○宮之原貞光君 私は、
日本社会党を代表いたしまして、ただいま
議題となりました
国立学校設置法等の一部を改正する
法律案について若干の質疑を行なうものであります。
〔
議長退席、副
議長着席〕
去る六月二十九日、本院におきまして、
国立学校設置法等の一部を改正する
法律案及び
国立学校設置法の一部を改正する
法律案について質疑を行なったものでありますが、総理及び
文部大臣の答弁たるや、的はずれであり、かつ抽象的でありましたので、きわめて不満でありました。したがいまして、
委員会において十分時間をかけてただしたいと思っておったのでありますが、
議長の去る八月二十一日の三党間の
国会正常化についての確認事項に対する不認識によりまして、再び本院において補充質問という形で質疑を行なわなければならなくなったことを残念に思うのであります。就任以来、参議院改革の旗じるしを掲げてこられた
議長のためにも、その名を惜しみながら、これから若干の質疑を行ないたいと存ずるものであります。
まず第一に、総理にお伺いをいたしたいと思います。
総理は、本院におきます本
法案の質疑の中で、
筑波大学の
設置は、
大学改革の特定の形を画一的に押しつけるものではなく、新しい試みの
一つだと強調されておりました。新聞に伝えられる、総理が非常な執心を持っておられるという山紫水明の地における学園都市構想と、この筑波
研究学園都市とは一連のものであるのかどうか、そしてそれぞれの地域における
大学構想は同一のものであるのかどうか、その点をまずお伺いをいたしたいと思うのであります。また新聞は、総理は、その学園都市を建設をするために、学園債という国債を発行することをきめたと報道しておるのでありますが、そのことが事実であるならば、この学園債なるものについての総理の見解をお伺いをいたしたいと思います。なお、これらのことと関連をいたしまして、総理の、今後の
わが国高等
教育機関
充実の
基本的な考え方についてもお伺いをいたしたいと思うのであります。
御承知のように、戦後の
大学改革の特色の
一つは、駅弁
大学という
ことばがあるように、
全国各地に
大学が
設置をされて、エリート
大学から
国民大衆の
大学へと門戸が開放されたことであります。その事実を、その現状をこのまま放置したままで総理の学園都市構想というものが出ておるのでありますが、私はこの総理の学園都市構想は、ここ一両日、新聞に大々的に報じられておるいわゆる新幹線ビジョンを連想させられてしかたがないのであります。総理は、生来、列島改造論とか新幹線大増設ビジョンとか、非常に建設の意欲が旺盛で、人呼んで土建屋的
発想と言っておるのでありますが、これらの
発想は、私は当然
国民的合意が得られなければならないきわめて重要な問題であると思うのであります。にもかかわらず、総理はその合意を得る
努力をされないままに、目先のただ
政治的思惑のみ先行させて、このような次々とアドバルーンを掲げておるところのきらいがあるのであります。総理の列島改造論が地価暴騰を呼び、今日の物価高の一因をなしておることは周知の事実でありますが、おそらく新幹線大増設ビジョンもまた、それに拍車をかけることは間違いないと思うのであります。もとより、私も新幹線そのものを頭から
否定する気持ちはありませんが、しかし、今日、まず第一に着手しなければならないことは、この交通の関係では、鉄道と道路の有機的、効果的な関連とか、騒音公害や自動車公害の防止などという総合的な交通対策の樹立が先行しなければならないはずなのであります。
このことと同様に、総理の言われておるところの学園都市構想もまた、私はその点を指摘せざるを得ないのでございます。いたずらに、思いつきの
大学をたくさんつくって屋上屋を重ねるということよりも、今日最も
日本の高等
教育の中で重要な課題は、
全国それぞれの地域で根をおろしておるところの地方
大学を
充実させ、特色ある
大学に育て上げていくということこそ、私はまずなさなければならないことだと思うのであります。今日、同じ
国立でありながら格差の著しい地方
大学、その格差の著しい地方
大学に対しますところの、格差是正のためへの積極的な投資こそ急務でなければならないのであります。総理の言う、思いつきにもひとしいと思われるこの学園都市構想とも関連ある
