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工藤良平君 非常に不幸な
子供たちの
勉強をしたいという親の願い、さらに、
本人自身も非常に体は不自由でありますけれ
ども、そういう願いを持っている。それにどうこたえていくかということがやはり政治的な問題として今日まで私は
論議をされてきただろうと思うのであります。もちろん、その
対策について相当な
努力をなさっていることも事実でありますけれ
ども、いま
お話しのように、やはり中教審で示された十ヵ年というものを七ヵ年にでもして
努力をしていきたいという
立場もわかりますけれ
ども、しかし、そのような
努力をしてみても、現在やはり収容していけばなお
勉強の
機会が与えられるという者に対して一体どの程度こたえることができるのか。私は、この点についてはまだまだ大きな問題があると思います。そういう
論争については、きょうは四十分でありますから、そう多くを語る時間がございませんので、私は大分県の
別府にいま
石垣原養護学校というのができておりまして、これは
厚生省と
文部省の
努力によりまして、もちろん、この
病院の
統合そのものについては若干問題はありましたけれ
ども、
統合によりまして六百といういま
病床がございますが、そのうちの二百四十が
小児病棟として
筋ジストロフィーから、あるいは
長期の
結核療養者、さらに、その他の
重症心身障害者を収容いたしまして、いま二百四十名がおるわけでありますけれ
ども、そのうちいま
教育を受けておりますのは約百名だと言われております。そこで、私はきょう、具体的にいろいろ私が
説明をするよりも、この担当しておる
先生方がどのように真剣に
教育のことを考え、しかも、この
人たちの善意と
努力によっていまようやくささえられているという事実を、私、時間がございませんけれ
ども、ここに
一つの
文章がありますから読み上げて
皆さんのひとつ参考にしていただきたいと思うわけであります。それは、
「詩を書く
子どもたち
ジフトロフィー
一人の子が
廊下を歩いている
重い足どりで
ゆっくり歩いている
手すりに寄りそい
一歩一歩、歩いている
手すりがなくなった
こんどは
自分の力で歩こうとする
手すりから手が
手のひらから指先へと
離れていく
足がふらつき
今にも倒れそう
しかし
歩こうとする
あっ一瞬
手が床についてしまった
だが
手すりにつかまり
立とうとする
でも倒れる
立とうとする
又倒れる
又立とうとする
倒れる
顔じゅうに汗と涙がにじむ
最後の力をふりしぼり
気力で立とうとしている
腰をぐっとあげ
顔を真赤にそめて………
立った
立った
とうとう立った
僕の
手のひらにも
汗が光った
これは
中学三年
吉本昭一君の詩である。立ちたい、歩きたい、それはこの
学校の
子どもたちの切なるねがいである。本校にはこうした
子どもたちが約六十名いる。
西日本全域から集まった不幸な
子どもたちばかりである。この
子どもたちに、かすかなりとも
希望の光をあたえたい。私は
学校教育の中でその光を求めつづける。けれどそれはなまやさしいことではない。
この子らの
生きがい——それは率直にいって
病気が全快することである。全快しないまでも全快する
可能性が見出されるならばこれにこした
生きがいはあるまい。一日も早くそうした
望みがかなえられるよう念ずるものである。けれどそれは医学の問題であり私の手の届くことではない。ただ心から念ずるのみである。そして、私は
教育の面からこの
子どもたちの
生きがいを求めつづける。それが可能か不可能かもいまだつかめないままに。——私の頭の中には懸命に生きようとする
子どもたちの姿がある。
一昨年
中学を卒業した
本村勇君は、昨夏、
旺文社発行の
月刊雑誌中学三年の
文芸欄に「夕立や水色の風恵みけり」の俳句を出して入賞した。寝たつきりの
本村君は昨年十月二日その
雑誌と
記念品でもらった赤いペンシルを枕元に置いて静かにこの世を去っていった。かしこいよい
子どもであった。葬儀の日、同じ
病気で入院している
中学二年の弟が、「
先生ぼくもうあと二年生きるね。」と
A先生にいったそうである。この
子どもたちは
肉身や友の死により時折り切実に死を考えさせられ、死を強いられ、自己の運命をみせつけられてゆくようである。こんな
子ども達に
生きがいを求めることは無理であろうか。死の恐怖から遠ざける
努力をする以外に道はないものであろうか。ある
教師は、
右指だけしか動かない寝たっきりの
N子から「私には少しも
勉強を教えてくれない。この
病院にくれば
勉強を教えてくれるといったから、わたしは入院したのに。」とせがまれたそうである。この
教師は、
教育こそここの
子どもたちの
生きがいであるという。
勉強したいということ、それがそのまま
生きがいであるとは言いきれないかもしれないが、少くとも
希望であり、生きる
手ごたえであるとは考えられないであろうか。
社会に出てゆく
望みのないここの
子どもたちに、英語や数学を教え、理科や
社会科を学習させることは
教育そのものの目的のほかに、生きる
支えとしての
意味がより大きいことを見のがしてはならない。そしてその
支えを私はより大切にしていきたいと思う。」、さらにこの
先生はこう書いております。
「三年前、
小児病棟が一棟
増設され、
西日本各地から未
就学児童が入院してきた。その時の様子をある
教師は、「まったく
動物園のようでした。泣く、わめく、物をなげる、けんかをする、私などは何度もつばを吐きかけられたものですよ。」と話してくれた。その
子どもたちが今ではこんなにあかるく、生き生きと
病院生活を送るようになったのである。昨春、私が赴任した時、主治医はそのことを「
教育の力です。」としみじみ語ってくれた。そうした
子どもたちの中から、現在
中学卒業生十二名、本
年度末にはあわせて二十四名の者が学業を離れることになる。この年齢になると
病気が進行するためほとんどの者は動けなくなり、
ベッド生活を余儀なくされる。その日々は起床から就寝まで型通りの
病院生活のみとなり、三度の食事には事欠かないが、変化のない毎日がくりかえされるようになる。音楽を聞きながら竹細工をしている
子どもの姿からは、こころなしか
中学生当時の張りも生気も見られないようである。それにたえかねてか、三名の者は
通信高校の
通信教育を受けている。けれ
どもベッド生活であるため、スクーリングは受けられない。ある者は世界の名著を読み、またある者は
文学全集をあさっている。
高校の教科書を
勉強している者もいる。せめてもの
手ごたえを求めてのことであろうか。
それは生きる
支え——教育を受ける
機会を取り去られたみじめな
子どもの姿としか私の目にはうつらない。九年間一生懸命
努力してつかんだただ
一つの生きる力、生きるためのねがい、ささえをこのかわいそうな
子どもたちから取りあげないでいただきたい。二十四名の
子どもたちのために、いや、今後つぎつぎに
中学を卒業してくる
子どもたちのために
高等部の
設置を切に望むものである」。これは、たいへん長くなりましたけれ
ども、この校長の長い
教育の
経験を通じて書かれた
文章でありますが、これはいまの私は、この養護
教育なり、こういうかわいい
子供たちに対するすべてのものが網羅されているような気がするわけであります。したがって、私はこれから具体的にお聞きをいたしますけれ
ども、いま
児童福祉法によりますところの
療育給付について、今
年度具体的に、たとえば学用品の
支給月額がどのように伸びているか、その点を一点としてお聞きをしたいと思います。