○
嶋崎委員 そこが
一つの
問題点。
今度は第四条にいきます。
先ほどの
局長の話だと、
国立大学で十六校、それから私立
大学で二十五校ですか、学則の
改正をやっているようですが、その学則
改正に当たって
大学の中で問題になっている点というのは、第四条、ここで言っている「
博士課程の標準修業年限は、五年とする。」とまず五年をうたって――これは確かに
政令においても、
大学を明示して、五年、二年、こう書いてありますね。そしてその後に、「
博士課程は、これを前期二年及び後期三年の課程に区分し、又はこの区分を設けないものとする。」、こうなっていますね。
そうしますと、修業年限は五年という
博士課程があって、それで前期二年があって後期三年があって、ここでは連続しているわけですね、ちょっとこの解釈で言うと。私は旧制の特研を出ましたけれ
ども、旧制の特研なんかの場合には、前期二年、後期三年なんですね。これはいまの奨学金
制度ではありませんから違うけれ
ども、形だけは同じなんです。
ところが、戦後の新しい
大学院の
博士課程の場合は、二年の修士が終わると、そこで論文があって、一回修士の学位をもらうわけです。そしてその上でもう一遍試験をやって、そして新たな学位としてのドクターの三年の
制度を設けるという
意味で、形の上では連続だが、
制度としては質的には非連続の
制度なんです。そうしますと、ここで言っている「前期二年及び後期三年の課程に区分し、」と
省令で言って、さっきの
局長の答弁だと、
大学側の問い合わせに対して、「
博士課程の標準修業年限は、五年とする。」とまず言っておいて、そして前期二年、後期三年として使ってもよいという指導をされたように言われました。
そうしますと、
大学では大変混乱が起きるのです。どうしてかというと、修士というのは学生定員は多いわけです。ドクターは学生定員が少ないのです。なぜ少ないかというと、修士で一遍切って、そして再度試験をやって、その上でドクターのコースを選ぶという
意味では、普通常識的にドクターの定員は少ないわけであります。
そういうのに対していままで
大学院の中で大変問題になっている院生と
研究科委員会の争点は何かというと、
大学卒で
大学院に入れるという資格になっている。そして五年やろうが、二年でマスターをやろうが、おれは
研究者になるという
意味で、そこでさっきの第三条と
関係してくるのですが、マスターをやるという
前提の中には、当然ドクターにも行くという
前提でマスターまでがんばるわけです。だからマスター二年という
制度は、二年でやめて職業人になるというような者は、これはむしろ異例なんであって、本来ならば二年のマスターというものを学者としての
基礎的な
研究にして、そしてそこで一遍試験を受けてセレクトされて、ドクター三年をやる、そういう
制度なんだというふうにいままでの
大学の
運用は行われてきたと思います。
ところが、これが前期二年、後期三年という
考え方になりますと、院生の中ではどう言い出すかというと、いままでの
制度は大体本来二
段階だったのに、
大学卒で
大学院に入ったら、これはもうマスターで終わる
研究者なのか、ドクターまで行く者なのかということを最初からセレクトされるわけです、そこから始まって。そして今度は、連中は、おれは最初から何も職業人として二年でやめて民間に行く意思はありません、
研究者になりたいんですというので、五年間を希望しているわけです。ところが二年で試験を受けておっこっちゃうものだから、やむを得ず外に行かざるを得ないという姿をとっているわけです。ただでさえオーバードクターが出ておる時代にですね。ですから、それだけに学生定員と学生の
研究の
条件というものを考えると、二年、三年というのは前期、後期の
考え方ではなくて、二年はマスター、マスターの上にドクターがあるという非連続の
制度なんです。
それを
大学院の諸君はどういうふうに
研究科委員会で問題にし出すかというと、おれはマスターだけでやめるつもりで入ったんじゃなくて、五年まで、ドクターまで行きたいのです、したがって二年終わって、マスターの論文は出すけれ
ども、ドクターは試験なしに当然進学できるんだ、こういう議論が出てくるわけであります。だからいままでの
制度というのは、
学校教育法で言う
大学院の
考え方は、マスターとドクターというものについて、ここで言う二年でやめて職業につくというような道を開くよりも、むしろ
研究者としての、つまりドクターまで行く人間の
前提としてのマスターという
制度的
考え方であります。ですからここで五年として、前期二年、後期三年という書き方をしますと、どこの
大学の院生も、これならばもう
大学院に入ったら二年の修士、マスターを終わった人間はもう試験を受けなくったって当然にドクターに進学できるのだということで、試験なしの進学要求というものが実際には出てきているわけです。その問題で、この
省令が出たために、いま
大学内部では大変いろいろな混乱が