筑波大学の問題とも関連をして、私がいま一番不可解に感じておりますことは、たとえば筑波新
大学の第二学群の農林学類のつい目と鼻の先には、既存の茨城
大学の農学部が現存をしておるのであります。同じ地域に、農業を専攻するところの
教育機関が目と鼻の先にあるのであります。そういうような不合理な事態が今日生じておるのであります。そのことをそのまま放置したままでまた新しい
大学をつくっていくというこのものの考え方が、はたして
教育ということを考えてみた場合に正しいのかどうか。このことを申し上げますと、総理は、それは、いや一方は農学部であり、片方は農林学類なのだと強弁をされるかもしれません。しかし、実質的には
二つとも
内容は全く同じなものでございます。
国民は決して理解はできないものでございましょう。もし既存のものに問題があるならば、それを改革すればいいではありませんか。それを
政治的思惑のみ先行させていくという
やり方、なるほど、候補地に選ばれたところの選挙区民は喜ぶかもしれません。そこに
政治的なにおいがぶんぷんとするのであります。いたずらに新学園都市とか新
大学構想とか、新しいものをてらうという趣味は、私は厳に慎むべきだと思う。私はこの点に触れながら、総理の高等
教育機関の
充実の今後の方針について、十分ひとつ総理の存念をお伺いいたさせていただきたいと思います。
以下は、
奥野文部大臣にお伺いいたします。
その第一は、総理への質問とも関連があるのでございますが、
文部省の来年度の予算
要求を拝見をいたしますと、
国立体育
大学、放送
大学、新構想の
教員養成
大学、技術科学
大学院、総合理工学
大学院、さらには国連
大学、新芸術
大学等々と、まことに目新しい
大学の創設計画が続々と登場して、さながら新
大学ラッシュの感があるわけでございますが、まずこれらの具体的な構想と、その予算
要求のポイントについて、
文部大臣、お聞かせ願いたいと思うのであります。
新聞の大部分は、五十一年度からこれらの
学校は開校をめどにしておると報じておるだけに、おそらく私は、これらの構想にも具体的な大綱みたいなものがあると思うのでございますので、ここでは、いまだその大綱の構想はきまっておりませんと逃げないで、その中身をお聞かせを願いたいと思うのであります。
また、この問題にかんがみまして、これらの構想の
基本はおそらく中教審答申に忠実で、その根拠を高等
教育の多様化に置いておると思われますので、それならば、これらの新
大学でも
筑波大学同様に、
教育と
研究の分離とか、
管理運営面における各種
委員会とか審議会方式を採用されるところの計画であるのかどうか、はっきり御答弁をお願いしたいと思うのであります。なおまた、これらの問題と関連をいたしまして、
文部省は、来年度予算の中で新学園公団とかを
要求しておるようでありますが、その構想はどういうものであるかも、あわせてお聞かせを願いたいと思うのであります。
質問の第二点は、先般、代表質問の際にも私は指摘をし、さらにまた、先ほどわが党の松永忠二君からも
提案があったわけでございますが、旭川医大の創設、山形、愛媛
大学の
設置等の部分を切り離して
提案をし直せ、そうでないと、
法案が
成立をし、入試を経て入学するまでには、普通の常識でいうと最低二カ月を要するから、本
法案の
成立がおくれればおくれるほど、
学生諸君にはたいへんな迷惑があるということを指摘をし、その分離を強く
要求をしたのでありますが、その際におきますところの
政府の答弁は、単に現行法制上の体系上何ら疑義はないという、きわめて抽象的な答弁でこの答弁を逃げておるわけであります。私は、いまここで再び同様の質問をしようとは思いませんが、そのことにつきまして、より具体的にお聞きをいたしたいと思います。
かりに、本
法案が明日
成立をし、直ちに
学生の募集を公示し、入試を行ない、開校準備をしたとしても、開校は十一月に入ることは、これはだれの目から見ても明らかだと思うのであります。それから来年の三月までに医学部の一年生の単位を消化できるのかどうか。常識で考えると、これは消化できないことははっきりしておるのであります。一体、そのことを
大臣はどう処置をされようとしておるのか、具体的に答弁をいただきたいのであります。
私は、いま手元に東京
