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1975-06-11 第75回国会 衆議院 運輸委員会日本国有鉄道に関する小委員会 第4号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和五十年六月十一日(水曜日)     午後一時五分開議  出席小委員    小委員長 増岡 博之君       加藤 六月君    佐藤 文生君       佐藤 守良君    關谷 勝利君       太田 一夫君    久保 三郎君       兒玉 末男君    梅田  勝君       松本 忠助君    河村  勝君  出席政府委員         運輸省鉄道監督         局長      後藤 茂也君         運輸省鉄道監督         局国有鉄道部長 杉浦 喬也君  小委員外出席者         運輸委員長   木部 佳昭君         日本国有鉄道常         務理事     小林 正興君         日本国有鉄道常         務理事     天坂 昌司君         参  考  人         (財団法人運輸         調査局専務理         事)      中島 勇次君         参  考  人         (慶応義塾大学         商学部教授)  増井 健一君         参  考  人         (交通評論家) 角本 良平君         運輸委員会調査         室長      鎌瀬 正己君     ————————————— 本日の会議に付した案件  日本国有鉄道に関する件(国鉄運賃及び国等の  助成問題)      ————◇—————
  2. 増岡博之

    増岡委員長 これより運輸委員会日本国有鉄道に関する小委員会を開会いたします。  日本国有鉄道に関する件について調査を進めます。  本日は、国鉄運賃及び国等助成問題について、参考人として交通評論家角本良平君、財団法人運輸調査局専務理事中島勇次君、慶応義塾大学商学部教授増井健一君、以上三名の方々に御出席をいただいております。  この際、参考人各位に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多用中のところ御出席をいただきまして、まことにありがとうございました。  本日は、本問題につきましてそれぞれ忌憚のない御意見を承りまして、調査参考にいたしたいと存じます。  次に、議事の順序について申し上げますが、中島参考人増井参考人角本参考人順序で、御意見をお一人三十分程度に取りまとめてお述べいただき、次に、委員の質疑に対しお答えをいただきたいと存じます。  それでは中島参考人にお願いいたします。
  3. 中島勇次

    中島参考人 私、運輸調査局の中島でございます。  本日は、国鉄の財政再建問題に関連いたしまして、国鉄運賃と国等の助成問題について意見を述べるようにというお話でございますが、私はこの問題を大体四つの問題点に整理いたしまして意見を述べさしていただきたいと思います。  四つの問題点と申しますのは、まず第一点は、会計正常化という見地からの財政措置、これをまず第一にやるべきである。それから第二番目は、運賃制度公共助成という問題の基礎を国鉄の経営理念の上でこの際明確にしておく必要がある。それから第三点は運賃制度考え方、それから運賃水準考え方運賃制度のあり方というものをこの際根本的にもう一回考え直す必要があるのじゃないか。最後の問題点は、運賃決定機構の問題です。  そこで本論に入ります前に、この問題に対する私の基本的な考え方を一言つけ加えておきたいと思いますが、国鉄の財政状態をいろいろな資料から検討いたしてみますと、率直に言って非常に大変な状態になっていると私は思います。もしこれをこのまま放置しておいたら、将来一体どういうことになるのだろうかということは、予想しても予想のつかない問題ですけれども、したがって、これを早いうちに的確な手を打つということが絶対に必要だと思いますが、一方社会とか経済情勢とかいう国鉄を取り巻く客観情勢を考えますと、どうしても国の強力な助成なしにはこの国鉄の財政再建という問題は一歩も前進しないであろう、こういうふうに考えるわけであります。したがいまして、そういう考え方を前提といたしますと、やはり国の財政援助というものをどうして必要か、その必要性と、どういう形でそれをやるかということを国民にわかりやすい形で示すということを中心にこの問題を考えてみたい、こういうふうに思うわけであります。  そこで、まず最初の会計正常化のための財政措置という問題ですが、これはまず会計の正常化という考え方を申しますと、一般企業会計原則の中で収益費用対応の原則というのがございます。会計の根本はこの収益と費用とを正しく対応させることから物事が割り切れていく、これがまあ会計の中心なんですが、国鉄の会計制度というものをもう一度そういう点から見直して、国鉄が払うべき、負担すべき金とそうでないものとをまずバランスシートの上で整理してみる、つまり再建で発足する前にバランスシートを大掃除してみる。ここから出てくる問題はやはり国の助成につながる問題、要するに助成をすべき一つの根拠になるわけです。  それではどういう点が会計の正常化という点から問題点になるかと申しますと、そもそも国鉄の財政がこのように慢性的な赤字体質になった根本原因は、これは考えようによっていろいろあると思いますけれども、根本的にはやはり戦後長年にわたって国の物価安定策の一つのてことして運賃を使ってきた、したがって、運賃水準の引き上げというものがいつも物価や賃金の後を追って、こういうことのしわ寄せが結果的には国鉄の収益性を低下さした、こういうことにあると思うのです。  それからもう一つは、いわゆる交通革命と言われる自動車の進出によって、輸送面で国鉄にとって収益性の高かったものがだんだん減ってきた。結果的には相対的に収益性の低いものだけが残ったためにこの面でもやはり運賃水準が下がったという結果を招いた。  それから第三点は、そういうことで本来ならば国鉄の近代化とか施設の拡充とかいうものは、理想的には自己資金をもって賄うべきものが自己資金が足らなくなってしまう、そうしてそれを借入金に仰ぐ。それからもう一つの要素は、戦後の老朽施設の復旧とかあるいは経済成長に対応する輸送力の増強とか、こういう問題が当時の財政の力を超えたそういう現実の要請を満たさなければならない、つまりその面でもやはり過大な借入金をした、その結果が利子負担の増加というものを招いてきているわけです。言うなれば、これはいわばそれらの措置がよかったか悪かったかということの批判は別として、結果的にはそれによって生ずる財政負担というものは過去のものである、したがって、現時点あるいは将来の運賃の利用者負担といっても、運賃の対象とする基礎としてはやはり不適当なものではないだろうか。  たとえばわかりやすい例で言いますと、まんじゅう屋が二軒あった。片っ方はおやじの代に非常にりっぱな店舗をつくった、片っ方はやはり身分相応の店でやっていた。ところがせがれの代になってくると、おやじが家を身分不相応につくったその借金が残って、その利払いがかなりかさんでいる。まんじゅう一個十円でできるものをそちらの方では十二円で売っている、隣の方は十円だ。おまえのところは高いじゃないかと言えば、いやそれは、これはあんこのほかにおやじの借金の利子が入っているんですと、こういうのを買い手が納得するか、また、それが合理性があるか。普通のお店なら恐らくそこには買い手が行かなくなりますから、これはまあ勝負がつくわけですけれども、国鉄の場合にはそういうわけにいかない。そこで、これから財政を再建する際には、まず、そういうものを振り分けておいて、そうしてこれから先、国鉄経済の基盤としてこれだけの金が必要だというものを明確にするという点であります。  これを具体的に申しますと、これと同じような問題ですが、まず、私は赤字債務のたな上げと一般に言われている問題、これはどうしても必要ではないか、あるいはその過大な債務をこの際一応バランスシートから外してやる。この金額はどれくらいかということは、これは専門的に検討してみなければなりませんけれども、少なくとも累積赤字に匹敵する借入金というものは、抱えていてもこれは赤字というものは利益を生むわけでもサービスを生むわけでもないのですから、過去の債務ですから、それに対する利払いとか元本の償還に対する負担というものは、国鉄側のこれが最低限度だろうと思う。イギリス鉄道が一九六二年の運輸法によって例のBTCを解体して鉄道公社というものをつくりましたが、そのときにやはり過大な負債というもので、鉄道が与えられたコメンシング・キャピタル・デットと言うのですか、これは要するに開始資本とするための借入金というものをBTCから割り当てられた、これが十五億六千二百万ポンド多分あったと思いますが、それを一九六二年の運輸法鉄道公社で再建する際には七億五千万ポンドはそれをたな上げした。それから一九五六年からそれまでの赤字累積約五億ポンドありましたが、これを政府から借り入れで補った、この借入金を帳消しにした。これなどもやはり会計正常化の一つの例でございますが、こういうようなことはECとかあるいはヨーロッパ運輸大臣会議では非常に基本的な問題として、常に各国鉄道とも、まず会計の正常化をやるべきであるというような意味で、その上に立って理論的なあるいは合理的な再建計画というものは乗っかってくるだろう。  なお、これはバランスシートの問題ですけれども、損益計算書の中にもこれに類するものがあると思います。私も細かく専門的なことはわかりませんけれども、たとえば地方に、固定資産税に相当するような金を、年間百数十億ですか負担しているようですけれども、これはもうかっているところだったらあたりまえですけれども、赤字線で人件費さえも賄えないようなところで固定資産税をその地方に払う、前の計画の中では地方のローカル線の廃止のかわりにその赤字は地方の公共団体に負担させるというような考え方もあったようですけれども、それも負担できないような今日の地方財政にあるわけですから、そういうものを考えますと、収益と費用というような対応からいくと、そういう点もおかしいのじゃないか。  そのほか、たとえば厚生年金に相当する国の負担分も国鉄は背負わされているとか、いろいろそういう細かいものもあると思いますが、要するに会計を正常化するという意味でのバランスシートの洗い直しということをまず第一に私は申し上げておきたい。  それから第二の問題点は、運賃制度公共助成とを国鉄の経営理念の上ではっきりさせる、これをやらないと公共助成の歯どめがなくなる。何でも安い方がいい、これは当然のことですから、何でも税金でやればいいということになると、しわ寄せが結局国の財政に来て、国の財政の方が破綻を来すということですから、ここで運賃を値上げするにしても、税金として公共助成するにしても、納得のいく形でやるには国鉄の経営理念の上からなぜ運賃値上げが必要か、なぜ公共助成が必要かということを明確にしておく必要があると思う。  この問題は別の角度から申しますと、いわゆるいままで観念的にいろいろな議論がされております、国鉄の公共性企業性とを運賃制度の上でどのように割り切ってとらえるかという問題になる。まあいずれの考え方をするにいたしましても、この問題は、この国鉄財政再建という問題を解く最も重要な一つのキーポイントだと思います。同時にまた、これまで公共性という大義名分のもとにこの点をあいまいにして、そうして現実と妥協してきた、その結果が今日の財政の窮状を来した根本原因であるということをこの際やはり再認識しておく必要がある。  では、国鉄の経営理念はどういうふうに考えるべきかという問題ですが、これは抽象的に議論すれば切りがありませんけれども、私ども日本国有鉄道法、つまり国鉄の基本法からこれをまずくみ取るべきだ。この一条は御承知のとおり「能率的な運営により、これを発展せしめ、もって公共の福祉を増進することを目的として、ここに日本国有鉄道を設立する。」こう書いてある。これは法律ですからまことに簡単な文章ですけれども、この中から国鉄の経営理念を的確につかめということは非常に無理なことですが、私はこの中に二つの注目すべきポイントがある。  その一つは、公共の福祉増進ということが国鉄をつくった目的だ、国鉄の存在意義だ、これが一つです。これは民間企業でいえば会社をつくるのは利潤追求が究極の目的ですから、これと匹敵する事柄だろう。  それからもう一つは、その手段として、つまり公共の福祉を増進する手段として鉄道事業を能率的な企業運営方式によって経営する、この点であります。これは民間企業利潤追求するために一生懸命能率を上げる、これと全く同じというよりも、むしろ民間のそういったいいところを国鉄も取り上げなさい、取り入れなさいということで、わざわざこれまでの官庁機構にかえて公共企業体という新しい経営形態をとったというところに意義がある。  これを考え直してみますと、企業的運営によって生産性を高める、そうしてそこから生み出される余剰価値というものを、民間企業あれば配当なんかに向けるけれども、国鉄の場合には国鉄の発展、福祉の増強という面で国民に奉仕しなさい、こういうことにあるだろう。ここにいわゆる独立採算という暗黙の前提がある。  日鉄法のどこを読んでみても赤字を出してもいいから公共に奉仕しろとは書いてない。あるいはその反面、日鉄法はいま改正されてこの条文は消えてますけれども、その設立の当初は非常に戦後の混乱期であったために、もし国鉄の企業的責任に属しないような原因で赤字が出た場合には、政府から交付金を交付するという条文があったはずであります。これは二十八年の改正で消えておりますけれども、これはやはりそういったような独立採算制で、企業性の範囲内で公共奉仕をしなさいという原則が認められる。  国鉄運賃法の第一条に、国鉄運賃は「原価を償う」ということを一つの条件にしているのもそれの一つの裏づけであろう。これは決して観念的に考えた問題ではなしに、いまの国鉄というものは明治初年から考えてみますと、まさにこの原則で今日のこの大部分の鉄道網を建設した、また、世界各国の鉄道もいずれもそういう実績を持っておりますので、これはやはりそういう原則が過去においても考えていたし、将来も一つの理想である、これを崩すとここに赤字の歯どめがなくなるという問題点がある、こういうふうに私は思います。  そこで、したがってここではいろいろ議論されますけれども、公共性企業性というものは矛盾しないというふうに理解する。ところがこの理想の姿がここ十数年の間に崩壊してしまった。その原因は、先ほど申しましたように、いろいろとり方、言い方もあるかもしれませんが、とにかく結果としては国鉄の収益性が下がった、つまり、いまのままでは余剰価値を残せなくなった。ということは、余剰価値が出なければ、会社が利潤が出なければ配当ができないと同じように、公共の奉仕ができなくなる。しかし現実には、公共の奉仕を汽車を動かすということが国鉄設立の趣旨、目的ですから、やはり動かさなければいかぬ、要請に応じてサービスをしなければいかぬということですから、そこで今日のような状態になったわけですが、われわれはここで国鉄の経営理念というものを好む好まざるにかかわらずひとつ転換しなければいけないということを自覚しなければいけないと思います。  そこで私は、これをどういうふうに整理するか。まず頭の中で目をつぶって国鉄というもののイメージを考えてみますと、ここに二つの国鉄がダブって浮かび上がってくる。その一つは、いわゆる理想的な企業的な形で公共奉仕をするという形の国鉄と、それからどうもそこからはみ出る部分がある。それでそのはみ出る部分を企業性以外の形でやっているから、まあ言いかえれば、それが評価されたものが赤字じゃないかという結果なんですが、ここで私はこの二つの国鉄を実質的国鉄、つまり本来いままであったような国鉄、それからもう一つ形式的国鉄、こういうふうに分けて、整理して頭に置いたらいいだろう。