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1973-12-20 第72回国会 参議院 文教委員会 第2号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和四十八年十二月二十日(木曜日)    午前十時四十七分開会     —————————————    委員異動  十二月五日     辞任         補欠選任      内田 善利君     田代富士男君  十二月七日     辞任         補欠選任      橘  直治君     今  春聴君      楠  正俊君     内藤誉三郎君      鹿島 俊雄君     石本  茂君  十二月八日     辞任         補欠選任      今  春聴君     徳永 正利君      石本  茂君     斎藤 十朗君      田代富士男君     白木義一郎君  十二月十日     辞任         補欠選任      徳永 正利君     星野 重次君  十二月十三日     辞任         補欠選任      斎藤 十朗君     石本  茂君  十二月十四日     辞任         補欠選任      石本  茂君     斎藤 十朗君  十二月十九日     辞任         補欠選任      萩原幽香子君     中沢伊登子君     —————————————   出席者は左のとおり。     委員長         世耕 政隆君     理 事                 斎藤 十朗君                 内藤誉三郎君                 宮之原貞光君     委 員                 金井 元彦君                 志村 愛子君                 中村 登美君                 濱田 幸雄君                 二木 謙吾君                 松永 忠二君                 矢追 秀彦君                 中沢伊登子君                 加藤  進君    国務大臣        文 部 大 臣  奥野 誠亮君    政府委員        文部政務次官   藤波 孝生君        文化庁長官    安達 健二君    事務局側        常任委員会専門        員        渡辺  猛君    説明員        日本国有鉄道理        事        内田 隆滋君    参考人        早稻田大学教授  竹内 理三君        国学院大学教授  坂本 太郎君     —————————————   本日の会議に付した案件 ○理事辞任及び補欠選任の件 ○教育文化及び学術に関する調査  (伊場遺跡保存に関する件)     —————————————
  2. 世耕政隆

    委員長世耕政隆君) それでは、ただいまから文教委員会を開会いたします。  委員異動について御報告いたします。  昨日、萩原幽香子君が委員辞任され、その補欠として中沢伊登子君が選任されました。     —————————————
  3. 世耕政隆

    委員長世耕政隆君) さらに、松永忠二君から、文書をもって、都合により理事辞任したい旨の申し出がございました。これを許可することに御異議ございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  4. 世耕政隆

    委員長世耕政隆君) 御異議ないものと認め、さよう決定いたします。     —————————————
  5. 世耕政隆

    委員長世耕政隆君) 本委員会理事が四名欠員になっておりますので、この際、理事補欠選任を行ないたいと存じます。  理事選任につきましては、先例により、委員長の指名に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんでしょうか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  6. 世耕政隆

    委員長世耕政隆君) 御異議ないものと認めます。  それでは、理事斎藤十朗君、内藤誉三郎君、小林武君及び宮之原貞光君を指名いたします。     —————————————
  7. 世耕政隆

    委員長世耕政隆君) 参考人出席要求に関する件についておはかりいたします。  教育文化及び学術に関する調査のため、本日の委員会に、参考人として早稲田大学教授竹内理三君及び国学院大学教授坂本太郎君の出席を求め、その意見を聴取することに御異議ございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  8. 世耕政隆

    委員長世耕政隆君) 御異議ないものと認め、さよう決定いたします。     —————————————
  9. 世耕政隆

    委員長世耕政隆君) 藤波文部政務次官から発言を求められておりますので、これを許可いたします。藤波文部政務次官
  10. 藤波孝生

    政府委員藤波孝生君) お許しをいただきまして一言ごあいざつを申し上げます。  このたび文部政務次官を命ぜられました藤波孝生でございます。  文教行政重要性にかんがみまして、奥野大臣の驥尾に付して全力をあげて職責を全うする決意でございますので、先生方の御指導と御鞭撻を賜わりますように切にお願いを申し上げます。  簡単ではございますが、ごあいさつといたします。(拍手)     —————————————
  11. 世耕政隆

    委員長世耕政隆君) それでは、教育文化及び学術に関する調査を議題といたします。  この際、参考人の方にごあいさつを申し上げます。  本日は、御多忙のところ本委員会に御出席くださいましてありがとうございました。ただいま時間がだいぶたっておりますので、直ちに委員質疑に入りたいと思います。何とぞ存分にお答えいただきたいとお願い申し上げる次第でございます。  それでは、これより質疑に入ります。  質疑のある方は順次御発言願います。
  12. 松永忠二

    松永忠二君 質問を始める前に、竹内先生坂本先生、お忙しいところおいでいただきましてお礼を申し上げます。  文部大臣に先にお聞きいたしますが、静岡県の教育委員会東海道高架化事業に伴う電留線建設に関して、伊場遺跡史跡指定を全面的に解除した。それから、文化庁がこれに関連して国鉄工事を認めたことについて、一般のいろんな人からどういう批判があるかということは大臣としては御承知でしょうか。
  13. 奥野誠亮

    国務大臣奥野誠亮君) 問題の土地はさきに静岡県が県の史跡指定した地域でもございますだけに、埋蔵文化財保存していかなきゃならない、それが国鉄事業のために荒らされてしまう、貴重な国の文化財が失われてしまうんじゃないかという不安が非常に多かったと、かように考えておるわけでございます。その後、逐次調査を続けていただきまして、結果がかなり明確になってまいったわけでございますし、同時にまた、将来にわたりまして史跡公園を設けるとか、同時にまた発掘されたいろいろな記録保存していくとかいうような措置も講ぜられましたので、一面強い批判もあったわけでございますけれども、ある程度そういう面についての納得も得られつつあるんじゃないだろうか、かように考えているわけでございまして、相反する二つの考え方の調整が、まあこのところで一応大かた納得が得られるようになってきているんじゃないだろうかと、かように考えているところでございます。
  14. 松永忠二

    松永忠二君 文化庁長官もう少し具体的に、どういう批判があるか、賛成の向きはよろしゅうございますが、どういう批判をしているかということを御承知ですか。いま大臣が答えた以外で、もっぱら批判のほうをあなたはどの程度御承知でしょうか。
  15. 安達健二

    政府委員安達健二君) ただいま大臣からお答えのありましたことに大体尽きているかと思います。この十二月の決定後におきまして、私どものところへ特に強い批判と申しますか、そういうようなことでお話を承ったことはございません。一般的に言えば、いずれも歴史的な遺跡でございますので惜しいというお考えがあるのはごもっともだと思っておりますが、その決定後におきまして強い批判その他を私どもで直接聞いたということはございません。
  16. 松永忠二

    松永忠二君 それでは、竹内参考人にお聞きいたしますが、いま文化庁長官の言われたような状況ではなくて、新聞にも、解除後あらゆる新聞にいろんな記事が出て相当な批判があるということは私は例証をあげて言えると思うんでありますが、まあ、それはおくといたしまして、竹内参考人はこういうことについてどういう御批判をお持ちでしょうか。
  17. 竹内理三

    参考人竹内理三君) 私、「伊場遺跡を守る会」の代表者となっております関係上私が申し述べますわけでありますが、これは会そのもの意見でもあると考えているんですが、とりあえず読売新聞紙上に私書きましたのでございますが、とにかくこの遺跡は非常に、今日までに見られた遺跡では類のない非常に雑舎的な八世紀から十世紀にかけて国家の地方官衙地方行政府遺跡であると、そういうふうにわれわれは判断したわけで、それでまあ非常に重要な、今後十分なる研究をする必要のある遺跡だと考えてその保存を要望してきたのでございます。  そこで、そういう遺跡が十分な研究もし尽くされないうちに破壊の第一段階に入るということは、これは何よりも残念であるという意味のこと。それから、一たん破壊されたあとにはもういかなる——研究が進歩しまして今日の研究段階ではわからなかったことをさらに深めるということも全然不可能になるという点。それからさらに、今日まで私たちのほか全国の少なくとも十九ないし二十の全国的な学会がこぞってこの保存を要望しておるというそういう背景もありまして、これは何と申しましても、そういう判定を下した県教育委員会責任をいわば追及したいと考えておるのでございます。文化庁長官は、先ほどまだ何とも直接には申し入れがないと申されましたけれども、実は、もうすでに書類はできておりまして、そのうちに文化庁長官のところへも御持参申し上げる予定になっております。そういうわけでございまして、今回の処置について地元の方々はそれはいろいろな御意見もございましょうけれども、全国的あるいはこの歴史的、日本民族歴史として考えた場合には、やはりぜひこれは保存してほしいという点については今日もまだ変わっておらないのでございます。
  18. 松永忠二

    松永忠二君 四月十九日の文部大臣も御出席をされ、文化庁出席をしていた席で、文化庁は、指定解除賛成ではない、解除しない方向指導すると、まあここに速記録もありますが、そう言っておられたのですが、一体今回どういう指導をそれについてなさったのか。  それからまた、全面解除については賛成なのかどうなのか、その点をお聞きしたいと思います。
  19. 安達健二

    政府委員安達健二君) この前、四月のときの御質問の際に、文化庁としては一たん県という立場ではございますけれども歴史上の重要な遺跡であるということで史跡指定されたものを、その開発の必要のために指定解除するのは筋が通らぬのではないか、こういう趣旨のことを申し上げたわけでございまして、そこで、私どもといたしましては、南半分の解除の問題については、そういうことを繰り返し申したわけでございまして、さらに、その北の部分につきましての解除につきましても、そういうような同様な立場におきまして、たとえば、あえて解除しなくても現状変更というような方法でもできるのではないかということを指導したのでございますが、県の教育委員会立場からいたしますと、南半分と北半分とが違った処置をするというようなことも、県の立場からすれば、非常にむずかしいというような県の教育委員会立場もまあ理解もできなくはないと、こういうのが、私どもの基本的な考え方でございまして、そういう方向指導したわけでございますけれども、県の教育委員会としては、従来の南半分との関係等から考えまして、東半分をおやりになったというのは、われわれとしては、われわれの趣旨ではないけれども、まあ立場理解できなくはないというのが私どもの見解でございます。
  20. 松永忠二

    松永忠二君 この点については、県議会で教育長がいろいろ答弁をしているわけです。一部解除したけれども、その後告示をしなかった。告示をせずにずっと見ていたわけです。その点について質問をされたので、文化庁了解賛成を、一部解除告示を取りやめて、今回全面解除をしたのは、文化庁了解賛成が得られたのではないかと、そういうふうに判断をしているようであります。文化庁は、国鉄との協議で遺跡高架事業に使うことを認めたことが全面解除になった根本の理由であるということは事実であります。  そうなってくると、全面解除ということは、そういう指導方向でない指導考えたんだが、現実にはあなた方のおやりになったことが、実は告示をとめていたものを告示を発効させ、全面解除へ導いたということになるのですが、そういうことになると、この前の答弁をされたことと少し筋合いが違っているのじゃないか。文化庁指導が十分なされていないのではないか。むしろ文化庁は今度そういうことを、国鉄工事を認めたことが実は全面解除をさせた理由になっている。それまでは全然解除告示をやってないわけです。石田という教育長は、文化庁は検討中で、県教委指定解除を保留している、今後はよく国と連絡し、問題を解決したい、そう言っておいて、そして今度は国鉄工事協定ができるとともに、いままで取りやめていた告示をやるだけでなしに全面解除告示を出したわけですから、そうすると、文化庁のやった行為があなた方と考え方の違う行動を実は起こさせる基礎になったというふうに私は思うのですが、これは考えが違いましょうか。
  21. 安達健二

    政府委員安達健二君) 県の史跡指定の問題と、それから私どものこの遺跡に対する措置のと申しますか、いわゆる文化財保護法に基づきますところの遺跡の取り扱いとの両方の問題がからんでおりますから、ちょっと十分な御理解を得にくいかと思いますけれども、まず私が申し上げておりますことは、県が一たん史跡指定したものを解除するというその手続の問題について私ども筋が違うのではないかということを申し上げたわけでございまして、私どもは、そういう問題は何らかの方法によって遺構そのものが損傷しないような工法、まあ土盛り等にすることによりまして、これはまあしかし実質的な問題といたしまして、将来の研究の用に十分たえるかどうかは別といたしましても、少なくとも、その遺構面を損傷しないような工法をとるというようなことがとられれば、これは一面におきましては現状変更というようなことでも処理し得るわけでございまして、私どもがおそれておりますのは、史跡というものを一たん指定したものを開発の利によって解除するというようなことは、やはり史跡に対する態度としてどうであろうかということを申し上げておったわけでございます。  一方、この遺跡全体をどう評価して、これをいわゆる記録保存というような形でいくか、あるいは原状保存でいくかというような問題になりますると、これはその問題全体といたしましてわれわれとしていろいろ研究をし、また学術調査の結果等も勘案いたしまして、われわれといたしましては、そこのところをひとつ盛り土工法で、遺構面を損傷しないような工法によってやるということと、その遺構を検出して十分な記録をとり、また出ましたところの遺物については完全に保存をしていくというような方法によってこの伊場遺跡そのもの処置考えるというようなことでございます。そういう面で、実質的な問題といたしましては、両者非常に密接な、根本的な連関がございますけれども手続なりという面からいたしまして、私どもと県との間に意見の相違があったということは事実なわけでございます。
  22. 松永忠二

