○
参考人(
成田喜澄君) きょうの
参考人の中で、午前中の
槇枝参考人と私が送り出し側の方の代表ということになるのだろうと存じます。私は
全国の国立
私立の校長会互選、それから
全国の普通科校長会というのがございまして、それを一応代表した形になります。その点に関しましては、できるだけ自分たちの会合で一応まとまっていることを
中心にして申し上げたいと存じます。
御承知のように、終戦後わりあいに早く進学
適性検査というのが行われましたが、いろいろな点で、これが二十九年に取りやめになりました。その後、能研
テストというのが行われまして、これはちょうど私どもが校長になる直前直後のころでございましたが、かなり私どもとしても校長会のアピールその他にこたえて努力をいたしましたけれども、このときは残念ながら本当の
意味での
大学側の御協力というものが得られないために中間的な能研の組織ができたわけでございますが、ついに
高等学校側もこれに協力をしないような形も出まして、能研
テストも失敗に終わったわけでございます。その後、
高等学校の校長会はどうしたかと言いますと、実はこの前後から
大学の
入試の問題でやっぱり一番問題になりますのは、一体
高等学校の
教育課程をちゃんと
大学側が読んでその線の中で問題を出してくれているかどうかということの問題が一番大きいわけでございます。その点に関しましては、三十三年から校長協会は
入試問題所見集というのをつくりまして、それを
全国の各
大学に御送付申し上げ、どうぞひとつこういう点についてはお考えをいただきたいということを今日までも続けております。その結果、
入学試験の問題等につきましてはかなり改善されまして、クイズのようなものだとか突拍子もないようなものというのはいまかなり影をひそめまして、責任のある
大学には恐らく一切そういうことは消えておりますと思います。そうした中で、私どもが
昭和四十五年に私どもの総会で決議をいたしました
方向といたしましては、共通
テストの推進の問題と
調査書の活用という問題、なお、あと事務的な問題ございますけれども、基本から申しますと、共通
テストの問題と
調査書の活用という二つを大きくアピールいたしまして、それを
関係各
機関にお話し申し上げました。その結果がたとえば
大学の
入試改善会議ともなりまして、今日それぞれそうした
方向においての御努力が払っていただけておると、先ほど
相磯先生、
谷田先生からもお話がございましたように、この件に関しましては、現在非常な御努力を国大協のその
委員の
方々がなすっていらっしゃる点、私ども
入試改善会議の中でいつもお伺いいたしまして、その御努力に対して心から敬意を払っているわけでございます。したがいまして、
高等学校の校長会としては、現在そうした私どもの主張が逐次実現されつつある過程にあると考えておりますので、これが早く国大協の名
大学において十分に取り上げられ、御了解を得られることになりますれば大変幸せだと思っております。それがもしうまくいかないような
段階になりましたときには、また、
高等学校の校長会としても皆さんと御相談して考えなければならないと存じますが、そういう態度でおります。
大事なことは、実は日本の
大学の場合に、
大学の御自身の発意でないと物が決まらないという現在の実情がございます。これは、
学校紛争のときに特別な法律ができましたことについても多くのもめがございましたが、
一般的に申しますと、
大学の学部を
中心にした
一つの自治が物を
決定するわけでございまして、これは単に国大協の
方々が
決定しただけでは
決定できない
段階の
状態にございます。このことは、日本の
大学制度やいろいろな
改革を考えるときによく肝に銘じておきませんと、私は物が簡単にできないんだということを思います。能研などは、その当時の
文部省やその他の
関係方、ずいぶん御努力いただきましたけれども、結局本当の
意味で
大学側の御理解を得られなかったという点が失敗の
原因でもございます。ただいまそういう点をお考えくださいまして、国大協の先生方が非常な御努力をなすっていらっしゃるこのことは、私は大いに高く評価し、本当に国民挙げてこれを応援、支援して実現を見るようにいたさなければならないと思っております。もちろん、共通
テスト自身の
あり方につきましては、
高等学校の校長会においても、当初においては、これはむしろ