もしこの実質的な国鉄部分と形式的な国鉄部分会計制度あるいは実態の上ではっきり分けられれば、これはもちろん問題ない。まず実質的国鉄をそのままにしておいて、形式的な国鉄の部分、これは政府直営にするなりあるいは株式会社にするなりほかの形でやる、これはあるんですけれども、実はこれは一つの中にそういう二つのものが観念的にあるだけです。まあ強いてこれを分けようとすれば、これは例のシェークスピアの物語の「ベニスの商人」に出てくる裁判官の言い分ではないけれども、血を一滴も流さないで肉を切り取れというような不可能な問題である。理論的には、ですから、これはいかようにでも割り切れますけれども、実際問題としてはこれはどうしても割り切れない。そこで、これを割り切る方法としてどういう方法が考えられるかということで、私は二つの案がある。  まず、第一の案は、国鉄のさっきの会計正常化赤字債務のたな上げ等をきれいにした上で、国鉄内部経営合理化というものを十分に洗い直して、そうして現在の国鉄の姿のままで適正な総括原価を計算する。つまり必要な費用を一切計算する。そうしてこれを基礎として運賃の率を決める、つまり値上げ分を決める、こういうわけです。それがたとえば仮に一〇〇%値上げが必要だという結果が出てくる。これをやれば、全体がもう一回理想的な姿に復元されるわけです。ところがこの際、先ほど申しましたように、今日の経済情勢社会情勢で一〇〇%の運賃値上げをやる、これは国鉄だけを考えればいいんですけれども、やはり社会全体を考えますと、もっと広義のいわゆる公共性という点からいけば、それが社会の現実が受け入れられないということであれば、これは妥協しかない。よしんばそれを五〇%で妥協したとする。そうすると、残りの五〇%というのはこれはだれかが負担しなければいけない。つまり運賃として必要な費用、公共サービスを確保する責任上——ただ問題はこの費用を利用者が負担するか、国民全部で分担するか、ここですから、これは国民の選択にゆだねる、あるいは政府が妥当な線を決めたら、そのかわり、残りは補償する。これがいわば総括運賃補償方式とでもいいますか、これが一つの考え方。もっともこれにはもう一つの応用問題といいますか、付加的に考えられるのは、そのうちの資本費用をもう一回国に返して、ランニングコストだけでいまのような考え方をやったらどうだ、そうすればもちろん運賃補償方式とそれから資本補償方式、こういうふうな段階になる、これは、理論的にはそういうふうな考え方の方が通しやすいと思いますけれども、ただ、公共企業全体をこういうふうにすることが、果たして実際問題として可能かどうか。郵便とか電電とか、いろいろまだガスとか水道とかたくさんありますけれども、そういうものに全部、あるいは私鉄の問題も出てくるでしょう、というときに、理論的には筋が通っても現実性があるいは無理であるかもしれぬというような問題点イギリスはいま労働党が政権を握っておりますが、国有産業の料金とか運賃とか価格というものをできるだけ安くやる、それで資本的な部分を国が補償してくれるというような考え方を従来は持っていたわけですけれども、ここで、どうしてもそれでは切りがない、国の財政がもたない、全体的な経済のバランスが崩れるということで、御承知のようにいま全面的に大幅の利用者負担の方法を打ち出している。ということは、やはり一度やってみるとそういったような理論的に予期しなかった問題が出るということで、ここに一つの問題点がある。  それから、もう一つの方法は、五〇%値上げがいまの社会で是認されるとするならば、これを実行しておいて、そうして確保される運賃額をまず主体に考える。そして、その運賃額の中で、独立採算制のできる範囲内で営業範囲を限定する。線区に、収益性の高いのから、二百四十あれば一番から二百四十番までつけておいて、その運賃収入の枠内で経営できるところまでまずやる。もちろんこれは収支率だけではなしに、国全体のいわゆる将来計画とか、そういうものを加味して順位をつける必要があると思いますけれども、いずれにしても単純に考えれば。そして残った分は、そこからはみ出した分は政策的に選定する。これはいまよく言われる一国、二国論というのと似たような発想になると思いますが、その際には、そのはみ出た分は原則としてもう国鉄の経営責任から除外する。それで、それを残すかどうかはそれを判断する人が、国かあるいは地方公共団体であるその判断した人が、それを残したことによる赤字は責任を負う。国が必要なら国が助成する、国は要らないけれども地方が必要だというのは地方に赤字を負担させるというふうな考え方です。したがって、国がいまやっているのを全部残すということになりますと、考え方は違いますけれども、補償総額は、運賃総括補償方式もこの第二の方法も金額は同じになるわけです。ただ、これのどちらがいいかということは、一つの政策の問題でありますが、考え方としては、第一方式は、国が現在の福祉的立場から全面責任を持つということです。第二の方法になりますと、地方の線区は、公共性の低いところはこの際切って落とすとか、あるいは場合によったらサービスを落として赤字を減らしてでも存続するというようなこと、つまり公共性がそちらの方にしわ寄せがいくわけです。要するに、国の基本的な方針があくまでも現状で国の福祉を考えるか、この際多少地方の福祉を切ってでも国の負担を少なくするか、これは国民の選択にゆだねるほかしようがない。これは国鉄が決めるべき問題でもないし、また利用客が決めるべき問題でもない、こういうふうに思う。いずれにしても、こういうふうな問題で利用者負担と税金で負担する分、こういうものの根拠を明確にする必要がある。特に私がこういうことを申し上げますのは、やはり、何ぼ公共助成に頼ればいいといっても、それでは歯どめがなくなってしまう。それから、企業努力の限界がなくなってしまう。企業努力をして、少しでも日鉄法の一条にありますように、能率的な経営によって生産性を上げようとしても、その基準が不明確。こういう点を明確にするには、以上のような考え方が必要だろう。  それから、第三の問題は運賃水準運賃制度の問題でございますが、御承知のとおり、運賃水準というのは、運賃を価格という立場から見てそれが高いか安いかということを判断する一つのバロメーターですが、これは何と比べて高いかといいますと、物価、賃金あるいは他の交通機関の運賃と比べて高いか安いかということを比べる場合の基準でございます。運賃水準の意義というものはどこにあるかというと、バランスしているところに運賃水準の意義がある。多少バランスは常に崩れておりますけれども、基本的にはやはりバランスというものが安定するということが運賃水準考え方の基本でございます。海を見ますと、しょっちゅう波が立っている。しかし、波が立っているけれども水位というものは常に安定している。そこにやはり価格としての安定性、物価の安定性というものは、多少の上げ下げはあるけれども常にバランスしている、これが運賃水準の意義だろうと思う。そこで、運賃水準のあり方というものは、ですから、できるだけ常時他の物価なり交通運賃バランスを維持するようにするということが原則である。これを具体的に言いますと、小刻みに運賃値上げをやるか、しばらくためておいて一括してやるか、こういう問題です。しかし、この場合に、さっきバランスといいましたのは、小刻みにやれば小刻みの運賃値上げバランスはとれますけれども、運賃を値上げしないでおくと、それを前提に周囲の賃金とか物価とか他の交通機関がそれを基準に安定してしまう。そして、一度安定してしまうと、今度その安定を破る、三年も四年も据え置いたからここで倍上げようと、そうすると、いわば津波のようなもので、水位を部分的にぐっと上げると、そこにやはり周りに対して大きなハレーションを起こす。経済を乱す。結果的にはそれを抑えられるということです。必要なバランスをとろうとするものが、必ず抑えられる。また、抑えるのはあたりまえだというふうな、それをやらなければ物価の均衡——いま盛んにインフレの安定策を講じていますけれども、うんとためておいて公共料金をどっと上げておいて、そしてやればそれによって狂う。極端な例は、石油ショックというのはその最も顕著な現象だ。せっかく安定したところへ石油だけはぽっと二倍も三倍も上がると、それが結局世界の経済を混乱する一つの誘因になったというのは、運賃水準考え方と共通する点があるだろう。  それから、第二には運賃制度の問題ですけれども、運賃制度というのは、いわば一つの価格の決め方の問題です。これは、鉄道のサービスを適切な値段で国民の御要望をかなえるという一つの技術的な手段。したがって、根本的に必要なことは、常にサービスの内容を正確にあらわして需要にマッチさせて、そして潜在需要を喚起する、それでなるべくたくさんの人にまんべんなく利用させる、鉄道を利用してもらうということが公共の福祉を増進する基本だろうと思うのです。そのためには、運賃が今日のように非常に画一的であり、硬直的であって、これでは公平性という点からいけば、技術的にやむを得ないかもしれませんけれども非常に実態に沿わない。結果的には国鉄に投入されている多額の資源を完全に有効に使えないという面があるんじゃないかと思うのです。そういう意味で、運賃制度の形を、明治初年以来考えられていたと同じような考え方で、遠距離逓減がどうとか——一例を申し上げますと、定期旅客運賃は普通旅客運賃の何割引きだ。しかもこれを法律でその限界を規定している。これなどはいまの都市交通をごらんになって、都市間交通と都市交通とは全然その質が違っている。移動の形態にしても移動の目的にしてもそういうものは全然違っている。それにもかかわらず、遠距離の都市間運賃の何割引きということで定期運賃を規制するということ自体の考え方が、現在の社会、経済構造の根本的な変化を全く無視している。  もう一つは、都市交通というのは面ですから鉄道だけでやっているわけじゃない。バスもあるしあるいは地下鉄もある、いろいろなものもある。そういうものとのバランスこそ、さっき言った運賃水準の問題こそ都市交通運賃の合理性の基本であります。地下鉄運賃は最低が六十円である。国鉄は三十円である。ですから、中野から一つ地下鉄の駅を行くと、最低運賃が二つ重なる。片っ方は三十円、片っ方は六十円。これなどは一体交通の価格というものを何を基準に三十円、何を基準に六十円か。これはやはり一つの面で考えれば、これは都市交通の実態に合わした賃率というものを考えなければならない。これなどは一例ですけれども、こういうような面で形態を直す。それから賃率をもっと弾力性を持たす。たとえば貨物については、同じ貨物でも地域によって非常に荷主の負担力というものは違います。これがやはり現実に即さないと鉄道からおっこってしまう。運んでもらいたい潜在需要もやはり運んでもらえなくなる。ですから、運賃制度をこの際根本的に変えていくという問題であります。  それから最後の問題は運賃決定機構の問題ですが、これに簡単に触れておきたいと思います。  私は、この運賃決定機構というものは国鉄財政再建とは直接的には関係のない問題だというふうに考えます。もちろん間接的にはありますけれども。というのは、運賃決定機構を変えたら、それじゃ国鉄の財政が立ち直るかという問題じゃないと思う。これは問題はむしろ国鉄運賃考え方それ自体を変えてかからなければ、運賃決定機構をどういうふうに変えてみたところがやはり同じ結果になる。ですから、むしろ運賃決定機構というものは運用ということ、その精神というものに重点を置いてこの際考え直してみる必要があるというふうに思います。  そこで私は、観念論ばかり言うと時間がありませんから、結論的なことを申し上げますと、運賃決定機構を考える場合、そしてその実質的効果を考える場合に重要な要素は、運賃というものはまず一種の経済現象である。価格という面で経済現象だ。しかし同時に、この運賃というものは経済だけに任しておけない問題でもある。政治的な問題でもある。この異質の二点を運賃というものは含んでいるわけです。どうしてもその運賃を決めるときには政策的な配慮がなければいかぬということですが、そこで、この二つの異質の要素を運賃の決定の過程でどこでどういうふうに調和させるか。その合理的解決の問題が要諦だろうと思います。  ところが、ここに一つ非常に厄介な問題は、経済現象というものは、さっき言ったように常にお互いにバランスをとるものですから、非常に本質的には柔軟性、迅速性が必要である。ところが、一方、政治的配慮と言われるものは、もともと政治的決定というものは民主的ルールによりますと、非常に時間、手間のかかるもので、議論が多い。おくれる問題です。ですから、硬直性を持っている。この非常に柔軟性を必要とするものに硬直的な過程をどうして通すか、この問題であろうと思う。  それで、この問題については、私は時間がありませんから結論だけをはしょって申しますと、一つの具体的な案を考える。それは四つの段階に分けて考える。  一つは、まず国鉄のサービスに値をつける。これは生産者である国鉄自身がいわば運賃値上げの原案をつくる。もちろんこのときには良心的にかつ能率的な配慮によってできるだけコストを少なくするということが前提にあることは言うまでもないことです。  次に、これを純粋に経済問題として、同時に社会的公正という段階からチェックする機関をつくる。これを仮にここでは公正運賃委員会というものにしたらこの意味がわかると思います。これは政治的な立場からは全く独立をして、たとえばいまの公取とかあるいは人事院とかいうようなものにちょっと性格が似たものになる。ここでオーソライズしたものは、これは要するに経済的に完全な意味の理論的な運賃というものになると思います。  それを今度は運輸大臣の認可制にいたしますので、これを国鉄から運輸大臣に認可を申請する。運輸大臣はそれを見て、これは合理的だと思えば即刻それを認可する。ただし、これではいまの物価対策その他によってどうもぐあいが悪い、ちょっとこれを値上げ率を下げるということで運賃値上げ抑制をした場合には、その抑制額を国の財政から償うということで、運輸省は国鉄補助費を予算化して国会の審議を得る。そうして、これは国会で公共助成額を審議して、国民がそれを了承する、そういう四つの段階でございます。  これは一つの考え方の筋ですけれども、この際に、それではやはり国会に予算がかかれば、その公共助成の予算が議決されるまではその認可が発効しないじゃないか、これは確かにそのとおりなんです。これを飛躍したら、これはまた民主主義のルールを破るわけですから、国鉄の立場から見れば非常に歯がゆいと思いますけれども、やはり国鉄の予算全体が国会の議決を要するといういまのたてまえからいけば、これは無視するわけにいかないというような考え方があると思います。要は、この委員会をどういう形でどういうふうにして権威づけて、そうして公正に機能させるか、それからあとその運輸省の認可その他がさっきも言うように柔軟性、迅速性というものを害しないというような形が必要であろう。  ここでこのようなお話をしますと、おのずから私の意図するところはおわかりと思いますが、まあ蛇足になると思いますが、私は、いまの運賃法はやめた方がいい。別にこれを議論するつもりはありませんけれども、かいつまんで言えば、運賃を法律で決めるということは、どうも運賃というものは法律になじまない事柄ではないか。運賃法ができたあの当時は、非常に社会、経済の混乱期ですから、あれはあれなりに任務を果たしたんですけれども、ただあれの第一条のような運賃決定の基本的な考え方、フィロソフィーを示すならば、この公正運賃委員会の設立の際に、こういう考え方でやるんだという中に、あの第一条のことをやればいい。第何条に一キロメートル当たり五円でなければいけない。定期はそれの六割引きでなければいかぬというようなことは、例は適切でないかもしれませんけれども、国家公務員の給与は法律で決める、第何条に国家公務員の給与や賃金は何々とするというのがやはり現実になじまないと同じように、運賃を法律で決めるということは私はこれは理屈以前の問題、財政再建とかなんとかいう問題以前の問題であるというふうに考えます。  以上、大変雑駁な意見ですけれども、これをもって私の陳述といたします。(拍手)
  4. 増岡博之

