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鈴木美枝子君 私は、最近、「国民時事百科」という百科辞典中でいま申し上げました平和問題のところを見ましたら、家永
先生の裁判での平和、九条の問題についての
教科書判定の問題が出ておりました。その隣に並んで、国防
教育というふうに書かれておりました。これは灘尾文部
大臣当時の
言葉がそのまま載っております。愛国精神を育成する、これはいろんなところでこのごろ聞かれることでございます。この二つの問題が市販されているところの「国民時事百科」に載っているわけでございます。愛国精神を育成するといういま言われている
言葉だの、この市販されているところの辞書に書いてあるところの愛国精神の問題なんですが、私は国民の方から陳情を受けました。ここに数枚の写真がございまして、これを見ながらいろいろ検討してみたい。
まあロッキード問題はアメリカから言われたことでございますが、日本人みずからがそういうことを掘り起こしながら検討するというのは重要な時期なんじゃないか。これは
言葉よりも写真の方が具体的でございますから、これはちょっと
角度が違いますが、愛国の問題としては同じようなことでございます。文部
大臣のところまでお回しください。これは中身でございまして、これは外部から見たところでございます。いま回しました写真は、この間の第二次戦争におけるサイパンの戦死した人の遺体じゃなくて遺骨でございますね。この場所は、サイパン刑務所、
警察、その広場の中の倉庫でございます。倉庫の外側から撮ったのと、内側にある遺骨の写真でございます。
この写真は、私が陳情を受けましたのはサイパンの生き残りの方。生き残りは四十人いらっしゃいます。で、戦後三十一年間で十回行っているんだから、十年通い詰めているわけでございます。そして、私のところへその写真を持ってきた。
昭和四十九年には「朝日新聞」にその写真を持っていった。ところが、厚生省の
——これはお名前は言いませんでした、その遺族の方は。厚生省の人がその方のところへ来て、「朝日新聞」にその写真は載せるなということを言ったのでございます。これは
昭和四十九年の写真ではございません。その方は十回行っているんですから、去年も行っております。そして、今月十三日にも行くことになっておりますから、その写真は、そこに書かれたとおり、
昭和五十年十二月の十一日でございます。で、「朝日新聞」に厚生省の人が載せるなということでございますから、この機会に私はここで文部
大臣、厚生省の方に公開して、そうして国防と愛国心という問題がどういうふうにかかわってくるかということを文部
大臣からお伺いしたいと思います、それ自体が
教育だと思いますので。お回しになりましたらお戻しになっていただきたいと思います。
この写真を撮ることができたのは
昭和四十九年ですから、まだサイパンはアメリカ領にはなっておりません。十年間通い詰めているわけでございます。その生き残りの四十人中の一人は、最初は一人で行きました。そして、写真に写してこの事実を見ることができたのは、案内人の人ですが、トビヤス・ムーニャさんという人が、戦争中に現地人で自分は日本人と一緒に戦ったと、だからお参りしたいと。これは現地にいてキリスト教であろうと仏教であろうとも、もし宗教がないにしましても、死ぬまでその人の記憶の中にあるところのそのものに対してお参りしたい。ところが、四十九年の
段階では厚生省の人がなかなかお参りさせてくれない。そういう気持ちがあったために、生き残りのサイパンの人に、
警察の倉庫の中に実はあるんだと言って見せたわけです。そして写真を撮った。四十九年に撮ったのは、私もその写真はきょう持ってきませんでしたが、ネズミのふんがあったり、そして遺骨が袋に入っているだけでございました。いま皆さんがごらんになったのは五十年に写したのでございますから、サイパンがいまはアメリカ領だということはおわかりになっていると思います。
それで、少し具体的に言えば、いまどのぐらい遺骨が残っているか。それも必要なことでございますから、議事録に記録のために申し上げなきゃならないと思います。サイパンでの戦死者は四万五千人おりました。海軍陸戦隊、陸軍、そうして案内したトビヤス・ムーニャさんと同じような一般の現地人は二万人以上おります。戦死者は半分ぐらいおりました。だから、案内の人も同じ気持ちでその人
たちが案内してこの写真の場所を見せたということはあたりまえのことだと思います。
そうして、十回この人が行った経過を申し上げます。第一回目は
昭和三十九年でした。それは単身ですから、一人で行きまして費用は十万円かかりました。第二回目は四十一年に行きまして、そのときは三人で行きました。費用は十二万円になりました。そうして第三回目は四年置いて
昭和四十六年、生き残りの人四十人誘い合わすことができました。四十七年は四十人。そして第五回目四十八年、これは四十八年は二回行った。四十九年も二回行った。四十八年は経済成長で少し金ができたから二回行けたんだということです。そうして去年五十年はやはり二回行くことができたけれども、なかなか経済的にも続かなくなってきた。この三十九年から五十年の経過ですね、きのう厚生省の方に聞いてみました。聞いてみましたら、
昭和二十八年の平和条約から遺骨収集をすることができた。ところが、その時期にはこの人
たちは行けなかったんです。
昭和二十八年はまだ戦後で金もなく行くことができなかった。だから、この人
たちは
昭和三十九年から行ったというここに記録的事実があります。そうして
昭和二十八年から厚生省の人は行けるようになったと言うが、やはり二十八年は発表しただけなのですね。その後四年間の経過は、だれも行っておりません。この生き残りの人
たちが行ける時期から記録されておりますから、この人
たちが
中心に自費で行っているんだと私は思います。厚生省の方にその費用、予算の点についても聞いてみました。それはなぜ聞いたかといいますと、「朝日新聞」に出してはいけないというのが四十九年、そうして五十年にこの写真を撮ってきた。その時期にNHKではニュースとして発表になった。この写真は十一月ですね。やや同時の時期です。十一月に遺骨収集は中止になったと発表になったのですね。私はそこでNHKという日本全国ネットの中で発表するということが非常に計画的だと思うのです。発表しておいて、大ぜいの国民の方
たちには中止になったと。
内容がわからないんですね、ただ中止じゃ。だから、その遺族の、戦後からずうっと思い詰めているこの人
たちがNHKを見ましたときに、お上という
言葉があるかもしれませんですね、政府の方
たちを。この遺族の人
たちは、厚生省と思うか、いや、政府と思うでしょうね、NHKを見た人は。厚生省はNHKのニュースで遺骨収集中止を発表しておいて、そして国民の見ていない場所で予算を出した。国民には知らせないで、行けなくなったと思わせる。そして予算は今年出ている。ときには陳情する人もあるでしょう。しかし、ああお上が発表したんだという昔式の思い方、それからNHKが持っているところの全国ネットを利用してつまり中止を宣伝している。戦後から遺骨収集のため自費で出かけて行っていた遺族をだます結果を生み出す。戦死者の骨はサイパンを初めいまだにある。
愛国精神というものについて、一体どういうのが愛国精神なのか、私はこの点について
教育の問題として文部
大臣からお伺いしたいと思います。