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不破委員 稻葉法務大臣は、あれは判決にあるから判決が法的に覆らない限りはそういうことを繰り返すんだということを言いました。そこに非常に大きな問題がある。連続性の問題を私言いましたが、戦前の治安維持法下の裁判の判決を、それがほかの判決で覆らない限り絶対正しい法の到達点なんだと考えられていること自体が重大なんです。
まずスパイの問題について言いますと、このスパイの問題については、大泉という人物自体が実は法廷で何遍も言っているわけです。初めは警察から派遣されて
共産党を撲滅するために入った。しかし、おれはスパイで入っているのだから、別に厳重に裁かれることはないだろうと思って予審に臨み、法廷に臨んだ。ところが、
共産党の中央
委員をやっているわけですから、どんどん罪が重くなる。これは話が違うというので、予審の途中の
段階から、私は実は毛利特高課長から派遣されたスパイなんだ、
共産党には警察の命令で入ったんだ、だからこれを罪にしないでくれということを予審法廷の
段階で盛んに主張し始めました。これは記録に残っております。しかし、裁判所はそういう事実はないと言って、判決ではそのことに一切触れていないわけであります。これは事実であります。しかし、それなら稻葉さんの議論から言えば、あの判決が法的には正しいんだから、現在有効なんだから、彼はスパイでないことになります。
私はここに
一つの文書を持っております。これは戦後、
昭和二十七年にジュリストという雑誌に太田耐造という人物、これは戦争中の司法省の刑事局第五、第六課長で、治安維持法の
昭和十六年の改悪案を起草して、帝国議会で提案説明を行った検察側の人物であります。彼が言うには、「一時有名になったいわゆる「
共産党リンチ事件」の被害者大泉兼蔵、小畑達夫は警視庁のスパイであった。」いろいろ経過を言っておりますが、「起訴された後予審において大泉は、自分が警視庁のスパイであることを自白したが、検察側は、このようなスパイ
政策を容認していなかったので、これに対して断乎たる態度で臨んだ。」。スパイをやらしておいたが認めるわけにはいかないから、スパイを否認して検察側は断固たる処置を求めた、そのとおりの裁判が行われた、ということをこの当時の検察側の人物がはっきり明記しているわけであります。
ここには私は幾つかの問題がはっきりあると思う。
一つは、あなたが持ち出される判決なるものは、当時の検察側の人の証言によっても、この一事を見ても真実と遠いものがあるということ。それからまたもう
一つは、警察側特高の筋書きどおりの、検察側が断固たる態度で、これはスパイと認めるわけにいかないという態度で臨んだら、それをそのまま裁判所が受け入れたという事実、この二つがこの一事からも明瞭になるわけであります。私がこれを言うのは、ここにあの宮本顕治氏を裁いた治安維持法下の裁判の特徴が非常によくあらわれているからであります。
この問題に入りますと、宮本顕治氏が当時のあの戦争中の法廷でもあらゆる事実を挙げて詳しく述べたように、当時の党中央がそういうスパイを発見したときにとるべき処置はただ
一つでありました。これはスパイであるかどうかを当人を問いただして明白にして、明白になったならば、党から追放してこれを公表することであります。これは党の明瞭な方針であります。その
調査が行われました。しかし、不幸な偶発事件として、その
調査の
過程で小畑という人物が急死をした。これも
一つの事実であります。(「それはおかしいよ」と呼ぶ者あり)静粛に聞きなさい。それで、この不幸な偶発事件を
共産党のリンチ事件としてでっち上げるということを特高警察が当時開始したから、今日のこの問題が起こったわけであります。
宮本
委員長は、戦後も書いておりますが、逮捕されたときにやはり小林多喜二や岩田義道と同じようなさんざんな拷問を受けました。そこには大泉や小畑を使っていた毛利特高課長も乗り込んできて、山県、中川警部など十数人の部下を率いて——
委員長の文書を読み上げますと、「「
