○矢追秀彦君 私は、公明党を代表して、ただいま
議題となっております
学校教育法の一部を
改正する
法律案について、総理並びに文部大臣に若干の質問をするものであります。
質問に入ります前に、先日の文教
委員会における自民党の暴挙について一言触れておきたい。
本法案は、教頭法制化による学校管理体制を強化し、最近の
政府の教育反動化の傾向をますます強めているところから、
国民の
反対も強く、問題点も多いのであります。したがって、
委員会における
審議は慎重でなければならないにもかかわらず、会期末まで十日以上もあり、十分
審議が尽くせるところを、定例日以外の五月二十二日、
委員長職権により開会を強行し、しかも、わが党
委員が即時中止を要求するのを無視し、変則的な
審議を続行し、わが党への
質疑の機会をついに与えず、一方的に
質疑を打ち切り、
採決を強行したのであります。
わが党は、過去の経験の上から、終始、
発言の機会を各党に与え、民主的な
委員会運営を主張してまいりました。しかるに、これを無視し、筑波大学法に続いてまたも強行
採決を行ない、良識の府参議院の歴史にまたまた黒い汚点を残したのであります。まことに議会人の
立場として悲しむべきことであります。
思い起こせば、
昭和四十四年、大学立法の
審議の際、文教
委員会、本
会議ともわれわれは一言も
発言することができず、強行突破が行なわれたのであります。自民党の多数を頼んだファッショ的暴挙により、
国民の中に多くの
反対のある法案が次々と良識の府参議院で成立し、議会制民主主義は次々と破壊されていったのであります。大学立法強行
採決の立役者は、当時自民党の幹事長であった田中総理、あなたなのであります。今回は、筑波大学法
審議のときと全く同じ形式による強行
採決であります。すなわち、
委員会において強行
採決、そして本
会議で補足質問を行なってケリをつけるというやり方であります。これが今後常例化されるならば、幾らでも強行
採決のできる道を開いたことになるのであります。このことは、せっかく参議院の民主的改革を強く進めようと願っているわれわれにとって、まことに遺憾であります。この際、自民党総裁である田中総理に強い
反省と、今後このような事態の起こらないようにすることを口先だけでなく行動をもって示されることを強く要望するものであります。でなければ、議会は死滅し、
国民の政治不信はますます高まっていくことでありましょう。
次に、私は、
本案の具体的な問題の
質疑に入ります前に、田中
内閣の教育に対する最近の政治姿勢について伺います。
最近、
政府・自民党は、参院
選挙を前にやっきになって教育政策、教育論を展開し、物価政策、資源外交政策の失敗にほおかぶりをし、一挙に反動化への方向に進もうとしております。このことは私一人だけが主張するのではなく、多くの
国民の憂慮するところであります。筑波大学法、教頭法、そしてそれに関連した教員の政治活動
規制の問題、さらに君が代や日の丸の法制化並びに教育勅語復活の動き等々、数え上げれば枚挙にいとまがありません。そして、日教組に対する警察権の介入はそれを最も顕著にあらわしていると言えるでしょう。
まず初めに伺いたいのは、先日あなたが発表された五つの大切・十の
反省についてであります。五つの大切とは、一に人間、二に自然、三に時間、四に物、五に
社会を大切にしようと言っておられます。なるほどこれだけ見れば悪いところは一つもないでしょう。しかし、いまの子供すべてがこの五つの大切を忘れているのでありましょうか。決してそうではありません。このようなことは常識であります。問題は、こういったことができない
社会とそれを導いた自民党の政治にこそ問題があると指摘せざるを得ないのであります。したがって、この五つの大切は、子供たちに強要する前に総理みずからがえりを正してこれを守らなければならないのであります。
歴代
政府・自民党の高度
経済成長政策は、全く物が人間より優先する
社会をつくり上げてしまいました。金さえあれば何でもできる。物さえあればしあわせである。そして本来人間のあるべき姿を忘却させてしまったのは一体だれなのでしょうか。高度
経済成長は、公害を
日本全国へばらまき、人間生命をむしばみ、そして使い捨ての消費
社会をつくり、税制などに顕著に見られるように、金持ち優遇の諸制度はあらゆるところで
社会的、
経済的弱者をますます窮地に追い込んでおります。さらに、ばく大な財界からの政治献金によって政治権力をつくり上げ、大
