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参考人(
和田英夫君)
明治大学で
憲法と
行政法を専攻しております
和田であります。私は、お二人の
参考人と違いまして、全く実務の
経験はございません。一学究の
立場からこの
法案について
意見を述べたいと思います
大きく分けて三点に分けて申し上げます。
一つは、
最高裁の
あり方と
任命人事との
関係についてであります。第二番目は、この
法案の位置づけについてであります。第三番が
法案の
内容についてであります。
まず、
最高裁の
あり方と
任命人事という点について申し上げるわけですが、その前に、私はこの
法案の基本的な
考え方、あるいは基本的な
内容については賛成であります。その
立場から申し上げます。
最高裁は、御存じのとおり
最高の
審判機関としてと、それから
最高の
司法行政機関としてと、
二つの権能を持っております。この
最高の
審判機関としての中には、さらに
違憲審査権、いわゆる
違憲審としての
最高裁判所、それと
上告審としての
最高裁判所、
二つの機能がさらに分かれるわけであります。私たちが、ほぼ四半世紀にわたって
最高裁の果たしてきました
役割りを判例並びに
司法行政の面から
評価した場合に、果たして
憲法の番人として
国民の負託にこたえてきたであろうかどうか、
国民のための
裁判所としての本来の
最高裁の
あり方、いわば初心にはっきりと定着した形で来たであろうか。これは初代の三
淵長官の
言葉を顧みるわけでありますが、その点でかなり問題があると思います。
私は、
ラートブルッフが
法学入門で書いている
言葉をしばしば思い起こすわけでありますが、
ラートブルッフは、
司法の正しさとは結局、
司法に対する人々の
信頼以外の何物であろうかということを書かれております。この基本的な
観点に立っての
最高裁の
あり方という点から考えますると、りっぱな
最高裁の
裁判官の方もいらっしゃるし、いろいろ
評価はありましょうが、少なくとも私は、たとえば四十一年の十月の中郵判決、その後の都教組判決、その後いわゆる僅少の差で逆転しました全農林警職法判決、さらにその後の四十九年ですか、猿払
上告審判決、少数
意見もございますが、この辺の経過を見まして、そこに
審判機関としての、つまり判決を形成する機関としての
最高裁の
あり方が微妙に
任命人事と絡んでおったということを感じるわけであります。
これはアメリカでも、ウォーレン
長官のころの
最高裁と、ニクソンが大統領になって
任命して現在四人おりますが、それのいわゆるニクソンコートと言われている、あるいはバーガーコートと言われていることとはかなり判決が違ってきております。これはそれぞれの
任命権者が違ってくるので、当然そこではさまざまな
裁判官が
任命されることは、これはわかりますが、重要なことは、アメリカでは上院で厳しい
審査を受けて、そうして大統領のノミネートが、
指名が完成されるという、そういう仕組みになっていることであります。この点からしまして、私は歴代の
最高裁の
審判機関としての
評価が微妙に
任命人事と絡んでいるということは、これは当然なことであって、それ自体はやむを得ないと思うのですが、だからこそ、そこにもう
一つの何らかのチェックが必要じゃないかということを諸
外国の
制度から見ても感ずるわけであります。
もう
一つ、私は
最高裁の歴代の
内閣任命人事で
評価として大きな問題なのは、二千五百人ぐらいでしょうか、現在
裁判官がいると思うのですが、それの
人事を十五人の
最高裁の
裁判官が持っているわけであります。実際上は、恐らくは私の推測では、
長官と事務総局がかなりそれのデータを集められていると思うのですが、少なくとも二千五百人近い下級審の
裁判官の
人事を
最高裁が持っているということは、単に判決形成の上からだけではなくて、やはり下級審の
裁判官の
任命ということについても
最高裁の持っている
司法人事権が重要な
意味を持つということをあらわすわけで、その点において、単に判決形成をする機関としての
最高裁だけじゃなくて、下級審の
裁判官を
任命する
司法最高機関としての
最高裁の
あり方、これをも考えますと、いよいよもって
最高裁の
裁判官の
人事というものは、
国民的な視野に立って考え直される必要があるのではないかというふうに感ずるわけであります。
宮本判事補の再任拒否
事件が四十六年の三月でありまして、それをめぐって
司法の異常事態が広まったことは私から申すまでもありませんが、こういう問題にも、やはり
最高裁の
任命人事、だれが
最高裁の
裁判官になったか、どういう形で
最高裁の
裁判官が選ばれたかということと微妙なかかわりがあるというふうに感じます。
私は田中二郎前
最高裁判事、私の実は恩師でありますが、田中先生が学士会の学士会会報四十九年一月十五日号に書かれているのに非常にサゼスチョンを受けたわけです。そのところをちょっと読んでみますと、「何よりも大事なことは、