    増岡委員長 ありがとうございました。  次に、増井参考人にお願いいたします。
  5. 増井健一

    増井参考人 慶応義塾大学増井でございます。  私の考えておりますのは、いまの中島さんの言われたこととかなり共通なことがあります。少しずつ考えの違うところもありますけれども、先ほどから非常に同感しながら伺っていたので、なるべく重複を避けながらお話ししたいと思います。  まず、少し理屈っぽくなるかもしれませんけれども、運賃とは何か、私がどう考えているかということを申し上げますと、運賃は交通サービス、輸送サービスと言った方がいいかもしれませんが、それの価格である。これはもう別に改めて議論することもありませんけれども、ただ交通サービス価格というのは普通の物の価格よりもいろいろ特徴がある。サービスというのが形のない財貨であって、同時に、長もちしない財貨である。普通の商品ですと、売れ残ったら店に残しておいて次のお客に売るということもできるのですけれども、交通サービスはつくった瞬間に消えてしまう。汽車を動かす、その瞬間にお客がなければもうそのつくったサービスは永遠に失われてしまって取り返しがつかない。そういう性格を持った財貨がサービスである。  このサービスであることによっていろいろな特徴が出てくる。一つは、自然的な単位でとらえにくい。たとえば有形の財貨ですと、鉛筆一本、一ダース、目で見ても手でさわってもわれわれの実感としても、なるほどこれが一つの単位かとわかるのですけれども、交通サービスの場合には形はないし、人や物を運ぶという仕事であって、その単位も必ずしもはっきりしない。一人を運ぶというとわかるようですけれども、一人を一キロメートル運ぶ、五キロメートル運ぶ。つまり運ばれる量、かさなり目方なり掛ける距離という二元的な単位で普通つかまえる。しかし、これも非常に抽象的な人工的な単位で、たとえば同じ十人キロといっても、十人が一キロ運ばれるのと一人が十キロ運ばれるのは、いろいろな意味でコストからいっても何からいっても違うわけです。しようがないから、それを一応そういう仮の単位を考えて平均的なことでものを言うわけですけれども、そのつくられる人キロなら人キロ、トンキロならトンキロがつくられる時と場所によってコストから何からがらっと変わる。たとえばラッシュのときとすいているとき、つくるコストも違うし売る場合の需要も違う。交通密度の高い都会と田舎が違う、そんなことであろうと思います。  それから、貯蔵できないことというと、買いだめ、つくりだめができない。したがって、つくられたものがすぐその場でそのとき売れるかどうかということでもろに——つまりつくりだめ、買いだめといったような調整の手段がないという特徴があるわけです。まして交通サービス国鉄といったような大組織でつくられる場合には、そのつくられ方も非常にさまざま。したがって、コスト幾らか、これに幾ら値をつけるからといっても非常にとらえにくいということをまず頭に置く必要があると思います。  それからその次にもう一つの特徴というのは公共性ということです。これは国鉄に限りません。いわゆる公共交通といわれているものは、公共性という言葉で普通形容されるわけです。公共性といっても、俗に言われる公共性にはいろいろな多面的な意味がある。人によっては、その一つをつかまえて公共性と考えるわけでしょう。たとえば社会経済にとって非常に重要だ、産業にとって重要だ、あるいは国民生活にとって重要だ。あるいは経済学の用語では外部経済というようなことをよく言いますけれども、たとえば人や物が運ばれる。運ばれることによって、その運ばれる人、旅客あるいは荷主にはもちろん利益がある。利益があるからこそ運ばれるわけですけれども、その直接運ばれるお客とか物を運んでもらう荷主以外に、今度はそこで鉄道がつくられ、そこで運転されているということで地元が利益を受ける。あるいはその利益がだんだん波及していくと、社会全体が利益を受ける。これは私は利用可能性というふうに、英語ではアベーラビリティーというふうに言いますけれども、したがって、こういう役立ちがある。この役立ちがたとえば産業開発とか地域開発への役立ちということにもなりますし、あるいはソシアルミニマムといいますか、田舎のところにもどうしても基礎的な交通手段として鉄道がほしいという、そういうことにも通ずるわけです。これをちょっと考えてみますと、売り買いされる、価格をつけて売られる普通の商品と違う、こういう面を強調して考えてみますと、場合によっては鉄道輸送サービスというのはソシアルサービスとして社会が提供するサービス、売り買いされないで社会がただで提供するサービスとしても通用するような関係にある。昔、一九二〇年前後でしたけれども、ソ連で鉄道をただにして輸送した。これは社会的な生産手段一つだという意味でそうしたこともございますけれども、これは必ずしも成功いたしませんで、そういうことは間もなく取りやめになったわけですけれども、しかしそういうソシアルサービスで使いたい者が使っていいんだというふうに強いて考えれば考えられないこともないというような意味での公共的である。  あるいはもう一つ公共性というのは、鉄道を利用する人が不特定多数だ。しかも鉄道は若干独占性を持っている。独占性を持っていてお客が不特定多数であると、その間に独占利潤鉄道がむさぼり得る、あるいはお客や荷主の間に差別をする可能性がある。それははなはだ社会のためによろしくない。その意味で差別禁止をする。国鉄というのは、あるいは鉄道運賃というのは、差別をしてはいけないんだ、そういう公共的な規制に服するんだという意味で、鉄道運賃なりあるいは国鉄鉄道というものが公共的である、そういうふうに言われることもある。こういうように運賃一つとってみても、そこには多面的な要素がある。国鉄運賃というのは、実はそういうものだということをまず頭に置きたいと思うんです。  もちろん、いま申し上げましたような公共性ということは、実はその時代によってずいぶん変わってくるものだと思います。戦前と戦後はかなり違う。例を一つ挙げますと、戦前はたとえば先ほど中島さんのお話にもありましたように、国鉄がわりあいに独占的な地位といいますか、あるいはちょっとそう言うと言い過ぎかもしれません。経済的に安定したマーケットを確保している。したがって、これはあるいはお手元にレジュメがお配りしてあるかとも思いますけれども、その2、というところの真ん中辺に英語でクロス・サブシディゼーション、内部相互補助なんということを書いておきましたけれども、たとえば貨物ですと運賃等級表というものをつくって、高級貨物と低級貨物とあって、たとえば低級貨物は原価を少し割りぎみの、高級貨物は原価よりも少しかせぐような運賃を設定する。あるいは旅客についても、たとえば公共的な割引、定期運賃のようなものはかなり割り引く。そのかわりに、それは定期外のお客がコントリビュートする。ですからお客同士の間で、あるいは荷主の中で、その一部が他の者に対していわば補助をする。これを鉄道のお客の中で、つまり政府からの補助ではなくて、国鉄のお客同士の間で、その一部と他の部分の間で補助が行われるという意味で内部相互補助なんというふうに言われますけれども、そういう形で社会公共的と言われるような目的を果たすような賃率政策がとれた、それが戦前の状態であったと思うのです。ところが戦後、これはレジュメの2、の方のお話は時間の関係で少し略そうと思いますけれども、御承知のように競争が非常に加わってきた。それからもう一つ、これも先ほどからお話がありますように、インフレ抑制ということで国鉄運賃水準がわりあいに低い水準に抑えられてきたということで、次第に国鉄経営的な基礎というものが戦前に比べて格段と窮屈になってきた。そうするといまの妙味のあるマーケットによって得たもので、いわば社会的あるいは公共的な目的サービスをする、そういう前戦のパターンがとれなくなってきた、これが現実の姿だろうと思います。ところが運賃制度は必ずしも新しい事態に応じて改革されずに戦前のパターンに近いもの、パターンそのものとは言いません。たとえば貨物にしてみますと運賃等級というのが戦前はずいぶんありました。二十段階ぐらいありましたかね。戦後も一時十段階ぐらいになって、四段階になって、現在は三等級だと思いました。こういうふうにいわば平均原価に近いように運賃等級も改正される。競争によって改正されざるを得なくなったわけです。それだけ逆に言いますと国鉄自体に公共的と言われる目的を果たさせる現実的な基盤が薄れてきたということの反映だろうというふうに考えます。  このレジュメの2、のところを簡単に考えてみます。  先ほど日本国有鉄道法あるいは国鉄運賃法のお話がありました。国鉄運賃法、これはわれわれよく知っておりますように運賃についての四つ基準と言いますか、公正妥当、原価補償、産業発達、賃金物価の安定という目的、これは必ずしも相互に矛盾のない、コンシステントとは言えない目的が掲げられ、この四つをなるべくかなえよう、いわば悲願をあらわしていると思うのですけれども、その国鉄運賃が、私たちから見ておりますとそれぞれこれは重視されながら、そのときどきの運賃が決定されてきたわけでありますけれども、やはりこの中で、四の賃金物価の安定というところにかなりウエートを置かれながら運賃が決定されてきた。そのプロセスで二の原価補償ということが現実には果たせない形がだんだん強まってきた。特に昭和三十九年以後、国鉄経営赤字に追い込まれた線がずっと続いているわけでありますけれども、そういうことを一つ考えます。  さて、それではどうしたらいいか。少しはしょりまして、レジュメで言いますと4、の交通構造の現状を踏まえてのわが国鉄運賃についての考え方、それをお話ししたいと思います。  私はきょうは運賃について話をせよ、あるいは国鉄に対する国の助成について話をせよという実は御要望に応じて参ったわけでありますけれども、運賃そのものについてお話しをするいわば前提と言いますか条件と言いますか、むしろその方が大事ではないかということを実は考えております。つまりこれは先ほどの中島さんのお話にも共通するわけでありますけれども、現在運賃だけを右にいじり左にいじってもどうもちょっとしようがないことであって、運賃というのはどちらかと言えば、仮に国鉄再建の仕方いかんによって、その方向によって運賃というのは、ちょっと言葉は過ぎるかもしれませんけれども、技術的に決まってくるのじゃないか。むしろどういう形で再建を考えるかということが大事じゃないかというふうに考えますので、ややその方に重点を置いてお話ししようと思います。つまり国鉄再建の見通しを頭に置きながら国鉄運賃を考える、そういうことであります。  私は国鉄の現状を考えてみますと、やはりこれはもう常識でありますけれども、いかにも国鉄債務の重荷を負っているということはやはり考えます。長期債務が非常に大きい。これは私これからお話し申し上げることは、どちらかと言えば計数的なことを避けて、定性的といいますか、実は私が手元にいただいている国鉄の資料というのは昭和四十八年度までの資料でありますし、それも詳しい資料というのは手元に持っておりません。それで計数的にどうかと言われると、これはなおデータをいただいて詰めてお話し申し上げるよりほかないので現在はそれが可能でございませんので、いわば考え方ということでお聞き取り願いたいと思うのです。  長期債務が非常に大きい。私は長期債務の中に、たとえば長期借入金といったようなもの、これの全部かそれともどれくらいかということもこれは情勢によって判断しなければいけないと思いますけれども、これをひとつたな上げするというような形で、まず国鉄負担の軽減をずばり考える必要があると思います。これまでいわば孫利子負担というようなことで現状糊塗的な政策をとってこられた、これがやはり矛盾の積み重ねということになってきたので、私はやはり不健全な債務というのははっきりたな上げするということが、その額はちょっとおくことにいたしまして、これはずばり必要であるというふうに考えます。  ただ長期債務の中で、私は鉄道債券というものをどう考えたらいいか、ちょっとこれはよくわかりません。むしろ私は、鉄道債券は内部資本に準ずるものと考えることもできるのではないか。普通の株式会社ですと株主資本があって、これは利子ではなくて配当を払うわけですけれども、やはりこれは経営者の責任として長期的には配当を払わなければいけないもので、ただのお金で商売しているわけではないわけであります。そう考えると、国鉄は国有鉄道ではありますけれども、やはり国が大切な税金からの出資を受けたり、あるいはほかの会社と市場競争を営んで運営しているわけでありますから、やはり鉄道債券といったようなものはいわば内部資本に準ずるものと考えて、もしこれが健全で資産に対応するというふうに考えることができればこれは別にして、むしろ長期借入金の中で不健全と思われるものをたな上げするという考え方でいいんではないかというふうに考えます。  次に、こうやって債務を軽減する他面、経営の引き締めをする必要はこれはもう十分にあると思います。私はちょっと後でお話を出しますけれども、独立採算は維持したいというふうに考えます。これはただ独立採算というのは非常に限定的な意味であって、独立採算という言葉は収支適合ということ以外に、たとえばソ連の独立採算制の場合にも予算融資企業、初めから赤字を見込んだ独立採算制ということもあるわけですからそれも考慮するし、それからいわば分権的な内部管理といいますか、そういうことを頭に置きながらの独立採算、これはむしろ今後も維持していっていいんではないかというふうに考えます。  それから経営引き締めの一環としてローカル赤字線の建設、これはもうずばりおやめになる方がよかろう。ただ、これについても後でお話し申し上げますように、もし地元が補助しようということであれば建設することもあるいは存続させることも結構と思いますが、そういうことを除けば、つまり国鉄自体の採算でローカル赤字線を建設するということはもうおやめになった方がよかろう。それから新幹線も、私はこの場で言いにくいのですけれども、建設計画が再検討され、必要に応じて繰り延べられる必要があろう。従業員のモラルを高める必要があろう。特に組合関係については、最近私よく存じません、このごろ好転したという話も聞きますしいろいろありますけれども、やはり労使協調して運営に当たる、特に安全面のことがございますので、これを私は強調したいと思います。それから国鉄経営陣、これもふるい起こしてがんばっていただく。これについてはもっと申し上げたいこともありますけれども、ちょっとやめましょう。あるいは合理化促進特別交付金というのがございます。これは政府の補助の一種でございますけれども、額は非常に少ないわけでございますが、私はむしろこれをもっと増額させて合理化施策はどんどん推進する、特に安全面の充実ということはこれで十分にやっていただく、そういうことをする必要があろう。  三番目に運賃のことであります。  運賃決定手続については、先ほど中島さんからお話がありました。私は大宗では中島さんのおっしゃる御意見に賛成です。ただ、公正運賃委員会と言われましたが、それをそういう形にするのか、あるいは運輸審議会——現在の運輸審議会は私はぐあいが悪いと思います、改組をする必要があると思いけれども、その運輸審議会の性格をやや変えて充実させてそれに充ててもいいと思いますけれども、大宗においては中島さんの御意見に賛成であります。  それから次に政府補償。これも中島さんからお話ありましたように、合理的な根拠をもって国鉄がつくった予算に対して政府がたとえばインフレ阻止のたてまえ上運賃の引き上げを延期させるということであれば減収補償ということはしていいもの、すべきものと考えます。あるいは通勤通学の割引、公共割引、これも文教的なものであれば文部省の予算、それから産業促進的なものであれば通産省なり企画庁か何か知りませんけれども、そういうところの予算による補償ということが適切ではないか。それから地方赤字ローカル線のこと、先ほどもちょっと触れましたけれども、とりあえずは政府補償ということにして、地元の財政状態の好転を見て地元がふところを痛めての補助という形に切りかえるのがいいと思います。ただこの場合には、別に政府が、たとえば過疎対策助成金のようなものを地元に交付して、地元がそれの中からたとえば国鉄赤字補助に使うか、それともバスの赤字補助に使うか、道路に使うか、学校に使うか、水道に使うかということを選べるような仕組み、つまり特定補助ではなくて一般補助の形をなるべくとらせながらの、しかも一遍地元を経過しての補助という形にする方が適切であると考えます。  最後に総合交通政策だけに触れます。  私は、恐らく後で角本さんが、総合交通政策は青い鳥であるというお話が出るのではないかと想像——間違ったらお許しいただきたいと思いますけれども、私は、総合交通政策は必ずしも青い鳥とは思わない、しかし逆にそんなにむずかしいものとも思わない。それで私はまずイコールフッティングという考えを大事にしたいと思うのです。社会費用はなるべく内部化させた上で利用者負担、こういう意味のイコールフッティングということを一応基礎に置いて、このイコールフッティングの上で消費者選択をして優勝劣敗、鉄道が負ければ鉄道が引き下がる。道路、飛行機がもしイコールフッティングの競争で勝てば道路や航空が支配的になる。私はそれで結構だと思うのですけれども、ただもう一つ、交通市場というのは、先ほど言いましたように公共的ないろいろな影響があるので、それはそのマーケットの作用だけに任すことができない。そこで政府がいろいろなことを考え合わせて、そのいろいろなことというのはまた別に説明してもよろしゅうございますけれども、それで一つバイアスを置くといいますかあるいは方向づけをする、そういうことが必要だと思います。そういうことをひっくるめて総合交通政策を考えて、私はそうむずかしいものとは考えませんけれども、総合交通政策に照らしてその一環として国鉄再建をする、運賃もその一環として考える、これでいいのじゃないか、こうしなければいけないのじゃないか。ことに運賃値上げをする以上は、たとえばその値上げした荷物が道路交通に流れるということであると、国鉄再建はできません。そのことについては私は別に考えるところがあります。  さて旅客、貨物の運賃のことですけれども、これはごく簡単にいたしまして、運賃水準は小刻み変化を認める、これは先ほどの中島さんのお話、全く同感であります。それからコストと市場をもっと考慮する。現状のようにいわば政治的な配慮、政治的な要因は後退させて、コストと市場関係をもう少し表に出す、私はこれが必要だと考えます。貨物運賃は、これもある程度引き上げる。ただ、ある一定限度内で割引を認める。その意味では、どこかにややデレギュレーション、規制緩和ということを書きましたけれども、運賃を、ことに貨物運賃は法制的に縛らずに弾力的にして市場競争に強いような国鉄にする必要があろうと考えます。  もちろん、いま申し上げたことを要約して申し上げますと、どうも方向は運賃値上げの方に参ります。運賃値上げは、インフレ刺激の役割りといいますか、これは若干はそういう作用を演ずることは覚悟しなければいけないと思います。運賃引き上げは覚悟しなければいけないかわりに、インフレ阻止政策は全体の経済政策、特に金融政策の面で十分とっていただく、これはいわば大きな条件であります。  私の国鉄運賃についての考え方、少し精粗さまざまでございましたけれども、とりあえずいま考えているところを申し上げました。それだけでございます。(拍手)
  6. 増岡博之

