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1974-05-07 第72回国会 参議院 文教委員会 第11号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和四十九年五月七日(火曜日)    午後一時五十五分開会     —————————————    委員異動  四月二十六日     辞任         補欠選任      高橋雄之助君     若林 正武君      高橋 邦雄君     亀井 善彰君      黒住 忠行君     二木 謙吾君  四月二十七日     辞任         補欠選任      若林 正武君     今泉 正二君      亀井 善彰君     田中 茂穂君  五月七日     辞任         補欠選任      二木 謙吾君     竹内 藤男君      田中 茂穂君     黒住 忠行君     —————————————   出席者は左のとおり。     委員長         世耕 政隆君     理 事                 斎藤 十朗君                 内藤誉三郎君                 片岡 勝治君                 小林  武君     委 員                 今泉 正二君                 梶木 又三君                 金井 元彦君                 黒住 忠行君                 志村 愛子君                 竹内 藤男君                 中村 禎二君                 中村 登美君                 鈴木美枝子君                 宮之原貞光君                 矢追 秀彦君                 松下 正寿君                 加藤  進君        発  議  者  宮之原貞光君    国務大臣        文 部 大 臣  奥野 誠亮君    政府委員        人事院事務総局        給与局長     茨木  広君        文部政務次官   藤波 孝生君        文部大臣官房長  井内慶次郎君        文部省初等中等        教育局長     岩間英太郎君    事務局側        常任委員会専門        員        渡辺  猛君    説明員        厚生省児童家庭        局障害福祉課長  北郷 勲夫君     —————————————   本日の会議に付した案件学校教育法の一部を改正する法律案(第七十一  回国会松永忠二君外二名発議)(継続案件) ○公立障害児教育学校学級編制及び教職員定  数の標準に関する法律案(第七十一回国会安永  英雄君外二名発議)(継続案件) ○公立障害児教育学校に係る経費国庫負担に  関する法律案(第七十一回国会安永英雄君外二  名発議)(継続案件) ○学校教育法の一部を改正する法律案(第七十一  回国会内閣提出、第七十二回国会衆議院送付)     —————————————
  2. 世耕政隆

    委員長世耕政隆君) ただいまから文教委員会を開会いたします。  この際、委員異動について御報告いたします。  ただいま二木謙吾君が委員辞任され、その補欠として竹内藤男君が選任されました。     —————————————
  3. 世耕政隆

    委員長世耕政隆君) 学校教育法の一部を改正する法律案(第七十一回国会参第五号)、公立障害児教育学校学級編制及び教職員定数標準に関する法律案(第七十一回国会参第六号)及び公立障害児教育学校に係る経費国庫負担に関する法律案(第七十一回国会参第七号)、以上三法律案を便宜一括して議題といたします。  三法案につきましては、すでに趣旨説明を聴取いたしておりますので、これより直ちに質疑に入ります。  質疑のある方は、順次御発言を願います。
  4. 片岡勝治

    片岡勝治君 宮之原貞光君外二名の提出による学校教育法の一部を改正する法律案公立障害児教育学校学級編成及び教職員定数標準に関する法律案、並びに公立障害児教育学校に係る経費国庫負担に関する法律案質問機会を与えられましたことを感謝いたしたいと思います。  昨年政府は、予算案提出、あるいはその施政方針の中で、福祉元年ということばをたいへん使って、一時流行語になったことをいま記憶いたしておるわけであります。しかし、昨年から本年にかけて、いわゆるインフレ、物価高、たいへん異常な事態を迎えたわけでありまして、政府の言っておりました福祉元年、まあことしは、去年を元年とすれば、ことしは福祉二年になるわけでありますけれども、このことばは全く空虚なものになってしまった、こういうことが言えるわけでありまして、たいへん残念であります。その象徴と思われるような事件が最近非常にたくさん出てきておりますが、重症身障者の父といわれておりました島田療育園小林提樹園長さんがたいへん今日まで努力をして、この心身障害児のまさに救いの主としてたいへん活動されてきたのにやめざるを得なくなった、そういうところまで追い込まれてしまった。この園長さんはほんとう使命感といいますか、人間善意、そういうものに立って今日まで献身されたわけでありますけれども、しかし、そういった善意やあるいは使命感あるいは奉仕の精神人間愛、そういったものでこの心身障害者を救い、あるいはその教育に当たるということが不可能になったということでありまして、裏返せば、今日の政治貧困というものを、私はこの事件が証左していると思うわけであります。福祉元年あるいは福祉二年に至ってこういう事態が発生したということをたいへん残念に思うわけであります。私は、この法律案の審議にあたって、こういう点は、ひとつお互いに十分この現実を直視して、さていかにあるべきかということを考えていかなければならぬというふうに考えるわけであります。このことをまず冒頭、私は声を大にして申し上げたいと思うわけでありますけれども、こうした政府福祉政策貧困、そういうものについては、きょうは厚生省関係も呼びたいと思っておるんですが、後ほど来るようでありますので、そのときに、そうした政府の施策について質問をしてみたいと思うわけであります。  そこで具体的に、この法律案にかかる障害児教育問題について質問をしていきたいと思います。  まず冒頭に、これまで障害者に対する教育、あるいは障害児に対する福祉ということばの問題でありますけれども、いわゆる特殊学校特殊教育ということが言われてまいりました。政府法律の中にもすべて特殊教育あるいは特殊学級、こういうことばを使っておるわけであります。しかし、最近このことばは必ずしも適当でない、こういうようなことが言われております。今回出されました法律案でも、「特殊」ということばをすべてなくしまして、「障害児」の教育あるいはそういうことばに全部変えておるわけであります。これは単なることばの問題ではなくして、心身障害者に対する福祉教育、医療、これに対応するこの政治行政姿勢の上で、たいへん私は重大な意味を持っているような気がするわけでありますけれども提案者にお伺いいたしますが、今回これらの名称をすべて変えたというところ趣旨について最初にお伺いをしたいと思います。
  5. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 ただいまの御質問にお答えします前に、確かに片岡委員から指摘がありましたように、最近のこの新聞の社会面をにぎわしておるのが、いわゆる施設のと申しますか、障害児施設のいろんなこう問題点が非常に浮き彫りにいまされておるわけなんです。まあ、これは五月二日の朝日新聞の記事でございますけれども、いわゆる福祉元年が叫ばれたところの去年から、この心身障害児施設につとめるところ職員がいろんな理由で次々減っていっている。したがって、まあこの身障者施設では職員の確保ということもたいへんな問題だという記事が載っておったわけでありますが、単にこれは朝日だけじゃなくて、あるいは同日の毎日新聞の「訴える身障児施設」のこの調査、あるいはまた読売新聞、日経新聞等にも、それぞれが、やはり角度は若干違いますけれども、この問題を取り上げておるわけなんです。私は、やはりこの狂乱物価といわれるところの異常な物価高の中で、いわゆる特殊な法人施設をつくり、国のこの施設に対するところ補助費がきわめて少ない。そういう中で、この身障児教育のために、非常な努力を払ってこられたところのこの職員の方々には、限りない敬意を表するわけでございますけれども、いま御指摘になったように、非常にどうにもできないような状態の中で、やむを得ずこの施設の中から去らなけりゃならない、あるいは閉鎖をしなけりゃならない、こういう状態が続出しておるというこの事態は、率直に申し上げて、これはもう政治貧困だと言われても私はしかたがないんじゃないだろうかと思うんです。非常にやはり政治の舞台ではいろんな問題議論されますけれども、具体的にこういう問題に対してはあたたかい手が差し伸べられておらない。ここに私はただいま片岡委員のほうから指摘がありましたところ一つの、やはり障害児教育の問題を含めて施設あり方の問題も、われわれ政治に携わる者として、一体これでいいのか、どうすればいいかと、この課題を私は与えられたような気がして、どうしてもやはり私どもとしては、いま三つ法案提出したところの根底の中に、そのものの考え方基本としてあるんだと。これはやっぱり政治の手で解決しなきゃならないということから、この提起をされておるところの、三つ法案提出をされておるところの一番底としてあるんだという点を御理解をいただきたいものだと思うのであります。  さて質問の、障害者云々の問題でございますけれども、これは私もいま議事録をここに持ってきておりますけれども昭和四十七年の五月三十日の本院の文教委員会においても、私はこの問題を指摘したんです。特殊教育という大体とらえ方自体に、この障害児に対するところ教育あり方という問題がいびつな形でとられているところに問題があるんじゃないかと、こういうことをただしたことがあるのであります。少なくとも、やはり障害児といえども憲法二十六条に保障するところ教育を受ける権利があるし、教育基本法の第三条にいうところのいわゆる「教育機会均等」というものが厳然としてあるし、これを忠実に守るとするならば、たまたま精神的にあるいは身体的に障害があるからといって、それを一般教育でない特殊教育だという、特殊視するというものの考え方はどうだろうかと。したがって、まず積極的にこの名称から改めて、ほんとうにやはり障害児教育に対するところの取り組むところの積極的な姿勢を示したらどうかということを質問をしたことがあるのであります。   〔委員長退席理事内藤誉三郎君着席〕 いまちょうどここに初中教育局長岩間さんがおられますけれども、そのときも、岩間さんは、この問題について、よくわかりました、私どもも検討し、また、関係者意見も聞いてみたいと思いますと、こういう御答弁をされて、それから二年間過ぎておるわけなんです。したがって、後ほど岩間さんからも、その約束に沿ってどういう検討が文部省でされておるか、御答弁いただくのも私はいいのではないだろうかと思いますが、いずれにしても、私のものの考え方としては、そういう特殊視したところ扱い方では、ほんとう障害児に対するところの正しい教育というものは出てこないのではないだろうかと、こう思うのであります。これは単に名前の問題だけじゃなくて、たとえば学校教育法の七十一条を見ますと、これも特殊教育目的ということがこの七十一条には書いてありますけれども、これまた幼小中高校に「準ずる」云々と、「準ずる」ということばを使っているのですよ。私はやはりこの「準ずる」ということばにも一つの抵抗を率直に申し上げて感じている。したがって、先ほど御紹介いたしましたところ委員会でも質問をしたことがあるわけでございますけれども、「準ずる」というのは、優勝、準優勝ということばがあるように、何かやはり副次的にこの問題が扱われておる。したがって、少なくとも、先ほど申し上げたところ精神に立つならば、この学校教育法の七十一条のものの考え方というのも、準ずるのではなくして、むしろ障害児教育に対してはこういうような目的を持ち、こういう方向でやるのだということを、むしろ積極的に法文の中にも明示すべきじゃないだろうかと、さように考えているわけでありますが、いずれにいたしましても、御質問者から提起がありましたように、私は少なくとも、やはり教育というものが、しかもまた、国民権利としてある以上は、平等にひとしく受けさせるという、この機会均等ということを考えるならば、これは現在の法令特殊教育というものを積極的な意味を持たせたところ障害児教育、こう改めるべきではないかということで、法案の中の一つのポイントとして「障害児教育」とか、「障害児」ということばを積極的に打ち出しておるわけでございます。
  6. 片岡勝治

    片岡勝治君 いまの答弁の中にもありましたので、この際、文部省としてのいまの問題について考え方をちょっとお聞かせ願いたいと思います。
  7. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) ことば名称の問題が非常に大きな意味を持ち、非常に大きな影響力を与えるということは、私どももよく承知をいたしております。現在の特殊教育ということば、これは長い間私どもが使ってまいったことばで、世の中でも一般的に理解をされる、共通の理解のあるようなことばになってきておるということは事実だろうと思います。しかしまた、一つことばが定着いたしますと、それに対するいろいろの影響というものが出てくるということも事実でございまして、特殊教育ということば障害児教育というふうに改めたらどうかということは、これは確かに私は意味のあることであろうというふうに考えるわけでございます。しかしながら、たとえばろう学校あるいは盲学校というようなものが、現在ございますけれども、そこの校長先生方の御意見を承りますと、どうもろう学校ということばよくないと申しますか、変えてほしいんだというふうな意見もあるわけでございまして、また、そういうふうに一定年月たちましてなれ親しまれてくるとだんだんそのことば自体が古くなって新しい感覚にマッチしなくなる、そこで、そういう用語を変えてほしいというような要望も出てきておるんじゃないかというふうな感じもするわけでございます。障害ということば、これは精神あるいは肉体に欠陥があるというような意味であろうと思いますが、そういうふうに直接予供さん方の特徴をまとめて表現するようなことば、そういうふうなことばがいいのか悪いのか、私どもは、実はまだ自信が持てないと申しますか、いろんなところでいろんな御意見を聞いておるわけでございますけれども、まだこれだというふうなところまでいってないわけでございます。したがいまして、私ども法律の改正をたびたび御提案申し上げておるんでございますけれども、この問題には、まだそこまで熟していないというふうな感じで触れてこなかったわけでございます。しかしながら、こういうものは国民代表者でございます国会議員先生方皆さま方の御意見によりまして、こういうふうな名前がよろしいんだということでおきめをいただくということ自体につきまして、私どもは、それに対して意見を申し上げるというふうな気持ちはございませんし、それに対して、また反対をするというふうな気持ちもないわけでございます。ただ、いまのところまだその整理がついておらない、政府としてこうしたほうがいいんじゃないかというふうな自信がまだ出てこないというふうな段階でございます。ただ、障害児教育ということばがかなり一般的に普及をしてまいり、私どももたびたび使わしていただいておるというふうなことは、これは事実でございます。
  8. 片岡勝治

    片岡勝治君 私も、ことばにこだわるつもりはありませんけれども、いま提案者答弁の中にもありましたとおり、いわゆる障害児教育、従来言われてきた特殊教育というものに対しての考えというものが、若干変わってきたことは歴史的に見ても事実だろうと思うわけであります。そういう意味でこの名称を変える——それは名称を変えるということだけではなくして、障害児教育というものがいかにあるべきかという、そこに焦点を置いて、この際、ひとつ文部省においても名称もからめてもっと真剣にこの問題を検討していただきたいと思うわけであります。  そこで、これからの障害児教育がいかにあるべきかという課題について私どもが討議をする場合に、それではさて今日までの障害児教育というものは、どうだったのかということを振り返ってみることがたいへん大切だろうと思うわけであります。わが国の障害児教育は、戦前からももちろんあったわけでありますけれども、戦後この問題が大きく取り上げられてきましたのは、いまもちょっと局長のお話がありましたろう学校盲学校——ろう教育盲教育ということだろうと思うわけであります。これが義務化されたのが昭和二十三年ということになっておるわけであります。しかし、昭和二十三年に義務化されたとはいえ、毎年一年ずつ義務教育を伸ばすということ、つまり具体的には昭和二十三年に一年生に入った者が義務教育、そして昭和二十四年にはしたがってこの一年生が二年生になるわけでありますから、一年と二年生が義務教育になったわけですね。ずっと計算をいたしますと、実にろう学校盲学校義務教育化昭和二十三年に発足したとはいえ、九年間かかっておるということであります。したがって、小学校、中学校義務教育がすべての学年にわたったのは昭和三十二年ということになるわけであります。たいへんな長い年月をかけてやっとこの盲・ろう学校義務化ができたわけでありますが、その後、今日までいわゆる従来言われておった特殊教育、まあ私どもの言う障害児教育というものの義務化というものについては、今日まで放置されてきたということで、これは厳然たる事実だろうと思うわけであります。一体どうして、このように昭和三十二年以後今日まで障害者に対する教育というものが放置されてきたのか、私はたいへん疑問に感ずるわけなんでありますが、これは提案者に聞くというよりも、文部省のひとつこの際、見解を聞きたいと思うのであります。こうした昭和三十二年から今日までにおける障害者に対する教育の取り組みがたいへん消極的であった、というよりも放置されてきたと、私は言いたいところであります。文部省はいかなる見解をお持ちか。
  9. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) これは、一口で申し上げますと、それだけの余裕がなかったと申します点が一点ございます。それからもう一つは、盲学校あるいはろう学校以外の特殊教育の諸学校教育につきましてそういう経験が浅かったと、それに伴いまして教員の養成でございますとか、それから施設の拡充でございますとか、そういう点に力が及ばなかったというのが率直なところであろうと思います。昭和二十八年は御存じのとおり精神薄弱養護学校が一校しかございません。昭和三十年に肢体不自由の養護学校がやっと発足する、それから三十一年に病弱の養護学校がやっと発足する、そういうふうな状態であったわけでございます。しかし、その後、私どもでは、肢体不自由児養護学校をまず全県に普及をいたしまして、その対象である子供たちをまずその義務教育の線に乗っけていこうということで進んでまいったわけでございます。それから御存じのとおり、病弱それから肢体不自由の養護学校につきましては、その普及をはかって、いずれかの機会義務教育に乗せたいということで学校の増設に力を尽くしてきたわけでございますが、やっと昨年の十一月に政令を出しまして五年後には全部義務教育にするというふうなことに踏み切ったわけでございます。これは一つには、戦後の経済的な状態、そういうものによりまして、こういうところまで手が届かなかったというのが一番大きな理由であろうと思いますけれども、その後、そういう関係教育もだんだん開発されてまいりまして、やっと最近に至りましてめどがついたというふうなことが実態でございます。
  10. 片岡勝治

    片岡勝治君 いまのお答えは、やっぱりちょっと一つ理由であったかもしれませんけれども、もっと重大な点が欠けているような気がするわけです、いまのような障害児教育がたいへん疎外されてきたその理由としては。  昭和三十二年に盲・ろう学校義務化が一応完成をした。その昭和三十二年あるいはしたがって三十三年以降はどういう時代であったかということを、ちょっと私も振り返って見ると、岸内閣が誕生をした。そして、このときにもたいへん教育の問題が論議をされたわけでありますけれども一連のこの教育関係法、私どもに言わせれば、教育反動立法というものが行なわれた時代である。あるいは教育行政というものの反動化といいますか、支配というものが強められた時代なんですね、昭和三十三年以降というものは。教科書問題、勤評問題、あるいはいま法律案提案されておりますけれども教頭制の実施、道徳教育指導要領の改定、そして安保問題、こういう一連政治的な問題があった。しかし、同時に、経済高度成長政策というものが、それ以降急速に高められてきたということ。私は、昭和三十三年以降障害児教育というものがほとんど省みられなかったというのは、一面こういった政治行動政治姿勢というもの、あるいは高度経済成長政策というものと無縁ではないような気がするわけなんです。先ほど提案者宮之原委員のほうからも説明があったけれども、つまりほんとう教育あり方というものがだんだんゆがめられてきた。そうなると、このような障害児教育というものが疎外されてくる、軽視されてくるということに、必然的になるような私は気持ちがするわけであります。いま局長答弁にもありましたけれども余裕がなかったということばが最初出てきました。いろんな意味があると思うけれども一つには、経済的な余裕がなかったということもその理由でありましょう。しかし、考えてみると、この六〇年代というものは日本経済成長というものが非常に高かったときである。つまり障害児教育余裕がなかったということは、うがって見れば、高度経済成長というものに日本の資源が大きく傾斜していったという時代ではなかったのかということを考えるわけです。  私は何を言いたいかというと、つまり障害児教育が強く叫ばれるときは、これはみんながほんとう教育とは何かということを考えている時代であり、障害児教育というものが軽視されている時代民主教育が行なわれない、あるいは民主教育に対して大きな圧迫があるときである。あるいはほんとう教育というものが省みられない時代であるというふうに私はとりたいんです。  そういう見方からすれば、昭和三十三年以降今日までの教育行政あり方について、何かそれを裏づけるような気持ちがするわけであります。こういう見方ができるような気持ちがするんですけれどもね。これも局長もう一度この見方についてどうですか、どういうふうにお感じになりますか。
  11. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) これは先生御案内のとおり、終戦後いわゆる教育基本法学校教育法ができまして、その後に教育委員会法、それから教育公務員特例法、そういう一連の現在の教育関係法令基本になるような法令ができたわけでございます。それから、昭和二十八年には理科教育振興法、それから昭和二十六年には産業教育振興法というふうな、ようやく学校内容の充実という点に目が向いてきた。それから昭和三十三年、先ほど先生がおっしゃいました昭和三十三年には、御提案を申し上げております法律の小・中学校定数法、それから施設負担法危険校舎に関する法律、そういうものが出てまいりまして、さらに、学校教育内容の整備が大きくできるような段階になったということで、先生指摘になりました三十三年というのは、確かに一つの画期的なと申しますか、ようやくその教育が前向きに進んでいくような時代になってきたということであると思います。  その当時、特殊教育につきましては、まだ特に養護学校につきましては、三十三年には、それぞれ肢体不自由児、それから精神薄弱児、病弱・虚弱児の養護学校が十校前後できておるというふうなところでございました。これから急角度に特殊教育につきましては整備がはかられていくということでございます。確かに経済が一応安定いたしまして、日本経済が上向きになってきた、そういう時期からようやく教育の条件の整備につきましても本格的に進められてきた。特殊教育につきましても、そのあたりを起点にいたしまして、以後大きく持ってきた。そういうふうな時点ではないかということでございます。そういう意味では、先生がただいまおっしゃいましたことにつきましては、それは別に異論はないわけでございます。
  12. 片岡勝治