    松永忠二君 大臣もいまのことをお聞きになったと思うんですが、結果的には、いわゆる国鉄側工事協定を結んだことが、実はそういう方法でやらないでもいいと思われたような方法に県が踏み切った原因になったということだけは、これは事実だと思うのです。そういうふうに私たちは思います。その史跡解除ということは、指導のしかたとしては思わしくなかった、そういうことをせぬでもいいじゃないかと思って指導してきたんだが、実は工事協定を結んだことが全面解除をさせる一つの口火になっている、基礎になっているということを私は言っているわけです。  そこで、なおお聞きいたしますが、伊場遺跡について、文化庁はどういう学問的な評価をしているのか、これをひとつお聞かせいただきたい。
  23. 安達健二

    政府委員安達健二君) 伊場遺跡は非常に広うございまして、全体で二万五千六百平米と申しますか、もちろん、これ以外にも連続したところがございますが、今度の問題になったところは二万五千六百平米でございますが、その伊場遺跡につきましては、御案内のとおり、東の地区と、それから西部地区では性格が違うということでございます。東側の東部地区弥生時代古墳時代中心でございまして、弥生時代の溝と、それから古墳時代竪穴式住居跡が主たるものでございまして、そのほかに性格不明のピット等があるということでございますが、弥生時代住居跡は発見されていないということでございますが、この種の遺構につきましては、他にも類例が少なくない、普通に見られるところの弥生時代古墳時代遺構であるということが一応のわれわれの考えでございます。  それから西部地区遺構につきましては、歴史時代初期、七世紀末から十世紀木簡が発見されましたところの溝、大溝西部中心といたしまして、掘っ立て柱建物跡が検出されておるわけでございます。で、この木簡内容等からいたしまして、この建物がどういうものであるかにつきましてはいろんな解釈があるようでございまして、あるいは郡衙、あるいは厨、あるいは厩等解釈もございますが、われわれといたしまして、まだそれについて確固たる定説にまで至っていないのではないかと考えておるわけでございます。  それからその建物跡評価でございますが、小規模掘っ立て柱のものでございまして、その規模、配置には企画性計画性がないということでございまして、その点では従来から発見されておりますところの地方官衙郡衙等遺構と比較いたしますと、貧弱といわざるを得ないというようなことでございまして、したがって、この付近地方官衙があったといたしましても、いま申し上げました大溝付近のところが、そのいずれの部分に当たるのか、あるいはその範囲の内か外かなどもいまのところは何とも言いがたいのでございますけれども、しかし、現在のところが中心的部分であるとする根拠はないんじゃないかというような点でございまして、まあ、そういうような点からいたしまして、この伊場遺跡を国の史跡指定して保護するというまでには至らないというような考え方でございました。これは文化財保護審議会、それから文化財保護審議会の第三専門調査会懇談会等意見を伺いましたところ大体同様の意見でございました。そういうような点で私どもといたしましては、伊場遺跡は、いま申し上げましたような歴史的価値を持っているけれども、国の史跡としてあくまでも保存するだけのものには至っていないと、こういうように評価をいたしているわけでございます。
  24. 松永忠二

    松永忠二君 坂本先生は第六次、第七次の調査団顧問でございますか一をやられておるようでありますが、この伊場について、どういう学問的な評価をなさっているんでしょうか。ちょっとお聞かせ願いたい。
  25. 坂本太郎

    参考人坂本太郎君) 私は、伊場遺跡調査団顧問ということになっておりまして、本来ならば、団長の斎藤博士が伺って御質問にお答えするのが正しいわけでございますが、今日、私はその代理というようなことでございますが、ただいま長官が言われましたように、伊場遺跡東部西部とは全く性格が変わっておりまして、東部地区について、従来県が指定をしていたのでございます。西部地区のほうは新しく今度調査いたしまして出てきた遺構でございます。それが大溝とそれに木簡、土器の類——柱穴、そういう類のものでありますが、遺構といたしましては、小さな建物が何度かにわたってその辺に雑然と建てられたということしかわかりませんし、溝が運河として利用せられたような形跡もありますし、あるいは魚をとる施設もあったらしく見られますし、いろいろに利用せられたようなところも見えます。しかしながら郡衙、最初のうちはこれは郡衙あと布知郡の跡であるという説が有力でありましたが、郡衙あとといたしましては建物がとうてい郡衙に値しないものでありますし、厨というものもどういう性格のものか、これもその同じ時代のものとははっきりわからないのでございまして、たいてい厨というものは、郡とか駅とかあるいは寺社のそういうものに付属した炊事をするような建物をさしているのが例でございます。やっぱり何か付属的なものであるし、また駅といたしましても、駅ならばもっと、たとえば馬を入れる厩であるとかあるいはその使いの人を宿らせる大きな建物とか、そういうものがなけりゃならぬわけでありまして、まあ、近いところに駅とかあるいは郡というようなものがあったかもしれないということはその木簡によって推測されますけれども、いま問題になっているその用地がそれらの跡であるということは明言できないわけであります。ほんの一部分にかかっておるかもしれませんけれども、おそらく本体はもっと別のところにあるんであろうというのが私ども評価でございます。したがって、今回の文化庁当局でいたしました措置は、私も文化財保護審議会委員でございますので責任を持っておるわけでありますが、その措置賛成をいたしているわけでありまして、いまの措置は、北部地区を残して、そこを保存して、そこに公園をつくって、資料館を建て、それからいまの大溝その他の状態を綿密に図にあらわし、記録に示して人々に知らせると、そういうことを考えておるわけでありますから、保存と、私は開発ということばは使いたくないんで、住民福祉の問題、住民福祉史跡保存とを両立さすことが結果としてはよい、今日としてはよい処置であると私は思っておるわけでございます。
  26. 松永忠二

    松永忠二君 日本最古絵馬が出たときに、坂本先生、こういうことをおっしゃっているのですが、これはそうでございましょうか。「伊場遺跡郡衙跡にしては建物跡規模が小さ過ざると思っていたが、出土した木簡駅家説が一段と強まり、昔の東海道伊場遺跡付近を通っていたのはたしかなので、推測に無理はない。今度の発見は駅制を知る上で非常に貴重だ。」と、これは間違いではございませんか。
  27. 坂本太郎

    参考人坂本太郎君) それは新聞に出たのでありまして、私が書いたものではありません。電話でたしか新聞、どこの新聞だか知りませんが、電話で私の意見を聞きにきましたので、答えたわけでありまして……。
  28. 松永忠二

    松永忠二君 このとおりですか。
  29. 坂本太郎

    参考人坂本太郎君) そのとおりと、絵馬と私ははっきり申しません。絵馬かどうかはっきりわかりませんので、それははたして最古絵馬と言ってよいかどうか。絵馬というのは、いままでの通説では大体平安時代ごろにできたんだろうと言われておりまするが、あれははたして絵馬と称する——絵馬ならばつまり神社に馬を献ずるかわりに、馬ではもったいないので絵にかいて絵馬を掲げるというのが絵馬の起源でございまして、あれははたして神社にあげたいわゆる絵馬なのかどうか、それならばそういう神社がこの辺にあったのかどうか、その辺もわかりませんし、絵馬というものかどうかまだはっきりわかっていないわけなんです。あるいはもっとほかのおまじないのようなもので、自分の各戸の家の前にかけたようなものがあった形跡はありますから、ここに馬がいるぞということのしるしにかけたという、そういうことではないかとひそかに思っている次第であります。いわゆる今日言うような神社にあげるような絵馬だとは断言できないと思っているわけであります。そういうこまかいことは電話では申しませんので、そのように最古絵馬だと言っておりますが、絵馬というのは新聞記者がそう言っている。私は絵馬だとははっきり思っていない。  それから郡衙の跡というのは、前から私は疑問を持っていたわけでありまして、おそらく郡衙の跡ではなかろうと思っているのでありますが、駅の跡ということは、これは栗原の駅ということになるわけでありますが、これは栗原と書いた墨書土器などもありますし、それから駅に関するそのほかのもの、駅と称した木簡類がたくさん出ておりますので、まああの近くが栗原の駅であったかという推測はかなり可能性があると思います。そしてやはりまあ昔の道はあまり変わらないのが普通でありますから、いまも東海道があそこを通っているわけでありますし、まあ、あのあたりに栗原の駅というのがあったということは、当時の駅の間の距離が三十里と言っておりまして、今日の十六キロであります。猪鼻の駅というのがその西のところでありまして、それがいまの新居あたりでありまして、それから十六キロでありますとあの辺になってくるわけでありまして、まあ、あのあたりに駅はあってもよろしいわけでありますので、その意味では、まあ駅の研究の上では大切な場所ではありますが、ただし、あの遺跡そのものが駅のどういうところであるかということはなかなかわかりませんし、遺跡そのものがその駅の跡とも言えないと、近いところにそれはあったという可能性だけはあるという程度に私は考えております。
  30. 松永忠二

    松永忠二君 私、絵馬のことについて価値をどうこうというのでなしに、大体この「伊場遺跡郡衙跡にしては建物跡規模が小さ過ぎると思っていたが、出土した木簡駅家説が一段と強まり、昔の東海道伊場遺跡付近を通っていたのは確かなので推測に無理はない。今度の発見は駅制を知る上で非常に貴重だということは別に間違いないことはないわけですね。絵馬は別といたしまして、この言っていることには、間違いは大体ないわけですね。どうでしょう、再度。
  31. 坂本太郎

    参考人坂本太郎君) 駅制といいますか、駅路の通っていた跡ですね、それを知る上においては、まあ、あのあたりが昔の駅路が通っていたであろうということを知る上にはよい証拠になるわけでございます。
  32. 松永忠二

    松永忠二君 わかりました。  ちょうど斎藤先生おりませんので残念でありますが、実は私が絵馬の問題に関心を持ったのは、斎藤先生の「伊場遺跡第五次調査への提言」というのが出されているわけなんです。つまり第五次調査をやらぬでもいいと言ったときに、その調査団の団長をされた斎藤先生が、いやそれはそうじゃないというその提言でございますが、その中に、こういうことが書いてある。「もはや浜松に於ける遺跡であることにとどまらず、日本屈指の遺跡」といわれるほどになった、「日本屈指の遺跡となり、全国に伊場遺跡としてその名を広め、今後伊場遺跡を除いて日本古代史を論ずることはできない。」といわれるほどになったと、こうおっしゃっておる。私は、これを読んで、そしてまた、一通り見せていただいて、そういうものを調査しないできめてかかって工事をするなんてばかな話はないんじゃないかということで、斎藤先生に来ていただいてお話を聞いたわけです。それから私が伊場の問題を調べ、現地をたずね、いろいろしたわけでありますが、このことばはいまは変えなければならないことばでしょうか。やはりこのことばは、間違っていないことばだと坂本先生はお考えになるんですか。
  33. 坂本太郎

    参考人坂本太郎君) それは斎藤さんがそうおっしゃったことなんで、私は、そんなにこの伊場遺跡を知らなくては日本の古代史は解明できないなどというふうには思わないのであります。屈指という意味も、それもそういうような駅のことを書いた木簡が出るとか、溝があるとかいうような点においては珍しいことは珍しいと思います。
  34. 松永忠二

    松永忠二君 わかりました。よろしゅうございます。   そこで、今度は竹内先生に、竹内先生伊場遺跡の学問的評価をどういうふうになさっているんでしょうか、それをひとつ。
  35. 竹内理三

