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参考人(
樋口恵子君)
樋口でございます。
徳育の
振興とおっしゃいますからには、やはり現代の特に青少年についての
徳育が衰えているという、そういう認識から出ているのだと思いますけれども、私は、まず最初にある高校生の
子供の目から見た大人という
一つの作文を読んでみたいと思います。
「私は、高校一年生でバス通学をしています。」「四十歳前後の男の人が、」隣りの人と話していました。「「このごろの若者は、相手の気持ちになって話をしたり、注意していない。少しは、気にさわることでも、我慢しなくてはいけないですな。」「そうです。もっともなことです。」と話していました。
次の停留所で、一人のおばあさんが乗って来て、男の
人たちの前に立ったとき、バスが動いたはずみに、男の人の足におばあさんの足がさわったとき、大きな声で「いたいなー。気をつけてください!」とすごい剣幕、このときおばあさんは、驚ろきと恐怖心でふるえているみたいに見えました。
また、まわりのお客さんは、平然とした顔つきで私は驚ろきました。そして、男の人がさっき言った「少しは気にさわることでも、我慢しなくてはいけない。」と言うことは、どうなっているのか、それに少し触れただけなのに、あんなに怒って、年寄りというものは、足腰が弱まっているのだから私たちよりふらりとするだろうと、思わないのかと。そして、私だったらたぶん、「気をつけてください!!」ではなく「だいじょうぶですか。」と聞きかえしたでしょう。」、こういうことを指摘しています。
また、中学三年生のときにつくづく
感じたことです。「私も友達も、高校受験という苦しい門を目の前においていました。そして、友達は、おとうさんの会社の社宅に住んでいました。しかし、そういうところは、
子供同志のライバル意識よりも、母親同志のほうが、なんとすさまじいでしょう。「あそこの子は、×
学校を受けるから、あなたも、がんばって絶対に×
学校を受けて入りなさい。」「〇〇号の子は、☆
学校を受けるから、あなたは、もっと良い
学校を受けて絶対に入りなさい。」まるで親同士のスパイごっこ。外面では、ニコニコと世間話をしていると思えば、内面では、このような考え、です。
まあこういうことが指摘されておりまして、私は、現在の高校生、青少年というのは、意外に健全な意識を持っているのではないか。むしろ、
徳育ということにおいて、反省すべきは大人の側ではあるまいかということをまず申し上げておきたいと思います。大体、最近の若い者はというふうに悪口を言うのは年配の
人間にとりまして、大変気持ちのいいことでございまして、私
自身もこのごろはそういうことを言うのが大分気持ちがよくなってまいりました。ということは、実は
自分自身が老化現象を起こしていることだとつくづく自戒いたしております。
さて、私は、
昭和十五年に小
学校に入学いたしまして、
昭和二十年敗戦の年の三月に
国民学校を卒業いたしました。いわば
国民学校教育を最も長く受けた世代の一人でございます。もちろん、入学から卒業まで修身という名の
道徳教育を受けておりました。その立場からお話し申し上げたいと思いますけれど、あれは
国民学校五年生ぐらいだったでしょうか。そろそろ学科の好ききらいができまして、何が好き、何がきらいなどということを友達と話し合っていた日のことを、修身
教育というとすぐ思い出します。私は修身はきらいでした。なぜかというとその時間だけとりわけ姿勢を正しくしていないとしかられるからなんです。国語やその他の時間では大したことないんですが、修身となりますと、きちっとしていなければならない。そして余り物を考えなくて済むからです。だから私はつまらないと言いましたら、友達はあら修身ぐらい簡単なものはないじゃないの、試験のとき思いもしないりっぱなこと、してもいないりっぱなことを書いておけばいいんだから、こんな簡単なことはないわ。算数や何かは
自分で考えて答えを出さなきゃいけないけれど、修身は答えが決まっているんですものね。これは戦時下のわずか十一歳の女の子の会話でございます。当時の修身
