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1977-04-13 第80回国会 衆議院 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第6号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和五十二年四月十三日(水曜日)     午前十時三十一分開議  出席委員    委員長 原 健三郎君    理事 内海 英男君 理事 鯨岡 兵輔君    理事 増田甲子七君 理事 箕輪  登君    理事 小林  進君 理事 横路 孝弘君    理事 坂井 弘一君 理事 大内 啓伍君       近藤 鉄雄君    佐藤 文生君       中尾 栄一君    野田  毅君       羽田野忠文君    原田昇左右君       武藤 嘉文君    保岡 興治君       山崎武三郎君    渡部 恒三君       稲葉 誠一君    大出  俊君       坂本 恭一君    楢崎弥之助君       横山 利秋君    池田 克也君       鍛冶  清君    鳥居 一雄君       中野 寛成君    正森 成二君       加地  和君  委員外出席者         証    人         (衆議院議員) 中曽根康弘君         ロッキード問題         に関する調査特         別委員会調査室         長       長崎  寛君     ————————————— 委員の異動 四月十三日  辞任         補欠選任   瀬戸山三男君     中尾 栄一君 同日  辞任         補欠選任   中尾 栄一君     瀬戸山三男君     ————————————— 本日の会議に付した案件  ロッキード問題に関する件      ————◇—————
  2. 原健三郎

    原委員長 これより会議を開きます。  ロッキード問題に関する件につき、中曽根康弘君より証言を求めることといたします。  証言を求める前に証人に一言申し上げます。  昭和二十二年法律第二百二十五号、議院における証人宣誓及び証言等に関する法律により、証人証言を求める場合には、その前に宣誓をさせなければならないことになっております。  宣誓または証言を拒むことのできるのは、まず、証言が、証人または証人配偶者、四親等内の血族もしくは三親等内の姻族または証人とこれらの親戚関係のあった者及び証人の後見人または証人の後見を受ける者の刑事上の訴追または処罰を招くおそれのある事項に関するとき、またはこれらの者の恥辱に帰すべき事項に関するときであります。また、医師歯科医師、薬剤師、薬種商、助産婦、弁護士弁理士弁護人公証人、宗教または祷祀の職にある者またはこれらの職にあった者がその職務上知った事実であって黙秘すべきものについて尋問を受けたときにも証言を拒むことができることになっております。  しかして、証人が正当の理由なくして宣誓または証言を拒んだときは一年以下の禁錮または一万円以下の罰金に処せられ、かつ宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときは三月以上十年以下の懲役に処せられることになっておるのであります。  一応このことを御承知になっておいていただきたいと存じます。  それでは、法律の定めるところにより、証人宣誓を求めます。全員起立。     〔総員起立
  3. 原健三郎

    原委員長 中曽根康弘君、宣誓書を朗読してください。
  4. 中曽根康弘

    中曽根証人      宣 誓 書  良心に従って、真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います   昭和五十二年四月十三日                 中曽根康弘
  5. 原健三郎

    原委員長 それでは、証人宣誓書署名捺印を願います。     〔証人宣誓書署名捺印
  6. 原健三郎

    原委員長 御着席願います。  これより証言を求めることといたしますが、証人は、証言を求められた範囲を越えないこと、また、御発言の際にはその都度委員長の許可を得てなされるようお願いいたします。  なお、こちらから質問をしておるときは着席のままで結構でございますが、お答えの際は起立して発言をしていただきたい。  なお、委員各位に申し上げます。  本日は、申し合わせの時間内でロッキード問題に関する重要な問題について証人より証言を求めるのでありますから、不規則発言等議事の進行を妨げる言動のないよう御協力を切にお願い申し上げます。     —————————————
  7. 原健三郎

    原委員長 これより証人に対し証言を求めます。  まず、委員長より、自民党代表して、所要の事項につきお尋ねをいたして、その後、委員各位の御発言を願うことといたします。  それでは、私からお尋ねいたします。  最初に、あなたが自発的にロッキード問題に関し本委員会喚問に応ぜられた理由等について、簡単にお述べを願いたいと思います。
  8. 中曽根康弘

    中曽根証人 こういう発言を許されましたことをお礼を申し上げる次第でございます。  私はかねてからロッキード委員会証人喚問要請を受けておりましたが、自由民主党の幹事長をしておりましたり、いろんなそういう諸般の政治情勢から見まして、証人喚問に出るということは必ずしも適当でないということもあり、自民党党議といたしましても証人喚問という問題は慎重に行うべきであるという考えがまとまってきておりまして、私もその党議に従っておったところでございます。  しかし、最近におきまして、私の証人喚問を先行してやってくださるという御配慮を示していただきましたので、これは非常にいい機会だ。私は、かねがね私に関するいろいろ誤解や疑惑は公の場において晴らしたい、そういう個人的希望を持っておりまして、その旨は内意を関係者には申し上げておいたのでございます。そこで、そういう機会が参りましたので、このときに申し出をいたしまして、ぜひ証人喚問に応じさしていただきたいと党に申し出た次第でございます。  特に国会議員であるがゆえに何か特別の保護を受けているというような印象を与えることは私の本意でございません。潔しとしないところであります。一市民と同じように、平等な立場で証人喚問を堂々と受けて応答をいたしたい、そういう気持ちでございました。これはこの事件の流れから見ましてそういうような考えを持っておったわけでございます。したがいまして、証人喚問に応ずる決意をして積極的に申し出た次第でございます。  それから、しかし、証人喚問の現在のやり方につきましては、刑事訴訟法民事訴訟法に比べまして不備があるように思います。特に人権保護について不備があるように思いますので、いま国会におきましても与野党で御討議をしていただいておる由でございますけれども、その不備はぜひ早目に直していただきたい。いままでのやり方による証人喚問は私を最後にしていただきまして、充実した別の新しい方法によって次の証人喚問はしていただくことが私の希望でございます。  私は、この際、国民皆様方を前にいたしまして、皆様方の御質問をお受けして、私の記憶の限りを尽くしてお答えを申し上げ、誠実にこの事件を解明して私に対する誤解を一掃いたしたい。この機会が来たことを非常に喜んでおるわけでございますが、ここではっきり申し上げますが、私は、私のやったことが決して間違っていないと思いますし、自分の手も、自分の魂も決して汚れてはいない、国民皆様を裏切ったようなことは断じてない、このことを冒頭申し上げさしていただきたいと思います。そして、皆様方から積極的な御質問をいただきまして、私の誠意を尽くして御答弁を申し上げまして、解明に協力いたしたい、そう思うわけでございます。  どうもありがとうございました。(拍手)
  9. 原健三郎

    原委員長 それでは、私からお尋ねいたします。  あなたが通産大臣時代昭和四十七年七月及び八月に開催された対外経済関係閣僚懇談会及び昭和四十七年七月の箱根における日米通商会議では、大型機を含む民間機緊急輸入についてどのような話し合いが行われましたか。お尋ねいたします。
  10. 中曽根康弘

    中曽根証人 お答えをいたします。  この問題につきましては、当時の日米関係緊迫性、それから政府閣議行政官庁の内部においてどういうふうに物事が決められていくかという過程をまず申し上げる必要があるように思います。  まず、昭和四十七年の上半期の状態におきましては、日本アメリカとの間においては日本大幅出超でございまして、アメリカ側は四十億ドル赤字になる、至急これを是正しなければ大変なことであるという非常に強いアメリカ側からの要請がございまして、日本政府は窮地に立っておったのであります。そのために、円対策項目であるとかいろいろな対策考えておりましたし、アメリカニクソン通商代表エバリー氏は五月にも来て、その対策を実施し、かの落差を解消することを非常に強く要請してきておったのであります。したがいまして、アメリカ側は四十億ドルと言っておりましたが、当時の日本政府側は三十五億ドルくらいの黒字であろうと言っておりました。これを何とか二十億ドル台に縮めて日米関係緊迫を除こう、そういう必死の努力をしておったのであります。そういう関係で、しばしば閣僚協も持たれ、あるいは担当各省部局長会議も持たれて、いかにしてこれを打開するか、本当に真剣な努力を重ねておりました。特に、八月末に田中ニクソン会談が行われるということが決まりまして、この問題がアメリカ側から強く要請されるということもわかってまいりましたし、アメリカはその予備行為としてエバリー通商代表日本に派遣して、そのための非常な督促までやって、箱根でそういう事務的会談まで行われておったという、そういう緊迫した情勢のもとに行われたのでございます。  当時、私及び日本政府といたしましては、対米関係を傷つけないようにしなければならない、それから自由通商貿易をぜひとも守っていかなければならない、それから日本側としてはできるだけ協力して、その黒字を減らして対米関係を円滑にする、そのためには内需の喚起であるとかあるいは緊急輸入を増大させて、この落差を解消することをやろう、そういうことが一般的に考えられて、そういう政策が推進されてきておったのであります。  それで、たしか七月二十一日であったと記憶いたしますが、経済閣僚協が開かれまして、二十五日から二十八日にわたって行われるエバリー通商代表とわが方事務当局との箱根会談に関するいろいろ準備的な話し合いがたしかあったと思われます。そのときの基本的考え方は、先ほど申し上げましたような考え方に立って、そして箱根会談をうまく円滑に進めるように各省とも協力しよう、そういうような話し合いがあって、そしてできるだけ緊急輸入物資各省で見つけ合うし、事務当局でも事務的にそれを解決してアイデアを出し合う、そういうような話し合いが行われたと記憶しております。それで二十五日から二十八日にわたりましてエバリー代表事務当局日本側鶴見外務審議官が中心でございましたが、各省代表箱根に集まってその討議をやったわけです。  その討議の内容は、全くこれは事務レベルでやったので、もちろん私は出席しておりません。これはアメリカ側日本側がおのおのアイデアを出し合って、この緊急事態をどういうふうにして解消するかという一般的な討議をやって、各省からもいろいろなアイデアの持ち寄りがあったと思います。結論めいたものは、私、報告を受けておりません。  ただ、通産省側としましては、そのとき小松通商局長が出席いたしましたが、アメリカ側が強く要請しておりました電算機IC輸入段階的自由化、それから小売輸入資本自由化を段階的に行うこと、この二つについては長い間のアメリカ要請でもあったので、この際認めてもよろしいという内諾をアメリカ側に与えたということを私は報告で受けました。大型機輸入云々というようなことは、私はそのときは聞いておりません。  それから、民間機導入につきましては、これは各省が大体自分たちアイデアを持ち寄って、そして主として内閣官房、それから審議室、それから外務省の当局が取りまとめをやっておったのでありまして、大型機導入というものがいつごろ出てきたかは、私ははっきりしておりません。これら皆、事務レベル物事が積み上げられて出てきた。私の記憶では、たしか八月の初めごろそういうアイデア事務当局報告の中に入ってきた、そういうように記憶しております。通産省側からこの大型機導入とか民間機導入というアイデアを出したことはございません。
  11. 原健三郎

    原委員長 次に、日米通商会議直後の同年七月二十九日、あなたは米国通商交渉特別代表エバリー氏と会われておりますが、この問題について話し合われましたか、どうですか。
  12. 中曽根康弘

    中曽根証人 話し合いをいたしました。エバリー代表は、あのとき私に表敬に参ってきたのであります。会談とかあるいは商議するというものではございません。したがって、議事録とかそういうものもございません。たしか通商局長以下が立ち会っておったと思います。  この会談におきまして私は、エバリー氏が箱根でいろいろ努力され、日本側もいろいろ言ったが、通産省側としては約束したIC及び電算機段階的自由化及び小売段階的資本自由化については約束は守るつもりだ、そのほかについても緊急物資輸入についてはできるだけ広げて期待に沿うようにしたい、そういうことを言いましたが、エバリー代表は非常に不満の様相を呈しておりまして、日本側の言うことは必ずしも実行できないと自分は思うと、強く言っておりました。アメリカ側は四十億ドル赤字になると言っておったのに対して、日本側は三十五億ドル程度であるという推定を出しておりました。それで、当時日本側としては、それを二十億ドル台に狭めましょう、そういう話をしておったのですが、エバリー氏は、とても二十億ドル台にはならないということを強く言っておりました。私はエバリー氏に対て、円対策の七項目日本は強力に推進する、それから日米関係を円滑にしていくためにできるだけ輸入物資をふやして御期待に沿うようにする、しかしスミソニアン体制は守っていかなければならない、さらに貿易自由化というガット、IMFの方針は堅持していかなければならない、そういうことを強く申した記憶があります。そして、そのほか、たしか濃縮ウランの問題について日本側から局長を派遣してアメリカ交渉する予定になっておりましたから、近く行くつもりであるが、よろしく頼む、そして最後に、日本側としてはともかく誠心誠意をもっていろいろやって、もしいままでの政策で足りないところがあれば、これはもっと次々の政策考えていく用意がある、そういうことも私は申し添えました。エバリーと私との会談において航空機の話が出たということはございません。
  13. 原健三郎

    原委員長 次に、大型機を含む民間機緊急輸入について、あなたは当時の田中首相とどういう話し合いをされましたか。
  14. 中曽根康弘

    中曽根証人 田中首相大型機民間機輸入について個別的に具体的に話し合ったということは一回もございません。閣議の席上とかあるいは閣僚協の席上におきまして、私は少なくとも五億ドル、でき得べくんば七億ドルの緊急輸入をやって、三十五億ドル台と予想されているものを二十八億ドル台に引き下げたい、そしてアメリカとの関係をうまくやりたい、そういうことも言い、そのために関係各省はできるだけ知恵を出して輸入物資をふやしていただきたい、あるいは輸入すべき物件の繰り上げをやっていただきたい、そういうことも要請したのでございます。当時はともかくかなり緊迫しておりまして、たしか沖繩返還のときにアメリカに払う金がございましたが、これも一挙に払ってしまったらどうかとか、ガリオア・エロアの返済金がまだ残っているはずだが、それも全部この際一挙に返して黒字を消したらどうかとか、そういう程度議論まで実はなされておりました。そういう情勢のもとに、各省とも品物をふやすように努力していただきたい、この際勇断をふるって繰り上げるとか、ふやしていただきたい、特に通産省、それから農林省、それから運輸省、それから防衛庁、こういうところはそういう輸入物資をふやす可能性のあるところであるから勇断をふるってできるだけふやしてもらいたい、そういうことを私は閣僚協閣議の席で言ったことはございます。それ以外に、この航空機の問題について田中首相と話したこともなければ、あるいは閣議あるいは特別の閣僚と話したことはございません。
  15. 原健三郎

    原委員長 次に、あなたは、トライスター売り込みについて、ロッキード社、丸紅、全日空または児玉譽士夫氏などから依頼を受けたことがありますか、ございませんか、簡単にお答え願います。
  16. 中曽根康弘

    中曽根証人 依頼を受けたことは全くございません。
  17. 原健三郎

    原委員長 次に、あなたが防衛庁長官に在職中、防衛庁次期潜機について国産化方針をとっていました。しかるに、あなたが通産大臣時代昭和四十七年十月九日の国防会議議員懇談会において「次期潜機早期警戒機等国産化は白紙とし、」と決定されています。この間の経緯について、当時のあなたの見解を含めて述べていただきたいと存じます。簡単に願います。
  18. 中曽根康弘

    中曽根証人 防衛庁国産化方針をとっていたと正式に決めたわけではないのです。これは国産化が可能であるかどうかということを基礎調査するために三億円とか五億円とか調査費を出しまして、その基礎調査を川崎重工業その他にやっていただいておって、可能性があればそっちの方向へ持っていきたい、そういう情勢であったと思います。  それで、私は当時四十七年は通産大臣であって防衛庁長官でございませんでしたが、私は四十六年に、たしか防衛庁長官のときに、兵器は一般的には国産化が望ましい、それは補給性とかあるいは科学技術の開発であるとかそういうような面も考えて、そういう一般的方針を打ち出しておりました。しかし、四十七年になりまして、この国産化の問題につきまして防衛庁大蔵省の間に非常に熾烈な交渉が行われておったようでありました。特に防衛庁側はT2及びFST2改、つまり戦闘機とそれから支援戦闘機についてはぜひ国産でやりたい、これは三菱重工でやりまして、かなり性能もよし、可能性が十分あるという見通しで、防衛庁側は非常に強く要望して大蔵省に折衝しておったようであります。大蔵省は、しかし、恐らく金がかかるということや、そのほか性能やその他の点もあったのかもしれませんが、非常にこれに抵抗しておって、F5というアメリカの飛行機を買ったらどうかということで、抵抗しておったようにあのころ聞いておりました。  それで、たしか十月の九日でございましたか、国防会議懇談会が開かれましたその前後において、防衛庁大蔵省側最後の非常なつばぜり合いをやっておったようであります。大体こういう専門的な事柄はその主管省財政当局が話し合って決める技術的な要素が非常に多いわけであります。予算の問題であるとか、場合によっては特別会計とか、会計上の問題とか、いろいろあるわけであって、これはその防衛庁大蔵省という主管省が相互に交渉し合って最終的にまとめていく、そういう官庁行政のパターンがあるわけです。しかし、なかなかそれもまとまらなかったらしい。そこで、最後総理のお部屋で、主計局長官房長官官房長官でございましたか、会って、そしてその間を調整されてある結論が出たようであります。  われわれは、その国防会議議員懇談会におきましては、別室で待たされておりまして、それがまとまって皆さん出てきて席に座られました。私は当時通産大臣科学技術庁長官であったと思いますが、私はオブザーバーであって正式のメンバーではございません。そういうように大蔵省防衛庁がもう必死の交渉をして、両方とも徹夜ずくめでいろいろやって、総理も間に入ってまとまった結論が、国防会議であったか議員懇談会であったか、報告されましたものでございますから、私は全員一致情勢のもとにそのまま了承した。私は当時オブザーバーであって、正式メンバーでもないのでありますから、総理から御諮問でもあればともかく、そうでもないことについて私が特に発言を求めていろいろ議論をするということは、いままでのやり方から見ても、それは変則にもなることなのであります。  以上でございます。
  19. 原健三郎

    原委員長 次期潜機としてP3Cオライオン導入するようロッキード社または児玉譽士夫氏から働きかけを受けたことがありますか。結論だけでよろしいです。
  20. 中曽根康弘

    中曽根証人 全くございません。
  21. 原健三郎

    原委員長 次に、朝日新聞社から発行されたコーチャン氏の「ロッキード売り込み作戦」という本によると、「全日空に対しトライスター売り込みを図っていたコーチャン氏は、昭和四十七年十月五日、小佐野氏の情報として、日本政府が日航はトライスターを、全日空はDC10を購入すべきであると決定すると聞いて、この決定を覆してもらうべく、同日夜八時ごろ児玉氏を訪ねた。児玉氏は、非常に長い電話をかけた後、中曽根氏が明日一番にこの件で努力してくれると約束した」と書かれておりますが、あなたはこのような電話を受けましたか。
  22. 中曽根康弘

    中曽根証人 そういう電話を受けたことは全然ございません。
  23. 原健三郎

    原委員長 あなたと児玉譽士夫氏との関係については、世上いろいろ風評がありますが、いつごろから、どのような関係にあるかをひとつ述べていただきたい。
  24. 中曽根康弘

