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青柳委員 私はきょうは、いわゆる大須
事件と言われる騒擾
事件についての重要な証人の所在の問題について、法務当局にお尋ねをいたしたいと思います。
御案内のとおり、大須
事件というのは大変に古い刑事
事件でございまして、発生いたしましたのは
昭和二十七年の七月七日、現在からもう二十二年以上も前の出来事でございます。ずいぶん古いことをいま持ち出すわけでありますが、一審の判決は四十四年の十一月十一日に下りまして、ほとんど全員が有罪ということで、控訴になりました。現在、控訴審が
審理を終わりまして、来る三月の二十七日に判決の言い渡しということに決まっております。したがって、まだこの
事件は終わっているわけではない。しかも、判決を目の前にして、非常に新しい事態とも言うべき問題として、重要なる証人の所在というものがクローズアップされざるを得ないわけでございます。
その重要な証人というのは、名前は清水栄という方であります。この方は明治四十二年四月二十六日に、愛知県の、昔は八名郡というのですか、大野町というところで生まれた方であります。本籍は、その後名称が変わったと思いますが、その生まれたところと同じ場所のようでありまして、南設楽郡鳳来町ということになっております。その後、本人は名古屋市千種区赤坂町に転籍をいたしております。住所は、
昭和二十八年の二月十七日に、昔の中区南外堀町から現在の北区猿投町二十三番地に転入をいたしております。経歴は、私どもの
調査では余りはっきりいたしませんが、
昭和六年中に愛知県の警察官に任命をされまして、自来警察畑で職を奉じ、
昭和二十八年一月十二日に名古屋市警察の少年課長という地位、しかも階級は警視でございますを退職された方であります。
この方は、先ほど申しました大須
事件といういわゆる騒擾
事件におきまして、第一線で鎮圧、逮捕等に当たった総指揮官の副官を務めていた方であります。したがって、非常にこの
事件については一方の当事者とも言うべき地位にある方であります。
この人は、この
事件発生と同時に、報告書等を二通ほど作成をいたしております。いわゆる無届けデモを取り締まったということについてのてんまつ報告書、それから拳銃を五発、自分みずから発射をいたしておりますので、拳銃発射についての報告書というものをつくっております。それには非常に詳細にその場の出来事について述べている部分がございます。同時に、当時
検察官に対して一定の供述をいたしております。さらに、公判が開始になりましてから前後六回にわたりまして、これはほとんど継続的でございまして、弁護人、被告側の反対尋問等が長引いたので、六回にわたりまして証人としての供述をいたしております。
この人が述べていることが、いろいろの
関係資料から見まして矛盾撞着に満ちており、真実を述べていないと思われる状況が出てまいりましたので、被告弁護人側では
昭和四十二年ごろに至りまして再尋問を申請いたしました。
裁判所は、これは第一審でございますが、名古屋の地方
裁判所でございますけれども、ここでは再尋問を許可して召喚をいたしたわけでありますが、家族から、つまり本人の長男正弥という人から、この清水栄という人は
昭和三十九年ごろに行方不明になってしまって、いまだにその所在がわからないから出頭はできないという、そういう届けが
裁判所に出ました。そこから問題は非常に複雑になってまいるわけでございまして、どうして行方不明になったのかということがまず問題になるわけでございます。
当時の状況について調べました
関係を申しますと、本人はノイローゼぎみになって、後をよろしく頼むという書き置きをして行方不明になってしまった。それが
昭和三十九年の十一月十四日のことであったというのであります。そこで、十日後の十一月の二十四日に妻のあきという方から捜索願を所轄の警察署に提出をいたしまして、その所轄の警察は北警察というのでありますが、約六千枚の顔写真入りのふれ書を愛知県及び長野県付近に配布し、その所在を突きとめるための手配をした。しかし、いまだに行方は不明のままである、こういう状況でございます。
蒸発をするというようなことが戦後は非常に頻発いたしておりますから、ただそういう市井の一事案として見れば別に不思議なことではないのでありますか、非常に重要な人物——この大須
事件というのには約百五十名近くの被告が起訴されまして、有罪ということになればその人たちの
人権は非常な影響を受けるわけでございます。彼らは全部無罪を確信をいたして抗争しているわけでありますから、しかもこの行方不明の証人の原審における証言あるいは警察へ出した書証、