企業優先の
社会的不公平容認の政治を行ない、差別を一そう強め、福祉政策のおくれは老後への不安をかり立て、ますますせつな的享楽主義へと多くの若者たちをかり立てております。こういった政治がどうして人間を大切にしていると言えるでしょうか。特に、田中
内閣発足以来、あなたの金融
財政政策の完全な失敗は、大
企業の石油
危機の便乗値上げに見られる
国民不在の悪徳商法を許し、狂乱物価を生み出し、ますます
国民生活の破壊を推進しているのであります。人間の生命を大切にし、安心して生活できる政治への転換をいまこそはかるべきでありますが、田中総理、あなたのいまやっている政治はほんとうに人間を大切にしておられるとお考えなのでしょうか、お伺いしたい。
第二に、自然を大切にしようでありますが、いまごろになって総理は何をおっしゃるのか。自然破壊の元凶こそ田中総理あなたであると申し上げたいのであります。あなたがはなばなしく鳴りもの入りで宣伝された
日本列島改造論をこの際はっきりと撤回を表明されてこそ、
日本の美しい自然を守る第一歩になると確信をもって申し上げるものであります。総理は、最近、少々は石油供給のめども立たないこの改造論の誤りに気がつかれたのか、それともことばの上だけで
選挙において
国民の目をごまかそうとするのか、真実のほどを私はわかりかねますが、先日、ふるさと再建十カ年計画を
提案され、
国土改造によってふるさとに住む親のところへむすこ娘たちを帰し、都会に出かせぎしている人たちをふるさとで暮らせるようにする。ふるさとには、家族や隣人を愛する心が残っている。かさかさした現代
社会を救うため、ふるさとに温存されている連帯の輪を広げようという
趣旨の演説をされたようでありますが、
日本列島改造論の上に立ったふるさと計画は、幾ら総理がうまくごまかそうとも、お金と鉄とコンクリートで自然破壊を進め、公害をばらまき、ますます物価を上昇させることは火を見るより明らかであります。これは依然としてこの十数年来歩んできた資源多消費型の高度
経済成長の道をさらに超スピードで今後とも進むことになり、決して美しい
日本列島が築かれるものでもありません。いまこそ必要なのは、発想の転換であり、新しい政治
理念をつくり上げることであります。
かつてイタリアに始まったルネッサンスは、中世の暗黒時代から脱却し、新しい時代の幕を開いたのであります。それはヒューマニズムを高らかにたたえたギリシア、
ローマ文明への回帰を目ざしたものでありました。そこには自然への愛着と人間生命への謳歌があったのであります。私は、残念ながら、田中総理の考えの中から、何らの納得できる
理念、哲学が見当たらないのであります。幾らあなたの精巧なコンピューターがあっても、幾ら強力なブルドーザーを持っていても、それを動かすあなたの哲学、
理念、そして精神構造が、
国民全体に納得され、賛意を伴わなければ意味がないのであります。いまこそあなたの得意とされる決断と実行をもって
日本列島改造論を撤回し、心から人間と自然を大切にされる政治への転換を重ねて強く要望するものであります。総理の所信をお伺いしたい。
次に、時間についてであります。時間の大切であることは当然であります。しかし、最近のスピードアップ化はますます人間
社会を忙しくさせ、ことに新幹線の出現は、便利な反面、これが
経済成長に
利用され、これを
利用する勤労者はかつての列車の旅を楽しんだ出張ではなく、仕事に縛られる忙しい旅になっているのであります。これが全国に張りめぐらされたときを考えると、人間が激しく行きかう
日本列島は、騒音公害とイライラが一ぱいであり、殺伐そのものに成り下がってしまうのであります。時間を大切にするどころか、時間に追いまくられるエコノミックアニマル
日本人に成り下がってしまうのであります。宇宙は無限であり、時間は悠久でありましょう。しかし、人生は有限であります。充実した幸福な生活こそ万人の願いであり、このための環境づくりをすることこそ政治の使命であります。
総理、あなたの
日本列島改造は、こういった意味からも、さきに述べたように、撤回すべきであります。そして老後を保障し、安心して住める生活環境をつくってこそ、時間を大切にと言える資格を備えることができるのであります。働けど働けどわが暮らし楽にならずの状態が定年後もきびしく続く
日本の勤労者の願いを一日も早く実現すべく、福祉対策の充実に力を注ぐべきであります。
