということで、
日本側もその
韓国の考えていることを大平大臣が持ち帰られて東京で
検討したわけでございます。
で、こういうふうに双方の
大陸だな権利主張が重なりましたときの解決方法としては、普通はどこか中間線以外の適当な線を妥協で引いて、ちょうどオーストラリアとインドネシアがやりますように、中間線以外のところで落ち合うという方法も
一つあるけれ
ども、この
共同開発区域についてはそういう線がなかなか考えにくいと、そうすれば、ジョイントベンチャーのようなものはなかろうか、あるいは
共同開発というようなものは考え得ないだろうかということは、
日本側でも事務的には
検討しておったことは事実でございますので、その中の
一つである
共同開発構想というのが
韓国の大統領から示唆されて、それを受けまして東京で
関係各省庁の間で会議をいたしまして、九月の八日に、つまり閣僚会議が終わりまして、
関係閣僚が東京に帰りまして、東京で打ち合わせた結果、原則的にそれでは
共同開発構想というのはむずかしいけれ
ども一度やってみるかということで、九月八日にわが方の後宮大使から金外務
部長官に対して原則的に
共同開発構想で
検討してみようということで、この世界に類を見ない
共同開発というものに私
ども挑戦いたしまして、四十七年の十月から四十八年の七月にかけて十回にわたる大変な作業を重ねまして、四十九年の一月三十日に
協定の調印に及んだ、これが経緯でございます。