検察官への供述調書、そういったものが一切不利な認定
資料に使われるということになれば大変なことになるわけでありますから、しかも一審はそれがそういう作用を行っておるわけでありますから、決して単にプライバシーの問題、行方不明になったということは一般の方が余り関心を持たなくともよろしい問題だというようなこととはまず性質が違うことは、御推察がつくと思います。
しかも、私どもが非常に重視いたしますのは、この大須
事件というのは、
昭和二十七年四月二十八日にサンフランシスコの講和条約が発効いたしまして、日本が独立したと言われた後、また当時、破壊活動防止法というのが必要であるということで立法化されようとして、これに対する反対の運動が非常に盛んであった時期でありまして、しかもメーデー
事件というのがその年の五月一日に東京で起こりました。さらに六月の二十四日には大阪の吹田で吹田
事件というのが起こりました。そしてこの大須
事件が七月七日に起こったわけで、いわゆる三大騒擾
事件と言われているわけでございます。で、周知のとおりでございますが、メーデー
事件はその後、二十年六カ月という月日を経過いたしまして、一審は有罪、二審、
昭和四十七年十一月二十一日に全員無罪の判決が出ております。それから吹田
事件は、十九年八カ月の
審理期間を経過いたしまして、一審は有罪、二審、三審と経過いたしまして、
昭和四十七年に無罪が確定をいたしております。こういう中で、この大須
事件だけは
審理が非常に長引きまして、現在二十二年七カ月を経過しているわけでありますが、まだ控訴審の判決がようやく最近に出ようとしているという状況であります。
この物情騒然とも言うべき
昭和二十七年、講和発効直後の状況の中で、たまたま二十七年六月二日の午前零時半ごろ、大分県の菅生という村でいわゆる菅生
事件というのが発生いたしております。これは阿蘇山の火山灰地でございまして、そこには開拓農民等も入り込んで開拓に従事しておりましたが、農村問題、農民問題が非常に激化いたしておりました。たまたまそこに共産党員も開拓農民として活動いたしておりましたが、この六月の二日の零時三十分ごろに菅生村の駐在所がダイナマイトによって爆破され、その場で二人の共産党員が現行犯逮捕されるという
事件が起こりました。この二人が駐在所を爆破したんだというのが現行犯逮捕の
理由でございます。
ところが、この
事件はその後いろいろ不思議なことがありまして、
新聞記者の方々が非常に興味を持って
調査に当たった結果わかりましたことは、この
事件の起こる数カ月前に、どこの者とも知れない人物が、村の村
会議長をやっておりました人の家に居候のような形で入り込みまして、そしてこの共産党員に接触を持った。この人の名前は市木春秋という壮年の男性でございました。この人物がその
事件の日以来どこへ行ったかわからないという。一体あれは何者だということが興味の
中心になりまして、調べ上げた結果、現職の警察官であるということが判明をいたしたわけであります。本名は戸高公徳という現職の警察官であるということが写真とかいろいろの
調査によってわかったわけであります。たまたまこの人物、東京で、警察官をやめた形である出版社に勤めておりましたのを、共同通信の記者が新宿で取り押えたということから真相が非常にはっきりしてきたわけであります。
この問題につきましては、当
法務委員会でも当時取り上げられたことがありまして、この戸高公徳という人物は警察官でありながら、一体菅生
事件でどういう
関係があるんだということが問題になったわけであります。結局、このダイナマイトで交番が爆破されるという犯行はどうもこの人物が行ったんではないかということであります。つまり、共産党員をうまくその現場におびき寄せておいて、みずから爆破をして、この罪を共産党員になすりつけるという謀略をやったんではないかということが明らかになりまして、一審は徴役十年という重い刑でございましたが、二審、福岡の高等
裁判所で全員無罪という判決になり、これは確定をいたしておりります。
この間の事情というものは、日本のこういう
事件史の中でも非常に珍しい
事件でございますので、幾つかの著書があらわれております。
関係者である清源敏孝という弁護人の書いた「消えた警察官」、あるいは被告本人である後藤秀生のあらわしました「謀略と秘密警察」というもののほかに、元警察の諜報
関係をやっておったという宮川弘という方の「菅生スパイ
事件」という本とか、あるいは小説家の牛島春子という方の「霧雨の夜の男−菅生