    中曽根証人 児玉譽士夫氏との関係は、たしか昭和三十六年ころからであったと思います。河野一郎先生池田内閣ができたときに新党をつくろうとされましたときに、河野先生が友人を集めて相談をなさいました。そのときに、当時河野先生指導下にあった私と森清代議士重政代議士がその席に招かれまして、新党をやるかやらぬかという話があった。そのとき私は、やるべきでない、そういうことを申した。その席に児玉譽士夫被告がおったと思います。そして、その後——そのころは河野先生がおつき合いしておったようで、つき合いというようなものは大したことはございませんでありましたが、たしか昭和三十七年ごろであったと思いますが、河野先生から、山梨県の高校卒業した浪人でいい青年がいる、たしか母子家庭で貧しい家の子だ、しかし勉学心もあるので、書生に引き取ってもらえないか、そういうお話がございました。私、その話を聞いて、私は青年教育に熱心な当時でもありましたから、河野先生からせっかくそういうお話もあり、特に母子家庭子供であるということも聞きまして、会ってみましたら、非常にいい青年ですから、じゃ書生にしてあげましょう、うちで教育しましょう、そう言って、高校浪人子供書生に引き取ったわけです。そして中央大学夜学部に入れまして、おまえは法学を勉強して弁護士試験を受けろ、そういう方向を与えて勉強をさせまして、昼間は私の事務所で下働きをやってもらいました。秘書という名前を与えたことはございません。秘書の仕事はしておらなかった。秘書は別におったわけで、下働きをしておったわけであります。それで、中央大学夜学をずっとやっておりまして、卒業の間近になって、自分はどうも学力がないから弁護士試験を受ける力がないから勘弁してくれ、そういう話がありまして、それじゃ仕方がない、そういうので、そのまま試験を受けるのをやめて、卒業と同時に、卒業のちょっと前でしたか、私のところを去って行ったわけです。これが大刀川という青年で、これがその後児玉被告秘書になった者であります。  しかし、その大刀川という青年は、私におりましたときには、非常にまじめに一生懸命よくやったいい青年であったと思います。私は、少なくとも教育をした人間として、大刀被告につきましては、彼がりっぱな青年になり、りっぱな社会人になるように願っておりました。今日ああいう事態になったのを見て、裁判の結果を見なければわかりませんが、少なくとも世上をああいうふうに騒がしたということについては、私は師匠の一人として、道義的責任を感じておる次第であります。しかし、それも帰ったのは、昭和四十一年であったと思いますから、たしか十年以上前のことであります。彼は、しかし、私のところを去るときに、私の家内が、彼が私のところにおりましたときに、ボーナスとかあるいは小遣いとか、そういうのをためておいてやりまして、別れるときに、その貯金通帳と判こを渡して、おまえはこれでお母さんや家族を大事にしなさいと言って渡したら、涙をぼろぼろ流して、この恩義は一生忘れません、そう言って別れたのであります。私は、そういう純情な青年であったと思っておりました。  その後、大刀川は児玉秘書となったようでありますけれども、私のところでそういう書生もやっておりました関係上、お正月とかお盆には、果物を持ってあいさつに来るとか、魚をつった場合には魚を持ってくるとか、あるいは子供や家族にあいさつに来るとか、そういうことで全く個人的な事情でうちに来たこともございます。  それで、河野先生が亡くなられましたが、児玉被告との関係というものは、個人的なつき合いをやっていたことで、政治家としてつき合っていたというようなことはございません。それは、大刀川という者が間にあって、その関係でつき合っておったということであります。  昭和四十三年ころでございましたか、佐藤三選のときに、河野さんを支援されておった方が、私たちをまた支援してくだすったのでございましたが、財界人その他が佐藤さんを応援しろということを私たちに要請されました。その背後に児玉被告も一緒におったのではないかと思いますが、会ったわけではありません。その財界の方々にわれわれは会いました。私や中村梅吉先生や櫻内あるいは稻葉、そういう代議士の皆さんがたしかお会いしたと記憶しています。そのときに政治行動は政治家が決める、だれを総裁にするかということは天下の大事であって、それは財界人がくちばしをはさむようなことではない、それは私たちに任してもらいたい、そう言って拒絶したのです。それから冷戦状態になりまして、資金の援助も断られました。しかし、われわれはそういう政治家が独自の政治行動をとったことは正しいことであったと思いますし、今後もそういう行動をとっていきたいと思っております。またいままでもとってきたつもりです。  そんなこともあって、児玉譽士夫被告とはますます離れておったわけです。しかし、その後昭和四十五年か六年でございましたか、三島事件が起きました。あのときに私は防衛庁長官をしておりましたが、三島君の行動は民主主義を破る行為であって、断じて許せない、日本の民主主義を守るために断固糾弾すべきである、そういう声明をすぐ出したのであります。それは、あのときの情勢はほかの部隊が連動する危険性も感じまして、二・二六のようなことになったら大変だ、この際、断固として防衛庁長官方針を全国に指示し、全部隊に指示しなければいかぬ、二・二六のときにはぐずぐずしておったために、ついにああいうような事件が拡大して不祥事を起こした、そういうことを感じまして、間髪を入れずそういう防衛庁長官談話を出しました。私は右翼からずいぶんそのころ攻撃を受けまして、三日間ぐらい電話が鳴りっ放しくらいの攻撃を受けた。そういうときに児玉被告は、中曽根はけしからぬやつだ、そういうことを言った由、聞いておりました。しかし、その後大刀被告は私と児玉被告の間にはさまって非常に苦慮したようでありますけれども、ともかく私のところへ来まして、普通のつき合いはしてください、私は間に入って非常に困りますと、そういうことを言ってきましたから、個人的な普通のつき合いはいいだろう、何もそんな、いつまでもこだわっているものじゃない、そういうことを言って、普通のいわゆる個人的つき合いというものはやったと思います。  たとえば、私の親友の東郷君が殖産住宅の問題で会社を乗っ取られるという、そういうことで非常に心配して来ましたときに、児玉被告に——彼は児玉被告の下部の者と接触しておったようでありますけれども、会いたいような様子でありましたから、親友のことでありますから、紹介をしてあげて、そうしてたしかこれは、私が児玉被告に東郷に会ってくれないかということを自分で言って、親友のことであるから、ねんごろにやってあげたわけです。それで料亭で会ったこともあります。そういうようなことはありました。その間において、十年間に料亭で二回くらいは会ったかもしれませんが、二人だけで会ったということはございません。またゴルフも二回か三回くらいは十年間にしたのではないかと思いますが、記憶に定かなものは一回やったという記憶ははっきりあります。  そういう関係で、普通のつき合いもしておりました。彼が本を書けば私のところへ贈ってくれましたし、序文を書いてくれと言われましたときには、私は、彼は民族主義者であってなかなか風流な人だと、そう思いましたから、風流な民族主義者であるという趣旨のことも書きました。まさか、うそか本当か知りませんが、ロッキードの秘密代理人というようなことをやっているとは夢にも実は考えておらなかった。そうして私は政治家であり、彼は右翼とか、黒幕とかと当時言われておりましたので、やはりそのつき合いというものには一定の間隔を置きまして、そうしてつき合うべからざる範囲には前進してはならぬ、彼もまた頭山満先生とか、そういうような者の後を受ける国士然としたプライドみたいなものをわれわれの前に持っておりまして、そういう点についてはやはり礼儀のある態度を、しっかりした態度をとって、乱すというようなことはなかったと思います。私もそういう意味において、一定の間隔を置きまして、政治家としての節度というものは守ったつもりであります。  以上でございます。
  25. 原健三郎

    原委員長 ありがとうございました。  以上をもって、私からのお尋ねすることは終わりました。  次に、発言の申し出がありますので、順次これを許します。横路孝弘君。
  26. 横路孝弘

    ○横路委員 中曽根さんのような議会の大先輩にこんな形で話を聞かなければならないというのは残念でありますけれども、真相解明のためであります。また、先ほどあなたが率先して出てきたという話でありますけれども、昨年からいろいろ私たち真相解明のために、議員であってもこれはやはりお話を聞かなくちゃいけないという状況で、いまもお呼びしているわけであります、何人かの方を。たくさんの人が逃げ回っている中でこの場に出てこられたという点については敬意を表したいと思いますけれども、あなたが体験し、経験した事実について述べていただきたいと思います。  いまの委員長への答弁では、やや意見にわたること、聞かれていないことをお答えのようでありますが、時間の関係もありますので、簡略に聞かれたことだけお答えをいただきたいと思います。  まずお尋ねいたしますけれども、東京地方検察庁からロッキード事件に関連して事情聴取を受けておりますか。
  27. 中曽根康弘

    中曽根証人 新聞によりますと、三百人とか四百人とか参考人として事情聴取を受けた人があるということでありますが、私もその一人に入っております。
  28. 横路孝弘

    ○横路委員 よけいなことはいいのです。  聞かれているわけですね。いつですか、呼ばれて聞かれたのは。
  29. 中曽根康弘

    中曽根証人 昨年の九月の中、下旬ごろであったと思います。
  30. 横路孝弘

    ○横路委員 それは参考人としてですか。
  31. 中曽根康弘

    中曽根証人 参考人として事情聴取を受けたということであります。
  32. 横路孝弘

    ○横路委員 何回聞かれましたか。
  33. 中曽根康弘

    中曽根証人 二回聞かれました。
  34. 横路孝弘

    ○横路委員 それはどのくらいの時間ずつ二回聞かれたんですか。
  35. 中曽根康弘

    中曽根証人 たしか四時間ぐらいずつ二回ではないかと思います。
  36. 横路孝弘

    ○横路委員 取り調べを受けた国会議員は、いままでの法務省の報告によりますと十七名ということでありますが、ほとんど内容は全日空のユニット三十、ユニット九十、それからピーナツ、ピーシズということでありますけれども、公表されている人を除きまして全日空のユニット九十に関するものが多いわけですけれども、中曽根さんが呼ばれたのもそのユニット九十に関する関係でしょうか。
  37. 中曽根康弘

    中曽根証人 そうではございません。
  38. 横路孝弘

    ○横路委員 そうすると、俗に言われている児玉ルートに関して呼ばれた、こういうことですね。
  39. 中曽根康弘

    中曽根証人 児玉譽士夫被告との関係大刀被告との関係、それから電話があったかどうか、そういうことであります。
  40. 横路孝弘

    ○横路委員 児玉譽士夫との関係、河野一郎さんの時代を通してという先ほど御答弁がありましたけれども、あなたが、河野さんが亡くなって中曽根派といいますか、新政同志会をつくったのが昭和四十一年の十二月ですね。
  41. 中曽根康弘

    中曽根証人 私がつくったんじゃなくて、みんなでつくって、私が代表になったか会長になったんではないかと思います。
  42. 横路孝弘

    ○横路委員 このとき、河野さんが元気なときには、周辺に北炭の萩原さんだとか大映の永田さんだとか、そしてそういうところに児玉譽士夫という人もおったんじゃないでしょうか。そして、その関係をあなたが新政同志会をつくられたときに引き継いだ、こういうことだというように伺っていますが、そのとおりでよろしいでしょうか。
  43. 中曽根康弘

    中曽根証人 河野先生を支援されたのは永田さんとか萩原さんとか河合良成先生とかでありまして、児玉譽士夫という人は背後におったのではないか、しかし児玉譽士夫被告が河野さんに献金したとかなんとかということはないのではないか、そう私は思います。  私は、そういう児玉譽士夫、河野一郎という両氏の関係を引き継いではおりません。私が引き継いだのは、これは個人的関係で、私が好きだとか私を物にしてやろうというので河合良成先生や永田さんや萩原さんが支援してくださったので、児玉被告はそれには関係しておりません。児玉被告との関係は、大刀川という青年秘書になって、そういう関係できずながあったということであります。
  44. 横路孝弘

    ○横路委員 それで、秘書になってきずなができたということですが、この周辺におった人たちから資金的バックアップは中曽根さんはどうなんですか、受けておったのですか。
  45. 中曽根康弘

    中曽根証人 大刀川はいま秘書と申し上げたかもしれないが、書生でございます。  資金的な援助を受けたことは一回もございません。
  46. 横路孝弘

    ○横路委員 児玉譽士夫のそういう資金的バックアップを受けたということはないのですか。全然過去においてございませんか。
  47. 中曽根康弘

    中曽根証人 私は萩原さんや永田さんや河合良成先生からは援助を受けましたけれども、児玉被告からはありません。
  48. 横路孝弘

    ○横路委員 過去の、昨年の衆議院のロッキード特別委員会あるいは参議院のロッキード特別委員会における稻葉法務大臣の答弁があるのですが、稻葉さんはあなたのいわば仲間というか、端的に言えば中曽根派の一員なんでしょう。どうですか、それだけお答えください。
  49. 中曽根康弘

    中曽根証人 派閥解消しまして、中曽根派というのはないので、政策科学研究所というのがいまあるわけであります。しかし、私の同志であることは間違いありません。
  50. 横路孝弘

    ○横路委員 その稻葉法務大臣が再三再四この委員会の席上で答弁したのは何かというと、昭和四十三年佐藤三選をめぐる総裁選挙以後関係を断ち切った、児玉譽士夫中曽根さんの関係は。じゃ、その断ち切ったのは何なんだと、こう詰めていったら、明確に、一切の政治資金のおつき合いを断ったんだ、あとの個人的関係は知らないという稻葉法務大臣の答弁が、一々挙げませんが、繰り返し繰り返しあるわけです。政治資金の関係を断ち切ったんだ、ああいう人との間に政治資金関係があるとやはりまずいから自分は断ち切ろうと思うと中曽根さんが言われたから、それはいいことだ、こう言ったんだ、こういう答弁があるのですが、そうすると、この稻葉法務大臣の国会の再三の答弁というのはいまのあなたの御証言と違うわけでありまして、これはどういうことですか。
  51. 中曽根康弘

    中曽根証人 稻葉法務大臣が何を言ったか知りませんが、私は前にも後にも政治資金を受けたことはないのです。それで、さっき申し上げたように、萩原さんや永田さんやあるいは河合先生からは受けておった。恐らく稻葉さんの発言というものは、前に金をもらっておったということを意識して言ったとは思いません。彼は、私と萩原さんや永田さんやその他の方の関係は知っておられたでありましょうが、児玉譽士夫と私との関係がそういう大刀川という関係でつながるというようなことは余り深く知らなかったんではないかと思います。絶対にございません。
  52. 横路孝弘

    ○横路委員 児玉自身も、これは週刊誌などの座談会の中で、つまり、そういう政治資金の援助をしておった——あの人は本を読んでみますとやや誇大に物を言う傾向がありますけれども、そういうことを述べている部分もあるのですけれども、それは間違いございませんね、くどいようですが。
  53. 中曽根康弘

    中曽根証人 絶対にございません。
  54. 横路孝弘

    ○横路委員 じゃ、これはともかく、稻葉法務大臣の答弁は、昨年一貫して、つまり四十三年以来政治資金関係を断ち切った、こういうことになっているわけでありまして、その辺のところは、これは稻葉法務大臣の方にまたこの場にでも来ていただいてお話をいただかなければならぬというように思うわけであります。  そこで、一つだけ、あなたの政治資金の届け出の中に、四十二年度末で東京スポーツからの献金がありますが、これは永田さんの関係かな、児玉譽士夫関係かな、どっちでしょうか。
  55. 中曽根康弘

    中曽根証人 私は、そういう細かいところまでよく知っておりません。四十二年という十数年前のようなことを、とても記憶するだけの能力はございません。
  56. 横路孝弘

    ○横路委員 いやいや、あなた、この喚問に出られるに当たって、新聞の報道によると、何か想定問答集までつくって、過去の記録を十分頭の中に入れてこられたという話があるのですが、新政治調査会の中に、東京スポーツ新聞社四十二年の下期三百万というのがありますが、東京スポーツというのは……(発言する者あり)委員長、静粛にしてください。委員長、静粛にしてください。
  57. 原健三郎

    原委員長 静粛に願います。
  58. 横路孝弘

    ○横路委員 あなたの証言とこの政治資金の届け出の関係を聞いているわけであります。あなたは全然ないとおっしゃるけれども、この団体の中に、四十二年の下半期で東京スポーツというところからの献金があるわけです。東京スポーツというのは、大映の永田さんがやっていて、それを児玉譽士夫が引き継いだ会社です。ですから、事実を聞いているわけです。御存じない、記憶がないと言うなら仕方がありませんけれども、何か記憶を喚起するようなメモでもお持ちでしたら、それを見ていただいても結構ですが。
  59. 中曽根康弘

    中曽根証人 記憶は全くございません。
  60. 横路孝弘

    ○横路委員 大刀川との関係ですけれども、あなたの事務所に入ったいきさつはわかりましたが、いつ大刀川が来て、いつあなたのところを去っていったのか、ちょっと日時を、年度で結構でございますが、明確にしていただきたい。
  61. 中曽根康弘

    中曽根証人 きょうのこの証言に私、資料を持たせていただけるかとお願いしたら、資料はだめだということで、いろいろ新聞や何かの資料も持ちたいと思ったのですけれども、無手勝流でやるので、あなた方はいろいろ御資料をお持ちですけれども、非常にバランスを失していると私は思うのです。こういう点も私の記憶にどの程度正確を期せられるか……     〔発言する者多し〕
  62. 原健三郎

    原委員長 御静粛に願います。——静粛に願います。  中曽根君。
  63. 中曽根康弘

    中曽根証人 ともかく記憶のないことは記憶がないと申し上げる以外にないのです。
  64. 横路孝弘

    ○横路委員 資料の点については、私の方にも問い合わせがあったから、手帳であるとか、帳簿であるとか、記憶を喚起するに必要な材料は持ってきてよろしいと言ってあるはずであります。  その大刀川を預かったというのは河野さんから預かったという話なんですけれども、彼がやめて児玉譽士夫の方に行くようになった経過は、あなたは御存じないのですか。
  65. 中曽根康弘

    中曽根証人 それはよく知りません。私のところで書生をしておるときに、彼は児玉譽士夫被告の本を読んだりして大変心酔しておったような感じはしました。しかし、どういう程度関係であったか私はよく知りませんでした。しかし、卒業する間際になって私のところを去りましたけれども、その後児玉譽士夫被告の事務所に行った。想像するに、私のところで書生をしておったときに、非常に本を読んで心酔して児玉譽士夫被告のところへ行ったり何かしたのではないか、そう思います。
  66. 横路孝弘

    ○横路委員 初めから河野さんの方に大刀川を頼んだのが児玉譽士夫とは違うのですか。つまり、大刀川を河野さんのところに頼んで、河野さんのところからあなたのところにかわりに頼むよというような話だったのではないでしょうか。
  67. 中曽根康弘

    中曽根証人 河野先生がだれに頼まれたか、私は知りません。
  68. 横路孝弘

    ○横路委員 児玉との連絡はもっぱら大刀川を通してその後いろいろ電話でやりとりしたりということですか。直接話し合うこともあったのですか。
  69. 中曽根康弘

    中曽根証人 児玉被告との連絡といったって、そうたびたびあるわけじゃありませんが、大刀被告が間に連絡に当たったということもあります。それは東郷君の問題なんかもその一つであったと思います。
  70. 横路孝弘

    ○横路委員 あなたはコーチャンの回想録は読みましたか。
  71. 中曽根康弘

    中曽根証人 読みました。
  72. 横路孝弘

    ○横路委員 コーチャン回想録の中曽根さんの名前が出てくる部分ですね、これは昭和四十七年の十月五日でありまして、この中では、トライスター売り込み中のロッキードのコーチャン氏のところに、小佐野賢治からの情報だということで、日本航空がトライスターを入れる、全日空はDC10に決まったぞ、こういう話が伝えられるわけです。当時、日本航空も全日空もエアバスを購入するということで動いていたわけですけれども、機数が違うわけですね。全日空の方はたくさん必要なわけです。日本航空ですとせいぜい五、六機ということでしょうか。そこで、これでは大変だということで、その話を壊さなければならぬということで工作を開始して、四十七年、あなたは通産大臣をやっておられたのですが、児玉譽士夫のところに夜の八時過ぎに訪問する、塚本素山ビルの事務所へ行って、そこからこの話は始まるわけでありますが、この塚本素山ビルというのはあなたは御存じでしょうか。
  73. 中曽根康弘

    中曽根証人 ビルのあることは知っていますが、事務所へ行ったこともなければ、どこにあるかということもよく知りません。
  74. 横路孝弘

    ○横路委員 この事務所の中に先ほど来名前の出ています大刀川恒夫がおって、そして児玉の指示であなたに電話をした、こういうことになったわけですが、この四十七年の十月五日の夜の八時過ぎは、あなたはお宅におられたのでしょうか。自宅の方におられたのですか。
  75. 中曽根康弘

    中曽根証人 あのときの記憶をたどってみますと、それから新聞であの当時の閣議や日程等調べてみまして記憶を呼び起こしてみますと、たしか十月五日は、新潟県で中小企業の全国大会がありまして、朝早くそこへ行って、そしてたしか七時四十九分とかという着で東京へ帰ってきて、それからたしか目白の自宅へ帰ったのではないかと思います。三、四十分かかるだろうと思います。  電話があったことはございません。
  76. 横路孝弘

    ○横路委員 質問に答えていただかなくては……。  夜の八時過ぎには自宅におったのですね。
  77. 中曽根康弘

    中曽根証人 自宅におったと思います。
  78. 横路孝弘

    ○横路委員 この塚本素山ビルの事務所ですね、あなたに電話をかけたところ、全く知らないという話ですけれども、ここにいま日本国土開発研究所という、あなたが常務理事をしている法人が、ここはもういま児玉譽士夫は事務所を払っているようでありますが、何かその払った跡に入っておられて、その団体にあなたが関係しておるということですが、本当に御存じございませんか。
  79. 中曽根康弘

    中曽根証人 その国土開発研究所というのは、高碕先生が生きておられるころ、また河野先生が生きておられるころ、河野先生が建設大臣になって国土開発研究をやろうというのでおつくりになって、根本龍太郎氏が中心になってやって、私とか、たしか大平さんとか、大ぜい名前を出しておると思います。私もその中に名前を出しております。  その事務所はたしか小松ビルにあったという記憶で、小松ビルの理事会に出たことはございますが、塚本素山ビルに移ったというようなことは最近聞きました。
  80. 横路孝弘

    ○横路委員 私たちから見ると、常務理事をやっておられるような団体が、たまたまの話なのかもしれませんが、児玉譽士夫が持っていた事務所の跡に入ってしまう、まさにそこがコーチャン証言で言う問題の事務所なわけであります。  そこで、そのトライスターとは関係ないというお話が先ほど来出ていますけれども、佐藤内閣の当時、末期は総務会長か何かをおやりになっていましたね。
  81. 中曽根康弘

    中曽根証人 四十六年から四十七年にかけて自民党の総務会長をやっておりました。
  82. 横路孝弘

    ○横路委員 その総務会長の当時でありますが、四十七年の五月、当時自民党の航空対策部会の中では、いわゆる「航空企業の運営体制について」という通達をめぐって、事務次官案、政務次官案がいろいろと議論になっていた当時であります。このときに、運輸省の町田直次官と内村航空局長をあなたが呼んで、いわゆるこの運営体制については佐藤君の言うことに協力をしてもらいたい。佐藤君というのは、逮捕されまして起訴されて、裁判がいま行われております当時の運輸政務次官、自民党代議士の佐藤孝行氏のことでありますけれども、やはり中曽根派ですね。この彼の言うことを聞いてくれといって、話をあなた、なさったことございませんか。
  83. 中曽根康弘

    中曽根証人 それは、佐藤孝行政務次官が局長等を連れてきて、私の部屋に説明に来たことはございます。それは、総務会長をやっておりますと、電力の値上げにしても重要法案の作成にしても、中間報告を受けたり最終報告をみんな受けておるわけです。その一環として、佐藤政務次官が局長を帯同して私のところに参りまして、いま航空対策はこれこれの情勢で進んでいる、そういう中間報告の話がございました。その際に、私は佐藤政務次官に、庁内をよく調整して、そしてうまくまとめるようにしたらいいだろう、そういうことを申し上げて、特にどの航空会社をどうしろとか、偏したことを言ったことはございません。
  84. 横路孝弘

    ○横路委員 そういうことはまだ聞いてないので、そう先走らなくて、お答えなさらないで……。  だから、当時佐藤孝行の考えと運輸省の事務当局考えとが違うということはあなたも御存じだったんでしょう、庁内を調整してという指示をしたそうでありますから。
  85. 中曽根康弘

    中曽根証人 若干違うということは、風の便りか何かの情報で聞いておりました。
  86. 横路孝弘

    ○横路委員 いや、風の便りと言ったって、あなたの派の運輸政務次官でしょう。わざわざ総務会長のところに案がまとまる前に連れてきたんでしょう。つまり、対立していてどうしようもないから、その調整ないしあなたの方から指示をもらいたくてやってきたんじゃないですか。そして、まさにその内容が、佐藤孝行前代議士が逮捕されて起訴されているのは、まさにこの通達をめぐって被疑事実の中に入っているわけです、いま裁判をやっている起訴事実の中に入っているわけですよ。結局は佐藤案あたりでもってまとまるわけですね。あなたはその辺のところで、運輸省の事務当局に佐藤君の言うことを聞いてやってくれ、こういうことだったんでしょう。
  87. 中曽根康弘