教育というのは、十一歳の女の子の目から見ましても、この
程度にしか考えられていなかったということを、やっぱり当時の文部省の方々がもしいらっしゃいましたら考えてみる必要があるんじゃなかろうかと思います。
ところで私は、それじゃ
道徳教育は必要か必要でないかと言いましたら、これは絶対に必要なことだと思います。やはり私たちは何をもって
自分が崇高と考えていくか。
自分が美しく、そして
自分がたっとんでいくかということは、やはりさまざまな材料、さまざまな選択に関するその
基礎となる
知識というものを与えられて、初めて身につけることができるのでありまして、野放しでありまして、私は単純な
人間性善説に立つことはできないと思います。そして
道徳教育というものは、これは
人間が生まれた日から出発するものでありまして、
学校教育だけ考えるということにも私は反対でございます。やはりいま現状
徳育ということについて不満を持つならば、やはりまず最初に反省しなければならないのは、いまの高校生の指摘にまつまでもなく、人が最初に生まれる場である
家庭というものにおいて、一体一人一人の大人が
徳育ということをどう考えるのか。それを考えていく必要があると思います。私は不勉強でございまして、そんなに
道徳教育が出発したころのを余り読んでいなかったんですけれど、きのうにわか勉強で、
昭和三十三年に現在の義務
教育の
道徳教育が出発するときの指導書をちょっと開いてみました。そこで気になりましたことは、別に真正面から反対しなきゃならないようなことはそれほど書いていなくて、もっともだもっともだと思うこともたくさんあるんですけれど、ちょっと気になりましたのが、ここで言おうとしていることは、高度な
人間像や
価値体系の具現を要求しているのではない、義務
教育における
道徳教育は、日常的、
社会常識的
道徳教育であるというふうに書いてあるのは私は気になりました。考えてみますと、道徳とは何かということになってくるかもしれませんが、いわば高度な
人間像や
価値体系と離れた道徳というものはあり得るのだろうか。それから離れまして、日常的、
社会常識的
道徳教育となりますと、かつての修身
教育のような徳目
教育、生き物を哀れめ、親に孝行せよ、非常にばらばらに離れた
一つ一つの徳目をこうせよああせよと言ってくる。そういった日常的、瑣末的
人間像をつくり上げる。その
一つ一つの行動規範を押しつけていくということでしかなくなるのではないかと思います。日常的、
社会常識的
道徳教育といいますと、あいさつをきちんとしょうとか、借りたものはちゃんと返せとか、そうなりますと、この間の爆弾犯人なんていいますのは、大変現在の
道徳教育をきちんと受けている人と言えないこともないわけです。非常に日常的、
社会的道徳をきちんと守った
人たちでありました。私はやはりこの
道徳教育といいますものは、どんな
人間像、どんなふうに生きるかということを考えることから出発するのだと思います。
最近、親たちの中で、ラジオの番組とかテレビの番組などで、どんな人になってほしいですかっていうことを聞きますと、これは大体、赤軍事件ぐらいを境目にいたしまして大変大きく変わっております。それまでは、いわば自立できる人とか、自主的な
人間、あるいは個性を伸ばすなどということが大変多く返ってくる答えだったんですけれど、どうも赤軍事件で、これはマスコミも悪かったと思うんですが、親を大ぜい引っ張り出しまして、そして親の顔が見たいなんてやって、まあ親たちはあれでふるえ上がってしまいまして、その後から親たちが口をそろえて言うことは、まず人に迷惑をかけない
人間になってほしいということが、まあこれは恐らく十人の親に質問をしたら、第一に出てくることは、そうですね、とにかく人に迷惑をかけない
人間になってほしいと。これはいわば文部省版期待される
人間像には、私もいろいろ申し上げたいことございますけれども、やはり
国民的のコンセンサスとしての期待される
