○
参考人(任都栗司君) 私は
被爆者協議会の代表といたしまして、本日ここに
参考人としてお招きをいただきましたことに対して感謝をいたします。
私
どもは終戦以来廃墟と化した
広島の建設のためにいかにすべきかという事柄を
原爆に傷つきながら廃墟に立ちて深刻に考えました。たまたま私が地方自治の政治に関係いたしております関係上、この廃墟をどうやって建設すべきかという事柄に対しましては、幸いに当時、終戦後市
会議長の命を受けましたので、私
どもが平和都市法を草案をいたしまして、この平和都市法の条文に明らかなように、形の上の
広島を建設することに皆さんの非常なる御後援によってできましたことは幸せだと思っております。ところが、その平和都市法も簡単にできたものではございません。古い国
会議員の
方々は
御存じでございましょうが、当時一つの
法律を
制定するのにもマッカーサー司令部のオーケーがなければどう
しようもございませんでしたが、たまたま
昭和二十三年の末にサムス准将が、当時の占領軍司令部の中の厚生関係を担当しておりましたサムスさんが
広島においでになりまして、市
会議長室で私といろいろと話し合いをいたしました。この際にサムスさんの私に対する要請はABCCを建設するということでございました。ABCCは
放射能によって傷つきました
人たちをいろいろ
調査研究しようというテーマでございます。私はこのABCC建設に対しましての
広島市民の感情についていろいろ
意見を持っておりましたが、マッカーサー司令部としてこれを強行することに非常なる熱意を持っておりました。
広島市はこれを容認するのやむなきに至りましたが、この際に私が主張したことは、このABCCが
放射線によって影響を受けた、つまり核エネルギーの力によってどのような結果が生じたかという根拠を探るために、あるいは軍事目的のために将来の核兵器製造の上の役立つ資料にするんではないかという疑いも私
どもは持ったわけでございます。私
どもはこのことについて強く
広島市民の感情をぶちまけた
意見を吐いたときに、サムス准将は、そのような
意見をここで君と応答しておるの機会が、時間がないから東京にやってこいということで、一月の四日の午前十時を約束してサムス准将の部屋に参りました。私はサムス准将に向かって約二時間にわたって、形の上の
広島の復興はいろいろな形においてできるかもしらぬけれ
ども、
放射能によって傷つきました人、亡くなったあの悲惨な
人たちに対してどのような罪の償いをすべきかと、国際法では、国際法に明らかなように、非
戦闘員を、無垢の民を殺戮したゆえをもって国際法の裁判にかけられ処刑されております。勝者が敗者のみを裁けとは国際法には書いてないはずでございます。
広島のあの多数の無辜の民を、老幼男女をことごとく殺してしまった
原子爆弾の、一体この罪の償いはだれがするのですかということが私の主張の要素でございました。この通訳をした人は当時の衆議院議員をされておりました松本瀧藏先生でございました。約二時間私は涙とともにサムス准将に訴えたときに、しばしば松本先生は私の服を引っ張って占領されておるという現実を君は知っているのか、占領軍を批判し、
戦争の
実情をそういうふうな
意見のもとに批判するということは、君、占領政策に反するものだとしての判断を下されるおそれがあるから言葉を慎めと私に申されました。しかし、私はどんなことがありましても、
広島の当時の感情をそのまま訴えることこそ私に、市
会議長に与えられた気持ちであると、こう心得まして、思う存分を二時間話しました。サムス准将は顔面筋肉を硬直、紅潮されまして、しばしばけげんな顔をして私をのぞき込んでおりましたが、松本瀧藏さんば恐らく私の申し上げたことをそのまま直訳はしておらないような
実情に受け取りました。その後、私はちょうど当時上京を久しきにわたっていたしておりましたが、招きによってウイリアムスというセクションの人がおられまして、これは議会関係の方であったと思いますが、この方が私に会いたいということでお目にかかりました。一体君はどう
しようというのかというお話がございました。そのときに私は、私の忌憚ない
意見を吐いて、占領軍がいま直ちに
広島を弁償しろ、
広島の
被害者を具体的にどう
しようというようなことを申し上げるんではございません。一つの
法律をつくるのにも、これをオーケーするのはことごとくあなた方の
立場にあるわけです。このような
状態に置かれた
広島の復興と、
広島の
被害者を救うべき道を
法律によって定めていただきたいから、その
法律の要綱は私が書いてきております。その
法律の要綱に従って
被害者を助け、
広島の建設をするためにできるだけの
政府の