    参考人竹内理三君) 学問的評価というのは、それぞれの個人個人によっていろいろあるわけでございますが、私個人の意見を申しますれば、斎藤忠君のをただいまお読みになった意見に近いのでありまして、木簡はあの平城宮址からも非常にたくさん、数万点あるいは二万点近いといわれておりますが、出たのでございますが、まあ、地方木簡が出たというのは、その平城宮址から出まして以来十数カ所に及んでおるのであります。しかし伊場遺跡のような、いわば純粋の地方遺跡から木簡が出たといいますと、実にこれはいわば今日の段階では日本一の木簡出土址であるわけでございます。それからその木簡の内容が、平城宮比の場合は二万点と申しましても、その報告によりますと、その七〇%はこの削りかすで、木簡は木でございますので、この書記が一度使ったものをまた削って、そうしてまた使うというようなことをします。その際の出た削りかすが七五%以上を占めておるそうでございますが、伊場遺跡の場合は、そういう削りかすはほとんどなくて、大体六十点、まあその後の発見があったといううわさがありますが、実はこれ浜松市が公表しませんので、正確な数がわかりませんけれども、七十点近い点数に及んでおるらしいのでございますが、ほとんど全部がそれぞれ貴重な内容を持っておるのでございます。その一つは、年代をはっきりと書いたものとして一番古い木簡、これは辛卯という年で持統天皇のたしか四年か五年に当たるわけでありますが、藤原京ができるそれよりも前の年号に当たる木簡が出ておるのでございます。これは実は私たち古代史の研究者からいいますと、あの時分にいわゆる大宝令とか養老令とか皆さんたぶん御存じの律令ができておるのでございますが、その前に飛鳥浄御原令というものができたといわれております。そしてしかし、それははたしてどの程度全国に実行されたかということがまあはっきりした断言ができないデータしかない程度であったわけでございますが、この藤原京以前の年号を持ったそういう木簡、大体、木簡というのは朝廷に献上する地方からの献上物ですね、献上物、後になると、それは調物と庸物ということになりますが、そういうものの荷物に荷札がわりにつけたといわれるものでございますが、そういうものがもう藤原京以前から使われておったということは、これはまあ日本の国家の形成過程における一つの大きな問題ではないかと、まあ問題と申しますか、いままで文献の上でそうではあろうといわれ、文献の上からだけですからそうではなかろうという説もあったわけでございますが、これがそうであったということが実証されるというような問題、それからあの遺跡は、もちろんいままでいろいろ言われましたように、大溝の西にあるその柱、建物群は規模は確かに小さいのでございます。しかし、最初の伊場遺跡の発掘調査をされました国学院大学の樋口教授の調査報告にもありますように、遺跡の本体は城山遺跡と呼ばれておるもっと西のほうにあるだろうという推定を加えられておるわけでございます。ですからもちろんあそこが遺跡の本体であると、私は考えるわけではございませんけれども、その遺跡の本体があるその本体を中心として周辺に、いろいろな付属施設として官庁施設があったに違いない。そのうちの一つであると考えるべきではないかと思うのでございます。厩も、それから厨もそのほかなども郡衙と一緒にあるいはその付属施設として当然存在しておったということは、いろいろな遺物、木簡あるいは墨書土器から推定できるわけでございまして、特に墨書土器の裏にいろいろ文字が書いてあるわけでありますが、これはどこで使っている土器というようなことを示したことが書きつけてあるわけでありますが、その墨書土器なんかを見ましても、明らかに郡衙と思われるやかたが近くにあったということを示す墨書土器もありますし、それからその厨があったという——それで厨は一そう確実な、推定を確かにするものは、大きなまないたが、非常にりっぱなまないたが二つも出ておるということは実物の上からも証明しておりますし、それからさらに、先ほどの絵馬の問題でございますけれども、確かに絵馬の用途につきましては、坂本先生のお説のとおりであるかもしれませんけれども、一方、あそこの遺跡からは横櫛と申しまして、昔、祭祀しお祭りをするときに使ったといわれておるところの櫛の形をした木のきれっ端がたくさん出ておるのであります。祭祀遺跡でもあるまいかという説もあるほどでございますので、絵馬を持ち主を示す、ここに馬がおるということを示すものであるかもしれませんし、あるいは馬を貴重な生活の道具としておった。人たちが住んでおる。そういう人たちの、やっぱり一つの何かのおまじないとして用いられたものではないかという推定をわれわれどもはいたす次第でございます。まあ、そういうような意味で、ともかくもあそこの遺跡そのものは、現在出ている遺跡そのものは、規模は小さいのでありまするけれども、しかしそれは、全体のうちのその一つの部分とすれば、決してこれはやはり小さいから抹殺してしまって、大きいほうの出るのを待ってればいいんだというようなことでは、後悔を先に残すのではないかということを考えておる次第でございます。  もう一つ大溝でございますが、あの大溝については、もう調査団の方々もこれは運河であるということを認めておられまするのでございます。しかも、その運河が古墳時代につくられた運河であるということについて、これまた、私は日本の歴史上非常に重要視すべき一つの新しい事実ではないかと思うのでございます。古墳時代の土木工事は、皆さまも御承知のように、応神陵、仁徳陵のような大きな大古墳の出土によってその技術はもちろん知られておるわけでございますが、これが運河に——おそらくあれは、水田耕作のための用水路を開くということは古くから行なわれておるわけでありまするけれども、あの運河は用水路用ではないことは、この水田の地表から運河の深い底を見れば一目りょう然であります。何かやっぱりあれは物を運ぶための施設であるというふうに考えざるを得ないわけでございます。これは、私個人の意見でございますが、そうしますと、この古墳時代、まあ、古墳末期といたしましても、七世紀になるわけでございますが、その時代の運河及び運河に対する施設、それはその発掘の段階でもたくさん出てきましたけれども、木のくいがたくさんありますし、それから実は木簡が出土した層から、さらに一メートル近く掘り下げられた層でございますが、その掘り下げたところを見ると、また、そこにも木のくいが出てきたというようなことだそうでございます。としますると、これはもう木簡の層で、この運河はそれまでであるということでは決してないので、さらに、将来徹底的に調査をしなければならないのではないかと思うのでございます。したがって、私は齋藤さんの御意見に同じであるという次第でございます。
  36. 松永忠二

    松永忠二君 私がこれから申しますので、違っていたらば文化庁坂本先生竹内先生、それは違うとおっしゃってください。  まず一つ、これまで弥生遺跡とされていた伊場遺跡は、広く西方地域に広がり、時代は縄文期に始まって平安中期にわたるものであることが明らかになっておる。これは御異議ございませんか。御異議があれば言ってください。——じゃ、御異議ないことと思います。  第二は、七世紀から十世紀初頭に及ぶ木簡が六十二点も発掘された。木簡は平城宮社でも発見されて以来、全国十指に余る地点で発見されたが、平城宮社を除いては、一カ所から六十二点に及ぶ発見はその例がない。その平城宮址木簡ですら八世紀末にさかのぼるものはなく、十世紀に下るものはない。これは違っておりましょうか。
  37. 坂本太郎

    参考人坂本太郎君) 藤原宮址ではもっとたくさん出ているのじゃないかと思います。それは平城宮社だけではございませんけれども
  38. 松永忠二

    松永忠二君 もう少しはっきり言ってください。藤原宮には、何、一体どういうことですか。
  39. 坂本太郎

    参考人坂本太郎君) 藤原宮にはもっと木簡がたくさん出ているだろうと思います。
  40. 松永忠二

    松永忠二君 木簡の数が出ているだけですか。
  41. 安達健二

    政府委員安達健二君) いまお話に出ておりましたことの復習になって恐縮でございますが、一番多いのは平城宮址の約二万点、それから太宰府址が二千点、それから全国で木簡が出てございますところは二十五カ所でございます。それから地方の出土例といたしましては、この伊場遺跡が最も多いということは事実でございます。いまの官衙とかそういうもの、何といいますか、宮址等を除きましては一番多い。ただ、これは若干の注釈をつけますと、木簡が出た場合におきまして、この伊場遺跡ほど発掘調査が行なわれたというのは初めてでございます。したがいまして、ほかのところもまあいえば、掘れば出てくるかもしれないという推定はございますけれども、少なくとも、いままでの経過から見ますると、伊場遺跡のものが地方の出土例としては最も多いということはそのとおりでございます。それから最も古いということから言いますると、もう一つ藤原宮の出土のものでございますが、六百六十一年でございまして、この伊場遺跡のほうは先ほどお話がございましたが、持統三年でございますので、六百八十九年ということでございまして、一番古いということになりますると、藤原宮の六百六十一年のものである、こういうことになるわけでございます。
  42. 松永忠二

    松永忠二君 竹内先生、御異議があれば言っていただきたいと思います。
  43. 竹内理三

    参考人竹内理三君) 大体いまのお話、異議ありません。
  44. 松永忠二

    松永忠二君 そうすると、七世紀から十世紀初頭における木簡というのはいいのであって、それよりも古いものがたとえば平城宮の六百六十一年、ここは六百八十九年ということですから、そこはそうなんです。それから平城宮址を除いて一カ所からというのは、藤原宮とか太宰府、これは国が指定している史跡ですよ。こういうようなところからそういう出土が出てきているけれども地方でこういうようなところのものがこんなにたくさん出ているのは少ない。これはもう意思統一ができた。——わかりました。  第三、これまで中世に始まるとされた絵馬さえ数点発見された。今回の調査によって新たに発見された大溝遺構木簡から見て、この大溝古墳時代に発掘され、八世紀から十世紀にかけて盛んに機能を果たした遠江の国の津、港の遺構であり、今日の浜松の発祥地であることはほとんど疑いない。これについて何かありましたら関係の人から御発言いただきたい、これ違っていれば。
  45. 坂本太郎

    参考人坂本太郎君) それは浜松のもとの名前が浜津ということであるということは、高山寺本和名抄というものにありまして、それがたまたま今度出た木簡に浜津というものがありますので、浜松という名称の起こりは浜津というのがもとであるのかと、私ども考えております。ただ、それが港ということの解釈でありますが、どういう港であったかということについては、まだ的確な私ども解釈はできないのでございます。まあ津といいますから水運の便があったところかと思いますが、それがどういうふうな経路で、たとえば太平洋とどういうふうに関係があるか、あるいは浜松と関係があるとかいう、そういうような関係についてはまだ私どもわかりませんし、それこそもっと深い研究をしなければわからないと思います。ただ浜津という、津ということは地名からおそらくそうであろうと思います。
  46. 松永忠二

    松永忠二君 そうすると津としての規模、それはもう別として、津である、そういう機能を果たしていたというようなお話であるし、それから浜津というのが出たから浜松との関連があるというようなものが出ているというお話で、大体の内容としては、このとおりであるというように思いますがね。何かありましたら……。
  47. 安達健二

    政府委員安達健二君) まあ先ほどお述べになりましたことは、一つの説と申しますか、というものではなかろうかと思いますけれども、この古墳時代におきましては、これは川ではないかと、調査団は現在考えてられるというように伺っております。歴史時代になりました場合に、これはどういう性格のものであるかにつきましては、なおいろんな考え方があるようでございまして、これが運河風に使用されたかどうかは必ずしも明らかでないと、ただ、解釈として、そういう解釈もあるという程度でございまして、先生のおっしゃいましたのは、一つの説を断定的におっしゃいましたので、これについて異論あるかといえば、相当いろんな点での問題点があり、将来解明されなけりゃならないことではないかと、こういうことだけコメントさせていただきます。
  48. 松永忠二

    松永忠二君 したがって、両者御意見の一致しているところは、解明をしなきゃわからぬということ。そういう説があることも認めている。それは事実だと私は思います。それでよろしいと思います。  古代遺跡は最近数を増したが、国の津の遺構そのものはまだ全国に一例もない。多数の木簡と伴出した土器墨書は、国の津と、それに付属する郡衙、駅家など、各種の地方官衙がこの地域に存在したことを物語っている。そうした地方官衙遺跡は他に見ることはできない。これはどうです。
  49. 坂本太郎

    参考人坂本太郎君) その国の津ということばの解釈でありますけれども、最近は、国の、国府についている——国府にはたいてい港があったんだという説がかなり強うございまして、おそらくその国の津というのは、そういう意味で、そこでは言っていらっしゃるんじゃないかと思います、国府についた津というのは。遠江の国府は、いまの磐田でございまして、あそこは今の浦という、ずっと入江がございまして、それはいまでも今の浦という川が残っておるところでありまして、今の浦という湾入したところが磐田の見付のところにございます。それがおそらく国府の津、いわゆる国の津としての機能は果たしていたと私は思うのです。それは、何も発掘しておりませんから、わかりませんけれども、国の津、いわゆる国府に付属の港としての機能は、その今の浦で果たしていたと思うわけです。いまの伊場は、国府からは非常に離れておりまして、三、四里は離れているわけでありますから、それは国の津、いわゆる国府の港としての機能は果たしていなかったと思います。ただ、単なる地方的な——かりに津といたしましても、ほんの地方的な港にすぎない。国の津と言われますと非常に誤解を招くわけです。いまの御文章の中に国の津とありましたのは、おそらく最近の学説による国府付属の津という意味だろうと思うのですが、その点は、私は反対じゃないのです。
  50. 竹内理三

    参考人竹内理三君) ただいまお読みになりました説は、実は、私もそう考えておるのでございまして、私も、国の津と考えるのは、国府の近くになければならぬとは考えないので、国から京都あるいは中央に物を送り出すための港であるという意味であって、それから、確かに国府のあります磐田の近くにいまも先生の言われました今の浦という港が、鎌倉時代には荘園があって行くとか、鎌倉時代東海道を下りましたお公家さんの紀行文の中にあるのでございますが、実は、その紀行文の中に、その今の浦を、やはり確かに今と呼んでおるのでございます。そして鎌倉時代に今と呼んでおるその意味は、鎌倉時代になりますと、浜津が浜松に名前が変わるのでございます、浜松と。浜津であったのが浜松と変わったのは、浜津が津としての機能がなくなっちゃって埋まっちゃって、そこで新しく国府に近くある入江を津にしたので、今の浦と鎌倉時代にその津を呼んだのであって、それ以前はたぶん、私は浜津は古墳時代あそこあたりは浜名湖の周辺は、伊勢大神宮は古墳時代からたくさんございましたので、伊勢大神宮に送り出す贄物を送り出すための施設として古墳時代につくられたものが、国府の時代になってその施設がそのまま利用され踏襲されて、距離はもちろん磐田から離れてはおりますけれども、施設その他の設備を利用するという便利さから、依然としてそこを使っておったのじゃないかと考える。平安時代には天竜川の洪水であそこが埋りまして、機能がなくなってしまったために、浜津というのは機能がなくなり、浜松という地名に自然に改まり、と同時に、新たに今の浦という港が国府の近くの入江を利用して開かれたのではないかと考えておる次第であります。
  51. 松永忠二

