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志苫裕君
大蔵省の
答弁は経済価値の検討というものが具体的になされなければならぬという
答弁でありましたから、それはまた若干これに触れて後ほど言います。
ぜひ、
一般論として、私は河川が所有権その他財産権の対象にならない、こういう
考え方で、しかし、それは旧法にそういう
規定があって、新法にそういう
規定を除いたそのことの意味については、皆さんのほうでさまざまな解釈の本を出してますから後ほど議論をいたしますが、そういうものが登記や、あるいは抵当物件として使われることはまともじゃないし、まあ、言うならば、しゃばの常識からいってもこれはおかしいと、こう思っておるんですが、そういう
考え方もいれながら鳥屋野潟について少し申し上げようと思うんです。
鳥屋野潟については、たとえば
昭和四十年の八月の衆
議院の
決算委員会、これを皮切りにしまして、四十七年の十一月の予算
委員会、あるいは四十八年の六月の
参議院の
決算委員会等々でしばしば議論になっております。そこで私も
議員でないときからずいぶんこれには関心があったんでありますが、私の
立場を明らかにしておきますと、たまたまこの鳥屋野潟というのは私のうちの前なんです。私ほど詳しいやつはいないんです。そこで、この問題を一番最初に、おそらく、新潟県で問題になったわけですから、それを取り上げたのは私でありますが、そういう意味で、従来この問題はいわゆる利権の問題として取り上げられてきておりますが、私は同時に管理者あるいは公の団体、公の力というものがその利権を得させようとして何らかの役割りを果たしておる、そういう視点、そういうサイドからもこの問題を取り上げてまいりたい。適正に河川を管理しなきゃならぬ
立場の者が土地取得者のもくろみに加担をするような、かなえさせようとするようなさまざまな動きがあることを非常に残念に思っておるわけでありまして、そのことを以下申し上げてみようと思うんです。
お手元に配りましたから、この表は、ちょっとごらんいただきますとわかりますように、一番左の欄のほうに、各年度別に、この鳥屋野潟の土地が、といっても、この場合、私がいま対象にしているのは、ある
企業、すなわち
田中ファミリーといわれる
企業の土地がどう動いたかをわかるように書いてあります。その土地の動きにあわせて、いわゆる県とか市とかという公の団体はどのような作業をしてきておるのかということをそのまん中の欄にあらわしてあります。一番右側の欄に、それにつれて、いわゆる中の土地がどのように行ったり来たりするのかということを、わかりやすくと思いましてまとめてみたわけであります。
鳥屋野潟というのは、新潟市の市街地から南方約五キロぐらいのところにあるんです。新しく新幹線駅等が今度できますから、そこから
計算をいたしますと、大体二キロから二キロ半ぐらいの距離にあるんですね。うしろに図面がついておりますが、大体周囲が十二キロぐらいでありまして、東西四キロ、南北一キロぐらいでしょうか、こういう少し細長いでこぼこした池であります。先ほど言いましたように、信濃川水系一級河川に指定されておりまして、知事管理区間になっているようでありますが、水深は、岸辺のほうで二メートルぐらい、深いところが四メートルから五メートルぐらいもあります。これは主として周辺の一万ヘクタールの農業用地のいわば配水池、一部分従来の経緯から用水にも使われておる。さらに最近は都市排水というものを相当のみ込むという機能も持っておるわけであります。所有は、全体で約百八十ヘクタールでありますが、そのうち——河川区域は百八十ヘクタールですが、管理区域は百七十ぐらいに狭めてありまして、その中の民有地が百四十、公有地が四十ヘクタール、こういうことをまず頭に入れておいてください。
ところで、この土地は、いわば沼地でありますし、荒れ地でありましたから、従来は、大所は部落の共有地でありました。この共有地等を
中心にいたしまして、
昭和三十年代に入りますとにわかに売買が始まるわけであります。そうしてここにありますように、房総観光という
会社が地元の平興産という不動産業を仲介役にしまして、いわば大部分買い占める、こういうことになるのがまず第一の土地の動きであります。そうこうして後にこの
会社は、
田中総理も衆
議院の
決算委員会で松本
議員に答えておるのでありますが、この房総観光というのは、総会屋でも有名で、あまり
たちがよくなかったらしくて、税金の納めっぷりが悪かったり、差し押えを受けたりしまして万歳をするわけでありますが、この万歳をするときに日本電建が譲渡を受けます。そこで、お手元の図面に、鳥屋野潟の図面と同時に、私、陸上部分にまるく線を描いた場所を置きました。これが約十五ヘクタールの面積を持つ蓮潟という池であります。昔池であります。この蓮潟を含めて鳥屋野潟の相当部分を日本電建は房総観光から譲渡を受けるわけであります。それが三十六年の九月でありますが、そして一年