事件−」というような本ですでに刊行されて、詳細が明らかになっております。
こういう、大須
事件の同じ時分に謀略
事件が起こっておりまして、この大須の清水栄氏の捜査報告書あるいは拳銃使用報告書といったようなものに書かれた内容が、その後のいろいろの書証、証言等と対比してみますと、どうも工作が行われたのではないか。この人物、つまり清水栄氏を
中心としてある工作が行われ、騒擾
事件というものがつくり上げられた、でっち上げられたのではないかという節が濃厚になってまいって、裁判でも弁護人側から相当具体的な弁論や立証が行われたというのが現状でございます。
私どもはいま、裁判の結果についてこの
委員会でとやかく介入するつもりは毛頭ありませんが、少なくともこの人物が副官として、そして警察の広報車といいますか、放送車、いわゆる警告を発する、おまえらは無届けデモをやっているんだから即時解散をしなければならない、もし解散しなければ実力をもって鎮圧をするというような、そういう警告を発する任務を帯びて放送車に乗って、デモ隊が会場から出発をする——この会場というのは名古屋にある大須という野球場、ここで、社会党の帆足計あるいは宮腰喜助という代議士が当時ソ連、中国を訪問し、貿易についての一定の取り決めをして帰ってきた報告会を催され、何万という群衆がそれに参加し、そのうちの何名かがデモに出かけた。その会場から二百五十メートルあたりのところでもう騒擾
事件が起こったということで、たちまち鎮圧をされ、たった五分間でおしまいになった騒擾
事件というものは歴史的にも非常に珍しい騒擾
事件であります。メーデーにしろ吹田にしろ、数時間という長い間トラブルが起こっておったわけでありますけれども、大須はたった五分間、こういう
事件です。
その五分間で鎮圧されるに至った契機をつくったのは何かと言いますと、放送車が火炎びんによって襲撃を受けた。そこでこの清水栄という副官がまず車から飛びおりて五発の拳銃を発射した。その結果一名が即死をする。これはデモに参加した在日朝鮮人でありますけれども、即死する。その弾がまさに彼の持っている、使用したピストルから出たものであるということは、旋条痕の対比によって鑑定の結果明らかになっておるわけであります。そういうような重大な因果
関係もある
火炎びんによって放送車が襲われたと言うのだけれども、たまたまその状況を、と言いますのは、デモの状況をつぶさに
新聞社が写真撮影をいたしまして——警察も写真撮影をしたようてありますけれども、その写真はどういうわけか、余り捜査の中で証拠
資料としてあらわれてまいりませんけれども、
新聞社が撮った写真が幾つか捜査報告書、現場検証報告書等に添付されまして、公判廷に提出をされております。その写真をつぶさに
検討いたしますというと、当然、外から投げられた火炎びんであるならば、ガラス窓が閉められているというわけでありますから、ガラス窓が破れていなければならない。にもかかわらず、ガラス窓は
一つも破れていないという、まことに不思議な現象。つまり、端的に申しますというと、内部で何者かが火炎びんらしきものを発火させて、それを契機に、暴徒の襲撃である、たちまちこれは鎮圧をしなければいかぬというのでピストルの発射、検挙というようなことになっていったのではないか、こういうふうに思われるわけであります。つまり、菅生
事件と形態は違いますけれども、まさに取り締まり当局が民衆運動を抑圧、弾圧するために仕組まれた謀略的なものではないかという疑いがあるわけであります。
したがって、このような重要なキーポイントを握っている、まあ唯一とは申しませんが、重要な立場にある、しかも原審において使われた証言はまさに彼の一方的なものであるというようなことから言うならば、公正な裁判をわれわれが期待するという場合には、こういう重要な人物の所在というものは徹底的に捜し出すということが重要ではないか。そこで、すでに公判廷におきましても立ち会いの
検察官に対して、所在を明らかにするようにという
要求も、弁護人、被告の方から出しておりますが、まだこれは何らの成果も上げておりません。また、愛知県議会におきまして、
昭和四十八年十二月十四日に愛知県警に対し質問をいたしましたが、当時の県警本部長の関沢元弘という方の答弁によりますと、先ほど私が申し上げましたような、いわゆるふれ書を配ったという程度の答弁しかありません。
そこで私は質問に入るわけでありますが、このような状況のもとで、清水栄氏の所在を法務当局とすればどのような形でいままでに確かめようとしたか、また現状はどうであるかということでございます。