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吉田委員 制度の現状はわかっているのです。制度の現状はわかっているけれ
ども、矛盾があり、後で具体的な例を挙げますけれ
ども、これは進駐軍が来て公務員を使ったから、公務員制度が一番民主的な批判のらち外にあって、制度がそのまま残っておる。裁判で言えば、天皇の名で裁判をやっていたことはもうなくなったが、菊の紋は残っておる。
裁判所の上とか庁舎の入り口だとか、あるいは裁判をやっている上にあるところもあります。あるところもありますけれ
ども、依然として同じ法服は着ておりますけれ
ども、それは権限のもとは違うのです。まるっきり違う。ところがやはり形式が残っておるだけに、
裁判官の中にはあるいは裁判制度の中には古いものが残っておると私は思っておる。
たとえば、もう二十年にもなりますか、書記官の
判決の浄書書き
拒否事件というのがありました。これは結局は待遇の改善ということで終わったと思いますけれ
ども、基本的に言うと、やはり
裁判官は
裁判官、書記官は書記官、こういう
裁判所の中における機構上の古いものが批判をされたんだと思うのです。外交官で言いますと、昔はフランス語で外交官試験に通った者が外交官、それ以下の者はまあ何任官か知りませんけれ
ども、勅任官じゃない、奏任官とかなんとか言ったと思いますが、外交官ではなかった。ところが最近は、日本が国交を持っておる国がたくさんふえてきた。この間メキシコなんかに行ってみますと、フランス語で外交官になった者では通用せぬのです。あそこはスペイン語です。スペイン語のできる人でなければ大統領と腹を割って話ができない。ごく最近大統領が来られましたけれ
ども、その大統領が訪日されるに至った下ごしらえはだれがしたかというと、大使じゃなくて、代理大使をしておりましたけれ
どもスペイン語のできる外語卒業の外交官。このごろアラブ諸国に行ってみますと、たとえば例をイラクにとりますが、八人ほど館員がおります。その中にアラビア語のできるのがたった一人。たった一人おりましたが、それが召還された。すると、アラビア語のできる外交官はイラクには一人もいない。クウェートに帰り寄りましたが、クウェートもアラビア語のできるのがたった一人。英語で片づく
——それは上の人との間には英語で話が片づくかもしれません。しかし国民との間に外交をやろうといえばそれではいかぬ。だから、外交官について言えば、昔フランス語で外交官試験を通った者が外交官、それ以外の者はコシマ以下。特に現地採用なんというものは外交官扱いしないのです。全くしないのです。現地採用はしょうがないにしても、外交官の中にはやはり外交官である者と外交官でない者がある。そういう者が
裁判所の中にありはせぬか、あるいは検察庁の中にもありはせぬかということで問題にしておるのです。
一つ例を引いて法務大臣の所見を承りたいと思うのですけれ
ども、これは検察庁に入るときに私、世話したんじゃないのです。私が炭鉱会社におりますときに、私を慕って炭鉱会社に入ってきた。私は県
会議員から参議院に出たものですから、そこにいなくなったものですから、そこにおける
職員になる希望を捨てて検察庁に入った。検察庁に事務官で入ったのです。それで、亡くなったのは
昭和四十九年の二月十九日、病名は肺炎で亡くなりました。死亡当時勤務しておったのは福岡地検田川支部の事務
課長として検察事務官をしておった。で、宿直中に腹痛がひどいというので途中で、朝だろうと思いますが、かわってもらって、翌日死亡したのです。これは二遍結婚をしております。私のところに手紙が来たのはその後妻の方です。その後妻に八百四十四万円の退職金が支給されたが、そのことで前妻と息子が文句を言っていたということが書いてあります。これは法務省で調べていただいた。私がそれを知りましたのは
——その前に、おととしの葬式にも知らせてくれなかったから間に合わなかった。去年の初盆にも行かなかった。そこでことし郷里に帰りました際に仏さんに参ってやったわけです。そして、去年も参ることができなかったから、灯籠一つ持って参ってやったのです。大変感謝をして、手紙が来た。その手紙に書いてある。主人の残した書類を整理していくうち、日記に、発病一週間前から体調悪しと書いてあった。小さい庁で、九名中二名が休んでおられたので、無理をして出勤していたようです。検察事務官が七名。これは手紙じゃありません。また、副
検事二名。女子
職員を除いての日直、宿直だものだから、休日の宿直も頻繁に回ってき、宿直の夜、その亡くなった前日の宿直の夜激痛で一睡もせず起きていたとかで、なぜ交代を頼まなかったのかと悔やまれます。これは奥さんの感想ですね。夜起こすのもと思ったのでしょう、同じ宿直でも、庁を留守にしたり、マージャンをやって夜を明かし、早退をしたり、勤務状態は必ずしもよくはな、無断退庁などと日記に書いてあった。余り対照的で、責任を感じて命を捨てたものだと思うと、怒りと悲しみに毎日を過ごしておりますと、こういう手紙。別なところに、死ぬ前二時間まで勤務のことを言い続けておった。田川の病院に入れたけれ
ども、これは私立の病院でしょう、手に負えぬものですから、国家公務員の共済病院の浜の町病院という、九大の第一内科の主任教授をしておった操さんのところに入れた。しかし、もう手おくれで、その翌日には死んだわけです。入れたその日死んだんだろうと思います。そこで、一週間ほど前から病気になって体調が悪いというんなら、区検ですから、全部で九名いる。自分を除けば、忙しいかもしらぬけれ
ども八名。八名の中で、事務
課長が体が悪いのを無理をして出ているのはわかるはずなんです。その前日も二人の休んだ人もあったりして、一週間に二遍以上の宿直をしておったようですが、交代をなぜ頼まなかったかと奥さんが悔やまれるほど、周辺あるいは上の責任者が気がつかなかった。そして無理をして、終夜腹痛に耐え切れなかったけれ
ども、夜中に起こすのはどうかと思ったのでしょう、起こさなかった。そして、同じ宿直でも、庁を留守にしたりあるいはマージャンをやって夜を明かして早く帰ったりする人もあるのに、命を落とすまでしなくてもよかったのではないかと、こういう話です。これは監督の責任の問題でもございますが、しかし、その後、後の問題はここで答弁を願うことになっておりますが、私は炭鉱におりました。炭鉱で、多いときには一万人からの従業員を扱いましたが、殉職をした人間あるいは殉職に近いこういう死に方をした人については、公傷病取り扱いができぬかと最善の努力をした。そういう努力をどういうようにしていただいたのか。それから、私の親戚の者が福岡県庁で、これはケースワーカーですけれ
ども、連日連夜激務が続いて、夜遅く十時ごろにならなければ帰らぬというのが続いた。半年ほど続いた後に死にました。若い奥さんと三人の子供を残して死んだんですけれ
ども、それに対しては、周辺の人たちが香典を集めてたくさんのことをしてくれました。それから、初め県庁に臨職で働けるようにしておりましたが、長く臨職が続けられなくなったら、森林組合というところにいま使ってくれています。そういう努力を区検としてあるいは法務省としてどういうぐあいにしてもらったろうかということを尋ねておるところでございます。
法務大臣に尋ねたいことは、そういう検察庁の中に、あるいは副
検事という制度、あるいは同じ
仕事をするけれ
ども事務官というものがあって、軽い事件については取り調べをしたり、起訴することはできぬけれ
ども——副
検事は恐らく起訴もできるでしょう。そういうものを許しておいていいかどうか、根本問題にさかのぼってお尋ねするわけですが、具体的な例について後で感想を承りたいと思う。