たちました三十七年までに、蓮潟の部分は埋まっておったわけでありますから、日本電建は、この蓮潟の部分を三十九年国体を目ざして運動公園その他の施設を必要としておる新潟市及び新潟県に売りつけたわけであります。実は、ただ売った買ったならそうは問題にならないかもしれない。この約三万ないし四万ヘクタールの用地を必要として、当時新潟市はこの蓮潟から約二キロくらい離れたところに農民と相談をして三万ヘクタールの農地をいわゆる公園敷として確保をしておったわけであります。これがあの当時の金で——
表現ですから、反八十万円でありますから、坪にいたしますと二千七百円。二千七百円でここから二キロくらいのところに新潟市は地元と協議の上三万ヘクタールの用地を確保をしておって、その協議がととのったのでありますが、さっぱり音さたがその後ない。しびれを切らして役所のほうへ出かけていったら、ああ、あんたのところはやめて、ここを買うことにしたよというのが蓮潟であります。その蓮潟の値段は、坪にいたしまして五千三百円であります。二千七百円で協議がととのったところを破棄をして五千三百円の、言うなら沼の埋め立て地を買うことになったというのがまずミステリーの始まりなんであります。
そこにありますように三万七千坪、二億百六十六万四千三百七十四円で県及び市に売却をいたしました。それと前後いたしまして、この日本電建はその辺を所管をする亀田郷土地改良区に対して、蓮潟を埋め立てたいという了解を求めました。それはたいへんだというので、亀田郷土地配良区が
中心になりまして、鳥屋野潟湛水排除協
議会というものをつくって、電建の埋め立て申し入れには反対であるという運動を展開をするわけであります。
そしてこのときの十一月の二十六日に知事、土木部長、河川課長、こういう者を相手にして湛水排除協
議会の諸君が反対交渉をするわけであります。ここで知事は、詳しく聞いておらぬが、埋め立てが来たらおれは認めない、こういう発言になりますので、しばらくさたやみになるわけであります。
そうしますと、左を見てください。電建は、
新星企業に土地の身柄を移すわけであります、売買であります。しかし、このときには農地法四十二条の条件づきがありますから、登記はその部分についての約十八ヘクタールぐらいはおくれるんでありますが、いずれにしても売買が行なわれました。これが五月。そこへ運がいいのか悪いのか——運が悪くでしょうか、新潟地震が来るわけであります。新潟地震が来ますと、特にゼロメートル地帯一万ヘクタールのうち、六千六百ヘクタールがいわばマイナス一メートルという周辺地域でありますから、どうしても排水問題が大問題になってまいります。そこで震災復興計画で、これは農林省にも後ほどお伺いいたしますが、いわゆるとりあえず農林省の査定としては従来の排水路をいわば排水能力を強化するために災害査定が行なわれました。ところがそれが急遽変更になって排水路を別のところにつけかえて排水能力を強化をすることにいたしたわけでございます。わかりやすく言えば、水をよけい吐きますから、この潟が幾らか干上がる可能性が出てくるという
状態をつくったわけであります。
さあ、そうなってまいりますと右側の欄を見てもらいますとわかりますように、この作業が延々半年以上続きますけれ
ども、埋め立てのうわさが広がります。民有地の売買が活発になります、池の中の。そして埋め立ての測量地図が全部回りました。この地図は私持っています。そしてその埋め立ての部分について具体的に一こま一こま区切りをつけて売買が行なわれています。まだ池の中ですよ。しかも地震で治水の機能を強化をしなければいけないといっているときに、池を狭める話が大っぴらにまかり通るという状況が生まれてくるわけであります。そして四十年にこの震災復興計画がほぼまとまりましたので、県
議会に出てきたところで大問題になるわけであります。これが政治的な意味ではあれでありますが、それが四十年でありまして、ここですったもんだのあげくに知事は、埋め立てはしない、そして満々と水をたたえた水辺公園として整備をしたいということをついに県民に約束をすることになるわけであります。
このことについては、私は後ほど申し上げますが、この四十年八月十日の衆
議院の
決算委員会において、農林省の大
和田農地
局長をはじめとして、この池を埋めることは絶対にない、
考えもつかない、こういう
答弁をしばしばいたしておりますので、知事の
答弁とあわせて、この池はまず埋まることはあるまいという印象になるわけであります。しかし知事が水辺公園として整備をしたいというその