内申書重視のための、
調査書重視のための補完のものであるように考えていた場合もございます。今日でもいろいろな形がございまして、たとえば
日教組の皆様のように、
資格試験という概念あるいは自民党の案にもそういうのがあったと存じます。
資格試験のような
方向で考えるという考え方もございます。
大学の選抜とそれにかわるものだと、そういう考え方もございます。そういういろいろな考え方の内容を含んでおりますけれども、手だてとして、この時点でこのことがまずできて、その上で、じゃそれをどう私学に及ぼすか、その内容についてはどう変えていくかというふうなことになるんだと存じます。私ども、したがいまして、
高等学校の校長会としては国大協の考え方に全面的に協力をいたしまして、ただいまの
段階では余分なことを一切申さないことにいたしております。できるだけ国大協の皆様がのみいいように差し上げるのが一番いいことだ、その後でまたいろいろ御注文を申し上げる点はそれはもう国大協の方でもお考えいただいていると思いますけれども、国大協の
方々の御苦心を考えますと私はそう申し上げたいと存じます。ただ、そうした中で、これだけはもう国大協の
谷田先生のお言葉の中にありましたけれども、いわゆる足切りの形というふうな形になるのはこれはいけない。
高等学校の校長会は、その
大学の
入学試験というものは何でもいいから、ばかでもチョンでもさあっとみんなどこかへさっさっさっと入れればそれで
入試の
改革が行われるなんという、そういう安直な考え方はいたしておりません。大事なことは、本当に
子供たちの、
教育基本法にありますように、
能力に応じてそれぞれが進路が選べるような形にすることが大事なことであって、そういう点で一遍の
試験——これはかなり
信憑性はございますよ、実際申しますと。ありますけれども、一遍の筆答試問だけによって事を決めるということについては問題があろう。したがって、相当の厚みを持った選抜をすることが必要なのではないか。これは皆様方が今月の「文藝春秋」でもお読みになりましたように、たとえばアメリカの医科の選抜については、御承知のように、学部を終わった者について
一定の公立の
試験があって、さらにそれを半年ぐらいかけて一人一人の
人間を呼んで選択してやっていくと、だからいいかげんなお医者ができていかないということが書いてございましたが、
大学というものをもし大事に考えるのであるならば、そういうふうに厚みを持って、この共通
テストもそうでございましょう。それぞれのまた専門に応じた形でいろいろな
意味での材料を、たとえば
高等学校の
調査書、先ほど大変
信憑性のあるというお言葉を小寺先生からもいただきまして、まことにありがたいと思っておりますが、全然その反対のまた
意見もあるわけでございます。そういうことは百も承知の上で
調査書重視ということ、あるいはそれぞれの
大学が、たとえば実技の
大学だったら実技をやらせるのもいいでしょう、あるいは語学の
大学だったら十分しゃべれるかどうかということをやってみることもいいでしょう、あるいは文章を書かせることもいいでしょう、いろいろなことをおやりになって、厚みのある選択をして、選ばれた方もなるほどと思うようにあるべきだと私は思います。ただ、考えなきゃいけないことは、いま日本がもって範とすべきところは世界じゅうに
一つもないわけですね。先ほどから
大学の
格差云々ということを言われていますけれども、世界じゅうに
格差のない
大学の組織のあるところがもしどこかにありましたらば、実はお目にかかりたいと思う。そういうところはどこもない。どこもないんだけれども、
希望としてはわかる。それをどうすればいいかという問題が果たしてどういうぐあいに解決するかということは、これは簡単に一朝一夕に、法律でこうやったらできるというふうなものではございませんと思います。したがいまして、私どもは、それぞれの
大学が本当の
意味での
格差是正などという言葉よりは、しっかりした特色を発揮して、その
大学が国家、
社会に本当に役に立っているんだということを示していただけるようなことがぜひあってほしいというふうに思うのでございます。なお、そうなってまいりますと、
入試の時期がばたっと、一遍にある時期にやって、そしてそのときがたがたとやってできるかどうか。そうなってくると、私は自民党の
方々がいつか出しておられました三月まで
