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高山参考人 バスを
町営で
運行いたしております
御調町の
町長でございますが、
昭和四十六年の五月から
バスの
運行をしておるわけでございますが、この
運行を始めました動機、あるいはまた現在の
状況等について、お話を申し上げたいと思います。
大体
バス路線は、実は
御調町の中で
大和線というのと
大谷線という二
路線を
バス会社の方から引き継いで
町営でやっておるわけでございますが、
大和線の方は大体五キロでございます。
大谷線が延長九キロでございますが、この
バス路線は
昭和二十八、九年ごろに、現在の
中国バスの前身である
尾鉄バスというのがございましたが、この
バス会社によってこの
バス路線は開発されたわけでございます。いろいろその間に紆余曲折がございましたが、最終的に
昭和四十六年の五月で
バスの
運行をとめるというようなことから、
肩がわりをして始めたわけでございます。
御調町という町は
過疎の町でございます。
昭和三十五年の
国勢調査では一万一千六十四人という
人口でございましたが、
昭和四十五年の
国勢調査では九千百六十七人というふうに、非常に
過疎の進んだ町でございまして、
昭和四十五年に
過疎の指定を受けた町でございます。
こういうふうなことから、だんだん
人口の
減少を来たしましたのと、そしてまた御多分に漏れないような、
マイカーが非常に多くなったというようなことで、
バスの
利用者がだんだん減ってきたわけでございます。最初この
路線を
開始した当時には、朝昼晩と三回の
バスが走っていたわけでございますが、だんだんいま申し上げたような
過疎現象がひどくなりまして、中途から朝と晩二回の
運行になったわけでございます。ところが、朝晩二回の
運行でも、なお
バスに乗る、あるいはまた
バスを利用する者がだんだん少なくなってまいりました。そういうことと、それから
会社の方としても非常に
赤字が増大するというようなことから、それまでは大体七時に
出発して八時半ごろに終わる
バス路線であったものを、朝六時ごろあるいは六時前に
出発をして、六時半ごろにはもう帰ってくる。あるいはまた晩も、四時か四時半で出た
バスが六時過ぎて
出発をするというような
状況になったわけでございます。そうして、冬でございますと、暗い間に
運行をして暗いうちに帰ってくる。あるいはまた晩は、日が暮れてから出ていって日が暮れて後に帰ってくるというようなことで、時には全然一人も乗らぬというような
状況も
最後には出てまいりました。とりわけ、
バスの大きいのを通わしていた
関係もございますが、
運転手と助手をつけて、行くときも二人、帰りも二人というような
状況のこともあったわけでございまして、実際私
どもが見ても、これでは
会社の方もかなわぬなというような
感じがいたしたわけでございますが、その当時、なぜ
陸運局がそういうふうな悪い時間帯を許可したかということに非常に私
どもは
怒りと疑問を持ったわけでございます。もっと初めから始めておりますように、本当に
学校の
子供が間に合うような、あるいは
老人や
婦人の
方々が乗れるような時間帯を
——陸運局の方があえて許可をしたということに非常に
怒りを持ったわけでございますが、ただ、
路線を
廃止するということでなしに、一日二回というものを時間帯を変更することには、余り
陸運局の方も抵抗がなかったのではなかろうかという
感じがいまさらにしておりますが、これも
バスに乗らない、
バスを利用しない
一つの大きな原因になってまいったわけでございます。
そういうことから、
昭和四十六年の五月三十一日をもって
バスの
廃止を決定したわけでございますが、この
廃止について私
どもがやむなく同意しなければならなかった
理由が二つ、三つございます。
その主なものは、実は四十五年の五月の十九日に県と国から実は
僻地患者輸送整備費補助事業というもので
バスの
補助金をいただいて、
マイクロバスを一台購入したわけでございます。このときの
補助金が百二十万円、
町費の持ち出しが十五万五千円で、百三十五万五千円の
マイクロバスを買ったわけでございます。
バスを一台買いまして、先ほど申し上げた
大谷線と
大和線というのがございますが、
大和線の終点の
大和の
保育園児を町の
中心部の
中央保育所へ通わしていたわけでございます。この
バスを購入するまでは、いま申し上げたような
会社の
バスで通わしていたわけでございますが、六時過ぎには
子供が
保育所へやってくる。それから御承知のように八時半から
保育を始めますので、一時間半ほど町の方としても別な
保母を出しまして守りをしておったということでございます。まだいまごろのような大分暖かくなって、あるいは夏という時期には我慢ができますが、冬のさなかに七時から
三つ四つの
子供を一時間半も二時間近くも
保育所で待たせるということは大変なことでございます。そういうふうなことから、ちょうどいま申し上げた
マイクロバスを買いましたので、
マイクロバスでひとつ
大和地区の
子供だけ運んでみよう、そして
患者の
方々も
一緒に運んでみようというようなことから、八時に
出発して八時半に帰るようにやったわけでございます。そういうことでお年寄りの
方々からもあるいはまた
園児を持った親御さんからも非常に喜ばれてきたわけでございます。ところがその
マイクロバスを通わせることによって、
会社の
バスがなお
赤字が出だしたというようなことにもつながってきたわけでございます。
そういうことでひとつ何でも