    片岡勝治君 ちょっと局長答弁とは全く逆な面があるんですよ。私は、昭和三十三年以降というものは、どうも教育というものが率直に言って前向きじゃなくて、うしろ向きになってきた時代じゃないか。言うなれば、支配というものが強められてきた時代だ。そういう時代には、障害児教育というものは顧みられないのだ。こういうことなんです。  これは「文部時報」、一九七二年十月号、これは文部省から出しておる。「日本教育百年」という、これは雑誌があるわけですけれども、その中に、これは日本教育百年について回顧しておる雑誌であります。その中で「特殊教育」という問題を記載されておりますが、要するに、これは国立特殊教育総合研究所長であられました辻村さんが、「教育百年の歩み」「特殊教育」「分離と囲い込みの百年」、こういう課題で、日本特殊教育というものの歴史をここに回顧して書いてあるわけです。ここにたいへん私は重大な指摘があるので、ちょっと短い文だけを読んでみたいと思うのです。全文を読むと長くなりますので途中から読みますが、「殊にすべての児童に教育機会を、という理念の下に行なわれる義務教育においては、ひとりひとりの個性と能力に応じてとか、個人差に即応してとか、いうことばがつねに歌い文句になってふりかざされていたはずである。そこでは、どんな個人差をも除外せず、無視せず、これを尊重するという看板がかかっていたはずだったのである。ところが、これを単なる歌い文句に終わらせてしまうのは、教育というものを考える場合にひとりひとりの子どもの個性を出発点にしないで、社会が必要とする人間像をさきに指定して、これを手本にしてすべての子供をこれに近づけるように仕上げよう、とする傾向が生まれるからである。この目標乃至理想像から逆算して、一年目には何々を何時間、二年目には何々と、実は虚像でしかない「平均的な児童」を想定して教育課程の基準というものを社会がきめてしまうからである。こうして平均からはずれた例外的なものには、はじめから片身のせまい思いをさせることを予定してしまうことになるからである。しかもこれを、一学級五十人という大人数で、いっせいに授業するというきわめて経済的な方法がとられるからである。さらにまた、教員の養成ということを、以上のような教育をやる人、としてしか養成しないからである。  少なくとも明治以来、戦前の学校教育は以上のべたようなものだった。そして戦後、すっかり変わったといわれる通常の教育の中で、以上の基本的性格が、はたしてどこまで、どの程度改まっているだろうか。」、こういう指摘がされておるわけであります。言うなれば、戦前の障害児教育というのは、冒頭申し上げましたように、この人が指摘された「分離と囲い込みの百年」の教育、これが戦前の障害児教育だったのだ。しかし、戦後変わったとはいえ、この戦前の障害児教育というものがどの程度改まっているだろうか、そういう疑問をいまこの人は投げかけているわけであります。そうすると、私はやっぱり、今日ようやく養護学校義務教育化されようとしております。たいへんそれはけっこうだと思うんです。戦後今日まで長い期間、障害児教育というものが盲・ろう学校を除いてはほとんど放置されてきたということは、障害児教育というよりも、ほんとう民主教育というものについて取り組む姿勢行政、こういうものが非常に弱かったということをこの人は指摘をしていると思うんです。いま申し上げましたこの人の指摘について、私はたいへん感銘を深くして読んだわけでありますけれども提案者として、この障害児教育の何といいますか、歴史を振り返ってみて、その誤りといいますか、それを今後どのようにしていくべきかということについて、もしお考えがあればお聞かせいただきたいと思います。
  13. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 いま、片岡委員から御意見をまじえた質問があったわけでございますが、私も、結論から申し上げますならば、片岡委員の御意見と全く同じような立場に立っておるのであります。それだからこそ、まず緊急の課題として、この三つ法案だけはどの党もがおそらく異論がなかろうはずだから成立をさせたい、こういう強い気持ちを持って御提案を申し上げておるところでございます。  まあ、いまも御意見があったわけでございますけれども、戦前の障害児教育は、いまの御指摘によると「囲い込みの教育」だったという表現でございますが、全くそのとおりで、何か慈善事業として、非常に不幸な子供たちだからみんなして何かを出し合ってやろうじゃないかという、言うならば、慈善事業化視されてきたのではなかろうかと思うんです。したがって、これは障害児というのは特別なものなんだという、こういうやはりものの考え方が、私は、端的に申し上げて、戦前におきますところのこの障害児教育の歴史であったんじゃないだろうかと思うんです。したがって、それが、戦後の憲法と教育基本法の中で、そのものの考え方は誤りなんだ、すべての子供はひとしく教育を受ける権利があると同時に、教育そのものも子供たちの一人一人の持っておるところの特性、才能というものを十二分に生かす、そうしてまた子供たちの持っておるところの可能性を引き出すという、この民主教育と申しますか、民主主義教育というものが基本に据えられる。したがって、このものの考え方に立つならば、たまたまからだのどこかに故障があるからとか、あるいは精神的な面でどこかに故障があるからといって、普通の子供と差別をされて教育をされなきゃならないという事態はないはずだ、そういう意味で、私は、この障害児教育というものは、教育基本法の発足と同時に、積極的に取り上げらるべきじゃなかったかと思う。ただ、それが、法律の面ではそういう面を打ち出しながら、実際のこのものの考え方あるいは行政の面では、依然としてやはり特殊教育扱いにされておったというところに、私は問題があると思う。だからして、御指摘いただきましたように、岸内閣から池田内閣、その前後からずっと佐藤内閣と続いたところの中で高度経済成長政策日本でとられてきた。その高度経済成長政策と呼応して教育の面で出たのは何かというと、これはマンパワーポリシーの教育政策ですよ。これは、当時、天城さんが次官であったか、あるいは初中局長であったか忘れましたけれども、天城さん自体の「学校経営」の中で、今日の高度経済成長政策に見合うような教育を打ち立てなければならないというのを教育あり方として打ち出されてきた。このことは、言うならば、高度経済成長政策に見合うところ教育、いわゆる人的能力の開発という面ですね。そこだけに教育というものは注がれ過ぎて、いわゆる能力の劣ったところ子供たち——この能力のあり方という意味においても私は非常に問題があると思うのでありますが、一見して障害子供たちは能力が劣るから教育はあと回しだと、こうされてきたところに私は今日の障害児教育の大きな立ちおくれがあると見ておる。そういう意味では確かに文部省説明では、現象面では養護教育施設が非常にまだ十分でなかったとか、養護学校施設が十分でなかったとか、あるいはいわゆる養護教員の需要関係で十分でなかったという点は、これはあくまでも現象面であって、私は、本質的にはやはりそこの基本的な政治姿勢というか、教育姿勢というか、そこに問題があったのではないだろうかと思うのです。それだからこそ、あなたから御指摘いただきましたように、盲・ろう学校義務教育化されたけれども、他の障害を持っておるところ子供たちは、学校教育法の中にうたわれながらも四分の一世紀にわたって放置をされているというこの事実は、やはりそこに私は起因するものだと言わなきゃならないと思うのであります。その点、私は、中教審のいろいろな問題点等、たくさんの批判を持っておりますけれども、四十六年に出されたところの中教審は、この問題については、養護学校の面についても早急に義務化をせよという方針を出しておる。中教審の答申に非常に忠実な文部省にしても、ほんとう教育という面について考えてくるならば、四十六年に出た前後にこの義務教育という問題を考えていただきゃよかったと思う。ところが、いまのお話しを聞きますと、これから五年の後に義務教育化をしたいという一つの構想でありますだけに、ここに、やはり先ほど、私は名は体をあらわすという立場から申し上げたのですけれども特殊教育じゃなくて、養護、いわゆる障害児教育としての基本をしっかり踏まえた形でこの問題に対するところの積極的なやはり意欲というものの不十分さがあったから、何としてもこれを、今度の、皆さんの御協力をいただきながら一つのやはり前進的な側面として法案を成立させたいという私が提起したところのゆえんもそこにあるんだというふうに御理解をいただきたいものだと思うのです。
  14. 片岡勝治

    片岡勝治君 そこで、今後の障害児教育の問題に入りたいと思うわけでありますが、文部省にお伺いしますけれども養護学校の義務制は五年先ですか。来年からですか、ことしからですか。
  15. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 昭和五十四年からでございます。
  16. 片岡勝治

    片岡勝治君 そうですが。これは従前は、昭和四十九年度ということを言っていましたね。そういうことを言った覚えはありませんか。
  17. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 四十九年という数字は、私は記憶がないんでございますが、たとえば、肢体不自由児養護学校は、これはほかの養護学校に先行して義務教育にしたいということで、四十二年からそういうことをやりたいということがだんだん延びておりました。そこで四十九年というふうな目標はあったことがあるかもしれませんが、私ちょっとそれにつきましては記憶がございません。ただ、義務教育にするといういわゆる予告政令、これは昨年の十一月に政府から出したわけでございます。
  18. 片岡勝治

    片岡勝治君 これは、いままでも文部省から出されているいろんな方針に四十八年度を目標に養護学校の未設置県をなくしていくと、こういうことで、私も予算について文部省質問したことがあるんです。そして四十九年度から義務制をスタートさせたいんだということをずいぶん文部省は言っていたはずですよ。
  19. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) ただいま先生指摘になりましたのは、いわゆる未設置県の解消ということで、四十九年度というようなことばを出したことがあるんじゃないかというようなおことばでございましたが、それはそのとおりでございます。ただ、盲学校ろう学校の場合には、御案内のとおり一県に一つ学校を建てますと大体該当者が収容できたわけでございます。しかしながら、精神薄弱児の養護学校等は、これは対象児が多いのでございますから、一校建てただけで、それでおしまいというわけにはまいらないわけでございます。したがいまして、盲学校ろう学校におきます設置義務というものと、それから他の養護学校におきます設置義務というのは意味が違うわけでございます。一校つくったら、もうそれで設置義務がなくなってしまうんだと、設置義務は果たしたんだというふうなことでは困るわけでございます。すべてのそういうふうな学校に収容すべき子供が全部収容されるということが必要なわけでございます。そういう意味で、従来申しておりました設置義務というものと就学義務というものを一緒に考えようじゃないかということで、昨年の十一月に設置義務、それから就学義務を五年後に一緒に発足させるということにいたしたわけでございます。
  20. 片岡勝治

    片岡勝治君 そうですが。これは文部時報第一一三一号、「特殊教育の今後の課題」ということで座談会があります。ここに見えております安西愛子委員も出席をされた座談会です。たいへん私参考になって、感銘を受けた部分がたくさんあるわけでありますが、この中に寒川特殊教育課長も出席をされておりまして、「中教審の答申を受けて、四十八年度を目標に養護学校の未設置県をなくして、四十九年度からは義務制をスタートさせていきたい」、こういうことがはっきり出ているんですが、これとは違うんですか。
  21. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 御説明が足りませんで恐縮でございますが、なお、設置義務を課しました場合に、学校が一校できるわけでございますから、かりに、一年生から義務制にいたしますと義務教育が可能になるというふうな考え方も従来持っていたことがございます。しかしながら、一年生だけを入れる学校がかりに一校できまして、それから翌年二年生まで義務になるというと、今度は、二年生だけを入れるような学校ができるというふうなことで、義務教育のやり方としてはたいへん複雑かつ現実に即さないというふうな問題があったわけでございますが、ただいま御指摘になりましたように、当時の寒川課長があるいは個人的な見解として、そういうふうなことを考えておったかもしれませんけれども文部省自体として学年進行で義務教育にするというふうな考え方を公に持ったということは一度もございません。できましたら、そういうふうな障害を持ったお子さん方を、一年生だから二年生だからということではなくて、全部一応お引き受けすると、そういうふうな体制でまいったほうがよろしいんじゃないかということで、私どもは、学年進行ではなしに一度に義務教育にしていくという考え方のもとに昨年政令を出したというふうな次第でございます。   〔理事内藤誉三郎君退席、委員長着席〕
  22. 片岡勝治

    片岡勝治君 これは座談会ですから公式な表明になるかどうかということについて若干疑問がありますけれども、少なくとも、文部省の「文部時報」に載っているんですよ。「特殊教育の今後の課題」ということで、そこではっきりいま申し上げましたようなことばを使っておりますから、まあまあ、おそまきながらと私は見ていたんですが、去年、そういう政令が具体的にどういうふうに出たのか、ちょっと見なかったものですから。そういたしますと、私は、その取り組む姿勢がまだまだたいへん弱いということをなお感ずるわけです。この座談会の主題は、中教審の答申をめぐって、さて、特殊教育は今後どのようなというような方向での座談会なんですね。  そこで、ここに出席されておる大嶋さん、この方は日本聾話学校長さんですね。こういう発言をしておるんです。中教審というのは第三の教育改革というような意気込みで答申をしているけれども特殊教育については、冗談じゃない、教育改革どころか、これでは、養護学校がまだ義務制になっていないから、義務制をぜひ何とか早くしなくちゃいけないということがまっ先に出てくるということは何とも情ないことである。こういう指摘があるんです。つまり、中教審で指摘されておるこの特殊教育というものは改革でも前進でもない、特殊教育というのは、これから手をつけるんじゃないか、こんなことで一体どうするんだ、という大嶋さんの発言なんですね。それに、いま文部省の五年先ということを聞きますと、やっぱり、文部省のこの障害児教育というものの姿勢が私はたいへん弱いような気がしてならないんです。  そこで、これ以上言ってもしようがありませんので、この中教審の障害児教育、中教審では、「特殊教育の積極的な拡充整備」という課題で載っておるわけでありますが、いま、私は、座談会の大嶋先生の発言を見て、もう一度この中教審の答申を見たわけでありますが、なるほど、特殊教育、つまり障害児教育については教育の改革でも何でもないんだ、ようやく、これから本格的に取り組みなさいという答申なわけですよ。もちろん、盲・ろうの教育については、私が先ほど申し上げましたように、これは一定の水準に達し、そして、たいへんな成果をおさめているということも私は率直に認めたいと思うんですが、この中教審の答申については、率直に言って、そのようなことを深く感ずるわけです。つまり、障害児教育については、これからやっていくんだというものが中教審の答申のように見受けられるわけであります。  提案者にお伺いいたしますけれども、この中教審の答申と、今度出された法律案との関係といいますか、そういうものについてもしお考えがあればお伺いをしたいと思います。
  23. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 中教審の答申ですが、確かに中教審全体を、私は、よく第三の教育改革だと、こう言う方がおりますけれども、とても第三の教育改革に匹敵するものではない。言うならば、やはり、第一次や第二次の教育改革があったと同じような一つ教育の展望というものを明らかにされておらないという面で、非常に問題があると思いますが、その可否は別にいたしまして、いわゆるその第三次の教育改革というものをすなおに第三次教育改革というふうに置いてみても、事、障害児教育の面で言えば、とても第三次の教育改革という名にふさわしいものかと、こう言うと、私もそうではないと思う。言うならば、あまりにも立ちおくれておったところ障害児教育、従来から言われておって、手をつけなければならなかったところ障害児教育の具体的な手だてというものを早く急いでやれ、こういう面を言っておるにすぎないんじゃないだろうかと、私はこう思うんです、この中教審の特殊教育に対しますところの答申を見てみますると。さらに、盛られたところの最終的な文書の前に、実はこういう、昭和四十四年六月にこの問題についての中間報告が出ておるんです、この障害児教育の問題について。その中教審の中間報告は、こういう表現になっている。「特殊教育は心身の障害だけに着目してその欠陥を補うという消極的な態度ではなく、障害に応じながらも人間としてのすべての能力、適性を伸ばすという積極的な態度で行なわれるべきものである。」という、いわゆる障害児教育に対するところの取り組み方を非常に鮮明に中間報告は出しておったんです。ところが、それから二年後の最終的にまとまったものは、皆さん御承知のように、きわめてまんまるしたところの形で積極的な意欲は出ておらない。言うならば、むしろ、事、特殊教育に対するところの取り組み方の姿勢としては、中間報告のほうが私はまだましだったんじゃないだろうかと思うぐらいに、これは私はやはり、中教審の答申にあらわれておりますところのいわゆる特殊教育、私の言うところ障害児教育という面は、そういう面がこれはあったのではないか、こういうように思うんです。しかも、ここに羅列されているところの点は、先ほど私が申し上げたような、いままで指摘をされてやらなきゃならなかった面を急げ急げと言ったんです。しかもまた、あえて私にこの問題について批判をさせるならば、私はやっぱり特殊教育基本という問題について、一つの大きな欠陥があるんじゃないだろうかと見ておるんです。これは皆さんのそれぞれの見解がありましょうけれども、それは何かというと、障害児教育というのは、私は、いわゆる特殊の教育だという一つのカテゴリーの中に入れて、そこでやるという教育じゃなくして、むしろ原則的には、可能な限り一般教育の中でやはりやる。ただそれは、心身障害の重度であるか、軽度であるかの違いはありますけれども、できるだけやはり一般教育の中で軽いところ障害児子供たちはやって、幼いところ子供たちに差別感を与えないという配慮、一般教育の中でこなされないところの重症の子供たちをいわゆる障害児教育のいろんな養護学校なり、あるいは盲・ろう学校の中でやっていくというこの教育姿勢の面で言うならば、残念ながら中教審の答申は、この点については明確な指針を欠いているどころか、依然としてやはり特殊の教育なんだからという一つところに押し込もうとするものの考え方は、私は一貫して貫かれているのじゃないであろうか、この点が非常に私はやはり問題点を感ずるのであります。  その点、先ほど質問者のほうから「文部時報」を提起されながら指摘があったわけでありますが、私もその「文部時報」を読ませていただきました。その中でやはり皆さんの座談の中で出ているのも、可能な限りやはり一般教育の中でこなせるものはできるだけこなしていくという姿勢こそ、障害児教育基本一つではないであろうかという意見が出ております。その事例として、たとえばストックホルムの学校の例とか、あるいはアメリカのバージニア州の例だとか、あるいは東京の三多摩のあの子供の教育の問題について、それぞれ体験の発表がなされておりましたけれども、私はやはりその方向性ということは、原則点として踏まえなければならないのじゃないか、そういう面からいま御指摘のありましたところの中教審の点をみますと、非常に私はその点問題がある。したがって、私どもは、この法案の中では具体的にはそこの面までは法案の具体的事項として出しておりませんけれども、やはり障害児教育あり方基本的なものの姿勢としては、そのことを第一番に踏まえておく必要があるのじゃなかろうかということを強く思っておるわけであります。     —————————————
  24. 世耕政隆

