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参考人(
岡松八千代君)
岡松八千代でございます。住んでおるところは、川崎市川崎区榎町三−一−五一一でございます。
私は、元
日本赤十字社の
看護婦として大東亜戦争のときに召集になった者でございます。自分の経歴を申し上げて大変おこがましいようでございますけれども、私は戦争のころすでに結婚しておりました。子供が二人おりましたので、何回か召集と言われましたけれども、その都度お断りしてまいりましたけれども、どうしても戦争の十五年、十六年になりますと学校の先生が足りなくなってまいりました。で、名目は学校
看護婦として勤めるように言われまして、高知県幡多郡奥内村の小学校に学校
看護婦として十六年の四月から十八年の八月まで、召集になるまで勤務いたしました。それで十八年の八月になりまして電報で召集令状が来たんです。でも私は子供が二人あるし、現在学校に勤めておるからお断りしましたのですけれども、二回目の電報が参りますし、それから、その当時反動と言われました戦争に反対する思想があるんじゃないかというように憲兵も調べに来たそうでございます。それは後でわかったことなんですけれども、それから町役場からは兵事係の方が家族の説得に来まして、いやおうなしに十八年の八月、子供を残して私は召集になりました。
そのときはどこに行くかわかりませんで、高知を出発いたしまして、大阪の日赤に参りましで初めて満州に渡るんだということを言い渡されました。
私だけじゃなく、そのときに三百八十人ぐらいおりました
看護婦さんは、皆それぞれ、本当に自分で戦争に参加するんだという気持ちで参加した人もいらっしゃると思いますけれども、家庭を持った者は皆何とかして早く帰さしてほしいということだけを願っておりました。
二年という約束で参りましたけれども、二十年の八月に終戦になってしまいました。終戦になりまして一年間は、日本の兵隊さんの傷病兵がいましたので、仕方なくというんですか、やむを得ず牡丹江とハルピンの病院で日本の傷病兵の看護をしまして、二十一年の八月、その傷病兵の方が日本に引き揚げるとき、内地還送になるときに、当然私たちも帰さしてもらえると思って荷物をまとめたんですけれども、行く先は別々でした。日本の傷病兵を護送するのは軍隊の衛生兵さんばかりで、私たち
看護婦は技術者として、いまの新中国、当時八路軍——パーロ軍と言っておりましたが、そちらの軍隊の方にすんなり捕虜として行かされてしまいました。それも私たちが行きたくて行ったんじゃないんです。私たちは荷物をまとめて内地に帰りたいと思ったのが、そういうふうに上部の人の話し合いがあったんでしょうか、それから捕虜生活が七年続きました。合計満州におりましたのは私たちは十年でございます。
その八路軍に入ります前の一年間は、——戦争が負けてからの日本の私たちは、陸軍病院時代、陸軍から雇われている陸軍
看護婦さんと同じ仕事をしておりました。陸軍
看護婦さんといえば陸軍省から雇われている
看護婦さん、私たちは
日本赤十字社の召集ですけれども、
日本赤十字社も日本の陸海軍からの要請があって召集したんだそうです。だから当然私たちは、陸軍病院に勤める者は陸軍、海軍病院に勤める者は海軍の所属だったんです。というのは、私たちはこういう召集令状をもらいました。兵隊さんは赤紙です。でも
看護婦の場合はピンクです。いまこれはコピーにとっておりますから黒く写っておりますけれども。
それから、虎林の陸軍病院に参りますと、すぐ陸軍読法の式というものをさせられましていやおうなく軍属として待遇させられました。これはそのときの書類でございます。それから陸軍病院の
看護婦さんと同じように勤務をしておりましたので、その抑留中に亡くなりました私たちの同僚は、帰ってきまして私たちの報告等いろいろありまして、家族の方は
遺族年金をいただいております。もう一つ、ここにありますのは「自殺」という名前が書いてあります。でも、どうして自殺したか。戦争の直後、兵隊さんは刀をもって割腹しました。私たちは陸軍の病院から渡されたものは青酸カリだったんです。この方は青酸カリを飲んで自殺をしたんです。
そういうふうに、私たちは召集になって帰るまで一貫して日本の軍属として向こうでは取り扱わされてきました。それでずいぶん苦労もしました。その二十年八月終戦になりまして二十一年までの一年間は、ソ連から食べるものをもらいましたけれども、食べたものは私たちはコウリャンと大豆でした。そして水もないんですね。木もないんです。大きな原木を兵隊さんがひくときには、
看護婦がこのくらい幅の広いのこぎりの相手になって、こうしてまきをひくんです。水をくむときには、兵隊さんが後ろで、山に登りますので私たちが前になってドラムかんの水担ぎもしました。そうして、二十一年の春になって緑の芽が出たときには、私たちはタンポポの葉もとりました。でも、その青い葉っぱをとったのは自分たちが食べるんじゃないんです。寝ている患者さんに青いものを食べさしてあげたい、春になったんだということを知らしてあげたいと思って私たちはとりました。それで、薬草もありません。スズランもとりました。
そういうふうにして一年間、勤務した兵隊さんは二十一年八月、よくなりましたしみんな内地に還送されてしまいました。残った私たちは八路軍の方に捕虜として残され抑留されてしまいました。
