○多賀谷
委員 これについては、きょうは議論を避けたいと思いますが、
資源として何とか確保するという面から出た
政策は、明治鉱業の場合、明治鉱業株式
会社はいわば倒産をして清算に入るが、平山とか西杵とか明治佐賀という現鉱区は残して操業をする、こういうことをやった例はあります。これはまさに
資源政策として、それを見たわけですね。ですから
会社はつぶれるけれ
ども山だけは残していこうという
政策をとったこともある。ですから私は全然皆無ではないと思いますけれ
ども、むしろ、その後に起こった奔別の問題であるとか、これはやはり
企業の採算ぺースとして物を考えておるわけですね。ですから確保する必要のある
資源であるかどうかという判断を、まずして、そうして、それにはどういう方法をすべきかということを考える視点と、私は異なるのじゃないかと思うのです、いまの
大臣の
答弁を聞いておると。それならば
石炭政策見直しということにならない、こういうように考えるわけであります。これは
石炭部長だけに
質問する問題じゃありませんから、きょうは
質問を保留しておきますが、この出発点が非常に肝心ではないか、こういうように考えるわけです。でありますから、私はそういうように進めていくのが
石炭政策の見直しではないか、かように思いますがこれは
答弁は本日は結構です。また
大臣からお聞かせ願いたいと思います。
そこで、いままで、いわば
石炭政策でありましたが、今度は
石炭の後始末の問題を
質問したいと思います。どうも産炭地ことに筑豊地方では一体、
石炭時代百年の歴史というのは、筑豊の住民にとって幸いであったのか不幸であったのか、こういう原点に帰っての疑問がいま投げかけられておる。ことに遠賀川水域は非常に豊沃な
地域である。でありますから、もし
石炭というものがなかったとすれば今日のような悲惨な状態は現出していないのじゃないかということが、むしろ今日問われておるわけです。
そこで、産炭地から一体どういう状態で
石炭を掘り、そうして
日本資本主義が発展をしたか、こういう経路をたどってみると、私は、ことに今日の財閥
企業集団の発展あるいは
日本資本主義の発展というものは、むしろ産炭地に負うところが非常に多かったのではないかと思うのです。たとえば明治の終わりの四十四年の統計を見ると、
日本の出炭量は千七百万トンです。そのうち北海道が百七十万トン、そうして筑豊は九百七十万トン出しておるわけです。でありますから、まさに五五%ぐらいの地位を占めておる。あるいは昭和元年でも少なくとも筑豊は四八%の出炭をしておる。こういうことを考え、また
日本の
石炭の一番最盛期でありました昭和十五年は五千六百万トン出ておる。また、これは三池を入れますが福岡県全体で二千五百五十六万トン出しておるわけです。結局それらの
石炭が掘られたけれ
ども、今日は全くボタ山と鉱害と失業者と生活保護で冷え切っておるという状態、そうして産炭
地域振興法が出まして、すでに十五年余
経過しておるわけでありますけれ
ども、住民感情から見ると、確かに道路がよくなった以外は全部荒廃をし冷え切ったという感じですよ。
でありますから、これらを一体どうするか。私は
責任は、いまの三井鉱山とか三菱鉱業セメントという個別
企業よりも、むしろ財閥
企業集団、ここから得た利益をもって、どんどん他に投資をして、いろいろ
会社をつくっておるという
企業集団が、もう少し
責任を持つべきではないか。言うならば
日本資本主義が
責任を持つべきではないか、こういうふうに考えるわけです。
たとえば三井合名株式
会社にしても持株整理
委員会が戦後、調査をした。昭和六年から十一年までにオール三井の益金のうちの約三分の一が三井鉱山株式
会社から出ておるわけです。そうして、ほとんど内部保留、償却に充てないで全部、社外投資か配当で取っておる。配当というのは三井合名株式
会社というのは持株
会社ですから。そうして配当で取って他に投資をしておるわけです。内部保留はむしろ抑えておる。それから三菱合資株式
会社でも、やはり約三割が三菱鉱業株式
会社から益金を取っておる、こういう状態です。それで今日は若干、三井セメントあたりは
企業が来ておりますけれ
ども、ほとんど筑豊から撤退をしておるという状態。これは古河にしても住友にしても同じであります。そうして鉱害はそのまま、まだ残存しておるという、これは
日本の
企業集団がもう少し
責任を持つべきではないか。少なくとも跡地に
関係会社ぐらい誘致する義務が本来ならば、あるのじゃないか、こういうように思うのですが、新しい
石炭部長はどういうようにお考えであるか、これが一点であります。