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青柳委員 それにいたしましても、私
どもの勘でございますが、
刑事補償法の決める
最高限というのは今度の
改正案を見ましても、
社会党さんから出されているのは六千円というのを
最高限にしておりますが、どうもやはり三千円
余りというのでは
現実に沿わないんじゃないか。精神的なものは全然加味しないのだということでもないようなんですね、
刑事補償は。精神的なものも加味するという点では、
損害賠償の場合と
比較して
余り違いがないわけです。結局は
故意、
過失を含まないがゆえに
幾らか控え目に
——相当控え目にと言った方がいいですか、決めてあるというふうに思うので、そこの科学的な
根拠は一体どういうところにあるのかということがやはりもっともっと追及されなければならないというふうに私は考えます。これは現在の
説明だけではきわめて漠然としておりまして、もっと
お互いに研究し、たとえば
社会党の案の六千円というのがこれは高過ぎるというのであるならば、なぜ高いのか。それからまた私
どもはいま
政府原案が低いというならば、なぜそれが低いのかということについての
理論的根拠を、もっともっと
お互いに深めていく必要があるというふうに考えます。いずれにしても、結論的に申しますれば、私は現在の
改正案をもってしても
最高限としては少ないのじゃないかというこうに考えます。
さて、論を進めまするが、
最低限もまた今度小し上がりました。
最低限は非常にいま少ない。全然ゼロではなくて、
最低といえ
ども一定の
金額は決めてある。
無罪になったのだが
最低の辺のところで決まるというのは一体何なのかということを考えてみますると、これはどうも本人の責めに帰すべき事由に近いことが
裁判にかけられた大きな原因になっておる、だから
余り刑事補償はもらえないのだ、がまんせざるを得ないのだというようにしか考えられないですね。まさか、社会的な
地位が非常に低いから、まあわかりやすく言うとルンペンみたいな
人間だから一日
当たりの
計算は
最低でもいいのだというような、そういう、
人間を
余り身分とか社会的な
地位で差別をするのではなくて、具体的な
ケースにおける
被告人の態度にも十分でないものがあった、だから、国の方にも
故意、
過失があったかなかったかはともかくとしても、相殺されるような面があるから低いところでがまんせいというようなどころがあるから低いのだ、こういう
説明だとすると、それならばわかる。
比較的道理がありそうな感じがする。
ところがこういう言葉を聞いて私も実はまた考え込まざるを得なかったのですけれ
ども、いわゆる
灰色無罪という、完全なシロではない、要するに捜査の方の不十分さのために有罪の立証に失敗をした。
〔
委員長退席、保岡
委員長代理着席〕
だから、スポーツで言うならば腕がなかったために負けたのであって、本来はこれは捜査のミス、公訴維持のミスの結果
無罪になっただけにすぎない。いわゆる
灰色無罪なので、もっと上手にやればクロにすることができたのだ。だから、免れて恥なしと言うか、そういうスポーツに勝って、本来ならば犯人として処罰を受けなければならないような、つまり、本来ならばというのをもっと正確に言うならば、
検察官側が立証に失敗しないで成功するならば当然有罪。それが、いわゆる疑わしきは罰せずの民主主義の
証拠法則に基づいて、
証拠不十分、証明不十分ということで
無罪になったのだから、こんなのにたくさんの
刑事補償をやるのはどろぼうに追い銭というか、きわめて不公平な話だ。
無罪になっただけでもありがたく思え、これが民主主義というもののありがたさだ。この次はもう二度とこんなことをするな、今度は失敗しないぞ。ぴしぴし取り締まるぞ、断固有罪にしてみせるからということで、
刑事補償をもらうなどというのはおこがましい、だけれ
ども請求してきているのだから仕方なしに少し払ってやる、
最低限払う。ずいぶんくどくしゃべりましたけれ
ども、要するに
灰色無罪に対しての
国民感情を満足させるのには、なるべく
最下限は低いところに抑えておいた方がいいのだ、名目的なものでいいのだというような、そういう
考え方がこの中にあるとすれば、これは果たしていいだろうかどうだろうか。
一体、刑事
裁判をスポーツになぞらえて、民事
訴訟と同じように考えて、そして被告弁護人が腕がよければ、本来有罪であるべきものも
無罪にすることができるというようなものであっていいのかどうか。この辺のところを非常に私
ども考えさせられてしまうのですが、民主主義社会における刑事
手続の限界というか、寛容さというか、そういうものをわれわれはやはり無条件に尊重する。つまり、百人のうち九十九人までは逃しても一人の無事の者を罰しないというルールから言って、九十九人に
無罪を言い渡した。しかしそれは客観的に見ればあるいは犯人であるかもしれないけれ
ども、一人の無実も罰しないというこの民主主義のルールから言えばやむを得ないのだし、また世の中というものは、民主主義というものはそれでいいのじゃないか。そうでないと、無実の者が
国家権力によって死刑に処されてしまうということをわれわれが承認せざるを得ないことになって、これはもうとてもがまんがならない。だから、考えてみれば、そういうルールの裏をくぐって九十九人の者が
無罪になり、しかも
刑事補償をもらうというのは非常に不合理だ。確かに私は不合理だという面もあると思いますけれ
ども、しかし、一人の無実の者を罰しないということの
原則を尊重する限りにおいては、
灰色無罪と俗に言われるものであっても、あとは
裁判所に任せて、灰色なのか、そうでないのか、ひとつ
書面審理で判断してもらう。だから低いところで抑えておくというのが果たしていいのかどうか。この辺のところを、
灰色無罪ということについて政府の方ではどう考えておられるのか、お尋ねしたいと思います。