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参考人(
宮沢浩一君) 御紹介いただきました
宮沢でございます。
私は、先ほどの
田邨参考人のように長いことこのような問題について
研究をしたわけではございませんし、
実務家でもござませんので、具体的な例などを挙げながら
お話をするということは、はなはだ不適任だと存じます。そこで、
考え方の
筋道と申しますか、そういうものに立脚しながらこの問題を考えていきたいと存じます。
先ほどの
田邨参考人の御
意見とパラレルになると思いますので、以下
政府案、それからそれに対して予想し得る
反対提案、この争点に沿って
お話をしてみたいと存じます。第一点は
補償全額をどうするかという問題、第二点は非
拘禁補償を認めるべきであるかどうかという問題、第三点は
費用補償をどの程度認めるかという、この
三つについて
お話ししたいと存じます。
考え方の
前提といたしまして、この種の手続でもって精神的、
物質的損害もしくは
苦痛をこうむった者に対して
補償を行うについて、真に適正な
補償を受けるべき者に対してできるだけ
補償がなされるべきであるという
考え方が一方ではとられますけれ
ども、他方、
補償金もしょせんは国民の税金から支払われるものであります。したがって、
タックスペイヤーの
納得が得られない
方法で
補償はなされるべきではないのだという、別の考慮もこの場合当然働くだろうと思うわけであります。
第二点といたしましては、
刑事補償法もこれはもちろん
憲法四十条を受けて制定された
法律であることは、言うまでもないのでありますけれ
ども、この
制度自体も、やはり
現行の
刑事司法制度との
兼ね合いでもって考えなければならないと存ずるわけであります。
第三点といたしまして、
補償を受けるべき者の
社会階層、その者が犯したとされる
罪種も多種にわたっております。したがって、
刑事追訴を受け、
被疑者、
被告人となったことによる
社会的地位の低下、これもかなり千差万別であると思われますので、
法改正を行う場合に、
適用の上公平が維持されるかどうかということを慎重に検討すべきであろうと存ずるのであります。
第四点といたしまして、私
どものさがといたしましては、
法律的に
筋道を立てて考える場合、やはり
バランス論、ことに他の
現行の
法制度、
民事法上あるいは
行政法上の同種の
補償制度との
バランスを考えなくてはならないだろうという
配慮がございます。したがって、私の申し上げます
意見は、どうしても
法律的な
配慮ということの枠を外れることができません。ですから、いわゆる
政治判断を意識的に避けざるを得ないわけであります。それで、
法制度を
改正しようとなさる
政治の衝に当たる
方々は、高度な
政治的判断に立って、真に救うべき者を救う
制度として
法制度の
改正を考えようとなさるならば、それはそれで
一つの
立場だろうと思います。その場合にも、
刑事補償法もまた先ほど申しましたように
現行法秩序の枠内にあるのであって、
法秩序全体から遊離した部分的な正しさだけを追求するということのないようお考えいただきたいと存じます。
第五点といたしまして、
最後に蛇足でありますけれ
ども、
刑事補償法の
運用状況について、よく
無罪となった者がこの
制度を活用する例が少ないということを申されます。
法改正のための論理的な布石としてそのような
ケースが提示されるわけでありますけれ
ども、この点につきまして、限られた
事例からのアナロジイではなく、
法制度の
改正のために国会として
実態調査をなさり、何がこの
制度を生かしていないかという点について
納得のいくデータを持って解明されんことを期待するものであります。
以上の五点を
前提といたしまして、先ほど申しました
三つの点について簡単に私の
考え方を述べたいと存じます。
まず第一点、
補償金額であります。
政府案では、
現行の六百円ないし二千二百円を八百円ないし三千二百円とする案であります。これに対しまして、千五百円から六千円という
対案があるやに聞いております。この算定の
基準といたしまして、私の知るところでは、
政府案によっては、
賃金とか、
物価指数の係数を掛け合わせて
現行の
補償金額の
上限、
下限をそれぞれ
計算し、いわゆるスライドさせているようであります。これに対する
対案は、
失業対策事業における
最低賃金の日額を
下限の
基礎とし、
上限については、
労働省月別勤労統計を用いて
平均月間給与額を
計算の
基礎に置いているようであります。
私
自身、かつて
刑法改正などの仕事に携わりましたときにいつも感じたのでありますが、たとえば
法定刑を引き上げるとかあるいは引き下げる、それをならして決めるというような場合に、非常にこの種の
金額と申しますか、あるいは刑の幅というものを決めるのには、何か
基準があるようでいて実は
基準がないような、非常にむずかしい問題だということを
自分自身も経験しております。
私