次に、物を大切にでありますが、石油
危機になって初めて省資源ということがクローズアップされてきましたが、それまでは、消費は美徳と言い続けてきたのは一体だれであったのか。これを強要してきた
経済政策こそ、根本的に改めなければならないのであります。五年ないし六年使っただけでもはや部品がなく、修理することはできず、新しいものを買わなければならないモデルチェンジの横行、次々と新製品をブラウン管から茶の間に侵入させ、使い捨てを半ば強要し売りまくり、ぼろもうけをしてきた大
企業の商法、これに対する歯どめを具体的にせずして、物を大切にと言っても、それは不可能であります。そのためには、この際、モデルチェンジに対するあり方を検討し、何らかの法的
規制、さらには、耐用年数の長いものについては、税制上において何らかの優遇
措置を行なってその歯どめをする必要もあろうかと考えます。こういった点について総理のお考えをお伺いしたい。
最後に、国と
社会を大切にでありますが、以上申し上げたとおり、田中総理の政治姿勢を変えることこそ、国と
社会を大切にすることであり、総じて五つの大切は総理みずからがその責任においてやらなければなりません。総括して具体策をお伺いしたい。
次に、十の
反省でありますが、これについても、子供たちに強要する前にみずからが
反省をすべき点が多々あるのではないかと思います。東南アジア諸国の反日感情をあおる
日本の
経済進出のあり方は、一の友だちと仲よくしたろうかに当たります。大
企業優先の
経済政策は、インフレと福祉の充実を極度におくらせ、その結果、総理の言う、弱い者いじめをしなかったか、年寄りに親切にしたか、これに当たるのであります。
さらに、
国民の声を無視し、ゴリ押しに生産第一主義を一貫してとり続け、
国民に迷惑をかけ、自然を破壊し、大
企業の利益を最優先し、
社会的不公平な政治をとり続けてきたことは、人に迷惑をかけなかったか、生きものや草花を大事にしただろうか、親や先生など人の
意見をよく聞いただろうか、食べものに好ききらいを言わなかっただろうか、この
反省に当てはまるのであります。
また、特に、約束は守ったかと私は言いたいのであります。決断と実行はすべてかけ声に終わりました。物価安定については、正しいことを勇気をもって行動したろうか、これに当てはまります。特にあなたが勇気をもって行動しようとしているのは、私たちにとって求めておるものではなく、独裁政治を目ざす小
選挙区制実現であり、また、教育の反動化であり、さらに強行
採決に見られる議会主義の破壊であります。これは最後の交通ルールを守ったろうかの
反省にも当てはまると思います。
以上述べたように、十の
反省は、すなわち、田中総理あなたがまず
国民に向かって
反省を表明し、これを実行してから子供たちにこれを説くべきであります。この場においてはっきり
国民にこの点の約束ができるのかどうか、責任をもって具体的にお答えいただきたいのであります。特に、この五つの大切と十の
反省を田中版教育勅語にされようとしているのかどうかもお尋ねしたい。
教育勅語の中には「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。是ノ如キハ濁リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス、又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン。斯ノ道ハ、實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所」云々とあり、これが教育勅語の
目的であり、重要な部分であります。これを押しつけ、そして本質的に侵略戦争であった
昭和の十五年戦争に
日本国民をかり立て、多くの若き青年のとうとい生命を奪い、
国土を荒廃させ、未曾有の敗戦に
日本を追い込んだ元凶の一つに教育勅語があることは、峻厳なる事実であります。
さらに総理は、軍人勅諭までも引き合いに出されておりますが、これこそ最も危険な考えと言わなければならないのであります。私は、戦後中等教育を受けたために、軍人勅諭は全文を見たことも教えられたこともありません。単なる過去の遺物としか評価しておりませんが、今回、総理が持ち出されたので、あらためて全文を読んで驚いたのであります。すなわち、「我國の軍隊は、世々天皇の統率し給ふ所にそある。昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ、中國のまつろはぬものともを討ち平げ給ひ、高御座に即かせられて、天下しろしめし給ひしより、二千五百有餘年を経ぬ。」に始まり、「此五ケ條は、天地の公道人倫の常経なり。行ひ易く守り易し。汝等軍人能く朕か訓に遵ひて、此道を守り行ひ、國に報ゆるの務を盡さは、
