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湯山委員 文部大臣、あまり事務当局の
答弁に忠実にお答えにならぬ方がいいと思うのです。
教科書のも、私も知っています。いまのような妙な指導書を出して以後、
教科書にも「一方においては」とあるのですけれども、どっちがほんとうかと言われたら、大臣は、一体どっちがほんとうですか。「一方には」ですよ。いまの指導書でも、これもこうだ、しかしそれ以後こういうふうに情勢は変わって、一方にはこういうふうになっていることにも触れておけと、二つ対立している。
教科書もそうです。どっちをあなたはとりますか。
総理はどっちですか。私は無
防備論者だからこっちだ、私はこっちだ、これは自由なんです。指導じゃありません。これは並べただけです、
教科書も。それから指導はありました。それはたとえば、
憲法の条文に深く触れるな、大勢だけ言って細かく触れるなというのですが、国の理想、
方向を示した
憲法の中身を詳しく
説明するなというような指導がありますか。これはありません。そうせざるを得ない。法務大臣、笑っておられますけれども、笑い事ではないのです。
そうなってくると、
先生たちは、これがほんとうだと教えてきておるのですから、一遍自分で。これが違うのは困るという気持ちになるのは、これは当然です。それに対して、二十年間、公の指導というものはないのですよ。何もしないでおって、しかも指導書——指導要領ではなくて指導書で、いまのように、どっちでもいいようなことをやって、かえって混乱さしている。ところが
教育の現場はそうはまいりません。そこで、やはり
教育では、この
教育憲法を守らなければいかぬ、
政治憲法、
裁判憲法は、これは
教育の場にはふさわしくない、こう思って
憲法を守ろうとする。これは当然だと思います。
教育基本法にもそう書いてある。
ところが、それに対して、結局変わってきたのは、
文部省の姿勢が変わってきました。文教行政の姿勢が変わってきた。それは、いまのような、
教育の過密ダイヤの解消とか定員法とかいうのもありますけれども、しかし、やはり大きく変わったのは、そういう
憲法を守ろう、それに反することには反対するという、決してこれは
政治活動と言えないような面に対しても、なおかつ、
政治活動規制の
教育二法が出る。
教育委員は任命にするという、民主的な場を取り上げる法律が出る。それから、学習指導要領は一層拘束力を強化する。こんなものが指導強化してくる。適切な指導を
一つもしていない。そこで、いまのようなことが強化されてくる。それから今度は、いまのように、この
憲法ではいかぬというようなのを抑えるためにも役立つ勤務評定、これが出てくる。ですから実際は、そういう意図でなくても、これと結びついてくると、それらが皆
政治的な色がついてくるわけです。そうすると、これに対しては反対する。
たとえば校長を管理職にするなんということは何でもないことです。
議論にならないんだけれども、いまのような
教育憲法、
政治憲法、この中で、やはり
教育はこれを守らなければならないということになってくると、管理職になってくれば上から抑えてくるんじゃないかという心配は、これは
政争じゃありません、私に言わせれば。当然教師の良心からそうせざるを得ないという面が出てくる。これをもって
政争だと言えば、それはおかしいのです。今度の
総理がおっしゃった給与の問題、人材確保の給与にしても、これは教員優遇に反対する先生なんて、一人もいません。ただ、これを五段階にして、上の方にはこうだこうだというふうにすると、そのことが
政治憲法の押しつけのような形になりはしないか、こういう学習指導要領になりはしないか、こういう心配があるから、それは困ります、話し合いしようじゃないかと。幸い、そういうことが除かれて、
衆議院では、われわれは反対、参議院で修正、それにまたわれわれは賛成する。あれは議会主義、議会
政治のお手本みたいになったじゃありませんか。反対したわれわれが修正でまた賛成、これが大事なのです。これなくして、一体話し合いと
協調と言ったって、それは空念仏に終わる。この
政治圏外へ置くということの背後には、いまのような
認識がなければならない。というのは、
政治憲法に対しては、どうしても管理的な
立場の人は妥協的です。これは否めない。
文部大臣はどうか存じませんけれども、妥協的になります。迎合的になります。
その
一つの例を申し上げますと、先生は
労働者かどうかというような
議論もそうです。これについても、これは本当言えば不毛の論議だと思いますけれども、しかし、先生は
労働者であってはならぬというようなことをだれが言っておるかというと、国立
教育研究所の所長、と言えば
国家公務員でしょう、いかがですか。
文部省の役人ですね。この所長がどういうことを書いているかというと、これは「中等
教育資料」ですから、発行は
文部省です。編集は、
文部省の中学校
教育課と高等学校
教育課が編集であります。これの十一月号のトップに出ておる論文には、こう書いてあります。
「元来「教師は
労働者なり」と規定する背後には、」——もっとあとからでいいです。「そもそもわれわれが
労働者と表現する働きは、英語のレーバーラーに該当するものであるが、それはラテン語のlab。rに由来する。その原義は、いやいやながら働き、ヘトヘトになって働くことであり、古代ローマにおける奴隷の働きを指したものなのである。これに対して勤労なる語句は英語のワークに該当し、その語源は古代ゲルマン語のWerkである。
意味するところは、働くことを人間の本質の
一つh。m。faberとする人生観に立つものであって、これこそ人間本来の在り方なのである。われわれが共通に願いとするところは、すべての人が例外なくよきワーカーたることであって、何人もレーバーラーであってはならないということである。この
意味で専門職たることをその本質とすべき教師が、いわゆる
労働者であってよいはずはなく、このことは本来」云々と、こうなっています。そうすると、実質はいまも
労働過重で、こうかもしれませんけれども、とにかく
労働大臣というのは奴隷大臣ですよね、この
言葉で言えば。
労働省というのは奴隷省ですか。レーバーでしょう。これは
文部省の資料ですよ。この
考えを
労働大臣は肯定しますか。