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萩原参考人 二点についてお答えいたします。
八月十三日に一つの
再建案ができ上がりました。それが九月七日の
緊急役員会で変わった、そのことでございますが、いろいろありますが、最も主要な点は何といっても
幌内の中央
区域ですね、
災害を起こしました
区域の全面回復するのか、
閉山にするか、こういう問題。そして八月十三日の時点におきましては、いわゆる
災害を起こした中央
区域は
閉山となっております。それのかわりに
常盤坑を開く、こうなっておったのでございます。
この問題は、先ほど申し上げましたとおり八月二十八日に私は、
炭労が知っているということはわかったのです。この案が先にわかりますれば、組合サイドといたしましてはテーブルにつかない。事実そうなったのでございます。これは私としても、事前に知れば、この案ではテーブルにつかないのは当然だと思うのです。そこで
炭労と
社長たちと、ちょうど九月の四日に、再開を要請して下
交渉をやったわけです。ところが
炭労といたしましては機関
決定いたしておりますから、一部の人と話したところで、これはなかなか変更できない。いろいろ折衝した結果、最後に
社長から修正する意向があるという表明をいたしました。それで、それなればテーブルにつこうということで、九月九日の全企業の
統一ストは中止しましょう、そして九日に
団体交渉を開きましょう、こういうことになったのです。
さて、そういうふうに路線を変更した経緯についてお尋ねだ、こう思うのでございます。まず、八月十三日の案がどうしてできたんだ、こういうお尋ねでございますが、これは最初は、先ほど申し上げましたとおり
会社は
全面復旧の線で進んでおりまして、これが六月の初めごろまでです。その話を聞いておりまして私は五月の十三日ですか、札幌で記者会見をしましたとき、
幌内は
全面復旧するということを記者会見で発表いたしておる。これは、その時点においては
会社ではその方針で進むことに
決定しておりまして、そのとおり発表いたしました。これにつきまして当然、行政官庁としてエネルギー庁の
石炭部の
指導ですね、いろいろ相談をかけますから。そして、やがて
石炭鉱業審議会の
経営部会の中に
北炭問題
再建委員会というものが設置された。そして、いろいろのこの間の
議論がありまして、まあ、うちの
経営担当者いろいろ折衝しておるうちに、だんだん話が変わっていっちゃった。そうして全面
閉山と
常盤坑という問題。率直に申しますと、
会社単独でつくったものでないというのは、そういう
意味で、
会社単独でつくっておれば
全面復旧だったと思います。ところが、いろいろの点の
議論を重ねておるうちに、あのように変わった。私とすれば、納得のいかないなれば、なぜ自分の方の
主張はあくまで貫かなかったか、これを頑強に言ってやればいいことです。
会社側の
説明も悪かったでしょうとも言われますし、また何分にも
援助を受けている立場ですから、事務当局としては弱い点もあったでございましょう。そういうわけで、こういうふうに変更して、先ほど申しましたとおり、もともと
会社本来は、そういうことは望んでいなかったのだから、これは単独で作成したものではない、こういうわけでございます。
その際、確かに八月十三日に私、初めてその案を見ました。本来なら、もう先ほど申したとおり私は初めから非常な反対、不満だったのですが、何しろ三月もかかってやったものだし、早く言えば、私とすれば、その前段で
会長としての姿勢として申し上げたのは、このことなんでございます。自分とすれば命令が二途に出てはいかぬ、
統一が乱れるといかぬから私としては役員会も出ないし、出てもなるべく
発言を差し控える、こういったわけで、いわば私がそもそも、このたび
会長にまた残りましたのは、斎藤
社長は私が三井
銀行からもらってきた人です、何分にもなじみがないのです。役員間でもなじみがないから組合ではなお、なじみがない。こういう
状態で一人でやって、もし摩擦があったときは困ると思って、相談役で引っ込んでいたのが昨年三月あえて
会長に就任した。そうしてそのときも、新鉱が五千トン
体制が確立したときに自分はやめる、それまで席にいよう。そうして何かのときは相談をかけてくれ、中がまとまらないようなときには出よう。こういうことで
会長に就任しました。実は、四十七年五月退任しましてから、
会長室というのはあるのですけれ
ども、一度も、そのいすに座ったことがない。そういう
状態で来ましたものですから、十三日にその案を初めて見て一応
説明を受けて、言いたいことはありましたけれ
ども、ともかく自分はすでに隠居をしているのだから、みんなが相談したのなら言うべきでないというので、これはそのまま黙って、その案は自分がもらっていってもしようがないから、なくすといけないから返すといって返して、役員会で決まっている、こういう次第でありまして、単独でないというのは、いろいろ
意見を聞かれ、やっているうちに、いつの間にか変わったのだから、一緒に合作と言っていいかどうかは別として、変わっていった事態を指している、こういうことでございます。
そうして九月の七日になって変わったのは、先ほど申し上げましたとおり
炭労がテーブルにつかない。これはつかないと大変なんです。
労使でまとまったものをつくれということが前提になっております。もし、これでテーブルについてくれなければ、よかれあしかれ永久にできっこありません。そうして、大体あの案とすると察知したのでありますから、
里谷君たちにもいろいろ聞いてみましたが、これはいつになっても片づかないな、
労使一致した案はでき上がらない、