日本國の蒼生擧りて之を悦ひなん。朕一人の懌のみならんや。」と結ばれております。これは、世界の平和を踏みにじり、
日本の民主主義の
発展を破壊した軍国主義そのものではありませんか。これを総理はどうしてよいと言われるのか。おそらく一つ一つの条文の一部を言われるのでしょうが、この勅諭の
目的が旧帝国憲法における天皇制の秩序と支配を維持するための
唯一の手段として大
日本帝国軍隊を位置づけるためのものであり、これによって急激に
日本は軍国主義への道を歩むことになった歴史的事実に思いをはせるとき、日の丸、君が代の法制化の考え方も含めて、戦前型に教育を戻そうとされる田中
内閣の政治的意図がありありと見られるものであります。ここに靖国神社法案強行
採決を含めて田中総理のファッショ的本質がさらけ出されてきたと断定せざるを得ないのであります。このような戦前型への移行に強い思いをはせるような体質を持つ保守政党は世界にも類がなく、いかに田中
内閣が時代錯誤であり、再びあのいまわしい暗いファッショへの道をたどろうとしていることを私は
国民とともに心から憂慮するものであります。あやまちは再びおかしてはならないのであります。総理は、これら一連の反動的
発言並びに考え方を撤回される
意思がおありかどうか、お伺いしたい。
ことに教育を政争の具にしてはならないことは当然であり、教育が国家権力によってゆがめられてきた過去の
日本を見るとき、このあやまちも再びおかしてはならないのであります。総理はあえてこの道を歩もうとされていますが、教育に政治は介入してはならないという原則を守る決意があるのかどうか、考えをお伺いしたい。
次に、徳育については、教育
基本法前文に、「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。」とあり、第一条には、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び
社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な
国民の育成を期して行われなければならない。」と明記されているのであります。さらに、小学校学習指導要領には、第三章に道徳の項を設け、第一の「目標」には、「道徳教育は、人間尊重の精神を家庭、学校、その他
社会における具体的な生活のなかに生かし、個性豊かな文化の創造と民主的な
社会および国家の
発展に努め、進んで平和的な国際
社会に貢献できる
日本人を育成するため、その基盤としての道徳性を養うことを目標とする。」とあり、第二の「
内容」として「生命を尊び、」から始まる三十二項目をあげております。これには多くの
反対があったことも事実でございますが、これでも徳育が不十分なのでしょうか。それなのに、どうして総理は思いついたようにやっきになって徳育を強調されるのでしょうか。徳育は、学校教育のみによってすべてできるものではありません。いま、金のかかる教育、入試目当ての詰め込み教育、入試地獄の解消、すし詰め教室、プレハブ校舎の解消、高校義務教育化、教員の育児休暇の実現など、まだまだ政治の力でやらなければならないことは山積しております。これに手をつけないで、政治権力によってのみ反動的な徳育強要に力を入れられるのは、党利党略以外の何ものでもなく、これこそ教育の本質をわきまえていない人間のすることであり、教育に対する冒涜であります。
ジョン・デューイ、ペスタロッチなど、生涯を教育に打ち込んだ世界の教育の先覚者は、学校教育は万能であるとは言っていないのであります。
社会、家庭における教育も重要であると指摘をしているのであります。したがって、学校教育のあり方を政治権力によって変えればすべてが解決するという錯覚であります。政治は、あくまでも、教育が自由にそして創造的、民主的に行なわれるよう環境整備をすることに重点を置き、いま生涯教育がクローズアップされている今日、さらに
社会、家庭を豊かにすることに力を注ぐべきであります。この点について総理は大きなあやまちをおかしていると考えられますが、総理の所見を伺いたい。