    中曽根証人 佐藤君やあのときに参りました局長からその当時の状況の説明を受けました。それで若干ニュアンスの違うところもあると感じました。しかし、私はこれをどうしろとかという具体的な特別な話はしないで、ともかくみんなで調整をしてうまくまとめるように、そういうことを言ってきた。これは電力の値上げにしても、公共料金の問題にしても、あるいは諸般の政策の問題にしても、総務会長として受けるときには党内が円満にまとまるということを中心にいつも発言し、指示してきておるので、そういう意味のことを言ったわけです。
  88. 横路孝弘

    ○横路委員 あなたが検察庁で取り調べを受けたときの様子を少しお尋ねをしたいんでありますが、この前、四十七年十月五日のことを聞かれたということでしたね。その場合には、あれですか、アメリカコーチャンやクラッターのアメリカにおける嘱託尋問調書だとかあるいは亡くなった福田太郎の供述だとかいうようなことで、要するに働きかけを受けたんじゃないかという点がポイントだったんでしょう。(「委員長、取り調べという言葉は……」と呼び、その他発言する者あり)
  89. 中曽根康弘

    中曽根証人 いまの取り調べという言葉は取り消していただきたい。
  90. 横路孝弘

    ○横路委員 いや、取り調べは取り調べじゃないですか。
  91. 原健三郎

    原委員長 事情聴取でしょう。     〔「失敬だよ」と呼び、その他発言する者あり〕
  92. 原健三郎

    原委員長 横路君、それは事情聴取でしょう、いまのことは。
  93. 横路孝弘

    ○横路委員 事情聴取でも同じでしょう。
  94. 原健三郎

    原委員長 事情聴取ということにして、中曽根君の発言を求めます。
  95. 中曽根康弘

    中曽根証人 ともかく質問者にお願いしたいと思います、委員長にもお願いしたいと思いますが、これは全国の皆さんが非常に重大な関心を持ってお聞きになっておるので、被疑者とか容疑者と、参考人として事情を聞かれたというのとは性格が非常に違うのでありますから、万が一にもそういう誤解を与えることは、全国の皆さんや私の選挙区自体が困りますから第一、そういう点もよくお考え願いたいと思うのです。発言は御慎重に扱うように委員長にお願いいたします。  私が聞かれましたことは、電話の件でございます。
  96. 横路孝弘

    ○横路委員 参考人も、参考人を取り調べると言うんですよ、法律的には。     〔発言する者あり〕
  97. 原健三郎

    原委員長 発言は慎重に願います。
  98. 横路孝弘

    ○横路委員 問題は、この電話の話というのは、かけた方と受けた方と二つですね。そしてそのかけた方からの話として、実はコーチャンの回想録がある、あるいはその報告がロッキードの本社の方に行っている、こういうことだろうと思うのであります。かけた方が物を言わなかったら、あと受けた方が否認する限りなかなか真実というものは表に出てこないということになるわけですけれども、あなた、明らかにする方法は私は一つあると思うんですね。それは何かということをちょっとこれからお尋ねをしたいと思うのであります。  あなたは八月の二十六日、田中当時の総理大臣と、つまり訪米を前にした総理大臣と会談をなさっておりますけれども、御記憶ございますか。
  99. 中曽根康弘

    中曽根証人 あります。
  100. 横路孝弘

    ○横路委員 実はその八月二十六日という日は、田中の公判調書によりますと、その直前に丸紅の檜山が請託をした日にちであります。そしてその直前、八月のたしか一週間くらい前に大型機導入というものが決まっておったんじゃないかと思いますけれども、その話の中身ですね、どんな内容が出たんでしょうか。
  101. 中曽根康弘

    中曽根証人 私の記憶によりますと、二十六日に行きましたのは、総理の訪米を前にいたしましてこちらの非常な願いがあったんです。それは井上という原子力局長を当時アメリカに派遣しておりまして、濃縮ウランアメリカからぜひ手に入れておきたい。一九八〇年までの分が確保されておらない。そうすれば日本の原子力発電はストップしてしまう。そういうわけで濃縮ウランをぜひとも確保しておかなければならないということ、それからアメリカ濃縮ウランの工場がもう限界が来まして、いまのような能力では各国に供給できなくなるという事情にあったわけです。そこで八〇年以降どうしても合弁会社で濃縮ウランの工場をアメリカかどこかに建てたい、そして日本固有の権利として一定量の濃縮ウラン日本に確保したい、そういう強い要望もありまして、そのことで八月二十一日に井上公益事業局長アメリカに行きましていろいろ話をして、大体たしか三億二千万ドルでございましたか、濃縮ウランの確保はできた。それから日米で合弁工場をつくるという問題も話し合っておる、そういう情報を私は得まして、アメリカに訪米される前に、いまこういう状態になった、それから特に日米で濃縮ウランの合同工場をつくるということは非常に大事な問題で、これで日本の原子力発電の死命が制せられる、幸い日本にはドルが非常に余っておるし、そういう情勢であるから、この余っておるときに濃縮ウランの合弁工場を日米でつくるという約束をとって、そして日本の原子力政策を推進したい。そういうことで、総理にこの問題はぜひやってください、その報告と、それから濃縮ウランの共同工場をつくるということと、それを話した記憶があります。それから、ニクソンと話したときにいろいろ話が出るかもしれぬが、彼は二十億ドル台に日本黒字を減らせと言うかもしれぬ、その場合にはいろいろ話をして、いろいろ次の手も考えておるということも言ったらどうか。つまり、補正予算を秋にはつくるとか、あるいは輸出の調整について特別の措置も考慮してよろしい、通産省はそういう用意がある。現に輸出の調整につきましては貿易管理令を発動しまして、業界に自主調整をしてもらって、鉄鋼にしてもテレビにしても、輸出の量を制限して自主的にやってもらったんです。そういうことも後でやりましたので、そういう用意があるということを腹づもりの中に持っていてよろしい、そういうことを言ったと思います。
  102. 横路孝弘

    ○横路委員 エアバス輸入の話は出なかったのですか。
  103. 中曽根康弘

    中曽根証人 全くそんな話はしません。
  104. 横路孝弘

    ○横路委員 ちょっと聞きづらいことでございますけれどもお許しいただきたいと思いますが、このロッキードの件に関して、先ほどロッキードのトライスターに関して丸紅、全日空そのほか関係者から何も頼まれたことはないという御証言でしたね。これらの件に関して田中被告だとか丸紅、全日空から四十七年以後金銭のやりとりはございませんか。
  105. 中曽根康弘

    中曽根証人 まず、田中総理からはございません。それから丸紅からは、これはわれわれの政治団体に対して普通の各政治団体が受け入れるような政治資金の寄与はあったと思います。これらはみんな会費あるいは臨時会費その他で自治省に届けている中に入っております。全日空からは一銭も受けた覚えはないように思います。
  106. 横路孝弘

    ○横路委員 田中総理個人じゃなくて、あるいはあなた個人じゃなくて、田中総理関係する団体あるいはあなたもしくはあなたの関係する政治団体の間において、金銭のやりとりというのはございましたか。
  107. 中曽根康弘

    中曽根証人 ございません。
  108. 横路孝弘

    ○横路委員 四十七年の田中、福田の総裁選挙の時にお金が何十億と動いた、そして初め立候補を表明していたあなたが田中反対に回ったということについて、世上いろいろ言われているわけであります。(「それはロッキードに関係がない」と呼ぶ者あり)それはロッキードに関係がないのじゃなくて、PXLの問題に関連をしてくるわけです。私たちとしては、本来ならば国産化を大体持論としておられた中曽根さんが、しかも主張すべき通産大臣になって全く発言しないというのは、何らかの裏の関係があるのではないか、そういう推測というのがあるわけでありまして、その辺のところの関係をこの際明確にさせておいた方がよろしいのではないでしょうか。
  109. 中曽根康弘

    中曽根証人 いい機会を与えられまして、ここで明確に申し上げたいと思います。  私があのとき田中総理を総裁公選で支援しましたのは、日中国交回復をぜひ実現したい、そういう念願からでありまして、びた一文も金なんかはもらっておりません。  松村謙三先生という方がおります。この方はその晩年を日中国交回復にかけておられた方で、私を一番かわいがってくれた大先輩でございます。私は松村先生を非常に尊敬し、先生の弟子であることを誇りにしておった人間です。それで、松村先生は何回も中国に行って周恩来にお会いになったりしましたが、私に常々言っていたことは、日中国交回復を頼むよと言っておられまして、松村先生は晩年ある程度死期を察知せられておったような気がいたします。それで、恐らく私の推測では、松村先生は自分が引退なさるときに自分の後継者の片岡代議士をわざわざ私のところに連れてこられて、これを後継者に立候補させるから、おまえのグループに入れるからしっかりやってくれとか、あるいは田川代議士も松村先生の秘書官をしておられましたが、これも松村先生のお話もあって私のグループに入れてくださった。これは先生は中曽根にある程度の力と集団を持たせて、いざというときにはこれで日中国交回復の力になってもらおう、そういう御意思がありと私は明瞭に受け取っておったわけです。それでいよいよ四十七年になって、佐藤先生がお引きになりましたときに、次の総裁選問題が出てまいりましたが、私はたしか四十七年の春のころに、中村梅吉先生や櫻内、稻葉、大石、それから野田先生等とも相談をして、日中国交回復をやろう、やらなければいかぬ、そういう話し合いをもうすでにしておったのであります。それでいよいよ総裁選ということになってまいりましたが、われわれが態度を早く出すということは、いろいろ——妙な言葉でございますが、派の結束が乱れる、そういうこともあり、ほかの派にねらわれるということもあるわけです。したがって、ある瞬間まではじっとして自分たちの行動は示さない、しかし決定的瞬間になったときにわれわれの行動がはっきりして、それで決定的に日中国交回復をやろう、そういう考えで、あのときに決然とした行動もまたとったわけであります。これは松村先生の長年の恩義に対する私のせめてもの御恩返しの一つである、そういう一念に燃えて実はやったのが真情でございます。私は、日中国交回復ができてから富山県の福光の松村先生のお墓に参りまして、先生、やりました、ごらんのとおりです、そう言って松村先生のお墓に御報告もした次第でございます。  そういう全く国策を考えてやったことであって、その間に忌まわしい金銭とかなんとかいうことは全くございません。  ある評論家が七億円もらったとかなんとかということを言われておりましたけれども、このこともこの際申し上げておきたいと思うのです。  いろいろ巷間流布されたデマや情報がございました。あの四十七年、すでにそういうデマがあって週刊誌に載りました。それをまき散らしたのは中川俊思という代議士でございます。私はその中川代議士を論難をして、そして名誉棄損で訴えたわけです。また、週刊誌も名誉棄損で訴えました。その結果、中川代議士及びその週刊誌は、四十七年の十二月二十六日の全国紙で中川代議士は謝罪をして、そういう事実は全くなくて、迷惑をかけましたと、これは全国紙に新聞広告を出し、週刊誌もその言葉を引用して、遺憾であったというのを出したのです。これがその当時の事実であって、そういうような忌まわしいことは全くございません。  そして、ある評論家がそれを種にとって、中曽根児玉から金をもらったろうとか、田中から金をもらったろうとかいうことをずいぶんまことしやかに言いましたが、これは全くうその評論でございます。それで、余りそういうことを言うものですから、私は、たしか昨年の八月のころであります、顧問弁護士と相談をして、その評論家に最後通牒をつきつけたわけです。幸い、八月の三日でございましたか、既成新聞という新聞に評論をした内容が載っておって、私の名誉をそのようなことで傷つけておった。それから群馬県の内外経済調査会の講演とかそのほかで、全くうそ八ぱちのことを言っておるものですから、顧問弁護士からその弁護士最後通牒を突きつけまして——その録音テープが幸い手に入った、既成新聞の講演の。その録音テープをつけて、あなたとは長い間友人であったからいままでは黙っておった、また、自分は大政党の幹事長であるから自重しておった、しかし、この段階になったら自分の名誉を守らなければならぬから最後通牒をする、もしあなたがこれ以上続けるなら名誉棄損で訴えるから、そういうことで手紙を内容証明で出しましたら、非常にあわてて飛んできて、八月十一日、プラザホテルで向江弁護士と布施弁護士と私の秘書の上和田とその評論家と会いまして、そして上和田から、例の七億円という話の会計上の説明をよくしたのです。四十七年を調べてみますと、入っている金は八億何千万円です。出ている金は五億何千万円です。それで、あのころうその報告と言われましたが、四十七年下期で間違って報告した分は一億二千万円です。それで、七億円などという、そういう金は全然事実無根、荒唐無稽のことです。それで、お金の入った入りについては自治省は全然問題にしていない、正当なものとして受け入れておった、出た分の一部についてうその報告があったということなんであって、入った分については問題がないわけなのであります。それが入った分についてとやかく言われておった。数字的にも間違いである。それから、時期的に見ますと、総裁公選は七月であります。しかし、児玉被告に金が入ったとかなんとかいう新聞の情報を見ると、それは十一月であります。時期的にも全くそれは合っていないわけであります。それから七億という根拠がどこにあるのか、いろいろまた調べてみると、四十七年の下期から五十年に至るまで、この三年間の届け出の中の偽りと言った分が七億七千万円ございました。これは四十七年の下期から五十年の下期にわたる三年間にわたる分であって、長い間の分です。そんなものが四十七年に児玉被告から渡ったとかなんとかいうようなことはまるきりうそだということがわかりました。  それで、その評論家は、わかった、こういう説明を初めからしてくれれば自分はそんなことは言わなかったのに、言うのが遅かった。そして弁護士がいろいろ話をしました結果、よくわかったから、中曽根さんに関するそういうロッキード問題については、もうこれからは言わない、しかし、自分は評論家だから、自民党の金権体質とか金脈については自分は評論をする、よくわかった、そういうことで別れた。しかるに、最近また週刊誌にそういうようなことをまた言い出しておる。私は、そういう信義を踏みにじるような人の発言を信ずることはできない。これをお聞きになっている全国の皆さんも、その人のテレビやラジオをお聞きになっていると思うのですけれども、私はここで真実を表明して、そういう言動が間違いであるということをはっきり申し上げます。
  110. 横路孝弘

    ○横路委員 それであなた、その評論家との間に二人だけで話をつけたって、国民は何もわからないわけですよ。ですから、明らかにしてもらうためには——四十七年から確かにあなたの政治資金というのは膨張しているわけです。そして支出の問題についても、この間いろいろと問題になって訂正をされた、七億近いお金ですね。四十七年から四十九年の三ヵ年だけで概略二十一億ぐらいの収入があるわけですよ。ですから、これをその評論家に説明したと言ったって国民は納得しないのです。その収入については、あなたのところは透明度が非常に低いですな、十数%しかどこからもらったかというのがはっきりしない。それだけ問題がないならば、われわれを納得させるために、四十七年から四十九年で結構です、ロッキードのこれが問題になっているのは大体四十七年から四十九年、この三ヵ年間について、その二十一億の収入の内容を全部明確にして御提出いただきたいと思うのであります。そうすれば、みんな納得するでありましょう。そうでなければ、評論家とどうだとかこうだとかというやりとりをここで披露してもらったって、さっぱり国民にはわかりません。いかがでしょうか。
  111. 中曽根康弘

    中曽根証人 自治省にすべてそれは届け出てありますから、どうぞ自治省にお聞き願いたいと思います。
  112. 横路孝弘

    ○横路委員 そうじゃなくて、あなたが本当に田中当時の総理との間には何もない、児玉との間にも何もないと言うならば、一番国民の前に疑惑を解明するのは、みずから、その収入はこうでした、二十一億の中身はこうですということをこの委員会に提出をする、委員会を通して国民の前に明らかにするということでなかったら、出せないというのじゃ、これは信用できないのじゃないでしょうか。どうですか。後ほど、この議院証言に関連して、必要な資料ならば提出することができるのです。あなたとして、政治家としての識見を示すところだろうと思うのですよ。冒頭にあなたはすべてを明らかにするとおっしゃられた。すべてを明らかにするならば、明らかにしていただきたいと思うのであります。
  113. 中曽根康弘

    中曽根証人 それはもう自治省にすべて出して、自治省も公表しているところでございますから、お調べ願います。
  114. 横路孝弘

    ○横路委員 あなたみずからは明らかにできないということですか。
  115. 中曽根康弘

    中曽根証人 できないということではない、もう公表されておることでありますから、お調べ願いたいということです。
  116. 横路孝弘

    ○横路委員 どういうところから幾らもらったかということを全部公表されていますか。当時の政治資金規正法の中では、会費扱いで全然出ていないのがあるじゃないですか。表に出ているのはわずか一七%程度じゃないですか。全部を明らかにしてもらいたいと思うのです。
  117. 中曽根康弘

    中曽根証人 それは政治資金規正法によって、寄付の分と会費の分と臨時会費の分と、おのおの法律に従って届け出てあるわけです。届け出てないと言うけれども、委員長、社会党さんでもたしか、新聞によれば、透明度が、届け出てないのが五十何%あるとかいうことが前に出ておりました。(横路委員質問に答えてください」と呼び、その他発言する者あり)そういう事実もあったのです。
  118. 横路孝弘

    ○横路委員 いまあなたは、自分がなぜここに呼ばれて聞かれているのかということについては御認識あるのでしょうね。いいですか。ロッキードの問題に関連して、このコーチャン証言の中に明確に出ている。したがって、あなたはすべてを明らかにしたいと冒頭におっしゃったはずであります。それならば、企業を明らかにされていないじゃないですか、会費なら会費ということになれば。区分は明らかにされていますよ。そうではなくて、その内容を全部明らかにして、この二十一億の収入というのはどこから入ってきたんだということが明らかになれば、あなたは自分の身の潔白を証明することになるのではないでしょうか。これは政治家としてのあなたの物の考え方によります。ただ、どうしてもだめだと言うならば、委員長、私は、後で議院証言法に基づいてそれを提出していただきたいと思うわけでありますが、ただ、それを法律的にどうこう言う前に、中曽根さんだって、自民党の中の派閥は解散されたといっても、やはり自分の派閥のあなた、責任者でしょう。それならば、それをまさに明らかにして初めて全部国民の前に説明したことになるのではないでしょうか。それを説明しないで、国民の前にあいまいなままで、私は説明したことにならぬと思うのであります。あなたにもう一度だけお答えを一どうしてもだめですか。
  119. 中曽根康弘

    中曽根証人 自治省に届け出て、堂々として公表もされていることですから、お調べ願いたいと思うのです。アメリカ証言関係を見ると、そういうのはすべて質問者が自分で手元に持って、それを証拠にして御質問なさるのが証言の例のようでありまして、私はそういう方が望ましいのではないかと思います。どうぞ自治省でお調べ願いたいと思います。
  120. 横路孝弘

    ○横路委員 私が言っているのは、当時の政治資金規正法の中では全部が表に出るわけじゃないのであります。全部が表に出るわけじゃないのです。表に出るというのは、その収入源、どういうところからお金を、寄付を受けたのか、会費としてもらったのかということが——自治省届け出のもの、私、ここに持っていますよ。しかし、それが全部明らかに出るわけじゃない。いいですか。しかも、中曽根さんの場合は、それがまるっきりでたらめであった、支出の部分に関して、ということで訂正をされたわけであります。  したがって、私は委員長にお願いをいたしたいと思うのでありますけれども、後で理事会で協議をいただいて、これが明らかにされない限り、じゃ、どうしたんだ、こういう多額のお金を、ということになるわけであります。委員長、後で理事会で御検討いただきたいと思います。いかがでしょうか。
  121. 原健三郎

    原委員長 本件については、いずれ後刻理事会において相談いたします。
  122. 横路孝弘

    ○横路委員 最後に一点。  先ほどのあなたとの関係でよくわからない、児玉との関係でありますが、「権力の陰謀」という本が出ていますが、緒方克行さんという方は、あなた、御存じでしょうか。知っているか知っていないかだけ。
  123. 中曽根康弘

    中曽根証人 その本は読みましたけれども、私は本人に会った記憶は全くございません。
  124. 横路孝弘

    ○横路委員 これは九頭竜川のダムに関するある鉱山会社の補償をめぐる話であります。石川達三の「金環蝕」の小説がございましたが、あの舞台のバック、裏をなす話であります。その補償のところで、昭和三十九年に児玉譽士夫に、どうしても補償がうまくいかぬものですから、頼みに行った。同時に一千万の調査費を渡して調査してもらいたいということで頼んだところ、引き受けてもらって、そして、この本によりますと、児玉の方から、この問題、何とか調停してあげよう、すでにこの問題に携わるメンバーも決めてあって、中曽根さんを中心にある新聞社の記者の人たちに協力してもらうというような話があった。そして、現実にこの人も赤坂のリキマンション——この赤坂のリキマンションに中曽根さんの事務所があったことはあるのですか。
  125. 中曽根康弘

    中曽根証人 あります。
  126. 横路孝弘

    ○横路委員 その事務所に電源開発の大堀という副総裁を呼んであなたに話ししてもらったということがこの中に書いてあるのですが、これは、あなたが読んで、別に何か告訴とか告発とかというような措置はとられたのですか、事実と違うのならば。
  127. 中曽根康弘

    中曽根証人 その本は、読んでみましたが、何かストーリーみたいな、だれかゴーストライターが書いた本のようです、調べてみましたら。  それで、その内容を申し上げますと、昭和三十九年でしたか何年でしたか、ともかく、児玉被告から九頭竜ダムの問題で……(発言する者あり)
  128. 原健三郎

    原委員長 静粛に願います。
  129. 中曽根康弘

    中曽根証人 電発という大資本に中小の鉱山業者が痛めつけられている、補償問題で非常に窮地に陥っている、だからこういう弱い者を助けてあげなければならぬ、そういう話で、その実情を、補償ができるものかどうか調べてほしい、そういう依頼がたしかありました。ありましたので、私は電発副総裁の大堀君に電話をかけて、こういう話であるが実情はどうかと聞きましたら、それはだめです、電発としては、会計検査院もあるので、そういう問題は訴訟で負けなければお金は出せません、そういう返事がありましたから、私はその旨を児玉被告に回答した、いわば鑑定を頼まれたようなものだろうと私は思うのです。  それで、その中に大堀副総裁を私の事務所に呼びつけてどうかこうかしたという記事がありますが、そういうことはございません。私が電話で聞いたら大堀さんはそういうことを答えて、後で私のところへ、念のために、これこれですといって詳細説明に来られたことはあります。  以上でございます。
  130. 横路孝弘