援助を得たいというのが私のテーマでございます。主張の要素でございますと申し上げたところ、間もなく私を私の当時の秘書、鶴明君と松本瀧藏先生とともにマッカーサー司令部に行くことを許されました。マッカーサー司令部に私は参りまして、松本瀧藏さんは、私の方に通訳がおるから君はここで待っておれというので、下におられました。秘書も下に置かれまして、私はマッカーサーの自室に案内されました。そこで、私は、きょうこそ命をかけて、私は
原爆被爆者を救うためのあらゆる問題を提起
しようと覚悟をして参りました。あるいは私が逮捕せられ、処刑せられるかもしれません。しかし、私は覚悟して参りましたところ、マッカーサー司令官は自室に立って君の言わんとするところはウイリアムスの方から報告を受けておるし、サムス准将の部屋で長時間にわたって主張したことはテープにとってあったと、そのテープの訳されたものを読んでおるから君の言わんとするところはよくわかる。私
たちは君の気持ちはよくわかるから、
被爆者を
救済し、
広島の建設のために特別法をつくることに対しては
日本の現
政府に対してできるだけの主張をせよと、これだけで会見は終わりました。後でウィリアムスさんに聞いたことでございますが、マッカーサー司令官がみずから陳情に接し、会見をされたことは、吉田総理ほか
日本の天皇陛下以外にはなかったと聞かされました。私はこの次元において、すでに
被爆者をいかに救うべきかということに対して精魂を打ち傾けて残された余生をささげようと覚悟いたしました。ABCCがついに建設されるに至りました。そしてまた平和都市法は間もなくマッカーサーのオーケーを得て
国会に提案することに決定いたしました。だれしも夢にも思わなかった
広島平和都市法、
長崎文化都市法が満場一致をもって通過するに至ったのでございます。そして、今日の高度の
広島の建設、
長崎の建設ができ得たことはまことに感謝感激にたえないところでございます。ところが形の上の復興は進んでまいりましたが、哀れな
被爆者を救う道は閉ざされておりました。特にそれは憲法の公平論の壁にぶっつかって、
原爆被爆者なるがゆえに憲法の壁を破って平等の原則理論を破ってこれを救うわけにはいかないというのが
政府関係役人の主張でございます。私もそう思います。しかしながら、
原爆の
被爆者を救うという事柄に対しては、この現実を放置することはできませんから、私は乏しい中から医学者、科学者、あるいは国際法の
専門家あたりから資料を集め、あるいは各国で発表されましたその後の論文などを収集いたしまして、
政府に向かってしばしば迫ったのであります。私はいまにして思うのでございますが、当時の医学者も科学者も、今日のような関心事を
原爆被爆者のあの哀れな
状態の上に置いていただいておったならば、私は今日のようになおかつあさましい
状態に置かれて、そして多くの
被爆者の犠牲者を救わないでおったことはできなかったと思います。いま
市丸先生の御報告によって明らかなごとく、医学がいかに進歩されておっても、現在の医学の力を持ってしては、
放射線によって影響を受けた人体を、
病気の進行を阻止することもできないし、もちろん治癒させることはできないという定説になっておりました。ところがいま
市丸先生の貴重な御報告がございました。
病気の進行を阻止することすらできないというような事柄が、進歩した医学の力を持って悪性腫瘍を制止し、がんの
発生を抑制するということができるということは、まことに私は画期的なことであると思います。私は
厚生省に早くから提唱したことは、
日本の医学者も科学者もこれに注目を集めて、早く
調査研究をして、そして
被爆者に裨益すべき根本的
対策を講ずべきだということを主張いたしました。特に
原爆被爆者研究の機関をつくれということを主張いたしましたが、
厚生省の方はがん
研究のためにすら実は国費を出すことに非常に困難を来しておるやさきであるから、このようなことはできないということでございました。私はついに文部省を口説き落として、
広島の医科大学の中に八部門を持ちまする、あの医学
研究所をつくったわけでございます。
原爆医学
研究所をつくるときに森戸学長は、私にそのような夢のようなことを言ってくれるなということでございましたが、ついに当時の文部当局と大蔵当局を口説き落として、そして私の乏しい資料ではありまするが、その資料に基づいて
予算を格づけすることができ、あの
放射能研究機関ができたのでございます。八部門がここに成立したのでございます。私はもっともっとこれは充実したものにすべきだと思っておりますが、これは別といたしまして、自来、
被爆者の
救済のためにできるだけの
努力を
しようといたしましたが、乏しい資料の中に、憲法の公平の原則理論の壁にぶっつかってどうすることもできませなんだが、ともかくも一応
