○
竹本小
委員 第三番目は、問題意識を余り初めから出さぬ方がいいというやり方も、確かに研究の場合、
調査の場合にはありますが、今度の取り組みは、これを全部読んでみまして、
感じとして、どうも問題意識というものが希薄である。少なくともあらわれたところが希薄過ぎる。だから第三者に発表してみても、だれが読んでも何の感激も受けない、感動も受けない、心配もない。これは全くさらりとしておって、あるいは極端に言えば、読んでも読まぬでも同じですね。そういう
意味でもう少しアピールするものがなければいかぬと思うのです。その点をひとつ
会長の立場において特に指導していただきたいと思うから申し上げるのですが、たとえば
昭和二年の
銀行法のときには、渡辺
銀行が倒れたとかなんとかということで、
銀行というのはそう簡単につぶれては
信用秩序を混乱させるから困るのだという大きな問題意識があったから、それが現在の
銀行法には非常によく出ておるのです。したがって、今度の
銀行法改正というときには、
昭和五十一年代にはどういう問題があって、
国民もそれを
要請したので、これが問題のポイントだというものがここにも出てきておって、それが今度の改正法の中に移し込まれていくということでないと困るのじゃないかと思うのです。そういう
意味から言う、あれこれたくさん書いたり
考えたりしてあるわけだけれ
ども、どこがねらいで、いまの問題意識の
中心、重点は何かということについて、どう
考えてみても、あれこれ公平に分配して書いてあるけれ
ども、われわれにぴんとこない。それは
一つ非常に困るのではないかという
意味で、私は、ゆうべだったか読んだ本にこういうことが書いてあるのです。
私は、法律にしても、それから
経済政策にしても、あるいは
経済学にしても、常に、こういう生きた
経済の問題ですから、問題意識というものが非常に強くなければいかぬ、そういう点で申し上げるのですけれ
ども、たとえばグラッドストーンが、ビクトリア
時代の
経済の非常な成果を踏まえて、一体これは何だったろうかということで演説したことがあるのです。彼が自由党内閣の
大蔵大臣であったとき、こう言っているのです。「この、ひとを有頂天にさせる富と力との増加は、」途中省きまして、「まったく有産階級のみに限られている」。これが後でもめまして——クラッドストーンは自由党員ですから、その
大蔵大臣がそういうことを言ったものですから、それを今度はマルクスの資本論に引用するのですね。ところが、マルクスの資本論の引用は間違っておるというので、ブレンタノというのが文句を言って、グラッドストーンはそんな演説はしていないということで論戦をやった。ところが、だんだん調べてみると、最後の結論は、やはりグラッドストーンは演説をした、そしてマルクスの引用は間違いでなかった、ただイギリスの速記録を、グラッドストーンが余り刺激が強過ぎるというので後で削ってしまったのですね。それで、速記録に載っていないというのでブレンタノが文句を言ったんだけれ
ども、実は載っておったんだけれ
ども消したんだというようなことがあるらしいのです。いずれにしても、グラッドストーンはそれだけの問題意識をちゃんと持っておった、自由党ながら。ビクトリア王朝のイギリスの
経済の繁栄は有産階級に役に立っただけだということを彼は大きな問題として提起している。それで、マーシャルの
経済学はそれを受けて出ているのですね。そして、イギリスの
経済の
発展というものが本当に貧乏人のために役に立たぬで、富裕階級、
資産階級のため、有産階級のためにだけなった、こういうことで彼がそのことに問題意識を持って、そこで、マーシャルの
経済学が出た。
マーシャルはそこでこういうことを言っているのですね。貧乏というものは人間進歩の敵だ、ビクトリア
時代の空前絶後に達した資本の増加によって、その貧乏がなぜ絶滅することができないか、これが
経済の根本問題だ、自分の
経済学はここからだ、そう言って「貧乏は、人間の
性格を堕落させ、その労働能率を低下させる、それはただに労働者階級の厚生を破壊するのみならず、生産能率を低下させることによって社会全体の厚生をも
阻害し、人間進歩の敵となる」こういうことを言っているのだ。これは非常にいい問題意識だと思うのですね。だから、マーシャルの
経済学というのはそういう立場から出ている。グラッドストーンの
経済政策もそういう立場から来ているというように、それぞれの問題意識というものが、背後に貫くものがなければならぬと思うのだけれ
ども、この中間報告あるいはこれから
調査会が取り組んでいかれる場合の問題意識は何かということについて、私は、先ほど来言うように、どうもぴんとこない。