    委員長世耕政隆君) この際、委員異動について報告いたします。  ただいま田中茂穂君が委員辞任され、その補欠として黒住忠行君が選任されました。     —————————————
  25. 片岡勝治

    片岡勝治君 厚生省の方が見えておりますので、ちょっと中断するようでありますけれども冒頭日本福祉政策についての政府見解を求めたのでありますが、出席されておりませんでしたので、後刻質問するということにしておきました。  そこでお見えになっておりますので、その角度から二、三お伺いをしたいと思います。  先ほど冒頭、私は福祉元年といわれてまいりました昨年、そうしてことしにかけて、実はそのことばと裏はらに私ども国民大衆にとっては福祉どころの騒ぎではない、たいへん深刻な苦悩に満ちた生活をしいられたわけであります。これは言うならば、日本政治の欠陥である、政治貧困である、その象徴であろうと思うわけであります。なかんづく、この深刻な社会というものの最も大きな打撃を受けておりますのが言わば最近弱者ということばが使われておりますけれども、弱い人々の上に非常に大きなしわ寄せがあるということであります。その中でも心身に障害を持っておる方々、これらの方々の収容施設ないし療養施設、そういうものに関するいろんな悲劇的な事件が続発をしておるわけであります。先ほども申し上げましたけれども重症身障者の父と言われておりました島田療育園小林園長さんまでもやめざるを得なかった。そういうことが、私ども国民にたいへん大きな率直に言ってショックを与えておる。この際、政府もいわゆる特に心身障害者あるいは心身障害児対策というものについての決意といいますか、そういうものをお聞かせ願いたいと思います。
  26. 北郷勲夫

    説明員(北郷勲夫君) 先生指摘のように、心身障害児の問題は、現在島田療育園の何かお話が新聞に非常によく掲載されているところでございますが、施設においては人手不足の問題があり、それから在宅のお子さんについても、おかあさん方たいへん苦労されているというような状況にございます。私どもでは、従来から収容のための施設の整備等を中心にやってきたわけでございますが、施設でのそういった人手不足の問題の解消というようなこと、それから在宅のまま御両親の御看護のもとにおられる障害児の養育の世話をする、こういった方面にもっともっと力を入れていくということで、本年度の予算におきましても、重症児施設における措置費の増額あるいは在宅の障害児に対する日常生活用品の支給、こういったようなことをかなり予算的にも努力いたしておりますけれども、さらに、来年度以降積極的に施策の拡充をはかっていくという決意でおります。
  27. 片岡勝治

    片岡勝治君 一般の大衆は、労働者は春闘等によって、これだって三〇%の賃金引き上げが行なわれたとしても、昨今のような激しいインフレではなかなか生活安定というものができないわけでありますが、しかし、賃上げ等によってそれをある程度カバーできるということであります。しかし、いま申し上げました心身に障害を持っておる方、そういった関係施設、そういうものについては、これは春闘と一緒になってやるというわけにはまいりません。ですから、これはもうほんとう政府が積極的にあらゆる施策を講じなければ、いま言ったほんとう善意と奉仕の精神小林園長さんも長い間献身されてきたわけです。しかしなおかつ、私はもうとてもこれを続けるわけにはいかないということで、ほんとうに私はうしろ髪を引かれる思いでこの園長の席を去っていったと思う。つまりこれは、そうなれば、これは園長さんの責任ではない。むしろ、やっぱり政府の責任ということになり、政治の責任ということになりますから、結果的に、この園から去っていったということは今日の日本政治のいわば欠陥である。   〔委員長退席理事内藤誉三郎君着席〕 そういうふうに、私は政府として受けとめてもらいたい。そういう受けとめ方をしないと、ほんとう福祉政策というものが充実していかないと思うんです。ちょっと政府には酷な言い方かもしれませんけれども、そういう受けとめ方を政府自身がやっているのかどうか。お答えできますか、ちょっとつらいですかな。
  28. 北郷勲夫

    説明員(北郷勲夫君) 小林園長のお話が出ましたのですが、小林園長もおっしゃっておられますが、昔はいわゆる奉仕の精神というようなことで、社会福祉事業が成り立っておったわけでございますが、施設の整備をどんどん進め、収容者をどんどんふやしていくということになってまいりますと、いわゆる善意だけにたよっていけないことはこれはもう当然でございまして、施設に働く職員の方々の労働条件、職場の環境の改善と、こういったことを十分にやりませんと、社会福祉施設は成り立っていかないということは明らかでございます。そういった方向で、職員の労働条件も含めた広い意味での福祉施策、施設に入っておりますお子さんの福祉というもの、福祉一つの条件として職員の方々の問題もあるわけでございます。そういったことも含めた広い角度から福祉施策を考えていく必要があるというように思っております。
  29. 片岡勝治

    片岡勝治君 やや認識が弱いような気持ちがするのですけれども、そこでいまのお話しがありましたとおり、善意とか奉仕の精神で従来らやれたというけれども、そうじゃなくて、やっぱり善意とか奉仕の精神をささえるものがあったから、それを保障するものがあったからだと私は思うのですよ。そういうものがなければ、それは従前だってやっぱりだめになってしまうわけであります。しかし、今日先ほど提案者からもちょっと言われておりましたけれども、過去の障害児教育あるいは福祉政策というものは、どちらかというと、善意とか奉仕の精神、そういうものに依拠してきた。しかし、それだって、私はそれをささえる物的な、物的だけの問題とは思いませんけれども、物的な条件というものを保障をするというようなものがなければ、これだって成り立たないと思うのです。最近、文部省は盛んにこの教職員に対して使命感に徹しろとかいうことを盛んに言うわけであります。私も、この使命感というものを、そういうものについて否定するわけではありませんけれども、やっぱり使命感に徹して教育をささえていくというには、それなりの保障が必要であります。しかし、そういう保障をせずして使命感に徹しろ、奉仕と善意、そういうものに徹しろといっても、これは絵に書いた餅になるわけであります。こういう点は、文部省としても、私は厚生省としても、やっぱり考えを改めていく必要があるだろう、この福祉施設に働いておる方々が労働組合をつくった、そして短い時間ではありましたけれども、ストライキをやったというところも新聞の記事として拝見をしておるわけであります。これはしかし容易なことではないと思うのです。目の前に心身障害者が、心身に障害を持った子どもたちがたくさんいる。しかしほんの短い時間とはいえ、職場を放棄するということは、容易ならざることである。しかし私は静かに考えて、ここで働く人たちの善意、奉仕、そういうものをささえているものは何かといえば、やっぱり働いている者が力を合わせて、善意と奉仕の精神が行使できるようなそういう体制というものをつくっていかなければならない。言うならば、労働組合が善意と奉仕をささえる保障になっているわけですよね、現実的に。だからそういうものを、やっぱり政府もあるいは施設の経営者というものも十分考えていかなければ、これからのこういった施設、もっと広い意味では、教育というものは私はささえていかないだろう、教師が使命感に徹して大いに頑張ってもらいたい、これは全国民の願いである、しかし、教師の使命感をささえていくものは何かといえば、私は、やっぱり学校先生がみんな力を合わせて、団結をして要求するものは要求する、そういうやっぱり労働運動なり労働組合というものがささえになっていると思うのです。そういうものを否定して、善意だ、奉仕だ、それ、使命感だといっても、それは非常に実質を伴わないものになるだろう。私は、ですからこの障害者施設あるいは障害児教育、そういうもののささえというのは、そうした奉仕、善意使命感、そういうものをささえていくそういう保障をまず確立するということが、たいへん重大であろうと思うわけであります。そういうことからすると、いまの文部省や厚生省の姿勢はやや問題があるような気がするわけであります。今後特に厚生省においては、いま全国に施設をめぐるいろいろな問題が山積をしているわけでありますから、これはいわば日本のいわゆる福祉政策の象徴だろうと思うのです。ここで問題が起こるようなことであっては、日本福祉政策というものは、これはだめなんだというぐらいの気持ちでやってもらわなければならぬと思う。一方また、この障害児教育というものの実態がどうかと、これは日本における福祉政策のこれまた象徴だろうと思うのでありまして、特に私は、厚生省に対していま一段のひとつ努力を傾注してもらいたいと、このことを強く希望するわけであります。この法律案は、厚生省というよりも文部省が主でありますので、以上で、私は厚生省関係質問は終わりたいと思います。いろいろ聞きたいこともありますけれども、やや本論にはずれるきらいがありますので、以上で厚生省関係については終わりたいと思います。  さて、もとに戻りまして、いま中教審の特殊教育の問題について若干触れたわけでありますけれども、そこで、文部省にお伺いいたしますが、現状がどうなっているのか、つまり心身障害者の人数、あるいは教育施設、就学者、あるいは施設に入っておる者、そういったものについて、ひとつもしそこに資料があれば概要をお知らせ願いたいと思うんです。
  30. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 私どもが調べましたいわゆる心身障害児童生徒の推定対象者は五十四万人ということでございまして、そのうちで、現在特殊教育学校あるいは特殊学級に在学しております者が十七万五千四百人、三二・四%ということになっております。しかしながら、これは障害のある方が全部こういう特殊教育学校あるいは特殊学級に入らなければならないということではございませんで、たとえば、視覚障害者につきましても、現在三六・九%、それから聴覚障害者につきましても、六二・八%というふうな就学率でございますけれども盲学校あるいはろう学校に希望しておられる方は全部一応収容できるようなことになっておりまして、そういう意味では、父兄の方々がそういうところを希望されない、つまり、先ほど宮之原先生もおっしゃいましたように、普通学級で教育を受けたいというふうな御希望もあると思います。最近でも、サリドマイド児につきましては、普通学級にぜひ入れてほしいというふうな強い要望があったことは、先生も新聞等で御承知と思いますけれども、全部が全部こういうふうな学校あるいは特殊学級教育をしなければならないかどうか、これは宮之原先生の鋭い御指摘ございましたけれども、私どもも今後の課題として、こういう問題は十分配慮していく必要があるというふうに考えているわけでございます。   〔理事内藤誉三郎君退席、委員長着席〕  それから学校の数でございますが、現在、特殊教育学校は総計本校が四百三十九校、分校が六十三校ございまして、児童生徒数が五万八千五百七人、教職員の数が、教員が本務者一万六千二百七十六名、兼務者七百六十九名、それから職員が本務者八千七百二十人、そのうち寮母が三千五百八十五名というふうな状態になっております。それから盲学校が七十四校、ろう学校が百二校、養護学校が二百六十三校、そのうち精神薄弱児の養護学校が百三十六校、肢体不自由児養護学校が八十九校、病弱・虚弱の養護学校が三十八校、そういうふうな状況になっております。
  31. 片岡勝治

    片岡勝治君 それで、今後養護学校義務教育化しようということで、おそまきながらやりつつあるわけでありますけれども、この場合に、いまいろいろ数字をあげましたね、その数字の中で、一体文部省としては、つまりこの養護学校にどの程度収容するのか。これも障害が非常に個々によって違いますから、なかなか率直に言ってむずかしいと思います。しかし、文部省の計画としては、どの程度この養護学校義務教育化した場合に就学をさせていくのかという計画があれば、概要でいいですからお知らせ願いたいと思います。
  32. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 養護学校全般につきましては、義務教育を実施するまでにまだ百九十校程度は整備をしなければならないだろうというふうに考えておるわけでございます。これは各県からそれぞれ計画を聞きまして、大体の集計はいたしておりますけれども、なお、対象の児童・生徒数の状況によりまして、この数字が変更するかもしれない、しかしながら、現在二百六十三校ございます養護学校に、さらに、百九十校程度増設をしなければならないというふうな実情でございます。したがいまして、先ほど先生からも、少しおそいじゃないかというふうなおしかりもございましたけれども、私どもは、ある程度完全な形でお子さん方をお預かりできるというような状態になるまでには、やはり五年程度は最小限度必要じゃないかということを申し上げたのは、こういうふうな数字があるからでございます。  それからなお、現在そこに入っております児童・生徒の数は三万四千人ばかりでございますけれども、これは幼稚部も高等部も含めました数字でございます。私どもは義務制を実施いたしましても、やはり幼稚部、高等部も、希望があれば、できるだけそういう方々をお引き受けしたいというふうな考えを持っておりますので、現在入っております三万四千人程度のものは、これは数字がかなり狂うかもしれませんけれども、お引き受けしなければならないんじゃないかというふうなことを考えまして、現在、幼稚部の設置の奨励も行なっておりますし、高等部につきましても関心を持っておるということでございます。
  33. 片岡勝治

    片岡勝治君 次に、障害児教育姿勢といいますか、理解といいますか、そういう問題について、ごく基本になるわけでありますけれども、お尋ねをしたいと思うわけであります。  まず、最近教育権とか学習権という問題がたいへん大きくなりまして、いろいろな角度から論議をされておるわけであります。これからの民主教育、というよりも、教育とは何かというその原点をとらえる課題としては、私どもたいへん学ぶところがあると思うわけであります。先ほども触れましたけれども、この座談会の中で、こういう表現を使っておるわけであります。ほんとうにこの普通教育というものが、通常の教育というものが、個性を尊重した教育、そのための条件がほんとうに完備をしているならば、ここでは特殊教育ということばを使っておりますからそのまま使いますが、特殊教育という考え方はなくなっていくんだ。逆に言えば、特殊教育ということが教育の原点なんだ、それはほんとうに一人一人の子供の個性に見合った教育を行なうという考え方からすれば、特殊教育ということが教育の原点である、すべてが特殊教育でなければならないんだという指摘がされておるわけであります。これは私はたいへん意味あることばであるし、教育の原点ということだろうと思うわけでありますが、そういう考え方からすると、今日の、いままでも指摘しておりましたが、たいへんいろんな問題がある。つまり、いまの考え方をもっと具体的に申し上げるならば、百メートルの競走をした、十人で競走すれば、一番から十番まで順位がつけられるだろう。一番先頭に立った第一番の人に比べれば二番目も三番目も、あるいはビリの子供もこれは障害があるんだ。もっと極端な例をあげれば、足に故障がある人はおそらく相当離れてしまうだろう。そういった子供たちをいま教育をしているわけでありますけれども、つまり、一人一人の個性というものは、非常にうがった見方をすればそれは障害である、障害というのは、裏返して言えば、それは個性である、そういう考え方が最近の障害児教育の中にある基本的な考え方であると同時に、私はいま言ったように、非常に教育の原点をうがったことばだろうと思うわけであります。そこで、学校教育法でも、心身に故障があった場合に、通常の教育を受けることが困難であった場合には猶予、免除するというようなことがあるわけであります。しかし、子供たちにとってみれば、つまり、義務教育権というものについて親はかってに子供を学校にやらないということは、これはいけないと、つまり、親の恣意によって義務教育を受けさせないということは許しませんよということが、大体私はこの法の趣旨だろうと思うわけであります。したがって、障害児を持った父兄が、具体的には市町村の教育委員会ですか、市町村の教育委員委員会に対して義務教育を猶予してくれという願い出をしなければならないというたてまえになっておりますね。これはどうも私は本末転倒ではないか。これは私だけではなくて、障害児を持った父兄、あるいは障害児教育がいま大きくクローズアップされている中で非常に問題になっているわけです。だから、そういう願い出をしなかった場合に一体どうなるのか、これは当然広い意味では国として、具体的には、市町村の教育委員会として何らかそれに対応する教育というものを与えなければならぬ。子供の教育権、学習権というものは保障していかなければならないのではないかということが非常にいま問題になっているわけです。つまり、子供の学習権、親の義務教育の義務、そういったものの関係について文部省見解、あるいは提案者見解、そういうものをお聞かせ願いたいと居りんです。
  34. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 義務教育と申しますのは、これは憲法上の義務でございます。これは父兄、保護者に課せられました憲法上の義務でございますから、先生がおっしゃいましたように、親が自分の判断でかってに子供を学校にやらないというふうなことは許されないわけであります。したがいまして、子供さんを学校にやらない場合には、市町村の教育委員会がはたしてその親の恣意でもってやらないのかどうかということを確かめる、そういう意味から申しまして、猶予、免除願い出をして、それが親の次心意じゃないと、子供の権利を侵してないということがはっきりいたしました場合に、それを許可するということでございますから、法律上の順序としては別に間違ったことではございません。あまりいい例じゃないのでございますが、憲法上の義務としましてはほかに納税の義務がございますけれども、納税の義務にもやはり猶予とか免除という制度があるわけでございます。就学義務にも猶予、免除の制度があって少しもその限りではおかしくない。ただ、子供が教育を受ける権利というふうな面で考えました場合には、これはできるだけそういうふうな権利をむろん生かしてやるべきだという点、これはそのとおりでございます。それを生かしてやれないようでございましたら、これは特別な場合、たとえば交通事故に会いまして植物人間になってしまったというふうな場合、教育の手の届かないというふうな場合を除きましては、これは、本人が教育を受けたいと言えば、それに応ずる施策を講ずるというのがまた国の責務であるというふうに考えるわけでございます。その二つの面が一緒になりまして、先生のいまのお話も、二つの面が一緒になってのお話でございますので、割り切りますと、親が自分で自分の恣意で子供を学校にやらないというわけにいかない、それを防ぐために猶予、免除というふうな制度がある。それから子供の教育を受ける権利というのはこれは生かさなければいけない。それを生かし切れないというのは、これは国が怠慢だと言われてもしかたがない、そういうふうな次第でございます。
  35. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 ただいまの質問に答えます前に、前段として言われた障害児教育の原点といいますかね、これは確かに教育そのものが一人一人の子供の持つ個性、才能を伸ばしていくという立場に立つわけですから、これは障害児の子供も、そのものずばりにやはり教育の、障害児の持つところの、子供たちの個性を考えながらやるということを考えれば、私もこれは一般の教育の原点と全く同じなんだという立場に立ってこの障害児教育というものを見なきゃならないと、こう思っておるんです。  そこで、それと関連をしたところの就学猶予の問題ですがね、私は非常にこれは問題があると思うんです。いま初中局長のほうからは、法律のたてまえを言われて答弁があったわけでありますけれども、確かに法律上から見ますれば、学校教育法施行規則の四十二条に基づくわけですね。これの規則の四十二条は、猶予をする場合には保護者から願い出るという方式になっておるわけなんです。ほんとうに保護者が、自分の子供はどうしても養護学校なり、その他に入れないぐらいに非常に重度だとか、いろんな、入れたくないから猶予願いを出すんかというと、そういう例もありましょうけれども、多くの場合には、やはりこの指導の中で行なわれているところのきらいが大部分であるんですよ。たとえば養護学校は県できわめて少ない、行きたくても経済的な理由もあって行けないから、そうすれば、おたくのほうから願い出たら猶予できるんですよという指導をやっているところの例というのは、これ非常に多いんですよ。私はここに、なるほど法律のたてまえでは、保護者が願い出て猶予をしてもらうと言いながら障害児を入れるところ養護学校なりその他の施設の面で非常に不十分なために行けない。言うならば、子供の教育を受けるという権利が、その施設、設備が不十分のために、あるいは経済的な理由のために行けなくて、みずからの権利をそういう形の中で束縛をされるという例が少なくないというところに私は問題があると思うんですよ。たとえば、先ほど初中局長のほうからは、いわゆる養護学校は全国で二百六十校あって、今後百九十校ぐらい必要なんだと、こういう話なんですけれども文部省の四十八年度の文部統計要覧を見ましても、県によって非常なばらつきがあるんです、この養護学校施設は。それは東京、神奈川あたり十六校も十三校もある。けれども一校しかないところもある。たとえば同じ規模の問題でこう見ますれば、東北の青森は十一校ある。ところが隣の岩手には一校しかない。これだったらいかに障害児の子供が学校に行きたくても行けないわけなんですよ。条件がないわけなんだから。それを就学猶予という法律のたてまえをとらされて、願い出たという形をとって学校に行けないというところの例というものがあるんです。これはまあ若干古い資料でございますけれども昭和四十七年の五月二十四日の読売新聞の教育欄に出ておったところのことでございますけれども、たとえば、その障害児の子供が岩手に四百九名おる、就学猶予になった子供が出ておる。ところが肝心の岩手は、そのときにはなくて、その後一校できただけなんです。行かそうにも行けようがないんですね。ここに私はやはり子供たち教育を受けるところ権利というものが非常な阻害をされておるところの要素がある。したがって、このばらつきをなくして、できるだけ養護学校を積極的につくらせていくということに対しては、やっぱり文部省としては、相当強力な行政指導をせなきゃならぬと思うんです。そういうことをしないでもって、あと五年後には、養護学校をいわゆる義務制化するんですということではだめなんです。隣の青森には十一校もあるのに、片一方に一校しかないなんて、これは常識で考えたってわかるでしょう。大体人口の規模から見たってわかる。したがって、そういう面と相待ちながら、私はやはりこの問題については積極的な指導をしていかなければ、勢い行きたくても行けないところの子供がずうっと出てきておる。そこに、たとえば統計にも出ておりますように、昭和二十七年から四十六年までの二十年間にわたって心身障害を原因とするところの心中、自殺、殺人、小児虐待死、事故死などが実に八百八十四件あるという統計が出ておる。これは言うならば、八日に一件の割合で障害児の子供が何らかの形で命を失う。これなども、これは私はすべてがそこに原因があるとは言いませんけれども、行きたくても行けないような条件で、やむなくこの就学猶予届けを出させる家庭にあるという、この子供のやはり教育権の奪われておるというところに、障害児教育の大きな問題点一つがあるという点を私はやっぱり指摘せざるを得ないと思うんです。したがって、そういう点で申し上げますならば、たとえば、今度文部省が昨年よりも予算を増して二億円で訪問教師というものを、障害児に対するものをつくりました。それは昨年よりは前進をしております。しかし、この予算の計上を見ても、実は就学猶予の免除を受けたところ子供たちにだけしかこの先生は訪問教師としては行かないわけなんです。そうすると、私は先ほど申し上げたように、府県で非常なばらつきのあるところ養護学校施設、そういうところに行きたくても行けないような子供は、当然この訪問教師が行って訪問教育もできない、その恩典からも浴することのできないという形になっておるんです。ここに私は今日のやはり障害児教育の欠陥の一つがあるという例も指摘をせざるを得ない。それだけに、基本的にやはりすべての障害児教育権を保障されて、どっかにかやはり就学をしておる。けれども、いろんな都合で就学できなくておるからして、そういう子供に対しても言うならば一つの学籍をどっかにかつくらせて、そこのところの子供にも行けるように、みなが就学猶予を受けておらないで、実際家庭におるところ障害児に対しても、この訪問教師というものがやはり行けるようなところにまで広げていくという点を、私は今後の教育行政の中ではきわめて大事な問題の一つであるんじゃないだろうかと、こう思っておるわけでございますので、その点もあわせていまの御質問に答えておきたいと、こう思います。
  36. 片岡勝治