    松永忠二君 竹内先生、なお簡潔にひとつ……。  実はここに伊場遺跡の六次、七次の調査結果というのが、これが出ている。これはいわゆる文化財専門委員会教育委員会解除してもよいと答申をしたのにこう書いてある。第六次、第七次の調査が実施され、その結果の報告を受けたが、これを慎重に検討して残部の指定地の解除もやむを得ないと認めた、と書いてある。——文部大臣ひとつ聞いてくださいね、ちゃんと。これを見て、そう言ったという話であります。しかし、私はこれを見ても、実は史跡評価は全然書いてないですね。それから書いてある内容も非常にばく然としていて、事実に相違したところもあると思うのですがね。  たとえば東海道線南側の大溝延長部を除き約七千平方メートルについて遺構検出作業を終了し、目下検査の段階に入っているというお話しだが、表土を取った、この図の、一番問題になっているここです。表土を取ったことも事実です。表土を取っても、ちょうどこっちに住居址が発見されたのも一年ぐらいたってから酸化の状態が違ってきて、初めてそこに住居址があることがわかった。ただ表土を取っただけであって、まだその状況か見なければできないが、遺構検出作業を終了したというようなことを言っているが、そうではないのではないか。  あるいは溝状遺構にはさまれた内側では、弥生時代古墳時代のピット群が発見された。ピットというのはこういう……いまの中ですね、そういう発見されたといっているが何だかさっぱり……ピットというのがまだ結論もついていないようだし、これを見て評価がわかるというのが、どう考えてみても私はこれじゃわからぬ。評価、何も書いてないのです。  そういう感じを持っているのですが、竹内先生、端的に第六次、第七次の調査結果についてどういう御見解でしょうか。
  52. 世耕政隆

    委員長世耕政隆君) 簡潔にお答え願います。竹内参考人
  53. 竹内理三

    参考人竹内理三君) 私は、こういう調査報告の書き方についてはしろうとでございますが、大体ただいまの御意見と同じような意見でございます。
  54. 松永忠二

    松永忠二君 もう少しお聞きをしたいところでございますが、時間もありませんから次に進ませていただきます。  文化庁のほうに聞きますが、この浜松市は、第七次調査は、今後どこまでやることになったのですか。いつごろまで予定しておるのですか。この点を御承知でしょうか。
  55. 安達健二

    政府委員安達健二君) 遺跡の発掘調査と申しますと、遺構の検出と申しますか、遺構の有無、それから性格等を確認するという作業がございまして、そのあと、この遺構の実測写真撮影の記録作成という、あるいは遺物、図面の整理報告書作製にあたってというような、いわば遺構の検出後におきますところの細部の記録、そういうような作業が残っておるわけでございまして、来年の三月までに、その申し上げましたあと片づけの仕事が終わると、こういうふうに伺っております。
  56. 松永忠二

    松永忠二君 そうすると、これは違うですか、第七次調査は当初は来年六月ごろまでの予定であったが、市教委は正確を期するため、現東海道線南側など三千平方メーターをふやし、来年八、九月ごろまで延期することとなった。斎藤団長の談話もありますが、第七次調査は来年終了するが、調査を打ち切らず第八次調査として続けるよう市に働きかけたいと、記者会見をしている。ここにありますがね、こういうことは御存じありませんか。
  57. 安達健二

    政府委員安達健二君) 先ほど私が来年三月までにと申しましたのは、いわゆる今度の問題部分についての整理の調査でございまして、いま先生のおあげになりましたのは、北側のほうの遺跡公園と申しますか、史跡公園として保存する地区、その他を含めました地域の調査ということだろうと思います。したがって、私の申し上げたことと先生のおっしゃったこととは特に矛盾はいたさないと思います。
  58. 松永忠二

    松永忠二君 そうすると、これは間違いないですね、市教委は正確を期するため、現東海道線の南側、三千平方メーター、南側ですよ、南側というとこっち側ですよ。これが堀りどめですからね。それから第七次調査は当初、来年六月ごろまでの予定であったが、市教委は正確を期するため現東海道線南側など三千平方メーターをふやし、来年八、九月ごろまで延期することになった。だから延ばすという、いまいじっておる調査のあれはとにかくとして、場所はとにかくとして、調査を延ばして、こういうふうにやっているということは御存じなんですね、もう一度。
  59. 安達健二

    政府委員安達健二君) そのとおりでございます。
  60. 松永忠二

    松永忠二君 そうなってくると、私は問題だと思いますよ。斎藤さん自身は談話として第七次調査は来年終了するが、調査を打ち切らず、第八次調査として続けるよう市に働きかけたい、それから第七次調査は当初は来年六月ごろまでの予定であったが、市教委は正確を期するため現東海道線南側の三千平方メーターをふやし、来年八、九月ごろまで延期する、いまの坂本先生のお話を聞いても、皆さんのお話を聞いてもまだいろいろ諸説紛々、確実になっているわけじゃない。しかも、調査をこれからするといって、もしこの調査のときに、お話のように何か出てきたらどうしますか。この段階伊場遺跡評価決定的にする時期ではないというふうに私は思うんですがね。お話のように疑問点が相当ある。しかも、第八次調査もやろうと団長が言っている。しかも市教委は続けて延期する、それじゃ、この段階で重要なものが出てきたときはどうするですか。これをひとつ文化庁長官から聞かしていただきたい。
  61. 安達健二

    政府委員安達健二君) いままでの第六次までの調査によりまして、この問題部分について七次の調査をもちまして、問題部分につきましての遺構の検出は終わったわけでございます。したがいまして、その遺構評価といたしまして、これを国の史跡としてまで保存する程度に至らないという結論を得ているわけでございますので、その範囲につきましては、あと記録を作製しておくということでございますから、この記録の作製は十分にやりましょうと、こういうことでございまして、それからいま八次と言われたのは、むしろ問題の地域外のことでございまして、この地域につきましては、そういう調査を続行するのは、学問的な意味で価値のあることであるというように考えておるわけでございまして、そのことと、この部分調査とは直接の、といいますか、今度の判断をするについての直接の関係はないものと考えます。
  62. 松永忠二

    松永忠二君 それは、竹内先生からもお話もあったし、私、城山遺跡の周辺、むしろ城山遺跡中心でその周辺だろうといっている。この遺跡そのものは小さいけれども、その周辺にどういうものがどうなっているのかわからない。また、そういう点について調査を進めていくというなら、いまこの小さい部分だけ取り上げて、ここには何にもないよ、ここは国じゃ指定をすることはないといっている。しかし、そこでも相当なものが出ていることも事実だし、相当な評価をされていることも事実、当然県が指定を維持するくらいな史跡価値は、国ではないといったって市はある。その市が史跡解除しちゃう。そうしてそこに工事をやっていくというんですから、何というんですか、そういう点で全く私はいまのお話は矛盾をしているというふうに思うのです。だから私はこの史跡評価がまちまちである。調査は進行中だといってもいい、その関連のところを含めて。  それからまた、その次もう一つお聞きをすることは、これも竹内先生にちょっとお聞かせをいただきたいんだけれども、第六次、第七次の調査段階で、伊場遺跡出土資料の公開について文書で二回ばかり、口頭で三回申し入れた。ところがシンポジウムが浜松で開かれる前に一回、来年一月中旬に一回約束されているというけれども、出土資料が公開され、遺跡学術研究について十分な機会が与えられたのか、どうなのか。その点をひとつ竹内さんに。
  63. 竹内理三

    参考人竹内理三君) 簡単に申し上げます。  十分与えられたということはないのでございます。大体の状況は、いま……
  64. 松永忠二

    松永忠二君 いや簡略じゃ困りますからね。きちっとしたところはきちっとして。私の時間はまだあるんだから。
  65. 竹内理三

    参考人竹内理三君) シンポジウムを、今年の一月ですか、地元でシンポジウムを、私さっきも話があったように、その前の段階で、その準備のためにぜひまだ発表されておられない資料を見せてほしいという申し入れをいたしましたんですが、そのときにはもう発表するまでは見せられないというような、たしかそういうようなことで許可がなかったのでございますが、いよいよシンポジウムをやって、全国から多数の研究者が現地を見学を兼ねて集まるという段階になりまして、見せるだけは見せると、ただし、これを自分たち研究その他に使ってもらっては困るという条件つきで、まあ見せてもらったという状況でございます。それからその後、なおいろいろ新聞その他の報道で、新しい木簡、新資料が出たというようなことがありましたので、やはり同じような申し入れをしたのでございますが、それはやはり、その場合には、やはり発表するまでは学界の慣習としてこれを見せられないというようなことで今日に至っておるような次第でございまして、それからまあちょっとこれは伝聞でございますので、確実性はいかがと思いますが、しかし、かなり確かなニュースソースから出ておるのでございますが、県の教育委員会からわれわれに見せることを差しとめておるという情報もあるわけでございまして、学術研究のために、それでは少しでも早くいかなる形式でもいいから、ほかの発掘所でやっておるように概報を逐次出してほしいということを希望したわけでございますが、それも三月に出すから、六月に出すからというようなことで今日になっておる次第でございます。  以上でございます。
  66. 松永忠二

    松永忠二君 私は非常に問題だと思いますよ。私も実は文化庁が来られたときに言ったことは、学者にも意見の対立があるんだから、少なくも現在出たものを公開をして、それで公開の席で議論をして、その結果を文化庁が見て意思統一をすべきではないのかということを申し上げた。言うとおり、これからまだ調査をやると言っているわけです。場所はともかくとして伊場関係のあることは事実でしょう。まだ調査をやる、団長は第八次調査もやりたい、片方は、ここで打ち切るつもりだというのを、もう一つ八、九月までやろうと、こう言うのですよ。伊場関係のない調査ではありませんよ。そういう調査をやろうと。その結果、この前もあとから鎧が出たり絵馬が出たりしている。そういうことも事実。それからさっきから議論されているように史的評価もまちまちでしょう。まちまちどころか、竹内先生のような議論を支持する人のほうが現在では、皆さん方には残念かもしれぬが、多いじゃないですか。十九学会がこういう価値のあるものだから伊場をこのまま保存すべきだと言う人のほうが多いでしょう。調査団というのは、坂本先生斎藤先生と樋口先生だけですよ。——いやいやまああとでお答えをいただきます、まあだけと言うことはいけませんけれども、その他にも……。とにかく意見が違うんですからね、こういう公開のところでまず議論を十分しなくちゃ。もちろん、これを埋めっちまおうというんでしょう。そんならもう公開の席でその史的評価というものを十分に議論をするという、公開するどころか研究してくれと、そういうことがあってしかるべきでしょう。史的評価がまちまちであり、調査はなお進行している段階であり、しかもなおかつ十分な研究の機会が与えられていないということで、その段階で、伊場遺跡指定地の周辺の埋蔵文化財包蔵地に工事を認めた理由はどこにあるんですか。
  67. 安達健二

    政府委員安達健二君) 遺跡につきまして、これをどのように保存するかと申しますか、原状で保存するか、それとも記録という形で徹底的な調査をし、それを後世に残すかと、こういう判断の分かれ目があるわけでございます。そこで、原状で保存するということになりますると、やはり中心遺構という問題になるわけでございます。その遺構規模性格、そういうものを中心にいたしまして考えるわけでございまして、遺物とかあるいは問題になっております木簡とかあるいは墨書土器とか、そういうようなものはその現物そのものが保存できるわけでございますから、したがって、そういうものにつきましてはここにございますけれども、第五次調査団までの調査報告が出ておりまするし、また、墨書土器につきましても、全部この内容が公表されておるわけでございます。そういうようなことで、将来の研究材料は一つできるわけでございまして、問題は、その遺構というものがどの程度であるか、規模性格、そういうものからして、これをそのままで保存すべきかどうかということに帰するわけでございます。したがいまして、これを原状保存するかどうかということの中心は、遺構の問題でございまして、その遺構の検出作業の終わった段階におきまして、この遺構規模性格等から判断いたしまして、これは国の史跡として原状で保存する程度にまでは至らないという判断をいたしたわけでございまして、今後は、このいろんな遺物、あるいは木簡とか墨書土器とか、いろんな遺物等を参考にいたしまして、そのほかのところを調査する場合の非常に貴重な参考になるわけでございまして、したがいまして、この遺跡保存の問題で原状保存するかどうかは遺構の問題であるというところが中心であるということを御了承いただきたいと思います。
  68. 松永忠二

    松永忠二君 第一次から第五次までの調査報告書があり、その後について木簡、鎧甲が出ていることは私も知っているけれど、第六次、第七次の調査結果については何にもないじゃないですか。問題は第六次、第七次というところにいろいろな問題が出てきているわけでしょう。で、これらの報告書はいわゆる総合的な評価が何もないんですよね。責任あるところの評価がないのです。  そこで、私は竹内先生にお聞きしたいのは、いまお話のように、記録保存をするぐらいの程度でいいのだと、あるいはまた史跡公園を設置しました、土盛りをいたします、こういうやり方で伊場遺跡文化財保存されるだろうかどうかということについて、竹内先生の御意見をまず聞かせてください。
  69. 竹内理三

