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中曽根証人 児玉譽士夫氏との
関係は、たしか
昭和三十六年ころからであったと思います。
河野一郎先生が
池田内閣ができたときに
新党をつくろうとされましたときに、
河野先生が友人を集めて相談をなさいました。そのときに、当時
河野先生の
指導下にあった私と
森清代議士と
重政代議士がその席に招かれまして、
新党をやるかやらぬかという話があった。そのとき私は、やるべきでない、そういうことを申した。その席に
児玉譽士夫被告がおったと思います。そして、その後——そのころは
河野先生がおつき合いしておったようで、つき合いというようなものは大したことはございませんでありましたが、たしか
昭和三十七年ごろであったと思いますが、
河野先生から、山梨県の
高校を
卒業した
浪人でいい
青年がいる、たしか
母子家庭で貧しい家の子だ、しかし
勉学心もあるので、
書生に引き取ってもらえないか、そういう
お話がございました。私、その話を聞いて、私は
青年の
教育に熱心な当時でもありましたから、
河野先生からせっかくそういう
お話もあり、特に
母子家庭の
子供であるということも聞きまして、会ってみましたら、非常にいい
青年ですから、じゃ
書生にしてあげましょう、うちで
教育しましょう、そう言って、
高校浪人の
子供を
書生に引き取ったわけです。そして
中央大学の
夜学部に入れまして、おまえは法学を勉強して
弁護士試験を受けろ、そういう
方向を与えて勉強をさせまして、昼間は私の事務所で
下働きをやってもらいました。
秘書という名前を与えたことはございません。
秘書の仕事はしておらなかった。
秘書は別におったわけで、
下働きをしておったわけであります。それで、
中央大学で
夜学をずっとやっておりまして、
卒業の間近になって、
自分はどうも学力がないから
弁護士試験を受ける力がないから勘弁してくれ、そういう話がありまして、それじゃ仕方がない、そういうので、そのまま
試験を受けるのをやめて、
卒業と同時に、
卒業のちょっと前でしたか、私のところを去って行ったわけです。これが
大刀川という
青年で、これがその後
児玉被告の
秘書になった者であります。
しかし、その
大刀川という
青年は、私におりましたときには、非常にまじめに一生懸命よくやったいい
青年であったと思います。私は、少なくとも
教育をした人間として、
大刀川
被告につきましては、彼がりっぱな
青年になり、りっぱな
社会人になるように願っておりました。今日ああいう
事態になったのを見て、裁判の結果を見なければわかりませんが、少なくとも
世上をああいうふうに騒がしたということについては、私は師匠の一人として、
道義的責任を感じておる次第であります。しかし、それも帰ったのは、
昭和四十一年であったと思いますから、たしか十年以上前のことであります。彼は、しかし、私のところを去るときに、私の家内が、彼が私のところにおりましたときに、ボーナスとかあるいは小遣いとか、そういうのをためておいてやりまして、別れるときに、その貯金通帳と判こを渡して、おまえはこれでお母さんや家族を大事にしなさいと言って渡したら、涙をぼろぼろ流して、この恩義は一生忘れません、そう言って別れたのであります。私は、そういう純情な
青年であったと思っておりました。
その後、
大刀川は
児玉秘書となったようでありますけれども、私のところでそういう
書生もやっておりました
関係上、お正月とかお盆には、果物を持ってあいさつに来るとか、魚をつった場合には魚を持ってくるとか、あるいは
子供や家族にあいさつに来るとか、そういうことで全く個人的な事情でうちに来たこともございます。
それで、
河野先生が亡くなられましたが、
児玉被告との
関係というものは、個人的なつき合いをやっていたことで、政治家としてつき合っていたというようなことはございません。それは、
大刀川という者が間にあって、その
関係でつき合っておったということであります。
昭和四十三年ころでございましたか、佐藤三選のときに、河野さんを支援されておった方が、私たちをまた支援してくだすったのでございましたが、財界人その他が佐藤さんを応援しろということを私たちに