大学医学部のカリキュラムを持っておりますが、これによりますと、医学科授業時間数は、一年生の夏学期、冬学期合わせて三十二週、二百二十四日必要といたします。これはおそらく医学部関係の共通の単位だと考えるのでありますが、かりに一番早く、十一月一日開校して三月三十一日まで、一日の休みもなく、正月の元旦も授業いたしましても、二十一週、百四十七日にしかならないのでございます。一体、この間に、どのようにしてこのカリキュラムの時間の単位を消化しようとされておるのか。まさか、
成立がおくれて開校がおくれたので、ことしは何とか手かげんをするなどという、まさかインチキのことは私は考えられておらないと思うのでありますが、この埋め合わせをどういう形で措置しようと考えておられるのか、その点を具体的にひとつお答え願いたいと思うのであります。
第三問、これは永野文教委員長にお聞きをいたします。
これは先ほどの質問とも関係あるわけでありますが、御承知のように、
政府提案の本
法案と、先ほど来各党から言われておりますところのいわゆる野党四党の共同
提案とは、本院におきまして同時に
提案をされ、質疑が行なわれ、文教
委員会にも同時に付託をされてまいったのでございます。そして
委員会でも同様な審議が行なわれたのでありますが、先ほど、委員長報告には全然このことが触れられておらないわけでございますが、その
理由はどういうわけでしょうか。あるいは委員長は、この
法案は例の七月十七日の強行採決によって
政府案を可決したので、自然消滅したと報告をされるお考えかもしれませんが、それならば、正常化後の八月以降の
委員会でも、公報にも、
二つの
法案は並行して常に一緒に掲載をされ、審議をされてきたことは明白な事実でございます。まさか、死んだものが生きたり、そしてまた死なされたりするというわけでもありませんが、当然、私はやはりこの問題の経過についても委員長報告の中にあってしかるべきだと思うのでありますが、一体、委員長はこの
法律案を
委員会の審議の中でどのように処置をされてきたのか、その点を明確にお聞かせ願いたいと思うのであります。
第四問は、再び
文部大臣にお聞きをいたしますが、以下、すべて
文部大臣です。
政府は、しきりに
筑波大学を開かれた
大学と強調し、宣伝をいたしております。文教
委員会における
文部大臣の答弁を聞きましても、
大学は象牙の塔に閉じこもることなく、積極的に
社会の要請にこたえる
大学でなければならない、筑波新
大学はそのための開かれた
大学であり、参与
制度はそのために設けたのだと言っておるのでありますが、一体
文部大臣は、今日世界的な
教育界の合い
ことばになっておりますところの開かれた
大学、すなわちオープンユニバーシティという概念をどのように理解をされておるのか、その点をお聞かせを願いたいと思うのであります。
そもそも、
西欧諸国で使われておるオープンユニバーシティの概念は、エリート階級の
大学から圧倒的多数の
国民に
大学の門戸を開放するという、その歴史的な背景を持った概念であるのであります。その
意味からするならば、すでに戦後の
日本の高等
教育機関は、駅弁
大学という
ことばにも象徴されますように、
国民に大きく門戸が開かれたところの
大学になっておるのであります。それを、あえて
筑波大学を開かれた
大学だと宣伝をされておるところのゆえんのものは一体どういうものか、それをお聞かせ願いたい。おそらく
管理機関の
一つとして参与
制度を取り入れたということを指摘されるのでありましょうが、もし参与
制度という
制度を取り入れたということが開かれた
大学の
一つの特徴だと言うならば、私どもが従来指摘をしてまいりましたように、参与会の顔ぶれは中教審メンバーの事例からも明らかなように、財界、官僚、御用学者ですでに占められ、結局は強力な資本や
政治権力に牛耳られる参与会にしかならないということは、だれしもが一致したところの見方であるのであります。それだけに、開かれた
大学というのは、むしろ
国民に向かって開かれた
大学ではなく、
権力側、大資本の側に向かって開かれた
大学になりはしないでしょうか。どうですか、
大臣、その点を明確にお聞かせ願いたいと思います。
今日、
西欧諸国におきましては、すでにこの参与会云々の学外者から人を入れるという問題よりは、いかにして学外者の
管理に対して学内者の
学問と
教育についての自主
管理権を強めるかということ、すなわちアカデミック・セルフ・ガバメントを強めるかに