最高裁に
国民の
信頼を受けるに足りる
裁判官らしい
裁判官を得ることであり、法曹の各分野から、その
経歴、年令
構成等を考慮し、ヴァラエティーに富んだ適格者を求めることが望ましい」、こういうことをおっしゃっております。これはその前提として「今日のような激動の時代で、価値観の多様性がみられる場合には」というふうなのがあります。私は、
最高裁の
裁判官の
任命については、やはり各界各層から広く広範な
立場に立って適格者を得るという
考え方、これが基本的にないと、やはり
国民の
裁判所としての負託にこたえられることはできないのじゃないかというふうに思うわけであります。
その点で、りっぱな方が選ばれたか選ばれなかったかということの結果論の前に、どのような基準でその
任命がなされたか、その場合の
観点はどういう点であったかという原則的な問題でもいいわけですけれども、そのようなことがほとんど
国民の間からはわからない。したがって、仮にりっぱな方が選ばれたとしても、一体どういう基準で、どういう方法でそれがなされたのかということ自体に対する、これは
天野先生も先ほど言われたのですが、
疑惑がやはり残るのではないかという
手続的な問題があると思うのです。
以上が第一の
最高裁の
あり方と
任命人事についてでありますが、次に、
法案の位置づけについてであります。
私はこの
法案を見まして二、三感じた点を申し上げますと、これは現行
憲法の枠内における
法律であるということ、
憲法を改正するという前提で
最高裁の
裁判官の
任命人事を考えるならば別な方法があるわけですが、これは現在の
憲法の
規定を動かさないという前提のもとでだということをはっきりしておく必要があると思うのです。
そしてそれが、二番目としては、この
諮問委員会の根拠
規定が、従来の
片山内閣のときには政令という根拠づけだったのですが、今度の場合にはこれは
法律の根拠づけを得られております。なお三十二年の
審議未了になったとぎの、これは
内閣提出
法案ですが、
裁判官任命諮問審議会、これもやはり政令という形でこの
諮問委員会の
設置の根拠づけをしております。今回これについて
法律という形でこの根拠づけをしたについては、
提案理由にも書かれてありますが、恐らく
国民の総意のもとにつくられた
法律、そして逆に言うとそれは
内閣の
専権、政令では
内閣だけの権限でできますので、それよりも
法律というもっと高い法形式でやった方がいいということだと思います。この点は、私は理想としては結構だと思いますが、
法律でなければならぬという、絶対不可欠の必要があるのかどうか、これも
一つの問題だろうと思います。つまり政令レベルでも可能じゃないかということも考えられます。
しかし、一番私が問題なのは、
法律で
規定するにしろ、政令で
規定するにしろ、その運営の問題ではないかと思うのです。この点で、
片山内閣のときの
諮問委員会が失敗に終わったのかどうかについてはもう少し綿密に検討する必要がありますけれども、少なくとも片山
委員会のときのそのままの復活ではないのであって、従来の成果、なかんずくここ二十数年以来の
最高裁に対するさまざまな
国民の期待あるいは
疑惑をも十分教訓として取り入れたものという
意味でこの
法案を見ていくならば、
一つの
あり方として妥当なものだと思います。
なお、
国民審査があるわけですけれども、これは事後の
審査であり、あるいはリコール的なものであります。いわば今回のこの
法案の
内容は事前のチェックでありますので、相まって
最高裁のあるべき姿というものを形成するわけでありますけれども、私は事後
審査もしくはリコールとしての
国民審査法の運用が形骸化しているとは思いませんが、ただそれだけで十分だとはこれまた思いません。したがって、事前におけるチェックというものをもこれにさらに付加しながら、
国民審査法の
あり方とセットにして
最高裁の
裁判官の
任命を考えるという
考え方が、私は本来の
あり方ではないかと思います。
第三の点は、細かい点までは申し上げませんが、
法案の
内容について若干申し上げます。
一つはこの
法案が実現の
可能性を意識されてつくられた
法案なのか、それとも理論的もしくは理想的なものとして考えての
法案なのかということを私
最初見て感じたのですが、恐らく私の推測では、これは実現
可能性というものを相当濃厚に意識されての
法案だと思います。したがって、理論的にはさまざまな点で問題があります。以下、率直に若干の点を指摘しておきたいと思います。
まず第一に、
内閣の統括下に置かれる
諮問委員会であるということ。これは第一条及び第二条で明確であります。
諮問委員会でありますので、法的にこれを意思決定を迫るような、いわば何といいますか、もっと強い権限を持ったものではないわけであります。この点はこれで結構であるし、もしそうでないならば現在の
憲法のもとでの
内閣の持つ
選任権を奪うことになりますので、これは当然だと思います。
一番問題なのは、第四条、第五条の
委員の
構成ではないかと思います。この
