○
玉置和郎君 弔辞。
本日ここに、過ぐる三月四日逝去されました故
須原昭二君の
追悼の辞を申し上げます。
いまは悲しい思い出となったものの、君とは全く赤裸々な
人間同士の深い交際を続けさせていただきました。これも君の誠実な
人柄と、ひたむきなその信念に生きようとする真摯な姿に引かれるものがあったからにほかなりません。
思えば、君とはしばしば相対立し、激しい議論を交わす中から、いつしか、弱者のためあくまで闘う君の
政治信条にいたく感銘し、イデオロギーや党是を超えた
人間としての友情が芽生え、目指す
社会正義の確立という目標は全く一つであったと思うのであります。
君はまたまれに見る
理論家でありました。何事も緻密に積み上げた
理論の上で徹底的に追求するの気概を持っておられました。そのため、
国会での
質疑に当たっても常に丹念に内外の資料を収集し、みずからのものとして消化し尽くすまで研さんを重ねられておりました。そのためしばしば夜を徹しての研究を行い、翌朝はれ上がったまぶたをしばたたきながら登院される君に対し、私は再三健康に留意するよう忠告したものであります。強い近視でその上極度に視力が衰えていながら、いつも小さな文字でぎっしりと書き込まれた
ノートが君の
勉強ぶりを如実に物語っております。私は君の
刻苦勉励を物語る
ノートの一ページを奥様からいただき、
朝夕祈りを欠かさない私の手元に置いて終生君の御
冥福を祈り続けたいと決意いたしました。それは党派を超えた、心の友であった君へのささやかな思慕の念でもあります。
昨年私も
危篤状態から立ち直った体験から君に会うたびに「健康第一だ、無理をするなよ」と言い続けてまいりました。しかし、君は口ではわかったと言いながら
行動では一向にわかっておられた節が見えなかったのは返す返すも残念でなりません。
みずからの肉体を酷使して国政にかける君の
行動は
社会正義に燃える若さと
情熱のゆえでもあったのでありましょう。その気魄に押され、また折を見て忠告しようとしていたやさきに計報に接したのであります。なぜあのとき心を鬼にしてでも強くいさめなかったのだろうか、君を死に至らしめた責任の一端は私にもあるのではなかろうかとさえ考える昨今であります。
君は終戦直後、名古屋駅周辺をさまよう
浮浪者の群れの傍らで金さえ出せば何でも手に入るやみ市が法を破って存在するさまを見てやりきれない矛盾を感じ、
学生運動に走ったということを聞きました。その後
岐阜薬大で薬学を学ぶうちに、
医師中心の
医療体制や
科学が利益によって曲げられていく
医療制度に強い憤りを抱き、いつしか
政治運動に入ったのだとほぼを紅潮させて語ってくれた君の澄んだまなざしはいまなお鮮烈に私の脳裏に焼きついて離れません。
君は若くして念願とした
政治への道を
愛知県議会議員に求め、二十七歳の若さで初当選、以来県議を三期務め、四十六年六月僅差の票数が物語るごとく激しい
選挙戦に勝ち抜き、
国会議員としてこの議場に席を得たのでありました。
君は党にあっては
社会保障政策審議会の副会長として、また
参議院にあっては、
社会労働委員会の
理事として
社会福祉の発展や
医療制度の改革へとそのたくましい
情熱を燃やし続けてこられました。ことに
戦時災害援護法案、
公的医療機関の充実を図る
医療法の
改正案、
医療保障基本法案等々に見せた君の強力な
政治活動こそは後世に至るまで高く評価されるものであります。
また、三年九カ月のわずかな
期間ではありましたが、その間
予算委員会、
決算委員会、
科学技術特別委員会、
災害対策特別委員会等々、君の行くところ必ずや一陣の新風が巻き起こったものであります。
その
会議録は実に百八十四万語の記録となって永遠に称賛されるものであります。
このように、君の
国会での悔いなき
全力疾走の足跡を見ても、君にとってはさだめし充実した生涯であったと思われますが、病床にあってなおわが国の
政治の
現状を
最後まで憂えておられたと聞き、壮途半ばにして世を去られた無念の思いは察するに余りがあります。四十七歳の若さでこの世を去った君の御遺志は、必ずや
政党政派を超えて守り育て続けなければならないと信ずるものであります。いまここに君の友人として、
政治家の一人として限りなく君を追慕し、ひたむきなその
政治活動と卓越せる思索、その業績をたたえたいと思うものであります。
重ねて君の誠実な
人柄をしのび、院を代表して謹んで
哀悼の意を表する次第であります。
在天の霊、願わくば照覧あれ。
心からなる御
冥福をお祈り申し上げます。
合掌
昭和五十年三月二十六日
参議院議員 玉置 和郎(
拍手)
—————・
—————