それで、八路軍に入ったときどういう仕事を私たちがしたかといいますと、私自身は少し
看護婦の経験もありましたし、年もいっておりましたので、医者の助手としてお医者さんと同じ仕事をさせられました。診断をし、投薬をし、そして手術をして、レントゲン写真を自分で撮ってきました。それからもう一つは、向こうに
看護婦さんがいないんです。だから、若い人たちを昼夜を通して
看護婦さんとして養成もしてまいりました。そういう私たちの一つ一つ、一日一日の積み重ねの七年間でした。
その間、日本とは文通もとだえておりました。二十六年になりましてやっと日本との文通ができるようになりました。そのとき私の主人は病気で亡くなっておりました。二人の子供は祖父母が育ててくれておりました。私だけじゃありません。若い人たち、二十代で召集になった方は自分の青春を十年間犠牲にしてまいりました。
それで、二十八年、やっと私たちが帰るようになりましたときに、いまの中国の幹部の方は、御苦労さまでした、あなたたちが七年間新中国の建設に努力してくだすった、協力してくだすったことは、いまはあなたたちもわかりませんでしょう、私たちが言ってもわからないと思いますけれども、日本と中国とが国交回復ができたときに、そのときに中国の出方がいいというのは、あなたたちのいままでやってきた功績があればこそと思ってください、そのときにはあなたたちのいままでの苦労を、自分自身で喜び、家族の方、地域の方に話してください。そういうふうにお別れのときの言葉は中国の方からいただきました。昨年、田中首相が行かれまして中国とああいう結果になりましたのも、私たちは黙っていままでしんぼうしてまいりましたけれども、私たちが技術者として残され、苦労をしての一日一日の積み重ね、目に見えないところで、日本の言葉の通じる人が一人もいないところで私たちは勤務してきたんです。働いてきたんです。家に帰りたくても帰れなかったんです。日本との文通も二十六年からできたといいましても、三カ月に一回ぐらいのものでした。
そういうふうに、限られた、制限された生活、でも、いま思ってみますと、よかったな、内地の人も苦労されたんだし、私たちだけが苦労したんではないということはわかっております。でも、いま私が言わしていただきたいことは、舞鶴へ帰ったときに、この引揚証明書ですね、ここには陸軍省の復員と書いてあります。ここには軍属の印鑑が押されております。これはコピーです。これは汚れておりますけれども私の実物なんです。で、ここにやはり陸軍省復員になっておりますし、ここが軍属になっております。
そこまでは軍属として扱われてきたんですけれども、さて、今度
恩給の問題になりますと、判任官だけしか
恩給にならない。判任官は
恩給をもらっているから、前に
国家公務員で判任官として
恩給もらった人がそのまま
恩給もらえなくなったら困るからというのですが、
恩給から外されているということなんです、
日本赤十字社の
看護婦さんは。それを聞きましたときに、私たちは、婦長さんというのは二十一名のうちに一名しかいないんです。あとは全部
看護婦なんです。私もその一人、
看護婦で参りました。だから当然
恩給の対象にはなっておりません。でも、帰ってきてから私たちは自分たちの生活に追われまして、
恩給の問題とか、国にこういうようなことを言うというようなことは、とてもそういう暇もありませんし、どういうふうにしていいかわかりませんでした。やっと帰りましてから二十年ですね。戦後三十年と皆さん言いますけれども、私たちは日本に帰ってから二十年なんです。その二十年の間に何とか生活が落ちつきまして、見回したときに、私自身は現在六十四歳です。若い人たちでも皆六十歳、五十五歳。五十五歳から下の方は一人もおりません。そういうふうに三万三千の人が召集になっております。
きょう、私、各党の先生方の御協力によりまして
参考人としてここにこうして話をさしていただきましたことを本当にありがとうございました。私たちの気持ちをわかってくれという方が無理かもわかりませんけれども、まあ皆さん方にも家族もおありになることと思いますので、奥さんのこと、お子さんのことも考えて、私たちがいまお願いしておるのは、
日本赤十字社看護婦を
恩給の対象にしてほしいということなんです。その請願を私たちはいまお願いしておるんです。
この問題はいままでも
国会で取り上げられたことがあるそうですけれども、日の目を見ないで現在まで過ごしております。前はどういう方法であったかわかりません。今度の私たちが始めました請願は、日赤にも関係ない、現在病院にも勤めていない、私のようなフリーのような者が現在請願の会というものをつくりましてやっております。
先生方にお願いいたしますことは、この外地に行った者も、私たちのように北方に行った者もあります。南方に行った者もあります。皆それぞれ苦労をしてまいりました。私たちのしてきたことに対して何かの形であらわしていただきたい。そういう切なる願いを持って、いま私の手元に集まっておる救護
看護婦として出征いたしました方は五十名しかありませんけれども、日本全国ではもっともっとたくさんいると思います。いまその方たちに呼びかけておりますけれども、何とかして国に私たちのしてきたことに対する一端でも認めていただきたい。これがきょうお願いに参りました私の趣旨でございます。