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小笠原貞子君 本当にそういう
立場に立っていろいろの御
検討をお願いしたい問題がございます。北川さんやそしてその支持をした北川さんを守ろうと、そのことは戦争の被害を受けた方
たちを守ることだというので広範な方
たちが立ち上がって守ってくだすっているわけでございますけれ
ども、この事件につきましては、大変複雑であり、そして数々の特殊な
条件というものが重なっているということは先回お目にかかったときもお話を申し上げた次第でございます。
この中で、北川さんが現地で召集をされたと、召集令状によって召集されたということでございますけれ
ども、これに関しましては、そのときの特務機関の旧敷香
陸軍特務機関長であった元
陸軍少佐である扇貞雄さんという方、現在神戸にいららっしゃるわけですけれ
ども、この方が、七月の二十七日に三十二年ぶりで神戸からわざわざ網走までお出かけになりまして、そして北川さんに対して、私があのとき責任を持って召集をしたと、大変苦労をかけていまなお解決できない、大変申しわけなかったと、実に感激的な三十二年ぶりの対面をなすったわけでございます。
ここで、扇さんがなぜそういうようなことを飛んで行って証言をなすってそして援助しようということをおっしゃったかということなんでございますけれ
ども、長官もごらんになったかと思いますけれ
ども、「ツンドラの鬼 樺太秘密戦編」というのがこの扇貞雄氏によってつくられているわけでございまして、これは防衛庁戦史室より永久保存の指定になっているということを伺いました。私も、一番その当時の責任者でいらっしゃる扇さんがお書きになり、そして保存指定にもなっているということで、これを読ませていただいたわけですけれ
ども、この中で言っていらっしゃることは、証言していらっしゃることは、私は、当時樺太庁より戸籍業務を移管せられていた特務機関として、そのゲリラ戦の要員教育の召集令状を敷香
陸軍特務機関長扇貞雄として出したことは動かすことのできない事実であると、こういうふうに証言をしていらっしゃるわけでございます。
それからまた、同じく旧樺太敷香特務機関要員で元
陸軍曹長の南部吉正という方でございます。この方は熊本にいらっしゃるのですけれ
ども、これももう一人の大田さんという曹長さんだった方ですけれ
ども、この方は大分から、はるばる九州の熊本、大分などから八月の十一日にはこの北川源
太郎さんのいる網走まで飛んで行っております。そして、ここでもまた三十年ぶりの対面をして、そしてあのとき本当に自分
たちの責任で召集して苦労をかけているということについていろいろ申しわけないということや、また証言も出していららっしゃるわけです。この南部吉正氏の証言によりましても、当時、私は敷香
陸軍特務機関要員として直接本
人たちに召集令状を配り、その後召集された約三十名のオロッコ、ギリヤーク青年
たちに
基礎的な軍事訓練及び謀報謀略活動に必要な教育を施したと。これはお手元にもいっていると思いますけれ
ども、証言として出してくだすっているわけでございます。それからまた、大田さんという方も、これも当時の
陸軍曹長でございますけれ
ども、これも北川源
太郎さんに対しての証言を同じくいたしております。
それから、一方特務機関ではなくて、このとき樺太庁から、オロッコ族がどういうふうになっているかということを、土人指導員といいますか、旧樺太敷香支庁土人事務所指導員という方が、この運動が全道的に大きく報告をされまして、この方が名乗りを上げてくださいました。松本慶一という方で、敷香支庁土人事務所指導員という、直接指導をされ、
関係されていた方でございます。この人が名乗り出てくだすったために日にちが八月の十一日だったということがはっきりいたしました。この方は、特務機関より要求されて私が書き写して提出した現住民人名簿に基づいて南部軍曹らが一人一人訪ね原住民を召集したということを知っている、ということをはっきりとここで証言をされたわけでございます。
こういうわけでございますから、そのときの特務機関
関係は樺太庁から移管されていたということで、直接自分が召集したと、こういうふうに言われる。そして本人の北川さんも、召集令状によって召集されだというふうに認識をした中で一生懸命に働いたということでございますね。こういうことについても、これは北川さんの受けている受け方が間違っていたのかどうか、この辺も
一つの問題があろうかと思います。
それから、戸籍の問題でございますけれ
ども、時間の
関係で続けて申させていただきたいと思いますけれ
ども、オロッコ族といいますのは、先ほど言いましたように少数民族でございます。そして、樺太におりましたアイヌの方
たち、この方
たちは北海道の中でもいまだに旧土人保護法というようなものになっておりますけれ
ども、このアイヌの
人たちは、たとえば明治四十年にはアイヌの方やそれから後から樺太に入った日本人などは別にして、法令に関する
法律というようなもので必要な事項はその都度勅令で決めるというようなことになっておりますし、それから、土人戸口届出規則というようなのがございます。これは大正十年、樺太庁令の第三十五号でございますけれ
ども、この中では、在住民の身分変動を把握するということになっているわけです。また、樺太に施行すべき
法律に関する件といたしまして、大正十三年の四月十六日に勅令第八十八号で、国籍法、戸籍法、寄留法について適用すると、ここでアイヌの
人たちは含まれたわけでございますけれ
ども、ただしオロッコ族は含まれないということで、相変らずオロッコに対してはそのまま戸籍というものがきちっとつくられていなかったということでございます。ですから、オロッコの方
たちは、日本領である樺太に住み、そして広義の国籍はあるといわれても、戸籍法でこの
人たちをちゃんと登録をしていなかったということのまま終戦になってきているわけですね。そして、サンフランシスコ条約が発効いたしまして、そのとき以来、他に外国籍取得等の事情のない限り広義の日本人としての地位を保有しているものであり、かつ、現在において日本民族たる日本人とひとしく戸籍法の適用を受くべきものと解すると、こういうことになっているわけなんです。
で、旭川家裁でオロッコの方
たちの就籍の問題についての裁判がございました。これは
昭和四十一年に審判が出ておりますけれ
ども、ここにおいて戸籍法の適用こそなかったけれ
ども、オロッコの
人たちはすべて広義の日本人として取り扱われていたものだと、こういうふうになっているわけですね。そういたしますと、非常にさまざまな特殊な
条件の中でこういう事件が起きたと。で、この特殊な
条件であったということは具体的事実として長官もお認めになると思うんですけれ
ども、その特殊な
条件であったということについて御見解はいかがでいらっしゃいますか。