    参考人竹内理三君) 第一の記録保存の問題ですが、私は記録保存というのは、そのときの学問の段階でしか記録保存はできないので、最善の策では決してないので、まあ現物保存でなければならぬと思うのでございます。とにかく学問は進歩するのでありますから、もう伊場遺跡そのものでも、初めは弥生式の遺跡だと思ったのが、調べるにつれて非常にいろんな遺跡や遺物が出るという次第でありますから、これは記録保存というのはあんまり関係がないと、私はそう思うのでございます。  それから第二に、土盛りの方法は、ああいう地下遺物の場合には、かえって土盛りなりあるいは土をかぶせて保存するという方法は、やはり破壊を防ぐという意味では非常に適当な方法だと思いますが、その土盛りの上に乗せるものがあるということに私は問題があるというふうに思うのでございます。まああそこでレールを敷いて重い貨車をあちこちに引っぱりました土盛りの下がどうなるかということは実験済みではございませんので、それ実験してみて差しつかえないということでしたらこれはまたともかく、特にあそこにレールを敷いてしまいますと、将来もう一ぺん研究したいと思うときに、そう簡単にレールをはずしてまた掘り返して見るということはほとんどできがたい条件となってしまうのじゃないかということが考えられるわけであります。  それから第三に史跡公園、これは実は浜松市が計画しておられますところの史跡公園は、現在まだ調査も済んでおらないものでありますし、はたしてそれが伊場遺跡を残すだけの価値のある遺跡遺構があるかどうかということは、現在まだわからぬ場所であるのでございます。全体を史跡公園とするという案ならばともかく、そういうまだ何があるかわからぬ場所を残しても、それは伊場遺跡を残したということには決してならない方法だと思うのでございます。  以上でございます。
  70. 松永忠二

    松永忠二君 そこで大臣にひとつ、また、文化庁長官にも伺いたいのですが、私は高架事業文化財保護に優先されているということについて、私の言うことでもう一つ御返事をいただきたい。  いま、御承知のように、都市計画で認められた関連事業ですよ、都市計画は、ここの高架のここの線だけを認めている。(資料地図を示す)ほかのところは何も認めちゃいない。ただこの高架事業をするについては、いわゆる電留区——電車をとめておく場所が関連事業として予算化がされているわけです。その予算化されたものは予算としてこの高架事業と一緒に建設省に出している。それはそうでしょう、高架事業をやる場合には電留区がなければ困るから、電留区をどこにつくるかはわからぬが、電留区の予算が高架事業にくっついて届け出が出ている。だから関連事業として都市計画に認められているのはこの高架事業なんです。これはもう何回も予算委員会なんかで私はやったんだけど、この前もそうなんです、これなんです。ところがその関連事業として当初ここをやりたいと、伊場遺跡をやりたい、伊場のところをやりたいというのが県の、国鉄考え方であって、ところがここが言うとおり、こういう史跡があるというようなことでまあ問題になっているわけですけれども、しかし関連事業として認めたのは、この六車線と引き込みの二車線だけなんですよ。いわゆる国が、建設省が都市計画事業として認めた、都市計画第十八条三項の規定による認可というのは、ここの高架と関連の事業としてそういうことをやると。その関連事業としては六車線とこの二車線を認めたんです。ほかのところは認めてはいないのです。それはもうこの前の委員会でもちゃんと国鉄内田理事も言っているし、これは明らかです。それじゃ、この六車線と二車線だけつくって、あとここはそのままにして保存したらどうかというのが、私たちがせめてここぐらい保存したらどうだろうと、私個人も考える。それから学者の中にも——この高架事業をやるのにいわゆる電留区をつくらにゃできない、それが国が認めているのはこの六車線と二車線であるならば、ここだけはせめて高架事業をやることも必要だから認めてもいいじゃないか。ただ、しかし、認めていない、何も認可もしていないこの場所を電留区にしてしまってやっていくということになれば、結局高架事業ばかりが優先して、いわゆる文化財保護は全くあとに全部退いちまうじゃないですか。国が認めているのは——六車線と二車線だけですよ。何も国が認めていないのに、この前、内田理事が言っているように、将来の交通事情から考えて、もっとここへひとつ線を引っぱらなければ将来困る、困るというので、ここへ、ここまで全部をやりたい。で、これをやるにはここがひっかかるから、そこで解除をする。そうしたら今度は、ここの工事を認めたということによって、この史跡解除し、それだからここを交換の対象だといって交換しちゃって、そしてこの高架事業はここへもどんどんやるということになっちゃっている。これじゃ、高架事業開発だけが優先して、文化財保護は全部後退しちゃっている。言うとおり、ここを残してといったって、これは何も遺跡に直接関係のないところでしょう。これからも、言うとおり、表土を取ったけれども、表土を取って一年くらいたたなければ、実はどこにどうというようなことは、酸化した現象を見てやる。ここは何もそれ以上調査をしているわけじゃないのですから、ただ表土を取っただけなんです。だから、国が認めた高架事業の関連事業の範囲にとどめて、あと、ここの大事なところは保存をしていくというのが文化事業といわゆる開発事業の並行的な措置でなきゃできぬ。ところがそうじゃなくて、将来ここが必要だ、将来ここへも電留区をつくらにゃいかぬからといって、それを含めて市と土地を交換しておいて、そうして建設省はここに認めた六車線と二車線と工事協定をしたんだと言っているけど、それをしている以上もういいんだという——伊場評価はきまったんだといって、ここをもう解除しちゃって、今度はこの工事をこれから国鉄がやる。やるときに協議をするといったって、そんなものはもうここできまっている以上、やるのはきまっちゃっているでしょう、伊場遺跡評価はし済みだと、こう言っている。しかし、大臣いまお聞きになったとおり、学者によっていろいろでしょう。そして、まだ諸説紛々もあるし、はっきりしないけど、なお調査しにやわからぬ。結論ははっきりは言えぬ。たとえば国の津だと言っているのに、竹内先生は、それは浜松というところこそむしろ国府の津であって、それがつぶれたから今の浦というところをつくったんだろうと言われているわけです。坂本先生は、今の浦というところがもとからの津だ。しかし津というのは、国の津にかかわらず、機能を発揮していたことは事実なんです。しかも駅家であり、うまやであるということはいろいろ木簡なんか出ている、そういうことからも、墨書土器からも明らかだということになる。一度埋めてしまえば二度取り返しがつかぬ。しかも、学問は進歩してるんだから、いまの段階でそうだとしても、なおそれが今後研究していけば評価が高くなるし、疑問のときにはもう一度研究もできる。それだからそのままにしておいたらどうだろうという、こういう学者の意見というもの。私たちはどっちかといえばもう国が高架事業として認めて、関連事業ここだけ認めたんだから、そこだけをやって、あとはだめですよと、あとはもうほんとにやるならもっと調査しなきゃいかぬし、徹底的にやらにゃいかぬ。それに、どっちかといえばせっかく史跡指定したことだし、言うとおり文化価値も何も減ったとは言わぬ。国が指定するにはぐあいが悪いと言ったけど、県が指定して悪いなんて理由はどこにもない、そういうふうに文化庁も言ってるじゃない。国の指定としては云々と言って、史的価値がなくなったとは言っちゃいない。そうなってくれば、ここを保存して、国が認可したところだけはやってもやむを得ないだろうと、しかし、その工事はこういうふうにやってもらいたいと言うならこれは並行してるんだというふうに思うけれども、いまのようなやり方で、いま認可されたところでないところを、将来輸送事情を考えて、そうして問題がある場所を全部そんなことをやっていくというやり方は、これはもう高架事業文化財保護に優先してるじゃないですか。それでも優先していないと言う理由は一体文部大臣、どこから出てくるんでしょうか。文部大臣お答えできないですか。いままでのお聞きになって、この前もおいでになったし、私はあなたとしての御判断は——もちろん文化庁長官の御判断ももちろん聞くけれども大臣として御判断ができるはずだというふうに私は思うんですがね。まず長官から答えてから……。
  71. 安達健二

    政府委員安達健二君) いずれ大臣から御見解を伺うことにいたしまして、いまのお話で一つ私、どうしても訂正していただかなきゃいけないと思いますが、私どもは何も高架事業を優先して史跡を犠牲にするという意図では毛頭ございません。私どもはこの遺跡性格、特に遺構の面からいたしまして、これをそのまま原状保存としてどうしてもしなければならないというだけの確信が持てなかったということが事実でございまして、先ほど来申し上げておりますように、遺物、出土品等の問題は別といたしまして、遺構という面からいたしますると、これをいかなる犠牲をも払ってこれを原状のまま保存しなければならないものであるとの考え方に到達しなかったということでございまして、高架があるから何でもいいんだと、どんな重要なものでも高架のために犠牲にしていいんだというような考えは実は毛頭持っていないことをひとつ御了承いただきたいと私は思います。  で、いま先生のおっしゃったような考え方ももちろんあり得るということで、われわれもいろいろな研究をいたしました。しかし、この土地として、先ほどまあ坂本先生のことばをかりれば住民福祉ということを全体的に考えた場合に、史跡の価値と、まあそういう問題等十分勘案した上におきまして、われわれとしては、これは最善の策ではないけれども記録保存という形におきまして次善の策をとると、まあこういう考え方でございます。
  72. 奥野誠亮

    国務大臣奥野誠亮君) 文化財保存していく立場から松永委員がたいへん御心配になってるお気持ち、よく私には理解できます。  この伊場遺跡は、昭和二十四年に発見されて、二十九年に静岡県が県の史跡指定したところでございます。自来累次にわたって調査が進められてまいったわけでございますけれども、国の史跡指定するというまでには至っていないわけでございます。その間にいまの高架問題が起こってきてるわけでございますだけに、文化財保存を優先させていくということにはなかなか踏み切れないという状態であることはこれは御理解いただける、かように考えるわけでございます。いずれを優先させるということじゃなしに、まあ妥協の産物だと思いますけれども史跡公園指定をしたり、あるいはいままで発掘調査したものを保存する、陳列をする、さらに記録としてそれを残していくと、さらにまた盛土工法をとるんだというようなことも考える、そして結局文化財保存の問題と高架の仕事とをそういうかっこうで両立させたということに、私は理解をしているわけでございます。それにしても史跡指定解除したことがふに落ちないという気持ちをるるお述べになっているわけでございますけれども、両方両立させながら問題の解決をはかるということになってまいりますと、今度のようなこともやむを得ないんじゃないだろうかな、かような気持ちでいままで、事務当局の報告も今日まで聞いておったようなことでございます。大事な文化財のことでございますので、今後もいろいろ御意見を伺いながら、文部省として善処しなければならないことにつきましては、十分な努力をしていくつもりでございます。
  73. 松永忠二

    松永忠二君 それが優先しているという証拠をお見せしますよ。今度史跡解除になった場所です。これはもう告示で出ていますんですが、その二三六、二三七、二三八、二四〇、二四一、七九三というのが筆先です。そのところを市が買ったのです。史跡指定したのは昭和二十九年ですよ。史跡の中が民有地だったのを市が買ったのが昭和三十五年の十二月十五日です、仮登記したのは。市は保存するために買ったというなら理屈がありますね。この金も文化財保護というところから出てきているのではない、ほかのところから金が出ている。とにかくそこのところを市が、いま国鉄が来ている、国鉄が買っている。国鉄が二三九という史跡指定の中の場所を買ったのは四十三年ですよ。四十三年四月五日に買った。二三五、二四二を四十三年の五月十七日、つまり国鉄史跡指定されている中を、四十三年に千五百十三平方メーター買っているんです。史跡全体は三千二百三十九平方メーターですね。その民間所有地を浜松市が三十五年に買い、国鉄が四十三年に買っている。そこで、浜松の市長が高架にすると言ったのはいつだったかというと、四十五年の十二月ですよ。平山市長が伊場遺跡の発掘を打ち切って東海道高架事業を推進することを決定したのは四十五年なんです。それから、四十六年十月に浜松市と国鉄東海道高架の素案を発表したのは四十六年の十月なんです。一体どういうわけで国鉄はこの史跡指定の中を買ったんですか、何の理由をもって。しかも、それは四十五年に発表するその前に、史跡指定をされているその段階において市と国鉄が腹を合わせたように、その土地を買ったんですね。こうなってくれば、一体文化財保護法の第二条には何ということが書いてあるんですか——政府及び地方公共団体は責任を明らかに「その保存が適切に行われるように、周到の注意をもつてこの法律の趣旨の徹底に努めなければならない。」といっているのに、何にもないその場所を何の目的をもって国鉄が買ったんですか。浜松市の買った金はどこから出ているんですか、それを明らかにしてください。
  74. 内田隆滋

    説明員内田隆滋君) 国鉄がいま御説明のありました四十五年に高架事業を発表したということでございますが……
  75. 松永忠二

    松永忠二君 四十六年十月だ。
  76. 内田隆滋

    説明員内田隆滋君) 基本的に申しますと、私のほうは、四十三年の三月に将来高架事業をやるということを前提にいたしまして、国鉄の貨物駅の用地とこの付近の浜松市の用地とを交換しましょうという協定を結んでおるわけでございまして、で、その当時は、私もよく事情を聞いておりませんが、伊場遺跡のあることはわかっておりますし……。
  77. 松永忠二

    松永忠二君 伊場遺跡指定の中だよ。指定の中で——ただ指定の中はちゃんと公示されているじゃないか。
  78. 内田隆滋

    説明員内田隆滋君) ただわれわれとしては、その評価がどういうものであるかということは、これはしろうとでよくわかりませんけれども、たぶん記録保存でいけるだろうというようなばく然たる見通しのもとにこういう協定を結んだということだと思います。その後調査の結果、いま先生がおっしゃられたように、相当重要な史跡であるということが判明したんで、この工事を計画した当時には、そういうものはまだ判明していなかったというふうに私は聞いておるわけでございます。
  79. 松永忠二