    増岡委員長 ありがとうございました。  次に、角本参考人にお願いいたします。
  7. 角本良平

    角本参考人 いま二人の先輩からいろいろお話がございまして、大筋は私も皆賛成でございます。したがいまして、私の考え方を簡単に申し上げたいと思います。  幾つかの項目に分けて申し上げますが、まず第一に、要約して私が何を申し上げたいかといいますと、運賃には理論がないということであります。交通の教科書にはよくもつともらしく理論が書いてあります。しかしながら、現実国鉄の問題、私鉄の問題をどうするかと言えば理論はございませんと申し上げた方がよいわけであります。もしも理論があったといたしましたならば、今日こういう場所にわれわれが呼ばれる理由は毛頭なかったと思うのです。法律には国鉄運賃原価を償うという原則が書かれております。これは一つ考え方でありまして、原価を償わなくても一向構わない。原価を償わないと皆さんがお決めくださればそのような法律が通用するわけであります。極端に言えば国鉄運賃はただにするとお決めくださっても一向差し支えはございません。結局運賃についての理論というのは、これまで、交通企業はほうっておけば恐らくこうしたであろうという予想の程度あるいは現実を説明する程度にとどまっておりまして、運賃問題は理論の問題ではなしにあくまで価値判断の問題でございます。したがって、経済理論の外にあるということをよく御理解願いたいと思います。これは私は世間一般にももっと理解すべきことであると思います。ただし、交通政策が企業に無理な運賃水準を押しつけた場合は、交通企業は皆さんの奴隷ではありません、したがって交通企業は自主的に判断をいたします。したがって、交通企業は、もういやだからやめますという態度をとっていくと思います。それを強制して奴隷として縛っていくことは、今日の社会では不可能であります。  以上が、私が申し上げたいことでありまして、それをさらに具体的に敷衍して申し上げますと、第二に、運賃の第一原則ということを申し上げます。  この第一原則というのは、今日ただいま私だけが言っていることでありますが、運賃及び政府、あるいは自治体でもいいのですが、ひっくるめまして公共補助あるいは公共補償の合計額が原価に見合わなければいけないということであります。これは余りにも明瞭なことでありまして、それを無視して企業に経営を存続しろと言いましても、これはできない相談であります。私は、不可能な政策、不可能な法律、こういったものは無効であると思います。ところが、現実の政策としてはしばしばそのようなことが強制されてきております。したがって、その結果として企業のサービスが大変悪くなるということになります。その場合に、何%を運賃、何%を公共補助にするという決め手は全くございません。極端に言えば、ローマのバス運賃、一時無料制を実験いたしました。それでも一向構わないわけであります。そのような、どのような割合でも構わないといたしまして、しかしながら、その割合の決め方によりまして結果が異なってまいります。  第三番目に、運賃イコール原価でない場合に何が起こるかということを申し上げます。  まず第一点は、政府の補助の比率が大きいほど、親方日の丸精神が盛んになります。今日の国鉄も、あるいは東京都営も大阪市営も、きわめてこの精神が旺盛であります。したがって、民間企業と比べると大変能率が悪い。われわれ国民といたしましてどちらを選ぶかは、これは選択の問題であります。ここでもっとはっきり言いますと、原価というものは客観的に存在するものではないということであります。やりようによりまして、百円の物が百二十円にも八十円にも変わっていく。われわれは高い買い物をしたいのか安い買い物をしたいのか、国民としてどちらを選ぶかの問題、それとの関連において運賃政府補助の割合を決めればよいと思います。無理な決め方をいたしますと、能率のよい私企業はどんどん脱落をしていくということで、国民は結果としては損をするのではなかろうかと思います。  それから第二点は、補助政策というのは一部の企業だけを考えてしてはいけないということでありまして、東京都バスだけ安くしておいて都の予算で補助をする、民営バスは高いということになりますと、同じ都民税を払っておりまして大変不公平になる。したがって、もしも国鉄に補助をするということであれば、民営も公営も同じような補助を考えていくべきだ。一つの地域について同じ政策がとられねばいけない、そういう性質がございます。  第三点は、インフレとの関係でありまして、インフレとの関係では、公共補助をして運賃を抑制するのがインフレ対策であるかのように一般には理解されております。しかしながら、百円の物を六十円で売りますと、六十円なら買うという人までが電車に乗るわけであります。その結果は、需要がふえる。いま一つは、百円払っても乗ると思っていた人が六十円で乗れますから、四十円余分が出ます。ふところに残った四十円で何かを買うということになりまして、インフレを促進いたします。したがって、インフレ対策として公共補助政策をとって運賃を抑制するのは、きわめて短期の問題としては成り立つかもしれませんが、長期の政策としてこれを行いますと、軍備を行うのと同じようにインフレを促進するおそれがあるということであります。  第四点として、極端な助成策として運賃無料論がございます。私は、一部の人がいま運賃無料論を言い始めておりますけれども、都市交通の場合には、運賃を無料にしましても、通勤者が急にふえる、昼間の買い物客が急にふえるということはございません、しかし東海道新幹線を無料にした場合には、いまの数倍のお客がたちどころにあらわれてくると思います。その場合に、切符をだれに割り当てるかというと、権力者にコネのある人が切符をもらう。大変恐るべき弾圧政治が行われるようになるということであります。したがって、運賃無料論というのは単に運輸政策の問題ではなしに、われわれの自由に影響する大問題であるということをよく御認識願いたいと思います。まして、旅行の割り当て制というようなことになりますと、これは恐るべきファシズムになってまいります。  第五点は、現在の法律というものは、先ほど申し上げたように、明らかに運賃原価を償うのを原則とすると書いてあります。現在国鉄が十一年も欠損であるということは、明らかに運賃の政策が法律に違反していると思います。実態に即して法律を早く直さなければ、国会や政府の信用が失われていくと思います。  そこで、第四の項目といたしまして、運賃の第二原則を申し上げます。  これも私だけが言っていることでありますが、それは、先ほどは運賃収入総額と原価総額との議論でございましたが、今度は個別の運賃、たとえば東京から中野まで乗る運賃とその費用原価との関係であります。私は、運賃原価とを個々の輸送サービスについて対比することは不可能であると考えております。これが第二原則でございます。  その理由は、国鉄には旅客、貨物に使われる共通費がございます。それから、時間と場所によりまして——時間と申しますのは、時間帯と場所によりまして、コストが非常に違います。それを同一運賃を設定して売るわけですから、明らかに不可能であります。この運賃の第二原則を無視している一番いい例が、旅客貨物黒字赤字論でございます。旅客と貨物と別々に原価を算定できるかということでありますが、これは私は不可能だと思います。と申しますのは、共通費、たとえば線路の費用をどのように配分すべきかという基準が見つからないからであります。見つけたという方は、大抵列車キロとか換算車両キロとか、そういった基準で分けるということを言われるわけであります。それはその人の価値判断でありまして、他の人がそれでは困ると言えばそれまでのことであります。先ほど理論は存在しないと申し上げたことの意味は、そういったことを含んでおるわけであります。  そこで、仮に列車キロで分けることを認めたといたしまして、五千億の共通費を列車キロで分けるとき、貨物が二千億負担すべきであるといたしまして、現実に百億しか負担していないとしたら、それは旅客の側から文句を言うべきであるかといえば、私は文句は言えないと思います。もしも貨物が存在しなかったならば、その百億分も旅客が負担しなければいけないということになりまして、旅客の負担はまるまる五千億になってしまう。それよりも四千九百億で百億でも少ない方が旅客には有利である。客貨の関係はそのような理解をすべきであって、両方どちらが黒字だ赤字だということは言えないと思います。その議論を続けますと水かけ論でしかないと思います。  それから、個々の運賃費用とを見比べるように主張されながらそれを無視している一番いい例が、先ほどから言われております定期割引でございます。朝の満員電車にも一割か二割は普通旅客が乗っております。午後のすいた電車でも五割くらいは定期旅客である。そういった実態におきまして、ある人は二百円払い、ある人は八十円で乗る、これは大変不都合なことではないかと私は考えております。  第五番目の項目は、このことと絡みまして、過去の運賃学説が無力である、あるいは現在の運賃学説も無力であるということを申し上げたいわけであります。  過去の運賃学説としては費用学説といったようなことで、運賃費用によって決まるということを言われます。普通の商品は大体費用以上の値段を掛けておりますから、それは大変もっともらしいことでありますし、別に反対する理由はございません。しかしながら、現実国鉄が十一年も欠損を続けておれば、もはや運賃費用では決まっていないという現実がございます。したがって、学説は全く無力であると思います。黒字線、赤字線というふうな議論もございますが、黒字線で赤字線赤字を補い得るということであれば、まだ費用学説は通用するということでありますし、黒字線の黒字が自動車時代になって減っていって、赤字線切り捨てられるということであれば、これはまだ費用学説が通用している。しかし、そのような自由が認められていないということであれば、学説は無力であると思います。  それから、限界費用学説というのがございますが、これは私自身もよくわかりませんけれども、私はどのように工夫しても限界費用を計算することができないわけであります。これが国電に一人乗る場合の追加費用をいうのか、あるいは貨物二億トンを一年間運ぶのに二億一千万トン運んだ場合の追加の一千万トンの費用の議論なのか、そこらのところも大変あいまいであります。で、限界費用学説は私は実務には乗らないと考えております。  そこで、それではどういうふうに考えたらよいかというのが第六の比較運賃説でございます。私は、比較運賃説という学説があるかどうかは知りませんけれども、私がいま考えていることをあらわすのには最も適切であります。土地の公示価格を引き合いに出せばすぐおわかりくださるのですが、土地の公示価格では近傍類地の価格参考にして決めるという考え方がございます。運賃も、要するに隣の人が幾らで売っているか、だから自分も幾らで売ろうという程度のことでありますし、隣の人が百円で売っているのにこちらが百十円で売ろうといったって、これは無理であります。現在の国鉄というのは二十年前と違いまして、輸送量のごく一部しか運んでおりません。ですから、輸送量の大部分を運んでおりますトラック、内航海運あるいは自家用乗用車、こうしたものの運賃費用参考にして自分の運賃を決める、これが普通の考え方でございます。国鉄がリ−ダーシップを持っていると思うのは大変僭越な思い上がりであります。もっと謙虚に、他人の値段を見て、その他人の値段の中で御自分が判断をなさればよいわけであります。何もむずかしいことはございません。費用学説と同時に、負担力学説というのもございましたけれども、さすがにこのごろはそれを言う人はいなくなって、貨物の等級も、先ほどのお話のように、いまは三等級でしかない、三等級も残しておくこと自体が私は大変不思議だと思っております。  そこでもう一つ、最近大変おもしろい学説が出てまいりました。それは鉄道の下部構造は政府が払って、それ以外の費用運賃で賄えという主張であります。そのことの意味は、どうも聞いてみますと、道路ではかなりの部分税金で支払われているあるいはトラックは道路の費用負担していない、だから鉄道も下部構造は負担しないで、それ以外の費用だけを払う運賃にすべきだということのようであります。しかし、道路と鉄道と一緒に議論すること自体がもういまの社会では間違っていると思うのです。と申しますのは、道路は東京とか、おそらく大阪でもそうだと思いますが、ここらでは特別税は道路費用以上にたくさん出ているわけです。納められております。ですから、その意味では国電や小田急が黒字であるということと変わらない。あるいは国電も小田急もいまは赤字かもしれません。しかし、これらが収支均衡、もしも運賃物価並みに上げていけば、十分できる地域であります。道路が非常にたくさん税金から出ているというのは地方を含むからであります。その意味では国鉄以上に山の中に道路をつけているという実態におきまして、道路に税金が出るから鉄道も下部構造は税金で、まして大都市の下部構造まで税金でという主張には私は短絡できないと思います。さらに将来を考えますと、おそらく道路の特別税というのは、だんだん道路をつくるところが日本になくなってまいりますと余ってくるだろう、余ってきたときは一体この下部構造説はどう説明するか、たちまち窮するだろうと私は思います。  そこでだんだん結論を申し上げますが、第七番目は春闘とリンクせよということであります。きょうの新聞に米価の議論が出ておりまして、生産者米価を一五%以内に抑えたいという政府のお考えが出ております。米価については一五%も認めるのに、国鉄運賃についてはどうして一五%認めないのか、これが私の言いたいことであります。国鉄職員も生活をしておるわけです。国鉄職員の生活というのは運賃収入で支えられているということから考えますと、米の生産者の生活を考えるならば、どうして国鉄職員の生活を考えてやらないのか、これが私が政府に対して言いたいことであります。そういうふうに考えてまいりますと、当然に企業としてあるいは従業員として安心できるように運賃を毎年見直していくという政策が絶対に必要だと思います。もちろんその場合にどうしても運賃上げたくない、生産者米価だけ上げるということであれば、後の始末を、先ほど申し上げた第一原則に従って公共補償という形ですべきだと思います。春闘とのリンクということによりまして、おのずから運賃決定手続も決まってまいります。運賃決定手続は、これらの措置が十分行えるように、国会みずからがなさっても、運輸大臣がなさってもあるいは何とか委員会がなさっても、これは私は小さな問題だと思います。要するに、大原則が忠実に守られる決定手続でなければなりませんし、それからそうでない手続であれば、これは国鉄を破滅させるだろうと思います。  そこで第八番目は、運賃決定手続に決まりはないということであります。どれが正しい、適正だというようなことは、われわれは言えないわけであります。その決定手続を忠実に、原則どおりに守られるかどうかということが大切なことであります。そこで、だんだんに自動車時代になりますと、企業の自主性を認めた方がよいのではなかろうかと、私は個人としては考えております。  そこで、最後に第九番目として、私の意見はどうかということでありますが、いま申し上げたように、企業の自主性を認めるということは、人間の欲望に沿った方向であり、大切なことだと私は思います。非常に失礼な言い方ですけれども、人間は欲のかたまりであります。その欲望を実現できないような方向で企業に枠をはめますと、企業は親方日の丸になっていって、非常に能率が悪くなる。それでは国民として損であるということであります。  そこで、外国の制度と日本との比較がよく出ますけれども、わが国の特色としては輸送密度が非常に高いわけでありますから、その輸送密度が高い地域においては、企業として運賃収入原価を支払えるように収支を均衡させる方が、能率のよいサービスが提供できてよいだろう、毎年運賃をベースアップに見合って上げていく、その程度は所得水準が上がっていくのですから、一向に差し支えないというふうに私は考えます。  そこで、国鉄につきましては残念ながら輸送密度の低い路線も含んでおります。その部分につきまして政府の補償が要るということは私は当然認められる。その意味におきまして現在の運賃法は早く書きかえた方がよい。現在の運賃法は自動車時代以前の法律でございます。二十年以上前に書かれております。その二十年以上前の法律をいまどき通用させているということ自体が大変時代錯誤ではなかろうかというふうに思います。  以上が私の申し上げたいことでありまして、最後に一言で申し上げますならば、要するに運賃経済理論の外において、基本的な経済原則を考慮しながら政治、行政が決定することであります。その結果についても政治、行政が全責任を負うべきだと思います。  どうもありがとうございました。(拍手)
  8. 増岡博之

    増岡委員長 ありがとうございました。  以上で参考人からの意見の開陳は終わりました。     —————————————
  9. 増岡博之

    増岡委員長 これより質疑に入ります。  質疑の通告がありますので、順次これを許します。加藤六月君。
  10. 加藤六月

    ○加藤(六)小委員 参考人三人の先生方、非常に貴重なる御意見を開陳いただきまして、まことにありがとうございました。私たちも、いままで長い間国会で国鉄問題を議論してきましたが、改めていろいろ考え直さなければならない点を多く示唆していただきまして感謝いたしております。  余り質問時間がございませんので、簡単に質問さしていただきたいと思いますが、その前に、若干私個人がいま考えている問題点を申し上げますと、いままでの国鉄再建の失敗の反省、それに伴って、これは運賃助成両方の面になりますが、いろいろなおもしというものが国鉄についております。それはまたある面では、先ほど来先生方が申していただきましたように日国法、運賃法の矛盾という問題があります。あるいはまた、国会あるいは政府運賃制度への極端な介入という問題もあります。また、インフレ、物価の関係というのがありますが、要は、いままでの国鉄についている多くの債務利子、そういうものに対する処置の仕方ということと、これからの国鉄をどう持っていくかという行き方と、二通りあると思うわけでございますが、きょうは、先生方それぞれの立場から過去債務その他についても大分開陳していただきましたが、あるべき姿というか、これからの姿の方をより多く御説明いただいたように私思うわけでございます。もちろん、運賃そのものの本質とかあるいは運賃公共助成の関連とか、きょう主としてお聞きいたしたい点について述べていただいたわけでございますが、私たちが考えてみますと、いろいろなこれからの国鉄再建方法、新しい国鉄のイメージというものは何ぼ通りも何ぼ通りもあるわけであります。最後に角本先生が相当お触れになりましたが、下部構造部門を国で建設投資したらどうだ、いわゆるインフラ方式、これに伴うところの、これに上乗せしていくところのランニングコスト論というものも一つ方法であると思います。また、中島先生がおっしゃいましたように、あるいはこれは増井先生も触れられましたが、どうしても独算制の性格、企業性の性格から、支出に伴う運賃をいただかなければならない。これが仮に一〇〇%値上げということにつながる。それがインフレ、物価あるいは国民立場といういろいろな理由で五〇%に切った場合に、その五〇%分を国で補償しろという方式も出てきます。あるいはまた、大都市間あるいは都市通勤、こういうものについては費用に見合う運賃をもらって、それ以外の過疎線といいますか、地方線といいますか、いろいろ表現をされておったようでございますが、こういうものに対して国が抜本的な助成をしろとおっしゃるような新しい国鉄のつくり方、こういう問題がずいぶんあるのですが、端的に、一遍に大手術する場合には相当思い切った方法も必要なんですが、現在国鉄がぎりぎりの——これは私、お聞かせいただきたいと思うのですが、運賃収入人件費との割合、この運賃収入人件費の割合を、地方線を切り捨てない、現状のままで二万三千キロを走らせる、新幹線も若干建設見直しをやりスローダウンをやっていったとしても、運輸収入と人件費の割合というのはどの程度のものがいいのかというのが第一点でございます。  第二点は、運賃をめちゃくちゃに上げるわけにいかないから、国の助成地方公共団体助成というものは、国鉄再建方式と同じでいろいろな方法がありますが、大ざっぱに申し上げまして運輸収入と人件費とのさやの間の、どの程度のパーセンテージを、国あるいは地方公共団体が、公的なものが助成したらいいのだろうかという、おおよその物差しというようなものは、どこら辺に置いたらいいのでしょうか。  それぞれの先生方がいろいろお教えいただいたので、はっきりした結論はおまえたち国会が決めろ、国民が決めろという御意見がずいぶんあったのですが、実はこの決め方が一番むずかしいのであります。運賃によって何%ぐらい賄って、国の助成を何%、それはインフラ部門の問題、地方線の問題あるいは新幹線建設の助成の問題いろいろありますが、そういうようなものすべてを含んで、助成、補助を何%にしていくかということ。この前提には、先ほど申し上げました運輸収入と人件費の関係というのがあると思うのですが、これについて、中島参考人角本参考人にまずひとつお教えいただきたい、こう思うわけです。
  11. 中島勇次

