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秦野章君 次に、衆参両院本
会議にも、すでに共産党の宮本リンチ
事件というものが論議をされてきたわけでございますが、私はまた多少角度を違えて、この問題の今日的な
意味というものをどうしても理解をせにゃならぬと、政府もその点についてしっかりとした理解を持ってほしいと、こういう
意味で二、三
質問をしたいと思うのであります。
一九三三年——昭和八年の
事件でごさいますが、当時、
日本共産党にとっては、昭和八年といえば満洲事変が始まって二年たっておりますから、戦争反対、侵略戦争反対、そしていま
一つは治安維持法ですね、この戦争反対と治安維持法、この二つの、共産党に言わせればこの二つの歯車の回転に毅然として立ち向かった輝ける反戦闘争ということになっておるわけです。そういう反戦闘争の中で宮本リンチ
事件ができたと、こういうことになっているのですけれども、私どもはここでひとつ
考えなくちゃならぬのは、確かに戦争反対、それからまた治安維持法反対という
意味はわからぬではない。治安維持法も、私どもいま
考えてみて、治安維持法が非常にいい法律であったかといえば、やっぱり悪法ではなかったのかという感じがする。戦争も、非常にいい戦争をやったのかといったら、そうでもなかったんじゃないかと、やはり反省の問題が歴史の中にあると思うのですね。しかし、戦争と治安維持法があって、これに反対するんだから、スパイがあったときにこれにリンチを加えて殺してしまうということが是認されるということは、全くこれは論理の必然がないだろうと思うのです。だから、この宮本リンチ
事件の、リンチの結果人が死んだという事実は、私は、いままでの論議を聞いて、または裁判記録等を見て、これはまず間違いないと、雨が降る日は天気が悪いぐらいはっきりした話だと思うのですね。
問題は、そういう反戦闘争というものがどうして行われたのか、この点はやはりわれわれは
考えなければならぬ。で、昭和八年の、この
事件が起きる前の年の昭和七年にソ連から、つまり世界共産党——コミンテルンですね、これから指令が出ているわけですよ。これがいわゆる三二年テーゼと言って世界共産党から
日本共産党の、これはコミンテルン
日本支部でございます。
日本共産党というのは向こうが本部でこっちが支部ですから、当時はそういう関係でもって指令が出ていた。その指令が問題なんです。その指令の中にはどういうことがあるかと言いますと、ソ連擁護のために闘うんだということですね、そして内乱を起こせと、これはもうはっきり書いてある。これは共産党のつくったこの規約に書いてあるのですから。内乱を起こせ、ソ連擁護のためだ——そういう激しい闘争ですね。
そういうことになると、これはまた政府の方としても、国家というものはときどき過ちを犯すことがありますけれども、国家というものは、そこまで、内乱を起こせ、ソ連のためにというようなことで激しい反戦運動が起きれば、これを取り締まるということもこれはしようがないだろう。国家というものは無法な挑戦を受ければ、これに対しては、やはりそういう者に対しては監獄へ入れるか、下手すれば死刑になってしまうみたいなこと、これはどこの国でも、どこの民族でも歴史なんですよ、これは。当然なことなんです。
私、そういう
意味において治安維持法というものが、そこまで
考えてくるとやはり必要な面もあったんじゃなかろうかというふうに
考えが——少なくとも当時の状況はですよ。しかも天皇制の転覆をうたっているわけですから。当時の状況、いまの若い人はわかりませんけれども、当時の
日本の状況の中で、天皇制を転覆し、ソ連擁護のために、そして後で内乱を起こせ、これがプロレタリア国際連帯主義の
一つの基本的な当時の方針であったわけですね。私は、この三二年テーゼというものが、共産党にとってやはりこれは間違っていたんだと言っていればまた話は別なんです。共産党にとってはこの三二年テーゼというものは輝ける三二年テーゼなんです。これもいま売っている本に出ているわけです。輝ける三二年テーゼであり、この闘いというものは
