○角田(礼)
政府委員 まず、第一の責任の問題でございますが、実は、もうたびたびの御
質問でございますからはっきり申し上げますが、内閣が最終的な責任を持つということなんでございます。ただ
先生の御設例が、天皇の御意思を無視してもと言われますので、非常に私答えにくくて、先ほど来ちょっとあいまいな
答弁をいたしたわけでございますが、その辺は御了承願いたいと思います。
法律的には内閣が最終責任を持つということでございます。
それから、公的
行為の範囲というものがあいまいではないかという御指摘、また、できるだけ狭く解釈する方が憲法の
趣旨に合うのではないかという御指摘でございますが、確かに公的
行為の範囲というものが、私的
行為の範囲との間で若干不分明であるということは私も認めます。これはやはり天皇が何しろ象徴としての地位を持っておられる、ほとんどある
意味では公的な御存在でございますから、そういう
意味において公的、私的の区別が非常につきにくいということは避けられないと思います。お言葉を返すようですが、全く純粋の私人の場合にはそれは区別ができても、天皇の場合にはその区別がよりつけにくいということは、これは御理解願えると思います。
それから、できるだけ狭くということでございますが、これは私、できるだけ狭くということに直ちに御同意申し上げませんけれ
ども、しかし先ほど来申し上げているように、政治的な
意味とかあるいは政治的な影響とかそういうものが、天皇が公的
行為をされる場合にあってはならないということは、これは全くそのとおりだと思います。ですから、そういう
意味において、公的
行為というものを厳重に考えるということ、言いかえれば、私的
行為の場合以上にそういう問題について神経質と申しますか、慎重に考えるということは、これは必要だろうと思います。
なお、一言だけ申し上げますが、私
どもは、公的
行為の概念というものは、三分説をとることが最も素直な
法律的な
説明であるということだけを申し上げているのでありまして、公的
行為を認めることによって、そこに政治的な影響というものを入れてはいけないということは、もう当然のことであるという前提で議論をしているわけであります。
それから、小林さんその他の二分説等を引用されての御
質問がございましたので、それにも若干触れておきますが、実は学者の中には二分説がございます。言いかえれば、国事
行為と私的
行為以外には認めないという説でございます。しかしこの説は、いろんな
考え方がございまして、たとえば天皇が国会の開会式に御出席になる、それを例として申し上げますと、そういうものは国事
行為である、そっちの方へ入れてしまえという議論がございます。これは七条の十号の「儀式を行ふこと。」で読むわけでございます。これは現在の国会法の
規定から言っても、また、そもそも国会の
考え方から言っても、国会の開会式というものは国会が主催されるものであって、天皇がそこに出席されるのは、明らかにお客として呼ばれるということでございますから、十号の「儀式を行ふこと。」で読むのは、私は無理ではないかと思います。
それから、私的
行為の中に入れてしまえという議論も、先ほ
ども御指摘がありましたけれ
ども、確かにそういう説もあります。しかし私
どもは、天皇が大相撲をごらんにおいでになるというのと、国会の開会式を一緒にするのはやはりおかしいじゃないだろうか。ニュアンスの差かもしれませんけれ
ども、やはり前者については私的な色彩が濃い、後者については公的な色彩が強いのじゃないかというふうに考えて、公的
行為という概念を考えているわけであります。
さらにまた最後に、およそそういうことはやっちゃいけないという説もあります。これも確かに一つの説だろうと思いますけれ
ども、しかし現実に、国会の開会式においでになる、あるいは学士院の式においでになる、全国戦没者の追悼式においでになる、そういうものをやっちゃいけないというのも、これまた非常に不自然な話ではないか。かれこれそういうことを考え合わせまして、私
どもは当然、憲法の解釈として公的
行為という概念が認められるべきであるということを申し上げているわけでございます。
なお、もう一言ちょっと申し上げさせていただきたいと思いますが、公的
行為と私的
行為につきましては、実は学者も全然そういうことに気がついておりませんけれ
ども、その御
行為にかかる経費の支出をどこから出すかという問題があるわけであります。その問題は、宮廷費と内廷費の問題でございますが、大体公的
行為が宮廷費に当たると考えれば、そういう概念を認める必要があると思います。