人間像というのは、それは私、その時代その時代でありますし、必要なものだと思います。現在、それを言うならば、人に迷惑をかけない
人間というのがコンセンサスになっていると思うんですけれども、しかし、そのことには、私は実はそれが徳目
教育として出されてくるとしたら、
一つ大きな疑問があるんです。と申しますのは、迷惑をかける
人間になれと言っているのではありません。いわば
一つ一つが徳目
教育になってしまいまして、人に迷惑をかけないということが徳目として抑えられると、いわば高度な
人間像、一貫した
価値体系というものと離れた、人に迷惑をかけないということはどういうことなのだろうかと、一例を申し上げます。
これは団地などへ行きますとよく見受ける風景でございますけれど、たとえば
子供が押し入れの上などからどかん、どかんと飛びおります。そして見ておりますと、大抵お母さんがしかるんですけれど、いまはやりの
言葉でしかるわけです。だれちゃんおよしなさい、人に迷惑かけますよと。ところが迷惑というのは実は抽象的な
言葉でありまして、三歳の幼児には絶対に理解できません。ですから、彼ないし彼女は相変わらず飛びおりているわけです。そのうちに、やめないのでお母さんはこう言います、やめなさい、下のおばちゃん怒ってくるわよと、こう言いますと、これは非常に具体的で、迫力に富んでおりまして、よくわかるもんですから、彼はぴたりとやめます。
それから、たとえば今度は砂場へ遊びに行こうとします。そうすると、まずお母さんが偵察隊で出まして、ああいまいじめっ子いないから出てもいいわと言います。それから、あるいは今度はいじめっ子のお母さんは、外へ遊びに行きたいと言うと、人に文句を言われるのがいやですから、だれもいないところを見計らって、ああいまなら遊びに行ってもいいわと言います。人に迷惑をかけないというと、大変な美名なんですけれど、実はこういう
教育の中で、
人間と
人間との
関係を断ち切り、
本当は、
子供時代には迷惑かけたりかけられたりしながら、人に踏まれて
自分の痛さを知ってという、だから相手も痛いだろうという、そういうプロセスを経なければ、迷惑ということは理解できないと思うんですが、現在の、人に迷惑をかけない
教育という美名のもとに、人に文句を言われなければ何をしてもいい
人間、文句さえ言われなければ何をしてもいいではないかと、実は他者に対して非常に無関心な
子供を育て上げているのではないか。
もう一例を申し上げます。たとえば幼稚園の中では、人に迷惑をかけないとか、決まりを守るなんというのは、これは幼稚園の段階でもよく出てくる徳目でございます。私が見ておりました幼稚園にも、いろいろな決まりがありまして、決まりを守ろうということはよく言われておりました。たとえば、具体的なことで言えば、ブランコは一人占めをしないこと、みんなで乗ろう、そして二十乗ったらかわることなどという決まりができていました。大抵の
子供はその決まりを守ります。ある女の子は、二十乗ったら
自分から、だれにも言われないのに、さっさとやめました。それで私が彼女に「よくかわったわね、どうして」と言ったら、そばに立っている先生をじろっと見て、「だってこわいもん」と言いました。その次の
子供に、「なぜかわった」のと聞いたら、「だってゆきはいい子だもん」と言いました。要するに、だれか見ていてこわいから、あるいは
自分はいい子だからという誇りに支えられてかわっているわけなんです。ところが一人だけ大変暴れん坊な男の子で、絶対にかわらない子がいました。数は幾らでも数えられる、そういう能力は発達した
子供ですから、百も二百も乗って絶対にかわらない、みんなにもてあまされておりました。で、先生はそのときどうしたかといいますと、彼に、二十乗ったら絶対にやめろと言うかわりに、その生活場面で彼に一人の友人ができるようにしむけていったわけです。みんなにつまはじきされていたんですけれど、だんだんと彼には友人と呼べる
人間が一人だけできてきました。あるとき、彼が並んでいる
子供をしり目にブランコをしているところへ、先生が、そのようやく友人という