    片岡勝治君 いま、お二人のお答えを聞いたわけでありますけれども、たいへんこの問題については大きな矛盾があるわけでありまして、つまり、子供の学習権というものを免除、猶予するということは、いま宮之原さんが指摘されたように、現実には親が言っていくんではなくて、市町村がそういうものをいわば出させる。つまり市町村の責任を回避するために親に免除願い、猶予願いを出させて、いや親がこういうものを言ってきたんだから市町村がそれを許可するという形なんですよね、実態は。これはたいへん大きな問題だろうと思うのです。むしろこれは市町村が、もっと大きくは国が、障害児を持った父兄に対して、まだ施設が整わないから、ほんとうはおたくさんの子供さんを教育をしたいんだ、しかし、いますぐといっても施設が間に合わない、収容する能力がないから免除させてくれないかといって持っていくのがほんとうじゃないですか。こういう考え方は間違いですかな、文部省どうですか。
  37. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 憲法上は保護者に義務を課しているわけですから、その義務を免れるためには、保護者がその義務を免れるような手続をとると、これが普通だろうと思います。ただ、現実問題として、親は行かしたいんだと、子供も行きたいんだという場合に、そういうふうな受け入れの態勢がなくて、それがいま御指摘になりましたように、市町村のほうで、教育委員会のほうで、受け入れられない。したがって、猶予または免除の願いを出してほしいというふうな実態があるわけでございます。しかし、法律上のたてまえからいいますと、保護者に義務があるんですから、それを免れるためには、それは保護者に対してそれを猶予または免除されるというのは法律上は何でもないわけです。したがって、そういう場合もあるわけで、たとえば親が自分の子供を学校に行かせたがらないで仕事を手伝わさせるというふうなことは許されないという意味の規定でございますから、そういう規定があること自体は別に先生も御否定にならないと思います。ただ、現実問題として、それに倍する、何倍かの、行きたいんだけれどもそういう施設がないという、保護者あるいはお子さんが実際におられるということが問題なわけでございます。しかし、これも養護学校義務教育になりました場合には、ほとんど解消するという問題でございますので、これは義務制の施行とあわせてそちらのほうの御意見を聞かせていただきたいというふうに考えているわけでございます。
  38. 片岡勝治

    片岡勝治君 法律で親に義務を課しているということは、私も認めるんです。それは親がかってに学校に行かせないということは許しませんよということですからそれはいいんですけど、しかし同時に、市町村は義務教育に関する施設をつくって、そういった子供たちを全部収容しなければいかぬという義務があるわけですからね。親だけの義務じゃないんですよ。そういう義務があるんだから。それで、つまりじゃそういう免除願いとか猶予願いというものを出さなかったらどうなるかというのです。どうしてもそれは子供の教育を、まあ多少足が悪いから、あるいはからだが弱いからといういろんな理由があると思うんだけれども、出さなかった場合どうなるのですか。
  39. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 保護者が義務を履行しないという場合には、学校教育法の規定によりましてこれは罰金がかかるというふうになっておるわけであります。通常の場合には、たてまえから申しますと、そういうことになるわけでございますけれども、しかしながら、これはまあ私どものほうからその保護者にそういうふうなちゃんとした手続をしてほしいということをお願い申し上げているということでございまして、別に出さないから、それに対して罰則までかけるというふうなことは考えておらないわけでございます。
  40. 片岡勝治

    片岡勝治君 いや、私が聞いているのはそういうことじゃなくて、親がかってに子供を学校に行かせないということじゃなくて、行かせたいんだと、多少手が悪い、足が不自由だけれども、行かせたいんだと、しかし教育委員会でだめだと、養護施設がないから免除願いを出せと、実際はそういうことをやっているわけですよ。しかし、いや、そうじゃないんだと、子供には学習権があるんだと、まあちょっと現実的でない論議かもしらぬけれども、私は基本的に障害者に対する学習権というものを保障するという角度からお聞きしているわけです。教育委員会から強要されて、その免除願いとかなんとか現実的に出させられているわけですよ。しかしそうじゃないんだと、私は親として学校へ送りたいと、そして勉強させたいんだと、そういう親の意思としては義務教育について何ら拒否するものではないと、むしろ、積極的にその学習権を保障させるためにやりたいんと言うんだけれども、出せというようなことを強要されているわけなんです。その問題についてお伺いしているわけです。
  41. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 現在の憲法ないし学校教育法の体系では、そういうことは予想してないというわけでございます。親御さんもやはり自分のお子さんが、現在のたとえば小学校なら小学校に入れてほしいとかりに思いましても、とてもついていけない。それから心身の障害にはかえって学校に行かせるということがじゃまになるというふうな場合には、当然、猶予または免除の願い出をしていただけるものというふうに考えて、法体系ができておるわけでございます。そういう意味で、現在の法体系につきましては、現実と違った部分が出てきていることは確かでございます。また、そのために、私ども養護学校を義務制に一日も早くしたいということで、従来増設等につきまして努力をしてきたわけでございます。まあ、法律上の考え方としましては、そういうふうなお子さんがおられる場合には、親御さんは当然そうしていただけるものというふうに考えてできておりますものですから、出していただけないということは、法律上予想してないわけでございます。
  42. 片岡勝治

    片岡勝治君 つまり、そういうことを想定してないところに、今日までのこの障害児教育というもののまさしく重大な欠陥があると思うんですね。それは現実の問題としてわかりますよ。しかし、発想の転換がいまや叫ばれているときですから、やっぱりそういう考え方は、そういうことが想定されてないということ自体がおかしいと思うんです。だから、いまの法体系がそういうことにかりになっていたとしても、それを改善していくというような行政の指導が必要だろうと、行政的な措置が。これはですからもし法体系がそういうことになっておれば、これはもう早急に改めていくということが同時に行なわれていかなければ、私は、障害児教育というものの発展というものがなかなか前進をしないだろうというふうに考えるわけなんです。  それから、障害児教育についてはいま申し上げましたような非常に障害児教育に取り組むこの基本的なまず態度、理解というものを、まあ私も含めて発想の転換をしていかなければならないなということを痛切に感ずるわけでありますが、しかし同時に、障害児対策というものは、そうした精神的なものだけではなくして、現実の問題として施設とかあるいは教職員の問題、そういうものがこれは欠かせない条件だろうと思うのです。まあ、今回の法律案は、そういった意味での条件を整備するというところに大きなねらいがあるわけであります。  そこで一、二お尋ねをいたしますけれども施設整備に関する問題、つまり障害児教育施設整備に関する問題、今後の課題ですね。そうして教職員の養成、待遇、そういったものについての提案者のお考えがあれば、これに補足する考えがあれば、お聞きしたいと思います。
  43. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 まあ現状については、先ほど岩間局長のほうから就学率のパーセンテージの提示があったわけでございますが、それだけに養護教育を充実をしていく場合には施設設備の充実ということはまあきわめて大事な問題になるわけでございますが、その養護学校そのものをやはりふやしていくということもさることながら、私どもといたしましては、この学級編成あるいは教員定数、この面も相当充実をする必要がある、こう考えまして、実はお手元に差し上げておりますところの六号法案になっておるわけであります。公立障害児教育学校学級編制及び教職員定数標準に関する法律案と、これはそのことをずばりに出ておるわけでございますが、そこでの一つ学級編制のものの考え方は、小学部、中学部の場合は大体現行どおりの八人から十人程度にしますが、高校の場合は現在の十人というのを半分ぐらいにして、よりやはり高校部の専門性を高めていくと申しますか、そこをまあ考えておる。さらにこの幼稚部のほうは、何らこれは定数というものはないわけでございますから、これを私どもとしてはやはり五人標準学級編制をさせて、その障害児に対するところ教育の徹底をはかっていくというものの考え方です。もう一つは、やはりそれに呼応するところの教員定数というのを原則としては一学級当たり二人の先生をそこに配置をしながら、この中身を濃くしていくと、そういう私は施設設備の面ではきわめてこの学級編制と教員定数の充実ということは緊急を要すると、こう考えまして、いま申し上げたところのこの法案の要項に盛ったわけであります。  なお同時に、この定数の問題については、財政的なやはり施設の面で充実をしていく必要がある。そのためには、現在の二分の一負担というのを少なくとも障害児教育の場合は施設設備あるいは内容を充実していくという観点から三分の二に国庫補助率を引き上げていくということを主体にいたしまして、七号法案になっておりますところ公立障害児教育学校に係る経費国庫負担に関する法律案というものを提示をいたしたわけであります。もちろん、これで私どもは十分なこの充実ができるということは考えておらないわけでありますが、緊急にやらなければならない処置として最低限これだけは必要じゃないだろうか、緊急に。こう考えまして、法案としても提出をいたしておるところの次第でございます。
  44. 片岡勝治

    片岡勝治君 だいぶ長く時間を使わしていただいてたいへんありがとうございました。まだまだ障害児の問題についてはたくさんの問題点があるわけでありますが、また、いずれの機会かに譲りたいと思うわけであります。  最後に、私はこの障害児問題を私なりに若干勉強さしていただきまして、まさに、この障害児教育というのは教育の原点なんだと、これは障害児教育に尽瘁されておる方々が異口同音に使っていることばであります。先ほどもちょっと申し上げましたけれども教育というのは、一人一人の個性と能力に応じる教育が十分できていない、個人差を尊重するということがうたい文句になっている。ほんとうは通常の教育がもっと極端な個人差に応じられるように変わってもらいたい、そのために特殊教育というものがなくなってもいいではないか、ほんとうに普通教育の中で特殊教育というものは、ほんとうに個人差というものを尊重した教育が行なわれていくならば、極端な言い方をすれば、特殊教育というものはなくなっていいんじゃないかということを、先ほども例に出しました国立特殊教育総合研究所長さんが「日本教育百年」の中に結びのことばとして出されているわけであります。まさしくこれは、教育の原点を私は指摘していることばだろうと思うわけであります。しかし、今日の日本教育というものをひるがえって考えてみたときに、はたしてこの考え方、この教育の原点とも言うべき基本的な考え方が一体どう位置づけられているかというと、率直に言って、私ははだ寒い感がするわけであります。それはいま国が、文部省が押し進めようとしている第三の教育改革とうたい文句の中教審のいわゆる教育改革について、この原点とは実は逆な方向に行きつつあるということをたいへん私は憂慮するわけであります。つまり、教育というものは、極端な言い方をすれば特殊教育なんだ、ほんとうに個人個人の能力、適性、そういうものを十分尊重してやっていかなければならない、にもかかわらず、中教審で言っておるのは、それとは逆に能力別にあるいは選別して教育の多様化を考えていく、こういう考え方が中教審路線だと、まあこの方々も批判をしておるわけでありますけれども、私も、そのように感ずるわけであります。だから、ほんとうに国が、文部省障害児教育というものをさらに大きく前進をさせようということであるならば、私は、この中教審路線とは相反する方向にこれはもう必然的に向かわざるを得ないのではないか。ここに、この中教審路線というものがとかくの批判のある根源だろうと思うわけです。そういう意味でこの中教審路線、つまり、この能力とか個人差によって分離をしていく、そして差別をしていく、そして多様な教育の道に無理に歩かせていく、これはいま私どもがいろいろ討議をしてまいりました特殊教育、つまり、ほんとうに個性を尊重した教育という教育の原点というものとだんだんかけはなれていくということを私はたいへん憂慮するわけであります。  私はこの際、したがって、文部省に特に希望することは、障害児教育について文部省あるいは国が全く無視しているとは申しません。努力している点もあるわけでありますから、さらに、これを大きく前進をさせるということに全面的な努力を傾注するとともに、この障害児教育というものの視点をぜひ教育全体の中に波及さしていくという方向で努力をしていってもらいたいものだということを文部省に対してはお願いをするわけであります。  提案者に対しては、たいへんりっぱなというか、まあいま提案者も言ったように、これは一つの最低の当面の課題だということであります。せめてこの程度はどうしてもこの際やらなければならぬということであります。私ども全面的にこれに賛成し、ぜひ皆さんの深い理解を持ってこの法律案が通過するように希望するわけであります。宮之原さんが文部大臣であれば、これはたいへんりっぱな障害児教育ができるのではないかと思います。  以上で、私の質問を終わりたいと思います、
  45. 世耕政隆

    委員長世耕政隆君) 続いて発言願います。
  46. 小林武

    小林武君 これは特に厚生省にお尋ねいたしますが、これは新聞の切り抜きなんですが、四十九年の一月の二十八日に、厚生省の方ですからお読みになったと思いますが、「身障者道連れの自殺」というのが表題で、飯塚進さんという桃山学院大の助教授の論文の抜粋みたいなものを新聞に出しているわけです。この身障者の道連れ自殺というもの、これが飯塚さんの場合は昭和二十一年から四十七年までの間に約三千百九十九件あったうちに身障者の道連れ自殺というのは百八十五件だったと、こう書いてあります。このことについて、厚生省としては御存じだと思うわけですけれども、これに対して省内で、特に担当のあなたたちの間で、そういうことの原因あるいは対策というようなものをお考えになったことございますか。
  47. 北郷勲夫

    説明員(北郷勲夫君) いま御指摘になりましたような悲しむべき事件が幾たびか起こっているわけでございます。こういった大部分の件数は、重症のお子さんをお持ちになって療育に非常に御苦労されて、そのあげく自殺をされるというようなケースでございますが、私どもは何とかこういった事故を防止したいということから、いわゆる在宅対策と申しておりますが、御家庭でそういった重症のお子さんをお育てになっておられる親御さんの少しでも手助けをしたいということで、いわゆる金銭給付と申しますか、経済的な面での援助、これは特別児童扶養手当というようなものを支給いたしております。これは金額的にもまだ少のうございますが、そういった経済的な給付、そのほかにホームヘルパーあるいは日常生活用具の給付でございます。こういったような在宅の方々に対する援護措置をいろいろやっているわけでございます。それからさらに、どうしても御家庭で育てることがむずかしいというようなケースにつきましては、施設に収容して、そこでお子さんを介護するというような仕組みをとっているわけでございます。  しかし、いずれにしましても、こういったような事件がいろいろ起こりますことは、在宅対策がまだ十分でないという一つの証左であろうかと思われますので、私どもも、御指摘のような事件が起こらないように、何とかいい対策がないかということで研究はしておりますが、なかなか手が届かない面があるわけでございます。非常に残念なことでございますが、さらに、在宅対策についての内容の充実、それからさらに援助の内容などにつきまして十分くふうしてまいりたいと、日夜心がけている次第でございます。
  48. 小林武