    松永忠二君 そんなばかな答弁をするんじゃないですよ。指定をした中ですよ。史跡価値があるから県は指定したんじゃないですか。しかも、県はそういう指定解除することもあまりよくない。その価値がなくなりましたとは文化庁長官は一言も言わぬでしょう。価値があるから昭和二十九年に県が指定したんでしょう。価値があったかどうかわからぬから買ったなんというようなばかなことはないじゃないですか。それに一体この場所が史跡に入っているということは静岡文化財保護条例の附属表にちゃんと書いてある、この番号、二三五、二四二、二三九というのはちゃんと書いてある。明らかに史跡の中にあって価値のあるものを何で一体国鉄は買ったんですか。何で一体国鉄はこれを買ったんですか。買った理由を言え。文部大臣は、こういうことを何と一体考えますか。史跡指定されている場所を国鉄が買って、いまでさえ問題になっていろいろしているのに、四十三年にいわゆる高架事業と、貨物駅と交換するという、そういうことを話があったんでそれでまあそこを買ったんだ、それじゃもう史跡指定は、こんな史跡指定なんて問題にしないやり方じゃないですか。高架事業を優先しているじゃないですか。優先していることは明らかですよ。まず大臣から聞く前に、もう一回ひとつ言ってください。なぜ国鉄がここを買ったのか。あなたが言った浜松市と国鉄東海道線高架の素案を発表したのは四十六年十月ですよ。平山市長がその伊場遺跡の発掘を打ち切って東海道高架事業を推進するということを決定して発表したのは四十五年十二月、それより前の四十三年にそれを買った、あなたから言わせると四十三年に交換の話ができてきた、それじゃ話が全然違っちゃってるじゃないですか。しかも、そのときには、そんなに価値があるものだとは知らないと言う。知らないといったって史跡指定してあるじゃないですか。文化財保護法違反ですよ。そんな違反であるものを認めるわけにいきませんよ。そんなことをやっていって文部省は、文化庁は黙っているということはいえますか。手はないでしょう。やっぱり国鉄のやったのは正しくてごもっともでございますか。文部大臣から御見解をお聞きしたい。
  80. 奥野誠亮

    国務大臣奥野誠亮君) その土地の売買の当時、どういう経緯でどういう考え方でやるということについては私深くは承知いたしておりません。したがいまして、国鉄当局なりあるいは県、市当局なりについて批判的なことを申し述べることは差し控えさしていただきたいと思います。
  81. 松永忠二

    松永忠二君 じゃ、もう一度国鉄から聞きましょう。
  82. 内田隆滋

    説明員内田隆滋君) 先ほど御説明したとおりでございまして、その当時としては、まあ県の指定が現実にあったということはよく承知しておりましたけれども、それほど重要なものではないと。これは調査の結果非常に松永先生がおっしゃったように重要なことが判明したので、国鉄としても、こういうような史跡については十分調査を進めてから記録保存とかそういうような措置をしていただいている場面がたくさんございます。まあ、それのひとつで処理できるものではないかということ。これはわれわれのほうの早合点であろうかとも思いますけれども、いまとなりましては。しかしまあ、そういうことでいけるということで、浜松市とこのような計画を取り結んだものであります。
  83. 松永忠二

    松永忠二君 最後に、文部大臣にお聞きしますが、これが事実だとすれば、高架事業文化財保護に優先しているということは言えるでしょう、これが事実とすれば。文化財、県の史跡指定は何も解除もされず、何もしてないわけです。しかも一般にも高架事業がいわゆる発表されたりなんかしてない段階なんですね、その中を高架事業で交換する前提の上に立ってそれを買ったというんでしょう。その値打ちのあることはわからぬが、まあ値打ちがあったにしても、それからあとの話だからということで買ったというんですよ。それじゃ、高架事業文化財より優先しているというふうには考えられませんか、大臣、これが事実とすれば。事実であったっても、それはもうちっと考えりゃわかる。どうですか。
  84. 奥野誠亮

    国務大臣奥野誠亮君) 史跡性格が十分理解されない前においていろいろな売買行為が行なわれるという場合に、常にそれが、国家事業が優先しているとかいうふうな言い方は、ちょっと私しにくいんじゃないだろうかという感じがいたします。具体の問題につきましては、事情を深く承知しておりませんので、批判的なことは差し控えさせていただきたいとお願いをしているわけでございます。
  85. 松永忠二

    松永忠二君 それじゃ文化庁長官にひとつ。
  86. 安達健二

    政府委員安達健二君) 私どもといたしましては、いま問題になっておりまする売買のことはちょっと承知いたしておりませんでしたので……
  87. 松永忠二

    松永忠二君 事実とすればどうなんだ。
  88. 安達健二

    政府委員安達健二君) おそらく国鉄でも、もし、その遺跡性格が明らかになった場合に、それが国の史跡に該当するよというようなことになれば、おそらくそれを、工事をおやめになったでありましょうし、まあ私どもといたしましては、やはり史跡の点を十分考えまして、今後国鉄当局とも十分協議をしてそういう点の遺憾のないようにいたしたいものだというふうに痛感をいたした次第でございます。
  89. 松永忠二

    松永忠二君 その程度じゃ許しませんよ。  それじゃ、史跡指定をした場所を、将来の用途を考えてそういうところが買ってもそれはいいんですか。
  90. 安達健二

    政府委員安達健二君) これは、史跡の売買について文化庁は介入する権限がございません。したがって、ある土地を、たとえばそういう史跡指定したところをだれかほかの人が買うと、そういう人は買っちゃいけないと言うような権限を持っておりませんので、したがって私どもといたしまして、その売買行為に関与できない以上、これを最終的に禁止するとかいうことはできないわけでございます。  しかしまあ、そういうような重要な史跡につきまして、そういうことを前提としたような場合がもしわかるとすれば、われわれとしては、そういうことはやめていただきたいということを申し上げるだろうと私は思います。
  91. 松永忠二

    松永忠二君 私の言ったのは、史跡としている場所を所有権がどう変わろうと、そんなことを私は悪いと言っているんじゃない。史跡である場所を史跡でないとこに使うという目的のもとに買うこともいいんですかということを聞いているんです。
  92. 安達健二

    政府委員安達健二君) その場合におきましては、当然、何と申しますか、史跡指定してあるならば、これについての現状変更の制限がございまして、それについてはこういうのは困るということを申し上げるわけでございまして、すなわち、その使用目的の点でいろいろ段階があると思うわけでございますけれども、それが全く史跡を破壊するといいますか、史跡の用をなさない程度にまでというような場合の問題と、いろいろな段階がございますから、一がいには申しかねますけれども、私どもといたしましては、その史跡保存に特に重大な支障があるような場合をもし知ったならば、そういうことについては、十分な指導と申しますか、われわれとしての意見を申し上げるということは当然だろうと思います。
  93. 松永忠二

    松永忠二君 文化庁答弁文部大臣答弁も、私はまことに不満ですね。もう全く、あんた方がそういう気持ちでおられたんじゃこういうことをやるだろうという感じすら持ちますね。史跡、重要な史跡指定をしたところを高架事業を前提として買っても、それが売買だからそう簡単には言えないとか、それはよく聞いてみなければわからぬというようなことでは、これが文化財を保護する責任ある人たち答弁だかと思うと、——その史跡の価値については皆さん方いろいろ言われているわけです。それは、現段階においてそういうことであったわけで、しかし県が史跡価値ありとして指定をしている。その指定をしているその場所を、史跡でないものに利用する、高架事業に使う前後の上に立って売買をしていくという、買っていくということさえ、それは困ると、そういうことには私たち賛成できないということが言えないですか。それだから、現実の問題をどうこうという、それを引用していくという判断は別として、そのくらいなことまで言えなくて、何を一体文教委員会でこんな質問をする必要があるんですか。指定している史跡指定のところを、高架事業をやる前提の上に立って、史跡の価値があるとして指定している場所を、国鉄があるいは他の人がそこへ建物を建てる、高架事業をするという。高架事業史跡保存にイコールでないことははっきりしている。いまでも、望ましいこと、最善のことじゃないといっているわけでしょう。そういうことをやるために買うなんということは私たちは全然認められないと、そう言えぬですか、あんた。ああでもないこうでもないと言ってだね、もっと端的に気持ちだけを披瀝できないんでしょうかね。
  94. 安達健二

    政府委員安達健二君) 当時のとき、私どもはそういうことについて知らされておりませんでしたから……。
  95. 松永忠二

    松永忠二君 知らして……、それが事実だとすればと言っているじゃないですか。何を言っているんだ。
  96. 安達健二

    政府委員安達健二君) ですから、もし、そういうことについてお話があるならば、われわれといたしましては、やめていただきたいということを申し上げたであろうということを申し上げたいと思います。
  97. 松永忠二

    松永忠二君 まあ、その程度だということはわかりました。それじゃ、困りますからね、もうちっとひとつちゃんとしてもらって、県が指定したり国が指定したりした場所を、国の指定したところを将来何かに破壊するために売買されても、どうも、言われたら当時困ると言ったでしょうなんて、そんなことは困りますよ。そんなことまではっきり言えないということじゃどうにもならないと思うんですが、まあひとつ、大臣にしたって、私は全く、お役人であるならあなたのおっしゃるようなこともまたわかりますがね、二度にわたってこれだけの長い時間大臣に聞いている。そうして大臣がそういうことを言ったんじゃ、全く役人と同じようなことを言っているじゃないかというような感じを率直に持つんですよ。まあこれは失礼な話ですがね。もう少しやはり文化財保護の立場に立って、われわれから言うと、そんなこともう言うに及ばぬと、史跡指定してあるところを史跡以外の目的に使うことを前提として買うなんというそんなことはわれわれ認められない。当然でしょう。そうかといって、いま所有権の移ったものをどうにもならない。また現に評価については自分なりの判断をしている。るる言っているんだ。そういうことを切り離してこういう態度について明確にできないことはまことに不満ですが、最後にもう一問聞いて終わりにします。竹内参考人は今後伊場遺跡をどういうふうにしたらいいとまあお考えになっているのか、どういうふうにしてもらいたいというふうにお考えになっているのか、その点をお聞きをして終わりたいと思います。
  98. 竹内理三

    参考人竹内理三君) 現在進行しておるのは行政面で進行しておるのでありますが、私たちの希望としては、依然としてやっぱりその記録保存ないし地下埋蔵で上へレールを敷くという方法でない方法を講ぜられることをいまの段階になってもお願いしたいということです。
  99. 加藤進

    ○加藤進君 最初に一、二点だけ参考人の両先生にお聞きしたいと思います。  先ほど松永委員質問に対して、文化庁長官はいろいろ調査研究はしたけれども、しかし国がこれを指定するというほどの価値はないものと考えると、こういう断定的な見解を述べられたわけでございますけれども、この点について竹内先生坂本先生はどういうふうにお考えになっておるかということが第一。  それからもう一つは、今日の段階調査研究はしたとは言われるけれども、しかしなお、学会においてもさまざまな見解の相違もある、評価の上での違いも出てくる。このことを私たちは現在の段階でほっておくわけにはいかないのであって、学問の進歩の立場から言ってもわれわれの祖先の文化を守り、受け継いでいく点から言っても、もっともっと研究し深めていく必要がある。そのためには、今日の伊場遺跡そのものをもっと大事に保存をして、十分に今後の学会の研究の資料、調査の資料にすべきではないか。あるいはそんな必要はないのか。こういう二点について率直に両先生の御意見をお伺いしたいと思います。よろしくお願いします。
  100. 坂本太郎

    参考人坂本太郎君) 国の史跡指定する価値がないということは私も常に申しておるわけでありまして、国の史跡指定するというにはいろいろ条件がございまして、りっぱな遺構が残っているとか、あるいはほかの歴史上の非常に徴証になるというような——第一、名称がはっきりしなけりゃ困るわけでございますが、伊場の場合は、単なる伊場遺跡というだけでもって正確な名称もつけがたいというような状況であるし、範囲もどことどこというふうに確定もできない状況でありますし、いまのような柱穴がある程度の、あるいは溝がある程度の遺構だけでは、これは国の史跡として指定する価値はない。出たものは、非常に貴重なものでありますから出土品は大事にこれは保存すればよろしいので、遺構そのもの史跡として何も永久にそのまま保存しなければならぬ、そういうものではないというふうに私は考えております。  それから、研究調査という点でありますが、これはすでにもう団長の報告にもありますように、完全に調査は完了したと、つまり実地についての調査は完了したということを言っておりますから、完了したわけでありますから、今後はその報告に従いまして、その出された報告に従って、あるいは出土品について、あるいはそのほかのいろいろの状況を考えまして研究していけばいいので、その現在の土地そのものをいまのままそっくりそのまま置いておかなければならぬということはない。そのままそっくり置いておけば低湿な地でありますから、雨が降ればすぐ水びたしになってしまうし、ますます破壊は進んでいくばかりであります。もし、いまのまま保存しなきゃならぬというようなお考えならば、上に大きなりっぱなおおい屋根でもつくるとかなんとかせにゃいかぬ。あるいは一ぺん掘り戻しておいて、また掘り直してやるとか、いろいろな方法をしなければいかぬわけでありまして、もう現在までに出されたデータによって、今後はわれわれが、つまり研究者がいろいろとそこ資料を駆使して研究をすればいいので、実地そのものをいまのまま残しておかなければならぬという論理は出てこないわけです。ですから私は今回の文化庁処置は、先ほども次善の処置というお話がありましたが、やむを得ない処置である。つまり結局これは全部、私は浜松市の出身でありますのでよく浜松市の事情も知っておりますが、浜松市の大多数の住民は早くからこの事業を進めていただきたいということを熱望しておりまして、もちろん、市長が逡巡して文化財保護と称してぐずぐずしているということを非常に非難する声が高まっている現状をよく知っておりますので、私は住民福祉といいますか、希望といいますか、そういうものと、文化財の保護というものを両立させるという意味において、完全な調査をすることを市長に要望したわけでありまして、幸いにそれをいれまして何回も何回も調査を続けたわけであります。それで出てきたものがいいものが出てきたわけでありますので、もはやこの段階においては、大体に今回文化庁といいますか、県の教育委員会がとりましたような処置に従って進めていくということがやむを得ないことであると判断しているわけであります。
  101. 竹内理三