幌内全面復旧か否かの一つの問題のために。これが一つであります。これでは
会社の
再建が永久にでき上がらない。
再建案ができ上がらなければ、これは
労使まとまらないじゃないかというわけで、
会社内部の
労使のまとまらないものは相手にならぬということになってまいります。
そこで、変更の意思ありと
社長が言ったと聞いたから、初めて、それなれば九月の七日の役員会、それには、いままで黙っていたが自分としての考えを言おう。そういうわけで、るる、先ほ
ども申し上げた点、
保安の点でどうだ、それから採算の点でどうだ、その他もろもろの
理由について、そのときば今度は逆に独演会になりましたけれ
ども、そこで述べて、それで役員の者も、もともと
全面復旧を望んでいたのでございますから、言われてみるとそのとおりだ。さらに、これをよく調べてみると単に理論の問題でなくて
経営上、
北炭の将来に及ぼす影響は非常に大きい。それで七日の日に、それなれば
全面復旧に
決定しよう。だから役員会の
決定が、また覆った役員会の
決定となったわけです。
これが非常に問題というのは、
会社単独で案をつくったのなら、また内輪の問題で済んだ問題で・すけれ
ども、各
方面の
意見がこれに反映していると見ると、ここらの人に
理解を得ないで突如、変更したから、これは果然と私は言っておりますが、各
方面の非難と批判が集中した。果然というのは、はからずもじゃないので予期していた。それで新聞紙上でも、新聞記者の諸君おりますが、非常に酷評もいただきました。居直りとかどうとか、思い上がっている態度だと非常に非難されましたが、私はもう覚悟していた。
それでも私は、実は三日前に長官に会うまで通産省へ顔を出したことはない。それというのは、
社長がいるのだから、執行しているのは
社長であるから、自分が
出向くべきでないという立場から、それはいろいろ
お願いに行ってごあいさつなどはしておりましたけれ
ども、実は三日前ですか、長官や部長にあった、これがことしに入って初めて会ったのでございます。それまでは一切、差し控えておりました。
この案ができるまでに、どういうふうな経過をたどったか、これはそういう次第で私も、そのやりとりの報告を受けてないのです。しかし、これではいかぬということで突然、変更したということが事実であったわけでございます。
率直に申し上げますれば、この重大な
交渉をすべき
再建案全部が、なぜ
炭労の手に渡っていたのか。私が聞いたのは八月十三日であります。聞いたころには、もうすでに
炭労に渡っていたようです。非常に私はそれを心外と思っております。これが第一番でございます。
それから第二番の問題ですが、前の案のときは
常盤坑となっております。私が思いますのに、いまの
区域がいけないなれば
常盤坑はなおいけません。と申しますのは、採算の点から見て、もう初めからわかっております。あれは非常に斜坑で、いまの
災害のところにおりるところの上部の方にあるのです、二片あたりからくっつくのですから、やろうとしたことがあるのですが、五十度ないし六十度の傾斜のところで、かつて考えて、やめた
区域でございます。ずっと前でございますけれ
ども。これは能率が悪くて、とても採算が合わない。だから
会社とすれば、あそこを開くようなことは、それ以来やめた方がいいということを
決定して、あそこを再開しようと考えたことは一回もございません。しかし
常盤坑を開けということになっている。私はこれも非常に意外なんでございますが、これは何といっても
会社も参画してやっていることですから、文句を言うのはおかしいのですけれ
ども、この
常盤坑の開設というものを、もし悪く邪推すれば、
地域の反対いろいろあります。そうするなれば中央
区域の
災害が起こったところを廃止する。まるっきり廃止したら
幌内は全滅です。あの
幌内炭田一帯に
会社は一社も残らないということになる。住友さんはすでに奔別でやめておりますし、いろいろあるので、三笠の背後の幾春別その他、新幌もとうの昔になくなってきて、いままた
幌内の、いまの火災を起こしたところがなくなれば、あの
区域の
幌内炭田は全く放棄したということになる。これは炭量は十分にあるのです。未開発のものもある。そういう
区域を放棄したという問題があるので、採算はともかくも、かっこうはつけて残そうとしか私はとれない、それで
常盤坑の開設には反対である、そういうことでございます。
さて、そこで中央
区域の問題であるが、これはその
区域から
災害地区を廃止した場合は、元奔別の住友さんの
区域で
合理化事業団の方に買い上げになっておる炭量がある。ここはわずかの距離です。しかも七片のいまの火災を起こしたところを何百メーターか横へ行きますと、御承知のとおり奔別のところがあるじゃないか。しかも、これはどちらかというと住友さんは当時、深部をやっていた。立て坑をやっていて、でき上がったところでやめた、人様のことだから事情は別として。それからしかも、七片より上の方の炭をねらいたい。逆に下から上に上がっていったっていいじゃないか、こういうふうに考えます。そうして中央
区域を開きますというのは、十年目、約十一年になりますけれ
ども、いまの火災のところは八片、九片まで行ったところで打ち切るべきだと思っております。これで炭量はその下は掘れない、あるとしても九片までだ。これだって、これから、もっと研究しなければいけません。そうして、やっていって、むしろ七片辺から次に十年の間で向こうへ移っていこう。十年というのは、こっちだけではなくして、そっちをねらっておりますけれ
ども、そういうふうなことで中央
区域、自分の山の
災害地を開くと同時に、これは
合理化事業団所有の北部も開かしてもらいたい、この案を含めて考えております。よろしいでございましょうか。