高等学校全部授業して、六月ぐらいまでの間に選抜期間を設けて、九月から
入学させると、これ
日教組の考え方の中にもそんなのあったと思いますが、そんなふうなこともしてあげなければいけないようなことになろうかと存じます。
さて、さらに申し上げますと、私は
職業課程も代表している立場でございますので、このことを申し上げたいと思います。
日本の
職業課程の
高校は、
学校教育法の中にはっきりと「高等普通
教育及び専門
教育」とすることが
高等学校の目標になっているにかかわらず、最近まことに気の毒な
状態に置かれている。そして、どうも世の中のお母様とか、その他の少数の団体の
方々は専門
教育をする、そんなところなんかなくなってもいいような言い方ですべてのものが行われている部分もございます。そして、
大学の
入学試験が、まるで勉強した基本が違うのに、同じ形でやったらば入れないのはあたりまえなんだ、入れないのがあたりまえだと、あたりまえだ、あれは入れない、入れないからそこへは行かないと、そういう悪循環を次から次へと繰り返してしまって、おかしな話ですが、普商工農などというようなばかな言葉が
——昔の士農工商じゃありませんけれども、普商工農などと言われるような
状態ができているということについては、これは余りにもいろんな
意味で
関係者の配慮が足りないと思うんです。私は、実は先般、
大学入試改善会議のときにもお願い申し上げまして、
文部省の方も大変この点、最近お考えになっていらっしゃいますけれども、私は昔もあったんですから、たとえば一橋
大学は、ある部分については、商業
高校について推薦で何名か入れてやる。工業
大学は、何名かは工業
学校の生徒を、けちな五名とか十名とか言わずに、一割とか二割とか、はっきり入れてやる。そのくらいのことをしてやれば、ああむしろボケーショナルな
学校へ行った方が
国立大学やどこでも入りいいんだと、水産
大学というのは、もうほとんど全部水産
高校から入れてやるというぐらいな計らいをすることによって、また世間の考え方も変わってくるわけです。こういうこと何にもしないで、お情けみたいに代替科目をしてやりますからなんと言ったって、代替科目で勝負しちゃあ損に決まってますよ。そんなことをしないで、昔と同じようにはっきり、たとえば昔の高商は商業
高校から入れてやっていた。そういうことを、これはそんなにむずかしい問題じゃないんですね。やる気になればできる。そういうことによってボケーショナルな
学校に
希望を持たせてやる。そうすると、いま普通科ばかり行かなければならないと思っている考え方も変わってくるわけです。その中からまた、じゃ工業
学校へ行ってやってみると、これは自分に
適性があったからこっちへ行こうと、そして
高等学校の課程ではいろいろ
技術を習っておいて、そして
大学へ行ってさらに理論を学んで
人間としてりっぱな者になっていくと、こういう過程があっても差し支えない。そういう
教育的な理論だってあるんです。それがいまもう何か知らぬけれども、世間がみんな上ついちまったようなかっこうになって、ボケーショナルはみんな大変だ、あれは早くつぶしちゃったほうがいいというふうな議論になっているということは、それを直そうと思ったら、国会の先生方もひとつ御努力くださって、一橋
大学でも、工業
大学でも枠を決めて、必ず入れてやってごらんなさい、違うと思います。そのことから日本の
一つの過熱
状態というものを冷ましてやるということも考えなければいけないと思います。いま
文部省の方で産業
大学というふうな形の構想が出ておりますけれども、これも
一つの考え方でしょう。でも弱いという
前提において、その弱い
子供がこそこそ入っていくという
大学を仮につくった場合に、それを出た者について世間がどういう扱いをするか。つくったこと自身によって、かえってまた逆の差別を生むかもしらぬ。そういうことよりは堂々と
国立大学でしばらくがまんして、弱いと思っても入れてやる、そのくらいの雅量を示すべきであろうというふうに思うのでございます。
いろいろ申し上げたい点ございますけれども、御質問によってまた補いたいと思います。
ただ最後に、
日教組云々ということがございましたが、この点に関しまして、正直に申しまして校長会として検討しておりません。
相磯先生のようにするのも
一つのスタイルだと私、思いますけれども、個人の感じを申し上げます。私はコミュニティーカレッジの問題がここで