    小林武君 どうも、あなたも言いにくそうに言っているけれども、これはさっきの文部省の初中局長答弁にもあるんですけれども、やっぱり一つの線を越えて生きる者の権利というか、国民権利というものを認めないとどうにもならぬ状況にある。あなたのさっきの憲法論についてもそうなんです。いまの場合だって、私は、厚生省の方、施設に入れてくれれば死ななかったのもあるんですよ。そんなの何か私は新聞で見たことあります。施設に何べん行っても入れてくれないということで、もてあまして、もてあましたというよりか、もう悲観のどん底にいって親子が、親子心中ということばは飯塚さんは大きらいで、道連れ自殺というふうに言っているんだそうですけれども、私は、そういうこのものについての皆さんの考え方というものが、いささか私は手ぬるいような気がするんですよ。たとえばあなた、その何とか経済的にとかなんとかこうおっしゃるけれどもね。たとえば、この百八十五件を形態別に分けると、どういうことになっているかというと、母親と子供が全体の六五%です。それから父親と子供が二一%、父母と子供、これはもう父親も母親も一緒になったものが一〇%、祖父母と孫といったその他が四%、こういうふうになる。その中に母の気持ちがやっぱり数字の中によく出ていると思いますね。しかし父親もやっている二一%、祖父母になったらこれは孫との関係でやるわけですが、これはもう非常な、これはもう母親とか、父親というようなものの責任でなくてもろに祖父母にかかってきた場合には、これはもう肉親の情というものの何というか極致みたいな追い詰められた気持ちになっていると思うんですよ。こういうことに対して厚生省はどうなんですか。この形態別に調べて、事の対策ということを、これがわからんかったら私できないと思うのですよ。財産があり、ある程度生活に余裕があって元気なうちは、子供に対してできるだけのことをしてやる能力の人もあるでしょう。しかし、これがもし年老いて、さてかりに自分に子供がいても、兄とか妹とか兄弟にそれを一体まかしていかれるかというような不安感になるというと、これは父親、母親は追い詰められた気持ちになると思うのです。あなたのところではそういうことについて、大体予算をよけいとるとかとらぬとか、何%どうしたとかという問題でなしに、あなた自体お考えになったことがありますか。
  49. 北郷勲夫

    説明員(北郷勲夫君) どうお答えすればよろしいかわかりませんが、私、そういう事件を聞きますたびに、その背景についていろいろ調査もさしておりますが、いろんなケースがございますが、何と申しましても一番感じますことは、相談に乗れるような、これを親身になって相談に乗るような体制をまずつくらなければならないんじゃないか。問題のケースごとの問題の解決は、方法はいろいろあろうかと思いますが、そういった相談に乗ってこないうちに、まあこういった不幸なケースを生ずるというような事例がきわめて多いように思っております。御質問のお答えになるかどうかわかりませんが、私どもは、こういった事件が起こるたびにいつも真剣に考えてはおりますが、なかなか個々の御家庭の状況までなかなかつかみきれない。非常に残念なことだと思っております。
  50. 小林武

    小林武君 こういう道を選んだ親の年齢で一番多いのが、三十から三十四歳までが二二%、二十五歳から二十九歳までが二一%、三十五歳から三十九歳までが一三%、こういうこのあれを見るというと、まだこの年齢的にはまだ元気のある時代でも、このぐらいの人間がこの道連れにして死んでいく、こういうことになるわけでありますが、いま何か相談相手とかいいますけれども、これは何ぼ相談されたってだめですね。かりに私がいま相談されたらどうだろうか、多少政治家のような顔をしていますからきっと歩くでしょう、歩いてあなたのほうでこれに対して解決点を見つけてくれるかといったら見つけてくれないと思うのですよ。私は、この先生の話の中で、一つだけ、論文の中でちょっと考え方が違うような気がするのは、「悲劇が起こるたびに、身障者を収容する施設の拡充などが叫ばれるが、それだけでことは解決するだろうか。法の面では崇高な理念を持ち、立派な制度もあるにはある。」と書いてある。まあ「実態はとなるとさびしい限りだ。」とこう言っておるんだが、しかし、この中に核家族の傾向になったから「昔は家庭のまわりを親類、縁者、隣近所が無意識のうちにも連帯して守り合っていた」と、都市化がこういうものを多くしたというようなことにちょっと触れているんですが、私はこれはもう絶対違うと思うんですね。昔はどうしたかといったら、これらはもう結局隠されておるんですよ。私は昭和二十六年と七年に、教員組合におりましたとき、北海道のことですけれども、その当時盲学校ろう学校、これのあれをなるべく救い上げなければいかぬということで、学校も所々にできましたからやりましたが、たいへんもう親の反発受けるところがあるんですよ、隠すんですよ。それは何かやっぱり恥ずかしいといいますか何というか、しかし、この親の気持ちというやつは、私はあの当時のことを言えばよおくわかるんです。いわゆる戦前の教育の中では、世の中の役に立たないような者はくずみたいにこう思われている。親もいわゆる知恵のおくれた子供がいると外へ出さぬようにして、人目につかぬようにやっている。目のめしいた子供がいるとそれに対して教育するよりか、もう隠しておこうというあれがありまして、あのとにかく広い北海道の中の、人間のいる場所まで行くのに半日もかかるようなところまでさがしても、さがすようにさがして、なかなかそれで全部さがすなんていうことは不可能であったという、そういう実績があるんです。私は、そういう時代のことが何か美化されて近所、隣、親類、縁者の間で何とかお互いに助け合ってなんていうようなことはこれは話にならぬ。いまのほうがやっぱりずっとよくなったと、私は思っているんですよ、戦後はよくなったと。これは世の中の余され者みたような見方をしないで、人間としての尊厳というようなものを認めてきたからで、堂々と教育を受けるような考え方が、これが教師の間にも、親の間にも出てきた。いいことだと思っているんです。しかし、追い詰められた場合に、何がむざんだといって、もうこの身障者の道連れ自殺なんていうのは、こんなかわいそうなことないです、世の中に。だれが身障者を生みたいなんて生んだ母親がいるわけじゃなしね。だから私はこれについては、厚生省の考え方というのは、やっぱりどうも思い切ったことをやらないかぬと。福祉国家というようなことをやるんだったら、私は徹底的なやっぱり対策を立てなければいかぬと思うのですよ。これを一体厚生省が思い切ってやるというようなことだったら、予算の面ではどのくらいあればいいんです。施設にみんな入れる気だったら。大体わかる、専門家だもの。十億や何ぼ違ってもいいよ。
  51. 北郷勲夫

    説明員(北郷勲夫君) 事業の中身にもいろいろよろうかと思いますが、私が当面必要だと思っておりますことは、親御さんが障害のあるお子さんをお持ちになって、障害があるということがわかる。大体、二歳から三歳ぐらいでわかるわけでございます。そのときの親御さんの悩みというのはもう相当なものがあると思うんです。そのわかった時期に、早めに親御さんの療育の手助けをするということが一番大切じゃないか。少しでもよくするというようなことを、親御さんに元気づけるということが、当面一番大事なことじゃないかと、私は思っております。そういった意味で、早期療育のための施設の整備でございますとか、あるいは通園施設の整備でございますとか、ただこういった事業には、さらに人の養成の問題もございます。こういったものを加えますと、私はこれ全体の総額を計算したことはございません。まことに申しわけないんですが、相当な予算を要すると思っております。
  52. 小林武

    小林武君 相当じゃだめだよ。あなた、大体金額の額で十億ぐらい違ってもいいと言ったでしょう。
  53. 北郷勲夫

    説明員(北郷勲夫君) それは、おそらく本格的にやれば十億、二十億のお金は当然かかってくると思います。
  54. 小林武

    小林武君 それでいいのですか。
  55. 北郷勲夫

    説明員(北郷勲夫君) 二十億でも私は足りないと思っております。あるいは数十億のお金はおそらく理想的にやれば必要だと思います。
  56. 小林武

    小林武君 私はやっぱりそれを厚生省が全部一ぺんにやったらどのくらいかかるというようなことをやるべきですよ。私がいままで聞いてみたり、新聞で見たりするのは、施設に何ぼいってもあきがないとこう言われて、失望、落胆して、そうして自殺したというのが、相当やはり新聞で目についていました。  それからあなたのところへ行くのは、文部省からあなたの関係施設というものは、後ほどまたお尋ねしますけども、これはもうかなり、何というか、重度の子供たちが多いわけですから、だからこれはあなたの頭の中に数字がないというのは、これ私はやっぱりいかぬと思いますよ。怠慢とまではいかぬけど、上司にそういう考え方がないのにあなただけ持てといったって、それは無理だけども、あなたやっぱりそれについては、これからまたおそらく出るだろうから、来年の予算つくるまでの間には、ちゃんと大体どのぐらいあったらうまくいくんだという話をできるようにしておいたほうがいいですよ。わかりましたか。  それで、宮之原さんにお尋ねいたしますが、この提案理由の中にある、憲法二十六条、教育基本法第三条の中にある子供たち教育、これはもう心身障害子供たちのすべてを保障するというたてまえに立ってのことであるから、われわれも賛成しているんですけども、こういう考えに立ちますというと、これはあれですかな、その提案理由の中にある二万一千人というのが、これ確かな数字でございますか。二万一千人の子供が義務教育機会を奪われているということは。
  57. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 この、二万一千人、これは二年前、本委員会でやったときも、文部省から約二万人という答弁が初中局長からなされておるんです。ですから、一千や二千はあるいは狂うかもしれませんけれども、大体二万一千人が就学猶予という形で、ここにも出ておりますように、奪われておると、こう申し上げていいんじゃないだろうかと思います。それは就学率の、義務教育学校におりながら、実際受けておるところの人数を見ましても、正確に申しますと、四十六年の五月一日現在では、その特殊教育の就学推定者が五十二万九千四百四十四人、それに対して就学者が十六万三千四百四十七で、就学率が三〇・九%と、先ほどのまた御答弁によると、三一・九%ですか、そういうあれがありましたですから、大体この数字は間違いないと思っております。
  58. 小林武

    小林武君 どうも質問のあれがちょっと、一緒にやりゃよかったんですけど。  とにかく宮之原さんの考え方の中では、心身障害児という者の全員を、何らかの形でやはり教育するべきだという考え方に立っているように思いますが、そう理解してよろしいですか。
  59. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 全くそのとおりです。
  60. 小林武

    小林武君 初中局長にお尋ねしますがね、初中局長は、一体これはどういう考えですか。
  61. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 教育の可能性のある児童・生徒は、すべて教育の対象にすべきであるというような考え方であります。
  62. 小林武

    小林武君 可能性とは何ですか。
  63. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) これは学校長なり教育委員会で判断していただくということになると思うんですが、いま御案内のとおり、厚生省の方がおられますが、施設学校と二つの方面から、そういう心身に障害のある方々のお世話をしておるわけでございます。私ども教育という立場から、そういうお子さん方に対して教育がはたして効果があるかどうかという点を判断する、たとえば治療が優先するというふうな方は、そういう治療に専念していただく、教育のほうはある程度あと回しになってもしかたがないというふうなことであると思います。教育が実施できるかどうか、教育によってその児童・生徒の能力が開発されていくかどうかという問題があるわけでございます。現実の問題としまして、まだ医学的にもはっきりしない面がございます。いわんや、教育の面でどうしたらいいかわからないというような子供も非常に多くあるわけでございます。そこで、特殊教育総合研究所をつくらしていただいたわけでございます。教育の可能性のある限り、私どもはそういう方々をお世話してあげるという意味は、そういう意味でございます。
  64. 小林武

    小林武君 教育の効果のある限りというのは、その場合の限界むずかしいですね。あなたもっと具体的に言ってもらいたいんですよ。具体的に教育の効果の限界というのはどこなのか。これは、私は大事なことだと思うんですよ。教育の効果なんというものは適当に考えられるんですよ。私の近所にこのごろ小学校できたんです。大町小学校という新しい小学校で、そこへ視察に来た私の友人が、何であんな新しい学校へ視察にいくんだと聞いたら、あすこは身体障害児施設があると、こう言うんです。初めて知ったんです、そばにいて申しわけなかったですけどね。そうしたら、そこの校長さんと話してきたことを、晩に私のうちに泊まって話しておったんですがね、校長さんが何でも、ちょうど担任の先生がいらっしゃらなかったときに、そこの子供を、ふろがあってふろへ入れるんだそうです、身体障害児ですから、校長さん子供をふろへ入れたが、それはもうたいへんだったらしいです。なかなか容易じゃないということを言ったか言わないかしりませんけどね、何か友だちの話を聞いていると、子供を全部一緒にふろへ入れて、自分も裸になって入ってやった話を、校長さんやはり担任の苦労わかってお話になったんだと思うんですが、話しておったそうですよ。あなた、そういう子供、教育の効果これあるだろうか、たとえば、からだの故障なんですがね、そんなことをせぬでもいいじゃないかという議論だって成り立ちますわな。私はそういうもんだろうかと、教育というものは、あなたのようなエリート級はどうかしりませんけどね。そういうものの見方すれば、教育なんかするのは、ほんとうにほんのわずかでいいということになる。だんだん政府も大学もあまり数ふやさぬで、質のほうを高めるなんということを言っているとかいう話も聞きますから、あれなんだが、教育の効果というのを、それと教育を受ける権利を持っているということ、その教育を受ける権利というようなものは、頭のよしあしとか、からだの故障のあるなしとか、そういうもので、効果あるなしの判断をして切り捨てるという、そういうものの考え方教育の中にあっていいかどうかということ、これは文部省と、それから全くこれと反対の立場に立っている提案者との、それぞれからひとつ御答弁をいただきたい。
  65. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 別に切り捨てるという意味ではもちろんございませんけれども、やはり実際に担当しておられる養護学校のほうで、お預かりをできるかどうかという、平たいことばで申しますと、そういうふうな意味合いで申し上げておるわけでございます。私どもが具体的にどういう基準で、どうやるというふうなことではございません。先ほどもちょっと申し上げましたが、極端な場合ですと、交通事故でずうっと意識不明で寝たきりになっておると、これは明らかに教育の対象にはなり得ない。それから重度の心身障害児で、重複障害のような方がおられます。まあ暴れ回って手がつけられないと申しますか、暴れるのを押えるだけでももう精一ぱいというふうな方もおられると聞いております。そういう方々を、私ども学校のお世話をしておりますから、学校に、できればお願いしたいわけでございますけれども学校のほうでどうにもお預かりできない、あるいはお預かりしても自信がないという場合に、そこまでお願いをすべきかどうかというふうな判断は、やはり私ども行政をおあずかりする者としてはあるわけでございます。個々のお子さん方、あるいは保護者の方々にとりましては、まことにたいへんなことでございますから、できるだけお預かりしたいということではございますけれども教育という面を担当しておりますわれわれから申しますと、お預かりできるかどうかという一つの限界はやっぱりある。それを明確に言えと仰せられましても、ちょっとむずかしいわけでございますけれども、各学校で、お預かりできる方々はできるだけお預かりしてほしいということを申し上げる程度でございます。
  66. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 先ほどもお答えしましたけれども、私どもが、この三つ法案を出したところの根本的な考えは、あくまでも憲法二十六条なり、教育基本法の三条の精神から踏まえて、いわゆる、どういう状態の立場にある障害児でも、すべてやはり教育を受けることの権利がある、それを保障するのが、これはやはり国のつとめだと、こういう考え方基本にして立っておるわけです。ただ、それならば現実にどういう状況かと申しますと、確かにいまの実態見てみますと、教育の可能の子供はとか、教育がある程度可能だと判断される子供は、いわゆるその教育機関へと、それはもう文部省の所轄になっておるわけですね、あるいは訓練可能な子供は福祉施設へ、重い障害児は医療機関へと、この二つが現在は厚生省に入っておるわけです。それがこう分かれておるというところに、私はそれでいいのかどうかという、非常に疑問に思うんです。確かに、それぞれの省の立場から言わせれば、自分の与えられたところの仕事だけやりたいという、あるいはそれを充実したいという気持ちもあるでしょうけれども、私は、そう言って分けたやっぱり施設をつくり、あるいは教育機関をつくるということが、二十六条でいうところの、正しい意味での、教育を受けるところ権利を保障するところの仕組みなのかどうかということに、非常に疑問がある。その点は、私はむしろ、厚生省のほうが、一歩、そういう形のほうに進んでおると、こう見ておる。というのは、四十九年の四月四日に、厚生省の児童家庭局長が通達を出しておるんです。この通達を見ますと、いわゆる精神薄弱児の通園施設に関する従来の態度、考え方を改めておるんです。従来は就学義務の猶予、免除を受けたところの子供に限ってそこに入ってよろしいと、こういうのがあったんですけれどもね、それをこう撤廃されて、改められた。そのこと自体は、私はやっぱりこの施設ということと、教育というもの、あるいは医療というものをできるだけ一体化して、そうしてこの障害児の子供の教育権というものを保障しようというものの考え方に一歩近づきつつあるという点では、これは評価しておるんですよ。したがって、私から言わしむるならば、いわゆる、その教育機関の近くに、たとえば必要な施設を並べてつくるとか、あるいは施設の中にいわゆる学校の分校をつくるとか、あるいは医療機関と福祉施設学校とをかねてつくらせるとか、そういうものをやっぱり一体的に——おれは厚生省だ、いや、文部省だという所管争いじゃなくて、ほんとう障害児教育ということ、障害児の将来ということを考えるとするならば、むしろ、縄張りをはずして、相互に協力し合って、両方を一体化させていくという、今後のやはり障害児教育に対するところあり方、医療機関に対するところあり方、こういうことこそ私は正しいんじゃないだろうかと思いますし、そういう方向に両省ともやっぱり努力をしてもらわなきゃ困るところの問題じゃないかと、こう思います。
  67. 小林武

    小林武君 全くそうなんです。この四十九年ですか、この厚生省の通達これはもうほんとうに私は、文部省、よほどせんじて飲まなきゃいかぬですよ。あなたの考え方じゃ、お預かりしていいのか悪いのかなんてね、何かあんた全部預かったようなことを言うけれども文部省がそんなこと、預かっているわけでも何でもないんですよ。国民はみんな自分の子供を教育するだけのあれがあるわけですよ。ただし、厚生省という役所があるならば、私は道連れ自殺というようなことをやらないような、やっぱり施設というものについては責任を持ってもらいたい。しかし、教育の面が、そういう重症者といえども教育権利はあるということを認められたという点については、私は非常に評価しますよ。だから、文部省考え方は少しおかしいんじゃないかと私は思う。あなたたちの考え方の中には、もう極端な考え方、むだめし食わせるような教育はやりたくないという考え方ですよ。私はそんな根性で教育なんというものはできるもんじゃない。あなたたちのほうでは、すぐ聖職、聖職なんという、何の聖職だか知らぬけれども。私らは聖職と言わぬでも、人間の尊厳、生きている者は、この世に生を受けた者は、どんな、一体、立場にあっても教育を受ける権利というのはあるという立場を堅持しているんです。労働者のほうがりっぱな考えを持っているようだね、文部省よりも。あなたのほうは、口じゃきれいなことを言うけれども、そこへいくというと、まるきり別なことの立場に返るようだが、私はそういう考え方、あなたはどうしても改められないようだけれども、それは文部大臣以下全体の考え方かどうか、もう一ぺんあなたに聞きます。
  68. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 初中局長としての考えでございます。まあ、教育をできればいいんですが、まだ、そういう方々に対する教育も、まあ医療のほうもそうだと思いますが、やはりそこまでいってない点がある、限界がある、そういう意味で、私どもがそういうお子さん方をお預かりするのにもやはり限界があるということを率直に申し上げているわけでございまして、そういう方々を決して無視しようとか、あるいは教育の可能性があるのにそれを無視しようとか、そういう考えではございません。私どもの力の限界というものを申し上げているだけでございます。
  69. 小林武

