○長谷川国務
大臣 お聞きのとおりの臨時代理でございますので、明確に
お答えができるかどうかわかりませんけれども、
栗林さんとは三十年来の友でございますので、議論をするつもりも何もあるわけではございませんが、いまの一点については先に御
答弁を申し上げます。決していい状態ではないと
考えております。
しかし、先ほどもちょっと触れましたように、農村の生産
人口が少なくなっているのにもかかわらず、さらに消費
人口が増大しているのにもかかわらず、どうして米はこんなに余るのでしょうか、こういう問題にもお話し——議論するのではないのですよ、
栗林さんとは心やすいからぼくは言うだけであって、そういうような点を私もしみじみと
考えているのです。ということは、物の生産というものは何のために生産をするのだろう、物の生産というものは消費ということが目的で物の生産というものがある。そういたしますと、農業者全体の
考え方も、いま
不足している分というものもたくさんある、消費構造そのもの自体が変わってきているとするならば、これに合った農業というものがやはり
考えられなければならない。もうすでに日本の農業というものは、私はこういう言葉は科学技術のみに使う言葉だと思っていたら、現在の農業者自体の方へ使わなければならないときに入ってきているというのは頭脳集約という言葉だと思うのです。したがって、現在の農業者は、本当に物の生産という面は、消費が目的で生産されるのだとするならば、もっと頭脳集約的な方向づけをしなければならない、したがってこれを指導する面においてもそのとおりだと思います。また、
栗林さんの方の実態から
考えてみましても、一毛作そのままあけておいて、それで農業はいいか悪いかという点も
考えなければならない。宇宙全体は
人間の手によって解明され、解剖され、そして今日はビニールというあのフィルム一枚がどんなに物の大きな生産を上げているかという実態にも
考えを起こさなければならないときに来ている、こういうふうに私は
考えます。
とするならば、
国民生活というものがこれほど大きく変わっていく、変わっていくに沿った農作物、つまり消費者が要求する農作物に転化していくということが重要な課題だろうと私は
考えます。よって、いまのお話のように、出かせぎなんということが決していいものではない、家庭を破壊し、そして農業の
機能が落ち、健全な
生活だとは私は言えないと思う。したがって、これをやむを得ずしなければならない状態にあるということは見逃せない。とするならば、この指導という面を、だれが手をとってどういうふうに指導していくのだろう。米作だけであと半分あけておくという事態、これは雪が降るからできないのだと言えばそれだけで事は終わりであろうけれども、その区間、もう一段と何か方途というものがないのだろうかというようにも、私は常に
考えておる。私は
栗林さんと同じに農業問題と取り組んで、どうやったらば日本農業というものの将来の安定——日本の農業の将来の安定というものは
国民生活の安定でありますから、これは軽視することは何人もでき得ない問題である。でありますから、こういうような点につきましても、出かせぎなんということでなく、何とかそこに工場をつくって働かせるなんということよりも、農業というその大目的の使命に立った農業はどうやったら行っていけるだろうか、こういう面について、ひとつわが農林省自体もみずからこれに挺身しなければならないし、農業者自体も先ほど申し上げた頭脳集約的なものをもって
考えを新たに起こしていかなければならないと
考えます。
先ほど申し上げたのですけれども、日本の
人口が七千万のときに台湾からあるいはタイから米を持ってきて、国内ではひき割り飯を食ってわれわれは育っていった。現在、一億一千万の
国民になって、耕地が狭まったにもかかわらず、純米の飯を食っていってそれでもまだ余るという、この現実をどうとらえているかという問題から
考えなければならない問題だと思う。
国民の
生活の安定というものは、少なくとも農作物が七〇%国内生産が行われなくてどうして
国民生活の安定というものがあるだろうか。いまのような状態は、私は絶対歓迎すべきものではない。したがって今後——いま申し上げたように、
栗林さんとわれわれが今日までも懸命に日本農業というものを
考えながらやってきたにもかかわらず、まだこの状態に依然としている姿というものはわれわれにも責任がある。したがって、今後はこれらの問題を農林当局としても十分に
考えながら物の生産に当たっていかなければならないのだ、そういうふうに
考えるのです。
しかし、全く食糧自体がいかに高級化したかというその現実というものは、さっきちょっとお話ししたのですけれども、
昭和二十二年に十六万トンできたミカンを
一つ考えただけで、今日の四百万トンのミカンができる、それでもそのミカンが足らなくてグレープフルーツを持ってくる、ポンカンを持ってくる。これでどういうふうに——その間スイカなんというのは夏のものだと思っていたら、年間を通じてスイカができてくる。キュウリ、ナスは一年じゅう出ていっている。
人間、日本人のその生理状態が全く一転してきているという、それは
食生活から来ているのでありますから、こういう点についても、また新たな
考え方を持たなければいけない。それは先ほど申し上げた、フィルム一枚の大きな力がこれに伴った、つまり消費者一億一千万の要求する農作物に変えていくという、こういう面を
考える必要がある。これはだれが、つまり農林省が主体となって、お互いが農業者全体の
考え方を一にして進んでいくということをやっていかなければならぬ、こう思っておる次第でございます。