次に、教頭法制化法案の
内容についての
質疑に入ります。
今回の教頭法制化は、教育の本質から見た場合、本来あるべき学校運営のあり方に逆行することは明らかであります。教育の本質はすでに引用した教育
基本法前文及び第一条に明らかにされており、この万人の認める教育の
基本精神をよもや文部省は曲げることはないと思いますが、教頭法制化をはじめとする、さきにもるる述たごとく、一連の
政府の教育に対する反動姿勢はこの精神までも踏みにじるがごときものであり、この精神に反する本法案は直ちに取り下げるべきであると考えますが、文部大臣は教育
基本法の精神を尊重されているとお考えになりますか、所信を伺いたい。
わが党は、未来の
わが国を背負って立つ青少年の育成に際し、教育
基本法の示している人間性豊かな、創造性、主体性を備えた平和と正義への願いを人類の願いにつなぐ人間像を期待するものであります。このような人間を育成する教育の中枢となる原動力は教師であります。教師の任務は、何よりもまず子供、青年の人間的発達を保証するため、その学習欲、研究心を充足させることにあります。そのため、教師は、教育
内容についての学習、研究を行ない、かつ、子供の成長、発達についての専門的知識を持ち、授業を通じて子供の人間的成長、知識の修得を目ざすものであります。すなわち教師は、教育の主体的にない手であり、教師の教育活動は自身の研究に裏打ちされたものが必要であります。したがって、教師がよき教師であるためには、教育の
内容と
方法、子供の発達についての知識を裏づけられた自由で創造的な教育実践者であることが求められるのであります。ゆえに、教師には、教育の本質に即して、創造的教育実践の自由と、それをささえる研究の自由が保証される環境が絶対条件なのであります。この保証のないところに、生き生きした教育はあり得ないし、教育の進歩もあり得ないのであります。ILOの教員の地位に関する
勧告の六条には、「教職は、専門職と認められるものとする。教職は、きびしい不断の研究により得られ、かつ、維持される専門的な知識及び技能を教員に要求する公共の役務の一形態であり、また、教員が受け持つ生徒の教育及び福祉について各個人の及び共同の責任感を要求するものである。」と、教師の職務について、その対象が人間であり、人格形成途上の子供であることから、きびしい倫理を要求しているのであります。また、アメリカの全国教育協会は、教師の職業として、「専門的な知識を必要とする」「
基本的に知的な職業」など八項目にわたる条件を出し、その中でも「自律性、主体性」をたいへん重要視しているのであります。
以上述べてきたように、教師という人間が人間を教育する職業は非常に高度な専門性、主体性、創造性を要求されるのであります。ゆえに、あらゆる外的圧力を排除して、真理と普遍的価値とに子供を触れさせるために必要な専門的知識と、それに基づく判断の自由が保証されなければならないと思いますが、大臣の所信を伺いたいのであります。
本法案の教頭法制化は、この流れに逆行するものであり、そればかりか、現在の学校教育において広義、狭義の意味における外的圧力の要素があまりに多く、教師はその自由がなくなりつつあり、その傾向はさきにも述べた
政府の反動的な姿勢によってますますエスカレートしようとしているのであります。そこで教師が、自由で主体的、創造的な教育を行なう上で阻害条件となっている問題点について順次質問してまいります。
その第一は、教頭法制化をはじめとする管理体制の強化についてであります。管理体制の強化の要素は多数ありますが、代表的なものを取り上げて質問してまいります。
まず、教育行政の中央集権化による管理体制の強化であります。
昭和三十一年以前、教育
委員会は公選制であり、教育
委員は中央
政府に対しても地方の一般行政に対しても独立的な権能を持ち、たとえば県教育
委員会は学習指導要領もつくることが可能であり、教育行政は民主的に運営されてきたのであります。ところが、三十一年、強行
採決により、教育
委員の
任命制をとる地方教育行政法を成立させたのであります。以後、教育行政は
政府・自民党の思惑どおり中央集権化の道を急速度でたどってきているのであります。教育
委員の
任命制により、教育
委員が構成する
委員会の独立性は強まり、知事、
市町村に従属する傾向が強くならざるを得ず、予算、人事の面においても教育
委員会は弱い
立場となり、ひいては国の統制が地方教育