    ○横路委員 河野さんが亡くなって、この話、失敗をするわけですけれども、最後児玉邸に呼ばれて行ったら、あなたも座っておって、そして、いろいろやってきたけれどもだめだから、裁判の方でやってもらいたいということで、預かった金だからと言って、さきに渡した一千万円を返してくれた。その一千万円というのは、「手の切れるような新しさで、拓殖銀行の帯封がされていた」という記述があるわけであります。この話の三十九年から四十年というのは、先ほどあなたが、児玉との関係大刀川恒夫が児玉秘書になってからだというお話だったのですが、そうじゃなくてだから、もうちょっと前からそういう関係があったんじゃないんですか。
  131. 中曽根康弘

    中曽根証人 大刀川が秘書になったのは、たしか昭和三十七年ごろであったと記憶しております。その九頭竜の事件がいつあったか、私、記憶しておりませんが、ともかく河野先生御在世中も、先ほど申し上げましたような事情で、新党をつくるかつくらないかということで、私は反対の意見を言って、会ったことはあるのですから、そういうような因縁であるいは鑑定を頼まれたのかもしれません。その本の百十九ページでありましたか、「中曽根は消極的でだめだ。」そういう人の談が載っております。私はこの問題についてはけじめをはっきりつけなければいかぬと思いまして、だめなことはだめだと、そういうふうに申し上げておいたのであります。
  132. 横路孝弘

    ○横路委員 百十九ページは覚えているけれども、あとの方は忘れておられるようでありますが、私は最後に、やはり先ほど四十七年の総裁選挙の話で、日中国交回復だというきれいごとのお話もありましたけれども、萩原さんなんかの話もあるわけですよ。ですから、それにはやっぱり四十七年、四十八年、四十九年の当面いま問題になっている十月五日をめぐる状況をはっきりさせるためにも、その政治資金の収入の関係の内容というものを明らかにすることがあなたの疑惑をなくす道ではないか。きょうのお話を聞いても、どうもまだはっきりしない点が残るというのは非常に残念だということを私、申し上げまして、私の質問はこれで終わりにさせていただきます。(発言する者多し)
  133. 原健三郎

    原委員長 静粛に願います。  午後正一時より本委員会を再開することとし、この際、暫時休憩いたします。     午後零時三分休憩      ————◇—————     午後一時三分開議
  134. 原健三郎

    原委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  理事会の申し合わせもあり、不規則発言は厳に慎んでいただきたい、このことを改めて御注意申し上げます。  証人に対する発言を続行いたします。  発言の申し出がありますので、順次これを許します。楢崎弥之助君。
  135. 楢崎弥之助

    ○楢崎委員 私は、次期対潜哨戒機PXLの問題から質問に入りたいと思います。  証人昭和四十五年、先ほど横路委員質問のときの年月、ちょっと違うと思ったのですが、四十五年のたしか七月十八日に、防衛庁長官として「装備の生産及び開発に関する基本方針」というものを出されたはずですが、これは長官の私試案の形で、長官考えとして出されたのでしょうか。
  136. 中曽根康弘

    中曽根証人 防衛庁長官のころに、そういう装備に関する庁としての考え方方針を出したはずでございます。
  137. 楢崎弥之助

    ○楢崎委員 申すまでもなく、これは二つの柱から成っておりまして、一つは兵器の国内開発、つまり国産化方向、二つ目は兵器を調達するについて競争原理を入れる、そういう内容であります。すなわち、兵器国産化方向は、証人防衛庁長官の時代から防衛庁としての方針であった、これを確認しておきたいと思います。  次に、通産省は四十九年十二月二日にこのPXLあるいはAUWに関する専門家会議国防会議の下に設けられましたけれども、この第十七回の専門家会議に対して通産省はメモを提出しました。このメモの提出はその前の月の四十九年十一月でありますが、その内容を証人は御存じでしょうか。
  138. 中曽根康弘

    中曽根証人 私は、通産大臣をしておりませんから、全然知りません。
  139. 楢崎弥之助

    ○楢崎委員 この通達はここにあるわけですけれども、この中には、つまりPXLについても国際収支の観点からやはり国産化が望ましい、したがって国内開発をすべきだ、こういう見解になっております。PXLを輸入にするか国産化にするか、白紙に戻された以降の通産省考え方としては国産化だ、国際収支の面からいってもそうだという見解が出されております。  それでは、同じ答えが返ってくるかもしれませんが、二年前、五十年十一月にやはり通産省は、次期潜機、つまりPXLですね、「次期潜機の装備化について」という見解を防衛庁に出されております。これは取り扱い注意でありますが、この点も同じ答えなんでしょうね。
  140. 中曽根康弘

    中曽根証人 私は通産大臣でもございませんでしたから、そういう部内の資料は全く知りません。
  141. 楢崎弥之助

    ○楢崎委員 説明しておきますと、これも通産省としてはぜひ国産化方向でしてくれ、あらゆる観点から輸入がいいんだという意見に対して通産省として各般にわたってそれに反論をして、結論としてはやはり国産化、国内開発の方向が是なんだという見解を防衛庁にPXLについて出しておるわけですね。  さらに、通産省のこの問題の担当の局長である熊谷局長、この方も日刊航空工業会報を見ますと、五十年の十月十五日にこういうことを言われております。「PXLは、一九七七年量産という目標と国産化で達成できる。通産省国産化実現できるよう防衛庁と互いに勉強し合っており、秋には結論が出されよう」こういう見解を出されております。  同じく熊谷局長は、これはもちろん通産省の機械情報産業局長でございますけれども、この熊谷局長は、「昭和五十一年度の新春を迎えて」ということでやはり見解を出されておる。この見解も同じくPXLは国産化をすべきだという見解になっております。これは資料としてちゃんとあるわけです。  つまり、私が言いたいのは、通産省は一貫して、技術の波及効果等も考え国産化がいいんだ、景気刺激のためにもそれがいいんだという見解を通産省は持ち続けておった。  そこで、私は、四十八年六月十五日、この段階は、証人通産大臣ではなかったでしょうか。
  142. 中曽根康弘

    中曽根証人 多分通産大臣であったと思います。
  143. 楢崎弥之助

    ○楢崎委員 四十八年六月十五日、参議院本会議でわが党の上田哲議員の質問に対して、PXLのくだりでございますけれども、こういう答弁をされております。このPXLについて「国産すべきか、あるいは外国から輸入すべきか、決定していきたいと思っております。最近は、国際収支の点も考慮に入れたらいいのではないかということも、一面考えております。」「このような考えに基づいて白紙に還元したものでございます。」これが答弁ですね、要点だけを言いますと。  その明くる日の新聞は、一斉にこの答弁の解説をやった。つまり、この中曽根答弁というのは、国際収支の面からやっぱりPXLは輸入した方がいいという示唆をこの答弁で与えた、こういうふうに各社も解説をいたしております。そういうお考えでございましたか。
  144. 中曽根康弘

    中曽根証人 この点は十月九日の国防会議議員懇談会でございましたか、一応白紙還元——T2とFST2改については国産、しかしPXLとAEWについては白紙還元、そういうふうに表現されておりましたが、あれは白紙還元という表現自体が必ずしも適切ではなかったと思うのです。防衛庁及び政府としては国産ということを決めていたのではない。川崎重工その他に相当な、年三億とか五億の金を出して基礎調査を委託してやっておったのであって、基礎調査の結果にまって国産すべきかどうか最終的に決める、そういう段階であったのだろうと思います。  ところが、大蔵省防衛庁の間で非常に強い論争が、先ほど申し上げましたように、ありまして、大蔵省側輸入を主張する、防衛庁側国産を主張する、それでついに総理のもとで、戦闘機及び支援戦闘機T2とFST2改は国産にする、残余のものは専門家会議にゆだねて決める、そういう結論が出て、国防会議全員一致でそれを承認した。その過程で、大蔵省戦闘機についてもF5を輸入したらどうかということで国産に非常に頑強に反対したようでありました。  そういう経緯も私、聞いておりましたので、大蔵省がそういうような主張をするのは、やはり国際収支という面も考えてそういうこともあったのではないか。私、前から国産かあるいは輸入かという問題については、その答弁の前半でも言っておりますけれども、兵器の性能、それから費用と効果、それからその前に産軍癒着のことも言っております。あの質問の御趣旨が産軍癒着の危険ありやなしやということで、むしろ国産に対して批判的な御意見の側からの御質問であったように私、思いました。それで、産軍癒着の問題であるとかあるいは性能であるとかあるいは費用と効果の問題というものを考えて、国産にすべきかあるいは輸入にすべきか考えてきておったけれども、しかし、先般そういう事件がございましたから、大蔵省側の強い要請もあって専門家会議にゆだねた。専門家の中には土屋清先生とかあるいはそのほかの経済学者も入ってやられたと聞いておりました。そういう面から国際収支という問題もやはり考慮すべき一要素として入ってきた、そう思ってそのように御答弁申し上げたのでございます。
  145. 楢崎弥之助

    ○楢崎委員 このときの答弁の趣旨は、新聞の各社の解説も、国際収支を出されたということは、つまり大蔵の主張に近寄られた、結論としては輸入を示唆された、こうなっているのですね。これは、この答弁を見るとそうなるのです、国際収支の点を出されたということは。ところが、四十八年六月十五日ですか、この段階の国際収支を証人はその前年なりあるいは、後で申し上げますけれども、そういうあれをちゃんと把握した上でこういう御答弁をなさったのでしょうか。
  146. 中曽根康弘

    中曽根証人 把握してはおりませんでした。ただ、私の頭にありましたのは、そういうように専門家会議にゆだねたといういきさつから見て、専門家の顔ぶれの構成等も見て、政府全体としてはそういう方向にもっていったわけでありますから、政府考えの中にはそういう要素もあったのではないが、そう思って申し上げたわけであります。
  147. 楢崎弥之助

    ○楢崎委員 明らかにしておきますけれども、いま御答弁を聞いて、そういう国際収支の観点のこともよく調べないで、四十八年六月段階でこの問題のPXLにそのような答弁をなさるのはちょっと軽率ではなかったかと思うのですが、これは私の感じですけれども。  なぜかというと、四十七年段階は確かに国際収支が黒字が大きくなった。午前中の御答弁のとおりです。それでドル減らしという問題が起こった。ところが、四十八年の五月、六月、この段階はもう国際収支はぐっと悪化してマイナスになっているのですよ。四十八年の六月段階は三億九百万ドルの赤字なんです。ちなみに、問題の四十七年のドル減らしを論じておったときの七月、八月段階は七億五千万ドルの黒字なんです。あなたが国際収支を考え輸入をという示唆をされたこの段階では、国際収支を考えると、むしろこれは輸入するとなお赤字になる。数字的にこういう段階なんですね。これは日銀の国際収支統計月報なんです。三億九百万ドル赤字になっている。しかも、四十九年、五十年、先ほど挙げました通産省が見解を出した時点の国際収支はどうなっておるかというと、四十九年の十一月段階、通産省がメモを専門家会議に出したそのときには、これは一億二千六百万ドルの黒です。それから五十年の、先ほど言いました十一月段階あるいは六月段階、挙げてもよろしゅございますが、これは国際収支はマイナスです。  それで、通産省は国際収支についてどういう意見を出しているかというと、国際収支の観点からもこれは輸入すべきじゃない、外貨負担になるという、ここに文書がありますけれども、こうなっている。いまのは四十九年十一月のやつですが、五十年の通産省の見解、これは防衛庁に出した見解でございますけれども、「国際収支の異常な黒字という当時の事情を背景としたドル減らしの要請が外国機導入案を残存させたと思われるが、」つまり四十七年十月段階、白紙還元のときです、「しかしわが国をめぐる情勢がその後大きく変化した以上、当初どおり国産開発で対処するのが当然である。」これが通産省の見解。つまり、経済の実態はそうなっておらないのに、わざわざ国際収支を出されて輸入を示唆されたというところに私どもはひっかかりを感ずるわけです。  すなわち、その問題の四十七年十月九日の国防会議議員懇談会、もちろん午前中の答弁のとおり準議員でございました。しかし、これは発言してはいけないというあれはないわけですね。そこで、先ほどお伺いしてみると、防衛庁も、その日突如として白紙還元された、これは久保発言その他ではっきりしておりますが。通産大臣としても、事前に何も知らされずに、そのとき初めて白紙還元ということを知らされたのですか。
  148. 中曽根康弘

    中曽根証人 全く知らされないで、突如そういう案が出てきたわけであります。
  149. 楢崎弥之助

    ○楢崎委員 そうすると、そこでまたちょっと不自然なものが出てくるのですね。証人個人としても、防衛庁長官の時代でも国産化方針として出された、通産大臣としても国産化方針で行った、通産大臣をやめられた後の通産省の見解もずっと今日に至るまで国産化で来ている、それが突如としてそういう白紙ということが出てきたら、そこでこれは何だと一言あるのが当然じゃないでしょうか。それを全然黙っておられたところにだれが考えても不自然さがある。先ほど午前中の答弁では、これは大体担当省は防衛庁大蔵省だから、自分の主義としては他省のことに口ははさまないというような御答弁をなさいました。新聞も記者会見でそうあなたのあれを載せられておる。しかし、通産省は全然関係がないのでしょうか。関係があるからこそ、このPXLの専門家会議にいろいろ通産省としての見解を出しておるじゃありませんか。防衛庁にも意見を出しておるじゃありませんか。このPXL問題について通産省関係なかったから口をはさまなかったというのは、これは事実と反すると私は思うのです。その点はどうでしょうか。
  150. 中曽根康弘

    中曽根証人 これは午前中も申し上げましたように、大蔵当局防衛庁との間で非常に熾烈な、白熱的な論争がございまして、そして増田防衛庁長官、いやそうではございません、どなたか防衛庁長官総理のお宅まで伺ってお話をしたといういきさつもあって、大蔵当局と防衛当局の間で競って競って、そしてようやく総理の前で主計局長あるいは官房長官あるいは副長官等が最終的に決めたことであって、それが国防会議であったか議員懇談会であったか、急に出てきたわけであります。それで、私の立場はオブザーバーであって、正式のメンバーではございません。それから、通産省からこの国防会議あるいは議員懇談会に出た場合にこういう発言をしてくれという要請も全然ございません。  そういう諸般の情勢から見て、財政当局とその関係責任当局との間で決まって、内閣の中枢部もそういう情勢で決まったこと、しかも満場一致で決まる、そういう問題についてオブザーバーである私が発言をするという方が、官庁のいままでのパターンから見れば変なのであります。総理から御下問があれば、それは当然オブザーバーの場合は答えますけれども、そうでない場合に、こちらからしゃしゃり出てしゃべるというのは、いままでの官庁の事務の流れからして変なことになる、これがいままでの事務の扱いの仕方なんです。その点は、日本官庁あるいは閣議あるいは閣議の前の事務の扱い、そういうことについて御検討いただけば御了解いただけると思うのです。大体次官会議で物が決まって、そして閣議はそれを大体了承するというのがいままでの慣例で事務は流れてきておる、そういうような同じ流れでこの問題は流れた、そう御了解願いたいと思うのであります。
  151. 楢崎弥之助

    ○楢崎委員 この四十七年の二月から四月にかけて、例の四次防の先取り問題でいわゆるシリビアンのコントロールということが問題にされて、それで国防会議メンバーもふやすべきであるということでふやされて通産大臣も入って、そしてまだそれが正式に決まらないからオブザーバーとおっしゃったけれども、それは単に形式的なもので、流かれら言いますと、純然たる国防会議議員としての方向に向かっておったわけです。しかも、国防会議議員懇談会ですから、懇談会だからいろんな話をするのは当然でありまして、それが終わってすぐ正式の国防会議に切りかえるということになっておるわけでしょう。それにいまのような御答弁では、われわれですら不思議に思う。いままでずっと国産化を主張してきた通産省の立場、前の防衛庁長官としての立場も国産化である。それが青天のへきれきのように白紙に返された。言うならば、われわれの常識からすれば、一体どうしてそういうことになったんだろうか、国産化でなぜ悪いんだろうかというような話が出るのが普通であるし、そういう任務を与えられて国防会議に出ないと、何のために国防会議議員として列席させるようにしたか、意味がないのですよね。自分のところに関係がないことだったら何も言わない、そういう国防会議であれば国防会議自身が問題になるわけですけれども、そこはだれが聞いても、国民の皆さん聞いておられると思うけれども、この点の不自然さ、なぜだろうかという疑いは消えない。  そこで、では一体この時期にどういうことがあったか。午前中横路委員質問の中にありましたとおり、例のコーチャン回想録に出てくる十月五日の問題であります。つまり、この時期というのは、もう一遍少し説明を加えると、コーチャン証言にもありますけれども、ロッキード社あるいはアメリカのMDAO等を通じてP3Cの売り込みがすでにアメリカの方から始まっておったのです。そして八月にはアメリカ政府はP3Cのリリースをオーケーしている。そういう輸入方向へ、P3Cの方向へと向いていっておった時期です。そして白紙にするかどうするかというのが、十月二日ごろから十月九日の国防会議に向かってこれが揺れ動いておった時期です。その時期の中間に位する十月五日の日に、つまり先ほどありましたとおり、児玉事務所で、コーチャン氏が駆けつけてきて、大変な陰謀が起こった、何とかしてくれ、そこで電話をあなたに児玉被告がかけた、こうなっているのですね。電話を受けてないということでしたけれども、コーチャン回想録に基づいて言えば、そうなっているのですね。そして、コーチャン回想録によれば、その明くる日の朝片づいた、こうなっているのですね。そこで、夜八時過ぎに電話して明くる日の朝には解決するというのは、よほど証人に力がある問題である。力、影響力を及ぼし得る問題である。そうすると、職務権限から考えて、もしトライスターであるならば、これは当然運輸大臣がその中心に座っている。証人通産大臣である。われわれから言わせれば、一発でそういうふうに影響力を及ぼすということであれば、一体これは果たしてトライスターであったのだろうかという疑問を私はコーチャン回想録の中から得たわけです。  ちなみに、大変なことが起こったとコーチャン氏が駆け込んできたその内容は何かというと、問題のトライスター日本航空に、それからDC10は全日空に、こういう動きが急に出てきたということで飛んできた、こうなっておるのですけれども、私どもの調査によると、こういう動きは全然ないのですよ。全然ない。だから、このくだりはコーチャン氏がつくったのかもしれないという疑いも私は持っております。ただ、コーチャン氏から言わせれば、電話をかけたという事実はあると思うのですね。この辺はいずれ公判が進めば明らかにされると思いますけれども、結局そういう陰謀が起こったとコーチャンが言っているその内容の事実はわれわれの調査ではないから、そうすると、問題は、トライスターではなくて実は一発であなたが影響力を及ぼし得るPXL問題、つまりP3Cの問題ではなかったか。これを白紙に還元しようというその動きに何らかのまた変更なりが出てきたのではないかということで、あわててコーチャン氏が駆けつけてきたというふうに見るのがこのコーチャン回想録の自然の解釈ではなかろうか、このように思うわけですが、もう一度お伺いしますけれども、全然電話はなかった、こういうことでしょうか。
  152. 中曽根康弘

    中曽根証人 電話は全くありません。
  153. 楢崎弥之助

    ○楢崎委員 この辺の不自然さというものは、コーチャン回想録のこの点について、私どもの調査では、いま申し上げたとおり若干違う。事実がない、こういう事実は。それは指摘をしておきたいと思う。  そこで、先ほどの問題ともあわせてこのPXLの動きをずっと追ってみると、何としても十月九日の証人が黙っておられたという不自然さについて私はやはり、お答え聞きましたけれども、釈然としないものが残る。残念ながら残ります。  次に、例の箱根日米通商会議でございますけれども、大体エアバス、大型機輸入の問題が最初に出てきたのは、どの時点で出てきたんでしょうか。
  154. 中曽根康弘

    中曽根証人 私にはよくわからないのです。いろいろ通産の事務当局に聞いてみましたが、箱根会談エバリーやあるいは日本事務当局の間で話したときには、どうも出てきてないような感じです。いろいろそのアイデアを言ったりして、ともかく四十億ドルを二十億ドル台に減らすということが焦点で、そのためにはもう少し補正予算をどうしろとか、あるいは貿易管理令を最後には発動してやらなければいかぬじゃないか、内需の振興と緊急輸入、そういうようなことがいろいろ議論されたようです。私も小松通商局長からその結果を聞きましたが、私の記憶に残っている確実なことは通産省のことで、それはIC電算機輸入化を漸次やっていく、それから小売店舗の資本自由化も順次やっていく、そういう点は内諾いたしましたと、あとはいろいろ各省がごたごた勝手なことを言った、そういうことでまとまりませんでしたということを聞きました。それから、しかし各省で知恵を出し合っていろいろ緊急物資輸入物資をみんなで早くまとめようということで事務当局は懸命な努力をして、その過程で運輸省から出てきたんではないかと思うのです。それを調整してまとめていったというのは、さっき申し上げたように、内閣官房あるいは審議室あるいは外務省の鶴見審議官、そういうことであったと思います。
  155. 楢崎弥之助

    ○楢崎委員 そうすると、いまの答弁ではエアバス、大型機の口火を切ったのが運輸省のようであるということでございましょうか。そうすると、四十七年の八月八日の経済閣僚会議、これはもう新聞にも出ておりますからそのとおりだと思うのですけれども、ここで証人は佐々木運輸大臣に向かって強くエアバス、大型機緊急輸入を提案されておりますね。そして新聞の報ずるところでは、あなたのその御意見を引き取って田中総理が、いまの中曽根通産大臣発言を英断をもってこうやれと、こういうふうになっているのですね。そうすると、その四十七年八月八日、むしろあなたの方が積極的に運輸大臣にエアバス、大型機緊急輸入をやりなさいというふうになっておるのですか、その辺はどうですか。
  156. 中曽根康弘