現実に起きております。
だからここで言っている前期二年及び後期三年、この使い方、
基準の取り方は正確じゃないと思うのです。そして「これを前期二年及び後期三年の課程に区分し、又はこの区分を設けない」、筑波のような場合には五年ドクターが一本ありますから、これは新しいタイプになりますね。これからどういうタイプを――技術科学
大学院はいまのところマスターでしょうけれ
ども、将来どうなるかわからぬけれ
ども、そのドクターコースみたいな通し一本のドクターのものも今後出てくるんでしょう。そうしますと、ここのいままでの
制度で言っている前期、後期でない、マスターとドクターという、そこに非連続の
制度というものと通しで行くという
考え方との
運用上の
問題点が――
文部省の方から考えれば、いままでやっているように二年、三年でいいですよ、学則をそうして
運用しなさい、こう言うでしょう。しかしそうでない
運用だってできるわけですから、区分を設けない場合だってあっていいのですから、そうしますと、たとえば
大学卒業生、
学部卒業生の中から、最初からおまえはドクターコース
専攻の
研究者、おまえはマスターコース
専攻の
研究者というふうにセレクトをして試験をやるというようなことも、これでも可能になるわけですね。そういう
運用もできます。それからまた、マスターを終わってから試験をやってドクターにいくというような形の、いままでの
運用もできます。それから今度は試験なしに、マスターからドクターまで古い
制度を使って一本でいくという院生の要求を認めざるを得ないような解釈も成り立つ。そういう
意味で、この
基準の第四条でいっている修業年限は、五年とする、前期二年、後期三年の課程に区分しという、こういう使い方は不正確ではないか、そういう
意味でもっと政策的に明確になるような
運用がしやすいように変える必要がないかとぼくは思うのです。
それはなぜかというと、今度は
法律で見ますと、六十七条の
規定を今度新たに設けたのは
独立大学院やなんかを想定しているんだと思いますけれ
ども、
大学院入学の資格というものは
学部卒とマスター卒とこうなっているわけですね。そうしますと、六十七条の
法改正の
趣旨は、
大学を卒業してマスターにいくのも
大学院資格、今度はマスターを卒業した人がマスターという学位を持ってドクターにいくという受験資格ないしは資格ですね、これが
法律的に明確になっている。そうしますと六十七条の法の
改正の
趣旨は、いままでの古い
大学院制度を
前提にして、二
段階を
前提にした
法改正の
趣旨になるわけです、
法律の上では。そうですね。もちろんこの中に、六十七条の前段の中には、そうじゃないんだよ、
学部卒できたって
大学院までひゅうっと行く資格は当然中に含んでいるんだから、それは
運用上できるのですよというふうに
運用はできます。そう解釈もできます。しかしわざわざ
法改正して、「
大学院に入学することのできる者は、」という資格要件として、
片一方は
大学卒、
片一方は
大学院のマスター卒というふうに、こういうふうに六十七条で法の
改正をしたんだとすれば、それ以前に決めた
省令としての第四条では、この六十七条の
法改正という
制度に合わせてこの
省令というものを
運用していくような書き方を明示しておく必要があるはずだと思うのです。それはどうしてそうなっていないかというと、去年の六月にまず
省令をこしらえておいて、それでことしの四月一日からこれを
施行すると言ってまず
省令が先行しておいて、そしてその
省令でもって各
大学に学則の
改正を事実上迫っていく。迫っていきますと、
大学の中では実際に院生と
大学院の間に問題があっても、
省令で指導されるのならそういうふうに変えていきましょうという学則
改正が行われている。ところが今日出てくるところの法の
改正は、二
段階の
考え方で六十七条
改正となってあらわれる。こうなりますと、どうも六十七条の
法改正と、この
省令で提起された第四条の
博士課程、マスター課程との間に
制度上の混乱がある。ぼくは立法上政策的な少し混乱がありはしないか。何もかも一緒くたにして、筑波方式みたいなタイプのやつ、それからまたこれからの技術科学
大学院みたいなタイプのやつ、そのいろんなタイプを想定して、何もかも、水と油みたいなものを一緒にしようとするような、水と油と言うと悪いけれ
ども、そういう
省令的な指導というものをやることがここにうかがえるんじゃないかという、これは一方的な
判断でございます。そういう
意味で、前期二年、後期三年の課程に区分しという使い方は正確ではない。同時に、
文部省が指導した前期二年、後期三年として使ってもよいというような指導の
内容は、
大学の
内部の自主的な
判断やいままでの伝統的な
大学院の
考え方に混乱をもたらしているという
意味において、この
省令の
考え方はわからぬことはないけれ
ども、使い方としてはもう少し正確なものにしておく必要はないか、こういうことです。