    中島参考人 これは計数的な問題になりますと非常にむずかしいのですけれども、これは私の勘といいますか、これで言いますと、まず人件費運賃収入の中にどれだけ占めたらいいかということをいままでの過去の実績からいきますと、大体五〇%ないし六〇%の中間である。多くとも六〇%ぐらいが限界ではないかというふうに私は思います。これは、過去のものはずっとありますけれども、大体そのくらいのときには、さっき増井先生からお話があった内部的に相互補助もできた、必要なものをやっていた、こういうわけでございます。戦前の三勘定システムの当時は、これは減価償却費がありませんでしたかち、人件費というのは非常に低かった、五〇%前後だった。ただし、減価償却費を入れますと、大体減価償却費が一〇%ぐらいというのが常識ですから、まあそれぐらいだ、こういうふうになります。  それから、公共補助と運賃との割合、これはどこまで福祉を充足するかという基本的な点にあると思いますが、外国の例で言いますと、たとえばイタリア鉄道が一九七二年ですか、運賃収入の三九%ぐらいの国の補助を受けております。それで営業係数がたしか一七六になった。それでも一七六。これはイタリアの国全体の財政が破産状態ですから、そこで限界が来ている。そういうのは例になりませんけれども、ただ現在の状態でどれくらいかということになりますと、少なくとも三〇%ぐらいの国の助成というものはやむを得ないのではないだろうか、これが負債のたな上げその他をやった上で、そしてこれを徐々に縮めていくというような誘導策をとって、やはり理想的には公共助成費というものはきはめて積極的な福祉政策というものに限定していくべきじゃないかというふうに私は考えます。
  12. 角本良平

    角本参考人 運賃収入人件費との比率でございますが、私いまここに持っております資料を見ますと、赤字に転落する直前、最後の黒字の年で運輸収入に占める人件費の割合が五一%でございます。三十九年、赤字に転落したときが五七%になっております。そうして、四十八年が八四%で、四十九年は九一%の見込みになっております。恐らく大体この程度だろうと思います。この状態におまきして、私も、直観的なお答えとしては、五〇%から六〇%までの間にとどめておかないと、恐らく経営が非常に苦しいだろうと思います。ただ、三十八年当時と今日とでは自動車の普及程度がさらに違っておりまして、助成の仕方を、私個人の案といたしますと、現在の二万一千キロ、あるいは新幹線を含めば二万三千キロ近くのものにおきまして、一万キロか一万一千キロ程度は独立で収支を均衡させるという方策をとるべきである。しかもこの一万キロというのは国鉄の旅客、貨物の九割以上を運んでおります。ですから、国鉄国鉄らしく、あるいは鉄道鉄道らしく働いている部分でございます。そうした部分におきましては、先ほど輸送密度が高い部分と申し上げ意味でありまして、特に国電、東海道新幹線といったような有利な部分でそれら全体を一方一千キロ程度はカバーできるように運賃を維持いたしましても、それほど極端に運賃上げることにはならないと思うのです。  残りの一万キロは、赤字総額が非常に大きいといたしましても、あるいは営業係数、収入に対する原価の割合が非常に高いといたしましても、輸送の意味からいきますと影響力の小さい部分でございます。むしろ自動車にかわった方がいいという部分もあると思いますが、そうした部分につきまして、どうしても維持するといえば、これは政府助成を入れていく。  いま申し上げたような計算をいたしまして、結果として人件費が幾らになるかということが、本当は私が計算してお答えしなければいけないことだと思いますけれども、恐らくそういった姿を考えまして運賃収入の六割前後になるのではなかろうかと思います。あるいは数字については、いま計算ができませんので一応は保留いたしまして、考え方としてはそういうふうに考えるということでお答えにしたいと思います。
  13. 加藤六月

    ○加藤(六)小委員 次に、これは増井先生、運賃というものの性格あるいは前提条件、いろいろお教えいただいたわけでございますが、私たちが前回の再建法並びに運賃法のときに総合原価主義問題がずいぶん議論になりまして、国鉄に総合原価主義をとらしておるのがいいのか悪いのか、角本先生もちょっとお触れになったのですが、その場合に客貨別運賃論というのがずいぶん出てきましたのですが、客貨別運賃論というのはこっちへおくとしまして、総合原価主義というと何か一つのりっぱないい主義があるように思うのですが、どうも先生の御意見を承っておりますと、そうりっぱな原理、学説があるわけではないようなんで、簡単な表現をしますと、社会情勢、政治情勢、経済情勢全般から出てくる運賃だということはよくわかったわけです。しかも、非常にサービス運賃価格というもののむずかしさもよくわかったのですが、国鉄として今後ともいまの密度の高い線と密度の低い線に分ける、分けないという大きな前提がございますが、やはり今後の国鉄を見ていく場合には、総合原価主義的な見方をやっていく方がいいのでしょうか。逆に客貨別あるいは路線別、そういう見方等もこれからはしなくてはいけないのかどうか。計算上は総合原価であるけれども、そこに助成問題を入れることによっていろいろ変えていくという考え方がいいか。そこら辺、ちょっと私の質問もはっきりしないわけですが、要はいままでの総合原価主義的な物の考え方でこれからの国鉄運賃助成という問題を見た方がいいのかどうかという点でございますが、お教え願いたいと思うわけでございます。
  14. 増井健一

    増井参考人 その前に、先ほどのお二人への御質問にちょっと触れさせていただきたいと思うのですが、もし私が先ほどの人件費割合がどれくらいが合理的かと尋ねられれば、私は御返事できないときっと言うと思うのです。人件費というのは、別にこれくらいがいいという目安があるわけではないので、機械化いかんによって、たとえば東海道新幹線などは人件費が非常に低いわけで、したがって、そういう近代化、機械化が進めば人件費が当然低くなる。だから、これはこれくらいがいいといったような目安を余りつけることはむしろ危険だろうと私は思います。それから、政府助成の割合がどれくらいが適切であろうか、これも確かに考え方としては先ほど角本さんがおっしゃったように、言葉は悪いのですけれども、親方日の丸でないためにはなるべく自前でやる、二つに分けるというような方法でなるべく自前主義でやるということは、これはもちろん適切なことだろうと思うのですけれども、しかし、やはり必要に応じて現状はもう補助せざるを得ないわけで、私は、先ほどちょっと申し上げましたように、補助というのは、こういう根拠があるからこれだけ補助するといったような、いわば一つ一つ、項目項目について、ジャスティファイと言いますか、根拠を持たせながら補助をすべきである。だから何割がいいかといったようなことはむしろお答えしない方がいいんじゃないか、もし私が尋ねられればそういうふうに返事したであろうということをまず申し上げておきます。  それからいまの総合原価主義、これは私が一番初めに、運賃というものはつかまえにくいものだということをお話し申し上げた。あるいはちょっと薬が効き過ぎて強く申し上げ過ぎたかというふうに思いますけれども、私は、それだからサービス原価とかあるいはそれにつける運賃とかいうものがいわばいいかげんであっていい——あるいは角本さんは比較運賃説と言われ、非常にこれはおもしろい御意見だと拝聴しました。それから中島さんは安定的と言いますか、ほかのものとつり合いを保つような運賃と言われましたけれども、私はちょっと違うので、私はむしろコストをやはり、先ほどつかみにくいと言いましたけれども、しかしコストを中心に考えたい。それで、先ほどからあるいは国鉄のPR資料にもあるのですけれども、運賃が安い、それで物価が九百倍だ、運賃が三百倍だ、だから安いという御議論が盛んにされておるわけですけれども、私はそうは思わないので、安いとは思いますけれども、物価が九百倍なのに運賃が三百倍だから運賃が三分の一も安いのだ、そういう言い方というのは、これは適切ではない。それは、物価が上がっても何も物価に比例してすべてのものがいわば安定的に、調和的に価格が動くのではなくて、これは、いわば生産性の差がありますし、特に人件費割合の非常に大きいものは、人件費の動向といいますか、ビヘービアにまた非常に制約されるわけですから、上がるものもあるし、下がるものもあるし、それでいいわけですから、国鉄が三分の一でもペイしていればそれでも結構なわけで、だからほかの物価と同じ割合で上げろというのは、これはちょっと余りにおかしな議論であろう。私はやはりだからコストを考えたい。そのコストを償うような価格であるかどうか。一番運賃を考える場合の基準となるべきものはコストであろう。ただ、そのコストがつかみにくいということは先ほど申し上げましたけれども、まず一つつかまえられるのは全体のコストであります。総合原価というお話がありましたけれども。これは、国鉄がどれだけ一年間にコストを計上せねばならないということはわりあいにはっきりわかるわけです。ただ、これもまたちょっと参考人の間の意見の不調和になってはなはだ醜態をさらすわけですけれども、私、やはりコストであれ運賃であれ、経済理論の枠の外にあるとは思わないので、これは、先ほど言いました普通の有形の財貨の価格とはかなり違う面があるけれども、やはり価格である以上は経済学がこれをつかまえようとするわけで、公共的な価格であっても、最近はたとえば公共経済学といったようなアプローチの仕方もあるわけで、経済学のらち外にあるべきものだというふうには考えません。コストについても、たとえば個別のコストというものがそれじゃ全くわからずに霧の中をさまよっているようなものかといえば、私はそうじゃないと思います。これはたとえば線路の費用は共通費とかあるいは結合費とかいろいろなふうに呼びますけれども、それでもかなり私はわかる。つまり、客貨分離も、先ほど非常に厳密な議論をしました角本さんが言われましたように、それではお客と貨物と、これが正確かと言われて数学的に証明できるかと言われると困るわけですけれども、しかしこれは世界的に認められた原価計算的にはかなりの精度で明らかにし得るわけです。それくらいの基準にのっとっていった、それで計算されたコストに照らして運賃が高いか低いかという議論は私は可能であろうというふうに考えます。したがって、総合原価でなければいけない、個別原価というものはつかまえ得ないのだという考え方は私はとりません。
  15. 加藤六月

    ○加藤(六)小委員 時間が参りましたので、これで終わらせていただきたいと思いますが、一番最初に私がお願いしました運輸収入と人件費の割合というものは、これは御質問申し上げ方法が悪かったのではないかと思いますが、もう比率を考えておる時代は通り越しまして、運輸総収入に対して人件費がオーバーする、五十年度においては何千億かオーバーするという時代が来ましたので、五〇%から六〇%台がいいとか悪いとかいう内容で申し上げたのでなしに、実はそういう全体を含んで、どういう手術の仕方をしたらいいかという問題と、それから将来の何年か先に健全なる国鉄になった場合の比率をどこへ置いたらいいだろうか、収入と人件費との割合の比率をどこへ目標に持っていったらいいだろうかといった意味で実はお伺い申し上げたわけでございますので、その点誤解がございましたら困りますので、ひとつ釈明させておいていただく次第でございます。どうもありがとうございました。
  16. 増岡博之

    増岡委員長 久保三郎君。
  17. 久保三郎

    ○久保(三)小委員 中島参考人にお尋ねしたいのは、先ほどのお話で運賃決定機構の問題がありましたが、運賃といった場合には御承知のようにマーケットの中には国鉄サービスもあるが、その他のサービスもあるわけです。いまの運賃決定の方式というか機構というかそういうものは御承知のように違うわけですね。だけれども、サービスは似通ったサービスがたくさんある。そういうところに問題があろうかと思うのですね。そういう意味からいくと、おっしゃったところの運賃決定機構というものは国鉄に限っていらっしゃるのか。広く、私鉄も公営もございますし、バスもありますし、そういうものを含めて運賃というものを、そういう構成というか、おっしゃるのは行政委員会というような第三者機関ですね、そういうところで一応決めたらどうだろうかという御提言だと思うのですが、その範囲というかそういうものはどういうふうにお考えであるのか、これをひとつお伺いしたいと思います。  それから増井参考人には、先ほどお話の中に総合交通政策に言及されまして、その中で総合交通政策の土台とでも言うべきものはイコールフッティングだ、そういうものの上に考えればいいんで、そうむずかしい——むずかしいとおっしゃったかどうかわかりませんが、余りむずかしく考えないでもいいというふうなお話でありました。なるほど、理念的にはイコールフッティングというものはよくわかるのですが、実際に政策や制度の中に取り込むという場合には、大変な、これはちょっと手に負えないものなんですね。われわれもいっとき、イコールフッティングというものをいろいろな方の御意見も聞いたり考えてもみたのですが、実際は取り込みようがないのですね。それを取り込むには、総合交通体系という政策というか全体的に国土利用計画とあわせて交通網の配置をする。その配置をすると同時に、今度は投資の方向、これを決めていくというような、大変遠大な計画を持たなければ、イコールフッティングというものはどうにも最終的には一つも取り入れることができない。ましてやいまのような世の中でそういう理想論を言ってもどうにもならぬというふうに多少は考えているわけですが、イコールフッティングという問題について具体的にたとえば一つ二つお示しいただいて、こういうものはこう取り入れるべきだという解決の方法がありますれば教えていただきたい、こういうふうに思います。  それから角本参考人にお伺いしたいのですが、角本参考人は最近物の本にも、それからきょうのお話でも大変奇抜なお話がたくさんありまして、われわれも興味というか関心をもってお聞きしたのであります。そこで一番最後にお述べになった、企業の自主性を認めよという御主張でありますが、これは具体的にはどんなことですか。いままでは国鉄日鉄法あるいはその他の法律でいろいろな制約があるから、自主性を認めよという場合には一般民間企業と同じように経営活動をさせたらどうだろうかというのがいままでの自主性だと思うのです。私はこれに多少疑問を持っている。たとえば貨物の輸送一つとりましても、国鉄の伝統的な能力というかもともと持っている固有の能力というのは、貨物の駅から貨車に積んだ荷物を目的の駅まで運ぶこと以外は能力に欠けていると思うのです。ところが御承知のように貨物輸送は、客貨別の運賃の営業収入の比率の問題は別としても、輸送の量は御案内のとおり横ばいあるいは鈍化しているわけですね。結局荷物が来ない。ところが一般経済成長の中で貨物の伸びなんですね。これは日本の高度成長政策あるいは立地的な条件、こういうものも関係しますから、必ずしも国内における貨物の流通の増加が直ちに国鉄に影響されるとは思いませんけれども、それにしても時代に逆行しているわけですよ。これは言うならば荷物を集めてくる機能がないと思うのですね。  ところが自主性ということで、これがもしもそういうものを認めておまえやれと言ってもこれはできない相談だと思うのです。むしろ自主性も認めるけれども、最も必要なのはたとえば貨物一つとりますれば、これはそれぞれの通運業者あるいは他の輸送機関、そういうものとの連携をもって自由にさせることの方が自主性だとも思うのです。むやみやたらに自主性を振り回されても、たとえば最近駅ビルの建築などがたくさんありますが、私は気持ちとしては余り歓迎しないのです。独自の立場でおやりになるならば、それはやりようによっては国鉄運営の中にメリットが出てくると思うのです。ただし、さっき言った親方日の丸ということではちょっとどうかと思うのですが、そうでなければ出てくるかもしらぬ。ところが、いまの駅ビル、そういうものは他の資本との提携なんですね。そういう場合にメリットがありとすれば国鉄職員の第二の職場に多少の余地ができるというメリットだけであって、経営におけるところの財政的なものは余りないのではないかというふうにも疑問を持つのです。  それからもう一つ一つの例でありますが、最近貨物の集約がありまして、貨物扱い所のようなものがいわゆる休閑地というか空き地になっているわけですね、貨物ホームというのが。そういうものをいろいろなのに利用したらどうかあるいは利用もしているのでありますが、たとえば田舎へ行きますと駐車場をつくるわけです。それで月決めかあるいは毎日の一日契約か知りませんけれども、やっているのですね。これもまあやることは結構なのでありますが、本来やはり国鉄の本職は荷物と人間をより以上運ぶということだと思うのですね。それに直結しない自主性というか経営のやり方は私は問題だと思うのです。いまの駐車場一つとっても町に何か用がある人で車に乗ってきた人が、たまたま駅のところで駐車場を経営しているのでそこに預けていく。なるほどないよりは便利だからいいかもしれません。しかしもっと考えるのは、自家用車で駅まで来て汽車に乗って行くという人にこそ利用してもらうという工夫があってしかるべきだと思うのですね。だからそういう意味のいわゆる定期利用の人の駐車場に提供する、そういう意味の自主性ならばいいのですが、単にいままでやってきたような既存の企業というかそういうもののまねをしてやるだけでは危ないんじゃないか——危ないと言うとおかしいが、少し心もとない、こういうふうに思うのでありますが、その辺のところはどういうふうに思っていらっしゃるか。  それから角本参考人にもう一遍伺いたいのですが、さっきから話が出ていますように、おっしゃったところの運賃の第一の原則公共補助プラス運賃イコール原価である、逆に言えば、原価をカバーするものは公共補助プラス運賃、私もそうだと思うのですね。いまわれわれとして一番問題にしているのはその限界というか、先ほどお話がありましたように、どの部分公共補助にすべきかという問題が論点になると思うのです。そういうものについて、もしできましたら具体的にお話しいただきたいと思います。  以上です。
  18. 中島勇次