    中曽根証人 その新聞記事は必ずしも正確でないと思います。あのとき私は農林省——農林省の関係は飼料の問題があったのです、飼料をもっとよけいふやすわけにいかぬかということが非常に強く頭の中にありました。それから運輸省、それから防衛庁——防衛庁では救難ヘリコプターとかあるいはそのほかの兵器がありました。それから通産省では例の濃縮ウランの問題あるいは石炭、そのほかの輸入の問題がございました。それで、関係各省及び全閣僚に対してできるだけふやしてくれ、思い切って繰り上げを早くし、かつふやすように努力してくれ、そういうふうに閣議の席上で言ったので、何も運輸大臣に向かってそんなことを言った覚えはまるっきりございません。閣議の席というのは丸テーブルで、それでみんなの方向に向かって言う形になっておるのであって、われわれの一番大きな関心は、一つは農産物の飼料の輸入でかなりふえるということが頭にあったと記憶しておるんです。
  157. 楢崎弥之助

    ○楢崎委員 私たちの調査の裏づけもそうなっておるのですけれども、先に進みます。  証人は、檜山さんですね、檜山被告ですが、檜山被告と会って話をされたことがありますか。
  158. 中曽根康弘

    中曽根証人 あります。宴席で会ったこともありますし、パーティーで会ったこともあります。
  159. 楢崎弥之助

    ○楢崎委員 一番最後に会われたのはいつごろでしょうか。
  160. 中曽根康弘

    中曽根証人 さあ、一番最後に会ったのはいつかというと、特に記憶にありませんですね。
  161. 楢崎弥之助

    ○楢崎委員 檜山さんと丸紅関係から金額の話は、さっき政治献金の問題出ましたけれども、金の話は。物品の贈答を受けられたことありますか。
  162. 中曽根康弘

    中曽根証人 物品の贈答を受けた記憶はございません。
  163. 楢崎弥之助

    ○楢崎委員 四十七年十月二十八日ごろ、檜山さんから物品が届けられた、お手伝いさんがそれを受けられたという、私どもの調査によるとそれがあるんですが、そういうことを聞かれたことありますか。
  164. 中曽根康弘

    中曽根証人 まるきりそういう事実はありません。何か怪情報でそういうような筋のことが流されているそうですか、全くそれはでたらめです。
  165. 楢崎弥之助

    ○楢崎委員 いや、疑問として出されたことはやはりはっきりしておった方がいいんです。  それで、やはりそういう点はお手伝いさんに確かめられましたか。
  166. 中曽根康弘

    中曽根証人 お手伝いに確かめるようなことはしませんが、第一、そういうことがあれば私のところに報告が必ずあります。そういう報告はございませんし、受けた事実は全くございません。
  167. 楢崎弥之助

    ○楢崎委員 四十七年の十月三十日でございますけれども、この日はつまりトライスター全日空が採用をする、これが正式に公にされた日である。そして午後六時から全日空会議室で双方の——双方というと全日空ロッキード社でしょう、が打ちそろって、そこでコーチャン氏に対して、あなたのところのトライスターを採用することになりました、おめでとう、こういう儀式があったわけです、六時から。八時ごろから宴会が行われた。それは赤坂料亭の「浅田」というところである。ここに証人は行かれたことありますか。
  168. 中曽根康弘

    中曽根証人 行ったことはないと思います。
  169. 楢崎弥之助

    ○楢崎委員 思いますというのは、この辺大事なところですから、はっきりされた方がいいんじゃないでしょうか。
  170. 中曽根康弘

    中曽根証人 「浅田」という料亭がどこにあるか、私は全く知りません。だから、行ったことはないと言えると思います。
  171. 楢崎弥之助

    ○楢崎委員 証人の運転手も含めて、その日会合をした人たちの車が外に待っておって、運転手さん同士確認していることがあるんですね。その中に証人の車もあった。だから、実際に行かれたかどうかは別として、車があったというふうな調査結果が出ておるのですけれども、もう一遍それを確かめておきたいと思います。
  172. 中曽根康弘

    中曽根証人 それはだれとだれが会ったと言うんですか、まず中身を聞かしてください。
  173. 楢崎弥之助

    ○楢崎委員 時間が来ましたけれども、よろしゅうございますか。——ちょっとあれは省きます。何とか氏というのは。田中児玉、小佐野、若狭、檜山、大久保、美土路、斎藤——これは日航の斎藤さんでしょう、それから北炭の萩原各氏にあなたと、こういうふうになっておるんです。
  174. 中曽根康弘

    中曽根証人 そういう怪情報を私、聞きました。さる評論家が新聞に売り込んだとかあなたに申し上げたとか、そういう情報も聞きまして、その資料は検察庁の吉永検事のところにも一部届けたとか、そういう記事も拝見いたしました。そのことは調べてみましたら、その日は、私は、私の後援会の発会が京王プラザかどこかにありまして、それから八時半から与謝野馨の応援のために神田の小学校に行っておる、そういう予定になっております。
  175. 原健三郎

    原委員長 鳥居一雄君。
  176. 鳥居一雄

    ○鳥居委員 引き続きまして、証言を求めたいと思います。  こうしたロッキード事件のような不祥事が起こりまして、国会議員証人として呼び出さなければならない、こういう事態は大変残念なことであります。国会議員の立場は、公僕としての国民に対する義務、また一点の曇りもないという清潔な政治姿勢が要請されるものであります。国会議員として疑惑を抱かせる、そのことに重大な反省を持たなければならないと私は思います。また、さらに国会の権威また名誉、これを損なう結果になっている責任を私は感じなければならないと思いますし、中曽根個人にありましては、私はその疑いを一つ一つ晴らす、その挙証責任を持つことになると思うのです。  そこで、児玉との関係でありますけれども、右翼団体の道場と言われております三重県の熊野町にある青年哲学堂、これを御存じですか。
  177. 中曽根康弘

    中曽根証人 知っております。
  178. 鳥居一雄

    ○鳥居委員 どの程度御存じですか。
  179. 中曽根康弘

    中曽根証人 それは伊藤玄明という人がやっているものでありまして、名前は青年哲学堂としましたが、私がつけた名前です。これは、伊藤玄明という青年は、たしか愛国党であったか、どこかに所属した青年のようです。それで、ソ連の副首相が日本に来ましたときに、名古屋の駅頭で殴ったか何かで罪に問われて入れられて、そこで豁然大悟して禅に入りまして、そして出てきてから、たしか愛国党を脱党して、自分の過去は間違いであった、そういうことを私のところに言ってまいりまして、自分はこれから雲水をして座禅をいたします、私の師匠としてめんどうを見てください、そう言われまして、彼は数寄屋橋でずっと座禅をしておりました。かなり長い間座禅をして、断食等もしておりました。私は、彼の行動を見まして、おまえがそういうふうに気がついたことは非常によろしい、いまの青年に珍しい男だ、それでがんばりなさい、そう言って、激励をした。彼は、いままで自分の半生、半分の人生の償いとしてそういう教育機関をつくりたい、そういうので、托鉢をして教育機関をつくる、そういうことを念願して、全国を托鉢して座禅もして基金を求めておったのです。名古屋で、土川さんが当時生きておられました、名古屋鉄道の。私、土川さんにもお願して、これはいい青年だからぜひ助けてやってください、そういうことをお願いをして、その関係のいろんな人の御協力を得て、また地元の三重県の菰野町というところで、土地を提供する人もいまして、そしてそういう浄財と義援金によって修養場をつくったのです。名前を何にするかと言うから、余り仏臭い名前よりも青年哲学堂がよろしい、そして仏像とかそういう抹香臭いものを置くな、がらっ広いところにしておいて、偶像は置かないで、そこで座禅をやれ、そしてみんなで勉強しろ、そして、教科書は余り仏教じみたものよりも司馬遼太郎の本がよろしい、司馬遼太郎の吉田松陰先生を書いた、いま名前は忘れましたけれども、何とかという非常に吉田松陰先生を書いたいい本がございます。その本、これをみんなで読め、これが現代の教育だ、そう言って、私はたしか百冊くらいそれを寄付しまして、これを教科書に使えと言って、そうしてその青年はそこへ寝起きをして教育をしていた。いまもそれをやっておるはずであります。いま彼は中尊寺へ行って断食をしているはずであります。
  180. 鳥居一雄

    ○鳥居委員 この哲学堂は、案内によりますと、右翼精神というのを青年に植えつける、そうして、それはこの伊藤玄明氏自身が中曽根氏の影響を受けているために、それは中曽根哲学であると同時に児玉哲学である、こう言われておりますけれども、その点についてはどうですか。
  181. 中曽根康弘

    中曽根証人 伊藤玄明君と児玉氏とは全然関係ありません。まるっきり違います。伊藤玄明君はたしか愛国党の系統であったと私は聞いておりまして、全く関係ございません。
  182. 鳥居一雄

    ○鳥居委員 先ほどの発言の中に、また答弁の中に、児玉との関係について昭和三十七年以降のことであると、こういう御説明でございましたけれども、その点については間違いございませんでしょうか。
  183. 中曽根康弘

    中曽根証人 先ほど申し上げましたように、池田内閣ができたときに、河野先生が脱党されようとしました。その席に、皆さん御相談なすって、私も呼ばれて、そのときに児玉譽士夫という人に会ったのが初めてである、私の記憶はそういうことです。
  184. 鳥居一雄

    ○鳥居委員 ——はそれ以前に……(「−とは何だ」と呼び、その他発言する者多し)いまのは間違いでありまするが、……
  185. 原健三郎

    原委員長 静粛に願います。
  186. 鳥居一雄

    ○鳥居委員 いまのは訂正します。いまのは意図的じゃございません。  証人は……(発言する者多し)いまのは間違えました。
  187. 原健三郎

    原委員長 鳥居君に申し上げますが、——という言葉は取り消しなさい。
  188. 鳥居一雄

    ○鳥居委員 あなたはそれ以前の時点で児玉との裸のつき合いはありませんでしたでしょうか。(発言する者多し)
  189. 原健三郎

    原委員長 取り消しなさい、その言葉。遺憾の意を……(発言する者多し)静粛に願います。  遺憾の意を表してください。
  190. 鳥居一雄

    ○鳥居委員 時間がありませんから、質疑を続行させていただきたいと思います。  いまのは間違いでございまして、大変失礼をいたしました。(発言する者多し)
  191. 原健三郎

    原委員長 私語を禁じます。
  192. 鳥居一雄

    ○鳥居委員 証人昭和三十七年以前に児玉氏との裸のつき合いというのはありませんでしたですか。
  193. 中曽根康弘

    中曽根証人 いまの——という言葉は取り消されたのですか。
  194. 鳥居一雄

    ○鳥居委員 間違いです。
  195. 中曽根康弘

    中曽根証人 それは取り消していただきたいと思います。(発言する者多し)
  196. 原健三郎

    原委員長 私語を禁じます。
  197. 鳥居一雄

    ○鳥居委員 重ねて伺いますけれども、昭和三十七年以前、児玉とのつき合いで裸のつき合いというのはございましたでしょうか。
  198. 中曽根康弘

    中曽根証人 委員長にお願いいたしますが、いま——という言葉は取り消していただきたいと思います。
  199. 原健三郎

    原委員長 取り消しなさい。
  200. 鳥居一雄

    ○鳥居委員 ——という言葉は間違いでございまして、訂正をいたします。  そうして、証人に対して御質問を申し上げたいと思います。
  201. 原健三郎

    原委員長 はい、どうぞ。
  202. 鳥居一雄

    ○鳥居委員 昭和三十七年、それ以前に児玉とのつき合い、裸のつき合いというのはございませんでしたでしょうか。
  203. 中曽根康弘

    中曽根証人 裸のつき合いというのはどういう意味であるかわかりませんが、私の記憶では、河野先生の脱党のときに会ったのが初めてであったように私の記憶に残っておるのです。
  204. 鳥居一雄

    ○鳥居委員 ここに「滬友」というある雑誌がございます。そしてこの中の著者と児玉との関係についてさまざま述べられているのですけれども、その中にこういう一文がございます。「ロッキードの中心人物児玉譽士夫から三四年前、」これは昭和三十四年それ以前に「赤坂の千代新でご馳走になった折、彼が私の耳元で中曽根康弘と一緒にサウナに入った話をしていたことがあるが、影佐と私、児玉中曽根の場合、いづれも男が裸で付合おうというときには、一緒に風呂にでも入ることが男の儀式になっているみたいだ。」こういうくだりがある。こういうことはございませんですか。
  205. 中曽根康弘

    中曽根証人 サウナへ行ったことはあるのです。そこでぶつかったことはあるのです。それも、たしか三十六年以降、つまり池田内閣ができて河野さんが分裂するというとき以来顔を知って、それから新橋にちっぽけなサウナがありまして、そこで年に三、四回ぐらいですか、二、三回ですか、たまたまぶつかるということはありました。まあ、両方着物を脱ぎますから、裸のつき合いということになるかもしれません。(笑声)
  206. 鳥居一雄

    ○鳥居委員 全日空トライスター機種決定につきまして、あなたは何ら関係していなかったでしょうか。
  207. 中曽根康弘

    中曽根証人 関係しておりません。
  208. 鳥居一雄

    ○鳥居委員 四十七年の十月三日、全日空トライスターの機種決定発表に関して何らかの関係はなかったでしょうか。
  209. 中曽根康弘

    中曽根証人 全くありません。
  210. 鳥居一雄

    ○鳥居委員 あなたは、この十月三十日、いわゆる機種発表でありますけれども、この時点で児玉譽士夫本人あるいはその関係筋、これと電話あるいは何らかの連絡をとっておりませんか。
  211. 中曽根康弘

    中曽根証人 全くそういうことはございません。
  212. 鳥居一雄

    ○鳥居委員 次に、昭和四十七年、田中・キッシンジャー会談が八月の十九日軽井沢で行われております。御記憶を呼び起こしていただきたいと思うのです。この八月十九日の田中・キッシンジャー会談、突然キッシンジャーの訪問を受けることになったわけでありまして、調査によりますと、その前日午前零時ベトナムから急遽日本を訪問する、こういう形でキッシンジャーが来ております。そして、参りますと、八月の十九日午前九時半から田中との会談が始まっているわけですけれども、この日早朝七時半、田中別邸をあなたは訪ねられておりますね。その点いかがですか。
  213. 中曽根康弘

    中曽根証人 訪ねております。それは、——申してよろしいですか。(鳥居委員「はい」と呼ぶ)田中さんが軽井沢に初めてそのとき来られましたが、私はおやじの貸し別荘がございまして、その一つをおやじが私にくれたもので、そこに行っておりました。それで田中さんが初めて軽井沢においでになった朝でありますから、歩いて百メーター以内の近くです。そこで、まあ近所に来たわけですから、総理のところにあいさつに行くということが一つ。もう一つは、キッシンジャー氏と初めてお会いになることでございますが、私はハーバード大学におきましてキッシンジャーと長い間一緒におったことがあります。つき合いも長いつき合いで、キッシンジャーという人はこういう癖を持っておる、会うときには相当はったりもかますぞ、相手は。あの人はユダヤ系のドイツ人でありますけれども、なかなか粘っこいところもある。そういう性格上のこともあるので、そういう性格をのみ込んでお話し願うということと、それから大事なことは、先ほど申し上げましたが、井上公益局長アメリカへ派遣しまして、濃縮ウランの確保について約三億二千万ドル分の確保が大体できたという報告を聞いて、そしてさらにアメリカとのジョイントベンチャー、濃縮ウラン製造工場の合弁会社をつくろう、それで八〇年以降の濃縮ウランを確保しようと、実は必死だったのです、そのことで。それにはキッシンジャー氏が来たから非常にいいから、それを詰めてくれ、そして、できたら共同コミュニケの中にも載せてもらえば、これで日本はかなり安心できる、そういう話をたしか田中さんのところへ行って私は話したと思うのです。その話は実って、あの田中・キッシンジャー、田中ニクソン会談の後のコミュニケの中の一部に、合弁工場をつくることを検討するというふうに載せられました。私は、それは非常に効き目があったのではないかと思っております。
  214. 鳥居一雄

    ○鳥居委員 田中・キッシンジャー会談の前後で、あなたとキッシンジャーは会われていますか。
  215. 中曽根康弘

    中曽根証人 会っておりません。
  216. 鳥居一雄

    ○鳥居委員 電話等の連絡はございましたですか。
  217. 中曽根康弘

    中曽根証人 全くございません。
  218. 鳥居一雄

    ○鳥居委員 私は、八月三十一日、九月一日と、ハワイ会談が行われたわけですけれども、緊急輸入の品目の中に航空機が入ってくる、そしてその航空機導入が一体どの時点で出たのか、この点について大変疑問に思うわけです。さかのぼりまして、箱根会議の直後に表敬訪問ということでありますけれども、エバリー通商代表中曽根氏が会われた、その中で航空機についての導入、これを非常に熱心に取り込むという、そういう意味の報道がなされておる点、それからもう一つは、作業部会をつくって積極的に進めていくことにしましょう、こういうことが実はあるわけなんですけれども、この点についてはどうでしょうか。
  219. 中曽根康弘

    中曽根証人 私とエバリー氏の会談では航空機の話は出ておりません。これは先ほど申し上げたとおりで、通産当局もあのころのことをいろいろ調べてもらって、それを確認しております。小松次官等が出席して一緒におったわけです。  それから、もう一つは何でしたっけ。(鳥居委員「作業部会」と呼ぶ)作業部会をつくるという話はもちろんございません。したがって、作業部会をつくったことも、その後ございません。
  220. 鳥居一雄

    ○鳥居委員 ひとまず終わります。
  221. 原健三郎

    原委員長 次は、池田克也君。
  222. 池田克也

    池田(克)委員 公明党の池田でございます。  きょうは、ロッキード事件の真相を解明する、こういうことで証人においでいただいていると思うのですが、国民がこの事件に疑惑を抱いている。それは確かにコーチャン回想録の中に出てくる十月五日の電話というのが一つの焦点かもしれませんが、その背景に、いわゆる自民党の派閥、今回解消されたと伝えられておりますけれども、その派閥、さらにそれをめぐる総裁選挙、そして選挙と、こういうような一つの構造、まあ政・官・財の癒着と言われておりますが、そういうような構造というものが大きな関心事になっているのではないか、私はそういう点で証人の御発言を求めたいと思うのであります。  午前中の御証言を伺っておりまして、中曽根証人が、その手も魂も汚れていない、断じてやましいことはないと、こういうふうな御発言でございまして、むしろ疑惑を抱く者があるとすれば抱く方が間違いだ、こういうふうに伺ったわけでありますが、午前中、あなたの資金的援助者として萩原吉太郎氏の名前が出ました。また田中・福田自民党総裁選に当たって、あなたのまことに清潔そのもの、政治家としての所信と行動というものに触れられたわけでありますが、その総裁選挙について金銭の授受というものは一切なかったんでしょうか、お伺いをしたいと思います。
  223. 中曽根康弘

    中曽根証人 ございません。
  224. 池田克也

    池田(克)委員 この問題は、ロッキード事件をめぐる一つのグルントとして御承知いただきたいのですが、実は、ある週刊誌でございますが、萩原吉太郎氏の特別寄稿が載せられております。(発言する者あり)週刊誌にもいろいろありましょう。この萩原吉太郎氏の手記の中で、「あのとき中曽根は、田中から七億のカネを渡されたという話があった。中川が、そのことをある週刊誌に語っているのだが、七億かどうかは別にして、カネが渡されたといわれている。雑誌のインタビューをうけたわたしは、「オレは少なからず政治家とつき合ってるけど、いかにカネがあり余っているとはいえ、七億などというカネをやるバカはいない」と答えた。そういってもらえば、中曽根は助かるのである。」こういうような節があります。「わたしは、結局は、中曽根派は福田にくると思って、その場で現金一千万円を渡した。」萩原吉太郎氏がはっきりとみずからの手記の中で、あなたに総裁選をめぐって一千万渡した、こういうことを言っていらっしゃるのでありますが、いかがでしょうか。
  225. 中曽根康弘

    中曽根証人 そのことは、たしか四十七年の二月ごろだったと思いますが、野田武夫先生から、萩原さんが応援したい、あるいはおまえとよりを戻したいというような話がありまして、一回萩原邸へ行ってみないかという話がありました。私は、先輩の野田先生のおっしゃることですから、では一緒に伺いましょう——例の四十三年の佐藤三選のときに私らは拒絶して以来、萩原さん、永田さんとは、資金援助も絶たれたし、そのままになっておったわけです。しかし、先輩の野田先生がそうおっしゃるのですから、伺いましょうというので、お宅へ伺いました。それで、総裁選の話は余り出ませんでした。しかし、私は、萩原さんは福田さんを応援しているということは情報でも聞いておりましたから、非常に注意しておったわけです。それで、総裁選でいろいろお金も要るでしょうというような話もありまして、萩原さんが、たしか家を売ったか何かで金が少しあるから持っていってもいい、そういうことで、金額は確かめておりませんが、たしか千万円ぐらいの包みみたいなものを出されたのです。私は、しかし、ここで萩原さんからいただくことがいいか悪いか、これが総裁選や何かに響くと義務を感じなければならぬ、そういう気がしまして、御好意はまことにありがたいし、もし将来必要な場合にはお願いするけれども、この場では私はいただくのはちょっとちゅうちょいたします、そういうことを申し上げたか、そういう気持ちがしまして、私はそれに手を触れないで帰ったのです。野田先生は後にお残りになっておりました。あるいは野田先生がお受け取りになってお帰りになったのではないかと思うのです。  それで、その事実ありやなしやをその後いろいろ調べてみました。そうしましたら、その萩原さんのところへ新政同志会という名前で一千万円の受取が出ておったようです。しかし、われわれの方の政治団体は新政治調査会というので、そういう政治資金の受け付けというのは私の場合はみんな新政治調査会でやっておる。それが、新政同志会というものを政治団体に届け出たのはそれからずっと後のことであって、そういう名前でそういう領収証が出ておったということは後で聞きました。その点は、一千万円受け取ったということは私自体は関知しておりません。
  226. 池田克也