要請されました。その背後に
児玉被告も一緒におったのではないかと思いますが、会ったわけではありません。その財界の方々にわれわれは会いました。私や中村梅吉先生や櫻内あるいは稻葉、そういう代議士の皆さんがたしかお会いしたと
記憶しています。そのときに政治行動は政治家が決める、だれを総裁にするかということは天下の大事であって、それは財界人がくちばしをはさむようなことではない、それは私たちに任してもらいたい、そう言って拒絶したのです。それから冷戦状態になりまして、資金の援助も断られました。しかし、われわれはそういう政治家が独自の政治行動をとったことは正しいことであったと思いますし、今後もそういう行動をとっていきたいと思っております。またいままでもとってきたつもりです。
そんなこともあって、
児玉譽士夫被告とはますます離れておったわけです。しかし、その後
昭和四十五年か六年でございましたか、三島
事件が起きました。あのときに私は
防衛庁長官をしておりましたが、三島君の行動は民主主義を破る行為であって、断じて許せない、
日本の民主主義を守るために断固糾弾すべきである、そういう声明をすぐ出したのであります。それは、あのときの
情勢はほかの部隊が連動する危険性も感じまして、二・二六のようなことになったら大変だ、この際、断固として
防衛庁長官は
方針を全国に指示し、全部隊に指示しなければいかぬ、二・二六のときにはぐずぐずしておったために、ついにああいうような
事件が拡大して不祥事を起こした、そういうことを感じまして、間髪を入れずそういう
防衛庁長官談話を出しました。私は右翼からずいぶんそのころ攻撃を受けまして、三日間ぐらい
電話が鳴りっ放しくらいの攻撃を受けた。そういうときに
児玉被告は、
中曽根はけしからぬやつだ、そういうことを言った由、聞いておりました。しかし、その後
大刀川
被告は私と
児玉被告の間にはさまって非常に苦慮したようでありますけれども、ともかく私のところへ来まして、普通のつき合いはしてください、私は間に入って非常に困りますと、そういうことを言ってきましたから、個人的な普通のつき合いはいいだろう、何もそんな、いつまでもこだわっているものじゃない、そういうことを言って、普通のいわゆる個人的つき合いというものはやったと思います。
たとえば、私の親友の東郷君が殖産住宅の問題で会社を乗っ取られるという、そういうことで非常に心配して来ましたときに、
児玉被告に——彼は
児玉被告の下部の者と接触しておったようでありますけれども、会いたいような様子でありましたから、親友のことでありますから、紹介をしてあげて、そうしてたしかこれは、私が
児玉被告に東郷に会ってくれないかということを
自分で言って、親友のことであるから、ねんごろにやってあげたわけです。それで料亭で会ったこともあります。そういうようなことはありました。その間において、十年間に料亭で二回くらいは会ったかもしれませんが、二人だけで会ったということはございません。またゴルフも二回か三回くらいは十年間にしたのではないかと思いますが、
記憶に定かなものは一回やったという
記憶ははっきりあります。
そういう
関係で、普通のつき合いもしておりました。彼が本を書けば私のところへ贈ってくれましたし、序文を書いてくれと言われましたときには、私は、彼は民族主義者であってなかなか風流な人だと、そう思いましたから、風流な民族主義者であるという趣旨のことも書きました。まさか、うそか本当か知りませんが、ロッキードの秘密代理人というようなことをやっているとは夢にも実は
考えておらなかった。そうして私は政治家であり、彼は右翼とか、黒幕とかと当時言われておりましたので、やはりそのつき合いというものには一定の間隔を置きまして、そうしてつき合うべからざる範囲には前進してはならぬ、彼もまた頭山満先生とか、そういうような者の後を受ける国士然としたプライドみたいなものをわれわれの前に持っておりまして、そういう点についてはやはり礼儀のある態度を、しっかりした態度をとって、乱すというようなことはなかったと思います。私もそういう意味において、一定の間隔を置きまして、政治家としての節度というものは守ったつもりであります。
以上でございます。