大学人の今日的な課題があるのであります。しかるに、
筑波大学の場合に宣伝をされているところの参与会は、それとは全く逆行したところの形に推移する可能性がきわめて強いのでございます。この問題点とも関連をさせながら、参与会の問題等を中心にしたところの、あなたたちが言う開かれた
大学というものは何なのかということを、明確にひとつお答え願いたいと思うのであります。
第五問は、
教育と
研究の分離の問題です。
衆参文教
委員会におきます文相及び
大学局長の答弁を要約をいたしますと、昔の
大学はレベルの高い
学生、いわゆるエリート
学生が多く、真理の探求をたてまえにした。しかし、いまの
大学は、
社会に出てすぐ役に立つというような技術や
職業的なものを身につけることを多くの場合求められているので、レベルもダウンし、
学生も大衆化している。かつまた時代の要請にこたえる科学的な
研究や技術
研究が強く求められているので、
教育と
研究は分離をするのだ、
ことばをかえて言いますならば、学群と学系が必要なんだという見解のように理解をされるのでありますが、だといたしますと、
教育基本法第一条に立脚をいたした
学校教育法第五十二条の「
大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに」云々という
大学の
目的との関係はどうなるのでしょうか。この点を明確にお答え願いたいのであります。
もちろん、私も
大学における
学問、
研究が、
社会の要請にこたえる分野とその役割りがあることは
否定はいたしません。しかし、
社会的奉仕や
社会的還元という課題は
大学の主たる機能ではなくして、
研究、
教育の副次的結果として、
社会的な種々の有用性が伴ってまいるものではないでしょうか。
大学の本旨は、あくまでも
学校教育法の示すように、「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授
研究し、知的、道徳的及び応用的
能力を展開させることを
目的とする。」ものでなければならないと確信をするものであります。そして、今日強調されておる、また、今日の事象でありますところの機能分化した
社会であればあるほど、専門化と同時に、
人間的な全体性ということはきわめて重要であるのであります。これらを
育成をするためには、
教育と
研究とはあくまでも一体的に行なうことが不可欠な
条件でなければならないのであります。
文部省の宣伝パンフは、分離の
理由を、
大学教育の急激な拡張と
学問、
研究の専門化の進展が従来の学部のワクの中では対応できなくなったのだとか、あるいは従来の
大学は
研究中心で
教育を軽視しているのだということをあげておるのでありますが、
大学における
教育は、
学問による知性の練摩でありますから、第一線に立って
研究活動を行なっているものの手によってなされることが必要不可欠であるのであります。そしてまた、第一線の
研究を遂行するためには、広い視野に立った
教育のための
研究を行なうことがますます必要でありますだけに、
研究と
教育とは不可分のものであることを私どもは忘れてはならないと思うのであります。そしてなお、私がさらに指摘しておきたいことは、現在の規則でも、学部その他の
研究所の壁を撤廃して
教育を論ずることはできるし、また、
研究の場合でも同様にできるのであります。要は運用の問題で、なにも新しい筑波方式をしなければ不可能だということではないのであります。このことについては、すでに去る六月二十日の
衆議院文教
委員会の参考人陳述の際に、国大協会長の加藤学長が指摘しておるところでございますが、これらの現実の
大学におけるところの運用の面とも関連をさせながら、
政府がいう
教育と
研究の分離云々ということについての御見解を、あらためてわかりやすくひとつ説明をしていただきたいと思うのであります。
第六問は、
大学管理の問題です。
管理と
研究及び
教育が三位一体的に運営されておるということは、今日、
日本の伝統的な
大学におきますところの特色であるのであります。文相は、その三位一体論を不可とするところの
理由といたしまして、昔と違って現在の
大学は
学生がきわめて多いので、
教員も多忙となっている。それを従来どおり一人の
