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参考人(一
楽照雄君) 本日は、
農林年金の
受給者の一人としてお呼びいただいたんだとお話承っておりますが、この問題について、
受給者の
意見を聞いてやろうというようなことは、私存じませんけれ
ども、おそらくいままであんまりなかったんじゃないかと思うのです。そういう
意味におきまして、非常にありがたい御
配慮だと思うわけでございます。
ただ、具体的な
意見を申し上げるに当たりまして、
一言前提としてのなにを申し上げますと、御
承知のとおりに、
年金制度は多種多様、たくさんに分かれておりまするのが
日本の現在の状態でございます。
農林漁業団体につとめておった者として、その
従業員だけの
年金制度が、
——農民、
漁民、
林業者とは別の形において行なわれております。ここで、私
どもが
意見主張を申し上げるに際して、この
団体の
構成員である
農民、
漁民、
林業者と同じ立場において、共通の問題として申し上げられないことを非常に残念に思います。若干内心じくじたるものを覚えざるを得ないんでございます。
そういうように、今日の
年金制度が、
社会保障なのか、
企業における
労務対策の
性格を持っているものか、というような点がはっきりとしていないような今日の実情に対して、
福祉国家の建設といい、
年金制度の拡充とか、
金額を幾らにしようとか、
金額の上で主張したり、こたえたりしております。けれ
ども、そういうことの以前の問題として、
年金制度は、
社会保障の
性格の
年金制度であるかどうか、それは
年金の中には、
文化功労者に対する
年金のように、
功労者に対する
年金もあっていいでしょう。しかし、
一般にいわれている大衆の
年金は、私は、
社会保障としての
年金の確立ということを早く確立しなきゃならぬじゃないかと思います。そうしますと、それは
所得比例のものがどうとかというんじゃなくって、それは今日の新
憲法下において、健康にして文化的な
生活を守るための最底必要の
金額を、職業の
いかんにかかわらず、
勤務年限の
いかんにかかわらず、大体において働けなくなった六十歳なら六十歳、五十五歳なら五十五歳、そういうものを基準にして
定額のものを、
国民平等に支給するという
制度に、強制と国の
補助を持っていくべきであって、
勤務年限に比例してどうとか、やめるときの
給与に対してどうとかというものは、
国家がそんなに
補助しなくっても、それ相応に
自分にも
負担能力があるし、また使っている側にも、それだけの
負担能力があるわけですから、そういうやつは任意の
制度にし、また、強制的な
制度にしても、国の
財政はそういうところへ投入していく必要はないじゃないかと。今日の場合は、そういうようなことができていなくって、
所得比例部分だとか、
定額部分とか、チャンポンになって、それに対して、国が
補助をしている。そういうところには私は、
財政の使い方としてむだがあるのじゃないか。また、
制度がたくさん分かれておる結果、ある
制度によって、二十年つとめて四十歳そこそこ、あるいは四十四、五歳で二十年間の
年金もらって、そしてまた、別のところへ行って二十年やれば、また
年金がもらえる。六十二、三歳、六十四、五歳でもらえるというような、重複した
年金を与える必要はないじゃないか。そういうような、とかく何かといえば、
財源がない、ないと言いますけれ
ども、そういうようなむだな
財源がずいぶん使われているじゃないか。
また、
制度が分立している結果、
農林年金のように
全国一本になっているのはいいですけれ
ども、他の
公務員団体とか、いろいろなものには、たくさんの組織があって、
団体があって、そこにどれだけの
経費を使っているか。そういうものも節約されるのではないか。また、分立してそれぞれ別々に
掛け金を徴収している、そのことのために、
経費もずいぶんあるじゃないかというようなことがありますので
——私は、ほんとうに専門的じゃなくって、もっと常識的な、庶民的な、大衆的なしろうととして
考えますと、
社会保障制度として確立するための
財源も相当ある、稔出する
財源もあるので、しかしおのずから
財源には限度がありますが、ありますけれ
ども、
社会保障の
