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中島参考人 私、
運輸調査局の中島でございます。
本日は、国鉄の
財政再建問題に関連いたしまして、
国鉄運賃と国等の助成問題について意見を述べるようにというお話でございますが、私はこの問題を大体四つの
問題点に整理いたしまして意見を述べさしていただきたいと思います。
四つの
問題点と申しますのは、まず第一点は、
会計正常化という見地からの
財政措置、これをまず第一にやるべきである。それから第二番目は、
運賃制度と
公共助成という問題の基礎を国鉄の
経営理念の上でこの際明確にしておく必要がある。それから第三点は
運賃制度の
考え方、それから
運賃水準の
考え方と
運賃制度のあり方というものをこの際根本的にもう一回考え直す必要があるのじゃないか。最後の
問題点は、
運賃決定機構の問題です。
そこで本論に入ります前に、この問題に対する私の基本的な
考え方を一言つけ加えておきたいと思いますが、国鉄の
財政状態をいろいろな資料から検討いたしてみますと、率直に言って非常に大変な状態になっていると私は思います。もしこれをこのまま放置しておいたら、将来一体どういうことになるのだろうかということは、予想しても予想のつかない問題ですけれども、したがって、これを早いうちに的確な手を打つということが絶対に必要だと思いますが、一方社会とか
経済情勢とかいう国鉄を取り巻く
客観情勢を考えますと、どうしても国の強力な助成なしにはこの国鉄の
財政再建という問題は一歩も前進しないであろう、こういうふうに考えるわけであります。したがいまして、そういう
考え方を前提といたしますと、やはり国の
財政援助というものをどうして必要か、その必要性と、どういう形でそれをやるかということを国民にわかりやすい形で示すということを中心にこの問題を考えてみたい、こういうふうに思うわけであります。
そこで、まず最初の
会計正常化のための
財政措置という問題ですが、これはまず会計の
正常化という
考え方を申しますと、
一般企業会計原則の中で
収益費用対応の原則というのがございます。会計の根本はこの収益と費用とを正しく対応させることから物事が割り切れていく、これがまあ会計の中心なんですが、国鉄の
会計制度というものをもう一度そういう点から見直して、国鉄が払うべき、負担すべき金とそうでないものとをまず
バランスシートの上で整理してみる、つまり再建で発足する前に
バランスシートを大掃除してみる。ここから出てくる問題はやはり国の助成につながる問題、要するに助成をすべき一つの根拠になるわけです。
それではどういう点が会計の
正常化という点から
問題点になるかと申しますと、そもそも国鉄の財政がこのように慢性的な
赤字体質になった
根本原因は、これは考えようによっていろいろあると思いますけれども、根本的にはやはり戦後長年にわたって国の
物価安定策の一つのてことして運賃を使ってきた、したがって、
運賃水準の引き上げというものがいつも物価や賃金の後を追って、こういうことの
しわ寄せが結果的には国鉄の
収益性を低下さした、こういうことにあると思うのです。
それからもう一つは、いわゆる
交通革命と言われる自動車の進出によって、輸送面で国鉄にとって
収益性の高かったものがだんだん減ってきた。結果的には相対的に
収益性の低いものだけが残ったためにこの面でもやはり
運賃水準が下がったという結果を招いた。
それから第三点は、そういうことで本来ならば国鉄の近代化とか施設の拡充とかいうものは、理想的には
自己資金をもって賄うべきものが
自己資金が足らなくなってしまう、そうしてそれを借入金に仰ぐ。それからもう一つの要素は、戦後の
老朽施設の復旧とかあるいは
経済成長に対応する輸送力の増強とか、こういう問題が当時の財政の力を超えたそういう現実の要請を満たさなければならない、つまりその面でもやはり過大な借入金をした、その結果が
利子負担の増加というものを招いてきているわけです。言うなれば、これはいわばそれらの措置がよかったか悪かったかということの批判は別として、結果的にはそれによって生ずる
財政負担というものは過去のものである、したがって、現時点あるいは将来の運賃の
利用者負担といっても、運賃の対象とする基礎としてはやはり不適当なものではないだろうか。