    参考人竹内理三君) 国の指定にするかどうかという問題は、われわれとしては、国指定の価値がありと評価してそれを要望しておるわけでございます。しかし国の指定でなくても、県の指定であっても、国とか県の指定段階をつけて、県の指定なら破壊してもいいというような考え方はこれはいかがかと思うのでございます。各個人の家にはそれぞれ宝とするものがある。それは国にとっては何でもないから捨ててしまえとか、これを廃棄してもいいなんということは国として言う権利はないし、それぞれ社会人にとってはそれぞれ大切なものがある。それを国であるから、県であるからと段階をつけてそれを破棄する、しないということはちょっと間違った考えてはないかと思うのでございます。ただ、私たちが国指定を希望するのは、国指定になれば、その保存がより完全に行なわれるということの希望があるからそれを希望する次第であります。  第二の保存の問題でございますが、われわれは江戸時代の学者が、よく好事家が出土品その他珍しいものが出ますと記緑をしております。しかし、その記録を見ましても、今日のおそらく考古学会の役にほとんど立たない程度の記録であるわけです。今日の考古学会あるいは発掘のそういう学術調査がそういう段階であるとは決して申すわけではありませんけれども、先ほどから何回も申しますように、学問が進んだらさらにまた違ったいろいろな新しい事実なり知識なりを得ることができる。現にあの木簡も、終戦前に一度だけ出土したことがあるわけでございます。これは例の払田の棚というところでありますが、その段階では木簡の存在というものはほとんど学会で知られておらなかった。だからこういうものが出たというたった数文字の報告だけですまされておった次第であります。もしも、そのときに木簡というものがあるということが注目されたら、今日の木簡はもっと早くから学会に注目され、学会の進歩に役立ったと思うのでございます。そういう次第でありますので、学会の進歩はいかなるものを新たに同じものから見出すかわからぬという前提の上に立たねば、簡単にそれをもう記緑したからこれでいいというわけにはいかないと思うのでございます。資料の保存というのは、私らはこれは文書の上からでございますが、大学の卒業以来、そういうほうの仕事に携わっておった関係からですか、特にそういうことを痛感する次第であります。
  102. 加藤進

    ○加藤進君 参考人に対する質問は私はこれでとどめますので、あと適切に御配慮いただいてもけっこうだと思います。
  103. 世耕政隆

    委員長世耕政隆君) それでは、この際参考人の方々に一言ごあいさつ申し上げます。  長時間、御出席いただきまして貴重なる御答弁をいただきましたことをたいへんありがたく思います。ほんとうにありがとうございました。どうぞあと御自由に御退席ください。   (参考人退席)
  104. 加藤進

    ○加藤進君 国鉄の方にお尋ねしたいと思います。  ことしの初めでございますけれども、衆議院の予算委員会で、わが党の栗田議員が国鉄質問をしたことがございます。そのときに、国鉄は次のように答えて工事協定の中で、調査後の遺跡の取り扱いについて協定内容の再検討を行なう旨の条件をつけます。こういうふうに明言されたわけでございます。これは栗田議員に対してばかりでなく、松永議員に対しても同様のことが答弁されておるわけでありますが、この協定内容について再検討するという、これは国鉄の意思表明だったと私は受け取るものでございますけれども、この点工事協定にはその点が明記されておるのでしょうか、どうでしょうか。入れられておらないとすると、国会答弁と食い違うわけでございますけれども、その点の国鉄の御見解をお聞きしたいと思います。
  105. 内田隆滋

    説明員内田隆滋君) そのときの御答弁では確かにそう申しました。その段階におきましては、伊場遺跡研究というものがまだ調査段階でございまして、移転、保存、あるいは記録保存ということになるのか、あるいは現場保存ということになるのか、その辺が明確でなかったわけでございます。で、したがって、調査の結果を十分尊重いたしまして工事の問題を進めてまいりたいということで、そういう御答弁をいたしたいと思います。現在は文化庁からの御指示によりまして、記録保存ということでよろしいという判定が下ったわけでございますので、われわれとしては、文化庁の御指示に従って遺構面の保護につきましては十分工事上注意をしてまいりますし、設計の段階でも約一メートル八十ぐらいの盛り土をして、その上に木戸を付設するようなことで協定を結んでまいりたいというふうに考えておりますので、この点につきましては文化庁の御指示のとおりのことを協定の中に入れた次第でございます。
  106. 加藤進

    ○加藤進君 そうしますと、国会の先般の答弁というのは、そのとおり実施されなかったと、工事協定に記入いたしますと、こう言っておきながら、工事協定の中には、その旨は記入されなかったということは事実ですね。そのことだけ答えていただければけっこうです。
  107. 内田隆滋

    説明員内田隆滋君) 文章をはっきり見ておりませんが、文化庁の御指示の趣旨に従って協定を結んでおります。
  108. 加藤進

    ○加藤進君 そうすると、文化庁も当然関係されるわけだと思いますけれども、これは国鉄さんね、国会答弁では明確にその点の再検討をするのを記入すると言っておきながら、その記入さえしておらないという事実は、これは私たち国会としては許しがたいと思いますよ。その点ひとまず御注意を申し上げておきます。  それから文化庁長官にお尋ねしたいわけでございますけれども、先ほど来の質問でも明らかになりましたように伊場遺跡調査の結果、貴重な発見が続いていますね。そして、伊場遺跡の価値はその発見ごとに高まりはすれ低下しておるわけではありませんね。私たちは、そういうふうに評価したいと思いますけれども、そういうやさきに、去る十一月二十二日に史跡指定全面解除が行なわれましたね。そこで、私は文化庁長官にお尋ねしますけれども、その十一月二十二日解除の行なわれた前の日に、すなわち十一月二十一日に文化庁国鉄からの問い合わせを受けてこれに回答されたはずでありますが、この回答はどのようなものだったでしょうか。
  109. 安達健二

    政府委員安達健二君) それでは、十一月二十一日に文化庁長官事務代理、文化庁次長名義で回答をいたしております文書をお読みいたしますと、「昭和四十八年十一月二日付け岐工第二七九八一号で協議のありました標記のことについては、」すなわち、「東海道本線浜松駅付近高架化事業施行に伴う埋蔵文化財包蔵地の取扱いについて」でございますが、「標記のことについては、止むをえない」と考えますので、協議のありましたとおり、慎重に実施してください。  なお、工事の施行にあたって遺構面を損傷しないよう留意されるとともに、今後当分の間既検出遺構の整理、実測、写真撮影等の作業がおこなわれますので、これに支障ないように御配慮ください。」と、こういうことでございます。
  110. 加藤進

    ○加藤進君 そうしますと、国鉄当局は、工事協定の中で明記はしなかったけれども、この遺跡史跡価値が大きければこれを考慮して再検討をするにやぶさかでないと、こういう立場をとっておられるにもかかわらず、文化庁は、いま言われたように伊場遺跡を破壊してもやむを得ない、工事を実施しなさいと、こういうことを国鉄当局に回答されたわけですね。その翌日、御承知のように、文化庁のこの回答文書をもとにして県の指定解除が行なわれたと思います。県の全面指定解除文化庁のこの国鉄に対する回答見解に基づいたものと私は考えますけれども文化庁はこの点についてどういうふうに思われましょうか。
  111. 安達健二

    政府委員安達健二君) 最初に文化庁がその遺跡を破壊してもいいというようなふうにおっしゃいましたけれども、私のほうといたしましては、その遺跡保存につきましてはもちろん現状保存が第一義でございますけれども、その遺構の状況その他から勘案いたしまして記録保存も次善の策であるということでございまして、また、工事の施行にあたって土盛りをするとか、また今後の調査に支障のないようにというようなことをいたしておりますので、われわれといたしましては、この遺跡保存については十分留意した上で工事をしてもらいたいということを申し上げておるということをひとつ御理解いただきたいことでございます。  それからもう一点は、県との関係でございますけれども、この取り扱いにつきましては、私どもといたしましては、静岡県、浜松市あるいは国鉄当局と再三にわたってこの協議をし、その適切なる取り扱いにつきまして腐心をいたしたわけでございますので、そういう面で、この県がそういうことを踏まえた上でこういう解除措置をされたことは事実の問題と思います。ただ、私どもは、従来から申し上げておりますように、史跡解除というやり方については賛成しがたいことを終始申し上げておったところでございます。
  112. 加藤進

    ○加藤進君 ともかく、県当局も十一月二十二日に談話で発表しておりますように、文化庁国鉄との協議の上で遺跡を高架化用地として使用することを認めたという点が全面解除のいわば口火になっておることは、これは明確でございますね。したがって、あのような措置がとられた最大のいわば責任文化庁にあると、こう見ても私は見過ぎじゃないと、こういうふうに考えざるを得ません。で、この日に——この日と申しますのは十一月二十一日の日に、先ほどまで御臨席いただきました竹内先生をはじめとして「伊場遺跡を守る会」の方たちからの申入書が文化庁長官に対して寄せられておるわけでございますけれども、この中にはどんなことが書いてあったでしょうか。
  113. 安達健二

    政府委員安達健二君) 申入書の現物をいま持っておりませんが、その内容といたしましては、調査がまだ完了していないので、方針の決定はまだおかしいじゃないかということと、県の指定解除はよろしくないということと、第三点は、国の史跡指定してもらいたい、こういう三つの事柄だと思います。ちょっと持っておりませんので、正確ではございませんが。
  114. 加藤進

    ○加藤進君 私は申入書を持っておりますから、全文は読みませんけれども、重要な点だけをやはりここで申しておかなければならぬと思います。  これは、竹内先生の個人的な所見でないことは明らかでございまして、この「伊場遺跡を守る会」を中心として全国の学会、二十に近い学会といわれておりましたけれども、数千の学者の方たちの共通の意思として申入書が出されたということは、これは私は事実だと思います。その中には、「今の段階ではまだ遺跡の発堀調査は終了しておらず、遺構と末発堀の埋蔵遺物に対する保護対策は十分な検討を経ているとは認められません。」と、「伊場遺跡の県指定の問題についても重大な疑問が残っております。このような段階工事を前提とする協定を結ぶことは、文化財保存行政の自殺行為になりかねないと存じます。この際ぜひとも自重されて、本日の協定締結を延期されるよう強く要望いたします。」こういうわけでございます。こういういわば学者の諸君の切実な文化保存の要望に対して、文化庁は何一つこれに答えようとしなかったということはもう明らかでございますね。これが私は文化庁文化保護の姿勢であっていいのであろうか。このいま申し上げたような伊場遺跡指定解除の取り扱いをめぐって文化庁が実際上とられた措置というのは、文化財保存し、文化財を保護していくという立場からの行政指導ではなくして、文化財の保護のための指定を今日まで行なってきた県に対しては、その指定解除はしてもよろしい、国鉄に対しては、工事を実施してもよろしいということじゃないですか。ということは、これは文化庁の仕事なんでしょう。こんなことなら、私は文化庁でなくてもだれでもできると思いますよ。私は、建設省なんというのがこうされるというならまだわかりまず。しかし、文化庁は本来文化財保護法の規定に基づいた任務を果たしていかなくてはならぬ。それは文化財の保護、保存であります。こういうこととは逆行して、文化財が今日ある、曲がりなりにも県の指定によって最後といってもいい歯どめはともかくある。にもかかわらず、皆さんの文化庁の人はどうですか。この最後の歯どめをとってとにかく工事やりなさいということでしょう。これが文化庁立場でしょうか、これが文化財保護という立場に立った文化庁の行政指導でしょうか。私は、その点の所信をお伺いしたいと思います。
  115. 安達健二