世界一の警視庁の拷問を知らないか、知らしてやろうか」「この間いい樫の棒があったからとってある」と言いながら、椅子の背に後手にくくりつけ、腿を乱打する拷問を繰り返し、失神しそうになると水をかけた。そして、「岩田や小林のように労農葬をやってもらいたいか」とうそぶきながら拷問を続けた」。その結果、逮捕されたその日に、その夕方にも歩けなくなり、担ぎ込まれて留置場にほうり込まれる。その後も拷問は続けられたが、冬の寒い雪の降る中で一切の夜具を与えず、拷問の痛みに続けて寒さにあう拷問を加えたということが当時の取り調べの状況として記録されています。
そうしてまた、この記録の中では、(「それは何の記録だ」と呼ぶ者あり)宮本
委員長自体の記録であります。それらの記録の中では、取り調べに当たった特高の警部たちが小畑が死んだということを知ったとき、これはいい材料だ、これで徹底的にデマってやって、おまえたちを
国民から孤立させてやるということを豪語したということも、これも法廷で宮本顕治氏が明瞭に述べていることであります。
ここで裁判の内容について、限られた時間で詳しく述べることはいたしません。ただ、その主張が争われていたときに、当時の治安維持法下の裁判がきわめて明々白々な証拠でも無視したということのために、私は
一つの事実をここで御紹介したいと思います。
当時二人のスパイの
調査のために使われた場所というのは、これは人里離れた場所でも何でもない、東京渋谷の幡ケ谷の民家の一室であります。ここに当時警視庁がつくったその周りの見取り図がありますが、ここに明記されているように、隣の家とは三尺
余りしか離れていない。所によっては一尺くらいしか離れていないところもある、民家に取り囲まれた所でありました。この一軒の家には、恐らく後でわかったのでしょうが、現職の警部が住んでいる。一軒の家には陸軍の幹部が住んでいる。そういう状況のもとでこの民家で
調査が行われました。そうしてこの民家の
調査の家の中で何事があったかは外に自由に聞こえるわけであります。ですから、警察当局は当時証拠を固めるためにこの民家の居住者に全部当たった、その記録が残されております。たとえば家を接した一軒の家、堀川という人ですが、裁縫をしている奥さんで、一日じゅう家にいる。この
調査している所の中で起こっていることは全部聞こえている。こういうことを警察に言っております。「隣は昼は非常に静かであって、夜の午後九時ごろから二階に上がったりおりたりする足音と何か話をしている声が聞こえてきました。」つまり、話している声も、足音も聞こえるようなところであります。「別に悲鳴を上げる声や人を殴打するような声は聞こえませんでした。」こういうことが三軒の家の、一日じゅう家にいる奥さん方から全部証言されています。ところが、もしあの判決文に、法相が読まれたような判決文にあったような残虐なことが行われていたならば、悲鳴が起こったり物音が起こってあたりまえであります。それを調べようと思って警察側が調べたが、何にもなかったという証言が警察官の家からも、陸軍の幹部の家からも、この裁縫屋さんの家からも聞こえてきた。普通の裁判だったらば、この証言があれば、一体事件があったかどうかということについてこれを厳重に考えるのがあたりまえであります。ところが、それは絶対にされなかった。この証言についてはほとんど一顧も与えられませんでした。これが
一つの問題であります。
それからまた、この国会で議論された問題の中に古畑鑑定という問題があります。これも重要な問題ですが、この古畑氏は確かに法医学の権威者ですが、あの鑑定は、事件があったときに小畑とという者の死体を古畑氏が検討して鑑定したわけでないわけであります。直接警視庁に委嘱されて鑑定したのは宮永というドクターでした。ところが、このドクターは、警察側で殴り殺したというようにしろと言われたら、大体そういうことを書く前歴のある人物でありました。これは当時の新聞にも残っておりますが、ある事件があった。そして彼が五十歳の人物だという検案書を書いた。ところが、後で事件が解決してみたら十六歳の死体であったということがあった。それについて一体あなたの検案はおかしいではないかということを問われたら、新聞に書いておりますが、この際年齢は問題にされていなかったので、予審判事の命令のままに書いたんだ、命令のままに解剖したんだということで堂々と