たとえばわかりやすい例で言いますと、
まんじゅう屋が二軒あった。片っ方はおやじの代に非常にりっぱな店舗をつくった、片っ方はやはり
身分相応の店でやっていた。ところがせがれの代になってくると、おやじが家を
身分不相応につくったその借金が残って、その利払いがかなりかさんでいる。
まんじゅう一個十円でできるものをそちらの方では十二円で売っている、隣の方は十円だ。おまえのところは高いじゃないかと言えば、いやそれは、これはあんこのほかにおやじの借金の利子が入っているんですと、こういうのを買い手が納得するか、また、それが合理性があるか。普通のお店なら恐らくそこには買い手が行かなくなりますから、これはまあ勝負がつくわけですけれども、国鉄の場合にはそういうわけにいかない。そこで、これから財政を再建する際には、まず、そういうものを振り分けておいて、そうしてこれから先、
国鉄経済の基盤としてこれだけの金が必要だというものを明確にするという点であります。
これを具体的に申しますと、これと同じような問題ですが、まず、私は
赤字債務のたな上げと一般に言われている問題、これはどうしても必要ではないか、あるいはその過大な債務をこの際一応
バランスシートから外してやる。この金額はどれくらいかということは、これは専門的に検討してみなければなりませんけれども、少なくとも
累積赤字に匹敵する借入金というものは、抱えていてもこれは赤字というものは利益を生むわけでも
サービスを生むわけでもないのですから、過去の債務ですから、それに対する利払いとか元本の償還に対する負担というものは、国鉄側のこれが
最低限度だろうと思う。
イギリス鉄道が一九六二年の
運輸法によって例のBTCを解体して
鉄道公社というものをつくりましたが、そのときにやはり過大な負債というもので、鉄道が与えられたコメンシング・キャピタル・デットと言うのですか、これは要するに
開始資本とするための借入金というものをBTCから割り当てられた、これが十五億六千二百万ポンド多分あったと思いますが、それを一九六二年の
運輸法で
鉄道公社で再建する際には七億五千万ポンドはそれをたな上げした。それから一九五六年からそれまでの
赤字累積約五億ポンドありましたが、これを政府から借り入れで補った、この借入金を帳消しにした。これなどもやはり
会計正常化の一つの例でございますが、こういうようなことはECとかあるいは
ヨーロッパ運輸大臣会議では非常に基本的な問題として、常に
各国鉄道とも、まず会計の
正常化をやるべきであるというような意味で、その上に立って理論的なあるいは合理的な
再建計画というものは乗っかってくるだろう。
なお、これは
バランスシートの問題ですけれども、
損益計算書の中にもこれに類するものがあると思います。私も細かく専門的なことはわかりませんけれども、たとえば地方に、
固定資産税に相当するような金を、年間百数十億ですか負担しているようですけれども、これはもうかっているところだったらあたりまえですけれども、赤字線で人件費さえも賄えないようなところで
固定資産税をその地方に払う、前の計画の中では地方の
ローカル線の廃止のかわりにその赤字は地方の
公共団体に負担させるというような
考え方もあったようですけれども、それも負担できないような今日の
地方財政にあるわけですから、そういうものを考えますと、収益と費用というような対応からいくと、そういう点もおかしいのじゃないか。
そのほか、たとえば
厚生年金に相当する国の負担分も国鉄は背負わされているとか、いろいろそういう細かいものもあると思いますが、要するに会計を
正常化するという意味での
バランスシートの洗い直しということをまず第一に私は申し上げておきたい。
それから第二の
問題点は、
運賃制度と
公共助成とを国鉄の
経営理念の上ではっきりさせる、これをやらないと
公共助成の歯どめがなくなる。何でも安い方がいい、これは当然のことですから、何でも税金でやればいいということになると、
しわ寄せが結局国の財政に来て、国の財政の方が破綻を来すということですから、ここで運賃を
値上げするにしても、税金として
公共助成するにしても、納得のいく形でやるには国鉄の
経営理念の上からなぜ
運賃値上げが必要か、なぜ
公共助成が必要かということを明確にしておく必要があると思う。
