○岩垂
委員 最初に私は、
委員長初め
委員各位にお断りを申し上げたいことがございます。
きょうの私の質問は、実は心身障害者の問題についてでございます。これは本
委員会と直接関係がないのじゃないかというふうに思われるかもしれませんけれども、川崎市内で起こった問題を含めて、川崎市当局あるいは全国の
自治体が当面している大きな課題でありますので、本
委員会で取り上げることについてお許しをいただきたい、このようにお断りをしておきたいと思います。
最初に運輸省に
お尋ねをいたします。
四月十二日、川崎駅前で日本脳性マヒ者協会青い芝の会の皆さんが、車いすのまま路線バスに乗せるべきだと要求して、バスに乗り込んだり座り込むという行動がございました。一時は三十路線四十六台のバスが動きがとれなくなったと言われています。率直に申し上げて、私はこのことを翌日の報道によって知らされたときに、とっさにこういう結果はよくないなと思いました。それは、この大々の要求というのは、交通関係の労働者やあるいは当局、さらには市民の理解と協力を得ない限りなかなか実現は困難ではないかと考えたからであります。その後、この川崎駅前の抗議行動の目的の一つが、市民の温かい心の触れ合いを求めることにあったと聞かされたとき、結果的には市民の反感を買い、その目的と大きく食い違うことになってしまったのではないかという懸念を持たざるを得なかったのであります。
このような事件は、実は川崎だけではなく、東京や大阪あるいは横浜でも起こっております。しかし、脳性小児麻痺者は全国で三十万あるいは四十万とも言われていますけれども、その中には親兄弟から厄介者として扱われたり、親兄弟の手にかかって殺されるという忌まわしい事件もあったわけであります。多くの障害者が自宅やコロニーや収容施設で、外出もままならないという
状況のもとで
地域社会から全く切り離されて生きている現実に私どもは目をそらすことはできないと思うのであります。いままで余り外に出たことがない障害者が集まって、自分自身の経験した差別や抑圧という
状況を語り合うこと、そして自分自身の社会性の欠如を反省しながら、自己変革を目指そうとしている彼らの努力を私どもは注目をせざるを得ません。
少し長くなりますけれども、私はここで青い芝の会の要望書を読ませていただきたいと思うのです。それは何よりもこの問題に対する彼らの立場を明らかにしていると考えるからであります。前文を省略しますが、
私
たちの仲間の多くが、二十歳、三十歳になる今日まで、ほとんど家の外に出たことがなく、もちろん海をみたこともなければ、デパートや、映画館あるいは食堂や、喫茶店へ行くのもはじめてという人
たちであります。先輩や、後輩、親友や単なる友だちすらもったこともなく、それらのちがい、つまり、人と人とのつきあい方、接し方すら身につけてこなかったのです。
しかし、このように社会から切りはなされたところで育てられ生かされてきた私
たちにむかって、その社会性の欠如をだれが非難し、なじることができるのでしょう。私
たちもまた、自己の置かれた立場や自分の親をはじめとする人
たちをなげいたり、うらんだりしていてもはじまりません。まず、私
たち自身から街へ出て、自分の体で体験していくと同時に社会の人
たちに、私
たちの存在を正しく認識させなければならないし、さらに私
たちと同じように家にとじこめられている多くの仲間とともに、社会を変えていかなければなりません。
このようにして街へ出てきた私
たちを待ちうけていたものは、いたるところでの障害者差別であります。このたびの車イスバス乗車拒否も、その一つであります。なぜ、すべての人が乗っているバスに、私
たちだけ乗せないのでしょうか。バス会社側は、「バスは前から乗って後から降りるものだ、それができない者は乗るな、そういう規則になっている。」「車イスからおりて座席にかけ、車イスを折りたたんで乗せろ」といいます。
文明が進み、合理化が進むにつれて、様々な規格や規則が作られます。乗物や建築物はもとより、横断歩道の信号やさまざまな自動販売機にいたるまで、ある一定の規格で決められております。そしてそれらの規格や規則にあわないもの