分野に関する限りは、乏しきを憂えず、ひとしからざるを憂える、という
考えで貫くべきじゃないか。
いま
自由主義あるいは
資本主義とか言われるような世の中の
体制でございますけれ
ども、そういう
体制になればこそ、そこで働けなくなった老後の者を保障する
施設が必要になってくる。その保障する
施設の、
社会保障の
分野にまで、昔あった
企業における
労務対策的な
制度をそのまま、国の
施設に引き継いできている、というのが今日の姿じゃないか。そして、そこで当然、完全に実行もできない
積み立て方式に固執しながら、
現実においては、
修正積み立て方式にならざるを得ないというのが
現状ではないでしょうか。それを部分的な、都合のいいところだけ取り上げて、そしていかにも
賦課方式は危険な、先のことを
考えない乱暴な
意見のことのように言いますけれ
ども、
積み立て方式こそ危険きわまりない
方式であって、
現実がすでにくずれておるじゃありませんか。
そして
人口が、
老齢者の数がふえて、働く人の数が少なくなる、そういう
年齢構成は、そうなる傾向は認めましょう。しかし、働く人が、いま五十五歳が
定年だからといって五十五歳でやめて、何も働いていない人がそんなにありますか。
定年自体を六十歳にしなきゃいかぬ、六十五歳にしなきゃいかぬということになる。
老齢者の率がふえるということは事実だとしても、それと並行して老年者が働く、また、働かなければならないという、また働き得るという実態も出てきているわけですから、いずれを
考えてみましても、この
積み立て方式を固執して、そのことに伴っていろいろの
制度が分立して、それに伴うむだな
経費が使われておる。そういうことの結果、利益が
——あえて利益だといえば、
積み立て金の運用が
財政投融資に使われるとか、あるいはいろいろその
団体に、そしてそこで飯が食える
職員ができるとか、そういうことを利益と言えば利益かもしれませんけれ
ども。そういうことは、公然と言えることだろうかどうかということを
考えますと、どうも私は、今日の
年金制度というものは、ほんとうに、いまたくさんの学者の方々が言われており、また、諸外国の例等から見ましても、
賦課方式にし、そして職業の
いかん、勤続年数の
いかんを問わず一本にする。そして
経費を節約して重複して支払う必要なんかないようにする、という方向へいくということを、私は、ビジョンとして持って、できる限りの努力をすべきじゃないか。
私は、このことをいまこの席で申し上げたって、いますぐに、この
委員会で通していただける、そんなこおはもちろんできないことですから、そんなことに時間を費やすべきではないと思いまするけれ
ども、私は、ただ単に
農林年金のことだけを
考えて、それぞれよかったらいい、
自分の立場だけよかったらいいという、エゴイズムの
考えで、ものを申す気になりませんことを前提として、そういう気持ちがありながら、その線に沿った上でこの具体的な
農林年金の
改正を
——私がいま前段として申し上げた思想の延長として、この具体的な
年金制度について、
農林年金についての御注文を申し上げたいと思うわけでございます。
こまかいことは、ふだんからも知りませんし、また、今回勉強するひまもありませなんだので、ただ、大筋の
考え方についてだけ申し上げますと、とにかく何度も
年金制度が、
農林年金制度が
改正されたようでございます。そして、われわれ、私なんかも、何度も
金額が引き上げられてきていることは事実でございます。その引き上げ方が足らないとかなんとかということの前に、そういうことじゃありませんで、
一つの不均衡、すなわち、早くやめた、以前にやめた人ほど不利であって、新しくやめたほど得だというようなどうも感じがするんですね。そういう感じ方を持っております。どうもそれは釈然としないんですよ、私自身は。これは私だけじゃなくて、古い人はみなそうだろうと思います。
たとえば、ちょっと資料を見てみましたが、まあ、もうざっくばらんに申し上げたほうがいいと思いますが、私が
昭和四十年にやめて、見ますと、ほとんど十九年十カ月が旧法時代、それから新法時代が五カ月とかになっているんですね。でまあほとんど全部が旧法の時代のものなんです。だから早いほうです、
年金をもらったのは。そうして何度も引き上げられて、現在六十二万九十八円という数字にきているんですね。私は、昨日