この問題は別の角度から申しますと、いわゆるいままで観念的にいろいろな議論がされております、国鉄の
公共性と
企業性とを
運賃制度の上でどのように割り切ってとらえるかという問題になる。まあいずれの
考え方をするにいたしましても、この問題は、この
国鉄財政再建という問題を解く最も重要な一つのキーポイントだと思います。同時にまた、これまで
公共性という大義名分のもとにこの点をあいまいにして、そうして現実と妥協してきた、その結果が今日の財政の窮状を来した
根本原因であるということをこの際やはり再認識しておく必要がある。
では、国鉄の
経営理念はどういうふうに考えるべきかという問題ですが、これは抽象的に議論すれば切りがありませんけれども、私ども
日本国有鉄道法、つまり国鉄の基本法からこれをまずくみ取るべきだ。この一条は御承知のとおり「能率的な運営により、これを発展せしめ、もって公共の福祉を増進することを目的として、ここに
日本国有鉄道を設立する。」こう書いてある。これは法律ですからまことに簡単な文章ですけれども、この中から国鉄の
経営理念を的確につかめということは非常に無理なことですが、私はこの中に二つの注目すべきポイントがある。
その一つは、公共の
福祉増進ということが国鉄をつくった目的だ、国鉄の
存在意義だ、これが一つです。これは
民間企業でいえば会社をつくるのは
利潤追求が究極の目的ですから、これと匹敵する事柄だろう。
それからもう一つは、その手段として、つまり公共の福祉を増進する手段として
鉄道事業を能率的な
企業運営方式によって経営する、この点であります。これは
民間企業で
利潤追求するために一生懸命能率を上げる、これと全く同じというよりも、むしろ民間のそういったいいところを国鉄も取り上げなさい、取り入れなさいということで、わざわざこれまでの
官庁機構にかえて
公共企業体という新しい
経営形態をとったというところに意義がある。
これを考え直してみますと、
企業的運営によって
生産性を高める、そうしてそこから生み出される
余剰価値というものを、
民間企業あれば配当なんかに向けるけれども、国鉄の場合には国鉄の発展、福祉の増強という面で国民に奉仕しなさい、こういうことにあるだろう。ここにいわゆる
独立採算という暗黙の前提がある。
日鉄法のどこを読んでみても赤字を出してもいいから公共に奉仕しろとは書いてない。あるいはその反面、
日鉄法はいま改正されてこの条文は消えてますけれども、その設立の当初は非常に戦後の混乱期であったために、もし国鉄の
企業的責任に属しないような原因で赤字が出た場合には、政府から交付金を交付するという条文があったはずであります。これは二十八年の改正で消えておりますけれども、これはやはりそういったような
独立採算制で、
企業性の範囲内で
公共奉仕をしなさいという原則が認められる。
国鉄運賃法の第一条に、
国鉄運賃は「原価を償う」ということを一つの条件にしているのもそれの一つの裏づけであろう。これは決して観念的に考えた問題ではなしに、いまの国鉄というものは明治初年から考えてみますと、まさにこの原則で今日のこの大部分の鉄道網を建設した、また、
世界各国の鉄道もいずれもそういう実績を持っておりますので、これはやはりそういう原則が過去においても考えていたし、将来も一つの理想である、これを崩すとここに赤字の歯どめがなくなるという
問題点がある、こういうふうに私は思います。
そこで、したがってここではいろいろ議論されますけれども、
公共性と
企業性というものは矛盾しないというふうに理解する。ところがこの理想の姿がここ十数年の間に崩壊してしまった。その原因は、先ほど申しましたように、いろいろとり方、言い方もあるかもしれませんが、とにかく結果としては国鉄の
収益性が下がった、つまり、いまのままでは
余剰価値を残せなくなった。ということは、
余剰価値が出なければ、会社が利潤が出なければ配当ができないと同じように、公共の奉仕ができなくなる。しかし現実には、公共の奉仕を汽車を動かすということが
国鉄設立の趣旨、目的ですから、やはり動かさなければいかぬ、要請に応じて
サービスをしなければいかぬということですから、そこで今日のような状態になったわけですが、われわれはここで国鉄の
