○受田
委員 そうしますとちょうどいいわけで、
恩給法と兄弟
関係にあるこの法案を、
厚生省設置法というお役所の関連の重要法案として私から質問を続けます。
長い戦争で痛手を受けられた戦
傷病者並びに戦没された
方々の御
遺族や御家族を守ろうという目的をもって、占領がまだ終わっていない
昭和二十七年の四月から施行された
法律が戦
傷病者戦没者遺族等援護法でございます。それにひっかけて、間もなく二十七年四月二十八日から講和条約が発効して、占領下から独立国になりまして、そこで、惜しみなく戦争の犠牲を受けた
方々を守ろうという世論も起こりまして、二十八年八月から
恩給法が復活した。終戦直後の勅令第六十八号により停止された
恩給が日の目を見ることになって、戦没された御
遺族に対しても本格的な補償の道を開けることになったのです。その後におきまして、
昭和三十一年に
恩給特別法、それから三十三年の動員学徒等を含む援護法の
改正等が順次積み重ねられて、今日援護法では、
軍人、軍属、準軍属とも、
遺族年金及び
給与金は
公務扶助料の最低と同額になったわけです。ようやく、祖国のために殉ぜられた
方々に、そうした職種の分か砧なく国家のために生命をささげた御
遺族と、その
傷病者に同等の処遇をするという原則ができたわけです。けれ
ども、その原則の中になお
恩給法と援護法の間に多少のアンバランスがあることをさっき
援護局長は仰せになったのでございますが、
公務扶助料と
遺族年金だけは七十二万ですかっと一緒になっている。
遺族給与金も同額。そこで、私
指摘したいのは、この援護法の中の
法律の適用を受ける
方々の中になお漏れている者はないか、
恩給法の中にもなお漏れている者はないかということでございます。
私、長い経験から大変気の毒に思っている
方々があります。それは元満州開拓青年義勇隊に尽くしてくださった
方々で傷痍になられ、あるいは死没された
遺族に対する処遇が、
軍人のあるいは軍属の遺家族と同等にまだ処遇されていない。
昭和二十年八月九日にソ連参戦後におけるこれらの
方々に対しては、戦闘参加者の意味をもって
昭和四十二年でしたか、これを援護法の中へ入れることになりました。また、これらの
方々の中で、
昭和十四年の時点から大東亜戦争の勃発までの間に、義勇隊開拓者の名をもって満州の地域で活躍され軍事協力をしたという理由で、これも対象になりました。
もう
一つ、その真ん中にある、つまり開拓期間の者もまた検討されることになって、都合三回にわたる
改善措置がされたわけでございますが、にもかかわらず、この適用を受けている数は、なお依然として少数である。もともと満州開拓青少年義勇隊というものは、例の大東亜戦争前の支那事変勃発後の祖国の風雲急を告げる時点におきまして、国策に基づきまして満州の開拓に出かけた
方々です。私、これらの内原の訓練所で養成されながら出かけた
方々の総数が、八万有余あることを聞いておるのでございますが、私も
昭和十五年、十六年と山口県の県庁で青少年教育のお手伝いをする
公務員の末端を汚しておったもので、下関で満州開拓青少年義勇隊の皆さんが、あの下関の埠頭を出ていかれる前に、整列した十五一六歳の可憐な少年
たちがびりっとした服装で、きりつとした敬礼をして、行って帰りますという、その姿を何回かお見送りに行きました。祖国を離れて十数歳の若い少年
たち、夢を満州の開拓に託して祖国の繁栄のためにがんばってスタートされた、その可憐な少年
たちの姿がまだ私の眼を離れません。諸君よ、健康でね、がんばってねという声援を送って、下関の埠頭にお送りしたいまからもう数うるところ三十数年も前の話です。これらの人の中には帰らぬ人がたくさんあり、また傷ついて帰った人もある。帰って後はばらばらで消息の不明の人もあるという、わずか数年間に本当に、戦争の勃発する前と敗戦の直後では大変な相違をもって厳しい現実がもたらされたわけです。しかも、これらの人々を送るのには、各地域とも出征
軍人の扱いをいたしました。大東亜戦争中は、亡くなって帰られた人のためには
市町村葬をもって戦没
軍人と同じ待遇をいたしたわけです。いわば軍に協力し、国策に協力し、
軍人軍属と同じ仕事で働いてきた皆さんでありますが、結果として今日なおその処遇が取り残されているというこの問題につきまして質問をいたします。
私も過去において幾たびかこれにも触れたのでございますが、
戦没者の御
遺族と戦
傷病者及び生存
軍人に対する処遇が漸次進歩する中で、同じ運命で祖国の先頭に立って働いた皆さんが放置されているということは大変残念なことでございます。
厚生省として、この問題にどう取っ組んでこられたかの経緯と、これからどう扱おうとするかの計画を御答弁願いたい。