医療法という形ができました。楠本という公衆衛生局の環境衛生部長の時代であったと考えます。このことのためにどれだけ苦労いたしたかわかりませんが、ともかくも一段階として、外堀の一つを埋め、やがては内堀を埋め、そして本丸に達
しようという考えから、隔靴掻痒の感のありまするこの
医療法をのむことにいたしました。しかし、その
医療法は、まことに
被爆者の思いもよらざる内容でございます。後に二キロの
制定となりましたが、すなわち
放射能影響の重大性にかんがみて、二十五レム以上のその人体に与える影響の重大性を資料をもって説明して、二キロまでにし、さて二キロという事柄が果たして適当かどうか、これを三キロに拡大し、さらにビキニ環礁によるあの第二次
放射能の影響が、天下のマスコミに非常に騒がれたときに、私はこれをとらえて、また当時フランスで発表されました二世、三世に及ぼす影響があるというあの論文等を引用いたしまして
政府に迫ったのであります。それが二世を
救済する道となったのであります。私がこのことを皆さんに申し上げることは、何も私
どものとった経過を申し上げるんじゃございませんので、それは特に私が申し上げることは、理論的根拠を持ち、
責任ある
政府が
国民から預かる歳計のうちで、
被爆者を
救済していこうという上には根拠のあるものによっての法制化をし、または
法律の改正をしなければならないというたてまえを考えながら、または当時の
日本の国の力、経済の力等を考慮に入れながら、いかにしてこの
原爆被爆者を救うかということに焦点を合わして主張してきたわけでございます。私はもし医学者の中に、科学者の中に、今日のように関心を持っておられた人があるならば、私はビキニ環礁の第二次
放射能の影響は阻止できたと思います。あの何十海里かのかなたに漁労しておった
人たちが、あのような結果を招いたということは、すなわち第二次
放射能でございますから、これを甲板を洗い流し、海水によって体を洗い流し、着ておる衣服を、第二次
放射能の影響のないような方法を講じておったら、あの惨禍は免れたと思います。現に、私の妻も
被爆によって亡くなりました。現在の妻は至近距離におって
被爆したのでございますが、川に八時間もつかっておって、体の第二次
放射能のことごとくを洗い流して、そうして遠く田舎に去って保養したという関係で、ただいまはかくしゃくといたしております。そう申し上げる私も、偶然の結果でございますが、当時
広島に在住しておりました樫田検事正を私は助けるために、浅野泉邸を泳いで渡って、そうしてこの夫妻を救いました、これは樫田さんの著書にもありますが。そうして私がそこを泳いで第二次
放射能の影響を防いだ結果が、今日のこの健康を維持しておることだと思います。
このようなことを考えますと、当時の医学者が——卑近な一例を申し上げるわけでございますが、医学者がもっともっと力を入れて
政府に迫まり、あるいは
政府とともに
研究しておったら、いろいろ道は開かれたことと思います。
私はここで——ここまで申し上げて、時間の関係がございますから、
最後の私の気持ちを申し上げます。これは
被爆者の気持ちでもあると存じます。
被爆者全部の気持ちではあるいはないかもしれません。
被爆という気の毒な状況に置かれたことを基礎にして、そうしてあらゆる価値ある報道をせらるることも結構でございましょうが、私は現実をどうするかという問題だと思います。
援護法を拝見いたしました。
被爆者としてこのようなことができることならまことに結構でございます。私はこれは否定いたしません。しかしながら、
援護法の中には、まだ多くの検討を要すべき中身があると思います。ただお金をばらまいたから、お金を
被爆者に無
差別にやるから、これで足れりというものではないと思います。どこまでも現実に即した
救済の道を講じなければならないと考えることでございます。私は現在の
援護法をもしあなた方がお認めくださるならば、まことに幸せでございますし、
被爆者も喜ぶでしょう。しかしながら、そこに
予算の均衡を著しく失した内容がありやしまいかと思います。
これは議論をいたしますと、大変長くなりますから、これは別にいたしましょう。別にいたしますが、ここでかいつまんで一言申し上げておきます。
いま、
被爆者が切実に
要求しておるものは、あの
援護法の
制定によって三千億、四千億という金が、一カ年の歳計の中に計上せらるるならば、あの
援護法の中身の中にございませんけれ
ども、いま一番
要求されておるものは、
原爆病院をどうするか、困った
人たちを養護ホームに収容することもできない、ベッド数が足らない。
原爆病院は
病気の特質上、
被爆という