経営理念というものを好む好まざるにかかわらずひとつ転換しなければいけないということを自覚しなければいけないと思います。
そこで私は、これをどういうふうに整理するか。まず頭の中で目をつぶって国鉄というもののイメージを考えてみますと、ここに二つの国鉄がダブって浮かび上がってくる。その一つは、いわゆる理想的な企業的な形で
公共奉仕をするという形の国鉄と、それからどうもそこからはみ出る部分がある。それでそのはみ出る部分を
企業性以外の形でやっているから、まあ言いかえれば、それが評価されたものが赤字じゃないかという結果なんですが、ここで私はこの二つの国鉄を
実質的国鉄、つまり本来いままであったような国鉄、それからもう
一つ形式的国鉄、こういうふうに分けて、整理して頭に置いたらいいだろう。もしこの実質的な
国鉄部分と形式的な
国鉄部分が
会計制度あるいは実態の上ではっきり分けられれば、これはもちろん問題ない。まず
実質的国鉄をそのままにしておいて、形式的な国鉄の部分、これは
政府直営にするなりあるいは株式会社にするなりほかの形でやる、これはあるんですけれども、実はこれは一つの中にそういう二つのものが観念的にあるだけです。まあ強いてこれを分けようとすれば、これは例のシェークスピアの物語の「ベニスの商人」に出てくる裁判官の言い分ではないけれども、血を一滴も流さないで肉を切り取れというような不可能な問題である。理論的には、ですから、これはいかようにでも割り切れますけれども、実際問題としてはこれはどうしても割り切れない。そこで、これを割り切る方法としてどういう方法が考えられるかということで、私は二つの案がある。
まず、第一の案は、国鉄のさっきの
会計正常化で
赤字債務のたな上げ等をきれいにした上で、
国鉄内部の
経営合理化というものを十分に洗い直して、そうして現在の国鉄の姿のままで適正な
総括原価を計算する。つまり必要な費用を一切計算する。そうしてこれを基礎として運賃の率を決める、つまり
値上げ分を決める、こういうわけです。それがたとえば仮に一〇〇%
値上げが必要だという結果が出てくる。これをやれば、全体がもう一回理想的な姿に復元されるわけです。ところがこの際、先ほど申しましたように、今日の
経済情勢、
社会情勢で一〇〇%の
運賃値上げをやる、これは国鉄だけを考えればいいんですけれども、やはり社会全体を考えますと、もっと広義のいわゆる
公共性という点からいけば、それが社会の現実が受け入れられないということであれば、これは妥協しかない。よしんばそれを五〇%で妥協したとする。そうすると、残りの五〇%というのはこれはだれかが負担しなければいけない。つまり運賃として必要な費用、
公共サービスを確保する責任上——ただ問題はこの費用を利用者が負担するか、国民全部で分担するか、ここですから、これは国民の選択にゆだねる、あるいは政府が妥当な線を決めたら、そのかわり、残りは補償する。これがいわば
総括運賃補償方式とでもいいますか、これが一つの
考え方。もっともこれにはもう一つの応用問題といいますか、付加的に考えられるのは、そのうちの
資本費用をもう一回国に返して、
ランニングコストだけでいまのような
考え方をやったらどうだ、そうすればもちろん
運賃補償方式とそれから
資本補償方式、こういうふうな段階になる、これは、理論的にはそういうふうな
考え方の方が通しやすいと思いますけれども、ただ、
公共企業全体をこういうふうにすることが、果たして実際問題として可能かどうか。郵便とか電電とか、いろいろまだガスとか水道とかたくさんありますけれども、そういうものに全部、あるいは私鉄の問題も出てくるでしょう、というときに、理論的には筋が通っても現実性があるいは無理であるかもしれぬというような
問題点。
イギリスはいま労働党が政権を握っておりますが、
国有産業の料金とか運賃とか価格というものをできるだけ安くやる、それで資本的な部分を国が補償してくれるというような
考え方を従来は持っていたわけですけれども、ここで、どうしてもそれでは切りがない、国の財政がもたない、全体的な経済の
バランスが崩れるということで、御承知のようにいま全面的に大幅の
利用者負担の方法を打ち出している。ということは、やはり一度やってみるとそういったような理論的に予期しなかった問題が出るということで、ここに一つの
問題点がある。