    小林武君 それはあんた、少し言い過ぎですよ、あなた、初中局長かなんか知りませんけれどもね、教育の限界なんというのは、あんた口にできますか、そんなばかなことを、一体、どうですか、私は大正年間に師範学校に入ったときにびっくりしたんですよ。そのとき初めて北海道の師範学校に、当時はあまり子供に対しての配慮が足りないところありました。いまのように身体障害児といったほうが一番個人の人格を認める上においていいのじゃないかというような考え方まで配慮しなかったから、白痴教育といったのです。白痴教育という教育をやっているのが、われわれの寄宿舎のすぐ下にあったのです。これはいつかも私はこういうところで話したと思いますけれども、それはものすごい、ちょっとやはり白痴という名前がついているくらいですから、これは相当な子供だった。その子供たちを毎日見ておりまして、後ほど私はそこの家に、そこで御主人がなくなって後に下宿したことがありますから、その苦心談というのを、家族全体がもう全く同じ教室というか、建物の中に夜も昼も教育するという施設でございますから。私は、その当時からいわゆる知恵おくれの子供たち教育というものがそこをとにかくスタートとして、そうして長い間かかっていままできたのですよ。私は、いまごろ文部省があなたの考えかどうかしらぬけれども教育の効果の上からどうこうというような、言うてみれば、知恵おくれの子供たちに対して考えているのであれば、おおよそそれは文部行政というもののやることは全部そこでわかってしまいますよ。先ほど提案者の方からも話ありましたけれども、一体役に立つ、何か国家に貢献するようなところ人間でなければ教育の価値がないような考え方がいままでの教育界の中にあり過ぎた、そういう意味の御発言があったけれども、あなたたちはあまり露骨にそういうことを言うのであれば、これは重大なことだと思う。大体どうなんですか、あなたのほうの予算書の中に一体いろいろな、心身障害の子供の教育のことを書いて予算もとっているのですけれども、ささやかながらでも、それは何なんですか、飾りなんですか、それとも本気になって、憲法二十六条のいわゆる教育を受ける権利というものを、どんな人間でもこの世に生まれてきたら平等に与える、持っているということを認めようとする立場をとっておるのか、一体どっちなんですか。
  70. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 心身に障害のある方に対しまして教育をする場合に、二つの目的がございます。一つは、社会復帰のできる方はできるだけ社会復帰をしていただきたい、そういうふうな意味合いの教育をしていく。それから、社会復帰の無理な方は、教育を授けることによって何らかの生きがいを感じていただくような、そういうふうな行き方はないものだろうかというのが、いまの私どもが心身障害児教育について考えておることでございます。  先ほど先生が御指摘になりましたように、いわゆる白痴と申しますか、強度の精神薄弱という方々につきましても、これは聞きかじりではございますけれども、校長先生の言うところでは、ある一定の年齢までまいりますとかなり教育の効果があらわれてくるということでございますから、そういう方々につきましては、少し時間がかかりましても繰り返し繰り返し教育を授けていくということ、これが必要であろうというふうに考えております。  しかし、いま私どもが申し上げておりますのは、重複障害児あたりで一体教育上どう対処していいかわからない方々がまだおられる。そういう方々で実際に学校でお預かりできない方もそれは出てくるかもしれないということを申し上げているわけで、できるだけ広い範囲で教育をするということ、これにつきましては、別段、先生の御意見に反対するものではございません。
  71. 小林武

    小林武君 あなたの考え方というのは、だいぶまあ困った考え方だと私は思うのですよ。とにかくけさのニュースでやっていましたけれども、けさだと思いますが、身体障害を持たれた人たちのために住宅をつくる、アパートをつくる場合に、車いすに乗っかっていくにはどうしたらいいかというような、そういう人たちの住宅の設計、その場合にはおふろ場をどうするとか、こまかい配慮をやっておる。これは、私は何といっても新しい憲法が出てから、人間の一体固有の権利というようなものを尊重するという角度から、だんだんそういうことが常識化するようになった、こう思っている。このような人間というものが大事にされるということ、そういうことが一般日常の生活の中にも取り入れられ、政治の中にも取り入れられる中に、一体教育の効果なんてとらまえどころのないようなそういうことを言うているというようなことを聞いているというと、もうはだ寒くなるね。そうすると、あなたのほうで切り捨てる考え方のものは、厚生省のほうにまかしたほうはこれはもう全然関係なしでいこうという考え方があるように見えるのですけれども、これはどういう考え方です。厚生省の考えとは対立した考え方ですか。厚生省は、就学免除になった者にも教育というものをその中に持ち込んでやっていく。あなたのほうは、それを今度はへたに教育なんということを主管する役所なものだから、たいへん専門家ぶって教育の効果を云々して、それらの者は教育を受ける必要がないと、こういうふうに考えるのか。私は、そこらあたりはっきり返事してもらいたいし、教育というものの効果というようなことをかりにあなたの立場で認めたとしても、教育に対する技術とか、あるいは教育というような技術からさらに医療の立場からも、あらゆる面から人間の進歩とともに教育というものはあらゆる人に施さなければならないというような実績が出ているということをあなたはお認めにならぬようだけれども、そういうものに対して、さっきも言ったように全然効果なし、そういう世の中どんなに進歩してもそういうことはない、こういうたてまえに立って教育をおやりになるとすれば、これはもう教育放棄です、正直に言って。特殊な者だけ教育をやって——特殊な者というよりか、役に立ちそうだとあなたたちが判断したような者だけが教育の対象になってということになるのだが、その説は曲げる気持ちはありませんか、どうです。
  72. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 先生のおっしゃるのは、ちょっと私にとっては極端なように聞こえるわけです。
  73. 小林武

    小林武君 極端じゃないですよ。
  74. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 人類の進歩というのはこれは当然あるわけですから、将来区療的にも医学的にもそれから教育的にも可能性はどんどん増していくと思います。その教育の可能性が増してきた場合に、当然教育の対象となる者もふえてくるということ、これは当然だと思います。ですから、私どもも、その人類の進歩、そういう意味の進歩というものにつきましては希望を持っているわけでございますから、できるだけそういう方々の教育が完全に行なわれるように、しかも効果的に行なわれるようにしていきたいという願いは、先生と少しも変わりないと思うわけでございます。  厚生省が先ほど通達を出したと申しておりましたが、これは、いままで就学猶予免除を受けた者でなければ施設のほうでお預かりしなかったというふうな一応の基準があったわけでございます、実際上はお預かりをしておったかもしれませんが。その基準を撤廃したということでございまして、それは私どももたいへん喜んでいるわけでございまして、それとは別に、やはり現在のところ教育的にも医学的にもやっぱり限界がある。私どもは治療を優先するような方々、そういう方はやはり教育をあと回しにしても治療を優先をしていただいたほうがよろしいのではないか、そういうふうな考え方です。それから私どもの手に及ばない方々、そういうものにつきましては、これはごめんどうでも厚生省の施設のほうでお預かりいただいて、教育が可能な時期になりましたら私どものほうで預からしていただく、そういうふうな仕組みを申し上げておるわけでございます。
  75. 小林武

    小林武君 あなた、三重の大学のあれは医学部というんですか医大なのか知りませんけれども、あそこに自閉症の子供の何といいますか、治療教育というものがあるはずです。あれについて知っているだけそこでちょっと報告してください。
  76. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) ちょっと私存じません。
  77. 小林武

    小林武君 存じない。そうすると、やっぱりあなたよりか私のほうがよく調べている、調べているというよりかも、私の友人の子供が自閉症になりまして、その際ある大学の先生は自閉症でなくて普通の子供だと、こういうことを言われましたけれども、ある何といいますか子供の専門家から、これは三重大学へ行くと、そういう子供を扱っている先生がいる、そこで私も、何しろ小学校先生が自分の子供と女房を二年もそこへ話を聞いて通っているわけですからね、たまらなくなって来たわけですから、私もちょっとお手伝いをして、そうしたら非常に親切で三重の教育委員会も北海道の教員を採用してくれて、そして、そこで子供さんのあれをやった。私は自閉症というようなもの、このごろではかなり自閉症の子供をどうするかという、教育するかということを研究されてきたと思うんです。あなたのほうで何か御存じないようだけれども、自閉症の子供というのはどうしたらいいのか、教育からはずしておいていいのかどうかということ、それからたとえば言語障害の子供、言語障害の子供は東京でも言語障害の子供の扱いをやっているのがある。新宿にそういう国の施設でしょうな、もあって診断もしてくれる。直接には学校の中でもやって、全国的にそういうものがだんだんふえてきた。これもいわゆる義務教育の中でちゃんとやられているわけですね。それが遅々としている。私の知り合いの子供もたいへんにその点では進歩というのは実に遅々としているなと思うし、それからある年齢になるというと、自分には耳の障害があるためにことばが明確でないのだというようなことの悩みが出てきて親を泣かせることもあるということも聞いています。しかし、そういうものがたくさんの人の努力によって、耳鼻咽喉科の先生のいろいろ援助も要るけれども学校の教師が一つのやっぱりそれについての研究をして、そうして普通の子供まではならなくても、普通の子供にやや近いだけのものにするだけの努力をして開拓をしているわけですね。それが教育だと思うんですよ。可能性の問題を先にきめて切り捨てるなんというのは教育じゃないわけだ。そんなことを言ったら、私らだって教員やったことがあるからわかりますけれども、こんなにわからぬならこんなもの学校へ来ることない、おまえもうあしたから来るななんて言うたら何人残るでしょう。私らのころは七十五人ぐらい持たされたので、七十五人ぐらい持たされたらまあ半分ぐらいはほかしてやりたいぐらいの気持ちにたまになることもなかったわけじゃない。何ぼ言うてもわからぬなというような気持ちあったですけれども、しかし卒業してもう六十ぐらいになった自分の教え子を見ると、そんなこと決してない、もうりっぱなものだと思っています。教育の可能性なんというものはそんな簡単なものじゃないです。これは私の体験を通して言っている。あなたたちの残念ながら文部省の役人というのは教員やったことないんですよね。やった人もいるのかもしらぬけれども、そういう人の発言権はやはり小さいのでしょうね。教育研究所があって教育研究所の中で一体どんなことをやっているのか知らぬけれども、たまにはいいことも一つ可能性を見つけるような話ね、教師に対して励ましを与えるようなそういう役所になったらどうだろう。その面でうんと金使えと、出してやろうかというぐらいのそういう一体励ましというのはないようだね、いまの話聞いていると。大体自閉症ろくでもないことをやっているというふうに見たのかどうかしらぬけれどもね。自閉症の教育だとか、耳の聞こえない言語障害の子供を、一体ものをしゃべらせようなんというそういう考え方が間違いだと思っているのかどうか知らぬけれどもね、私は、そういう態度では困ると思うがな。あなたたちは、さっきから言っているとおり、どこまでもそれでがんばりますか。もうはっきりそこで提案者とあなたたちの考えとは対立しているのだ。どの子供にも教育を受ける権利があるというたてまえに立ったときに、教育に従事する者は、あらゆる手当てを講じて、その子供を生まれたときよりもより以上に前進さしてやるということ、そういう意気込みがなかったら教育なんかできないですよ。私は、これも北海道の話ですけれども、いくさは負けて、ようやく新制中学なんかできるころに、金がかかってしょうがないころ、悪意でも何でもなかったんですけれども教育委員会の人が、特殊教育の話を何か交渉のときに出したら、あんなぜいたくな教育ないよと、こう言うたので、えらいもめごとが起こった。もっとも考えてみれば、一学級の数は少ないわ、いろいろな点でそれは金がかかるんだ。しかし、それをあのとき、私は金のかかるぜいたくな教育だと、そういうものを教育しているのをほかのほうに回したらもっと有効適切だというようなものの考え方は許されないと思ったんです。しかし文部省がいまそういう考え方を持っているとすれば、とにかくあなたたちの権限というのは非常に強いんだから、このごろの教育委員会から教育委員会と伝わっていくとどういうことになるかという心配するんだけれども。あなたたちは、その考え方捨てる気ありませんか。
  78. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 私は、そんなに極端なことを申し上げているわけではなくて、先ほど先生おっしゃいました自閉症の問題なんかも、三重の大学の場合には、私、三重の大学の先生の論文読んだかどうかわかりませんが、最近も拝見しておりますと、自閉症の場合には、医学的な理由がだいぶあるようでございまして、全部自閉症というようなことばで言っておりますけれども、それぞれ原因が異なっている。それからある年齢までいけば自然になおってくるというふうな方もおられる。それから非常に知能の高い方もおられる。しかし全部が先天的に知能が高いというわけではもちろんございません。そういうふうないろいろなデータ、研究の成果というものが次々と出てくるような可能性があるわけでございます。特殊教育の総合研究所をつくっていただきましたのも、その特殊教育という分野がまだ未開拓の分野が非常に多いものでございますから、ああいうところで実際に研究をしていただくということが目標でつくらしていただいたわけでございます。そういうふうないま発展途上の教育でございますから、いろいろむずかしい問題ございまして、現実問題として、学校でお預かりできないような方もそれはおられるかもしれないということをごく例外的に申し上げているわけでございまして、私どもは、そういうものを切り捨てるとか何とかそういうもんじゃございませんで、実際にまだそこまで能力が及ばない、そういう方々につきましては、これは施設のほうでお預かりをいただいてまた教育の可能性をさぐると、そういうふうな行き方、これが現在のところの現実的な行き方である。将来とも研究は進めていくと、それに応ずる新しい方法が見つかりました場合には、それを取り入れて学校のほうで教育していく、そういうふうに申し上げているつもりでございまして、少し先生の御指摘と私の考え方が違っておりますので、その点はたいへん残念に思いますけれども、私の考えはそういうことです。
  79. 小林武

    小林武君 ちょっと聞こえない。違ったところはどこです。
  80. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 私どものほうは、切り捨てとか、そういうふうなことを申し上げているわけではなくて、現実に学校のほうでまだその力が及ばない、研究の成果もまだ出ておらない、どうやってお預かりしていいかわからない、そういう方々につきましては、あるいはお預かりできない方もおるかもしれぬということを、現状から率直に申し上げておるわけでございます。
  81. 小林武

    小林武君 あなた、何だかだんだん混乱しているようだけれども、何も心身障害児童の教育というのは、一般の子供の中に込みにしてやれというようなことを言っているわけでもないでしょう。それはわかるでしょう。心身障害児童といっても、いろいろあるわけですから。同じ言語障害の問題でも、軽い者もあれば重度の者もある。あるいは身体に異常のある者については、これもまたいろいろさまざまな者がある。このさまざまな者が、一体普通の子供と一緒にやれる程度の者なのか、あるいは特殊な施設をもって教育するべき者なのか。あるいはとにかく親にかわってある程度、親がなくなっても、施設の中でほんとうに安心のできるような暮らしをさせながら教育するというやり方もあるだろう。どんな形でも、教育というものは受けられるんだ。私は、厚生省のほうの施設の場合、心配するのは、ただ入れておけばいいんだということでは、これはだめだと思う。そこに気がつかれたということについて、先ほど来提案者からもお話がありましたけれども、私は非常な大きなやっぱり進歩だと、こう思うんです。そのことを、あなた否定するんであれば重大だと、私はそう言っているんです。教育の効果云々ということで教育を論ずるようになったら、あなたの場合では、ある線から下の者は切らなきゃいかぬということになりますよ。しかし、いろいろなくふうがあることはあります。たとえば、耳が全然聞こえないと、その子供に手話をさせないで、そして口のあれでもって会話ができるようになった子供がいました。これは私のわりあいに近くにいるものですから、ずっと大きくなるのを見て、いまもう高校へ行っています。しかし、私はそういう教育のしかたがよかったか悪かったか判断できませんけれども、ちゃんと高校へ通って勉強している。しかし、だからといって、手話が全然悪いとは言いませんし、とにかくやはり世の中に出て、きちんと教育も受けられるという親の願いにかなうように、やっぱりみんなが熱心になればできるということを見ているわけですよ。そういう可能性を、一体、問題でありませんと、あなたの子供はとにかくうちの学校では預かれませんと言ったのは多少ありました。入れてくれるときにいろいろ問題があったこと。ただし、いわゆる子供のときやってくれた先生が、いや、一般の学校教育するべきだということで、その子を一般の学校に入れた。私はそういう試みというようなもので、できるならば、いろいろなあれをやって、子供に教育を受けさせる権利を守ってやる必要があると思うのです。それについてのあなたたちの考え方がいささかどうもどうかと思う。何かやっぱりむだめし食っているようなあれじゃいかぬというようなこと。むだめし食うなんというようなことは言えないんだけれども、しかしこの間、何か江崎さんとそれから湯川さんの対談みたいなものが新聞に出ているのを見たら、湯川さんは、わしは研究といっても、好きなことをやってむだめしばかり食っておったと、あまり役に立たなかったようなことを言うけれども、ノーベル賞もらったんだから、これはむだめしでないはずだけれども、しかし、学問やる者にむだめしを食わしてもらわないというと、ほんとうの研究はできないということを私は言っているのだと思う。江崎さんの場合について、おまえさんは相当むだめしたくさん食えるようなあれでたいへんよかったでないかというようなことを言ったんでないかと、そんなことも考えている。だから教育の問題を議論する場合に、むだめしなんということは言うちゃいけないことです、おまえなどが、というようなね。高校全入というのを教員組合がやったときに、ネコもしゃくしも高校へ入るなんておかしいと言って反対したのは文部省ですよ。しかし、そのことがよかったかどうかというようなことは、いまここで議論するまでもないでしょう。困ったものだと思っているかもしれない。あなたたちは思っているのだと思うけれども、しかしそのことが日本のためによかったか悪かったかということについては、私は決して悪かったとは思わない。高校全入こそは、文部省では反対しても、親たちがみんな望んで、そしてその運動を進めて、そしてほとんど九十何%の子供たちが高校を終えるようになった、これはむだめしだとは思わないと私は思っているんですけれども教育というものは、そういう可能性を信じて進んでいくということがなければ話にならぬです。一時間たちました。あとのやつは次に回すことにいたしまして、それまでひとつよく考えてきてください。あなたと違う考え方になったら、この次はまた別なことを聞きますけれども、改めてもらわなければならぬと思いますね、いまのような考え方は。あなた個人の意見だと言うが、個人の意見はだめです。ひとつ省の中で皆さんの文部省意見としてここへ持ってきてください。私が言うのは、文部省全体がそうですというなら、そういう答弁をこの次のときしてください。  きょうは終わります。
  82. 世耕政隆