    中島参考人 先ほど仮の名前で公正運賃委員会国鉄だけかという御質問ですが、私は交通運賃というものを全部含めてここでやる、つまり社会的公正という中には交通料金そのものを、全体を一つ目で見てやるという必要があるから、その意味で——いま運輸審議会が同じようなことをやっておりますが、ただそれは組織上非常に性格が変わっているからこれをもう少し独立したものにしたらどうか。と言うのは、いまは御承知のように運賃の水準の見方というものが非常にまちまちだ。国鉄の場合にはいろいろな物価政策その他で考える。私鉄の場合にはそのほかにまた関連企業の成績がどうかというようなことも考えている。最近は不動産がだめになったから、そっちの方でもうからないからこっちの方でまた運賃上げるというような変な論理が——関連事業でもうかっているから鉄道赤字でもいい、関連事業がもっと赤字になってつぶれそうになったら全部運賃でカバーするというのは、社会的公正という目からいけばおかしいと思うのです。  もう一つは、航空機と新幹線がよくはち合わせしますけれども、両方でお互いに運賃を決めるのを、航空運賃よりも若干安くとかあるいは新幹線よりも若干高くとか、お互いにすくみ合っていると思う。これをもっと公平な立場から、航空機と新幹線の運賃バランスとか、あるいは国鉄運賃が安いためにトラック業者は非常に安く抑えられて結局過積みや砂利トラのようなことをしなければやっていけないというようなことでかえって社会不安を招いている、そういう点から言って、単なる原価運賃とのバランスがどうかというような単純な意味でなくて、もっと高度な立場から、社会的公正あるいは安全性とかそういうようなものを含めたものにしたい。これが交通政策を正しいあり方に実際的に安定させる最も大事な引き綱といいますか、てこといいますか。そういう働きをするという意味委員会考え方を期待する、こういう意味です。
  19. 増井健一

    増井参考人 イコールフッティングについての御質問なんですけれでも、イコールフッティングが日本で言葉としてやかましく言われたのは昭和四十二、三年でしたか、盛んに議論されたのですけれども、あれは一時燃え上がったものであって、もとはもっと昔からそういう考え方がある。たとえば一九三一年ごろでしたか、イギリスでギルバート・ウォーカーという人が「ロード・アンド・レール(鉄道と道路交通)」という本でまずそれをはっきり書いて、その後そういう考え方が交通政策に関係を持っている方の間に次第にしみ込んできただろうと思うのです。日本でも、たとえば私も関係いたしましたけれども、昭和三十何年でしたか、交通基本問題調査会というのがありまして、それははっきりそれを打ち出して、あの答申はまさにそれをうたっているわけです。倍増計画あたりはちょっとニュアンスが違いますけれども、やはりもとにはその考え方があったので、言葉を非常に簡単に解釈しますと、イコールフッティングというのは、たとえばいろんな交通手段が交通市場で競争している。そのときにある交通手段に対しては政府がひいきをする、助成をする、ある交通手段に対してはいわれなく規制をするということでは不公正競争ではないか。いわば政府が公平に扱う、これが一番基礎的な考え方だろうと思うのです。  ただ実際問題からすると、このイコールフッティングというのは考え方としては非常によくわかる考え方ですけれども、先ほどおっしゃったようにいろんな問題があるわけです。一つはたとえば社会費用をなるべく内部化してと、私もこう申しましたけれども、社会費用というのを客観的につかむというのはなかなかむずかしいので、たとえば騒音一つとってみても、受ける人によって非常に主観的で、非常に大変だと思う人もあるし、わりあいに鈍感な人もある。それを社会の人人の納得を買うようにこれが社会費用だということを算出するのは非常にむずかしいわけですね。しかしそう言っても話にならないので、現実の政治でも行われているように何とかそれをこの程度というふうに考えて、穏やかな線で考えてこれを評価する、こういう手続が要ると思うのですけれども、そういう難点はある。  それからイコールフッティングにしても本当に問題になるのは競争している部面なんですね。競争してない部面は別にイコールフッティングであろうと何であろうと大したことはないですけれども、競争し合っている面でイコールフッティングでなくちゃいけないわけです。たとえば道路にしてみれば、鉄道の新幹線と高速道路を利用する自動車が競争している。そうすると国鉄全体と道路交通全体がイコールフッティングであっても実はしようがないので、東海道新幹線と東名高速道路を走る乗用車なりバスなりがコストに関して合理的に、つまり利用者負担しているか、そう考えなければいけないわけです。そうすると今度は、たとえば国鉄の中についてさっき言いましたクロス・サビシディゼーション、内部補助があるとこれもぐあいが悪いわけです。それから道路について言うと、燃料税で道路の費用をカバーしているとしても、乗用車とバスとトラックの負担の割合が不公正であるとこれまたぐあいが悪いわけです。そういうように非常に問題があるということはこれはもうそのとおりだと思います。しかしそのぐあいが悪いにせよむずかしい問題があるにせよ、考え方としてはこれをとる、私はそう考えておるわけです。ですからそうむずかしいものとは私は考えない。むしろ考え方としてはこれをとる。しかしくどいようですけれども、これはまあ第一のよりどころであって、生のイコールフッティングでいいとは思いません。それにはもう一つつけ加えて政府が方向づけをする、合理的な根拠に基づいて公共的な介入をする、これが必要だと思います。  しかしこれもちょっと先ほどおっしゃったニュアンスと私の考えは違うのです。たとえば全国まんべんなく鉄道網なり道路網なりを行き渡らすようなことなどということは私は考えないので、むしろやはりそのイコールフッティングに対して政府が何かの方向づけをする場合には確固たる根拠に基づいてその市場競争をすれば、こういうときにはぐあいが悪い、これを合理的な方向にねじ曲げるためにはこれだけ政府が投資をして、あるいは規制をしてこれだけねじ曲げようというそういう考え方、したがって、私はあくまで市場競争ということを非常に大事に思います。  これはある政治家の方とは若干ずれがあるかもしれませんけれども、私は一面たとえば公共補助ということも必要だ、大事だと言いますけれども、やはり最終的にはそれが市場マーケット競争に入ってきて、市場のテストといいますか、国鉄をたとえば政府助成する。助成しても最終的には、乗るのは消費者なのです。消費者が助成されて、たとえば鉄道を安くして、政府としては、鉄道の方にどうぞ乗ってくださいと言っても消費者の方は、おれはいやだよ、おれはどうもやはり金を高く払っても自動車に乗るぞと言われれば、これはもうしようがない。しようがないというそのテストは、私は大事にしたいと思うのです。政府計画経済をするのではなくて、分権的な仕組みといいますか、最終的には消費者によって判断させるという仕組み、私は先ほどイコールフッティングを申したのも、最終的には消費者によって判断してもらう仕組みを大事にするためにはイコールフッティングという考え方が大事だ、そういうことで申し上げたわけです。
  20. 角本良平

    角本参考人 いま二つお尋ねがございまして、第一点は企業の自主性ということであります。私さっき申し上げた話は大変奇抜だったのかもしれませんが、いまから申し上げる答え、余り奇抜ではございません。  営業範囲を広げるという意味の自主性ということは、私は国鉄職員の本質に反していると思います。御列席の方にも国鉄御出身の方がおられて、そういう方は大体私は例外的に非常に能力のある方であろうと思います。一般国鉄職員と申しますのは、安定した生活を望む。どえらいもうけを望む人たちではない。本質的にそういう生まれつきの人が国鉄に就職したがるということであります。そしてその中で十年、二十年と型にはまった仕事をさせられる。また型にはまらなかったらダイヤが混乱しますから、国鉄の安全は保てない。それが国鉄でございます。ですから、本質的に安定した性格を持っていて、しかも安定した業務を十年、二十年させられていった場合に、世の中の一般の人たちと取引をできるような性格の職員は育たないわけであります。その国鉄職員の本質をよく理解していただきまして、彼らにできる範囲のことしかさせてはいけないというのが私の考えであります。したがって国鉄がデパートやホテルを経営できるかと言えば、ごく例外的に恵まれた場所ではできるかもしれません。しかし一般的には余り適さないだろうと思います。したがって、営業範囲を輸送以外の部分にまで広げるという意味で企業の自主性を論ずるのであれば、それはきわめて例外的な場所に限定すべきである。したがって、それから上がる収益というのは何千億という赤字に対しては全く無力である。そういったものから期待する方がどだい間違いでありまして、まさにいま言われましたように、退職後の人たちを養うというような意味では、私はこれは必要だと思います。退職した人が一生生きていけるようにするというのは、これは企業にとっても大事なことでありますから、それは私は否定はいたしません。しかし、それを本筋として企業の自主性を考えるならば、私はそれには賛成いたしません。企業の自主性ということは、あくまで輸送自体の内部において発揮されるべきものだと思います。  その場合に、鉄道というのは自動車時代以前においては非常にすぐれた手段でありましたけれども、人間の交通の歴史の中では本当は自動車が先に欲しかったのであります。ところが自動車をつくることが十八世紀から十九世紀にかけてうまくいかないがゆえに、重い蒸気機関車をレールの上に乗せた、これが鉄道の誕生であります。したがって、十九世紀の終わりから自動車が出てまいりますと、その本来の欲しかった乗り物に乗りかえるのが当然でありまして、その自動車によってはぐあいが悪いという部分だけが今日以後鉄道が使命を果たすべき部分でございます。  そのように歴史的に考えましたときに、一九六〇年代の高度成長におきまして、鉄道の貨物が横ばい、全体の貨物トンキロはこの十年間に二・五倍に伸びておるわけであります。二・五倍に全体が伸びたのに鉄道はほとんど伸びなかった。一倍でしがなかった。その理由はやはり鉄道がレールに縛られているという欠陥であります。レールに縛られているがゆえに、到達日時の確実な輸送ができない。これが鉄道の欠陥であります。これを解決する方法はございません。ありませんから、鉄道はおのずからその分野が縮まっていくということであります。これは集める機能が不足という点も局部的にはあったと私は思います。しかし、全体の問題としては集める能力ではなしに、レールの上の確実さが鉄道の今日をもたらしていると思います。  そこでもう一つの問題は、一九六〇年、昭和三十五年ごろ、当時におきましてすでにレールの能力自体が幹線においていっぱいになっていたということであります。ですから、仮に荷物が来たとしても国鉄は運べなかったであろうと思います。昭和四十五年が国鉄貨物輸送のピークでございます。大体わが国の貨物輸送全体のピークでもございます。その段階において国鉄は非常に重い負担を負わされたと私は思います。恐らく能力以上に働かされたと思います。  今後の国鉄を考えたときに、さらに投資をして貨物輸送能力をふやすべきかどうかということになると、私は大変疑問を持ちます。これは御質問の範囲外になりますからこれ以上は申し上げませんが、輸送自体においてその自主性ということになりますと、私はきょうの主題の運賃と絡めまして企業責任範囲を明確にするということだと思います。そして運賃自体につきましてもできるだけ自主的にその内容を決めるということが、私が先ほど申し上げた企業の自主性でございます。そのようにすることによりまして企業の労使がもしも意欲を燃やすならば、それは大変ありがたいことではなかろうかと思います。したがいまして、運賃収入ではこの程度に収入を上げるということは国会の予算で決められるといたしましても、その収入の上げ方につきましては自主性を与えるということで、先ほど貨物の三等級を一等級にしてしまうとか、あるいは定期運賃はやめてしまうとか、そういった自主性があってもよいのではなかろうかと私は思うのです。定期運賃をやめるというとまた奇抜な話になりますが、モスクワの地下鉄もニューヨークの地下鉄も定期運賃原則としてございません。左右両方の大都市がそのような政策をとっていて、日本が定期運賃やめて何で悪いんだろうかと私は思っております。  そこで、企業の責任を明確にするということと、第二番目の御質問の公共補助とが当然絡んでまいります。この公共補助の限界をどこに置くかというときに、増井先生はじめ皆様が提起になったイコールフッティングが絡んでまいります。私はイコールフッティングはできるだけ実現した方がよいと思っておる一人であります。ただ、大変この点で注意しなければいけないのは、日本全国の道路予算、日本全国の国鉄予算を合計いたしましてイコールフッティングの議論をすることであります。その場合には非常に例外的な部分が両方にたくさん入ってくるわけであります。新幹線が入ってくる、一方では村の道路が入ってくる、それらを全部合計しましてイコールフッティングだ、鉄道だから鉄道だ、道路だから道路だということで合計してのイコールフッティングというのは余り意味がないと思うのです。イコールフッティングを議論するのは、東京の道路利用と国電あるいは小田急、あるいは東海道における東海道新幹線と日本航空と何とか運送のトラック、こういう比較でなければいけないと思います。わが国は非常に幸いにしてかあるいは賢明なる政策のもとにか、こういった輸送が集中する部分ではイコールフッティングがかなりの程度に実現しております。大体東京付近の乗り物で政府の補助をもらっているところはないと私は思うのです。道路だって実質的にはもらってないと思う。東海道でも同じことであります。道路公団の東名、名神も、東海道新幹線も独立採算で維持されている。日本航空だって全日空だってそうだろうと思うのです。で、そのことは、あるいはあるトラック会社はもうけ過ぎている、あるいは東海道新幹線も、収入の恐らく五割以下の経費で運んでいると思います。ということは、本当はコスト論をいたしますと、コストの二倍も取って不都合ではないかというふうなことが東海道新幹線からは出てきます。しかしながら、東海道新幹線自体は最近は赤字だというお話ですから、東海道新幹線と在来線とを合わせれば国鉄はもう少し収益が減るという姿であろうと思います。しかし、道路公団も収益上げ、日本航空も収益上げている。その収益上げ方には差がありますけれども、条件設定といたしますとかなりの程度にイコールフッティングであるということは私は十分言えると思います。  そこで大事なことは、全国の国鉄を収支均衡させるように運賃上げる、これは私は可能性としてあり得ると思います。ただ、そのようなことをいたしました場合に、現在の国電とか東海道新幹線が、コストを飛び離れましてはるかに高いものになってしまう。その結果として日本航空にお客が行きトラック会社にお客が行って、鉄道の利用が減った形になってしまう。本当はコストが安いのに鉄道が利用されないということになりますれば、これは国民として損失ではないのか。あるいは経済学で言う資源の浪費につながるのではないかという問題を生ずるわけであります。したがいまして、国全体としての資源の浪費が生じない範囲においてできるだけ資源の浪費を防止しながら、あるいは積極的に最適資源の利用という形におきまして鉄道を維持するということになりますと、ある程度の輸送量がある範囲鉄道が黒字あるいは収支均衡の形で維持できるという程度の運賃を設定する、そしてそれ以上に輸送密度の低いところは政府の補償で維持するかあるいはむしろやめてしまうということが私は正しい答えであろうと思います。したがいまして、公共補助の限界を、先ほどの国鉄二万一千キロか三千キロの一万キロあるいは一万一千キロ程度に、収支をその範囲部分、すなわち客貨の九割以上を運んでいる部分におきましては、鉄道がイコールフッティングでトラックや航空機と競争できるようにというふうに考えた方が、交通手段の合理的な利用ということになるのではなかろうか。したがって、公共補助はそこには入れないという限界を設けて、それ以外の部分は政治的な御判断で維持される範囲鉄道に維持できるように補助をしていく。その残りの、わずか数%客貨を運んでいる路線につきましては、長さは一万キロでありますけれども、まあそこの運賃をどうするかということはまた別の問題になってまいります。国全体、郵便局と同じに考えるということであれば、東海道線、国電と同じ運賃を設定する、そうして公共補助で欠損を埋める、あるいは若干高い運賃を設定するという政策もあり得ると思います。これは同じ国鉄バスでありましても路線によって運賃が違うということで、それは私は少しも不思議ではないと思います。土地利用ということから考えましても、交通の費用はできるだけ運賃に反映した方が望ましいということから考えますと、残りの一万キロは若干運賃は違えていただくという政策があってもよいと思います。  以上、お答えになったかどうかわかりませんけれども、二つの御質問にお答え申し上げました。
  21. 増岡博之