それから、もう一つの方法は、五〇%
値上げがいまの社会で是認されるとするならば、これを実行しておいて、そうして確保される
運賃額をまず主体に考える。そして、その
運賃額の中で、
独立採算制のできる範囲内で
営業範囲を限定する。線区に、
収益性の高いのから、二百四十あれば一番から二百四十番までつけておいて、その
運賃収入の枠内で経営できるところまでまずやる。もちろんこれは収支率だけではなしに、国全体のいわゆる将来計画とか、そういうものを加味して順位をつける必要があると思いますけれども、いずれにしても単純に考えれば。そして残った分は、そこからはみ出した分は政策的に選定する。これはいまよく言われる一国、二国論というのと似たような発想になると思いますが、その際には、そのはみ出た分は原則としてもう国鉄の
経営責任から除外する。それで、それを残すかどうかはそれを判断する人が、国かあるいは
地方公共団体であるその判断した人が、それを残したことによる赤字は責任を負う。国が必要なら国が助成する、国は要らないけれども地方が必要だというのは地方に赤字を負担させるというふうな
考え方です。したがって、国がいまやっているのを全部残すということになりますと、
考え方は違いますけれども、
補償総額は、
運賃総括補償方式もこの第二の方法も金額は同じになるわけです。ただ、これのどちらがいいかということは、一つの政策の問題でありますが、
考え方としては、第一方式は、国が現在の
福祉的立場から
全面責任を持つということです。第二の方法になりますと、地方の線区は、
公共性の低いところはこの際切って落とすとか、あるいは場合によったら
サービスを落として赤字を減らしてでも存続するというようなこと、つまり
公共性がそちらの方に
しわ寄せがいくわけです。要するに、国の基本的な方針があくまでも現状で国の福祉を考えるか、この際多少地方の福祉を切ってでも国の負担を少なくするか、これは国民の選択にゆだねるほかしようがない。これは国鉄が決めるべき問題でもないし、また利用客が決めるべき問題でもない、こういうふうに思う。いずれにしても、こういうふうな問題で
利用者負担と税金で負担する分、こういうものの根拠を明確にする必要がある。特に私がこういうことを申し上げますのは、やはり、何ぼ
公共助成に頼ればいいといっても、それでは歯どめがなくなってしまう。それから、
企業努力の限界がなくなってしまう。
企業努力をして、少しでも
日鉄法の一条にありますように、能率的な経営によって
生産性を上げようとしても、その基準が不明確。こういう点を明確にするには、以上のような
考え方が必要だろう。
それから、第三の問題は
運賃水準と
運賃制度の問題でございますが、御承知のとおり、
運賃水準というのは、運賃を価格という立場から見てそれが高いか安いかということを判断する一つのバロメーターですが、これは何と比べて高いかといいますと、物価、賃金あるいは他の
交通機関の運賃と比べて高いか安いかということを比べる場合の基準でございます。
運賃水準の意義というものはどこにあるかというと、
バランスしているところに
運賃水準の意義がある。多少
バランスは常に崩れておりますけれども、基本的にはやはり
バランスというものが安定するということが
運賃水準の
考え方の基本でございます。海を見ますと、しょっちゅう波が立っている。しかし、波が立っているけれども水位というものは常に安定している。そこにやはり価格としての
安定性、物価の
安定性というものは、多少の上げ下げはあるけれども常に
バランスしている、これが
運賃水準の意義だろうと思う。そこで、
運賃水準のあり方というものは、ですから、できるだけ常時他の物価なり
交通運賃と
バランスを維持するようにするということが原則である。これを具体的に言いますと、小刻みに
運賃値上げをやるか、しばらくためておいて一括してやるか、こういう問題です。しかし、この場合に、さっき
バランスといいましたのは、小刻みにやれば小刻みの
運賃値上げで
バランスはとれますけれども、運賃を
値上げしないでおくと、それを前提に周囲の賃金とか物価とか他の
交通機関がそれを基準に安定してしまう。そして、一度安定してしまうと、今度その安定を破る、三年も四年も据え置いたからここで倍上げようと、そうすると、いわば津波のようなもので、水位を部分的にぐっと上げると、そこにやはり周りに対して大きなハレーションを起こす。経済を乱す。結果的にはそれを抑えられるということです。必要な