    池田(克)委員 萩原氏がこのように公にしていらっしゃること、しかし証人はこれを受け取っていらっしゃらない、こういうことでありますので、このことはまた別の機会に明らかにしなければならないと思うのです。(発言する者あり)
  227. 原健三郎

    原委員長 静粛に願います。
  228. 池田克也

    池田(克)委員 証人は、殖産住宅の東郷社長と近しい、このようにいろんな方面で公表されておりますし、けさもお話が出ましたが、東郷社長と現在どういうような御関係でいらっしゃるのでしょうか。
  229. 中曽根康弘

    中曽根証人 東郷君とは旧制静高時代の同窓で、友人としてつき合っております。その後、現在は別にお互いが交通し合っているという関係ではございません。
  230. 池田克也

    池田(克)委員 この殖産住宅の裁判が三月三十一日に公判を迎えたわけであります。この中で中曽根証人のことについて幾つかの指摘が出たわけであります。私は、いろいろと表をつくって時間的なつながりぐあいを調べてみたわけでありますが、昭和四十七年の十月の五日、いわゆるコーチャン電話をかけた、コーチャン依頼を受けて児玉被告電話をかけたと言われるその明くる日、つまり十月の六日に五億円という金がイリワダさんという証人秘書と言われる方のところに一たん入っている。この金は後に出されたそうでありますが、そういうようなことはありましたでしょうか。
  231. 中曽根康弘

    中曽根証人 それはイリワダではなくて上和田と言うのです。そういうことは聞いております。しかし、そのいきさつを申し上げますと、東郷君が自分の株を、自分の会社を防衛するためにいろいろ人の名前を、名義を借りて口座をつくって株式の売買をやったようです。私の同級生もずいぶん名前を使われてやられたようです。それで私の上和田秘書も東郷君に呼ばれて、こういうわけでみんな同級生も名前を貸しておるのだから、おまえのおやじというわけにはいかぬからおまえ貸してくれ、そう言うので、ほかの旧制静高やそのほかの同級生の名前、みんな使ったというので、結構でしょうとそう言って、彼は承知して帰ってきたそうです。しかし、それで判こも見なければ通帳も見たことはない。そういう了承を得たので、東郷君が自分の所存でいろいろ操作をし、取り扱いをしたのではないか、そういうように思います。
  232. 池田克也

    池田(克)委員 その日にちが近いということ、そしてまたその金が要らないということでお金が入ってない。私もいろいろ調べておるうちに、何かはかからお金が入ってきて急にそのお金が要らなくなったのじゃないかな、当時総選挙も近いという時期でございました、そういう点で私は、重ねてその事件というものがやはり今回のロッキード事件を究明していく上に意味を持つんじゃないか、こんなふうに思っているわけであります。  この四十七年の三月の段階に、東郷社長とあなたがお会いになった際に、総裁選に出るので二十五億お金が要る、殖産住宅が株を公開するに際して金を出してくれる人がいるので、それを運用して資金をつくってほしい、こういう話を持ちかけられた、このことが伝えられておりますが、その経緯について説明していただきたい。
  233. 中曽根康弘

    中曽根証人 東郷君は私の旧制静高の同級生で、仲のいい間でありました。それで、あなたも御存じのように、旧制高校の友達というものは非常に仲のいい、青春の夢をともにした間柄で、それを非常に大事にしておる仲であります。特に私たちの場合は、寮に——大体三年になるとみんな東大を受けるので、寮を出てしまうのですけれども、寮を守ろうというので十三人が残って、そして最後まで寮におって、それから卒業間際に、そのうちの一人が家が没落して学費が出なくなった、みんなで月五円ずつ出して助けてあげようじゃないか、本人もアルバイトをする、そういうことでずっと大学時代、月五円ずつわれわれみんな集めてお金を出し合ったという、そういう間柄でつき合いをしてきたわけです。  東郷君は殖産住宅をやっておりましたが、私が通産大臣になるころから非常に接近してまいりまして、そしておまえを応援する、同窓会やクラス会があるたびに、おまえあんなに金持ちになって中曽根を応援しないのはひどいじゃないか、もっとやれとみんなに威勢つけられて、おれもやるよやるよ、そう言っておりました。私も、ぜひ頼む、一朝有事の際には頼みますよと真剣に実は頼んだことは事実であります。それで、たしか木部君のお祝いのときに、大ぜい人がおったその中で、応援を頼む、何か上場するというお話だけれども、その際に多少でももうかればおれの方の政治資金を応援してくれよ、同窓生のことだからそんなことも頼んだ記憶があります。その後、ある人が私のところに来まして、殖産の株が上場されるについては利益が出るはずだ、それを自分も買いたい、しかし自分の名前を出すのはまずい、あなたの名前で東郷君に頼んでみてくれないか、そういう話がありまして、じゃ頼んでみてあげましょうというので、東郷君にその話をしまして、どれくらい買うのかと言うから、たしか二十億でも三十億でも多々ますます弁ずだ、そういう話だと言って別れました。その後会ったときに、一体だれがそういうことを言ってきているのかということだから、これこれの人だと言ったら、それはだめだ、それはおれの会社をねらっているやつだ、だからだめだ、そういうことでしたから、そのことを先方に伝えてその話はおじゃんになったわけです。  しかし、一方、東郷君は私のために同級生として応援してやろう、そういう気持ちがあったと思います。それと同時に、また自分の会社を守ろうという気持ちも間違いなくあったと思います。それで、私のために彼が独断でいろいろ取り計らってくれたのではないか、私からも一朝有事の際に頼むと言っておるのですから、一朝有事といえば、これは新党をつくるとか、総裁公選とか、全国に政治活動を起こすとか、そういうことが当然入るわけでありますから、そういう意味で東郷君もそういう自分の算段で努力はしてくれたのではないか、そう思います。
  234. 池田克也

    池田(克)委員 要するに、派閥というものがお金を要する、先ほど来ここに出てまいりました萩原さんのお話もありますけれども、結局、そういう絡みの中で、株の操作、そこに選挙資金を見出す、そういうような活動をしてくる、この活動の集積の中にいわゆるフィクサーと言われるような児玉氏の存在が出てくる。私たちはそういう意味で、自民党の首脳の方々が児玉から頼まれて動かざるを得ないという、そういう状況というものが次々と出てきていたのではないか、そういう疑いを持つわけであります。  先ほど、午前中の質疑の中でも出ておりましたが、証人児玉氏としょっちゅう会っていなかった、にもかかわらず、大変親しい東郷さんを会わせた、これはやはり何か大きな意味がある、そしてそうせざるを得なかった借りがあったのじゃないか、私はそういうような気持ちを持つわけであります。この点を解明していただきたい。
  235. 中曽根康弘

    中曽根証人 そういう関係は全くございません。  東郷君が、自分の会社がねらわれている、それで上場について大量に株が買われる危険がある、そういうことを彼は非常に心配しておったと思います。そこで、彼自体としては自分の会社の防衛のためにいろいろ苦労もし、算段もしたのであるだろうと思います。そのことと児玉氏との関係というものはないのです。それは東郷君が会社を乗っ取られる危険性を感じて、児玉氏の下部の連中、総会屋とか何かかもしれません、連絡を頼んだらしいです。そんな話を私にしまして、そして上の大物に会いたいような気配でありましたから、何しろ同級生の親友のことでもありますから、それじゃおれが児玉氏に頼んであげよう、会ってみなさい、そういうことを私は言うたです。それで、たしかそれを大刀川君に東郷君がこういう希望を持っているというようなことを連絡したのかもしれません。それで、会ってもいいという話であったので、たしか私が、これは東郷君のことだから、それに、児玉氏に人を会わせるというのは初めてぐらいの経験だったと思います。そこで、これは親切に懇切にやらなければいかぬと思って、たしか電話をかけて、そして東郷君が会いたいというが会ってくれるか、それじゃいつ都合がいいかというようなことで、「千代新」であしたかあさって会っていいという、そんなことだったと思いますね。私は東郷君に、こういうことだから会ったらいいでしょう、そういうことで、私も紹介した以上は、電話のしっ放しで私が立ち会わないというのは非常に失礼だから、もし時間があれば行きますよ、そう言って、会を済まして、終わり際に駆けつけて、二人のいるところへ入っていって、同級生だから東郷君をよろしく頼む、そういうように頼んだのです。あの一部の新聞記事によると、そのとき私と児玉氏が、何かあっちは大丈夫とかなんとかというような話をしたという記事が載っておりますが、全くそれはございません。  それから、児玉氏が私を中曽根君と言い、私が彼を先生と呼んだと東郷君の言葉が載っていますが、それは全くございません。あの記事にもありますように、上座が一つあけてあったと書いてあります。私の席だったらしいです。上座に据える人間を君づけするような立場にはないはずであります。  それから、その後東郷君が私に会って、それで、おまえは裏切ったなとか言って、私がうろたえたというような記事が載っておりましたが、それは全く偽りであります。むしろ東郷君が、済まなかった、そういうことを同窓を通じて私のところへ言ってきておるのであります。
  236. 池田克也

    池田(克)委員 こういうようないきさつを伺っておりますと、やはり何かあるという、そういうような一般国民の気持ちというものが出てくる。(発言する者あり)
  237. 原健三郎

    原委員長 静粛に願います。
  238. 池田克也

    池田(克)委員 いまお話が出ました問題でも、たとえば株の乗っ取り、殖産住宅を乗っ取ろうとしているようなそういう動きがあった、ここではその名前は私は差し控えますが、その人は日本電建の関係の方であった、こういうことを私たち調べているうちに出てまいりますと、当然そこに小佐野氏との関係、そうして今回のロッキード事件の背景というものが出てきてしまうわけです。  私はそういう意味で、派閥絡みの自民党の動きというものが、このロッキード事件の渦中にあって国民に疑惑を非常に持たせてしまった、これをはっきりさせていかなければこの問題の真の解明はない、私はそういうふうに考えるわけです。(発言する者あり)
  239. 原健三郎

    原委員長 静粛に願います。
  240. 中曽根康弘

    中曽根証人 私はいままで自分の知っている限りのことは正直に申し上げたつもりで、その間に財界人や、私、政治家中曽根康弘との関係にやましいことは一つもなかったと私は思います。  それから、東郷君との問題にいたしましても、旧制静高とか旧制高等学校あるいは大学その他の同窓の間というものは特別の関係です。みんな青春の夢を抱いて、友情を抱いていま社会に出ておるのであって、みんな定年も過ぎて人生も終わりになるというときに、それを壊したくない、お互いの友情を。みんな夢とロマンを持っているはずですよ。それを、東郷君がいかなることを言おうと、私がそれについて一々抗弁したり弁解をしたらみんながいやな、不愉快な気持ちになる、当時の同級生が。そういうわれわれはやはり青春の夢、われわれの人生の交わりというものを大事にしたいという気持ちが私らはあるのです。そういう意味で弁解を一言もしなかったのです。しかし、いまはお尋ねがありますから、全国民の皆さんに私の心情だけは申し上げておかなければならぬと思って申し上げた次第です。
  241. 池田克也

    池田(克)委員 先ほど伺った萩原氏のお金の問題は、もう一遍重ねてお伺いをしますけれども、受け取っていらっしゃらないのですね。
  242. 中曽根康弘

    中曽根証人 私のところには断じて来ておりません。
  243. 池田克也

    池田(克)委員 そうしますと、ここに載せられている手記はいいかげんなものである、こう考えていいのでしょうか。
  244. 中曽根康弘

    中曽根証人 その記事について私は責任を持ちません。
  245. 池田克也

    池田(克)委員 終わります。(発言する者あり)
  246. 原健三郎

    原委員長 私語を禁じます。  大内啓伍君。
  247. 大内啓伍

    ○大内委員 民社党の大内啓伍でございます。午前中からの緊張の連続でお疲れだと思いますけれども、もう少しごしんぼういただきます。  昭和四十七年の七月七日、証人通産大臣に就任した当時でございますが、このときの日米関係の重要問題の一つは、言うまでもなく、ドル防衛、つまり日米の貿易不均衡の是正という問題が非常に大きかったと思いますが、いかがですか。
  248. 中曽根康弘

    中曽根証人 そのとおりでございます。日米関係が非常にそのために悪くなってまいりまして、この問題をいかに改善するかということが政治の最大問題の一つでございました。
  249. 大内啓伍

    ○大内委員 日米首脳会談が行われました直後に鶴見・インガソル会談の合意事項が発表されました。これは証人も御存じだと思うのであります。——ちょっとお待ちください。そこでは、日本の民間航空会社はアメリカから三億二千万ドル相当の大型機を含む民間航空機の購入を計画中である、これらの発注は四十七年度、四十八年度になされることとなろう、こういう方針が確認されたわけでございますが、これはアメリカのドル防衛に対する日本の協力の一つの答えであった、こういうふうに理解してよろしゅうございますか。
  250. 中曽根康弘

    中曽根証人 そのようなものであろうと思います。
  251. 大内啓伍

    ○大内委員 そういたしますと、この緊急輸入というのは、事の性質上、当然通産大臣の重要な所管事項であった、こういうふうに思われます。機種の選定という問題は別でございますが、当然この緊急輸入という問題は通産業務の重要な問題だったと思いますが、いかがでしょうか。
  252. 中曽根康弘

    中曽根証人 一般的な輸出輸入の問題は通産省の所管でございますけれども、具体的にどういうものを輸入するかということは、農林とか大蔵とか運輸とか各省担当事項がございまして、それが分担されているわけであります。
  253. 大内啓伍

    ○大内委員 しかし、通産大臣といたしまして、ドル防衛の協力という問題は大変大きな問題でございましたから、その内容も含めてこの問題については重大な関心を持っておられた、こういうふうに理解してよろしゅうございますか。
  254. 中曽根康弘

    中曽根証人 品物の個々の物、一つ一つの問題よりも、日本側が三十五億ドル程度になると言うのに対して、アメリカは四十億ドルを超すと言っておった日本黒字をどうして二十億ドル台に減らすか、数字を約束どおり実行する、そういう点に私たちの最大関心がありまして、個々の物資の問題は、各官庁財政当局と話をして技術的に決める問題であったわけであります。
  255. 大内啓伍

    ○大内委員 しかし、たとえば九月一日の日米首脳会談、ここで日本緊急輸入についてアメリカに対するドル防衛の協力をやろうとする場合に、中身が必要でございますね。総額だけの問題じゃなくて、大体こういうものは買おうではないか。だからこそこういう合意議事録におきまして、民間航空というものについて、三億二千万ドルの大型機を含む民間航空機の購入を具体的に合意したわけでございますね。ですから、日米首脳会談の段階では、当然その中身はもうはっきりしていたわけですね。そうしますと、この日米首脳会談、つまりハワイ会談も、航空機緊急輸入を含む日本としてのドル防衛協力の主題であった、こういうふうに理解してよろしいですね。これはあたりまえですね。
  256. 中曽根康弘

    中曽根証人 緊急輸入の中の主題は、農産物、濃縮ウラン、それから航空機、そのほか、ニッケルとかコバルトとかガスタービンとか、そういういろいろな諸般の物資があったと思います。
  257. 大内啓伍

    ○大内委員 航空機もその一つでございましたね。
  258. 中曽根康弘

    中曽根証人 もちろんそうであります。
  259. 大内啓伍

    ○大内委員 ここで実は田中氏の冒頭陳述におけるいろいろな記事が問題になってくるわけなのでございます。ハワイ会談の後、当時の田中総理は、砂防会館の事務所に小佐野氏を呼びまして、ハワイに行ったとき、ニクソンからトライスターにしてもらったらありがたいと言われたと言いまして、それを全日空に伝えるように依頼し、そして小佐野氏はこれを全日空の渡辺副社長に伝えたという冒頭陳述がございますが、ハワイ会談におきまして当然その航空機を含む緊急輸入の問題が話されておったわけでございまして、この話は非常に符合するのでございますが、こういうことについて何かお話がございましたか。
  260. 中曽根康弘

    中曽根証人 ハワイ会談が終わりましてから、田中総理閣議で大体の模様をお話しになったと思います。しかし、うまくいった、ニクソンとがっちりやってきた、あの人のことでございますから、そういう非常に威勢のいいお話があって、そういう個々の具体的な話はなかったし、私は個別的にもそういうことは聞いたことはございません。
  261. 大内啓伍

    ○大内委員 さきの鶴見・インガソル会談は、私わざわざ中身を読みましたが、これは民間の航空機大型機を含む三億二千万ドルの購入という問題なのですね。これについて日米の出先が合意しているのでございます。それは、言うまでもなく首脳会談を経て合意しているのですね。そうしますと、この鶴見・インガソルの合意事項というのは、問題の性質上、まず時の総理、それから通産大臣あるいは運輸大臣、農産物関係においては農林大臣も含むのでございましょうが、当然それらの方々がその内容について理解し、もしくは了解していなければそういう合意はできませんですね。したがって、通産大臣は当然その中身について御存じであったはずですね。いかがですか。
  262. 中曽根康弘

    中曽根証人 大型航空機が中に入るであろうというようなことは、あるいは当時知らされておったかもしれません。しかし、私の記憶には明確に、何と何と何が、いつ、どういうふうに決められたという記憶は、いまのところはございません。私の記憶にあるのは、八月十五日に関係各省局長が集まりまして、田中さんが行くについて話を煮詰めよう、そして積極的に努力しよう、そういう相談をしたことは間違いありません。その後、二十二日ごろの閣議閣僚会議で、督促して早くまとめさせようという話があったような記憶もございます。しかし、アメリカへ行かれる前にこれこれの品物で完全にセットした、そういう報告を私は受けておりません。その記憶はないのです。恐らくこれは、内閣官房あるいは審議室と外務省の鶴見審議官のサイドで最終的な腹構えや案というものを決めて、それをお持ちになってハワイへ行かれたのではないか。各省は、各省の分担分だけについては知っておった。私の方は、濃縮ウランとか、そういう問題については知っておりました。ほかの省のことは、私は余り関知していないような気がしております。
  263. 大内啓伍

    ○大内委員 しかし、いま八月十五日の問題が出ましたが、中曽根証人は、その日に経団連におきまして、エアバス輸入の必要性をお話しになっておられるのですね。ですから、首脳会談において、その緊急輸入の中に当然エアバス等の航空機を入れるということ自体について、当時の中曽根通産大臣としてははっきりした御意向を持っていたのじゃございませんか。
  264. 中曽根康弘

    中曽根証人 それは、八月の初めごろから各省アイデアを持ち寄った中にいろいろなものがありまして、通産省濃縮ウランだとか石炭だとか、農林省は飼料をもう五千万ドルふやすとかふやさぬとか、いろいろそういうものを持ち寄った、その中にエアバスというものが登場した。それは運輸省側から出てきたものだろうと私は思います。そういうごった煮みたいにいろいろなものが入っていた中に航空機があったと私は思うのです。それから救難用ヘリコプターもたしかあったという気がしております。その中で大口なものは何であるかということを考えてみると、われわれの方の濃縮ウランと、農林省の飼料そのほかの農産物と、飛行機と、それから防衛庁関係ではなかったか、そういうように記憶しておりまして、そういうものの話を私は経団連でしたのではないかと思います。  しかし、経団連でした私の話の中心は、日中貿易の問題なのです。田中さんが行って日中をやるだろう、それについては日中長期貿易協定をやりたい、そして日中間に物資交流を円滑にする手段を講じたい、そういうことを私は言いまして、田中さんが行った後で、できたら私が渡っていって日中貿易協定をやりたい、特に石油とか石炭とこっちのプラント類との交流を実は頭の中に考えておりましたものですから、そっちの話と、それから景気対策の話を特にやったと思います。そして補正予算を組んでもう少し景気を浮上しなければいけない、そういう景気対策の話と日中問題の話が中心であって、いまの品目やその他の問題を特に強調したという記憶は余りございません。
  265. 大内啓伍

    ○大内委員 私に与えられました時間は二十五分間でございますので、お伺いした点をできるだけ端的にお答えいただければありがたいのでございますが。  九月一日の日米首脳会談を前にして、ドル防衛協力のための緊急輸入品目の詰めというのが各段階で行われることの方があたりまえでございますね。それで、その詰めというのは、日にちをずっと見てみますと、なるほどなと思うようなあれがたくさんございます。たとえば八月の三十日、これは首脳会談の直前でございますが、田中首相と佐々木運輸大臣が会談を行っておる。これは当然航空機の詰めはやっていると思いますが、これは他省のことですから、おわかりにならないと言えば当然ですが、長い間の閣僚の経験者としては推測がつくことだと思います。どうでしょうか。
  266. 中曽根康弘

    中曽根証人 ほかの省のことはわかりません。
  267. 大内啓伍

    ○大内委員 八月二十六日、田中首相中曽根通産相との会談が行われておりますが、これはやはり首脳会談の直前でございますが、ここでは航空幾の輸入の問題は話されましたか。詰めでございますから、話されたと思いますが。
  268. 中曽根康弘

    中曽根証人 話しておりません。  その場合は、先ほども申し上げましたように、井上公益事業局長アメリカに派遣いたしまして、濃縮ウランの確保の問題を必死にやらせたわけです。一九八〇年までの確保がまず第一。それで井上君が成功しまして、その情報が入ってきた。それからもう一つは、八一年以降の濃縮ウランの手当てができていない。アメリカ濃縮ウラン工場の設備がもう古くなって全世界の需要に応ぜられない情勢になっておった。しかし、アメリカはドルがなくて、自分でつくる力がなかったわけです。そこで、日本が合弁会社でお金を出しますから、濃縮ウラン工場をつくって——いわゆる第三工場と言っておりました、これをつくって、日本固有の権利として濃縮ウラン日本で確保して、八〇年以降の日本の原子力政策に対応しておこう、そういう長期政策を私、持っておりまして、それを井上君にも非常によくやらせたのです。それで、そのことが非常に大事だから、日米首脳部会談の中でそれを取り上げてもらいたい、できたらコミュニケの中に入れてもらいたいという希望を非常に強く持っておりました。それを私は特に田中総理にお願いしたように思いますし、それはコミュニケにもとうとう載ることができたわけであります。
  269. 大内啓伍