農林年金へ行って、二十年六カ月かで
——つとめたのはそうじゃないんです。
昭和五年からつとめていますから、十五年間は空白ですね。だけれ
ども、そうじゃなくて、その私が二十年しか
年金の対象になっていない。だから、そこの
制度の変わったときのことまでは言いません。同じく二十年つとめて、いま二十年つとめてやめた人が、私と同じ俸給の、要するに、最高限度のところでは幾らになりますか、と言いましたら、八十九万三千三百三十四円になるというんですよ。それが十月になると、また上がって九十四万円になるそうですね。大体三分の一差があるんですね。ですから、それはいろいろ物価騰貴で修正してそうなっている。なぜそうなるのか、詳しいことはわかりません。何かちょっと私が想像しますと、旧法時代は六十分の一、新法時代は百分の二、こういうような違いがある。それだけじゃ、しかしそんな大きな差は出てこない。何か、
仮定標準
給与というのを直してきているわけです。そこにどうも問題があるような気がするんです。
私から言いますと、これは
公務員の
給与でも、会社の
給与でも、最高が幾ら、その次の人が幾らと、まあそれを号で一号、二号、三号とずっとあって一号が最高で、二十号が最低とします。ベースアップすれば、それぞれ三割なら三割、まあ均一にいく。それは多少修正するにしても、平均三割なら三割にして、一号は幾ら、二号は幾らと、ずっとその号々に対して
金額を変えていく。これは
公務員の
給与でも同じようなわけです。そうだとすると、前に一号で
掛け金をかけておった人は、今日の一号を基準にすべきじゃないかと思うんです。それをそうしないで、何か掛け算かなんかして、そうなっていないらしい。そこの差が、いまのような三分の一の差になっているじゃないかと思うんです。そういうことをしなければならない根拠がどこにあるか、その法律を変えた。そしていついつからやめた人には何か有利になる。前の人は不利だ。みんな前の人が不利だ。それは話が逆じゃないか。古い人は早く死ぬんですから、あとで修正する
機会が、チャンスが少ないわけです。若い人は、修正するチャンスがあるわけです。まずほんとういえば、古いほうの人を優遇しなければならないのを、それを若いほうの人を優遇するという
関係になっている。
いま例をあげましたが、二十年つとめて
——大学出て二十二歳でつとめて、そして四十四になってもらうんですね。それで若年停止で何割か引かれまするけれ
ども、四十二、三から二十年つとめて、六十二、三でまたもらえる。これは二重にもらえるわけです。そういうことで、何かというと、
財源がない、ないとおっしゃいまするけれ
ども、
財源関係からいえば逆なんです。古い人は余命が少ししかないわけです。同じ二十年でも、いま私が例にとった、六十二万円の私の余命と、二十二歳で就職していまやめる人の余命は十何年違うわけです。その人たちの
給付期間は長いわけです。ですから、
財源関係からいいましても、それは逆にならなければならない。ですから、こういう点について全くいままでのやり方は、話が逆になっていると思います。そういう
意味におきまして、ぜひとも、少なくとも、古い早くやめた人もあとでやめた人も、一号給もらっておった人は一号、これは、軍人でたとえて言えば、大将は、昔やめた大将もいまやめた大将も、それは同じ
年金をもらえるようにするということに変えていただきたい。それも本年度は、この国会では私はどうかと思いますけれ
ども、しかしそれは、少なくとも次の国会でそういうようにお願いしなければならぬことじゃないかと思うんです。これは、どうもそこの秘密というか問題点は、
仮定標準
給与というものを、もとのやつに何%かけるなんというやり方で操作しているようだが、そんなことをする必要はない。一号、二号、三号として、それに当てはめていけばいいので、初め三号の人はいま三号にする、やめたとき三号であった人はいまの三号にすると、そういう標準
仮定給与にすればいいと思うんですよ。
それと同じ
関係でございまするが、このスライドによって訂正していく、
金額を増額していくということの実施期間です。これはいまのように、過去のものをあとからするなんというんじゃおかしいんであって、たとえばいまきめられるやつは、去年の古いベースアップを基準にして、そうしていまきめられて、この十月から実施されるということになる。それなんかも一年半おくれることになるんです、実際の物価騰貴と比べて。それはやはり、そういうことはむずかしいことじゃなくって、やろうと思えば簡単にできるわけです。