バランスをとろうとするものが、必ず抑えられる。また、抑えるのはあたりまえだというふうな、それをやらなければ物価の均衡——いま盛んにインフレの安定策を講じていますけれども、うんとためておいて公共料金をどっと上げておいて、そしてやればそれによって狂う。極端な例は、石油ショックというのはその最も顕著な現象だ。せっかく安定したところへ石油だけはぽっと二倍も三倍も上がると、それが結局世界の経済を混乱する一つの誘因になったというのは、
運賃水準の
考え方と共通する点があるだろう。
それから、第二には
運賃制度の問題ですけれども、
運賃制度というのは、いわば一つの価格の決め方の問題です。これは、鉄道の
サービスを適切な値段で国民の御要望をかなえるという一つの技術的な手段。したがって、根本的に必要なことは、常に
サービスの内容を正確にあらわして需要にマッチさせて、そして潜在需要を喚起する、それでなるべくたくさんの人にまんべんなく利用させる、鉄道を利用してもらうということが公共の福祉を増進する基本だろうと思うのです。そのためには、運賃が今日のように非常に画一的であり、硬直的であって、これでは公平性という点からいけば、技術的にやむを得ないかもしれませんけれども非常に実態に沿わない。結果的には国鉄に投入されている多額の資源を完全に有効に使えないという面があるんじゃないかと思うのです。そういう意味で、
運賃制度の形を、明治初年以来考えられていたと同じような
考え方で、遠距離逓減がどうとか——一例を申し上げますと、定期旅客運賃は普通旅客運賃の何割引きだ。しかもこれを法律でその限界を規定している。これなどはいまの都市交通をごらんになって、都市間交通と都市交通とは全然その質が違っている。移動の形態にしても移動の目的にしてもそういうものは全然違っている。それにもかかわらず、遠距離の都市間運賃の何割引きということで定期運賃を規制するということ自体の
考え方が、現在の社会、経済構造の根本的な変化を全く無視している。
もう一つは、都市交通というのは面ですから鉄道だけでやっているわけじゃない。バスもあるしあるいは地下鉄もある、いろいろなものもある。そういうものとの
バランスこそ、さっき言った
運賃水準の問題こそ都市
交通運賃の合理性の基本であります。地下鉄運賃は最低が六十円である。国鉄は三十円である。ですから、中野から一つ地下鉄の駅を行くと、最低運賃が二つ重なる。片っ方は三十円、片っ方は六十円。これなどは一体交通の価格というものを何を基準に三十円、何を基準に六十円か。これはやはり一つの面で考えれば、これは都市交通の実態に合わした賃率というものを考えなければならない。これなどは一例ですけれども、こういうような面で形態を直す。それから賃率をもっと弾力性を持たす。たとえば貨物については、同じ貨物でも地域によって非常に荷主の負担力というものは違います。これがやはり現実に即さないと鉄道からおっこってしまう。運んでもらいたい潜在需要もやはり運んでもらえなくなる。ですから、
運賃制度をこの際根本的に変えていくという問題であります。
それから最後の問題は
運賃決定機構の問題ですが、これに簡単に触れておきたいと思います。
私は、この
運賃決定機構というものは
国鉄財政再建とは直接的には関係のない問題だというふうに考えます。もちろん間接的にはありますけれども。というのは、
運賃決定機構を変えたら、それじゃ国鉄の財政が立ち直るかという問題じゃないと思う。これは問題はむしろ
国鉄運賃の
考え方それ自体を変えてかからなければ、
運賃決定機構をどういうふうに変えてみたところがやはり同じ結果になる。ですから、むしろ
運賃決定機構というものは運用ということ、その精神というものに重点を置いてこの際考え直してみる必要があるというふうに思います。
そこで私は、観念論ばかり言うと時間がありませんから、結論的なことを申し上げますと、