関係のつくれた男の子を、行列の一番前にすっとこう立たせたわけですね、そのうちにその子と二人の目が合いました。そうしたら、絶対にかわろうとしなかったその男の子は、ふわっと笑ったと思うと、
自分からブレーキをかけて、その友人にかわったわけです。
実は、私は決まりを守るとか、人に迷惑をかけないというのも、そこに
基本があるのではないかと思いました。彼は実は目の前にいる男の子を友人として愛している、友人として愛するという愛情を通じて、ああ
自分が乗りたいんだから、あいつも乗りたいだろうなということを理解する、そうして、その子にかわってやろうというふうになっていく。決まりということも、最初は決まりとして教えることも必要だと思いますが、結果としては、
自分も乗りたいけれど相手も乗りたいだろう、それをそうなんですよと論理的に教えられるのではなくて、相手を愛することによって自然にそのことを理解していく、そうしてその愛というものがだんだん
知識、
人間関係、
経験の広まりによりまして、単に
自分の仲のいい友達からだんだんとクラスメートに、幼稚園全体の
人間に、ひいては地域
社会、国の
人間、
世界の
人間にと広がっていく、いわば人に迷惑をかけないというのも、
基本には相手の痛みがわかるからかけない、相手を愛しているからかけない、それから決まりを守るというのも、仲間を愛しでいるから、だから守るという、それが私は言ってみれば、
基本的に据えていかなければならない問題、たとえば
一つの迷惑をかけないという徳目を挙げて言うならば、そういうことであろうと思います。
ですから、そう考えてきますと、かつての修身
教育のように、徳目だけ取り上げまして、ある時間で何々せよこうせよと言っても、結果としては私は無
意味なことに終わる。現在の
道徳教育が、もしそういう形で、その時間だけで話されているとしたならば、一番物を考えなくていいわという時間になるのではないかと思います
その
意味で、その道徳、
徳育などというのは、
人間関係、
社会関係の中で初めて具体的に生活して実現されるものでありまして、そうしてたとえば、これは国語の教科書に一体どういう題材をとってくるか、
社会科の中で何を学ぶか、
家庭科の中でどういうふうなことを考えるかと、私はこれはあらゆる教科がすべて
道徳教育であろう。また、そういう
教育でなければ
本当の
教育ではなかろうと思っております。
そういう
意味で、私は、この
昭和三十三年、
基本的人権という
言葉は——もちろんその中にも、権利とともにという
言葉は使われておりましたけれど、一方で義務という
言葉を非常に復活したいような
道徳教育ということには、これはやはりそのとき世論でいわれました修身
教育の復活というような危険性を私も
感じましたし、その
意味での道徳の時間の特設ということには私もやはり賛成はできません。しかし、いま
槇枝委員長がいろいろおっしゃいまして、おっしゃってることを
基本的には私は賛成でございますけれど、しかし、親の側に、やはり
学校教育の中に、いま、
道徳教育がなくなっているんじゃないかと、そういう不満があったことは確かだと思うんです。おっしゃることは一々ごもっともですし、しかし、いわば修身や
教育勅語というものがなくなりまして、そういうものにかわる
価値体系を、まあ私などの
感じるところで見ますと、かなり修身
教育の復活的な形で文部省が出してきた。それには反対です。しかし、それに反対するならば、やはり今度は日教組の方々、先生方が考えるモラルというものについて、これを具体的にやはり打ち出していく努力が必要だったのではないかと思います。なかったとは申しません。確かに生活綴り方運動とか、マカレンコの集団
主義とか、あるいは生活
教育運動とか、教師集団がいろいろな努力をしていたということは、これは十分わかります。しかし、それが試行錯誤の段階で終わってしまって、普遍的なものとして、父母を
納得させるような
価値観を生み出し得なかったということは、私は、やはりこれは日教組の方にも不満を持っております。
さて、
最後に、申し上げたいことは、
教育全体のあり方が変わっていきませんと、私は幾ら