国家公務員の
給与は、ことしの春闘相場を見て、そうして人事院が勧告出して、そうしてことしの夏なり秋にきめて、四月にさかのぼってやるから、民間と比べて劣らないように、おくれないようにできているんです。それを
年金が、去年の春闘相場を、いま御審議のところにきて、そうしてことしの十月からやるということは一年半おくれる。ですから、一年半はおくれても直すんだからいいよと言われますけれ
ども、それは、
給与に対してはおくれるということは、それだけ安いということなんです。
一つの会社でも、大
企業と小
企業とは待遇は違うといっても、五年たてば、三年たてば、小
企業でも、三年前の大
企業並みの賃金を払っているんです。だから、いつも、一年であろうが二年であろうが、おくれているということが、事実は低いということになるわけです。ですから、
年金制度におきましても、スライド制を実施する以上は、半年でも一年でもおくれてはこれは修正したことにならないんですよ。ですから、やっぱり、
公務員と同じように、一年半取り返していまのやつはことしの四月、それでもまだ一年おくれですから、とにかくある期間に、二年分をきめて、そうして実行するというようにしませんと、この点はもうスライド制が、時期がおくれれば、そのスライド制の
意味をなさないということ。だからそういうことは、
財源があるとかないとかじゃなくって、スライド制をするという
考えに対して、その時期がおくれるくらいはいいじゃないかというんじゃなくて、時期がおくれるということはスライド制が完全に行なわれないことだというふうに御理解を、そこの点をお願いせにゃならぬと思います。ですから、これは
公務員に準ずべきじゃないかと思います。
それから最後に
一つ、
農林年金につきましても、
共済組合の
組合員は退職をすれば、そして
受給者になれば
共済組合の
組合員たる資格がなくなるんです。だけど、こういうこともなぜ必要であるかどうかというんです。話は逆じゃないかと、二十年間忠実に規定どおり掛け込んだ人こそ発言権を持つべきであって、まだ入ったばかりで、一月か二月か掛けない人が発言権を持つということは、矛盾もきわめてはなはだしいことじゃないかと思うんです。このことは、これこそ
財源要らないのですから、これこそ私は参議院で御決議願って
——それも衆議院で済んでおればめんどくさいから、いまから間に合わないから、せめて来年から。ことしは、附帯決議ぐらいにしておいていただいて、来年からに。これは、いかに大蔵省といえ
ども、文句ないんじゃないかと思うんです。これは単に空理空論ではなくて、たとえば
福祉施設で金を貸すといっても、
組合員じゃなきゃ貸さない。
組合員の場合は、大体各
団体において、住宅
資金の貸し出しはみんなあるんですよ。それから、いろいろな宿舎とかクラブ等をみんな各地に持っていますね、
福祉施設を。あれなんかでも、規則からいきますと、
受給者は利用する資格がないんですよ。便宜、
組合員に準じてやってもらっている。それなんか逆である。現役の人は、みんなそれぞれ厚生
施設を持っているんですよ。やめたらその厚生
施設が利用できなくなる。この
福祉施設なんということこそ
受給者本位に
考えなきゃならない、そういうことがある。
ですから、私、
考えてみますると、さっき申し上げましたように、古い先輩を、意識的にじゃないが、結果から見れば、そういうような不つり合いなことができておるということは、やはり
農林年金組合に
受給者が発言権を持っておらないということとも
関係があると思いますので、ぜひこの点は、金は要らないですから、運営からいっても非常にいいと思うんです。実際問題として私たちも現役につとめておりますときには、あまり大きなことは言えないのです。私
どもが、現役時代にいま申し上げるようなことを申し上げたらりっぱなんですけれ
ども、その時分は
年金のことなんて眼中になかったわけですよ、実際は。ほんとうは、一部の人にまかせっきりであったわけですから、いまになって同僚のことを見ますと、非常にそういう点で私
ども、現役時代の責任を感じているようなわけでございます。どうぞよろしくお願いいたします。(拍手)