運賃決定機構を考える場合、そしてその実質的効果を考える場合に重要な要素は、運賃というものはまず一種の経済現象である。価格という面で経済現象だ。しかし同時に、この運賃というものは経済だけに任しておけない問題でもある。政治的な問題でもある。この異質の二点を運賃というものは含んでいるわけです。どうしてもその運賃を決めるときには政策的な配慮がなければいかぬということですが、そこで、この二つの異質の要素を運賃の決定の過程でどこでどういうふうに調和させるか。その合理的解決の問題が要諦だろうと思います。
ところが、ここに一つ非常に厄介な問題は、経済現象というものは、さっき言ったように常にお互いに
バランスをとるものですから、非常に本質的には柔軟性、迅速性が必要である。ところが、一方、政治的配慮と言われるものは、もともと政治的決定というものは民主的ルールによりますと、非常に時間、手間のかかるもので、議論が多い。おくれる問題です。ですから、硬直性を持っている。この非常に柔軟性を必要とするものに硬直的な過程をどうして通すか、この問題であろうと思う。
それで、この問題については、私は時間がありませんから結論だけをはしょって申しますと、一つの具体的な案を考える。それは四つの段階に分けて考える。
一つは、まず国鉄の
サービスに値をつける。これは生産者である国鉄自身がいわば
運賃値上げの原案をつくる。もちろんこのときには良心的にかつ能率的な配慮によってできるだけコストを少なくするということが前提にあることは言うまでもないことです。
次に、これを純粋に経済問題として、同時に社会的公正という段階からチェックする機関をつくる。これを仮にここでは公正運賃委員会というものにしたらこの意味がわかると思います。これは政治的な立場からは全く独立をして、たとえばいまの公取とかあるいは人事院とかいうようなものにちょっと性格が似たものになる。ここでオーソライズしたものは、これは要するに経済的に完全な意味の理論的な運賃というものになると思います。
それを今度は運輸大臣の認可制にいたしますので、これを国鉄から運輸大臣に認可を申請する。運輸大臣はそれを見て、これは合理的だと思えば即刻それを認可する。ただし、これではいまの物価対策その他によってどうもぐあいが悪い、ちょっとこれを
値上げ率を下げるということで
運賃値上げ抑制をした場合には、その抑制額を国の財政から償うということで、運輸省は国鉄補助費を予算化して国会の審議を得る。そうして、これは国会で
公共助成額を審議して、国民がそれを了承する、そういう四つの段階でございます。
これは一つの
考え方の筋ですけれども、この際に、それではやはり国会に予算がかかれば、その
公共助成の予算が議決されるまではその認可が発効しないじゃないか、これは確かにそのとおりなんです。これを飛躍したら、これはまた民主主義のルールを破るわけですから、国鉄の立場から見れば非常に歯がゆいと思いますけれども、やはり国鉄の予算全体が国会の議決を要するといういまのたてまえからいけば、これは無視するわけにいかないというような
考え方があると思います。要は、この委員会をどういう形でどういうふうにして権威づけて、そうして公正に機能させるか、それからあとその運輸省の認可その他がさっきも言うように柔軟性、迅速性というものを害しないというような形が必要であろう。
ここでこのようなお話をしますと、おのずから私の意図するところはおわかりと思いますが、まあ蛇足になると思いますが、私は、いまの運賃法はやめた方がいい。別にこれを議論するつもりはありませんけれども、かいつまんで言えば、運賃を法律で決めるということは、どうも運賃というものは法律になじまない事柄ではないか。運賃法ができたあの当時は、非常に社会、経済の混乱期ですから、あれはあれなりに任務を果たしたんですけれども、ただあれの第一条のような運賃決定の基本的な
考え方、フィロソフィーを示すならば、この公正運賃委員会の設立の際に、こういう
考え方でやるんだという中に、あの第一条のことをやればいい。第何条に一キロメートル当たり五円でなければいけない。定期はそれの六割引きでなければいかぬというようなことは、例は適切でないかもしれませんけれども、国家公務員の給与は法律で決める、第何条に国家公務員の給与や賃金は何々とするというのがやはり現実になじまないと同じように、運賃を法律で決めるということは私はこれは理屈以前の問題、
財政再建とかなんとかいう問題以前の問題であるというふうに考えます。
以上、大変雑駁な意見ですけれども、これをもって私の陳述といたします。(拍手)