    ○大内委員 中曽根通産相の主たる関心が濃縮ウランであったということは再三わかりました。しかし、私どもがいま問題にしておりますことは、そういうこともあったでありましょう、しかし、中曽根通産大臣そのものがエアバスの輸入の必要性を少なくとも経団連において言及されておることは事実でしょう。事実でないのでございますか。さっきいろいろ説明がございましたけれども、言っておられるでしょう。
  270. 中曽根康弘

    中曽根証人 各省からアイデアとして出てきた品物の中にそれが載っておりますし、恐らくそのころ鶴見審議官あるいは内閣官房審議室で——総合調整したのはその三つの部局でありますから、われわれの方はわれわれの省の分担分をやるだけであります。通産省といいましても、これは通商政策一般をやるのであって、個々の具体的な物資についてはその所管官庁財政当局が話し合って決めていくものなんです。特別会計も要りますし、行政指導も要りますから、それらは権限を持っている官庁がやることになっている。それをまとめるのが内閣官房であり、あるいは審議室であり、あるいは外務省の鶴見審議官が経済担当としてやった。そういうことであって、われわれの方は、ほかの省のそういう航空機とかあるいは農林省の飼料の中身をどうするとか、そういうようなものについては関知はしていない。しかし、情報としてそれは聞いておって、こういう品物も入っていますということはたしか申し上げたと思います。
  271. 大内啓伍

    ○大内委員 少なくともそういうエアバスの輸入の必要性について通産大臣が言及されていた、これはまず間違いないと思うのでございます。  そこで、たとえば八月二十九日には、ロッキード社コーチャン氏は、全日空トライスターを購入することになろう、日米ハワイ会談にわれわれは期待するという発言をなされておりましたが、これは御承知でございましたか。つまり、通産大臣をされていた中曽根証人がエアバスの輸入の必要性を強調された一週間ちょっと後の発言なのでございますが。
  272. 中曽根康弘

    中曽根証人 そんな記事があったということはうろ覚えに覚えておりますが、もちろん関心は持っておりません。
  273. 大内啓伍

    ○大内委員 それでは、経団連で中曽根通産大臣がいまのエアバスの問題に触れたちょうど一週間後の八月二十二日に、佐々木運輸相は、エアバスの輸入について言明をいたしまして、エアバスは十六機輸入する、大体三億ドルちょっとだろうというお話をされておられますが、これについては何か意見の交換はございましたのですか。
  274. 中曽根康弘

    中曽根証人 全くございません。それは日本官庁機構をお調べ願えればわかることでありまして、日本官庁ぐらいなわ張りの激しいところはないのです。それで、自分の所管事項というものは絶対離しもしないし、またほかの省に連絡したり情報を明かすということはやりません。自分で握ったことは絶対離さない。そういうようなのが日本官庁である。それから、下で積み上げたものが最終的に次官会議で決まって、決まったものはもう大臣は文句を言わない、悪く言えば盲判を押すというようなのが大物大臣のやることだ、日本官庁の悪いところでありますけれども、大体そういう流れで間違いなく流れてきておる。この問題につきましても、運輸省が所管でおやりになっていることで、われわれの方は、通産省として対等、並列している役所であって、上にある役所じゃございませんから、そういうことは関知しません。
  275. 大内啓伍

    ○大内委員 それは大変悪い官庁でございまして、直す必要があると思います。  八月四日の対外経済閣僚懇談会におきましては、中曽根証人は佐々木運輸相に対してエアバスの輸入要請をされていると書かれておりました。先ほど来これは不正確だというような趣旨のことがございましたのですが、それらのこともいろいろ言ったのでございましょうが、閣議でそういうことを発言したということは間違いないとさっきおっしゃいましたね。それは事実ですか。確認しておきたいのですが。
  276. 中曽根康弘

    中曽根証人 閣議であったか閣僚協であったかよく記憶に残っておりませんが、ともかく私が、農林省、それから通産省自分が一生懸命やっておる、運輸省、防衛庁、その他関係各省思い切って繰り上げてくれ、それからできるだけふやしていただきたい、そしてこの際日米関係緊迫している状態を緩和したい、積極的に御協力願います、そういう抽象的な発言はいたしております。
  277. 大内啓伍

    ○大内委員 先ほど、民間機緊急輸入について田中首相と個別的、具体的に話し合ったことはない、午前中そういうふうにお答えになっておりましたのですが、それでは航空機輸入という問題についてはお話しになりましたか。つまり個別的、具体的ではなくて。
  278. 中曽根康弘

    中曽根証人 田中首相と話したことはありません。しかし、閣議各省からいろいろ品物の話なんかが多分出たかもしれませんが、そういう一般的な閣議の一員として話を聞いたということはあります。田中首相航空機の問題で一般的にも具体的にも話ししたことはありません。
  279. 大内啓伍

    ○大内委員 そうしますと、これは相当の外貨を必要とする、つまり三億二千万ドルの巨額な外貨を必要とする緊急輸入について、総理通産大臣というのはこういうことは全く話し合わないのですか。これはしかしドル防衛の重要な中身じゃございませんか。そして中曽根通産大臣としてはその問題に一番大きな関心を持っておられた。そして、その関心は、額であって、中身についてはないのだと言う。これは何かつじつまが合わないのじゃないですか。
  280. 中曽根康弘

    中曽根証人 田中総理とは話しておりません。恐らくそういうようなものは内閣官房あるいは審議室あるいは外務省筋でやっておったのではないかと思います。
  281. 大内啓伍

    ○大内委員 そうしますと、七月の二十九日の中曽根エバリー会談及びそれに続く田中総理エバリー会談、いずれにおいても航空機の話は一切出てないのでしょうか。田中総理エバリー会談についても、当然いろんな形で情報としてあるいは閣議等でそのやりとりが報告されると思うのでございますが。
  282. 中曽根康弘

    中曽根証人 私とエバリー氏との間には出ておりません。田中総理エバリー氏との話は私は存じません。
  283. 大内啓伍

    ○大内委員 しかし、日米首脳会談を前にしてキッシンジャー・田中会談が行われ、そして同じように田中中曽根両氏の会談が行われ、そしてもう目前に迫った日米首脳会談を前にして、その緊急輸入の中の一つの重要な項目について閣僚同士では全く詰めが行われない。そして田中・キッシンジャー会談がある状態の中において中曽根エバリー会談というものが行われ、田中エバリー会談が行われていて、こういう問題は全く話し合わないでぶっつけ本番でやられるわけですか。
  284. 中曽根康弘

    中曽根証人 先ほど申し上げましたように、日本行政機構のいままでの六ターンを見ますと、事務レベルでみんな話し合って、そして下から積み合がってきてそれを閣僚が確認する、そういう形でやっておるのです。この場合も事務レベルでいろいろ樽俎折衝があって、特に物を輸入するという場合には大蔵省と一番関係があるわけです。そういう財政当局主管省がいろいろ話し合って、それを恐らく内閣官房その他で総まとめにしておったので、私たち閣僚はそういう具体的な積み合わせみたいな話には全然タッチしておらないのです。これはあの当時のほかの閣僚にお聞きになってもおわかりになるだろうと思います。事務的に内閣官房やあるいは各省間で話の済んで積み上がったものをお持ちになって、田中総理は向こうへ行かれたのではないか、そう思います。
  285. 大内啓伍

    ○大内委員 田中総理がエアバスの輸入について相当積極的であったことはいろいろな発言でうかがい知れますし、また通産大臣としても当然総理を助けてそれらの問題について総理の意向を実現するように努力された、ということの方が私は自然じゃないかなと思っているのであります。しかも中曽根証人はその当時の緊急輸入の重要性を十分意識されておりましたし、そして同時にそれがこれまでの中曽根通産大臣児玉書士夫氏との関係からいろいろな憶測や疑惑を生んでいることは御案内のとおりです。それが今日の証人喚問という形になったのだろうと思うのです。  そこで、児玉氏との関係について、昨年の八月二十一日の毎日新聞でのインタビューにおきまして、佐藤三選問題以来児玉氏とはけんか別れ、冷戦状態であったというようなお話がございまして、しかも十年の間に二、三回ゴルフをやるだけであった、当時はそういうふうにおっしゃっておられた。そしてその後実は四十八年の三月二十日に赤坂の料亭において東郷氏をはさんで児玉氏と会われたというような記事が載るに従いまして、そういう事実が明らかにされるに従いまして、その冷戦状態で別れ別れであったというところの一角がちょっと崩れたように思うのです。そしてたとえば昭和四十九年の児玉譽士夫氏と読売新聞の渡辺恒雄氏との対談におきましても、中曽根氏は実に人物ができてきた、こういうふうに中曽根証人に対して児玉さんは言っておられまして、どうも冷戦状態やけんか別れにある人がそういう評価をしたり、また途中で会ったりというようなことがありますと、やはり相当深い関係があった。つまり八月二十一日の毎日新聞のインタビューに関する限りは不正確であったということはお認めになるわけでございますか。
  286. 中曽根康弘

    中曽根証人 不正確であって、私の言ったことが十分尽くされていないと思います。  私は先ほど申し上げましたように、四十三年の佐藤三選のとき以来冷戦状態になって、それからさらに四十五年でしたか、三島事件のときに、私が三島さんの行為は防衛庁としては黙過できない、民主主義を守るために糾弾しなければならぬ、そういう声明を発したので非常に怒ったとか言っておりました。しかし、大刀川という書生をしていたのが間に入って非常に困って、そして何とかつき合いはやってくれ、そういう話で来たものですから、普通のつき合いくらいならやってやろう、おまえがそんなに困るならば人間同士だから普通のつき合いはやろう、そういうことで本を彼が書けば贈ってくれるし、また魚がつられれば大刀川が持ってくる、あるいはゴルフも十年間に二回ぐらいはたしかやったと思いますが、そういう程度の個人的つき合いはしておった。しかし、政治家と、相手は右翼と言われる人ですから、私はちゃんと一線を画してつき合っておって、その間公私の別を乱すとか、あるいはやましい関係になるということは断じてありません。この点は政治家として一番厳重に注意しながらつき合ってきたところであり、先方もまたいわゆる国士然としておった方でありますから、そういう点についてみだらなことや変な態度を私にとるというようなことはなかったのであります。
  287. 大内啓伍

    ○大内委員 以上をもって終わります。
  288. 原健三郎

    原委員長 次に、正森成二君。
  289. 正森成二

    ○正森委員 証人児玉譽士夫との関連について伺いたいと思います。  昭和三十七年から四十一年にかけて大刀川を書生として使っておったというお話でございましたが、この生活費とか中央大学へ通う学費は一体だれが出しておったんですか。
  290. 中曽根康弘

    中曽根証人 生活費や中央大学を出る学費は多分うちで出してやっていたと思います。
  291. 正森成二

    ○正森委員 いまそういう証言がございましたが、先ほどの証言の中では、いよいよ昭和四十一年に大刀川が弁護士にならないということであなたの書生をやめることになったときに、妻がボーナスや給料をためておったのを渡してやったら涙をこぼして喜んだというくだりがあるわけですね。ということは、ボーナスや給料を渡しておらなかったということであって、まさか大刀川がもらったものをあなたの奥さんにこれ貯金してくださいと言うはずがないと思うのです。そうだとすると、生活費だとか学費だとかいうほどのものは、これは私の調査では、児玉譽士夫が出している、あなたの方では負担なさっておらなかったけれども、最終的にあなたのもとを離れるに際しては、これは奥さんが陰ながら積み立てておった給料やボーナスを改めて渡してやった、こういう関係だと見るのが自然だと思うのですが、いかがですか。
  292. 中曽根康弘

    中曽根証人 給与は渡していたと思います。それから小遣いもうちの家内がときどき何くれとなく出してやっていたと思います。
  293. 正森成二

    ○正森委員 そういう御証言ですけれども、先ほどの御証言と比べてみて、私は非常に不自然であるという印象を持たないわけにはまいりません。そしてその関係から言いましても、大刀川についてはあなたが預かりましたが、むしろ児玉譽士夫があなたに預けたのであって、そして大刀川に対する影響力は児玉譽士夫が非常に強かったというように見るのが自然ではないかと思いますが、次の質問に移りたいと思います。(発言する者あり)要らぬことを言うな。  昭和四十五年ごろ、あなたは砂防会館にあなたの事務所を移転されたと思いますが、いかがですか。
  294. 中曽根康弘

    中曽根証人 ころはいつだったか忘れましたが、砂防会館に移転したことは事実で、いまもおります。
  295. 正森成二

    ○正森委員 その移転のときに、あなたが河野一郎氏からその支援関係を引き継いだとされる河合良成、それから萩原、永田氏らが「胡蝶」というところに集まって事務所開きの準備などをされたということがございませんでしたか。
  296. 中曽根康弘

    中曽根証人 そういう記憶はございません。四十三年の佐藤三選のときにわれわれが拒絶をしてから資金援助を断たれておった記憶がございまして、たしかお金はいただいていないはずです。中曽根はけしからぬやつだという話を聞いておりました。したがいまして、私たちの事務所開きをやってくださるというようなことは考えられません。
  297. 正森成二

    ○正森委員 あなたの秘書昭和四十五、六年ごろのお名前はだれでございましたか。
  298. 中曽根康弘

    中曽根証人 四十五、六年ごろ秘書は何人もおりましたから、記憶にございませんが。
  299. 正森成二

    ○正森委員 それでは私から申し上げます。上和田という人と小林という人はあなたの秘書でしたか。
  300. 中曽根康弘

    中曽根証人 そういう秘書はおります。
  301. 正森成二

    ○正森委員 それらの秘書関係のある人に聞きますと、あなたは昭和四十五年、四十六年、あるいは四十七年ごろ一週間に一度は児玉の私邸へ行っておられた。その行く日も木曜日に決まっておって、これらの秘書はそれをあなたの児玉もうでであるというように言っていたそうですか、そういう事実はございませんか。
  302. 中曽根康弘

    中曽根証人 それは全くうそであります。私が児玉邸に行ったということは、私の記憶では二回ぐらいです。一回目はたしか、児玉譽士夫氏が緒方竹虎先生とか宮島詠二氏とか三木武吉先生のいい書を大分持っておって、それを見せてくれるというので見に行った記憶があります。もう一回は、私が首相公選を唱えておりましたころ、右翼が非常に妨害しまして、あれは天皇制をないがしろにするものだというのでずいぶん妨害が入ったんです。そのときに、これは児玉氏と話をつけよう、そう思いまして、児玉邸へ乗り込みまして、首相公選論というのはこういうのであると、これこれ、これこれであるから決してそれは妨害するようなものじゃない、そういう説明を彼にして、彼はそれで了解した、そういうことがあります。私の記憶に残っているのはその二つで、毎週行くなんていう、そんなけちな人間じゃございません。
  303. 正森成二

    ○正森委員 あなたが昭和四十六年ごろ、三島事件について非常に直ちに声明を出されたので、児玉との関係が悪くなった。そこで、大刀川が個人的に困るからということで、普通のつき合いをするようになったという意味のことを言われましたが、それに関連して、バーナード・クリッシャーというニューズウイークの東京支社長が児玉譽士夫昭和四十六年と四十九年にインタビューをしておりますが、その中で児玉譽士夫は、三島事件について中曽根がその後長いおわびの手紙を出してきたのでもとに戻ったんだという意味のこと方言っておりますが、その趣旨の手紙をお出しになったことはありますか。
  304. 中曽根康弘

    中曽根証人 おわびの手紙なんか出したことは絶対ありません。
  305. 正森成二

    ○正森委員 それでは、次の質問に移りたいと思いますが、記録によりますと、昭和四十七年一月のサンクレメンテの会談で、田中通産相がコナリー財務長官やスタンズ商務長官と会って、日米貿易問題を一年間凍結しようということを言われたということが広く報道されております。このサンクレメンテ会談というのは、その後の経過を見ますと、佐藤総理の後継者が福田総理であるというのが田中総理にかわられるのについて非常に大きな役割りを果たしたと言われているものでございますけれども、それがその後五月にエバリー氏がやってこられて、田中エバリー会談で七月の通商交渉再開に合意するという、こういう経過があったわけです。そこで、七月七日にあなたは通産大臣になられたわけですが、こういう日米貿易問題について引き継ぎが田中前通産相からあったはずでございますが、どういう内容でございましたか。
  306. 中曽根康弘

    中曽根証人 大した引き継ぎがあったように思いません。大臣の引き継ぎというのはこんな分厚い官庁がつくった書類を受け渡しするので、あとはそのときの政治情勢等の話で、そういう具体的な細かい話はなかったと思います。
  307. 正森成二

    ○正森委員 アメリカ側赤字を解消するために格段の努力をしてほしいということは当然ながらあったと思いますが、いかがですか。
  308. 中曽根康弘

    中曽根証人 その点も余り記憶に残っておりません。田中氏から日米のその貿易問題について特に強い要請や何かをその場で聞いたということは、多分なかったと思います。田中総理の御性格でもわかりますように、やあ、やあ、やあで終わる場合が非常に多いんです。中身は大体事務当局から聞くというのが例のようであります。
  309. 正森成二

    ○正森委員 あなたは先ほどの証言で、七月二十九日のエバリー氏との会談では航空機のことは出なかった、事務当局が下から積み上げたのは、後の表敬訪問であるという意味のことを言われました。しかし、あなたの地元に、これはジョウモウ新聞と読むのですか、こういう新聞がございますか。
  310. 中曽根康弘

    中曽根証人 ございます。
  311. 正森成二

    ○正森委員 その上毛新聞の七月三十日付を見ますと「中曽根通産相七月二十九日の記者会見」という見出しで「エバリー代表は、濃縮ウラン以外の緊急輸入物資として、石炭、航空機の話を持ち出したが、石炭は条件次第、航空機購入については積極的に努力すると話しておいた。」、こういう記事があります。これはあなたの選挙区ですから、特別にあなたを押し出そうとして書かれたのかもしれませんけれども、こういう記事がある以上は、航空機の購入についてもお話し合いがあったのではありませんか。
  312. 中曽根康弘

    中曽根証人 航空機について話し合いがあったことはございません。これはあのとき臨席した通産省の幹部にも確認したところであります。
  313. 正森成二

    ○正森委員 八月の九日に国防会議議員懇談会がございますが、いままでの証言を聞いておりますと、あなたはオブザーバーとして出席する大臣である、他官庁のことには普通口出しをしないものだというように御発言になりました。ところが、十月七日の報道によりますと、この十月の六日にもやはり国防会議議員懇談会がございました。その席上で、これは正規のメンバーでございますか、三木副総理が、何でも国産にする必要はない、性能がよくて安い物は輸入にすべきだと発言をしたのに対して、あなたが、T2は国産にすることが適当で、必要なことだと思う、というように発言をされたということが報道されているのですね。そうだといたしますと、あなたがオブザーバーであるから発言しないというように言われるのは必ずしも正確ではないので、オブザーバーであっても発言されたことがあったのではありませんか。それであるのに、十月九日には、PXL問題についてかねての国産の主張に反して沈黙をなさっておったということではないのでしょうか。
  314. 中曽根康弘

    中曽根証人 その国防会議議員懇談会発言というのは私、記憶しておりませんが、私自体は、ともかく一般方針として、ほかの省の仕事には口は出さない。大体、いまの内閣制度の運用の問題でもありますけれども、ほかの省のやっていることに口を出すと、またほかの省の方から報復を受けるという妙なところもある。そういうわけで、できるだけもうほかの省のことは言わぬ、そういう方針で、自分の省の仕事を一生懸命やるというのがいままでの閣僚のしきたりで、私はそういう方針を守ってきたつもりです。
  315. 正森成二

    ○正森委員 十月五日の件について伺いたいと思いますが、この間、私どもがロッキード特別委員会で法務省当局質問をいたしましたら、同僚議員の質問に対して、十月五日の件についてのコーチャン回想記のコーチャンの描写というのは、非常に生き生きと描写しておるという趣旨の答弁があるわけですね。また事実このコーチャン回想録を見ますと、裏の非常階段から上がったとか、掃除婦がいてとても戸があけられないのをあけてくれたとか、その場に現存した者でなければ描写できないような部分がございます。そして、私は弁護士をしておりましたので多少捜査のやり方も知っておりますけれども、中曽根康弘氏といえば、これは、あなたが参考人として事情聴取をされました九月中旬ごろはたしか幹事長であったはずであります。これは与党の幹事長という人を参考人としてでも事情聴取をするというのは容易なことではありません。普通の場合には少なくとも電話をかけた人、かけた側あるいはその電話をかけたことを聞いて知っている人、この場合で言えばコーチャン、福田太郎あるいは大刀川、児玉、この四人のうちの全部であるか、あるいはその大部分が中曽根氏に電話をしたという供述をしなければ、これらの人々がそもそもわしらは電話をしていないんだということであれば、あなたを参考人としてでも聴取しないというのが、これは検察の常識であります。そうだといたしますと、少なくとも、こういう電話をかけた人が中曽根氏が電話に出てきたということを言うているはずでありますし、あなたは大刀川氏を通じて児玉氏と接触があったということで、大刀川氏はあなたの書生であったのですから、あなたの声を電話であってもよく知っているはずであります。再度お聞きしたいと思いますが、あなたが十月五日の午後八時以降電話に出られたことはございませんか。
  316. 中曽根康弘

    中曽根証人 児玉氏の電話を受けたことはございません。(「推測はいかぬ」と呼ぶ者あり)
  317. 正森成二

    ○正森委員 委員長、不規則発言をとめてください。
  318. 原健三郎

    原委員長 静粛に願います。
  319. 正森成二

    ○正森委員 私が検察当局に伺ったところでは、あなたは先ほど、参考人として調べられた方は三百人、四百人いる、そのうちの一人だ、こういうぐあいに言われましたが、検察側の答弁では、国会議員で被疑者もしくは参考人として事情聴取をされた人は十七名であります。そのうち三十ユニット、九十ユニットの関係者は全員事情聴取をされて、それが十五名であります。つまりこの関係以外ではわずか二名で、その二名の中の一名があなただということになるわけであります。私どもがアメリカに調査に行って入手いたしました資料、これはコーチャン氏の尋問に立ち合った人から、その関係者から入手したものでございますけれども、これには、十月の五日と六日の児玉の活動、すなわち児玉中曽根話し合い中曽根考え方あるいは政策を変えさしたという行為に関連して、児玉の要求によって支払われたものかどうか、こういうことが書かれているわけですね。私はこの関係の書類というのは非常に信憑力があるのではないかというように思うわけですけれども、あなたとして思い当たられることはございませんか。
  320. 中曽根康弘