日本共産党の輝ける、光輝ある党の歴史なんだとこう言っているわけですね。
私は、この宮本リンチ
事件の問題で、われわれが今日的問題としてどうしても
考えておかなきゃなりませんのは、この宮本リンチ
事件が起きて、共産党が言っている
一つの解釈といいますか、弁明等見ても、これ全部治安維持法のせいにしているんです。治安維持法もそれはそんなにいい法律だったとも私も思わぬけれども、当時のことを
考えればかなりの
意味があったような感じもするし、それからまた、全部治安維持法のせいにするということは、それで宮本リンチ
事件までも正当化するということは、いささか穏当を欠いた議論ではないかと思うんです。治安維持法がない、たとえばソ連では、スターリンは一千万処刑したと、こうソルジェニツィンも言っているし、サハロフなんかもっと相当の報告をしております。サハロフとかソルジェニツィンの報告を見てもはっきりしているんだけれども、治安維持法がなくて——ソ連の憲法だってやはり自由があって、いろいろ書いてあるんですよ、りっぱなことが、人権を尊重するとか。
だから、治安維持法があったからそういうことが起きたのか、治安維持法がなくたってスターリンはああいう、特に、たしか一九三七年か八年かそのころだったら、サハロフなんかの報告によれば、月に四万人を殺しているというような報告を書いています。これは治安維持法があるとかないとかということと関係ないんですよ。どういうことが問題かといえば、要するに唯物哲学というものを
政治の体質に取り込んだときに、絶対主義的なやはり哲学になりますね。つまり
政治が絶対主義になる。
政治が絶対主義になれば、絶対主義的真理の体現者にとってはその前にあらわれた反対者はすべてこれ反逆者になるか、裏切り者になるか、スパイになるかというのは、これは論理ですよ。だから私は、共産党がスパイが憎いというのはよくわかる。これは非常に筋の通った話なんだ、なぜならば絶対的真理の体現者だから。
そういう絶対的真理の体現者であるということは、いま
一つ問題なのは、これは全くみずからの過ちを認めないわけです。人間というものはだれでも過ちがあります。そしてわれわれは、後悔するとか、悔恨の気持ちなくしてはやはり話すこともできない過去というものを人間というものはだれも持っていると思う。人間の集まりの集団もまた同じでございます。
日本は三千年の歴史を持っていますけれども、これすべて輝ける歴史じゃございません。やはり忌まわしい部分があることは事実であります。そのことを率直に認めることが人間的だと私は思う。
だから、そこへくると、絶対的に真理の体現者にとれば、要するに超人になるわけです。超人になる。一種の化け物と言っていいかもわからない。超人になる。神になる。生々しい人間なんてそんなものじゃない。もっと人間的でなくちゃ……。しくじったら、エラーをしたら、まいった、申しわけない、これが生身の人間であり生身の歴史でなくちゃならぬ、こう思うんですね。そこへいくと
自民党なんかばかげて人間的で、生臭い人間的なところがあるんだけれども、私は人間的であるということはいいことだと思う。
政党政治もそうでございます。
政党も、
政権を目的とする
政党でございますからこれはやっぱり人間的でないと、これが絶対主義の体現者になるという段に至ると、私はこれはデモクラシー、議会制
民主主義の中に果たしてこれが許容される本質的なものがあるであろうかという疑念が起きるわけでございます。議会制
民主主義は大変寛容でありますけれども、しかし、みずからを否定する者にまで寛容であることはあり得ない。そういう点につきましてはやはり今日的問題として、この党の体質というか、
考え方というか、こういうものに問題は今日的
意味があるであろうと、こう
一つは思うわけであります。
そこで、まあこれは伺っても当然なことなんだけれども、三二年テーゼというものが、いま申し上げましたような闘争目標を掲げて、ぱっきりと闘ってきた共産党の輝ける歴史というものは、政府としても当然確認をしておられると思いますね、確認を。とにかくそこのところ、ちょっと法務大臣に伺っておきたい。