    委員長世耕政隆君) 三法律案に対する質疑は、本日はこの程度にとどめます。     —————————————
  83. 世耕政隆

    委員長世耕政隆君) 次に、学校教育法の一部を改正する法律案(第七十一回国会閣法第一一二号)を議題といたします。  本案はすでに趣旨説明を聴取いたしておりますので、これより質疑に入ります。  質疑のある方は順次御発言を願います。
  84. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 文部大臣、これから学校教育法の一部改正についてお尋ねをしたいと思います。  最初に、教頭について、戦前はどういうふうな扱いをしておったのか、これは初中局長からお答えをいただきたいと思います。
  85. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 小・中学校の場合には、御案内のとおり、昭和十六年の国民学校令に教頭の規定が設けられたわけでございます。最終の規定は、第十六条に、「学校長及ビ教頭ハ其ノ学校ノ訓導ノ中ヨリ之ニ補ス」、それから「教頭ハ学校長ヲ補佐シ校務ヲ掌ル」というふうな規定になっておるわけでございます。それから高等学校、大学の関係では、明治十九年の尋常師範学校官制に、第三条といたしまして、「教頭ハ教諭中ヨリ之ニ兼任シ学校長ノ監督ニ属シ教務ヲ整理シ教室ノ秩序ヲ保持スルコトヲ掌ル」という規定がございました。それから、同じく明治十九年の高等師範学校、高等中学校、東京商業学校官制に、第三条としまして、「教頭ハ教諭ヨリ之ニ兼任ス」、「教頭ハ学校長ノ指揮ヲ承ケ教務ヲ整理シ教室ノ秩序ヲ保持スルコトヲ掌ル」という規定がございまして、尋常師範学校官制は明治二十四年に改正がございまして、この規定が削除になっております。なお、高等師範学校、高等中学校、東京商業学校官制では、明治二十三年に改正がございまして、この規定が削除になっております。それから国民学校令は、御案内のとおり、昭和二十一年に勅令によりましてこの規定が削除されておりまして、昭和三十二年に学校教育法施行規則で新しく規定が設けられたということは、御承知のとおりでございます。
  86. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 教頭については、戦前も制度的に確立されておったし、戦後も学校教育法で規定があるわけでございまして、戦前と戦後と同じものか、変わった点があれば変わった点を明確にしていただきたい。同時に、待遇についてはどういう措置が現在行なわれているか、これもお尋ねしたいと思います。
  87. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 先ほど申し上げましたように、国民学校令に規定があったわけでございまして、その考え方は、私は戦前も戦後も変わらないと、それから教頭の役割りというものも戦前も戦後もそう変わっておらないというふうな感じがするわけでございます。まあしかし、規定の上では、戦前は勅令で明らかにされておりまして、また、待遇の改善も行なわれておったと、校長と同じように奏任官の待遇ということになっておったわけでございます。戦後は学校教育法の施行規則で規定をされまして、それから待遇につきましては、これは一部校長と同じような待遇はしておりますけれども、まあこれは教諭と同じような待遇がされてまいってきておるというふうになっております。
  88. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 戦前の教頭の待遇は、やっぱり校長に次いでよかったんじゃないかと思うんだけれども、どういう扱いを受けておったか、その点をもう少し明確にしていただきたい。
  89. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 小学校の校長とそれから教頭は、まあほぼ同じ待遇を受けておったわけでございまして、国民学校令の施行の際に出ました制定の趣旨というものがございまして、そこに、学校長たる訓導を奏任待遇となし得るのみならず、教頭たる訓導もまた奏任待遇となすこととせりということでございますから、校長と同じような待遇にしたということが言えると思います。
  90. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 待遇の点はわかりましたが、職務の内容ですが、これは戦前は勅令によって規定され、戦後は学校教育法施行規則によって、教頭は校務をつかさどり校長を補佐するですか、まあそういうような規定があるわけで、内容的には同じでございますが、なぜ今回、それでは、学校教育法を改正して、法律によって地位を明確にしなきゃならぬか、この点をお尋ねしたいと思うんですが、これはひとつ大臣からお答えいただきたい。
  91. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 教頭さんの仕事、企画とか指導とか管理といった仕事、これがまあ中心をなしておりまして、実際の授業を受け持つということよりも、こういった仕事のほうがずっと時間的に見ましても多くなっているわけでございますので、したがって、これを職として法定をする、そのほうが正しい姿ではないかというようなことで、学校教育法に掲げさせていただきたいと、こう考えたわけであります。しかし、経過的に申し上げてまいりますと、一番このことを熱望してこられたのが教頭の皆さん方でございました。学校教育法の施行規則で教頭というものをすでに定められておるし、管理職としての扱いも受けているわけでありますけれども、国権の最高機関できめ、法律の姿で教頭というものを明示してほしいんだということが教頭の皆さん方から非常に強い要望になって出てまいったわけでございます。これは学校現場におきまして、職員会議が最高決議機関だというような動きもございますし、また、そこで公選によって職務分掌をきめるんだという動きがあったりいたしまして、任命された教頭を教頭として認めないというような運動があったりする。そうしますと、やっぱり法律においてはっきりしてもらうということが自分たちの地位を確定させることではないかと、こう考えられただろうと、こう考えるわけでございます。一番強く希望しておられるのが教頭さんでございまして、そういうような紛争の過程から明確なものにしたいという希望が強まってきたんだろうと、こう思います。  その次に、非常に熱心に主張されておりますのが校長会の皆さん方でございます。教頭さんに校長の仕事を助けてもらわなきゃならない。助けてもらわなきゃならないけれども、その教頭さんについて職員会議が必ずしもよい態度を示さない。そうすると、法律で明定してもらって助けてもらう地位というものを確定させたい、そして真に力になってもらわないと、なかなか学校の運営にも困難を来たす面が多いというようなことであるようでございます。そういうような複雑ないろんな問題がからんでまいりまして、そういうことから四十三年以来ぜひ法定したい、職として確定さしてほしいということで国会にお願いをいたしておるわけでございます。
  92. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 教頭にはすでに管理職手当が支給されておりますが、管理職手当は教頭についてはいつから設置されたか。これは事務当局からでけっこうですが、お答えいただきたいと思います。
  93. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) これは、校長におくれまして昭和三十四年からでございます。
  94. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 校長はいつからですか。
  95. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) ちょっと私も記憶ございませんが、三十二年ぐらい前じゃなかったかと思いますが、正確に確かめましてお答え申し上げます。
  96. 茨木広

    政府委員(茨木広君) 私からお答え申し上げます。附属の学校長に支給いたしましたのは、三十三年の四月一日からでございます。
  97. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 そうしますと、校長も教頭も管理職手当をもらっているわけですから、当然私は管理職だと思うんですが、ただ、これ非常に奇妙なことなんですけれどもね、校長、教頭を管理職として指定されておりながら組合に入っておったという実情があるんですね。ところがILO八十七号条約批准に際しまして、校長、教頭のような管理職の者が組合に入ると御用組合になるというようなことで、組合から離脱されたと思うんですが、これはいつからでしたか。人事院のほうからお答えいただきたいと思うんです。
  98. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) ちょっと私調べたものでございますから申し上げます。四十一年の六月からだそうでございます。
  99. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 それなら人事院のほうはっこうですが、これは人事院規則によってそれが国家公務員が適用され、その結果地方公務員にはね返ったと思うんです。四十一年から校長、教頭が法制上は離脱させられたと、しかし現実はどうなっているのか、この点明らかにしていただきたい。これは文部省。まだ入っているかどうか。
  100. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) これは、校長とか教頭のような管理職の方々が職員団体に入るということは、これは別に法律でも否定はしていないわけでございますけれども、ただ、その法の保護は当然受けなくなるわけでございまして、正式な職員団体では、法律上の職員団体ではないわけでございますから、交渉権等はなくなるということであろうと思います。そこで、管理職だけの組合もできているわけでございますけれども、各県でまあそういう先ほど申し上げましたような、そういう法の保護を受けないということが明らかになりましてから、教頭が入っているということは私どもは承知をしないわけでございます。ただ、まあ金銭的な何か援助と申しますか、そういう関係で教頭が関係をしておるということは耳にするわけでございますが、詳細は承知をいたしておりません。
  101. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 ILO八十七号条約は労使の間をはっきり峻別することなんで、文部省と日教組には団体交渉権はないけれども、地方の都道府県と各県教組とは、これは任命権者ですから、私は当然団体交渉権があると思っているんです。その場合に、組合に入っておるということは、これはILO八十七号条約精神、違反すると思うんです。ですから、入っているとすれば私は問題があると思うんですが、この点もう少し明らかにしていただきたいと思います。
  102. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 御指摘のとおり、職員団体に管理職が入っておりますと、これは正規の職員団体ではない——正規と申しますのは、法律上の保護を受ける職員団体ではない。したがって、県の教育委員会と交渉をするというふうな権利はなくなるわけでございます。私どもが承知しておりますのは、形式的にそういう者が入っているというものはないというふうに聞いているわけでございます。
  103. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 組合から離脱しているから当然組合費も払ってないと思うんですが、この点はどうなんですか。
  104. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 組合費ということではなくて、金銭的な関係があるというふうなことは聞いたことはございますけれども、それが何か、寄付金でございますのか、あるいはその他のものでございますのか、その点は承知をいたしておりません。
  105. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 今度の法制化によって、何か組合に特別不利益な点があるのかどうか、私はこの点をお尋ねしたいんですが、いまのお話を聞きますと、まあすでに戦前から教頭というものは地位が確立しておったんだと、校長と一緒に。そして、ILO八十七号条約を批准しましてから組合から離脱され、そして組合費も払っていないと。そのほかに、今度の法制化をめぐって何か特別組合に不利益な点があるのかどうか、この点を明らかにしていただきたいと思います。
  106. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 職員団体にとって教頭の職が法制化されるということによって、私は別に不利益が生ずるというふうなことは全くないというふうに考えておるわけでございます。
  107. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 組合の私、心配している点は、管理体制の強化につながるんじゃないかという不安だと思うんです。ところが、現実にはあることだし、まあそれが制度化されたからといって特別に管理体制の強化につながるというふうには思わないんですけれども、この点はどういうふうに判断していらっしゃいますか。
  108. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 学校というのは、やはりその地域の住民に対するサービス機関でございますから、まあ最大のサービスをすることが必要でございます。そのためには、秩序のある組織運営のものに国民に対して教育というサービスをするわけでございます。その際に、やはり組織でございますから、責任者がおる。校長がおる。それから教員がおられる。その中間に立って教員と校長の間をうまく潤滑油的な役割りを果たす方も必要でございましょうし、また、校長先生が御不在の場合にはかわりにいろいろ代理をつとめるというふうな方も必要であろうと思います。まあ、そういう方をはっきりさせまして、秩序正しく国民に対するサービスを行なうというわけでございますから、別に管理体制を強化するとかなんとかいうことを意図しているわけではございません。学校が一丸となりまして国民に対するサービスが十全に行なわれる、そのためには教頭という職は、従来からもそうでございますけれども、これはもう必要なものだというふうな認識に基づいて御提案申し上げているような次第でございます。
  109. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 学校の運営というものは、校長が責任者でございますから、その校長一人ではやっぱり校務の運営が適切にいかないと思うんで、これを補佐するのが教頭であり、そういう意味で戦前から設けられ、戦後も一貫した流れだと思うんです。ですから教頭が要らないということは、私、組合も考えていらっしゃらないと思うし、どうも私は反対の理由が明確になっていないんですが、教頭の任命はどうなっているのか。たしか都道府県だと思いますけれども、教頭の任命について組合から推薦ができたかどうか、こういう点がどうなのか、今後これ変わるのかどうか、こういう点をちょっと明らかにしていただきたいと思うのです。
  110. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 現在は、身分が市町村でございますから、職務命令によりまして、市町村の教育委員会が発令をしているということになっているわけでございます。このたびの法律案が御承認をいただきますと、今度はこれは県の教育委員会が発令をするということになるわけでございます。現在のところ、たとえば東京都でございますと、教頭の試験というのをやっておりまして、教頭になりたい方々で一定の資格のある者、つまり何年か教員をつとめられた方、そういうような資格のある方が、そういう教頭試験を受けられて、その教頭試験に合格された方の中から市町村の教育委員会が発令をすると、そういうふうになっているわけでございます。これはまあ教頭というような方々を、公正に選び出すという点から設けられた制度であろうと思います。弊害もあると思いますが、そういうふうな長所があって設けられた制度でございまして、したがいまして、組合が推薦するというふうなことは、まあ大いにチェックをされると、そういうふうな不公正な人事が行なわれるということはチェックをされるようになっているわけでございます。が、しかし、まあ教員の方々のやはり信任の厚い人が教頭になられるということは、これは当然望ましいことでございまして、別にそういう点を否定する必要もないと思います。
  111. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 任命権の所在が市町村から都道府県に移ることによって、教頭の地位に変化はないと思うんですけれども、この点はどういうふうに反対の人は評価しているんですか、おわかりでしたら承りたい。
  112. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 都道府県の任命になるから反対だというような意見はまだ承ったことがないわけでございます。先ほど申し上げましたように、やはり広域的に、公正に教頭さんの人事が行なわれるということは必要でございましょうし、また、教員の方々も希望しておられることであるというふうに考えております。
  113. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 やっぱり全県的に見て、校長はもちろん都道府県で任命するわけですから、教頭についても全県的視野から選抜したほうが適当だと思うし、おそらく各県も任命の形式は市町村かもしれませんけどね、実態は都道府県で選考して市町村に発令はさしておりますけれども、その辺は実態が今度変わるというわけじゃないと思うんですが、これはどういうふうにお考えですか。
  114. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 先生おっしゃるとおりだと思います。
  115. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 教頭法制化反対の一つに、五段階給与制度というのがあるわけなんで、教頭の次には教務主任、学年主任等の中間管理職法制化がくるという意見があるんですがね、中間管理職について、文部大臣はどういうふうに考えていらっしゃるのか。いわゆる中間管理職というものは、私も学校運営上必要であると思いますが、教頭のように固定化しないほうがいいんじゃないかと思うんです。そういう意味で、教員との交流をはかったほうが学校運営上好ましいと思いますが、そういうことを考えますと、やっぱり私は中間管理職の法制化というのは、見合わせていただいたほうがいいと思うんですけども、文部大臣はどういうふうにお考えでございますか。
  116. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 学校によりまして学年主任とか教務主任とか、いろんな職制を明確に分担し合っているというところがかなり多いようでございまして、それはそれなりに努力をしてくふうされていると、こう考えるわけであります。問題は、それを画一的に法制化するかどうかという意味でお尋ねになっているんだろうと思います。私が文部大臣になりましてから後に、五段階給与のことを通じまして、教育現場にあまり必要以上の競争を持ち込まないほうがいいんだよという式の意見をずいぶん聞くようになりました。そういうことから、そんなにいやがっておられるような五段階給与をする必要ないじゃないかというようなことも考えてまいったわけでございまして、これらの問題につきましては、教育現場がどういう方向を希望されるか、そういう希望を見定めながら将来の方向を考えていくべきものであろうと、こう思っているわけでございます。いま直ちに中間管理職を法制化するというようなことは全然考えておりません。
  117. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 文部省の原案では、教頭は教員定数のワク内で処理するようになっていたと思うのです。衆議院の改正によりまして、教頭という職制が明確になり、必要によって授業をすると。ですから前と私は変わったと思うんですよ。そういうことを考えてみますと、これは教頭については、教員のワクじゃなくて、別ワクで定数を確保すべきものと理解しているんですが、文部省はどういうふうにお考えですか。
  118. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 政府の原案を提出いたしましたときには、教頭の職務の中に「教育をつかさどる。」ということが入っておりました。それが修正をいただきまして、「必要に応じ教育をつかさどる。」ということになっておりますから、これは考え方は、私は変わったものだというふうに思うわけでございます。しかしながら、定数法関係では、これはある程度実態を基礎にして定数上の配慮をしておるわけでございますので、現在は教頭先生がやはり一般の教員の半分程度は授業を持っておられるということでございますので、半分程度の授業を持つものとして定数上の措置をしているわけでございます。今後、法律の改正によりまして実態が大いに変わってくるというふうなことがございました場合には、定数法上の措置もそれに応じた措置をとっていくということにしてまいりたいというふうに考えております。
  119. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 私は、衆議院でせっかく修正されたんだから、衆議院の修正を尊重して、これは教頭は別ワクでやってほしいと思うのです。教員定数のワクからはじかないで、別ワクで処理していただきたいと、こういうふうに思うんですが、文部大臣いかがでしょうか。
  120. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) お示しのように、衆議院で政府原案に対しまして修正がございました。修正の筋から考えますと、教頭は教頭として定数を算定すべきもんだろうと、こう思います。現在のところは、教職員に関します定数法で、各学校には校長さん一人はいるものだというたてまえで計算のしかたをしているわけでございますけれども、今後はやはり教頭さんも一人はいるものだというような計算のしかたで定数をはじくという改革が必要になってくるだろうと、こう思っております。
  121. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 ぜひ、そうしていただきたいと思うのです。私はできるだけ教員数は、教頭を法制化したらやっぱり教員数を十分にしていただきたい。  それで、各学校には一人は原則でございますけれども、修正見ると、必要によって二人も置く、三人も置くように書いてあるんだけれど、これは小規模学校で一人はいいのですけれども、大きな学校になると、やっぱり校務の運用たいへんだと思うので、少なくとも校務担当の教頭と、それから教務担当の教頭、それからできれば学童担当の教頭、三人ぐらいあったほうがいいと思うんで、それだけよくめんどう見られるわけですから。この点はどういうふうにお考えですか。
  122. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) これは内藤先生文部省におられたころ、教頭は大体小学校六光級、中学校三学級以上に原則として置くんだというふうなことでスタートしたわけでございますけれども、たとえば、北海道のように非常に学校学校の距離が遠いようなところでは、それよりも以下の学校に置いておるというような実態でございます。  それからただいま御指摘になりましたように、大規模の学校につきましては二人、あるいは多いところでは四人ぐらいまで置いておられるところもございます。これは定数法上の措置をどうするかということは別にいたしまして、実態に即して複数の教頭が置かれるということはこれはけっこうなことじゃないかというふうに考えております。
  123. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 これは、私はあとから申し上げますけれども、なるべく教員数は十分に確保していただきたい、それはそれだけ勤務条件の改善になるわけですから。ところで、この間文部大臣は、教頭については給与法は新設しないというふうに衆議院の文教委員会で御答弁になったようでございますが、私は教頭法制化の一つの大きなねらいは、やっぱり教頭という職が設けられるならば、それに即した給与体系があって当然だと思うんで、いま御承知のように、校長、教諭、助教諭と、この三本立てになっているわけですからね。教頭をどこに位置づけるかとなれば、教員でもあるし、教員から任命するから教員の俸給表を使っていいわけですけれども、それでは私は教頭に相済まぬと思うんで、そうなってくると、やっぱり校長の表に格づけするか、教頭と二つにまたがらざるを得ないと思うんで、これは、私はどうしてもこの法律が通ったら教頭という職制に基づいた給与表があってしかるべきだと思うんですが、文部大臣の御所見はどうか。特に衆議院段階で修正があって教頭という職制を今度新しく確立した、こういう修正があった後も、文部大臣は依然として同じお考えかどうか、この点を伺いたいと思います。
  124. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) いわゆる人材確保の法案をめぐっての議論から始まったと思うんでございますけれども政府は、五段階給与を考えているという批判がずいぶんございました。また、教育の現場に過度な競争を持ち込むべきではない、こういう意見もございました。そういうところから、教育の現場の方方が希望されないようなことをあとう限り政府はすべきでない、こういう判断に立ってお答えをしてまいってきているわけでございます。その過程におきまして、教頭さんによりましても、小さい学校の校長さん以上に重い責任を負っておられる方方たくさんいらっしゃるわけでございますので、それはそれなりに優遇措置を講ずべきじゃないか。だから、そういう教頭さんについては一等級を適用するようにしたい、こういう考え方も述べてまいったわけでございます。同時にまた、教頭職の法制化ができたら、さらに一つの等級を設けるつもりではないかというような式もございました。しかし、いま私のほうから人事院に対して、教頭職の法制化ができたら教頭職についての等級表をつくってくださいというお願いする考え方は持っておりません。今後、現場の先生方がいろいろなお考えをお示しになるだろう、それに即して文部省としては考えていきたい、そう思っているんですと、こうお答えをしてきておるわけでございます。
  125. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 大臣、教諭から補すという前の学校教育法体系なら私はそのこと、そのお考えわかるんですよね。ところが衆議院で修正があって、教頭という新しい職制を確立して、校長と並んで職制を確立したんだから、そういう段階を考えると教諭でもない、校長でもないわけなんですよ。だから、やっぱりその中間に教頭という職制が必要になってくるんじゃないかと思うんですが、大臣は、このお考えを固執されるんですかどうですか。
  126. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 別段、自分の考え方を押し通すということじゃございませんで、皆さんたちの考え方を伺いながら方針をきめていけばいい、現場の先生方の意に反するようなことはなるたけ避けていきたい、こういう気持ちを持っておるところでございます。教頭は職として法制化する。これは政府原案も修正案も変わりはないわけでございまして、ただ、教頭さんがあわせて教諭の仕事もできる、それを修正によりまして例外的にそういう仕事もできるというふうに改正されたという違いでございます。したがいまして、職として新しく設けられるんだから、その職について、どういう俸給表を使うかということはいずれにしてもきめなきゃならないと思います。従来どおりの二等級を使うのか、あるいは別な等級を使うのか、それはきめなきゃならないことだろうと、こう思うわけでございます。ただ、私がたびたび申し上げますように、あまり等級表をたくさん設けることは不必要に競争意識を持たせることになって、現場をすさんだ空気にするんだと、こういうような意見がずいぶんあったわけでございます。それならそれなりの対応のしかたがあるじゃないかと、同時にまた、教頭職法制化の議案が爼上にのぼっておりませんでしたけれども、教頭さんの問題につきましても二等級が適用になっているけれども、人によっては一等級を適用したほうがいい場合もたくさんあるんじゃないかと、そういうふうな運営の改善をしたい、こう申しておった矢先でございますので、同時に、教頭職法制化ができたら、直ちに別な等級表をつくらなければならないとまでは考えなくてもいいと、こう思っているわけでございます。しかし、皆さんたちの御意見、現場の意見が固まってまいりますれば、それに従った措置を文部省としても当然努力をすべきものだと、こう思っております。
  127. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 非常に文部大臣の教育界に対するあたたかい御配慮、よくわかりますが、この点、人事院はどういうふうにお考えになるんですか、給与局長からお答いただきたいと思います。
  128. 茨木広