私自身は、
銀行法の改正を論ずる場合に、
銀行はもうけ過ぎてはいないか、
銀行はいばり過ぎてはいないか、あるいは
銀行は、
高度成長ですが、走り過ぎてはいないか、また貸し過ぎてはいないか、大
企業と癒着してはいないか、こういう五つの問題を問題点として私自身が持っておるのです。そういうようなことについてここでもいろいろ
議論が出ましたけれ
ども、どういう取り組みが行われるだろうかという期待させるものがここに何があるかということについて、どうもぴんとこないという
意味で、そのねらいは何か。たとえば、ここにも書いてありますね、
銀行の
あり方を全部見直すと、こういうのです。見直すなら見直す立場とプリンシプルが要るわけだけれ
ども、どういう立場からどういう見直しをするのかということについて、われわれがびんとくるような見直しの指導原理、見直しの理念というものがない。その辺についてひとつ伺いたい。
時間がないから、もう
一つあわせて申し上げますが、その本当のねらい、見直しの根本の立場は何かということと、それからもう
一つは、先ほど来いろいろ出ておる
金利自由化も時間がないから触れませんが、
競争原理あるいは
市場原理というものについて一言だけ私申し上げておきたい。
これは
言葉としては、
市場原理も
競争原理も
金利自由化も皆非常に響きがいい。
金利自由化についてはまた改めてゆっくり論議をしたいと思うのですが、私は、立場としての問題で
競争原理の問題、一言だけ申し上げたい。それは、
資本主義経済のこの
発展の
段階というものを
考えた
議論にならなければいかぬ、こういう
意見なんです、私の結論は。だから、みんなの力が同じくらいで、フェアプレーでしっかり
競争しなさい、そうすれば富の蓄積がたくさんできる、こういうときの市場
経済原理というものは、一〇〇%それだけの意義があるとぼくは思うのですね。賛成ですよ。ところが、いまそういう
時代でない。
そこで、たとえばこれはゾンバルトか何か言ったと思うのですけれ
ども、
競争には三つあると言うのですね。これはひとつ
佐々木さんにぜひ
考えてもらいたい。
競争には三つある。
一つは仕事の
競争。品質だとか
サービスの
内容とかいうような仕事の
競争。
一つは独占の
競争。いまの
日本は、カルテル列島と言われたり寡占、独占と言われたりして、独占の
競争ですよ。三つは広告の
競争。本当の
競争というのは仕事の
競争なんです。ところが、
現実は独占の
競争であり広告の
競争だ。そういうときに、
競争原理復活、
競争原理だ、
競争原理だというようなことは、
経済の
発展の
段階を忘れた、抜きにした
議論だとぼくは思うのですね。だから、ここにもいろいろのこと書いてありますけれ
ども、論旨が非常に明快にならぬというのはそこの食い違いがあると思うのです。たとえば
金利自由化とこう言う。そういうことを言うべき
段階かどうかということを
考えないで言っているものだから、ちぐはぐが出る。先ほどから
佐々木さんはいろいろ配慮して言われていますけれ
ども、それは当然なんですよ。いまそういう
競争原理一〇〇%の
時代じゃないんだ。だから、それは長期の
一つの
課題であるとかあるいは将来の
課題であるとか、あるいは
弾力化をすると言っても、その
弾力化にもいろいろの制約を残しつつと、こう言わなければならぬ。そう言わなければならぬというところに問題があるのですね。結局そういう
意味で、
段階が一〇〇%自由
競争礼賛の
時代ではなくなってしまっているんだから、そういうときに
競争原理に返るなんというようなことは、将来の
課題ではなくてそれは過去の
課題なんだ。これからはそうではなくて、
日本の
経済も
日本の
金融も、どういうふうに計画性を持たせるかということの方がより大きな
課題なんだ。大蔵省から言わせれば、国債の消化の問題もあるでしょう。先ほど出た
預金部の
資金の運用の問題もあるでしょう。いろいろの点を
考えると、これからは自由
競争原理に返っていくということに
経済の大きな進歩的な
意味やあるいは大きな
役割りを期待すべきか、あるいはそれをコントロールする形の中において、もちろん大蔵省の通達行政をぼくはどんどんやれと言うのじゃないですよ。そういうやり方はもちろん改めなければならぬと思うけれ
ども、指導原理から言えば、
経済の
段階がまるっきり変わって、いまは寡占、独占、広告の
競争が盛んになって、それがために問題が多い、そういうときの取り組み方としての問題意識というものがここにないと思うが、どうでしょうか。
この二つだけ。それで終わりにします。