委員の
構成は、相当苦労されてつくられた案文だと思います。
日弁連の方の
法案も大体はこれに近いし、また
片山内閣のときのあれも、まあ大体ですが、かなり近いわけであります。ただ、あえて私の率直な
意見を申し上げますと、衆議院議長、参議院議長というのが冒頭にあります。これは
国民の代表者としての
国会、それの代表者だ、まあ
国民の意思を代表する者だということで設けられたわけでしょうけれども、またいままでも大体そういう形で説明してきたのですが、少し考えてみますと、
内閣の所轄下に置かれる
諮問委員会、つまり
内閣の所轄下に置かれる
諮問委員会で、片一方では国権の
最高機関である
衆参両院、その議長。そうなると、三権分立ということはそうこだわりませんが、少なくとも議長でないとだめだという
考え方でやるならば、どうも
内閣の
諮問委員会にすぎない——すぎないと言うと悪いのですが、
内閣の
諮問委員会であるこの
諮問委員会のメンバーに、当然に両院の議長がなるということはどうだろうか。私は、たとえば
法務委員会の
委員長でも結構じゃないかという感じがします。これは三権分立の上で言うと国権の
最高機関の両院の議長ですので、ちょっとその点は私は引っかかる点があります。恐らく立案の方は三権分立ということを考えられているのだと思います。が、しかし、
内閣の所轄下にある
諮問委員会だということを考えますと、議長でなければならぬのかどうかは、私は理論的に問題だと思います。
二番目に問題なのは
指名のところだと思います。特に
長官と検事総長、
日弁連の会長、これが入られているのは恐らく法曹三者ということで、これは当然だと思いますが、問題なのは、たとえば六号にある
最高裁の
裁判所が
指名する
裁判官六名、それから
日弁連が
指名する
弁護士六名ですね、この中で、たとえば
最高裁判所が
指名する六名という中身はどういうふうなものになるのかどうか。つまり、
指名の中身の問題が具体的にはわかりません。恐らくこれは
審議会での運営に任されるのだと思います。それと、
日弁連の場合の
指名の六名はどういう形で選ばれるのかどうか。これはあとで御質問があれば私の推測を申し上げますけれども、この点が運営の問題として、場合によってはどういうふうな結果になるのかについてかなり関心が持たれるところであります。
もう
一つは学識者でありますが、この学識者をどのようにして選ぶのかどうか。前に
日弁連の方を拝見しましたときに、学術会議というのがあったわけなんですけれども、学術会議が妥当かどうか、私は若干問題があると思います。学術会議といっても、第一部会から第七部会ありまして、私も現在学術会議の会員ですが、第二部会が
法律と経済であって、お医者さんとか農業の先生とか、物理の先生とかがいる部会もたくさんあるわけで、学術会議といってもちょっとこれは漠然としているわけなんです。あえて言うならば、学識者の中で学会
関係を考えるならば、いま学会では民、商法
関係の私法学会と、それから
憲法、
行政法関係の公法学会と、刑法、刑事訴訟法学会の刑事法学会と、もう
一つは労働法学会と、この四つの各学会の存在は無視できないと思います。だから、この学識者の中に学会
関係を考えられる場合には、恐らくそういったいま私が申し上げたような学会と密接な連絡がない限りは、どうも学識者というものの対象がどういう形で選ばれるのか疑問であります。
大体以上でありますが、最後に申し上げたいことは、私は
最高裁判所の
裁判官を
任命することが、たまたまいままで非常にりっぱな方が
任命されておったかどうかということの結果論よりも、
任命されるに当たっての民主的な
手続そのものが問題ではないか。これは私が調べた限りでは、西ドイツにしろ、イタリアにしろ、フランスにしろ、無論アメリカにしろ、
任命権者のいわば完全な自由裁量に任されてなされている例はないわけであります。これは単なる
上告審だけの
裁判所ですと、あるいはさっき
松本先生の言われたようなことも妥当すると思うのですが、先ほど申し上げたように、全国二千四百人余りの下級審の
裁判官の
人事を
最高裁の十五人が持っている。さらに
違憲審。日本の場合には
違憲審査の権限と上告の権限と両方持っていますが、このあたりはアメリカ型なんですが、アメリカでは無論上院の綿密な
審査の上に
最高裁の
裁判官が
任命されるわけですが、ドイツ、イタリアあるいはフランスでは
違憲審と
上告審が分かれております。いずれにしろ、しかし何らかの形で
国会がそれに関与しております。こういう問題もありまして、比較
憲法的に見ても日本の
最高裁の
裁判官任命、わけても
人事権も持ち、
違憲審査権も持ち、
上告審も持っているという、そういうある
意味で言うと非常に集中化された
最高裁の権限集中、これを持っている場合に、そうであればあるだけにやはり
国民的な視野で考えられて、そして何らかのチェックを設けてやられた方が
最高裁に就任される方にとっても私は喜ばしいのじゃないかというふうな感じを持っています。
以上であります。