委員会まで及ぶようになったのであります。そしてあの悪評高い勤務評定、学力テスト等、多くの改悪が行なわれたのであります。文部省−
都道府県教育
委員会−地方教育
委員会−校長−教師という上意下達の官僚支配体制は、今日、教育の元凶となっておりますが、この根本原因は教育
委員の
任命制にあるのであります。私は、教育の正常化のために、早急に公選制を回復し、民主的に教育の運営を行なうべきだと思いますが、大臣の考え方をお聞きしたいのであります。
次に、学校運営上の管理体制の強化であります。これは、本法案と最も
関係の深い点でありますので、少し詳しく質問したいと思います。
先ほども申しましたように、教育の場である学校は、生き生きと明るく自由な雰囲気でこそ教師は本来の教育ができるのでありますが、このような環境をつくるために、大臣は何が必要条件と考えているのか、まずお伺いしたい。
私は、そのためには、上からの管理統制が強化されてはならないと思います。しかるに、現状においてさえも校長、教頭、教務主任などと学校内部組織が強化されており、文部省の調査によっても八、九割の学校に教務主任が置かれている実情であります。さらに、もっと激しいところでは、教務主任、教科主任を部長、課長と呼んでいるところさえもあるようであります。これらの内部組織が教育現場における職制として末端行政を推し進める支配序列となり、教師の管理が一そう強くなるおそれがあります。中教審答申には、「学校の種類や規模およびそれぞれの職務の
性格に応じて、校長を助けて校務を分担する教頭・教務主任・学年主任・教科主任・生徒指導主任などの管理上、指導上の職制を確立しなければならない。」とし、また、「研修を受けてその高度の専門性を認定された者に対して、職制と給与の上で別種の待遇を与えるような制度を設ける」としており、これに基づいて、いわゆる五段階給与体系(校長、教頭、上級教諭、教諭、助教諭)を提唱しております。これは縦系列の序列化であり、明らかな管理体制の強化であり、わが党は
反対であります。今回の教頭法制化は、この職階制の第一歩であると思わざるを得ませんが、大臣の真意を聞きたいのであります。
また、もし今回の教頭法制化が職階制と
関係ないと断言するなら、将来において職階制を導入する
意思がないことを
国民の前に明確に答弁すべきであります。
私は、教育の本来のあり方からして、教育組織は一般行政職とは異なった形をとらねばならないと思っております。教育職という特殊な職場においてピラミッド型の組織は管理、統制を強化するのみで、教育上の
効果は期待できません。専門職としての組織であるなら、スタッフ組織化を導入すべきだと思います。縦系列の組織ではなく、横に広がった組織とすべきであり、そこでは、命令ではなく、互いの
意見を交換し合い、民主的な決定の上で仕事を遂行するという形をとるべきであります。文部省の一連の教員組織に対する考え方は、あまりに強圧的、官僚的過ぎるのであります。学校教育の場においては、官僚的発想、官僚的統制は排除しなければなりません。今回の教頭法制化は、官僚的発想の最たるものであります。学校における管理者すなわち校長は、専門的知識と人格という権威によって他の教員を指導育成していくのが本来のあり方であります。しかし、現在、校長の権限は、
学校教育法二十八条に、「校務を掌り、所属
職員を監督する。」とあります。これを行政の
立場で解釈をしますと、校務の観念はきわめて広く解され、学校内における一切の仕事あるいは学校運営に関するすべての学務であるとし、教育活動に関するものまでも包含するのであります。このように解釈すると、これは文部省の解釈のしかたでありますが、学校運営全般の
業務に対する管理者監督的な
性格を付与されていることになるのであります。学校運営、管理の上で非常に強い権限を有しているのであります。たとえば、
職員会議はその学校の教
職員の
意思を決定する最高機関であるはずでありますが、実態は、一般的な傾向として、教師の自主的な
協議や運営によって進められておらず、もっぱら校長が命令したり、決定を伝達したりする便宜的な場になっている学校が少なくないといわれております。
このような傾向はますます強くなっているにもかかわらず、本法案においては、「教頭は、校長を助け、校務を整理し、及び必要に応じ児童の教育をつかさどる。」と教頭の地位、権限を明確にすることは、明らかに現行法以上に管理の強化をはかる以外の何ものでもないのであります。このような権限をバックにした校長及び教頭は、教育の本来の
