○安田
委員 たてまえを崩したくないという
意味はわかりますし、私も、先ほど申し上げましたように、メートル法を否定するとかあるいは尺貫法を全面的に復活させようという論者では決してございません。そういう点では意見は一致すると思うのですが、ただ、問題は、罰則をもって全面的に製造、販売まで
禁止しておるということが実態に合わないのではないかということです。ことに、先ほど申し上げましたように、宮内庁のようなああいう伝統的な場所でメートルやセンチを使うということ自体が国で矛盾しているのじゃないかというふうにも思わざるを得ないので、これは少なくともある分野については実態に合わないことだけは事実だろうというふうに思うわけでございます。ですから、ただ正確性が期せないとかいろいろなことを言いますけれ
ども、実際には尺の物差しが売られておるということも先ほどちらっとお認めになったようなふうでもございますね。そういうようなことになりますと、やはり実態に合っていないのじゃないかというふうに
考えます。
そこで、ただいまの御
答弁によりますと、実態に合わない部分は法の運用で、検察当局はよほど悪質な者しか罰していないというふうにおっしゃるかもしれませんけれ
ども、少なくともその分野で使っている人は、訴追されるかどうかは別としまして、すべて国家刑罰権は発生するわけですよ。事によったら宮内庁だって国家刑罰権の
対象になるかもしれませんね。何尺の博多帯を納入しろ、はい何尺でございますなんて、こんなことをやっていればですね。そういうことはゆゆしき大事であるというふうに私は思います。観念的には刑罰権は発生するわけですよ。ただ、これは捜査して訴追して裁判所でこれを確定するわけですが、その実体的な国家刑罰権は発生する。あとはただ検察当局の運用によってお目こぼしにあずかっておる。場合によってはやることもできるというような
法律が存在するということは、これは
法治国家のたてまえからももってのほかでありますし、罪刑法定主義のたてまえから言ってもきわめて国民の人権の侵害につながるものだというふうに思いますので、こういう点ではよほどお
考えいただきたいというふうに思うわけです。検察庁としては
法律があれば発動するのが当然で、見逃すということも運用上はあるでしょうけれ
ども、しかし、社会観念が変わってくればまた変わってくるということもございます。
そこで、
考えていただきたいのですが、従来、現行計量法の第十条の運用で尺貫法の物差しの製造販売を
禁止してきたということでありますけれ
ども、第十条はどう読んでも、法定計量単位以外の単位を取引や証明のために使用することを
禁止した条文であって、計量器の製造販売を取り締まる条文ではないというふうに読むのが素直な読み方ではなかろうかと思うわけであります。これはちょっと脱線かもしれませんけれ
ども、極端な話が、民芸品として店に飾りたいというような
需要で物差しをつくって売ることがあっても、それは買う人の主観的意思ですから、途中で気が変わってそれを計量の道具に使うかもしれませんが、そういう
意味では、一切つくって売ってはいかぬと十条で
禁止しているというようにはちょっととれないと思うのです。しかし、高等裁判所の判例もございまして、
通産当局もこれには確信を持っておられるようでございますので十条の運用についていろいろ言ってもしようがない面もありますけれ
ども、この高等裁判所の判例自体も問題ではなかろうかと思うわけであります。少なくとも現段階では、判例の変更がなされてもしかるべきような社会情勢にあるのではないかというふうに
考えるわけであります。
というのは、第十条の括弧内で「物象の
状態の量の表示を含む。」となっているわけで、この量の表示のないもの、つまり目盛りですね。印はついているけれ
ども尺ともセンチとも表示はしていないというのが高等裁判所の判例のあった事案なんです。間隔を調べると尺貫法でちゃんときずがついておるが、しかし、実際はそのきずはセンチとか尺とか何にも書いてない。そこで、高等裁判所は、これは文字で書かなくても社会通念上尺ととれるというようなことで、第十条の適用をするのは違法じゃないような判決をしたようでございますけれ
ども、そこの社会通念上という言葉なんです。今日、御存じのように、社会の九九%がメートル法である。いまや尺貫法を多少使わせてみたってメートル法が崩れてしまうなどというほど薄弱なものではないというふうに思うわけであります。そうすると、ある直線の金属物体に等間隔のきずがついておって何も書いてない場合に、いまの子供たちにぱっと見せてこれは何だと聞けば、等間隔のきずですから、ちょっと判断力のある人なら、多分これは目盛りであろうということは
考える。しかし、それをすぐ尺と
考える人がいるかどうか。大体これはメートルじゃないかと
考える方が多いと思うのです。
ですから、高等裁判所の判例は、当時まだまだ尺貫法が多数の人の頭の中にあった場合に、一目見ただけでこれは一寸か一センチかわかる
人たちが大ぜいいたときに、金属の直線の物体にちょうど一寸置きぐらいにきずがついておって、これを見せて何だと聞けば、これはかね尺に違いないと思うから、文字の表示がなくてもみんなが尺と見るということを言ったのだろうと思うのです。社会通念上というのはそういう
意味で、社会通念上尺ととれる判決は表現しているわけです。
話を大きく持ち出すまでもなく、たとえばわいせつの概念でも、
法律は明治時代からちっとも変わっていないにもかかわらず、わいせつの範囲は社会通念上大分広げられたわけですね。そうでしょう。あるいは極端な例が利息制限法です。御存じのように、これも
法律は全然変わっていないのに、最初は超過利息について取れないという判例から、今度は取れないけれ
ども元本に繰り入れられるという判例があり、しまいには元本も全部埋まっている場合には取り返せるという最高裁の判例まで出ているわけです。このように、条文は全く同じでも、社会通念の変化によって判例の変遷ということはあるわけです。ですから、
通産当局が、高等裁判所の判例や何かもあるのでこの十条については自信があるようなことを
考えていらっしゃると仮にすれば、これはいまの社会通念に合わないのではないかと思うのです。
今日では、単にセンチとか文字の表示をしていない目盛りだけがついておるかね尺が売られた場合に、見ただけでこれはかね尺とわかるからこれはまずいのだというような、さきに挙げた高等裁判所の判例は必ずしも妥当しない場合だって出てくるというふうに
考えられるわけであります。もっとも、そういうケースでこれから起訴されて、その判決があってみなければわかりませんけれ
ども、少なくとも社会の通念はもうメートル法だ。この判例があったころとは大分違っておる。また、
通産当局も計量法を今日まで実施してこられまして、少なくともその
程度のメートル法の普及の自信はおありだろうと思います。そういう
意味で、この十条を尺の物差しの製造販売を
禁止している規定なんだというふうにこだわることや、あるいはセンチや尺と表示していない目盛りだけついておるものを十条の取り締まり
対象にするのだというような解釈は必ずしも当たらないのではないかというふうに思うわけです。
このようにして、実態において不便な分野が幾らかあるという場合に、実態に即した法の解釈、運用を図ることは当然であると思うのですけれ
ども、
通産当局としては、何か
違反ケースが起きて判例が出るまで漫然と見ておるのか、社会情勢の変化によってこの法の解釈、運用について
検討し直すというお
考えがあるのかどうか、お
伺いしたいと思います。