病気の特質上、病床が長期化します。その長期化することは、病院という新陳代謝はありません。だから養護ホームをつくることを提唱して、養護ホームをつくりました。しかしながら、この養護ホームはいつも満床でございます。寝たきりの人がまだたくさん病床に呻吟しております。家庭療養をいたしております。
政府は、思い切って、かようなことに対して勇断をふるって病床の増加を図るべきだと思います。しかも、
原爆病院のごときは、奉仕団体たる日赤に任すべきものではないと思います。これができるときに、私はちょうど三回目の市
会議長をいたしておりましたが、私はこれを批判をいたしました。
国家は速やかにこの事柄について勇断をふるって
原爆病院をつくるべし、奉仕団体なぞに任すべきではないということが私の主張でございました。いま、
原爆病院は、
長崎も
広島も赤字に悩んでおります。この赤字の補てんにすら
政府はちゅうちょいたしております。このようなていたらくがどこにありますか、仮に施設費が十億要ろうと二十億要ろうと、そんなことは一時的の支出ではございませんか。あと、管理、維持に金が要ると、こうおっしゃいます。
原爆の特異性にかんがみて、現在一日一日を放置できない病人を、一日一日を放置できない
原爆被害者を収容する能力のある、しかも将来予防医学の上にも、
治療医学の上にも役立とうとする、その臨床医学の貴重なるデータをつくろうとするその
原爆病院を、なぜちゅうちょするのでしょうか。それは、現在の
法律の制約によって、公立の病院はいずれも赤字でございます。もし、
原爆病院を
政府が抱え込んだならば、公立病院のすべてに波及いたしまして、大変な問題ができるという事柄の憂慮があるでしょう。私はこれらが
被爆者として残念なことだと思います。
被爆という特異の事情、
原爆という特異の事情に基づきまして、特別な立法
措置をいたしまして、
原爆のみによる特別の処置といたしまして、そうしてその
救済すべき施設をすべきじゃありませんか、思い切ったことをやってみたって大したことはございません。一年に三千億、四千億ということを、初年度に出さなけりゃならないというような
法律の内容とは異なっております。まだ取り残された多くの問題がございます。本年度の
予算の中には、私
どもの要請を入れられまして、そうして
政府は多額の、補助の増額を来されました。しかし、まだまだ問題でございません。
被爆者の
援助に対しまして、いまここで第一に述べられましたような形の
方々もたくさんございます。所得の制限を撤廃し、またはそれらの気の毒な
人たちに思い切って補助を与え、または介護手当のごとき、三万や四万で今日一体介護をする人が雇えますか、恐らく十二万円を超えるでしょう。そんな現実と離れたような事柄を直ちに解決すべき問題がいま
政府に与えられておるのじゃございますまいか。
被爆者が
要求する気持ちじゃございますまいか。私はこんなことを考えますると、現実に遊離したことをやれ、やれということよりか、たとえば
援護法をここに
制定されるならば、
予算の権衡を失しても、在外資産の
補償をせよ、あるいは法のもとに平等であらねばならないという原則に従ってその他の戦災者の
救済があるでしょう。また、
広島が廃墟と化しましたその各個人の財産の
補償にも発展するでしょう。私は、こう考えるときに、現実の
被爆者をどうして
救済するか、どうしていま助けていくかという問題に対して取り組んで、
援護法も結構でございます、
援護法の中身の中にもっとこれらを織り込んで、そして私は実現に
努力すべきじゃないかと思われるのでございます。こう思うときに、私は
援護法を決して否定するものじゃございませんが、その中身にいささか検討を要すべき問題があると、こういう
意見を持っておるわけでございます。その他いろいろな問題に対しまして、私は
被爆者の現実をどう救うべきか、これは科学者も医学者も、今日のような注目を浴びておられますような
実情はまことに幸せだと存じます。私はただいまの
市丸先生の報告だけでも、まことに貴重な報告であって、これらを直ちに
厚生省が取り入れて、現
政府が取り入れて、そして、これに対する
対策を講ぜられるべきであると存じます。
こう考えますときに、私はここで与えられましたこの発言を生かしていきたいということは、どうか、いろんな関連立法に制約を受けることなく、関連立法にもし制約を受けるならば、特別の立法
措置を講じ、あるいは
措置法を思い切った改正をいたしていくべきじゃないかと思います。しかも、あらゆる制限はこの際ことごとく撤廃またはこれに近いような道を講じ、そして
被爆者の現実を救うていくことこそ、私は現在
被爆者全体が望んでおることではないかと存じます。
以上、まことに簡単な措辞でございますが、私の
意見の一端を申し上げて終わらしていただきます。御清聴を感謝いたします。