    中曽根証人 ともかく電話はなかったことは、もうなかったのですから。  それから、コーチャン氏の回想録にどういうことが書いてあるか知りませんが、検察庁の方はその回想録の記事を中心にして私に質問もした、そういうことでありました。
  321. 正森成二

    ○正森委員 そのときに——私から伺いますが、もしお答え願えればお答えしてください。検察側が幹事長の要職にあるあなたをお聞きになるのについては、ただにコーチャンの回想録があるだけでなく、このコーチャンの回想に出てくる場面の関係者からも供述があるので、あなたにやむなく聞いたのだ、こういうことで聞かれたのではありませんか。
  322. 中曽根康弘

    中曽根証人 それ以外の人の名前は出ません。関係者とかそういう者の名前ももちろん出ません。  それから、私がいろいろ説明をいたしまして、最終的に私の言ったことは解明されて、検察はよく了解して、私は潔白になったと自分で了解しておるし、検察もそういうふうに理解した、そう思って帰ってまいりました。
  323. 正森成二

    ○正森委員 あなたは十月の中旬にオーストラリアに日豪の閣僚委員会があって出張されたということがございましょうか。
  324. 中曽根康弘

    中曽根証人 たしか行ったと思います。
  325. 正森成二

    ○正森委員 このときに佐々木運輸相も同行したと思いますが、このときにトライスターの購入、あるいはP3Cについてお話が出たということはございませんか。
  326. 中曽根康弘

    中曽根証人 一回もありません。
  327. 正森成二

    ○正森委員 重ねて伺いますが、コーチャンの回想録によりますと、十月の六日の昼ごろに、中曽根氏が働いてくれてもとの状態に戻されたというようになっております。そうすると、十月の六日までに何らかの工作を行うわけですから、あなたの日程表によりますと、九時四分から開かれた閣議であるか、あるいはその直後の国防会議議員懇談会であるか、あるいはそのときの前後に田中総理もしくは佐々木運輸相に話されたというように考えるよりほかないわけですが、その点について、もし御記憶があれば、お答えください。
  328. 中曽根康弘

    中曽根証人 そういうことは絶対ございません。
  329. 正森成二

    ○正森委員 時間がございませんので、最後に伺いたいと思いますが、コーチャン氏が売り込みルートというのをつくりまして、お読みになったと思いますが、非常に失礼ですけれども、大きくして持ってまいりましたけれども、こういうように売り込み図がつくられております。この売り込み図によりますと、これはコーチャン氏がロッキード社の重役会に、こういうぐあいにがんばってトライスター等の売り込みを行ったのだということになっておるわけですけれども、コーチャンから出ましたこのルートが、クラッター、福田、児玉中曽根というようになって、ここから佐々木氏に行き、あるいは田中氏との間に往復があるわけです。  ここで私が伺っておきたいと思いますのは、この檜山、大久保関係のルートというのは、いますべて真実であると立証されて、いま裁判が行われております。こちらの福田、児玉を通じるルートが児玉などの病気のために明らかにされていないわけですけれども、しかし、もし何らの工作が行われていないとすれば、一番多額の十七億何がしを受け取った児玉というのは、いまの検察側の冒陳によっても、トライスターの購入についても大きな役割りを全く果たさなかった、P3Cは何もなかったということになれば、あれだけ一生懸命やってくれて、児玉氏に頼めば何でもできたと言われる児玉に対する支払いは、実は何ら効果を発揮しなかったということにならざるを得ないわけですね。  そこで、あなたに伺いたいと思いますが、このコーチャンがつくられた図面に関連して、あなたに何か御意見あるいは証言なさることはございませんか。
  330. 中曽根康弘

    中曽根証人 その図面は、私に関する部面は全く間違いであります。恐らくコーチャン氏が自分の手柄を会社に示すために、そういうようなものをつくって誇大に説明したのではないかと私は想像いたします。  それから、先月の十四日でございましたか、参議院のロッキード委員会において安原刑事局長は、児玉氏の十七億円は政界には渡っていない、国会議員には一銭も渡っていない、そういうふうにはっきり議会で答弁しております。その点から見ましても、児玉関係から金銭がきたということは全くないということが検察側からも証明されていると思います。
  331. 正森成二

    ○正森委員 最後に一問だけ。  小佐野賢治氏あるいは趙重勲氏とあなたはお会いになったことがございますか、飛行機の関係で。
  332. 中曽根康弘

    中曽根証人 飛行機の関係で会ったことは一切ございません。
  333. 正森成二

    ○正森委員 それ以外の関係ではいかがでしょうか。これで質問を終わります。
  334. 中曽根康弘

    中曽根証人 趙重勲というのは、私その人を知りません。小佐野氏とは、石原慎太郎君の知事選のときに、彼の選挙事務所を見つけ回って、赤坂の日本電建のあの溜池の事務所をぜひ使いたいと党本部の事務局から要請されて、幹事長として彼の事務所へ行きまして、ぜひ使わしてくれと頼みに行きましたが、断わられました。そのとき会ったこと以外にちょっと記憶にありません。
  335. 正森成二

    ○正森委員 終わります。
  336. 原健三郎

    原委員長 次に、加地和君。
  337. 加地和

    ○加地委員 新自由クラブを代表して二十分間質問いたします。(「長い」と呼ぶ者あり)だれですか、いま文句言っているのは。  五十一年の八月二十一日の朝日新聞にいわゆるコーチャン回想というものが出まして、その中に先ほどから質問が出ておりますように、児玉譽士夫氏の事務所から証人のところへ電話がかかっていったという記事がもうそのときに出ていたと思うのですけれども、あなたはこの内容が全く事実に反しているものという答弁をずっと続けておられます。あなたはいままでこの朝日新聞社をこの記事に関して名誉棄損罪などで告訴をなさいましたでしょうか。
  338. 中曽根康弘

    中曽根証人 厳重に抗議に行きまして、抗議の文章は新聞にたしか載ったと思います。
  339. 加地和

    ○加地委員 告訴はなさらなかったのはなぜでしょうか。以前に週刊新潮とかその他、田中内閣成立のときの総裁選挙に関しては毅然として告訴をなさったと思うのですけれども、態度がこのときとで違ったのはなぜでしょうか。
  340. 中曽根康弘

    中曽根証人 この点については顧問弁護士とも相談をいたしました。そうしたら、特派員の報道としてコーチャンの、あれはインタビューの記事でございましたか、そういうもので流れてきたものについて、これは告訴しても検察庁では取り上げないだろう、そういうような弁護士の助言がありまして、残念ながら告訴をやめて、たしか抗議したと思っております。
  341. 加地和

    ○加地委員 それから五十一年の八月二十一日に、この記事が出た日に、証人は稻葉法務大臣が山形県の山の中の方へ釣りに行っておられるところまで電話をされたと聞いておるのですが、事実でございましょうか。また、どういう内容の電話をされたのでございましょうか。
  342. 中曽根康弘

    中曽根証人 そんな電話をした記憶はございません。電話はしてないと思います。
  343. 加地和

    ○加地委員 これもやはり朝日新聞社から出ておりますところのロッキード関係のいろいろな人物関係等についての単行本なんですが、その中にはっきりと出ておりまして、稻葉法務大臣の談話も一行ほど入っておりまして、こういう記事が出ているので何かびっくりして電話をしてきたというようなことは、稻葉さんの談話として出ておるのですけれどもね。証人は御記憶、間違いではないでしょうか。
  344. 中曽根康弘

    中曽根証人 電話をした記憶はありません。第一、そのような記事で法務大臣のところへ電話をするほど、とんちんかんなことをやる人間じゃありません。
  345. 加地和

    ○加地委員 それから児玉譽士夫関係についてお尋ねしたいんでございます。これはしつこいようでございますけれども、児玉譽士夫氏については、外電を朝日新聞が引用しておるところでも、「最も強力な日本の右翼指導者で秘密代理人、次次に首相をつくり、辞めさせた人物、児玉誉士夫」こういうように五十一年の四月二日の夕刊などにも天下の朝日新聞が書いておりますので、われわれロッキード事件の構造性解明という点では、やはり児玉譽士夫関係を抜きにしては解明されないと思いますので、しつこいようでございますけれども、お聞きいたします。  大刀川氏は児玉譽士夫氏とは全然無関係証人のところへ紹介されてきたんでしょうか。やはり長い間使っておられて、証人のところへ来るまでに児玉譽士夫氏の力というか、口ききもあった人のように聞いておられるでしょうか。
  346. 中曽根康弘

    中曽根証人 私のところへお話を持ち込まれたのは河野一郎先生で、そして、おまえは教育に熱心で、青年教育しているからどうか、そういう話がありまして、会ってみたらいい青年でしたから書生にしたので、その背後に児玉譽士夫氏がいたかどうかは知りません。
  347. 加地和

    ○加地委員 私が聞いたこと以外のことを答えられたと思うのですけれども、三年か四年ほどおられた中で、やはり初めて証人のところへ来られるまでに児玉さんが関係しておられたという話は全く出なかったでしょうか、三、四年の間。
  348. 中曽根康弘

    中曽根証人 私が受けるときには、もちろんそういうことはございませんでした。しかし、おる間に児玉譽士夫氏の本を読んで、非常に心酔しているような気配がありました。
  349. 加地和

    ○加地委員 それで、大刀川氏は証人のところを去っていったわけですけれども、証人としても一人の青年を育てると意気込んでおられたと思うのですけれども、一体証人のところをやめてどこへ行くのか、あるいはまた児玉譽士夫関係の書物などを読んで心酔していたようであれば、証人のところから児玉さんの方へ行くということが予見されたのではなかろうか、あるいはまた証人児玉譽士夫氏の方へ口をきいて、いい青年だから使ってやってくれとか、そういうような関係があったのでなかろうかと、常識のある人はだれしも思うと思うのです。その点については真相はどうなんでしょうか。
  350. 中曽根康弘

    中曽根証人 私はどこへ行くのか知りませんでした。多分故郷へ帰るんだろう、そう思っておったのです。あるいは故郷へ帰ってから児玉譽士夫氏の事務所に行ったのかもしれません。その辺のいきさつはよく知りません。
  351. 加地和

    ○加地委員 私も秘書の人を一人、二人は使っておりますけれども、政治家の秘書というのはなかなか機密にも——私は秘書さんのことを言っているのですよ。秘書さんにしてもあるいはまた書生の方にしても、政治家の機密とか人間関係とか、そういう機微にわたるところへ接していくと思うのですね。そうしますと、証人のところにおられた人とそれから児玉譽士夫氏の方で腕をふるわれた人が同一人物であるという点において、何かその秘書の方を通じて児玉さんから証人の方へいろいろと困るような影響力というものが行使されたり、されかけたりしたんじゃないかというように思うのですけれども、お困りになるようなことはなかったですか。
  352. 中曽根康弘

    中曽根証人 そういうようなことを頼まれたことは、先ほど申し上げた、たしか九頭竜ダムの問題で頼まれた。これは鑑定を頼まれた、物になるかならぬかという。それは断った、そういうことのほかは記憶にございません。ともかく先ほど申し上げましたように、私は一個の政治家として公の立場でありますし、また彼は右翼の巨頭という立場を少なくとも表ではずっと維持してきた人でありますし、そういう意味からも、やはりちゃんとした一線を画して節度を守ってつき合ってきた。私はそうであったし、彼もそうであった。そしてその間に公、私の秩序を乱したり、やましいことをやるというような関係は全くなかった。お互いがそういう節度を保ちながら維持されてきたということをはっきり申し上げておきます。
  353. 加地和

    ○加地委員 昭和四十三年の佐藤三選のときから証人児玉譽士夫氏は縁が切れた、こうおっしゃいましたけれども、何かそれは立会人をつくるとかはっきり文書で言い渡すとか、いわゆるけじめ的なものですね、セレモニー的なものか、どういうような形で縁が切れたということになるんでしょうか。
  354. 中曽根康弘

    中曽根証人 そういうものは自然に切れるんです。別に手打ちとか立ち会いとかというものはありません。
  355. 加地和

    ○加地委員 それから、四十七年の田中内閣成立の際に、たしか中曽根派では福田さん支持の方が最初は多かったのではなかろうかと思うのですが、午前中の証人の答弁で、田中角榮氏の方に踏み切った理由として、あなたが尊敬していたと言われる故松村謙三氏の遺志を継いで日中国交回復を実現するためであると言われました。ところで、あなたはこの松村先生の政治信条のどこを慕われ、尊敬しておられたのでございましょうか。といいますのは、松村先生は佐藤榮作氏とは政治信条を全く相入れない立場の方であったと思うのです。ところが、証人が佐藤内閣の中へ入っていって佐藤一辺倒となられたために、派閥の中でも非常に議論が起きたといいますか、騒動が起きたというように聞いておりますけれども、どうでございましょうか。
  356. 中曽根康弘

    中曽根証人 佐藤一辺倒になったために騒動が起きたということはございません。松村先生の人格の高潔さ、それから特に私を非常にかわいがってくだすって指導いただいたということ、それからそこにおられる田川君とかあるいは片岡代議士とか、そういうのを私の集団にわざわざ入れてくだすったという御好意、そういうものについて、特に晩年は日中国交回復にかけられて、あの老躯を押して中国へ何回も往復されたその御熱情に対して、私たちは若僧であるけれども、全力をふるって先生の夢を実現させなければならないとかたく肝に銘じて決心しておったのです。それで、私は佐藤内閣に入るときも松村先生のところへ行って、こういうわけで入りますがよろしゅうございますかと言ったら、おまえが集団を維持していくためにはしようがないねと言って了承していただいた。だからこそ片岡代議士も松村先生の後継者でありましたが、佐藤内閣に私が入っておっても中曽根派に入れてくだすったのであります。  それから、日中国交回復の前後については、そこにおられる田川代議士は私のところへ常時おいでいただいて、そして中国の情報をつぶさにお伝えいただいた。田中総理のところにもしばしば出向いて中国関係の情報をお伝えになった。私もお会いした。それで、その情報は非常に貴重なものでありました。それで、田川代議士から、日中はやれますよ、田中ならやりますよ、そういう非常に積極的な情報の提供をいただいて、これならやれるなという確信を持った。その確信は田川代議士が私に助言していただいたから持ったのであります。それぐらい親密に連携して、これひとえに松村先生の兄弟弟子ですから、いまそこにおられて、顔を赤らめてにこにこしていらっしゃいますけれども、兄弟弟子ですから、これは相ともに手を組んで、松村先生の恩義をお返しするのはこのチャンス以外にない、そういう決心であのころは手を握ってやったのです。いま新自由クラブへ行かれて別れたことははなはだ残念であります。
  357. 加地和

    ○加地委員 田川誠一代議士をいろいろとおほめいただいたり、日中国交回復について田川氏が松村先生の弟子としていろいろと力をふるわれた点についてお述べになったことは、それなりに評価いたしますけれども、ただ、中曽根派が佐藤内閣とともにやっていくというようなことについて松村先生自身が御了解なさったということは、その派の中の人はよく御存じだったのでしょうか。
  358. 中曽根康弘

    中曽根証人 私は幹部にはそういうことを申しました。松村先生のところへ行って事情を御説明申し上げたら、集団を維持していくためにはやむを得ないだろう、そういうことで御了承をいただいた次第でございます。
  359. 加地和

    ○加地委員 田中支持の方に踏み切られるまで、あなたが午前中におっしゃったように、田中支持になるか福田支持になるかという点について、日中国交回復問題について、議論をなさいましたでしょうか。
  360. 中曽根康弘

    中曽根証人 それはわれわれ幹部の間ではずいぶんやりました。われわれ幹部というのは、櫻内、大石、中村梅吉先生、野田先生、稻葉先生で、こういう間ではよく討議しておったわけです。  あのころは、福田さんの方はアヒルの水かきということをやっておりましたけれども、周恩来の方から手紙を拒否されたりして、福田さんではとてもむずかしい、そういう世論でありました。そして、田中さんならやれる、そういうのがまた世論でもあった。それから、当時といまの状況と時代が変わりましたけれども、あのころは田中待望論というのがかなりあったわけです。げたをはいた角さんというのは人気があったんです。それで、やはりいままで官僚内閣で、帝大出の者ばかりが総理大臣になって、佐藤さんでうんざりしたので、もうこの辺で政党政治家の民衆政治家を出そうという空気が非常に充満した。だからこそ、六十何%の人気があのころは出たのですよ。いまと状況は違うわけです。そういう時代環境というものもよくお考え願わなければならないと思うのです。そういう点は田川さんがよく御存じですから、どうぞよくお聞きくださいませ。
  361. 加地和

    ○加地委員 このロッキード委員会というのは、証人が三木内閣幹事長時代に発足し、そして真相究明のために努力がなされておるわけでございます。たしか四月六日の日に、中曽根氏を証人喚問することが決まりました晩のテレビに、証人の談話として、おれは、呼ばれて出るのは筋違いだけれども、出ていかないと言ってたら逃げているように思われるので、自分の方から潔く出ていくのだ、こういう趣旨の発言が出ておったと思います。これは、われわれロッキード委員会の者にしてみますと、何か筋違いの無理やりを中曽根氏に強いているような印象にとれるのです。ところが、われわれ委員会としても、このロッキード委員会の使命というのは政治家の道義的、政治的責任の追及、また構造の解明、あるいは再発防止のために広い分野について真相を究明していくということでございますから、私は、中曽根証人喚問が決まったのは当然のことだと思うのですけれども、証人は、やはりこれは筋違いの証人喚問と思われますか。
  362. 中曽根康弘

    中曽根証人 私は、ロッキード事件関係したことはございません。また、自分はあくまでも潔白であって、筋の通ったことをやってきておる。それが巷間、週刊誌であるとか、怪情報であるとか、にせ電話であるとか、にせ領収証であるとか、そういうものに惑わされて、私に対する誤解が渦巻いておった。これははなはだ残念なことです。しかし、私は、自民党幹事長という立場にありまして、そう軽々とした行動をとることはできない。だから、弁明もしないで、黙ってじっとしておりました。その後、ロッキード委員会が、いろいろ変遷を経まして私を呼ぶということになったけれども、私に関しては、私はあくまで潔白であって、そういう喚問さるべき事由はない。一つもございません。  しかし、ロッキード委員会喚問なさるというのならば、それは委員会のことでありましょう。しかし、そういう場合になって、私がいたずらに回避しているということになると男らしくない。また党議で、いままで証人喚問国会議員はやらないということも決めていただいておるのであるから、党議に従うのは党員としても当然のことである。しかし、いまのようにそういう疑惑が多少でも残っておるということになれば、男として晴れの場で自分で証明してみたい、そういう気も起こるのはあたりまえです。それで、幸いに、私だけ喚問を先行してやってよいというお話がございましたから、これはいいときが来た、自分から喜んでそれをやりましょう。私の同志や委員の一部には、私はいつでも出ていいのですということは申し上げておったけれども、党議というものがございますから、はばかって遠慮しておったのであります。しかし、国会議員なるがゆえに何か特別の保護を受けているというようなことは潔しとしない。私は潔白なのだから、堂々と国民の皆さんの目の前で事態を明らかにいたしたい、そういう考えを持ちまして出てきたので、私のサイドからすれば、呼ばるべき理由はないのだ。しかし、いまのように潔しとしないから、出ていきますよ、そしてよく質問お答えいたします、そういう態度をとったわけであります。
  363. 加地和

    ○加地委員 やはりちょっと勘違いがあると思うのです。少なくとも戦後腐敗構造の解明という点から言って、要職にあった方は、自分にそういう火の粉が降りかかっているとかどうとかということを抜きにしても、真相解明のために早く出てきてもらわなければならないと思うのです。  それとともに、いま証人がおっしゃったように、国会議員であるがゆえに、一般の方の証人調べと違って特別のことをやれば、国民は納得しません。そのために、私たちはあとまだ国会議員の方についての証人要求をするかもれしませんけれども、先ほど証人は、このような証人調べは自分でやめにしてほしい、最後にしてほしいと午前中におっしゃいましたけれども、やはりロッキード事件という一つのものであれば、国会議員のところになってきて急に一般の方のやり方よりも変わっていくというのは、証人、おかしいのじゃないでしょうか。どのようにお考えですか。
  364. 中曽根康弘

    中曽根証人 いまの国会証言法という法律には非常な不備がございます。民事訴訟法刑事訴訟法におきまする法廷に証人を呼び出すときにはちゃんとした規則がありまして、刑訴や民訴における人権保護は徹底しているわけです。たとえば尋問事項をちゃんと初めから確定しておくとか、無礼なことや威迫的なことはやらないとか、誘導尋問、そういうようなことはやらないとか、あるいは繰り返してやらないとか、そのほか諸般にわたって人権保護の規定があるわけでございます。  ところが、この証言法に基づくいまの証言というものは、もし偽証した場合には十年の懲役という重罪で脅かされているものです。十年の懲役という重罪で脅かされているこの場における取り扱いというものは、刑訴や民訴よりも簡略な、あるいは場合によっては、いままで行われたような脅迫的な、威迫的とすらとられるような失礼な質問があっていいものだろうか。これは人権じゅうりんというもので考えなければいけない。国会は、むしろ人民の権利を保護するのが主眼であります。人民をいじめるのが主眼じゃないのであります。そういう面からも、人の子一人といえども権利を守ってやらなければならないはずであります。そういう点から、私を最後にしてもらいたい。それで、いま国会で御審議を願っておるから、早くこの不備を補って、衆議院規則なり参議院規則をつくって、人権を尊重する規則を充実した上で自余の証人はお呼びください、そういうお願いを申し上げたので、私は筋が通っていると思うのです。
  365. 原健三郎

    原委員長 これにて証人に対する発言は終了いたしました。(拍手)  証人中曽根康弘君には、長時間にわたりまことに御苦労さまでございました。委員会代表して厚く御礼を申し上げます。  次回は公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。     午後三時三十一分散会