人間が三つの仕事を一緒にやることは、いずれもアブハチとらずになるから、分離をするほうが効率的だということを言っておるのでありますが、私は、これはきわめて浅薄な論理であると言わなければならないと思うのであります。
その点につきまして、東京
大学の高柳信一教授は、三位一体の運営については反省すべき点もある。しかし、それは三位一体そのものについて問題があるのではなく、その処理のしかた、運営に問題があったのだ。したがって、改善のためには、
大学財政の確立、
教員の定員増等を主張し、かつまた、
管理との関係では、
決定権と
管理権はあくまでも教授会が
確保し、運営面で
委員会方式を採用すればよい。それを
管理する機関、
教育に当たる
教師、
研究に当たる
研究者と分離するところの考え方には非常に問題があるということを指摘されておるのでありますが、私も全く同感であるのであります。
政府はあくまでもこれらの分離を主張されておるのでありますが、いま一度、この問題についての御見解を明快にひとつお答え願いたいと思います。
第七問は、筑波の
管理運営の方式についてであります。
筑波大学の
管理運営の方式は、一口に申し上げまして、アメリカの
委員会方式や英米での審議会
制度を取り入れられているところにその特色が見受けられるのであります。すなわち、
教育に関しての
教育審議会、
研究に関しての
研究審議会、人事に関する人事
委員会、さらには財務
委員会等々がそれでありますが、そしてまた、
筑波大学の理解のためにというパンフを拝見をいたしますと、
管理は雑務であるからという考え方が根底にあるようでございます。
そこで、私がお尋ねしたいのは、カリフォルニア
大学のバークレー分校紛争事件の総括としてまとめられましたところのバークレー報告を、
管理運営の分野でどう評価をされておるのか、そして、それを他山の石として
筑波大学の
管理運営の面にどう生かそうと
努力をされておるのかどうか、その点を明確にお聞かせを願いたいと思うのであります。
私は、この答弁を的確にしてもらうために、この件についての若干の所見を申し述べておきたいと思うのであります。
バークレー報告書によりますと、バークレー分校でも
筑波大学同様、
管理は雑務だから
教員はそれから解放してやる、
教員は
研究と
教育に没頭せよという
立場に立っておるのであります。そして
管理のほうは少数者の上級の教授にまかせる方式をとってまいりました。そのために
大学の
管理、運営の面では、寡頭制と官僚性が
大学を支配してしまい、
一般教員はますます学園そのものについて無
関心の傾向を持ち、
大学の運命を自分のものとするところの観念が欠除し、例の
学校紛争を処理できないところの大きな要因をつくったと反省をいたしておるのであります。
筑波大学方式を見てみますれば、この教訓は何ら生かされた形跡のないままに、形式的にこの
委員会方式とか審議会方式が踏襲されておるように見受けられるのであります。また、このことは財務
委員会、厚生補導審議会についても指摘できるのであります。すなわちバークレー報告は、財務
委員会は
管理機関が財政権限を握って
一般教官の
研究に対するところの配分権を集中した点を反省をするとともに、厚生補導審議会についても、副学長のみが
学生の相談相手となって、
学生は教官を相手にしなくなった、そのために
学生と教官の
人間的触れ合いが皆無になって、
教育上の欠陥を生んだと反省をしておるのであります。
ところが、筑波大の
管理方式は、名称からその役割りまで、バークレー分校のとっておるところのいろいろな方式とあまりにも同一であるのであります。先ほども申し上げたように、一体この報告書との関連をどう受けとめて、
筑波大学の運営の中に反映させようとされたのかどうか、その点をはっきりお聞かせ願いたいと思うのであります。
第八問は、
大学の
自治のあり方についてであります。
大学の
自治の歴史は、遠く十二世紀の
大学の起源であるイタリアのボロニア
大学での裁判権獲得までさかのぼるわけでございますけれども、歴史をたどるまでもなく、
学問・
思想の自由を保障するためには、絶対に
大学の
自治が必要であります。そして私は、
大学の
自治とは
大学人みずからが人事権を持つことであり、
研究、
教育の
内容を自主的にきめることである。そして財政面でもある程度の自主性を持ち、