目的を忘れ、教
職員の管理、監督だけに情熱を燃やし、教育
委員の顔色をうかがう小役人的管理者となってしまう危険性があります。文部大臣は、教育に実効のないこのような法
改正を野党の
反対を押し切ってまで強行した真意は何なのか、明らかにすべきであります。
次に、私は、教師がよりよい教育を進める上で阻害条件となっている二番目の問題点として、近年ますますきびしくなっている教育
内容の統制について取り上げたいと思います。
教育は、本来、教師の自由な創造性、自主性の発露によって行なわれるものであり、きびしい官僚統制のもとでは真の教育はなされないのであり、今日の学校教育の大きな欠陥となっております。教育
内容の統制には、大きく二つの問題があります。一つは、教科書の採択の問題、もう一つは、カリキュラムの自主編成の問題であります。
まず、教科書採択の問題については、
昭和二十三年検定制度施行当時、教科書の採択権は教師が持っていました。しかしながら、文部省による教育行政は、三十年代に入り、教科書の検定強化とともに教育
委員会の採択権を取り入れ、検定を強化してきたのであります。現在、検定は、教科用図書検定規則第二条により「図書の検定は、教科用図書検定調査
審議会の答申にもとづいて、文部大臣がこれを行う。」ことになっています。教科書原稿を教科書調査官と
審議会や調査員が評価することになっているが、最終的に合否を判定するのは文部省の調査官が行なうシステムになっています。そこには全くと言っていいほど、最もその
意見を尊重すべき現場で教育に携わっている教師の
意見は反映されないのであります。これではたしてほんとうの教育がなされるのでありましょうか。
教科書の採択についても、教師の参加は数が限られ、広域採択制となっているため、大半は校長、教頭、指導主事などの
意見によって決定されるのが実情であり、教師は自分の
使用したい教科書さえも自由に選択できないのであります。教科書は教育の主体をなすものであります。教科書の採択にあたっては教師の
意見を反映するのが当然であります。
そこでわれわれは、教科書の検定、採択については、教師の主体性、自主性を守り、よりよい教育を行なう上から、次のように主張します。それは、教材の選択権をそれぞれの専門家にゆだねる、教材の配列記述の
権利は中央、地方の現場の教師の
意見による、採択にあたっては教師による採択制とする、以上の点について早急に改善を行ない、よい教科書により、よい教育が行なえるようにすべきと思いますが、大臣の所見を伺いたいのであります。
また、もう一つの問題でありますカリキュラムの自主編成についてであります。現在、教師は自分の行なう授業の
内容を学習指導要領によって文部省より制約をされております。前にも述べたように、教育は、教師が主体的に、自主的にみずからが研究した
内容について自由に行ない得て初めて本来の教育がなせるのではないかと思います。文部省よりきめられた全国統一のカリキュラムにより定められた
内容で、学校教育が全国同様に行なわれていることを考えると、おそろしささえ感じます。画一的なカリキュラムで規格品的人間像をつくるのではなく、教師が互いに研究、討議できる自由な環境でよい教育がなされるのであります。
教科書の選択権もなく、カリキュラムも国できめられ、授業
内容もきめられる、そして本法案で教頭は校長とともにいま以上に監督が強化される、このような状態で教師の自主性、主体性はどこにあるのでしょうか。この点は、真の教育を実現するために、早急に改めるべきであると考えますが、大臣の所信を伺いたいのであります。
次に、三番目の阻害条件として、教師の教育活動条件の整備であります。行き届いた教育を行なうためには、教師の活動条件が整わなくてはなりません。よい教育、充実した授業を行なうためには、十分な研修、研究時間が必要であります。一説には、一時間の授業を行なうためには教師は三時間の事前準備が必要であるといわれております。
日本の教師はあまりにも多忙なのであります。学校教育は教師と子供との人間的接触の中で行なわれるのであります。にもかかわらず、最近、教師と子供との間に断絶が起きているのであります。東京都教育研究所の調査によると、高校生が学校で一番期待しているのが友だちとの触れ合いで六二%を占め、先生との触れ合いを期待しているのはわずか三%にすぎないというのであります。これこそ教育の