    政府委員(茨木広君) 先ほど来、たいへん重要な問題の議論が出ておるわけでございますが、現在、一等級、二等級、三等級と三段階に俸給表をつくっております。これは学校教育法の中に、校長、教諭、助教諭というのが典型的に出てまいっておりますので、それをつかまえておるものと考えるわけでございます。で、従来、教頭は規則等できめ、顔を出しておるということになっておりました関係上、そういう扱いにせざるを得なかったと、特殊な場合についてだけ一等級にする。要するに、校長と同じ職務をやっておる教頭については、そういう運用をするということを給実乙できめておるわけでございます。で、先ほどから御議論のように、今回、御議論の法律改正が行なわれるといたしました場合において、その結果、教頭の職責がどういうふうになるのか、その辺のところをよくやはり吟味、評価をしてみるべき必要があるんではなかろうかというように考えております。と申し上げますのは国家公務員法の六十二条のところに、「(給与の根本基準)」という条文がございます。その中に、「職員の給与は、その官職の職務と責任に応じてこれをなす。」というのが一つございます。それから、それと相対応しておるわけでございますが、一般職の職員の給与に関する法律の四条のほうに、「(俸給)」という条文がございますが、これにも「各職員の受ける俸給は、その職務の複雑、困難及び責任の度に基き、且つ、勤労の強度、勤務時間、勤労環境その他の勤務条件を考慮したものでなければならない。」と、こういうようなことがございます。それらに照らしまして今後どうあるべきかということを、法律がどうなりますか、その暁においてどういうふうな運用をされますか、その辺のところも拝見させていただきまして、よく相談をしなきゃならない問題だろうと思っております。
  129. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 いま給与局長がお述べになった国家公務員法の職務の特殊性から考えますと、私は、やっぱり教頭の俸給表は新設すべきだと思う。ですから、文部大臣が非常に教育的御配慮をお持ちになってお考えなのは私はわかりますけれども、やっぱり教頭を法制化した以上は、いま、国家公務員法の、給与法律に規定された趣旨に沿って御検討いただきますように、これはお願いをしておきます。  その次に、教頭、今度専任制の学校教育法が通った場合、その場合に、教員の定数が相当拡大されるから、この機会に私はぜひ文部大臣にお願いしたいのですが、一般公務員に先がけて週休二日制をすみやかに確立していただきたいと思うのです。これは文部大臣もかねてから週休二日には御賛成のような御発言をたびたび聞くわけですが、私は学校の現場はいま週休二日というか、五日制というのは正直言って無理だと思う。中小企業なり農村等を考えてみますと、やっぱり学校は六日であってほしいと思うし、また、一般の会社等もまだ五日制には踏み切れないだろうと思う。そこで、これひとつ文部大臣にお願いなんですけれども、私はいまの教育見ておりまして、確かに知育偏重というか、試験地獄に追われてまるで予備校みたいな存在になっておって、ほんとう教育が荒廃していると思うので、そこで、もうお勉強は五日でいいと思う、月火水木金で。土曜日は思い切ってスポーツ活動、からだをじょうぶにすること、それからクラブ活動といって自分の趣味を生かすこと、それからさらに奉仕活動をやっていただきたい。それは、学校を清掃する、あるいは隣近所の道路をやったりあるいは川が非常によごれているから川をきれいにしてやる、あるいは高学年になったら学校のまわりに緑化運動をやるとかあるいは花植えをして美化運動をやるとか、そういう私は奉仕活動をぜひやらしてほしいと思うのです。いまの教育の中で一番欠けているのが、私はその奉仕活動だと思う。非常にエゴイスティックでそれから自分さえよければいいのだと、人の迷惑をかまわない。それから物と金、エコノミックアニマルというそういう現象が出ているから、もっと公共のために奉仕するというそういう精神を植えつけるのが私は一番いいと思うのです。  そこで、今度、定数がふえるから、そのふえた定数の人件費が相当出るわけですから、この人件費を活用していただきたいと思うのです。それには先生は五日まで、月火水木金でいいですから、土曜日は、定年になった、まだ五十七、八で定年になったり、あるいは五十五で定年になったら早いと思うのです。私はそういう先生にもう少し長く働いていただきたい。りっぱな教育界の人材ですから、定年になった先生を非常勤嘱託にして、土曜日に子供のめんどうを見てやる、クラブ活動のめんどうを見る、あるいはスポーツ活動のめんどうを見る、あるいは奉仕活動のめんどうを見る、こういうふうにやっていただく。そうすると、一般の先生は五日でいいわけです。ですから、まさに週休二日が実現するんですから、今度の教頭法制化によって相当の私は教員の定数の増なんだから、その増の人件費をもって思い切って大臣ひとつ週休二日制を、これは他の公務員に率先して実現していただきたいと思うのですが、大臣の御所見を伺いたいと思う。
  130. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) これまでもお尋ねに従ってお答えをしてまいってきておるわけでございますが、公務員について週休二日制が採用される場合には、教育公務員についても同様の扱いをすべきだと、こう申し上げさしていただいているわけでございます。公務員の週休二日制というと、すぐ学校授業五日制に結びつけて考えられるんでございますけれども、私は別な考え方を持っておるわけでございまして、私は学校教育と社会教育との体系的な結びつきを考えてほしい、こういう希望を非常に持っておるわけでございます。社会教育教育の一環でございますし、学校教育教育の一環でございます。したがいまして、そういうような中でよい道を見出していきたい。いま学校授業をどうするかという問題でございませんので、そこまで申し上げることは避けさしていただきますけれども、いずれにいたしましても、公務員について週休二日制が採用せられる、人事院から勧告されるというふうな段階になってまいりました場合には、教育公務員につきましても、同様の措置がとり得るように文部省としては最善を尽くさなきゃならない、かように考えているわけでございます。
  131. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 大臣少し消極的だ。私は、何も公務員がやったら教員もやるんじゃなくて、教員を先がけてやってほしいと言っているんですよ。それは現に東京都あたりは研究日と称してたしか水曜日は先生休んでいらっしゃるはずですよ。私はけっこうだと思う。ですから、これはね学校形態は六日になっているんですよ。先生に研究日を一日差し上げたらいいと思う。そして、それに研究費でもつけてもらえばもっといいと思う。ですから、この間の人材確保法案で、あの法律には他の公務員に比べて、あらゆる公務員に比べて優遇するという教員について大原則が確立されたんだから、私は週休二日については、これは週休二日と言うとちょっと語弊があるから、そう言わぬでもいいから、もう一日研究日をつくってほしいと、そして土曜日だけはもうああいう学習活動やる必要ないと思う。クラブ活動なり体育活動をやってからだをじょうぶにすることと、そして奉仕活動によって徳育を身につける、こういうことをやったら、私は非常にけっこうだと思うんです。国民も喜ぶと思うんです。先生もしっかり研究してもらえば、これ両方ともいいんじゃないかと思う。せっかく教頭法で相当の定数の余裕が出るんですから、私は思い切ってやるチャンスだと思うんだよ。私はひとつ大臣に、そういう方向で御検討願えないかどうか。他の公務員がやったら教員もやるというんじゃなくて、あの人材確保と同じような趣旨で、教員を優遇するというふうにひとつ思い切って決断されていただきたいと思うんですが、いかがでしょうか。
  132. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 先生方の希望に即したような施策、これはもうできる限り努力をして実現するようにしていきたい、こう思っております。いずれにいたしましても、公務員の週休二日制の問題、前進的に、そう遠からないうちに実現の運びになるんじゃないだろうかなと、こうも思っておりますので、まあ似たり寄ったりな気持ちでおるんじゃないだろうかと、こう思います。いずれにいたしましても、先生方の処遇につきましては最善を尽くすように努力をいたしてまいります。
  133. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 最近、教師聖職論というものが、新聞・放送界をにぎわしておりますが、私は教員というものは、知識や技術を切り売りする単なる労働者でもないし、また、専門的教養を必要とする専門職にとどまらず、親と同じように児童・生徒の生涯に重大な影響を与え、その子弟の運命を支配するのみならず、国の文化の進展にも偉大な貢献をするという意味で、使命感に燃えた誇りを持った教師であってほしいと思うんです。聖職という表現が適当であるかどうかはこれは別にしまして、少なくとも、専門的教養を持った労働者というよりはもう少し突っ込んだ意味で、私はやっぱり聖職的であるというふうに判断しているんですが、この点、大臣はどういうふうにお考えでございますか。
  134. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 私は常に、教育というのは物をつくるんじゃなくて人をつくる、相手方がみずから学び取ろうとする意欲を持たない限りにおいては人づくりは成り立たない、そうとすれば教える側が、いまおっしゃいましたように、使命感に徹して情熱を燃やしていくのでなければ、相手方がみずから学び取ろうとする意欲を持つことはできない、こう考えているわけでございます。したがいまして、私は聖職論がございましたが、みずから聖職というような意識に燃えるような人が教育に当たってくれるのでなければ教育の実はあがらない、こう考えているわけでございまして、聖職を押しつけるのではなくて、みずから聖職と自覚する、そういうような姿が一番望ましいんじゃないだろうか、こう考えておるわけでございます。
  135. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 昔から、親に似ない子は鬼っ子だと言うし、子供は親の後姿を見て育つと言いますが、やっぱり私は教師の人格というものが非常に子供に影響を与えると思うので、それは子供の生涯をきめると思う。そういう意味で、教師がいま大臣のおっしゃるように、使命感に燃えて、情熱を持った教師であってほしいと思うんです。そのためには、やっぱり私は教師の待遇を画期的に改善する今度の人確法で、すでに二割の増が予算措置としては確定しているわけなんで、さらに、これを前進させるとともに、週休二日制の問題もそういう点からひとつお扱いいただければありがたいと思う。私は、週休二日というのは、ちょっとまだ一般公務員より早いというふうなお考えがあるかもしれませんけれども、こういうふうにお考えいただきたい。研究日を一日教員だけは先がけてやると。ということで、まあ実態は週休二日ですけれども、研究日をするというふうなことで、ひとつこれは大臣、あなた非常に有力な文部大臣だから、ぜひひとつこの機会に実現してほしいと思う。これをまずお願いしておきます。  それから、特に教員がいまおっしゃったように聖職的意識、使命感に燃えて、情熱を持って教育を推進するとなると、私は裁判官と同様に待遇の改善と地位の保障が実現されなければならないと思うのです。裁判官にスト権がないと同様に、教師にもスト権は必要がなくなるという状況が一番私は望ましいと思うのです。教師のストというのは、児童・生徒の心情に重大な影響を与えるので、私はどんなことがあってもこれは避けなければならないと思っていますが、大臣のこれについての御所見を伺いたいと思う。
  136. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) スト権が本来の意味の勤務条件の維持改善ということでありますならば、すでにいわゆる人材確保法によりまして、教員の給与は一般の公務員に比較して優遇されなければならないという大きな政治方式が確立されたわけでございます。したがいまして、その意味の必要性はほとんどなくなるのじゃないだろうかと、こう考えているわけでございます。その他の勤務条件につきましても、これに歩調を合わせて当然改善に積極的な努力を払っていかなければならないことは言うまでもないことだと思います。問題は、私は、政治活動の問題ではないだろうかと、かように思うわけでございまして、私は、政治活動につきましても、特に先生方は。いま御指摘になりました裁判官、自衛官などと同じように、みずから規正しなければならない性格のものではないだろうかと、こう考えているわけでございますし、また、教育基本法はその精神をうたっているものだと、こう存じているところでございます。
  137. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 そういう意味なら、人確法で一般の公務員よりも優遇するということ、それからこの教頭法制化を機会に、定数がふえるわけですから、思い切って、公務員に先がけて週休二日制を実現したら、勤務条件の改善もされて、おそらくストをやる必要は私はないだろうと思うので、そういう環境をつくってあげるのが、私はやっぱり文部大臣の職責じゃないかと思うので、明治の先輩が、教師には国民の三大義務の一つである兵役さえ免除して、政治における教育優先の原理を確立されましたことを私はたいへんすばらしいと思うのです。ひとつ、奥野文部大臣、このことをひとつ銘記していただいて、文部大臣の御所見を伺いたいと思うのです。
  138. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) いずれにいたしましても、青少年を教育していく、この青少年が日本の国家社会の将来をささえていくわけでございますので、国家社会の命運を託しているところ教育界。そこで教育に当たってくださる方々の責任は非常に重い。したがいましてまた、責任が十分果たせるようにあらゆる配慮をしていかなければならないと考えているわけでございます。  なお、週休二日のことを重ねてお話しになりましたので、私たちはいま、教育課程審議会を通じまして、小中高の教育内容はいかにあるべきかということで御審議をいただいているわけでございます。同時にまた、教育内容については、思い切って精選してくださいよと、こうも申し上げているわけでございます。そうしますと、精選した結果は、週五日で従来の教育課程はこなせますよということになるかもしれません。しかし、教育課程はこなせるかもしれないけれども、知育・体育・徳育を通じた人づくりという点については、さらに時間をかけなければならないという問題も出ているわけでございまして、そういうこともあわせまして検討していただく、そして最後の結論を出したい、こう考えているわけでございます。いずれにいたしましても、週休二日の問題と学校教育あり方の問題、授業五日制か、あるいは五日プラス一日、御指摘のような方法を考えるのか、あるいは社会教育が担当するのか、いろいろな問題があるだろうと、こう思っているわけでございまして、先生方の処遇の問題につきましては、他におくれをとらないように、内藤先生はむしろ積極的にそういう点について努力をせよというお示しだと思います。そういう気がまえで努力はしていきたいと思います。
  139. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 ありがとうございました。  大体一時間に、六時になりますので、きょうはこの程度にさしていただきます。
  140. 中村登美

    中村登美君 関連。  先ほど文部大臣からも御答弁いただいておることなんですが、会社などでも係長とか、課長とか、部長とかという段階がございますね。先生方にはそれが非常に少ないわけで、現場の先生からの声なんでございますが、五段階どころじゃない、七段階でも八段階でもぜひほしいというお話をたくさんの先生から伺っておるわけでございます。先ほど、内藤先生が教頭の先生を三人でも四人でもとおっしゃいましたけれども、それも一つの方法ではないかと存ずるものでございます。それらの問題につきまして、文部大臣の御所見を伺わせていただきたい。
  141. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 先ほど初中局長からお答えをいたしましたように、現在でも教頭四人という学校がかなりございます。これは、やはりそれぞれの学校の実態に応じまして、一人に固定する必要はない、やはりそれぞれの学校の実情に応じて教頭さんをつくったらいいんじゃないだろうかと、そして、それぞれの教頭さんの分担を明確にしていただけばいいんじゃないかと、こう考えているわけでございます。やはり、職務分担を明確にしていきますことが仕事についての効果をあげる基本ではなかろうかと、こう考えておりますので、いま御指摘の点、大切なことだと、かように思っております。
  142. 中村登美

    中村登美君 もう一つだけ。この問題は、先生方のたっての御要望がございましたので、三十七、八年間つとめても何の希望といいますか、それらの段階がないために努力の目標が非常に薄らいでいるというような考え方もございます。また、それらの力が組合運動などへも走らせておるのではないかというような考え方もできますので、ぜひ、その先生方の栄進の段階の道と申しますか、御考慮願いたいと思います。  以上です。
  143. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) いまおっしゃったことも非常に大切なことだと思います。同時に先生方教育一筋に努力してくださる、しかし管理職には必ずしも向いていない方もいらっしゃると思うのです。そういう方はそういう方として、私はやっぱり何らかの形で優遇するというような道を見出していかなければいけないのじゃないだろうか。管理職になるばかりが能じゃない、ひたすら教育に熱情を傾けてくださるそういった方々についても、それなりに報いる道をくふうしていかなければならないものだと考えておるわけでございます。いま具体的にどうすればいいという結論を持っているわけじゃございませんけれども、それぞれの努力に対しまして社会がこたえるようなくふうというものは、これはやはり当然大事なことだとこう思っております。
  144. 世耕政隆

    委員長世耕政隆君) 本案に対する質疑は、本日はこの程度にとどめます。  これにて散会といたします。    午後五時五十九分散会      —————・—————