たちをしめ出し、排除していくのが今の社会なのだと思います。しかし、法律や規則というものは、すべての人間の幸せのためにこそあれ、私
たちのような社会的に弱い立場にある者を苦しめるために作られるものであってはならないはずです。バスにしても前のせまいところから乗ることのできない者は、うしろの広いところから乗せるべきであり、それが規則にふれるというなら規則そのものを変えればいいのです。安全を守るためと称し、車イスを折りたためといいますが、車イスの構造からいって折りたたんでも側面から見た大きさは少しも変わらず、ただ巾が狭くなるだけなのです。つまり、それはちょうど段ボール箱を分解しぺしゃんこに折りたたんだ
状態で立てたような形になることであり、この方が折りたたまない
状態よりもはるかに不安定で、少しの振動でも倒れやすく、動きやすいことはだれの目から見ても明らかなことであります。そして、座席に腰かけさせられた障害者はもとより、手足が思うように使えないばかりか、人によっては、体幹の硬直がはげしく、座席からずり落ちたり、また、もともと座席に腰かけさせること自体困難な人が多くいます。したがって、そういう人
たちが移動する場合、また室内にいる場合ですら車イスに腰かけ、車イスに備えつけの安全ベルトでとめているのが日常なのであります。
このような
状態の人が、かりにバスの座席に腰かけ、私
たちを支援する
健全者がころげおちないように必死で支えたとしても、先に述べた折りたたんで不安定きわまりない車イスをどうして支えることができるのでしょうか。このようなことはバス会社の人
たちには十分伝えたのですがその人達は、「あなた方のいうことはよくわかる。しかし上から決められた規則なのだから、私
たちにはどうすることもできない」の一点張りで、私
たちをバスに乗せようとはしません。
以下、かなり長い文章でございますけれども、私が申し上げるよりもその文章の中に込められている気持ちというものを皆さんにもぜひとも御理解をいただきたいと思うのであります。
最近、これは五月七日でありますが、脳性小児麻痺の皆さんだけではなくて、今度は筋ジストロフィーの会の皆さんの金沢でバス籠城という問題が起きた、こういう動きを見ていますと、これらの事件は全国に広がらざるを得ない
状況にあることを知ることができるのであります。生まれながらにして障害を背負い、懸命に毎日毎日を生き抜いているこれらの人々の苦痛を、健常者である私は共有することはできません。しかし、この訴え、文字どおり叫びにも似た訴えを理解しなければならないと思います。
民主主義は人間の尊厳を守ることが基本理念であることは言うまでもありません。したがって人を差別してはならないし、ましてハンディキャップを持つ人々を隔離することは許されないことであります。
私は、だれもが利用できるものに乗れないのはやはり差別だと強調せざるを得ないのであります。その
意味からもバスの乗車問題、つまり車いすの折りたたみをしなければ、あるいはその他の条件をつけなければいけないという、いままでの
状態をいつまでも放置することはできないと思います。この問題の解決のために、私は運輸省やあるいは
警察庁あるいは川崎市の交通当局、全交運、これは交通労働者の組織でありますが、あるいは都市交通の労働組合など関係者とお目にかかって、及ばずながら問題の解決のために微力を尽くしてきました。この機会にこれらの皆さんの御協力に感謝しながらも、この問題を解決するために、特に乗車拒否の理由になっていると思われる法律問題について最初に運輸省の見解をただし、御答弁を煩わしたいと思います。
この問題の第一点は、道路運送法第十五条第一項第三号であります。それは「運送引受義務」という項目でございまして、その中の三号は「当該運送に適する設備がないとき。」は、つまり引き受け義務がないという
意味だろうと思うのですが、この点について運輸省の見解をお
伺いいたしたいと思います。