○有田一寿君 いまの読み方が二つに読めるということでありますが、
新聞に
報道された限りでは二つに読めないように書いてあったと私は思いますが、したがって、
国民はみんなその第三次の分は要らないんだと、もちろん、
主任化反対だから要らないんだろうというふうには受け取っているでしょうが、いま御
説明になったように、正確に二通りの読み方があるから
主任制度化につながるものの、その財源は要らないんだというふうには受け取っていないと思いますが、そうなると、私が言いたいのは、要するに
教育界に少しでもこの財源を導入したいというのがお互い
教育関係者の悲願でございます。少しでも、それは何に使うかといえば、使い方はいろいろあるが、せっかくこれが給与に充てるべき財源だとしてあればそれは取りたい。だから、
主任制度化の財源が要らないんだと。しかし、それ以外は一銭でも多く教員の本俸を上げることに導入したいという意思表明こそ私は正しいのであって、まるで全体がもう要らないんだと、それに
主任制度をくっつけるぐらいなら全部要らないというのは決して一人一人の教職員の本当の気持ちではないであろうということを申し上げたいわけでございます。
それから、いろいろ
主任を含んでストライキの問題等、特に最近論議が盛んになってまいりましたが、これは私は教師像というもの、
教育現場というもの、それに対して
国民の中にこうなければならないんだという
考え、いやこれでいいんだという
考え、いろいろ際立ってまいったことから、それにいろんな
主任問題その他が絡んで盛んになってきたんだと思います。私は自分でこれも書いたものですが、少し申し上げますと、私はこういうことを
考えるのです。この
教育の成果は
教育の技術によらず、
教育者その人の人生観による、まあそういうことがよく言われておりますが、だから
教育はまさに人である。
教育者の人生に対する態度、
教育への情熱あるいは思想的信念、これらのものが一つに統一、融合されて、その人の人生観、世界観を形づくるであろう。この確固たる人生観が導きとなってその人の
教育に対するこの実践をよきものにしていくのであろう。そういう
姿勢がやがて児童生徒だけでなく父兄までも感化するに至るのではないか。こういう
意味における私は人生観が教師について今日ほど強く望まれておるときはないという感じを持っておるわけでございます。
私は三つの
立場が
学校の先生にはあると思う。一つは、もちろん教壇に立って子供を導く
立場における教師の姿でございます。これは組合員たることと直接
関係はありません。自分
自身の教養と研究によって児童の人間を形成していく、これが最も大事な
教育者の第一の姿であろう。第二は、教員組合の一員としての
立場であります。これは組合という組織に属し、経済的要求を掲げて相互に団結して闘っていく。これは教師も人間であるとみずから宣言し、聖職者としての祭壇を自分から飛び降りて人間宣言をした瞬間に始まった
教育者の姿であると思うんです。これは過去の教師像とは異質でございます。
教育の権威というのは、
教育者が基本的人権としての生活権を私は要求したから損なわれるとは思っておりません。生活権とは別個のものだと認識しております。だから教権の維持は、
教育者が人間性を没却して聖人になることによってではなくて、内なるものを培って、教え子や一般社会人と共通の地盤に立ちながら、なお理想社会追求の熱情と人間愛と知性においては一般より一歩抜きん出ているんだと、そういう自覚によって初めてなされるというふうに
考えております。
教育の権威というのは、教師が親権の被委託者であるという事実からくる面も大いにあります。さればといって劣等な教師が、おれは親権の被委託者であるといかに胸を張ってみても、だれもがそこに権威を認めません。だから、そういう教師論というものを、これをもう一回私は再認識する必要があるんじゃないか。第三の
立場、これは
教育者も家庭人でありますから、家に帰ったときは妻に対しては主人であり、親に対しては子であり、子に対して親である。宗教を語り、いろいろ友情を温める、そういう個人的な生活があり得る。この以上申した三つの
立場というものが、やはり融合されていなきゃいけないんだ、これがばらばらで、どれかが、一つだけが抜き出た場合に、私は
教育者がむずかしい
立場に立つ。だからそれを三つが融合されなきゃいかぬ。だから教員組合であることを決して私は否定もしませんし、組合はあるべきだという論者でございますけれども、先ほどから申し上げましたような行き過ぎたこの組合運動に対しては、私は非常に反対の
立場をとるものでございます。まあ憲法によって思想はそれぞれ自由でありますから、共産主義思想を持とうと、社会主義思想を持とうと、自由主義思想を持とうと私は教員はいい、また思想を持つことはいいことである。思想を持てば思想の戦いが始まりますから、自分はそれは正しくないと思えば自分の方の信じている思想を強く主張する、これも当然であります。ただし、基本法なり
学校教育法で言われておりますように、キャンバスの中においては絶対にその思想を
行動に移してはいけないと、これは大変むずかしい命題でありましょうけれども、これを実行すべきで、おれは思想は持っている。しかし思想を持っておれば、思想は当然生活ににじむんだから、
学校の中でもやはりそれは言うよと、それをとめることはできないというような者は私は教師の資格がない。それは他の職場に行くべきであって、教職から離れるべきである。これがいわゆる一番大事な境目だと思う。ところが、最近そこが乱れてきているのではないかと、それがいろいろ
国民から不信感を持たれるその大きな原因になっていないか。今度の明日に控えたストライキについて
考えた場合に、私はこの動機が、直接動機は
主任問題であれ、その遠因は必ずしも
主任だけではないであろうと
考えているものですから、
主任のことについて
文部大臣が先ほどおっしゃったように、そのストを回避するために、これを便宜的に妥協するんだとはおっしゃりますまいけれども、万そういうことがあってはなりますまいということを申し上げたいわけでございます。それについて簡単で結構ですが、もう一回心境をここで伺いたい。特に教員組合の
姿勢に対する
見解と、先ほどおっしゃいましたが、もう一回明確におっしゃっておっていただきたい。