大学の施設・設備の自主的
管理権を持つことだと理解をいたすのであります。この
立場から、去る六月、本院でも私は人事権を中心にして質問をいたしたところでございますが、私は、今回は角度を変えて、財政権の分野からお聞きをいたしたいと存ずるのであります。
大学自治の重要な
内容として、特に財政
自治権というものはきわめて重要であるのであります。
研究、
教育の分野に限っては、金は出すが、その金の使い方については文句はつけないということは、
学問、
研究の自由を保障するためにきわめて重要な
原則であると思うのであります。ところが、私どもの周囲には、特に
自民党関係者には、このことは一応肯定をしながらも、
他方、
国民の税金を使って創設をし、運営されておるところの
大学であるから、この金の使い道を正し、
発言権を持つのは当然だという考え方がきわめて強いのであります。しかし、このことはアメリカの場合に例をとってみますれば、州によって独立の法人についての地位を
大学に保障するなどして、
大学の財政
自治権が非常に重視をされておるのであります。イギリスもまた、一九六〇年代に
国家が経費を投入してつくった多くの
大学では、
大学補助金
委員会ですか、UGCに全権が与えられているなど比較的強い権限を
大学人が持っておるのであります。
その点と
筑波大学と関連をいたして見ますれば、その点
筑波大学は法文上は明記をされておりませんが、
管理運営の重要なかなめとして財務
委員会を持ち、ここに予算案の立案権、予算の配分権を与えているのであります。これは既存の
大学が、教授会は財政
自治権が全くなく、
文部省派遣の職員によって完全にその実権が握られておるのと比べるなら、筑波は若干の
自治権を持っておるともいえましょう。おそらくこの点について、
政府はてまえみそでそのことを強く宣伝をするに違いないと思うのでありますが、私は率直に申し上げて、この財政
自治権を与えておる
筑波大学方式に若干の疑念を持たざるを得ないのであります。なぜか。それは、
筑波大学は東京
教育大学の移転
賛成者だけで構成をされ、
反対者はオミットされる可能性がきわめて強い
大学であります。いわば巨大な
国家資金が時の
政治権力の意向に沿ったところの人々で構成する
大学にはふんだんに投入され、ある程度自由に使わせるという仕組みになったものであります。この点は既存の
大学と違って、
政府は少しも心配がないから、
筑波大学に対してはこのように自主財政権を与えているということではないでしょうか。
奥野文部大臣は、筑波構想は
一つのモデルであって、他の
大学に強要はしないと答弁をされているのでありますが、このように
筑波大学が財政自主権を持っておるという魅力は、今後非常に大きな誘導力となって、既存の
大学の筑波方式への傾斜のなだれ現象を招来することは必至であるのであります。
政府にとってはまさに思うつぼかもしれません。しかし、皆さん、この問題に関連をいたしまして、いま
一つこのような事実が、ささやきがあるのであります。いま
文部省の気にいらない改革方式を持っているところの
大学には、特別事業費や臨時事業費等はほとんど配分をされないというささやきが、
大学人間の中にきわめて強くあるのであります。これはちょうど、知事選挙や首長選挙における中央直結の
政治の論理と全く同じものであるのであります。このようなまたささやきを裏づけるかのごとく、去る三月十五日の国大協の会長談話は、
筑波大学法案の問題に対して、このようなことを言っておるのであります。この改正が、予算措置等を通じて他の
大学を
筑波大学方式へと誘導するものとなってはならない云々と、非常にその懸念を表明をしておるのであります。文相、あなたは答弁の中では、常にこれは他の
大学に強要するものではないと言いながら、財政面からの締めつけによって、ねらいはそこに各
日本の
大学を持っていこうとするところの
意図があるのではありませんか。文相は、もしあなたが
大学関係者のこのような懸念は心配する必要はないと言うならば、そのことを明確にここでおっしゃっていただきたいと思うのであります。そして、またもし
大臣が、ほんとうに
大学にある程度の財政
自治権を与えることが至当であるということをお考えになるならば、単に
筑波大学だけでなく、既存の
大学にも
筑波大学と同様に与えることが当然ではないでしょうか。一体その