答弁をしたことがいわば発端になりまして、鳥屋野潟観光開発計画というものが策定をされまして、四十一年に観光開発計画がいわばでっち上げですけれ
ども、早々の間にでき上がるわけであります。しかし、その計画案の中には潟の水面を一坪たりとも埋める
内容が載っていないわけであります。潟を埋め立てるという可能性がないときには一切の動きがとまるわけであります。そして四十六年までしごく平穏に世の中は進むわけでありますが、四十六年になりますと、四十一年に鳥屋野潟観光開発計画案というものがあるにもかかわらず、そのことには何にも手をつけないまんま、新しく新潟県は信濃川鳥屋野潟開発プロジェクトチームというものを発足させて、三カ月間にこの開発計画案というものを発表するわけであります。この作業が三、四カ月続くんでありますが、この作業が始まると同時に民地の売買が活発化をしてまいります。そしてその鳥屋野潟の眠っておる池の底の土地に膨大もない担保能力をつけるわけであります。其銀行筋がこの担保を抵当権を設定をする、数字も全部ありますけれ
ども、こういうことになるわけです。
そして四十七年になりますと、こういう案が出ます。ごらんになってください。この
新星企業はいつの間にか関新観光開発というところに土地をそっくり移すわけであります。土地を移すと県案が発表されます。このプロジェクトチームの案には、
一つの案は埋めない案、残りの二つの案は埋める案という
内容になっておる。そうしますと、すばやく土地は関新観光開発に移って、県は埋める案を採用をして鳥屋野潟観光計画を発表するわけであります。そうしますと民地が事前に動いていく、民地が動く、担保がつけられる、売買が行なわれる、県が埋める案を発表をする、こうなるわけであります。
そして四十八年にこの区画整
理事業、後ほど申し上げますが、これを公園にするには河川を公有化をしておかないと何かにつけて都合が悪い。河川を公有化をするということで、区画整
理事業の公園区域に河川区域を入れてしまいました。区画整
理事業でこの事業をやっていきたいという発表であります。区画整
理事業でとかなんとかいってわかりにくいですけれ
ども、池の土地を買うかわりに、池の一部を埋め立てて、適当な換地をしてやる。結果的には池を全部買うというのと同じことであります。こういう計画を発表いたしますが、このことが県
議会でまた問題になって区画整
理事業案というものが否決をされます。しかし一年間何だかんだと下工作が行なわれて、一年後の都市計画審
議会ではとにもかくにも多数派工作が行なわれて今度は可決になるわけであります。しかし問題が問題であるからというので、公園の区域はここですということだけで、事業認可というのは池の外側だけをもらったといういきさつになって、いま現在でいえばどうなるのかわからないという
説明になると思うのであります。こういう一連のいきさつを皆さん見てもわかる。
それから四十八年で否決をされたりごたごたして関新観光開発という
会社がやり玉にあがりますと、そろそろ人が忘れたころに浦浜開発という
会社に合併をして、登記簿を見ると関新観光開発という
会社はどこにもいなくなってしまうわけであります。さらに探っていけば何のことはない、まるまる身柄持ったまんま浦浜開発という
会社に逃げ込んでおる、こういう
状態にあります。このように、一級河川というものが、一方はこういう
企業の土地の売買の動き、大きい
企業のですね。それから公の団体、県とか市とか。県という場合には建設省もいろんな意味で協議に乗っている。農林省もいろんな意味で協議に乗っている。そしていわば国費が投ぜられていますから、これは国も一緒です。で、そういうことが行なわれると、そのことを
中心にして、それよりも少し早い
機会に土地が上がる。問題になると肝心の大きい
会社は名前を変えてしまう。こういう形でとにかく今日まで来ておるわけです。
私はこういうことをまずひとつ明らかにして——管理者は皆さんであります。もちろん知事にまかしているといっても、建設省が管理者である。それからまた農林省は、少なくともあれが農業排水の機能をずいぶん持っておるということで、たとえば災害復興計画のときなどにはむしろ農林省のほうが主役を果たすわけでありまして、いわゆるそういう公の管理に属しておる土地がこういう動き方をする。それに少なくとも役所とかそういうところがこういう役割りを果たす。意図があったかないかのことは一応別にしまして、客観的にはこのようにみごとに物語が形成されるわけであります。
まず、こういう一連の事柄について皆さんのほうで何か感想ありませんか。ずいぶんとうまくでき過ぎているとは思いませんか。このことをまずお伺いをしておきたいと思います。建設省と農林省にお伺いします。