廃止せいというようなことが、その前からもそういうふうなことになって、よけいに
会社の方からやかましく言われてまいったわけでございます。
その後実は四十六年の四月から、いま後から申し上げました
大谷線というところに
保育所を一ヵ所持っておったわけでございますが、この
保育所が非常に老朽化しまして、
保育所も建てかえなければいかぬという問題、それからもう
一つは
過疎のために
園児が非常に少なくなってまいったわけでございます。
最後、
合併する四十六年ごろはたしか二十五、六人じゃなかったかと思いますが、それに
保母を三人つけて
保育をやっていたわけでございます。議会の
方々もあるいは町民の
方々も、
大和の
子供があの
バスへ乗ってああいうふうにうまくいっているのだから、この際もう
保育所を建てかえることをやめて
中央保育所へ
マイクロバスで通わしてくれというような
要望も出てまいりました。
そういうふうなことからいろいろ
地元の
方々とも詮議した結果、四十六年の四月にいよいよ
中央保育所で
大谷地区の
子供を
一緒に
保育しようということに決まりまして、これも
マイクロバスで通わせなければ通園ができないというようなことになったわけでございますが、そういうようなあれやこれやとやっているうちに
大和も
大谷も全然
会社の車には、時間帯が悪うございますので、乗り手がなくなったというようなことから、やむなく
廃止に踏み切ったわけでございます。
そこで、いよいよ町がこの
バスを
運行するについていろいろな問題がございましたが、一番よかったというものは、
老人、
子供、病人ばかりでございますので、
地元の
方々から非常に喜ばれてきたのでございます。ただ最近になって、昔のようにもう一回昼に通わしてくれたらいいじゃないかという
要望がございますが、何といっても
赤字が非常にふえてまいりますし、なかなかそこまではいきません。でき得ればそこまで手を伸ばしてやりたいというように思っておりますが、なかなか困難でございます。
この
バスを町で運営していきまして、何といっても大きな
赤字が年々増大してまいっております。
昭和四十六年の
開始をした当時には三十九万九千円の
赤字が出ましたが、その後年を追うごとに
赤字が出てまいりまして、
昭和四十九年度の
最終見込みでは百八十万七千円ばかりの
赤字が出る
見込みでございます。そこで五十年度はいまのところ大体三百万ぐらいは
赤字が出るのじゃないかというように
考えております。と申し上げますのは、
バスがだんだん古くなってまいりまして、この補修についても四十九年度で七十三万円ほどかけましたが、今後はもっともっと
修繕料というようなものもかかってくるだろうというようなこと、あるいはまた
人件費の
高騰、
物価の上昇というようなもので大体三百万ぐらいは要るのじゃなかろうかというように
考えているわけでございます。
それともう
一つ一番大きな私
どもの心配がございます。そのことは、もし
万が一事故があった場合にどうするだろうかという
悩みでございます。いま
保険に入られるだけ、対物、対人、あらゆる
保険にぎりぎりいっぱい入っておりますが、それでも
万が一事故があった場合には町の運命も左右されるほどのことがあるのじゃなかろうかということを常々
考えておりますが、このことが一番大きな
悩みでございます。
そこで結果的なことを申し上げますと、何といっても
バスというものはもちはもち屋で
バス会社に運営していただくことが一番いいことだと思っておりますが、結果から申しますと、いま申し上げたように
バスをやめさせるように
会社が仕向けてきたというような
感じがいたしております。何とかしてまた
会社にこれを復元していただくようにお願いしたいものだと思っております。
それともう
一つは、
会社の方の側としてもあるいはまた
労働者の
方々にしてもあるいはまた私
どものような
自治体にしても、三者ができるだけ譲り合って
合理化する中で、
バス会社の方もあるいはまた
労働者の
方々も町の方もみんながよくなるのじゃなかろうかという
感じがいたしております。実は
御調町の中には
バス路線をこのほかにまだ五
路線持っておりますが、全部
中国バスが運営しております。そのうちの三
路線はやはり
赤字であるようでございます。二
路線だけがどうにかこうにか一どうにかこうにかと言うよりはこれは相当な黒字になっているのじゃなかろうかと思っておりますが、その
赤字路線について
昭和四十六年からできております
地方バス路線維持特別対策集約路線維持費の
補助金として約百万ほどこの三
路線に対して出しております。こういうものを国や県で出しておるわけでございますので、この
路線も前に復元していただいて
一緒のような取り扱いをして、みんなでそれを補っていくというようなことにしていただきたいことが最も望ましいことじゃないかと思います。
それからもしそういうことがなかなかむずかしい、あるいはできないということになりますと、いま申し上げましたように本年度大体二百万近く、あるいはまた来年度は三百万近く
赤字になるだろうというような
感じがしておりますので、この
路線の
赤字についても、何とか国あるいは県が
補助を出していただくように、
会社の
路線だけでなしに、町でやっておりますから、町には何もございませんが、少なくとも三分の二
程度の
補助金は出していただかなければ、今後の運営がよりむずかしくなっていくのじゃなかろうかというように思っております。一応私の
意見を終わらせていただきます。(
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