自身といたしましては、
政府案の
金額につきまして、
上限、
下限、確かに十分ではないと存じます。しかしながら、これもこれまでの
制度との
兼ね合いで考えるという
法律家のさがといたしましては、
補償金額を
物価の
上昇率にスライドさせて
計算するという
意味で、このような
計算の
方法は仕方のない線ではなかろうかという感じを持っております。しかしながら、最近の急激な
物価の
上昇とか、あるいは将来、もしかするとまた
物価が上がるかもしれぬというような
状況などを考え、あるいは
上限についてはもう少し上積みするというようなことも考えられないわけではなかろう、この辺はフレキシブルに感じます。ただ、
下限につきましては、私
自身といたしましては、八百円の線はそのとおり抑えておいた方がよいのではないかと存ずるのです。
その
理由につきまして申し上げますと、現在の
補償制度におきましては、
違法行為をした者が
責任能力なしとされた場合にも
刑事補償を行っているという、まあ私の
立場からすれば法の不備がございます。余談になりますけれ
ども、私
自身いま考えております
被害者補償という問題についていろいろと議論をし、
研究会な
どもしたことがございますが、たとえば
公明党案にこの問題について触れるところがございました。それは同党の
被害者補償案の
最後のところで、
心神喪失等責任阻却の
理由により
無罪の
判決を受けた者にまで
刑事補償金が支払われている点を改める必要があるという、そういう一項目がございました。私は、この
提案はまことに妥当な
考え方であると存じます。
英米でも
ギルティ・バット・インセインという
考え方がございます。
ギルティではあるけれ
ども責任能力がない、この
ギルティの場合には
補償金の支払いはしないというふうに聞いております。さらに西ドイツで、一九七一年三月八日に
刑事訴訟処分に関する
補償法というものが新たに公布されまして、同年四月十一日に施行されております。この
法律の第六条第二項第二号で、
訴訟障害のある場合とともに、
犯人が
責任無能力の
状態でその
行為を犯したときには、
補償金の全部または一部を排除することができるというふうに、
裁判所にその種の
裁量的な
規定を設けることによって
判断をゆだねているという例がございます。
しかしながら、わが国の
判例では、
責任無能力の場合にも
補償を認め、この場合、
最下限の
金額を支払っているという
実情にあるようです。したがって、この点について
排除規定を置かない限り、何となく割り切れないこの種の
事案に対して、
現行法のもとでは
補償金を支払わねばなりませんので、
金額はなるべく少ない方が
タックスペイヤーとしては
納得し得るのではなかろうかと考える次第であります。
次に、
死刑の場合の
金額でありますが、私はこの千万円という
金額よりも、むしろそれよりも多い、たとえば千五百万というような
金額でもよいのではないかと考えます。それは、なるほどこの種の問題は希有なことであります。希有なことでも、しかし、
国家が人の生命を奪うことは許されないわけであります。
国家としてこのような起こるべきでない事態を起こしてしまったときには、十分に手厚い
補償をすべきであるという
意味で、私は千万という
政府案よりもあるいは千五百万、そのぐらいの線を主張したいのでありますが、この立論の
基礎は、私
自身実は
死刑廃止論者であります。
死刑廃止がもしいますぐにできないとするならば、何らかの形で
死刑の
適用を慎重にしてもらうための
一つの論理的な
手段として、このような
金額を大きく上げておくことがやはり心理的なプレッシャーになるのではなかろうかというはかない望みで、千五百万という説を申し上げたい次第であります。
第二点の非
拘禁補償の点でございます。
この点につきましては、御承知のように、
政府案では何らの
対応策を認めていないようであります。なるほど
憲法四十条の
規定に、「抑留又は
拘禁された後、
無罪の
裁判を受けたとき」という
規定でございます。非
拘禁の
期間に対する
補償は、この点、この
規定からは引き出せないわけであります。もちろん、このような
憲法の条文を盾にとって、この
制度を非
拘禁期間にまで広げる必要はないという固い
解釈、いわゆる法実証主義的な
解釈に固執する必要はないことですし、事実、この点の
補償がないことによって、結局余り長
期間でない
身柄拘束期間の
補償金としてスズメの涙ほどしか獲得できないので、
無罪となった者も当然の
権利行使をしない例が多いという
実情があることもよくわかるのであります。私
自身理想を言えば、いつの日か、ある程度の
補償を認めることをなすべきでしょうけれ
ども、しかし、この点については拙速を避けるべきであると考えるのであります。
それには、
法制度全体の仕組みからして、果たしてこれを認めることが合理的であろうか、一律に
無罪とされた者の非
拘禁期間を
補償することで真に公平を担保することができるか、もし一律でないとするならばどのような要件を掲げてそれをしぼるか、これらの論点についてなお慎重に検討を重ね、他の