中心になって出ております。コミュニティーカレッジの問題については、自民党の案の中にも出ております。私どもそれ承知いたしておりますが、実はおもしろいことがございまして、先般高等
教育懇談会だったと思います。その中でいろいろ将来の
大学の図を描く考え方が出てまいったのでございますが、そのときにコミュニティーカレッジのことを言う
委員の方がいらした。そうしたら、それをもしつくられたら、
私立の大概の短大はみなぶっ飛んでしまいますよと、それはわれわれのレーゾンデートルにかかわる問題ですから、大事な問題ですから、それはちょっと困りますという御
意見があったのに象徴されるように、いまの日本の
大学を考える場合に、先ほど申し上げました
大学自身が、非常に学長がお思いになったとしても、
教授会から順々に積み上げてくる問題は簡単に解決がつかないということが
一つと、それからもう
一つは、八五%近く占めている私学を、これを簡単に国の方に移管することができるか。私学の
一つの営業権と申し上げては失礼だけれども、そういうようなものが簡単に買い取れるものかどうか。東京で御承知の美濃部さんが、
高等学校が足りないというので、私学を買いたいということでおやりになったことがあります。できっこありませんでした。それでも、まあ何ですね、マンションに売る方はあっても、都の方に売ってくださるという方はなかった。こういうことでわかりますように、八五%の私学をどうやってするんだと、そのことについて、何かつまみ上げられるような、あるいは革命でも起こって、ぱっと取ってしまうとか、そういうようなことがない限り、私はコミュニティーカレッジやその他の考え方よくわかりますし、おっしゃっておることについて、なるほどと思う点たくさんございますけれども、その
前提のところに、
大学の自治と称する
関係の問題と私学の経営権の問題、この点についての、それについての見通しがないと、先ほどひどい、厳しいお言葉がございましたが、絵にかいたもちだという御批判が出るのも私はやむを得ない点があるんじゃないか。こういう点につきまして、ただ、これはきょう
槇枝君もいませんし、勝手なことを私申し上げては失礼になるから、その
前提のところだけが問題だと申します。
それから、ここの中にあるので、すぐにでも賛成したいことがある。それは
国立大学の附属の問題です。これだけは
日教組のおっしゃるとおり、ぜひそうしたいと私も思う。実は
東京大学の附属
高校というのは、
東京大学に今度一人しか入っていないのですよね。あれはちゃんといわゆる実験の形でやっておる。ところがあとの
国立大学の附属ったら何ですか、失礼だけれども。もしああいう形でおやりになるとするならば、これはむしろ
私立学校に転換なすって、そうしておやりになるなら筋が立つと思います。
国立大学でおやりになるんだったら、昔の高等師範の附属にありましたように、たとえば身障の
子供だけを集める四部というのがあってみたり、大体普通の小
学校と同じような
子供だけを
教育する場所があったりという、はっきり実験の体制を持っていたわけです。いまでしたら、悪いけれども、IQ五〇から六〇ぐらいの
子供から、一五〇ぐらいの
子供をいまの
教育課程で一体どういう
方法でできるのかというようなこと、これが中
学校の課程で、
高等学校の課程でどうできるのだというようなことを実験するような
学校になって、そうして地方の公立
高校やなんか
指導してほしい。そういうことを何にもしないで、できる子だけ集めて、
東大に何名入って、それが変わりもしないだなんて、あんな新聞で、がたがたたたくような、ああいうおろかしいことはやめていただかなければ困る。それはやっぱり失礼だけれども、
国立大学の、いまもそれぞれ何というのですか、実験校としての基盤がなくなったものは、どんどん
私立高校に財団法人つくって転換さしてやる。そうして本当の
国立大学の附属というのは、いまの
東京大学の附属でやっているような実験の
学校にしてほしい。これはもう
日教組の言うとおり、私はこれは全面的に賛成いたします。あとの面につきましては、大分仮定
条件が多いものですから、その仮定
条件の解決が出てこないうちは、私としては何とも申し上げられないというふうに申し上げたいと思います。
時間の
関係がございますから一応申し上げて、あとまた何か御質問がございましたらお受けいたします。
終わります。