    増岡委員長 兒玉末男君。
  22. 兒玉末男

    ○兒玉小委員 社会党の兒玉でございます。中島さんと角本さんに一点ずつお伺いしたいと思いますが、中島さんには、昨年十一月発行されました「運輸と経済」という本の中で「国鉄財政の破綻と救済」という座談会の中で、いろいろと御参考になっているわけでございますが、一番問題は、新幹線をつくるとかあるいはローカルの地域開発をやるとか、こういうふうに国鉄の開発を拡張しているわけですが、その場合に、利子負担あるいは減価償却ということが理屈に合わない状態にある、こういうふうなことを指摘をされておられるわけでございますが、国鉄利子負担なりあるいは減価償却のあり方というものがどういうふうにあるのが最も妥当するのか、この点を一点お伺いしたいと思います。  それから角本さんには、先ほどのお話の中で、国鉄では旅客は黒字だが貨物は赤字だという根拠はきわめて不合理といいますか妥当を欠いてるというふうに御指摘をされたわけでございますが、これからの運賃政策の中において、われわれの考えでは、やはり貨物に対するところの等級制度なり賃率の制定についても非常に偏った政策がとられているじゃないか、特に大企業等の貨物輸送についてはきわめて有利な賃率政策がとられるとか、そういういろんな問題があるわけでございますが、先ほど久保議員も指摘をしましたように、国鉄輸送の中における貨物部門の合理化政策がむしろ得意が逃げるような結果になっているということも指摘をされたわけでございますが、それらも含めて貨物が赤字、旅客が黒字という理由は妥当でないというその見解は一体どういうところに起因されるのか。以上二点についてお伺いしたいと思います。
  23. 中島勇次

    中島参考人 私、古い「運輸と経済」をいま持っておりませんから、自分でどういうことを言ったかちょっといま思い出しているのですけれども、根本的に言いますと、私は利子というものは大きな目で見れば利潤利子だ、余剰価値である、こういうふうに考えます。したがって借入金であれば、それだけ余剰価値を生み出さないと利子が払えない、こういう問題であると思う。ですから生産性が上がって十分に余剰価値を生み出して、それが資本の方に、いわば資本家に配当に行く、自己資本であれば株主に配当に行くわけでありますけれども、株主という立場でない人には利子という形で余剰価値を配分していく、こういう形である。したがって、新幹線も東海道とか山陽というものであれば十分にそういう能力があるからいいのですけれども、あの当時はやはり全国新幹線網という大きな雄大な計画がありまして、国の開発とか地域開発とか日本列島の改造とかという非常に次元の高い目的でああいうものをやった場合に、そこからすぐにそれだけの余剰価値が生み出せるかどうか。それを今日利用する人たちに負担させなければいかぬという考え方は、さっき言いましたように会計正常化という点からいけば経済理論に乗らないんじゃないか。したがって、国がそういうふうな利用客というものを対象にした鉄道と考えないで、国の一つの総合的なものでいけば、そういうツケはやはり国民経済がみんなでしょって、時期の来るまで待つという形でやらないと破綻を来たしてしまうというような考え方ですね。  それから減価償却費というのは、これは理論的には固定資産もやはり消耗していくんだ、普通のものなら材料費を使ってすぐにそれを商品化するんだけれども、機械はそれが長年の間にだんだんいくから、それはやはり回収しておかないともとの施設を取り返すことができない。これを資本主義的ないわゆる企業会計的に考えますと、株主の資本を擁護するというのが基本だろうと思う。つまり株主は、百万円なら百万円を投資しておけば、それが常にそこに百万円という価値がもし解散したときに回収できるような価値があるんだということで安心して投資しているわけですから、そのためには機械の摩耗した部分をやはりそれだけキャッシュにしてペンディングしておく、こういうことが一般の企業会計上の減価償却の理念だ。ところが、これと同じような考え方国鉄経営の中に長期的に見ればやはり必要だ。これは言うまでもないことです。それは個人企業でも国鉄でもやはり減価償却しないでおいたら、われわれの孫とか曾孫の代になって一度に高い運賃負担しなければならないから、それはやはりいまのうちにやっておく。しかし国鉄の場合には、そういうものをもって施設の取りかえとかこういうものにやっておるわけですね。ですから、原則的にはやはり減価償却というものは合理的な制度で、やっておく必要がある。ですから、これは利子と違いまして、現実に減っていくわけです。  だけれども、そこでもやはり新幹線や何か大きいものをどんどんつくれば、そこに大きな施設について未利用の部分の減価償却まで計上しなければいけない。やはり同じようなものがある。しかしこれは国鉄というものを非常に国家的な福祉増強手段として使うならば、やはり未利用の部分があっても、先行投資でやって、そうしてそこにむしろ逆に需要を誘発して、それによって国民が潤うという点からいけば、これもツケの点からいけば利子と同じような考え方で、これを国鉄だけにその福祉費用しわ寄せさせて、赤字赤字だ、これを運賃上げて努力してやれというような考え方では、やはり合理性に欠ける点があるのじゃないか、こういうふうに思います。
  24. 角本良平

    角本参考人 今度はまた少し奇抜なお答えを申し上げます。  国鉄の客貨のそれぞれの原価を計算できないということを、私は共通費の配分方法がないという意味で申し上げたわけであります。もちろんある価値判断をおきまして、列車キロで配分すべきだということで皆様がいくんだとお決めになれば、それはそれで一つ方法であると思います。ただ私は、それはそう言った人の判断でしかないと思います。他人がそれを認めないと言えばそれまでであるということであります。バス会社がバスに経費がこれだけかかっていると言う意味と違うわけであります。したがって、面接貨物に幾らかかっている、これはある程度は計算できる。しかしながら、それも厳密に言いますと、武蔵野線をつくって山手線を緩和した、その分は旅客に負担させるべきだという種類の計算は、これは大変むずかしいと思います。そういうむずかしさを計算技術上含んでいるということにおきまして客貨の計算はできないということを申し上げたわけであります。  その次に、貨物運賃あるいは貨物運賃と貨物輸送の関係はどうあるべきかということにつきましては、実は貨物運賃は旅客運賃よりも最近十五年間はるかに抑えられております。貨物運賃を抑えてきたにもかかわらず、あるいは逆に言えば利用者にとっては有利な条件が設定されていたにもかかわらず貨物が伸びなかった。大企業のために貨物運賃を抑えたか、だれのために抑えたか、私はそれはわかりません。わかりませんが、米の値段も恐らくセメントの値段も運賃としては抑えられてきているんだと思うのです。米もセメントも運賃の抑制の恩恵を受けている。その状態におきまして、なおかつ貨物輸送量が伸びなかったという事実を考えてみれば、鉄道の貨物輸送の使命というのがだんだん終わりに近づいてきているということだと思います。よく公共交通の再認識とかエネルギー上トラックよりも鉄道がよいというようなことが言われますけれども、現実利用者は余り鉄道を利用したがらない。この状態におきまして運賃をどうするかというときには、二つ考え方がございます。一つは、少なくとも貨物が直接必要とする経費を支払う限りにおいては、貨物運賃を安くしておいてできるだけ貨物を鉄道に運ばせた方がよいという考え方、恐らく過去におきましてはそういう思想があったと思います。いま一つ考え方は、一体東海道あるいは東北線、高崎線の能力がもう限界まで来ているという状態におきまして、旅客は寝台券が買えなくて困っている、あるいは通勤列車が満員で困っている、この状態におきましてもっと旅客をふやした方がいいんじゃないか、貨物はそんなに押しかけてもいないし、ふえもしないんだから、国鉄は貨物輸送をこの際やめたらどうかということであります。私個人は、国鉄は貨物輸送をやめた方がよいと思っています。もちろんこれには例外がございます。それは、たとえば山奥から石灰石を港まで運ぶというような、非常に大量の貨物をまとめて毎日運んでいる。国鉄の貨物輸送にしろ、旅客輸送にしろ、鉄道がすぐれているのは、大量の客貨を定形的に、しかも継続的に運ぶこの場合だけでございます。ですから、国電がもうかっているというのも、要するにこの条件に合致しているからもうかっている。東海道新幹線もそうであります。これから外れた国鉄あるいはすべての鉄道経営が維持できないはずであります。そのような意味からいきまして、この運賃をこんなに抑えておいてさえも利用が伸びないような鉄道貨物輸送であれば、国鉄原則として貨物輸送から手を引くというのが、私は将来の方向ではなかろうか。そのように考えてまいりますと、むしろこの際、鉄道の貨物運賃は皆さんからは赤字であるという疑いが持たれておる、私はその証明はついていないと思いますけれども、世間一般がそう思っておられるならば大変幸いなことでありまして、赤字だと皆さんが言うんですから大いに運賃上げたらいいんです。大いに運賃上げまして、大企業に奉仕している国鉄ではないということを実証すればいいんです。それを実証した上で、貨物はうんと減ります。減ったのは全部トラックで運んでいただく、トラックはそれくらい十分運べる能力を持っているわけです。その能力を利用して、そのかわり残ったスジは、スジといいますか、線路容量の余力は旅客列車を走らせる、これが今後の国鉄の行くべき方向ではなかろうか、私はそういうふうに考えます。
  25. 増岡博之

    増岡委員長 梅田勝君。
  26. 梅田勝

    ○梅田小委員 日本共産党の梅田勝でございます。本日は、三人の先生方から国鉄財政再建についての独特の御意見を拝聴いたしまして、ありがとうございました。  いろいろ問題が出ましたが、運賃決定のあり方につきましても大変重要な問題提起がなされました。角本さんは、運賃はもはや議論ではない、価値判断の問題であり、企業の自主性に任すべきだ、あるいは中島参考人は、国が抑制した場合にはそれを国が支出をして、その分について国会は審議をすべきである、このような御意見であったと思います。私どもは、こういった問題につきまして、国有鉄道という国の責任にかかわる経営だという点におきまして、国民主権の立場から、当然財政、予算というものは国会でも審議される、当然運賃も専売事業と同じように国会で審議される、これは財政法の定めでもあるわけでありまして、決して国鉄運賃法だけの問題ではない。だから、国の経済政策全般にかかわる重要な問題として、従来からそういう公共料金といいますか、国が決定し、あるいは認可するような、国の経済の根幹にかかわるような経済政策は当然国会において審議すべきだ、こういう立場をとってきたわけであります。しかし、いろいろ議論があるわけでありますが、結局、私は考えますのに、国鉄運賃問題というのは、せんじ詰めますと政治問題だと思います。現在のわが国の政治のあり方というものが、共産党の考えによりますと、アメリカと日本独占に奉仕をする政治だと、そこからインフレ政策も起こるし、またモータリゼーション政策等も起こってきた。ですから、したがって、運賃問題あるいは国鉄財政再建問題は、当然政治問題として考えなければならない。となりますと、この国鉄運賃問題を企業の自主性に任しておいていいものかということに当然なるわけですね。そこで私どもは、必要なことは国の助成あり方というものを明確に定めるということが大切ではないかと、ここが一番中心じゃなかろうかと思うわけです。その点で、増井参考人にお伺いをいたしますが、あとのお二人の先生方はかなりはっきりおっしゃっておりますのでもう聞く必要がないと思うのですが、増井先生は、政治的配慮は後にすべきだというような御意見ですね。私は、それは逆に先に来るべきではないかと思うのですが、小刻みの変化を認めるとおっしゃっておりますが、その点につきましてもう一度御意見をお伺いしたいと思うのです。  それから二つ目は、三人の参考人の方々にお伺いいたしますが、インフレの問題であります。  先日、全国の消費者物価指数の先行指標となる東京都の区部における五月度の消費者物価指数が発表されておりますが、前年同月比が一四・四%の上昇であり、前月に引き続いて非常に大幅な上昇を続けておるという報道でございます。これは、いろいろ中身を見ますと、ある部分は、たとえば野菜なんかは一〇%近い、たった一月で急激な上昇、季節的な変動もございますが、非常に庶民に与える影響というものが大きいわけですね。この傾向というものは御承知のようにずうっと続いております。そうなりますと、国鉄財政再建計画というものは十年という長期を見通してやってきた。それが御承知のように初年度において破綻をして三年において見直ししなければならない。先生方のお知恵も拝借しなければならぬということになってきた。そこで、こういう長期計画について破綻した原因をどのようにお考えになっているかということを、時間がございませんので、ごく端的にお答えをいただきたいと思います。  それから三つ目に、国鉄財政が急速に破綻をしてきましたのは、御承知のように、昭和三十年代に入りましからのいわゆる高度成長というものに呼応して設備投資がかなり急速に進行したということでございます。この点について私どもは、国の財産になるわけでありますから、そういう基礎部分というものは国の出資で賄うのが当然だという考え方を出してきたわけです。これにつきまして中島参考人は、公費助成の歯どめの基準が必要だというようにおっしゃいましたが、その点でさらに突っ込んで、どのようにお考えになっておるのかということと、増井参考人はいわゆる長期債務はたな上げというようにおっしゃいましたけれども、大体借金ができてきたのはそういう事情からできてきたと思うのですが、その点で設備投資についての考え方をいま一度明らかにしていただきたいと思います。  以上でございます。
  27. 中島勇次

    中島参考人 まず第一点の、国鉄のこれまでの再建計画が破綻した原因は何かというようなことが中心だと思うのですが、私は一番根本原因は、国鉄再建計画を立てて議論をしている時期とスタートする時期とのずれが長過ぎた、これが一つですね。それからもう一つは、計画どおりに、つまり議論したときの計画どおりに、考えどおりに計画が実施されてないじゃないか、この二つ。  一つは、いわゆるオイルショックというああいう問題はだれも予期していなかった。世界じゅうだれも恐らく——アラブの王様たちはどうか知りませんけれども、ほかの人たちは予期していなかった。それを再建計画の中にこれは織り込めない。     〔増岡委員長退席、兒玉小委員長代理着席〕 ですから、ほかにもいろいろ理由はあると思いますけれども、何といってもやはりあれが一つの客観条件を欠いたもの、これが一つある。  それからもう一つは、運賃値上げをやはり計画どおりに実施するということで一応そろばんを立てていたのを、その実施時期をずらしたということ自体でまず一つのつまずきがあるし、それが非常に次々やはり波及をして全体の計算が狂った、これが一つあると思うのです。  それから、やはりそのときの考え方に、国鉄財政再建というのはどういう意味か。つまり国鉄の帳じりが合っていけばいいんだという基本的な姿勢があったと思うのです。しかし、こういうインフレを通り抜けてみると、やはりそういうことは非常に無理なんだというような反省がされなければいけない。そこにこの原因というものをそういうふうに分析して考えていかなければいけない。  第二番目に、公共助成の限界ですね。私は、これはたとえ資本主義であろうが社会主義であろうが、やはり人が集まってお互いに分業で仕事をしている限りは、お互いに自立経済という経済原則は守らなければいかぬ。これはソビエトでも独立採算制というもので、どんな企業でもやはり日本国有鉄道と同じような精神を基本にしてやっているわけですから、そういう意味からいけば、できるだけ自主性でいく。しかし、それを侵す範囲内で公共助成する、要するに自立性を政治的に抑制するならば、抑制する分をやる、それが限界だ。ですから、限界はむしろ国鉄公共性を押しつける方に限界があるんだ。だから、それをもっと広げようとすればそれだけ助成する、こういうことだと思うのです。  時間がないそうですから、不十分ですが……。
  28. 増井健一

