○谷口
参考人 国民の代表機関である国会で、三十余万の
被爆者の悲しみと苦しみを訴え、国の
被爆者に対する適切な
援護をお願いするこの
機会を与えられたことをとてもうれしく思います。
私は、十六歳のとき、爆心地より一・八キロの地点で、自転車に乗って郵便配達をしている途中、
被爆しました
長崎の谷口であります。
被爆後三十年、初めて国会で発言できる、多くの
被爆者がそれこそ待ち望んでいたことだけに、議員の方々の御配慮に心から感謝申し上げるものであります。あわせて、率直に言わしていただくなら、遅過ぎたのではないかということです。
被爆の
状態については、いままでにも写真集やアメリカから返ってきたフィルムなどで発表されていますが、私のことについては、
昭和四十五年に「アサヒグラフ」に次のように書いてあります。「背中一面に熱傷を負った少年 これほどの重傷でありながら写真の主は健在だった、
長崎電報局配達課運用主任の谷口稜曄さん(41)である、
被爆当時は
長崎本博多郵便局の配達員、爆心地から一・八キロの住吉町の路上を自転車で電報配達中に
被爆した、全身の三分の一以上に熱傷を負い「殺してくれ」と声をあげたほどだった 三十一年に
結婚、二児がある」「ふつうなら一カ月ぐらいで熱傷部分は皮膚がかわいて快方に向うのだが、放射能の影響で回復力が弱っているため、なかなか快方に向わない」というふうに書いてあるわけです。
町並みは一瞬にして瓦れきと化し、山の木は立ちながらにして燃え、死人とけが人の中で、私の背中は、着ているはずの着物はなく、ぬるぬるとはだが焼けただれていたのです。一瞬の放射能によって血の出る間もなかったのでしょうか、一週間近く血も出ませんでした。半焼けの肉は腐り、膿とともに流れ、いまでもそのときのにおいを忘れることはできません。一年九カ月の間、ベッドの上を食堂とし、また便所として、身動き
一つできず、きょう死ぬか、あす死ぬか、生きているのが不思議なくらいでした。うつ伏せに寝たきりで過ごしてきたのです。
ここにある写真は、
昭和四十五年、アメリカから返還されてきたものですが、二十一年二、三月ころ、寒いときに、病室の中にライトを持ち込んで、ライトの光線で寒さも感じないようにして写された写真です。いまでも背中から、腰のバンドの部分を残して、しりまで傷だらけで、また前の方は、一年九カ月うつ伏せに寝たっきりだったので、骨のある部分は全部床ずれで傷だらけです。
皆さん方は、よく見てもらえばわかりますけれ
ども、私の左ひじは百十度以上は伸びることはできません。背中の火傷ですら三十五年まで全治することなく、手術も不可能だということでありましたけれ
ども、耐えかねて
原爆病院で手術を受けたわけです。そのときに、皆さん方でもおわかりにならないと思いますけれ
ども、三十五年まで私の背中についていた傷、何か原因不明なこのような傷が三十五年まで背中についていて、これがほかの皮膚を痛めていたわけです。
私のように傷を負った者だけにとどまらず、傷
一つない
人たちが、肉親を捜し回ったために放射能を浴びて亡くなりました。また三十年間、そのために
原爆症と闘い、今日でも多くの
人たちが入院し、この三十年間
自分の足で歩くことすらできない人もあるのです。
人々は私に栄養をとって太れと言います。とってもありがたく思うのですが、残念というより、私は本当に戦争が憎い、
原爆が憎うございます。それは、栄養をとって肉がつくのはやさしいことです。だが、私の体は、さきにも述べましたように傷だらけで、肉がつくと張り裂けるように痛むのです。たとえば友達から飲みに誘われて、そこでビール、酒をちょっと飲み過ぎたぐらい、そのくらいのことで血管が膨張し、
病院に行っても手の施しようのないように痛むのです。だから、よく言われるやけ酒ということは私にはできないのです。だから、栄養をとるにしても、太るためではなく、その日その日を維持していくための栄養しかとれないのです。
だれでも、いつでも、
被爆者の苦しみはよくわかると言ってくださいます。また、身内に
被爆者がいるからよくわかると言う人もあります。しかし、目に見えない、
自分のはだで感じないことがどれだけわかるのでしょうか。毎年八月の
原爆記念日には、
広島と
長崎で祈念式典が行われ、記念碑の前で、過ちは繰り返しません、安らかに眠ってくださいと祈られますが、母の胎内にいて、この世に出てもこないうちに、眠り方も知らないうちに親とともに殺された多くの胎児が、どうして安らかに眠れましょうか。生き残った多くの
被爆者が三十年間も苦しんでいるのに、何で死んだ
人たちだけが安らかに眠れるでしょうか。過ちを犯かした
人たちが、二度と再び過ちを繰り返さないと誓われるのならば、原水爆をつくらない、持たない、持ち込まないという保証を生き残った
被爆者に明らかにすべきでありましょう。
政府は、私
たち被爆者に何の断わりもなくアメリカへの損害賠償請求権を放棄しましたが、