危機であります。だが、これは教師があまりに忙し過ぎることが最大の原因のようであります。ある新聞の投書欄に女性教師が次のような投書をしていることから見ても明らかであります。少し長くなりますが、現在の教師の実態がよくあらわれておりますので読んでみます。「夜おそくまで眠い目をこすりながらの超勤労働である。わが家は同じ職業の共働きだからつぎの朝は目を血ばしらせながら秒読みさながらの風景が展開される。出欠の記録、学習の記録、行動および
性格の記録、評定、所見、学級費会計
報告。何が何でもやらねばならぬのである。学校の
職員室は、かぜ、神経痛、頭痛、目がかすむなどで総合病院の待合室とかわりない。今日、帰りがけに子供に誘われた。『沼へ魚つりに行くんだけど、先生来ないか』ああ!あの子といっしょに遊びながら話したいなあ。」以上のような投書がありました。何とも実感のこもった投書でありましょう。これが教師の実態なのであります。
わが国は一学級当たりの生徒数が他の外国に比較して非常に多いのであります。たとえば法的基準で見ても、
わが国は一学級当たり小・中学校とも四十五人、イギリスでは小学校四十人、中学校三十人、フランスでは小学校四十人、中学校三十五人であります。生徒が多くなれば教師の負担は当然ふえてまいります。また、今回の教頭法制化によって教頭も担任につかなくなるよう修正がなされ、ますます一般の教師は負担がふえることになります。投書にもあったように、教師は、本来の職務以外に、多種の調査統計事務、集金事務、PTA事務その他の調査等、枚挙にいとまがないありさまです。このような実情のもとでは、児童、生徒の指導の
内容を高める研究、研修は望めないのであります。これには、学校運営の事務的な面の合理化、近代化が不可欠であり、さらに教師以外の
職員をふやさなければならないのであります。たとえばアメリカでは、事務
職員の数が本務教員百人に対し四十一人も置かれ、
日本の二十三人に比べるとかなり多いのであります。教師の雑務を少なくし、本来の教育職に専念できるよう、事務
職員の増大などの改革は早急にすべきだと思いますが、大臣の所信を伺いたいのであります。
また、激務のあまり、健康を害したり、からだに変調を来たしている教師が多いのであります。からだの調子が悪い場合、他の職業でも同様でありますが、仕事に全力を尽くすことができなくなり、よい教育など望めなくなります。たとえば、最近婦人教師が非常に増大しておりますが、ある県の調査によりますと、出産に際し、正常産が教師の場合六四・五%、かん詰め工八八・八%、主婦九一・〇%と圧倒的に教師の正常出産率が低く、早産及び医師の助力を要した率が異常に高いのであります。この例を見ても、教師の仕事がいかに過重労働になっているのか明白であります。人材
確保法で多少給与が上がっても、人が集まらないのは当然と言えるかもしれません。このような実態を大臣は御存じなのでしょうか。具体的な対策はどのように実施しているのでしょうか、明確に答弁願いたいのであります。
いずれにしろ、教師の働く条件はあまりにも過重労働過ぎるのであります。よい教育を行なうためには、教師にとってもよい環境が必要であります。十分に研究、研修のできる余裕のある職場を一日も早くつくらねばならないと思います。文部省としても、何らかの
長期計画を持っていると思います。学校が教師にとって健康で明るく働ける職場とすべき具体的な計画を明示してほしいのであります。
以上、自主性、創造性のある明るい自由な職場環境をつくることが教師にとってよい教育を行なうために必要な条件であるとの
立場より、管理体制強化、教育
内容の統制、教師の職場環境の三点について
質疑をしてまいりました。いずれにしろ、これらの
基本的な原因は、本法案が明らかにしているように、
政府の管理体制の強化、反動教育化がその原因となっているのであります。
教育は、
選挙目当ての対立のための政策や思いつきのものでは真の教育は実現できません。現在
危機に立った教育を救うためには、まず、
政府の教育に対する政治姿勢を変えることから始まると思います。
総理、文部大臣は、教育
基本法の精神にのっとった教育を行なうべく、私が提起した問題点を真剣に思索し、
反省すべきは
反省し、やめるべきはやめ、輝ける二十一世紀のために謙虚に教育問題に取り組んでいくべきであることを強く主張し、私の質問を終わります。(
拍手)
〔
国務大臣田中角榮君
登壇、
拍手〕