    政府委員安達健二君) まず、この守る会の方々は実は十九日の日に、前々日でございますが、代表の方々といろいろ懇談をいたしまして、現在の状況もお話をいたしたのでございまして、その後二十一日にこの処分と申しますか、決定がございまして、その後いまのような要望書をいただいたという経過でございまして、私どもといたしましてはこの問題につきましては、いろんな段階におきましてこの守る会の方々とか、あるいは専門家等とも終始この協議をし、御理解を得ようというようなことで進んでまいっておるということをまず先に御了承いただきたい、これが第一点でございます。  それからもう一つ、先ほどから申し上げておりますように、いわゆる保存という場合におきまして、これを原状保存でいくか、あくまでも原状保存でいくというのは、もちろんこの文化財保護という面を考えれば一番それはいいということはわれわれも承知いたしておるわけでございますけれども、やはりその価値に応じまして、価値の高いものならば、いかなる場合におきましても保存を全くしなければいけないわけでございますけれども、その価値と、そしてまた他方住民生活という点とを考慮いたしまして、この場合におきましては、十分な遺構が整備されていないということからいたしまして、原状保存というよりはむしろ記録保存、精密なる記録保存あるいは遺物の保存というような関係においてこれを進めることが、全体的に見てやむを得ない措置であると、こういうように判断をいたしたわけでございまするし、なお、これはそれほど申し上げて自慢することではございませんけれども、この土地の取り扱いにあたりまして北側で、幅四メートル、面積千四百平方メートルほどを事業地から除外をしていただく、除外をするというようなことも国鉄に強く申し入れ、浜松市、国鉄に申し入れまして、そういうこともいたしておるわけでございまするし、この伊場遺跡の問題につきましては、昭和四十三年以来われわれといたしましては調査の面でいろいろ協力をし、また、その調査が完了するまでは一切この最終決定をしないように、われわれといたしましては最善の努力をいたしたわけでございます その結果と申しては語弊がございますけれども、十分な相当稠密なる調査報告もできましたし、また、重要なる遺物等も出てきたわけでございまして、そういう面におきまして、私ども文化財保護という面から、最善で何ら申し分はないというわけにはいかないわけでございますけれども、次善の策としてやむを得ない程度におきましては、われわれとしては、最善の努力を払ったということを御理解いただきたいと思います。
  116. 加藤進

    ○加藤進君 これは文化庁長官の御見解としては、私は一応お聞きしておきますけれども、しかし、文化庁が本当に日本の文化の遺産を守っていくという責務の上に立って行政を進められるというなら、なぜ専門の学者諸君の御意見を十分にくんで、その上に立って慎重な配慮と慎重な検討の上でそのような決断をされないのであろうか。私は、その点において今日松永委員から要請がありました竹内坂本参考人意見を拝聴いたしましても、この遺跡の価値についてきわめて貴重なものがあることは認めながら、その価値についての評価の点では高低がございますし、同時に、その保存方法についてもきわめてはっきりとした意見の対立があるということになれば、文化庁はそのうちの一つを自分たちの都合のいいという観点から取り上げてこのような行政で進めていくのか、それとも十分な学者、文化人諸君の意見、あるいは地元民の意思というものを総合し、そして、その上に立って正確な判断を下しながら行政の上にこれを生かしていくのか。これは私は後者をとるのが文化庁の最大の任務だろうとこう考えています。しかも、この点については文化財埋蔵文化財等々の指定解除していくという場合には、御承知のように、文化財保護法の中に指定解除についての規定がございますね。私は文化庁がもし基準として正確に守っていかなくてはならぬということになるなら、この文化財指定解除をやっぱり原則としてこれを守り抜いていかなければならぬというふうに考えますけれども、その文化財指定解除についてはどんなふうに規定されておりますか。
  117. 安達健二

    政府委員安達健二君) 最初にお話のあった点でございますけれども、私どもといたしましては、先生のおっしゃるように専門家の意見も十分聞き、また、特にこの浜松市で顧問団も組織されて十二分に検討が行なわれたと思いまするし、また文化庁といたしましても、専門調査会の懇談会という形でございますけれども、十二分に意見を聞きまして、そして十二分な調査をし、その上に立っての決定をいたしたつもりでございまして、決してこれを軽率な判断で、あるいは工事を優先するというような考え方では毛頭ないということを御理解いただきたいと思います。  それから、第二の点の解除でございますけれども、その文化財保護法の七十一条におきまして、「特別史跡名勝天然記念物又は史跡名勝天然記念物がその価値を失った場合その他特殊の事由のあるときは、文部大臣又は都道府県の教育委員会は、その指定又は仮指定解除することができる。」という規定がございますので、中心は「その価値を失った場合」ということになっておるわけでございます。  なおこの都道府県の教育委員会がございますが、これは仮指定のことでございまして、県が県の史跡として指定した場合につきましては、この七十一条の適用のないことはもとよりでございます。
  118. 加藤進

    ○加藤進君 私は、もう県の指定についてまでかれこれとここで議論をするつもりはございませんが、県が指定解除する、この指定解除の口火となったものは何かというと、文化庁国鉄に対する回答なんですから、その意味では、指定解除について大きなやっぱり役目を文化庁が果たしておられるわけです。この文化庁の回答がなかったら指定解除ということが行なわれたかどうか、私ははかりがたいものがある。県はそれをたてにした。たてにする以上は、私は県のそういう態度についてかれこれ言う前に、文化庁はそのことを見越して、文化財指定解除する場合には、この条項に照らしてみて、それが正しいかどうかを判断しなくてはならぬと思います。となると、いまおっしゃったように、重要文化財が「その価値を失った場合」ということにかかるとおっしゃいましたが、価値が失われたんでしょうか、これは。
  119. 安達健二

    政府委員安達健二君) ちょっと私どもと話があわないといけないと思いますけれども、現に伊場遺跡文化財保護法によって史跡として指定されたものではございません。したがいまして、直接この七十一条の問題は生じないわけでございます。で、いまの問題といたしますのは、この文化財保護法埋蔵文化財の五十七条の二の問題でございまして、五十七条の二の問題といたしまして「土木工事その他埋蔵文化財調査以外の目的で、貝づか、古墳その他埋蔵文化財を包蔵する土地として周知されている土地を発堀しようとする場合には、」と、この規定に該当いたすわけでございまして、この規定によるところの届け出と申しますか、そういう手続きが行なわれました場合におきまして、文化庁長官が五十七条の二の規定に従いましていかなる指示をするかという問題にかかっておるわけでございます。この五十七条の二の運営の問題といたしまして、国鉄との間で協議書を取りかわしておりまして、その協議書に基づきまして国鉄のほうからそういう意味の申し出があり、それに対してわれわれが長い、数年かかりました結果を踏まえまして御回答申し上げたということでございます。したがいまして、いまの史跡解除の七十一条とは直接この問題は関係ないということを御了承いただきたいと思います。
  120. 加藤進

    ○加藤進君 そこで、文化庁長官言われましたように、国鉄との協議書ということは、国鉄の都合があるから、その国鉄の計画があるから、その国鉄の計画に基づいて文化庁も何らかの史跡についての処置をしなくてはいかぬ、そのための行政指導を行なわなくてはならぬ、こういうことでしょう。そういう上に立って県の史跡指定解除が現に行なわれたということでありますから、私は何もそのこと自体の適用条文はどれこれということを申しておるわけではございません。問題は解除ということにあります。解除趣旨や精神はどこにあるのか、解除はどのような条件が必要なのかということになれば、これは国宝やあるいは国の重要文化財のことに規定はなっておりますけれども、これに準ずる立場に立つ解除の基本がなくてはならない、解除に必要な条件がなくてはならないというならば、先ほどおっしゃいましたように、重要な価値を失った、重要文化財としての価値を失ったという点がやはりこの問題にかかるわけじゃないですか。こんなことは全然関係ないと、こう言い切れるんですか。
  121. 安達健二

    政府委員安達健二君) いま県が解除いたしましたのは、県が県という独自の立場で条例に基づきました史跡を県の史跡として指定をしておるわけでございます。その県が——ほぼ同様の規定があると思いますけれども、その条例の規定に従って解除するということの問題あるいはそれに対する是非の問題ということが一つあるわけでございます。  それに対しまして、私どもといたしましては、その価値を失ったという言い方は、どう考えても少しおかしいのではないかと、したがいまして、私といたしましては、そういう解除という手続は適当ではないというような意味で指導をしておったということが一つでございます。  それからもう一つは、先ほど来申し上げておりますところの五十七条の二の規定によるところの埋蔵文化財包蔵地の取り扱いにつきましては、国鉄との覚書がございまして、その中で、国鉄におきましてその包蔵地について処理をする場合におきましては、工事施行前に都道府県教育委員会意見を聴取し、まあ文化庁と協議の上、次の各号に区分して必要な措置をとるものとするということで、国鉄の「事業地区に含めないもの2事業地区に含めるが、これが保存を図るもの3発堀調査を行なって記録を残すもの」と、こういうような処置方法がございますので、その処置方法といたしまして、いま発堀調査を行なって記録を残すものに該当するものという判定を下しまして、国鉄のほうにそういうように通知を申し上げたと、こういうことでございます。
  122. 加藤進

    ○加藤進君 御説明は承っておきます。  しかし、事実がはっきり示しておりますように、十一月二十一日に文化庁国鉄当局に対して出された回答なるものは、どうが御意思に基づいて工事をやってけっこうでございます、こういうことですね。けっこうでございますと言われた国鉄からいうなら、あるいは地元の県当局からいうなら、そのために障害を取り除かなくてはならぬ。それは県の史跡指定。県の史跡指定があってそれができますか。したがって、県の史跡指定は、そのためにこそ解除をしなくてはならぬ、こういう結果になって、翌日指定解除が行なわれ、県当局は、これは文化庁のほうから国鉄に対してこのような協議の結果回答が出たので、これは私たちとしてもやることができるようになった、こう言って、勇躍してと申しては恐縮でございますけれども指定解除に踏み切られたわけでございます。私は、何も条文上におけるあれこれの解釈ではなしに、文化庁文化保護の立場から県の教育委員会等々に対する行政指導を行なわれるとするなら、文化財の保護法の趣旨、精神に基づいてこれが十分に貫徹できるような方向で私は指導するのが至当であって、かりそめにも、その間にいろいろな誤解があったり、あるいはいろいろな文化庁考え方とは違う見解が起こったりなどというようなことの起こらぬような措置がむしろ行なわれて初めてほんとうの指導になると私は考えるわけでありまして、こういう点から見て、私は、文化庁が今度のような伊場遺跡史跡そのものが指定解除されて、そして国鉄の用地として、これが国鉄の輸送のための必要上、結果においては史跡そのものの破壊に通ずるということになるならば、それは私は文化庁文化遺跡をほんとうに守るという立場に立って行なわれた指導であり、措置であったのかどうか、私が申し上げたいのはその点でございます。大臣ね、大臣も御承知のように、今日までどれほどの文化遺跡文化遺産が破壊にさらされたかは数え切れないものがありますね。あるいは道路建設のためにやむを得ないとか、あるいは住宅のために必要だとか、新幹線や高速道路が公益のために必要だなどというようなことで、どれだけの文化遺跡が破壊にさらされたかもしれません。文化庁がもし存在の意義を持つとするならば、このようなほうっておけば破壊にさらされざるを得ないようなさまざまな開発行為に対して、少なくとも、文化財保護法立場に立って、あえてこのような破壊から文化財を守るという立場に立つ以外に道はないんじゃないでしょうか。このことが今日まで行なわれなかったということが、数々の貴重な文化財を今日喪失して、取り返しのつかないような状態にきたのでありまして、そのようなことがいまや伊場遺跡においてもおこらんとしておるという重大な事態であればこそ、松永委員質問もあり、私も、その点について、文化庁の態度がはたしてこれで正しいかどうか、その行政指導について十分反省し、見直すべき点があるのではないかという点を私は今日強く訴えて、指摘したわけでございます。時間がきておるようでございますから、これ以上の点はまた後日に譲りますけれども大臣、こういう点を全体として考えてみて、はたして古代のわれわれの祖先が残してくれた日本民族の貴重な文化が、このような行政姿勢のまま推移していくならばどうなるかという立場に立って、ぜひとも抜本的に文化庁の行政のサイドを反省し、改めていただきたい。私は心から期待するわけでございますけれども、その点についての大臣の所見をお伺いして、私の質問を終りたいと思います。
  123. 奥野誠亮

    国務大臣奥野誠亮君) 文化財を守っていくことは、国の将来の発展のためにもたいへん重要なことだと、かように考えているわけでございます。同時にまた、埋蔵文化財、集中遺跡といわれているのが、十四万ヵ所確認されているわけでございますけれども、さらに、その後調査いたしまして三十万カ所になろうと、かように考えているわけでございます。こういうような集中遺跡につきましても、逐次調査をいたしまして、この結果を地図に作製する、そして遺跡の所在の周知徹底をはかることにしているわけでございます。したがいまして、開発事業の計画以前に、できれば発堀調査を完了する。そして、その結果に応じて史跡指定する等、必要な保存措置を事前に講ずることが最も大切なことだと、かように考えているわけでございます。同時にまた、開発事業段階にありましても、計画の段階で十分な合意を得るということで文化財を守っていかなければならない、こう考えているわけでございまして、今後ともそういう考え方で一そう努力を払っていきたいと思っております。
  124. 加藤進

    ○加藤進君 最後に、環境庁が誕生して以来、もちろん、いろいろ環境庁に対する批判的な意見もあります。しかし、少なくとも自然を保護するという問題について、従来なかったような自然破壊に対する歯どめをあちこちにつくられたということは、これは私は事実として評価しなくてはならぬと思う。自然に対してはそのようでありますが、ましてや、われわれの祖先の残してくれた文化遺産でございます。環境庁が行なった自然破壊に対する歯どめ以上の決意と、以上の措置をもって立化遺産を守り抜くということが、今後われわれの未来の子供たち、あるいは今後の日本にとってきわめて必要なことであり重要な任務だと私は思います。その点につきましてぜひとも従来にこだわりなく、もっともっと深刻な反省の上に立って行政指導の改善を詰めていただきたいということかお願いして、質問を終わります。
  125. 世耕政隆

    委員長世耕政隆君) ほかに御発言もなければ、本件に対する質疑は、本日はこの程度にとどめます。  これにて本日は散会いたします。    午後一時二十五分散会      —————・—————