○水原
説明員 順序といたしまして、建築交換契約を締結いたしましたいきさつから御
説明さしていただきたいと思います。
巣鴨に当時ございました、その当時、その前には通称巣鴨プリズンとも呼ばれておりました東京拘置所、これが池袋副都心整備計画の上に邪魔になる、そこでその池袋副都心整備計画を推進する上にこの拘置所は早期に他へ移転すべきであるということが、
昭和三十三年の二月二十一日の閣議了解で認められたのでございます。
そこで、
法務省といたしましては、その閣議了解を体しまして移転
方法を検討いたしました。移転といいましても、あれだけの施設を他に移すわけでございますので、この敷地及び建物、立木等国有財産を、この跡地を副都心整備計画を推進する上に最も適当な相手方に有償処分をいたしまして、その代替建物を整備するのが閣議了解の御趣旨であろう、そのように理解いたしました。その相手方といたしましては、副都心の整備計画を推進するには東京都が最も適当な相手であろう、このような判断に立って、
法務省といたしましては東京都に対して右の計画を申し入れ、そしてこの土地、建物の有償取得の御依頼をいたしたわけでございます。
何回にもわたりまして要請をいたしましたが、
昭和三十九年だったと思いますが、東京都から、財政上の
理由で
法務省の要請を受け入れることは困難である、そこで、この土地の跡地を副都心の再開発計画を推進することのできる民間団体にでも払い下げることはやむを得ないという御回答をいただきました。
法務省といたしましては、でき得ることならばやはり
公共団体あるいはこれに準じたところにお買い上げいただきたいという考えに立ちまして、もう一度文書による照会を都に対していたしたわけでございます。このときも同じような回答でございました。財政上困難であるということでございました。
私の伺っておるところでは、その際に東京都を介しまして、株式会社新都市開発センターというものが設立された、その会社は自動車ターミナル
事業免許、都市計画
事業の特許を得ておるということでございまして、この会社ならばというお話があったやに伺っております。
この会社は、調べてみますと、高速道路五号線の出入り口、いわゆるインターチェンジ、これの特許、それから西巣鴨公共駐車場及び西巣鴨バスターミナルの
事業免許を得ておるということがわかりました。ここならば公共性も認めら外窄すし、また会社の役員等を調べました結果、言用度の厚い方々で構成されておることがわかりました。都がそのように、再三の
法務省のお願いにもかかわらず、財政上の
理由で買い上げが困難だとなりますならば、できるだけ早期に拘置所の移転をせよという閣議了解の趣旨にのっとるならば、この際、この池袋再開発のために新都市開発センターを相手とする建築交換契約がよかろう、このような判断に立ったわけでございます。
そのようないきさつで、新都市開発センターを建築交換の相手方にいたしまして、その後交渉いたしました結果、先ほど先生御
指摘のとおり、巣鴨にございます東京拘置所の敷地、建物、立木等を処分し、その処分して国庫に入ります金で見合う建物を整備するとしたならばどこが整備できるだろうかということでいろいろ検討しましたところ、まず、移転先であるところの小菅刑務所に東京拘置所を整備しなければならない、それから小菅に
収容しております受刑者をほかへ移さなければいけないのでその新設刑務所の設置が必要である、その新設刑務所の設置を新都市開発と交渉いたしました結果、青梅につくるという話でございました。それだけでは財源が余りますために、先生も御案内のとおり、
法務省の
収容施設は大変老朽いたし、狭隘でございますので、この際の
予算の余り分で岡山の刑務所、それから旭川の刑務所、それから川越少年刑務所、それと浦和の拘置支所、以上をそれぞれ整備させていただくことになりました。協議相調ったので、
昭和四十一
年度の国庫債務負担行為の御承認を国会でいただきまして、それに基づいて
昭和四十二年の二月二十七日に、いま申しました巣鴨にございます拘置所の土地、建物を新都市開発に
公共事業を実施させることを条件に売り払い、そしてそのかわりに、その売り払い代金に見合う、先ほど申しました諸施設を建てて、そして国が購入する、こういう契約を締結することになったわけでございます。
ところが、四十二年の二月の時点では、青梅に小菅刑務所にかわるべき、その当時仮称多摩刑務所と呼んでおったようでございますが、多摩刑務所を四十三年の十二月三十一日までに完成するという約束でございましたが、これが諸般の
事情で実施が困難になりました。その後センターの方から、仮称多摩刑務所は栃木県の黒羽地区に移したい、そのための契約更改をお願いしたいという申し入れがございました。詳細の
説明は省かせていただきますが、検討いたしました結果、黒羽地区の地域住民及び
公共団体等が刑務所の受け入れに賛同しているという
事情もわかりましたために、ここならば間違いなく、契約を更改しても所期の目的を達成することができるであろう、このような判断に立って、
昭和四十四年の七月に多摩刑務所分だけを抽出いたしまして、そして契約更改をし、四十六年四月七日までにすべての建物の完成を見、国はそれを購入いたし、そして国の持っておった旧東京拘置所をセンターに売り払ったといういきさつでございます。