    増井参考人 一つ国鉄に対する公共助成意義意味でありますが、国鉄というのは、とにかく社会政策の大きな役割りを演じているわけですから、政治的な配慮によって、たとえば社会政策目的あるいはいろいろな目的をその中に織り込んで、国鉄の目をそちらに向けていこう、あるいは国民、人々の選択をそちらの方に向けていこうということは、これは当然あっていいことと思います。ただ、恐らく、結果として私が考えていることは、先ほど角本さんもちょっと触れられましたけれども、たとえばそういう社会政策的目的国鉄運賃政策を通じてやることが果たしてどれくらい認められるであろうか。むしろ、たとえば私は社会保障ということも考えるのですけれども、社会保障であればずばり社会保障の費用財政支出からすればいいんで、それを国鉄運賃を通じてやろうというのは非常に間接的であるし、かたがた定期運賃にしてみますと、その定期の利用者というものは非常にある種の人々ですよね。それがたとえば弱者がぴたりそれに当たるかというと、それになかなか当たらないわけです。ですから、私はお話しの趣旨はごもっともだけれども、具体的に鉄道運賃を通じてそれをすることの範囲というのは、実はそれほど多くはないんじゃないか。それはむしろ全体の財政政策の中でやられる方が本筋ではなかろうか。  それから二番目の設備投資にからめてさっきのたな上げ問題をどう考えるか、私はやはり梅田議員のおっしゃったことも、確かにそういう面もあるんで、つまり国鉄経営の破綻というのには国鉄自体の責任というよりは、どこというふうには言いませんけれども、政治、経済的ないろいろな施策の結果がこういうことになってきたという面は確かにあると思います。そういう意味で、特にその結果のいわばしわ寄せの表現である赤字、これは先ほど中島さんが言われたように、今後の合理的な経営のためには思い切ってこれを切って捨てる、たな上げするということが必要であろう。ただ、私は、姿勢としては鉄道債券の例で申しましたように、資産に見合う負債、これは資本、必ずしも国の元入れでなくて、いわば内部資本に準ずるような鉄道債券というものはむしろあってもいいんじゃないか、私はそういうふうに考えます。
  29. 角本良平

    角本参考人 インフレと国鉄財政再建の長期計画の可能性という関係でございますが、私は十年であるか十五年であるか、そういった時限の問題の前に、国鉄財政再建を考えること自体が大変間違っており、不可能の問題をもっともらしく答えを出していると思います。  今日、自動車の普及したことが政府がしたことかどうかということについては、これは先ほど申し上げたように人間は欲のかたまりでありまして、自分の足がもっと便利になればいいんで、世の中偉い人から順番に自動車に乗っているわけです。偉い人だけが自動車に乗って、国民が自動車に乗るのが悪いというような考えをするんであれば、これは非常なファシズムだ。ですから、そういうファシズムの物の考え方に対しまして、われわれは自由を維持しなければいけないということであります。これはどこの国でありましても、自動車をみんなが欲しがっているわけです。その事実は政策以前の問題。その政策以前の事実を前提にしましてものを考えていきましたときに、国鉄といった組織は永久に独立採算運賃で収支均衡という意味独立採算は不可能であります。これは他の諸国がすでに立証していることであります。それを可能であるかのごとくに計画を立てることは、即刻おやめになった方がよいというのが私の意見であります。
  30. 梅田勝

    ○梅田小委員 時間がございませんので……。どうもありがとうございました。
  31. 兒玉末男

    ○兒玉小委員長代理 松本委員
  32. 松本忠助

    ○松本(忠)小委員 兒玉小委員長代理に申し上げますが、自民党の委員がおらぬ。参考人の方々非常にお忙しい中を長時間にわたってお席に着いていらっしゃって御意見を述べていただくのに、大変失礼じゃないかと私思います。今後、このようなことのないように、見玉小委員長代理から増岡委員長にとくと伝えていただきたいと思います。  私から参考人の先生方にお伺いすること、お一人一点だけにしぼります。  中島参考人に伺いたいことは、先ほどのお話の中で、地方公共団体に対する固定資産税というお話が出ておりました。市町村納付金について触れられたことと思います。人件費も払えないような状態である、こういうときであるからやめろ、こういう御趣旨と思いますが、受け取る側の個々の市町村側からいたしますと、やはり大きな財源でございます。これがなくなりますとやはり地方の市町村としましては大変困る、こういうふうに思います。かつて私この問題についてやりましたときにも、自治大臣はこれは絶対に受け取らなければならない、こいうことを言っておりました。したがいまして、これをやめろというからには国がかわって払えというのか、その辺のところをお伺いいたしたい。  それから二番目に増井参考人に伺いたいわけでございますが、先ほどいただきましたプリントの中の「4、交通構造の現状をふまえての国鉄運賃についての考え方」の「(1)その前提条件」の中に「経営のひきしめ」こういうことがございます。かつて丹羽運輸大臣が運賃値上げ問題を提起しましたときにも、国の助成あるいは国民負担と申しますか、運賃値上げに協力してほしい、国鉄企業努力、こういうことを言われておったわけでございます。ここで経営の引き締めということは、私なりの考えでございますが、企業努力が不足している。親方日の丸というところから来るところの企業努力、こういうものが不足しているというふうに考えるわけでございますが、これを具体的にどう企業の引き締めというもの、経営の引き締めというものをなさろうとするのか、その具体的な方策をお聞かせ願えればありがたいと思います。  三番目に角本参考人でございますが、定期の割引は不都合ではないかというお話がございました。これはやめろという御趣旨と私拝聴しておりましたが、久保委員の質問に答えて欧米の地下鉄の例を引かれてやめるべきである、こう言われました。私もその意見もわかるわけでございますが、ところで学割の方は一体どうするのか、この点についてお答えを願いたい。  以上三点だけお願いをいたします。
  33. 中島勇次

    中島参考人 地方に払う固定資産税ですね。それは私の申し上げている趣旨は、国がかわって国鉄にそれを納めるという意味ではなしに、国が地方税制を見る段階で見るべき財源であるということです。国鉄に対する公共補助でなしに、国がむしろ地方財源として見てやればいいので、それを何も国鉄が、運賃収入固定資産税さえもようよう払えるか払えぬところもあるわけですから、そういうことをやるのは会計正常化あるいは運賃制度における合理性を曲げるものではないかという意味です。
  34. 増井健一

    増井参考人 経営の引き締めというのは漠然とした言葉で、私もしかし具体的に項目を挙げてこれこれというふうにちょっと申し上げかねるんですけれども、やはり私は一面国鉄が、再建という言葉を使うと角本さんからしかられるかもしれませんけれども、何とか運営が続けていけるように、その意味債務のたな上げその他助成、国家補償ということを強調するわけですけれども、他面やはり国民の納得を買うような合理的な運営の仕方をしてもらう、これは必要であろうというふうに感じます。  たとえば一つ例を挙げますと、ローカルな交通、先ほど中島さんのお話も出ましたけれども、私はこれはお言葉を返すようですけれども、ローカルの交通というのはよほど慎重に考えなければいけない。つまり、たとえばちょっと話はずれますけれども、地方交通線がある。そうすると地元の市町村は確かに便利だ。いまおっしゃったように市町村納付金もあるし、安い運賃で運んでくれて非常に便利だ、これはもう確かに地元の実感だろうと思います。しかしそのために、仮にたとえば一千万なら一千万のお金が要るとする。その一千万、むしろ私は国がこれは中島参考人と同じように地元に一千万、いま過疎対策費として交付して、それを地元が鉄道の補助に使おうがほかの方に使おうが、一番合理的なことを地元に考える仕組みが大事であって、何も国鉄を維持することに固定して考えるのは不合理であろうと考えるわけです。これはちょっと例がずれるかもしれませんけれども、そんなこともひとつ一環として考えて、やはり国鉄は後で申し上げましたように市場のテストといいますか、とにかく引き合うということを私は真剣に考えてもらう。そうするためには、おのずから幹部、経営首脳陣の管理者もあるいは従業員もモラルを高めて成績を上げなければ、これは成果が上がらない。ただ私は、従業員が働いてないとは申しません。確かに労働の生産性は上がっている、外国と比べても上がっております。しかし国鉄当局が、労働能率の上昇をたとえば人トンキロというような計数ではかっているのは、私は間違いだと思います。人キロ、トンキロ足してそれで数字を出すなんということはこれはおかしいことで、そういうようにこれ一つとってみても、いかに国鉄当局が作業能率というものを本当に把握しておられるのか、したような数字を部外に出しておられるのか、はなはだ疑問に思うわけです。そんなことを含めて経営の引き締めということを申し上げたので、もう少し具体的なことをちょっとここで個条的に申し上げられないのは、はなはだ残念ですけれども……。
  35. 角本良平

    角本参考人 定期についてのお尋ねでございますが、私先ほど正確に言葉を使ったかどうかちょっと心もとないので、いまもう一度はっきり申し上げますが、私は定期券制度自体は駅の設備の関係もございますので、実態に即して定期券制度は残した方がよいと思います。ただ割引をすべきかどうかという議論につきましては、通勤者あるいは一般の旅客のいわゆる定期は、これは割引はやめる。それから学割につきましては、幾つかの種類があると思います。東京で大変目立つのが付属小学校へ行く子供でございます。こういった者の割引を何のためにしなければいけないのか。逆に北海道の山の中で小学校へ行く子供の割引がある、もしもそういうものがあれば、それは私は義務教育上、やむを得ず乗る学童については、これは国か市町村が見るという制度がよいと思います。それから各種学校というのは、あるいは大学も含めてよいと思いますが、これらは一般にはかなりの所得水準の家庭から子供が出ている場合が多いわけです。ですから原則としてやめまして、特に奨学金を必要とするような学生についてだけ定期割引の分を補助するという形、あるいは定期割引ではなしに、逆に通学用の定期券を買う、これは割引のない定期券を買う、そのお金を補助する、そういう形の方がよいと思います。したがいまして、最終的な答えとしますと、学割につきましてもしも利用者が結果として政府の補助を得るといたしましても、国鉄は普通旅客にそのしりを持っていくわけではないという形にした方がよいと思います。
  36. 松本忠助

    ○松本(忠)小委員 ありがとうございました。再質問したい点もございますが、時間がございませんので、きょうはこれで……。
  37. 兒玉末男

    ○兒玉小委員代理 河村君。
  38. 河村勝

    ○河村小委員 一点だけ、それぞれお三方にお答えをいただきたいと思います。     〔兒玉小委員長代理退席、小委員長着席〕  三十九年まで国鉄は黒字でありまして、それまでは国の補助も何にも受けていなかったわけです。もしそれから今日まで、物価政策とかあるいは選挙政策などの犠牲にならずに、一般物価に見合うような形で常識的に運賃値上げがされていたと仮定してみたならば、現在国鉄は黒字でなくても収支はペイできていたとお考えであるかどうか。角本さんの言うように、ローカル線までペイするような運賃に決めるのは望ましくないというそういう政策論は別にして、もしペイしないとお考えであるならば、その原因は何と何によるものであって、それが赤字に寄与するウエートというのは一体どのぐらいであるとお考えかということです。
  39. 中島勇次

    中島参考人 私は端的に結論を申し上げますと、国鉄が計算して運賃値上げ要請した、それがすんなりと認められていれば、一応原則的にやはり収支のバランスは維持し得たであろう、こう考えます。  ただここに一つ問題点がありますのは、戦前から今日までの三十年間を顧みますと、初めのうちはこれはインフレでとても採算が合わなかった。それが二十六年ごろからの例の朝鮮動乱のときに非常に景気が過熱してきまして、そして国鉄は不十分な輸送施設で非常に過酷な輸送をしたわけです。それで財政状態が非常によくなった、黒字になった。あのときに国鉄はやはり黒字でいけるのだなというような感じを持った。そこで日本国有鉄道法を改正して、政府物価政策なんかで抑えたときには交付金を出しますよと最初決めたのに、それを引っ込めてしまった。そして全部独算制でいきます、利益があったとき積み立てておいて損失を補償するたてまえにしますというふうに収支処理の原則を変えてしまったわけです。ところがそのときすでに問題が内在していたわけです。これは老朽施設を酷使して上げ収益であるということが十分認識されていなかった。したがって、その後さらに経済成長がどんどん伸びるに従ってどんどん投資を必要としてきた、あるいは近代化してきた。ただ、そのころはまだそういったような利子負担とかいうようなものが国鉄財政を強く圧迫するほど出ていなかったのですけれども、私も当時国鉄の経理局におりまして、よくその間の計算は知っておりますけれども、私は、新幹線が開業することから国鉄財政は苦しくなるよということをいつも述べていたつもりです。というのは、新幹線が開業することになるとその減価償却費がかさんでくる、運営費がかさんでくるというときに、やはりそういうようなことが内在していた。ですから、そういう要素を含んで運賃値上げ国鉄は申請してきたわけですけれども、それがやはり結果的には非常に過大だという世間の印象を受けている。というのはやはりそういったような内在する利子負担の増加、減価償却の増加等がその中に含まれていたと思うのです。ですから御質問のように、国鉄の申請したものをすんなり認めてくれれば確かにそのとおりですけれども、今回も恐らく……
  40. 河村勝

    ○河村小委員 申請というよりも一般物価と見合って常識的な線で上げていったらと、こういうことですか。
  41. 中島勇次

    中島参考人 そういうことです。しかしそのときにもかなり国鉄の申請は、総括原価を償うようにということで運賃ベースを考えるわけですから、常にそれがすんなり認められれば収支のバランスはとれてきた、こういうふうに考えます。
  42. 増井健一

    増井参考人 私はこれ、もう少し計数的に詰めないと自信を持ってお答えできないのですけれども、勘でお答えするとすれば、やはり赤に落ち込むのではないか。先ほど梅田議員に対するお答えで政治経済的なしわ寄せの面もあったというふうに申し上げたのですけれども、やはり産業構造、たとえば石炭、木材といったような大口物資、これはもう産業構造的に減ってきているわけで、仮にさっき物価の上昇に見合って運賃上げればやはり多くが内航海運なり自動車の方に逃げて採算は非常にむずかしい、ですから国鉄というのはとにかく条件的には非常にむずかしい地位にあるということを私は考えます。
  43. 角本良平

    角本参考人 いまのお尋ねにつきまして、私は四十五年くらいまでは恐らく収支を均衡させられたのではなかろうか。それ以降は赤字を生じたのではないか。これも計算をしてみないとわかりませんけけれども、また計算をしてもある程度推定を含むわけですが、理由は四十五年までは国鉄の力がまだ残っておりましたのと、それから給与べースと物価との離れがいまほどひどくなかったのではなかろうかというか、四十五年以降ほどひどくはなかったのではなかろうか。もしも今日収支を均衡させておくためには物価よりも少しよけいに上げていくということが、先ほどの人件費の比率が非常に大きくなっている現状から見まして、恐らく必要であったろう。それから投資の負担が後ほど重くなっているという点もあろうかと思います。それから客貨が運賃上げることになりまして逃げたかどうかという点につきましては、旅客は大体物価に近い線で四十五年までは上がってきておりますから、むしろその問題は貨物だけでありますから、その影響は私は比較的小さかったのではないかというふうに考えております。
  44. 増岡博之

    増岡委員長 これにて質疑は終了いたしました。  この際、参考人各位にお礼を申し上げます。  本日は、御多用中のところ長時間にわたり当小委員会に御出席をいただきまして、貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。本小委員会を代表いたしまして、厚くお礼を申し上げます。  次回は、明後十三日午前十時開会することとし、本日は、これにて散会いたします。     午後四時二十九分散会