○
国務大臣(田中
角榮君) 先ほどまあ私が、戦後三十年になりましたからまあ教育制度も考え直さなきゃいかぬということを申し上げたところまでは、どうもあなたと私との考えには
立場上の違いがあるような気がしましたが、あなたの御発言をずうっとこう聞いておりますと、やはり同じところがうんとあるということです。これは私もそういう気持ちなんですよ。実際上いって、この教育制度というのは、メモランダムケースの中で一番強いものでございましたことをお互いに知っているわけです。しかし、これではもう
日本の教育はできませんと、アメリカとは違うんですからと、ニューディールの残党がニューディールでもってできなかったものを、
日本をモルモットにしてやらせるたってけしからぬといったら、けしからぬというやつはやめろといって、幣原内閣を投げ出して教育制度を発足したことは事実でございます。そういうことでありますが、
日本人の英知はこれを消化して三十年近い間定着をさせてきた、ですから、それはそれなりに評価があります。ありますから、全部悪いというんじゃありませんが、しかし、そこでもっていろいろなものがもっと修正が加えられるとしたら、お互いに後代のことも考えながら修正しようじゃありませんか、そのいま好機だと思いますと私、述べたんです。さすがにあなたは長い教育の経験者だけあって、私は非常に教えられるものをいま覚えたわけです。小学校の中で、何でもかんでもいいからといってあれだけの詰め込みをやってはこれは無理ですよ。それはやっぱり生きるためにどうしても必要なもの、これは一年生、二年生、三年生のときに基礎をしっかりしておかないと中学にいっても、高校にいっても、大学にいっても困るものがあるんです。それは何かといったら算数であり、読み書きであり、これはもう過去も現在も将来も変わらないと思うんです。ですから、そういう
意味で、やっぱり低学年ほど必要なものだけをしぼって教えていく。だんだんだんだんと余裕が出てきたらいろんなものをこう教えていく。私はだから小学校の四年までは算数を中心にしておって、修身というものがありましたよ、善悪というものがありましたから。そういう人間の道などを中心にして教えながら、能力が出てくる、こなせると、消化力が出てきたときに地理を入れてきた、理科を入れてきた、歴史を入れてきた。そして、それから少したつと今度ローマ字を入れてくると。私はそういうことにしぼっていくということは正しいことだと思います。そういうことをやっぱり真剣に、まあ古い教育の経験もあり、そのマイナス面もよく知っておられる人たちが健在であるうちに——戦後の教育だけが万全じゃありません。これはもう一こまでしかない。ですから、いまの方方も古い教育の善悪もみなプラス面、マイナス面知っている方が健在なうちに、私はもう検討すべき段階を迎えておると、こう述べておるわけであります。まあ非常に傾聴に値する御発言だと思います。
それからいまの高等学校もそうなんですよ。実際、中学と高等学校と、大学に入った初めの二年間、何も違わないじゃありませんか。学生は勉強しないんです。そうして高校はもう全く大学の予科と同じことなんです。だから入るとまた高校の延長みたいなものが一年も二年もあるというので、これは入るまではまあしようがないから勉強する。入ったらまあ二年ぐらいは勉強しないでいいと、大体そうなんです。私、若い連中に聞いてみますと、何でこれだけ苦労して大学入って一年ぐらい遊んでるんだと言ったら、いやそれはもう去年のうちに勉強しましたからと、こういうことでありますから、ここらにメスを入れなきゃだめだ。そうすると、大学制度をどうするかという問題と、私は、高校制度というものをどうするかという問題になると思うんです。ですから、高校というものを、まあここら私の
一つの考え方でありまして、まだまだこんなもの押し通そうなんて気は全然ありません。とにかく小中学が九年になったら、その上に私は高等学校というものは、理科は理科、こういう系統に分けて、そしてきのう申し上げましたが、看護婦学校というような各種学校を高等学校の中に取り入れてしまう。そうすればもう不平は何にもなくなりますよ。実際、看護婦などというのは大学よりも一年少ないだけであると、高専と同じことですよ、やっているんですから。高校出てから三年やっておる。あと一年行けば大学の卒業生になれるわけですが、看護婦学校は三年いっても依然として各種学校の卒業生であると。そして、あなたが最後に言われた社会的な制度の中で不公平感を生んでいるから非常に不満があるわけです。これを高等学校という制度を、ただ、いままでのような何もかにも中学の延長として大学に続いている中間的機関であるというのじゃなく、ここでもってもう、少なくとももうやめても中級の技術屋にもなれるし、何にもなれるというような自信を持った高校の制度ができないだろうか。私は私なりにやっぱり二十何年間ずっと勉強しているのですよ。大学もそうだと思うのですよ。何も総合でもって二万人、三万人の中で医学部だ何部だ何部だといっておってもひまな者もあるし、毎日勉強しなかったら博士になれないという人もあるのですから、医師の免許状取れないという人もあるのだから、これは医科大学みな単科大学にしたほうがよほど進む道は明らかになる。もう青春時代でもって非常に感受性の強いときに迷いが起きないような、そういうすなおに進めるような制度というものに、やっぱり私はもう制度にメスを入れるべきではないかと、こういう感じを持っておるわけでございます。
それでもう学歴偏重というのは、これはもう明治からの学歴偏重、東大出とかもう大学出は——大学出でもありません。これはまあ私学も官学もないのですが、いわゆる元の高文——行政科、司法科、いろいろなものを取っておる者は資格者というからまあところてんでもないですが、ずっと
局長まではいくと、私大出は地方の
局長までは、まあまあ地方の
部長まではいけると、こんなのはナンセンスだと思いますよ、私は。こんなことはもうほんとうにナンセンスだと思いますが、まあそのほかに学校出なくても専検制度とかいろいろなその制度があったんですが、まあこのごろは国家試験制度が出てきましたからいいですが、この試験も受けるには、独学でやる人は非常に困難な、道は閉ざされております。私はやっぱり、それで博士になるには、昔は大学出てなくてもちゃんとした論文書けば博士になれたのですが、今度は大学出てなければ博士にしないと、こういうのだから、じゃまあ学士試験委のようなものをつくって大学を出ても学士試験に通らなきゃ学士にしないということにしようかと、大学行ってないでもってところてん式に卒業しているのもあるようですから。まあそういうことを考えるわけですよ。これは
国民のすなおな私は声だと思う。ですからあんまり学歴偏重——まあ学歴はあるにしくはない。しかし、学歴があるからといって、社会が悪いのだ、
政治が悪いのだといって、学歴の重みに泣く人をつくっておるとしたなら、それはやっぱり
政治が正さなければならぬことだと思うのですよ。
それであとは女子に対して、大学出しておかぬと嫁の行き口が悪いから、そういう考え方も誤りである。
日本人、そこらでひとつ線を引いて静かに考えるときだろうと、ほんとうにまじめにそう考えております。やっぱり人間というものは、そういう直さなきゃならぬものに対してはただ議論するだけではなく、まじめに考えていくべきだと思う。そう思います。ですから、いまでも、私はまあそういうことを強調したので、官庁などではこれはまあ官学、私学ということがないようになりましたし、特に特進といわれておった人たちでも本省の
局長になれる。これは次官の一人でも特進組でぱんと出すとね、そうすると少ししゃんとするのですがね。法律つくるよりももっと道が開ける、私はそう思っておるのです。ですから、各
大臣には、優秀な人を見つけて
局長に登用しなさい、その中で一人でも特進の次官が出るとしたら、私が
総理大臣になったなどの何百倍もその影響がある、こう思っておりますから、御声援のほどをお願いします。