意思があるのかないのかをお聞かせ願いたいと思うのであります。
第九問は、
学生参加の問題でございます。
大学紛争が
学生と
教員、
大学当局とのコミュニケーションの断絶に最大な原因があるということは、ひとり
わが国のみならず、世界の
大学紛争の共通の教訓であるのであります。先述のバークレー報告が
学生参加の問題を焦点の
一つに位置づけ、フランスのフォール改革また諮問機関への
学生参加を打ち出しているところの背景は、ここにあるわけでございますが、この
立場から、いわゆる
政府の開かれたところの近代的な
大学と宣伝をしておる
筑波大学構想は、この
学生参加の問題について一体どのような方針を打ち出しておるのか。これは関係者の大きな
関心の
一つでありますけれども、先ほど松下
先生からも指摘がありましたように、結論は全く期待はずれであるのであります。
学生を単に厚生補導審議会のワク内に押し込め、ただ
学生を補導するものとの
立場と、規律に服する義務を負う者という観点からのみ見ておるのでございます。
学生は
教員及び職員とともに学園を構成するところの構成員だという認識が、きわめて欠除しておるのであります。私は、ここに大きな問題があるという点を指摘をせざるを得ません。
確かに、
学生参加の限界をどこに引くかという問題はむずかしい問題であり、識者の間にも意見の大きく分かれるところであります。しかし、可能な限り学園の構成員の一員としての
学生に
権利と
責任を与え、かつ負わせるということはきわめて重要だと思うのであります。このことに対する文相の見解を承りたいと思うのであります。私は最小限、代議制の
学生評議会の
制度を確立し、これを窓口にして
学生の意見を聞く場を設定をするとか、公開
討論の場を設定するとか、さらには、各種諮問機関への
学生の参加の道を開くということは必要だと考えるのでありますが、この
学生参加に対する文相の考え方を、これらの具体的な事例の問題と関連をさせてお伺いをいたしたいと思うのであります。
最後に、
筑波大学の
教育課程についてお聞きをいたしたい。
先般、
文部省は、私たちの資料
要求にこたえて、
筑波大学の
教育課程についての資料を
提出をしてまいりました。しかし、これは全くおざなりでお粗末なもので、カリキュラムの名に値しないものでありました。そもそもカリキュラムは、講義題目の全体のメニューと担当教官名を明示するのが、特に初年度の
学校においてはそのことが絶対に必要であるのであります。それが
提出をされたところの資料には全然明確にされておらないのであります。
一般的に申し上げて、
大学の学部創設の場合は、少なくとも開校の半年くらい前には
教職員組織に関する書類が作成をされ、その中に学部及び学科別担当
教員予定表がつくられ、そして担当
教員の資格審査が
大学設置審議会の手によって行なわれるというのが常道であります。現に、
法案に含まれておりますところの山形
大学医学部の場合は、すでに昨年十月末に書類が
提出をされ、十一月には審査を通過しておるのであります。ところが、
筑波大学の場合にはそれがいまだ全然出されていない。これは全くおかしいと言わなければなりません。おそらく、すでにつくられておるけれども発表できないとでも言うのでしょうか。ほんとうにこれがつくられておらないとするならば、来春から予定の発足は不可能であります。この点に関するところの
文部省は
責任を負わなければならないと思うのであります。その点の明確な
大臣の答弁を求めるのであります。
発表できないのは、東京
教育大の文学部を中心とする移転
反対派の
教員の動向と関係があるのではないかとささやかれております。しかも、このささやきは、きわめて確度の高いうわさのようでございます。
反対の
教員は筑波に採用するわけにいかない、その
教員は配置はしない、といって、かわりの
教員のめどがつかないままに、空白部分があるからということで発表を渋っておるのでしょうか、どうだろうか。まさか
文部省は、自今のめがねにかなった
教員のみ筑波に入れるという考えではないでしょうね。
大臣、それらの問題をもあわせて、世間でも通用できるところのカリキュラムが何で
提出をされておらないかということを明確にひとつお答えを願いたいと思うのであります。
終わります。(
拍手)
〔国務
大臣田中角榮君
登壇、
拍手〕