原爆医療法制定までの十二年間、さらに今日までの三十年間放置されてきた
被爆者がいま切実に求めていることは、あの日、
原爆にさえ遭っていなければ苦しむことはなかった三十年の過去を償うという
補償、現在の不安に対して生活と健康を守るという保障、再び私
たちのような核兵器の被害者をつくらない保証という三つの「ほしょう」をはっきり示してほしいことです。
手帳の
拡大についても、先ほ
ども鈴木参考人からも言われましたけれ
ども、予算の枠によって徐々に
拡大されてきました。だが、科学的な根拠で、しかも不合理をなくしてもらいたい。実際に香焼、茂木、式見等にいた
人たちでも、放射能に冒されている
人たちがあるのです。
また、すでに諸
先生方は御承知と存じますが、
広島、
長崎の
原爆病院は赤字経営で経営困難に陥っています。そういう関係で、
被爆者全部が入れなくて自宅で療養している人もあるわけです。世界最初の
原爆の
被爆国である日本がここまで経済成長を遂げているのに、
原爆病院も民間団体に委託していることに対し、私
たちは大きな不満を抱いています。
被爆者が安心して
治療ができるサトリウムと
治療機関を兼ねた施設を国がつくるべきではないでしょうか。ABCC、
長崎医大、
原爆病院など
治療と放射能の研究機関を一元化するため、国も予算を大幅につけてほしいと
考えます心
また、当時
長崎では軍需工場の
拡大が行われていたために、外国人はもとよりたくさんの
人たちが動員されて来ていたわけです。そういう関係で、実際の
被爆者の数はつかめていないのではないでしょうか。そのためにも実態調査を早急に行ってもらいたいのです。私
たち被爆者の悲痛な叫びは、安心して生活ができ、安心して
治療ができ、住みよい世界ができることです。
被爆者は老齢化し、年々多くの
人たちが
犬死に同様に亡くなっています。その同士に対しての
補償も何らなされてはおりません。
広島、
長崎で
被爆をした
全国各地の
被爆者で
組織しているただ
一つの
全国組織である日本原水爆
被害者団体協議会は、
昭和四十八年四月に永年の
要求をまとめた「
原爆被害者援護法案のための
要求骨子」を発表しました。
政府を初め各党に支持をお願いしてきました。自民党の中にもこの
要求を支持する
先生方もありますが、野党四党は、この骨子をもとに
被爆者援護法案を共同でまとめ上げ、現在参議院に提案されています。私
たちは、
遺族年金を含めた
原爆被害者援護法を一日も早く制定していただくようお願いして私の発言にかえさせていただきますが、前にも申し述べたように、死んだ人の前に集まって、手を合わせ、幾ら誓っても、その実現に向かって進まない限り、
言葉だけに終わってしまいます。
私はいままで一回も祈念式典に参加してきませんでしたが、もう待てないという気持ちで昨年初めて参加し、次のような「平和への誓い」を
犠牲者の前で誓いました。
太平洋戦争の末期の八月九日、
長崎市上空に投
下されたあの
原子爆弾によって一瞬にして七万
余の皆さんの生命が奪われてから早くも二十九
が
たちました。
毎年この地において
原爆犠牲者慰霊祭と共に平
和祈念式典が行なわれ、平和宣言がなされ核兵
器廃絶を世界各国に訴えられてきました。しか
し、核兵器はいまだ禁止されないばかりか、ま
すます開発実験が行なわれています。
被爆国で
ある日本にさえ核兵器の持ちこみをされている
といわれています。新生日本は、再軍備はしな
い、戦争は行なわないと誓ったはずの平和憲法
をふみにじって再軍備の道をたどり、核兵器開
発の準備さえしようとしているとさえいわれて
います。
私
たちは毎年ここに集って「あやまちは二度と
繰り返しません。安らかに眠って下さい」と手
を合せてきました。「あやまちは繰り返しませ
ん」と誓いながら再びあやまちを繰り返そうと
している
現状や
原爆被爆者の永年の叫びと要請
にかかわらず国の
犠牲者として
国家補償にもと
づく
援護法が実現しないことに憤りをおぼえま
す。
原爆の被害は一般の
戦争犠牲者と異なり
二十九年を過ぎた今も
原爆症のために苦しみ不
安におびえています。
私
たちは、
原爆犠牲者の皆さんのあの悲惨な死
を無駄にさせないため、原水爆の廃絶と
被爆者
援護法制定のため、その実現まで
努力を続けま
す。
長崎市が率先して平和宣言を行ない各国首
脳に働きかけると共に、平和祈念旬間を設けて
市長ぐるみ平和運動に取り組んでいるのも
原爆
の
犠牲者を再びつくらない、つくらせてはなら
ないという誓いによるものであります。
私
たちは日本
国民に世界の
人々に核兵器の脅威
を訴えると共に
政府が率先して国連の場におい
て、核兵器完全禁止協定の実現するよう、日本
政府の責任において提唱し、推進し、実現する
よう
努力することを願い、そのために私
たちも
骨身をおしまず邁進することを
犠牲者の皆さん
の前で心から誓います。ということで、私の発言を終わらせていただきます。(拍手)