法分野とのつり合いを考慮すべきであると考えるからであります。
この点についていささか述べてみますと、
拘禁された
期間については、本来自由であるべきわれわれ人間がその意思に反して特定の場所に拘束されるのでありますから、その精神的、
肉体的苦痛に対して
金銭的補償をすることは可能でありますし、
金銭による換算もある程度合理的にできるかと存じます。しかしながら、非
拘禁の
状態の場合に果たしてどのようにしてその
損害を算出し得るか、技術的にかなり困難ではないかと存じます。その人の従事している職業とか、その人の
社会的地位などの点でそう考えるのであります。
この点について、たとえば同じ
無罪と申しましても、先ほど第一点のところで申し述べましたように、違法ではあるけれ
ども責任のない者の
無罪の場合などはかなり疑問であります。また、たとえばこれは下村教授が提示されました具体例でございますが、親告罪である強姦
事件で
犯人を逮捕したけれ
ども、被害者からの告訴がない、そこでやむなく
犯人が所持していた短刀を問題として、銃砲刀剣等不法所持で
起訴したところ、事後において携帯許可証を持っていたことが判明し、
無罪となったという
事案などの例に見られますように、実際
事件の処理に当たって
検察官の
判断により立件をする場合、立証の関係で
事件全体をすべて余すところなく訴追するとは限らず、この訴追技術上の
配慮が後に
無罪判決に結びつく場合もないわけではないようであります。
このように、いろいろ考えてまいりますと、すべて
無罪なるがゆえに
補償をする、しかも、非
拘禁期間についても
補償をするということになりますと、真に
補償をなすべき者に
補償をするという
制度目的、その本来の趣旨から若干疑問が残るのであります。
現在の刑事
訴訟法は、
無罪の推定というたてまえをとり、それに応じて
捜査権の行使にかなり制限が加えられております。できるだけ
被告人に
損害を加えないような
配慮がなされております。確かに、場合によっては迅速な
裁判の要請があるにもかかわらず、例外的に
裁判の長期化という事態を生んでいる例がないわけではありません。この場合にも、
事件の性質上やむを得ない事由で
訴訟が遅延し、かつ証拠法の制限などによって
無罪となる場合もないわけではないのであります。この場合、非
拘禁期間を全部認めるのか、果たしてどの程度認めるのか、かなり技術的に困難があろうかと存じます。犯罪の種類によっては、
起訴事実についても、たとえば強盗殺人と道交法違反とでそれぞれが
無罪になったという場合、それぞれの精神的
損害はきわめて大きいわけでありまして、この場合どのようにしてその非
拘禁期間の
計算をするか、たとえば定額に非
拘禁期間を掛けるようにするのか、それとも、その額も
事案によって
計算し、それに非
拘禁期間を掛けるのか、この辺のところで技術上かなりむずかしい問題があるのではないかと存ずる次第であります。
ところで、この非
拘禁期間につきまして若干申し述べたい点がございますが、社会的に名誉が傷つけられ、社会的に葬り去られ、休職を強いられ、精神的にも財産的にも不利を受けるということは確かに考えられるところでございます。このような事態が生ずることは、事実として否定し得ないところだろうと存じます。しかし、これも
訴訟法のたてまえである
無罪の推定との
兼ね合いで、余り強調し過ぎることは疑問であります。しかも、この種の社会的なスティグマ、烙印は、
法制度によって押されるよりも、どちらかというとマスコミにより情報化され、その情報が拡散することによる結果であることが多いのであります。つまり、法的制裁というよりも、ある
意味では社会的制裁の行き過ぎという面がございます。これをすべて
刑事補償法でカバーするということに合理性があるとは、私には考えられないのであります。
第三点、
費用補償であります。
よく指摘されることでございますが、記録、調書などのコピー代が今日きわめて高い。したがって、これらの
費用を
補償する必要があるといわれております。確かにこの種の負担を考えることには合理性があります。しかしながら、その場合、
現実に
被告人が負担した
費用といっても、
弁護士の数による相違、それから
費用を個人が負担したか、それとも組織がバックアップしたかなど、いろいろな問題がそこにありまして、
事案によってまちまちなようであります。したがって、一定の線を引くことが果たしてできるか。たとえば一人分の
弁護士の
費用、その日当、かかった
費用というふうに、一人というふうに
計算するかどうか、この辺のところに技術的に果たして
基準が明確にできるだろうか。もし法文の形で明確化できるとすれば、つまり法文として表現し得るならば、私
自身は賛成したいと存じます。
この点に関して、
検察官上訴の場合の
費用の
補償を一審の
無罪にまで広げる、これは原則として賛成したいと存じます。
時間の関係で、さしあたってこの程度申し上げておきます。