答弁しているような人物でありました。だから、特高警察が
最初殴り殺したと大宣伝をして、そのための鑑定書も用意したが、これが非常に不備であることがわかった。法廷での闘争の中で、これは再鑑定せよという主張が通りました。そのときに登場したのが古畑氏でありました。ところが、それは事件が終わってから八年もたってのことで、しかもその前の医師がやった鑑定書を見て、この鑑定書が筋が通っているかどうかという鑑定を古畑氏がやったわけであります。だから、そこで前の鑑定が間違っているという結論が出たわけですから、これはいわば翻訳で言えば、原書と照らし合わせないでも、
日本語の翻訳だけを見て、これが間違っていることがわかったと同じことでありますから、前の鑑定なるものがいかにインチキであったか、これでも明瞭であります。
しかし、そういう限界のある鑑定書でありますから、これについて被告の側が疑問を持つのは当然であります、事実と違うと。いまの
日本の裁判のもとでこういう証拠が出されて、被告や弁護団の側からこれに対して疑義が出たらどうでしょう。刑事訴訟法では、そういう点で反対尋問を受けない
資料は、証拠としては採用できないことになっております。これはあたりまえの民主主義の原則であります。ところが、当時の裁判では、宮本顕治氏が、この鑑定を当局側が
資料として出したときに、これは違う、幾つかの疑点を科学的な根拠をもとに挙げて、この議論は全部記録に残っておりますが、その点について何が正しいか真実を明らかにするために、古畑氏を証人として出廷させることを求めました。ところが、当時の裁判所は真実を明らかにすることを回避するために、いまでは当然の条件になっているこういう証人の出廷まで拒否して、反対尋問を経ないまま鑑定書の再鑑定である古畑鑑定なるものを最終結論として決定したわけであります。ここにも私は治安維持法下の裁判の
問題点があると思う。
さらにもう
一つ言いましょう。この宮本裁判では控訴が認められませんでした。つまり、どんな裁判でも一審には誤りがあり得ます。二審でも誤りはあり得るけれ
ども、それを最小限に除くために、あの戦前の
日本の反民主的な法律のもとでさえ、控訴制度は公判に原則として採用されておりました。ところが、
昭和十六年の治安維持法の改悪で、治安維持法の被告に関してだけは、
最初決めてしまったらもう控訴は認めない、一切の事実の再審理は認めないということを治安維持法の改悪で認めて、控訴審まで取り除いてしまったわけであります。ですから法務大臣が述べたように、控訴を飛んですぐ上告であります。上告というのは、書面を審査して、法的な不備がないかだけを調べるものです。そういうことが治安維持法下の裁判では行われた。これも重要な問題であります。
私はここで幾つかの論点を挙げました。特高警察の側が、
最初にはこの不幸な偶発事件を故意による殺人事件に描き立てるために主張をし、それに対してこれが不幸な偶発事件であったということを主張して、リンチ事件なる非難を一貫して拒否した宮本顕治氏の態度、この二つがこの裁判の中では一貫して争われたわけであります。ところが、私がいま述べたことからも明らかなように、当時の治安維持法下の裁判所は警察側の仕組んだ筋書きどおりの結論を引き出す、その
目的のために、さっきのような隣家の人の、いまで言えば最も重要な証言まで一切無視をする、あるいは重要な証拠として使うべき
資料に対する反対尋問も拒否する、さらには控訴も拒否する、そういうことでむちゃくちゃに結論にただひたすら持ち込んだ。詳しく言えば切りがありませんが、これが治安維持法下の裁判の実態であります。
そこで私はあなたに伺いたい。そういう状況のもとで裁判所の一定の判決が出た。それをあなたはやはり今日でも、これにかわる判決が出ない限り、法的にはこれが正確な、正当な到達点だというようにお考えなのかどうか、そのことについて伺いたいと思います。