道徳教育——道徳の時間そもそも特設に反対でございますけれど、仮に一週に一時間、二時間設けたところで、
徳育の
振興などということはできないのではあるまいかと思います。特に戦後の
教育の中で親にも
社会にもたった
一つ残った
価値観というのは、できるだけ勉強していい
学校に入って、いい
学校を出て一流の会社に入って、いま
教育の周辺で一番強固に残っている、現在する
価値観は何かと言われたら、これははっきり言ってこのことでしかないと思います。ですから、どう生きるか、いかになんていうことが
人間の生きる生き方の中からすっぽ抜けてしまって、どこに入るか、何になるかということはあるんですけれど、実は同じ医者になったといたしましたって、患者の側に立つ医者になるのか、大いにもうける医者になるのか、政治家だって同じことだと思いますけれど、これは政治家になる、医者になるといったって、どういう政治家になるかこそ問われなければならないのに、このいかにということが抜け落ちて、何にということだけしか残らなくなってしまった。私は、あえて指摘すれば、このことが一番大きな問題ではないのかと思うのです。実は、これは考えてみると戦後だけではないのかもしれません。先ほど申し上げましたように、
本当の
徳育の
基礎というものが、これは
人間関係のいろいろな具体的な場面で人と人とがぶつかり合いながら、そして
一つ一つ矛盾する場面を踏み越えながら他者との愛情の中にはぐくまれていくということを考えますと、特に現代の
教育というものは
学校教育、それもいわゆる学歴
教育のレールに乗ることに集中するために
子供の生活の場面というものが実に小さく限られてきてしまっている。特に男の子には勉強、勉強と言って勉強一辺倒になっている。最近、東大生の評判がとっても悪いんです。周り見ておりますと、実は私もその卒業生でございますので、大変耳が痛いんですが、私の友人に建築家がおりまして、
樋口さんの前だけれど、住宅建築して、一番
家庭教育がなってないし、一番だめな息子に限って東大に受かってるって言うんですね。一体どういうぐあいにだめなんですかと聞いたら、大体建築家と親たちが応接間か何かで相談している、そこへぬうっとやってきて、人がいることは目が見えますから認識しますから、そうしてぐるっと回れ右してまたぬうっと帰っていくんだけれど、あいさつ
一つしないと言うんですね。それをまた、親がごあいさつはとも言わなければ、ごあいさつもいたしませんでととりなすでもなし、目を細くして、ぬうっと入ってきてぬうっと出ていくその息子を目で追いながら、おかげさまであれがこの春東大に合格いたしましてなどと吹聴する。とにかく、人にそれこそあいさつという行動をよう一々言うわけじゃないけれど、とにかく他者を認識するということすらしていない。これはいわば勉強一辺倒に追い込まれまして、
自分の生活が一体どのような人に支えられているか、
自分のしでかしたこと、
自分のたとえば食べた物、着終わった物、そういう物が一体どのような
人たちの手によって始末されているのだろうか、そういういわば、特に男の子、現代
社会においてエリートと呼ばれている人の周辺からいわば生活と労働とが完全に抜け落ちていってしまっている。ですから、もう時間がなくなりましたので、結論だけ申し上げますけれど、私は、いま「
家庭科の男女共修を進める会」というののメンバーでもございますけれど、この
家庭科といいますと、何だ、男に裁縫をやらせるのか何とか——やったっていいと思っておりますが、あえて申し上げれば、そういうことだけではなくて、生活というものを、そして生活の中で触れ合う家族、
社会の
人間関係、その間におけるモラルというもの、だから、いわば公害なんというのは
本当に後始末の問題だと思いますけれど、一体
自分のやっている活動を一貫したものとして完成する
人間のモラルというものを考える、そういう教科として私は
家庭科、生活科というものを、これは小
学校の段階から男女共修で実現してほしい。
徳育というものもそういう具体的な場でこそ
知識を通して養われるのだと思っております。