○澄田
説明員 私からお答え申し上げます。
アラスカパルプ株式会社は、終戦後わが国の森林資源が、戦争中あるいは戦後を通じまして非常に過伐になったというようなこと、あるいは外地の資源を喪失したというような
事情によりまして、森林資源に対して将来の見通しがいろいろな点で非常にむずかしい、こういう事態がございまして、それで、当時
政府と民間と協力いたしましてアメリカ合衆国
政府と
交渉をいたしまして、アメリカ州の針葉樹の資源の伐採権、これをもらうように働きかけました。それが同時にアラスカの地域開発にもなる、こういうような見地からアメリカ
政府の積極的な協力を得まして伐採権を
確保できました。ただし、この森林資源は、アメリカ側は、これを木材のまま
日本へ持っていくのでなくて、現地において化繊用のパルプ並びに製材品としてつくって、そして
日本にこれを輸出するように、こういうのが条件になっておりました。
昭和二十八年にこのような
状況を背景にこの事業に着手したわけでございます。
アラスカパルプ株式会社は、アラスカに子会社を三つ持ちまして、そしてパルプ工場を一工場、それから製材工場を二工場持って、その払い下げを受ける国有林、その
地区並びにその他の
地区から原木を伐採して、そうしてパルプを製造する、並びに製材を行なう、こういう事業を営んだわけでございます。
本事業につきましてはこういう背景でございましたので、この事業に対して
日本輸出入銀行から融資をするにあたりまして、三十一年三月に閣議了解を、
政府においてはそういう手続をとられまして、それで「アラスカに於けるパルプ事業の推進について」というようなことで、その中におきまして、「この事業は日米両国にとって、相互の
利益となるのみならず、日米経済協力の具体的なあらわれでもある」、そういうようなこととして、今後アラスカにおけるパルプ事業の推進に
政府は
努力をする、こういう了解があったわけでございます。
ちなみにこの事業は、
日本の戦後における本格的な海外投資事業の第一号ということになったわけでございます。ところが、その後、針葉樹のみならず広葉樹についても、これを活用して化繊用のパルプにすることができるというような
技術開発が行なわれ、また合繊が非常に発達をして化繊の需要がそれほど伸びないというようなこともございまして、市況がずっと停滞をしておりました。それに加えまして、現地におきます労務費が高騰をするというような、そういう
事情もありまして経営が非常に苦しくなってまいりました。その間、再度にわたってこれの業績の立て直しのための
努力をやってまいったわけでございます。たとえば増資を行ないまして、三十五億から七十億円でございますが、資本金の増資を行ないました。さらにその増資を半額減資をして、さらに再び七十億に増資をする、こういうような
措置をとったりいたしてまいりましたが、たまたま四十七年になりましてアラスカ州の公害規制の基準が非常にきびしくなりまして、そして公害防止の設備を新しくやらなければならない、もしこれをやらない場合には操業を三分の二に落とさなければならない、こういうようなことになりまして、それを契機といたしまして、もしこの際に債務につきまして特段の
措置をとるということがないといたしますと、会社の経営は全く行き詰まる
状態である、こういうふうなことになりましたために、
政府といろいろ
協議をいたしまして、四十七年の九月に一連の元本及び利払いの繰り延べ
措置をとった次第でございました。
その後、森林の木材の価格が四十八年から上昇をしてまいりました。さらには、最近に至りましてパルプの価格も非常に上昇をしてくるというようなことで、ここへきて経営が初めて、実質的には初めてと申し上げていいわけでありますが、黒字になる、こういうような事態になりました。一部繰り上げ償還の
措置をとっておるわけでございます。このような
状態が続きますならば、今後、当社の
再建、これに伴ってすでにとりました繰り上げ償還というような
措置をさらに今後も続けていくようなめども立ってくる、かように存じている次第でございます。