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戸叶武君 私は、
同僚議員各位のお許しを得まして、本院を代表し、去る二月三日急逝されました
議員柴田利右エ門君に対し、つつしんで
追悼の辞をささげたいと存じます。
柴田君は、大正五年三月、
名古屋市の熱田にお生まれになり、その地で成長されたのでありますが、
高等小学校のころに
父親が亡くなられましたため、三人きょうだいの長男でありました君は、
少年時代すでに一家の中心たる自覚を持たれ、
父親がわりとして
生活を双肩ににない、大きくなられたのであります。
昭和五年三月、
高等小学校を卒業されると、進学を思いとどまり、直ちに
三菱航空機名古屋製作所に
養成工として入社されました。当時の
養成工は、
志願者が多く、数百人に一人という激烈な
競争率だったといわれております。
航空機製作所には、
現役兵として海軍に入営されるまで在籍され、入営後は選ばれて呉の
通信学校に第五十四期生として入学され、
通信兵として服務後、
昭和二十年秋に復員されました。
復員後、再び
三菱重工業名古屋機器製作所に復職されました。敗戦後の荒廃の中に、大財閥は解体され、工場は
軍需産業から
平和産業への転換期で、このこんとんたる事態に直面された君は、深く
社会の
現実を見詰めつつ、将来日本の進むべき道は、働く者の幸福と
平和国家の
建設にありと判断され、
労働運動に進むべく決意されたのであります。
直ちに
名古屋機器製作所の
労働組合結成に参画され、
組合役員として活動されました一当時の
名古屋の
三菱労組の状況は、終戦直後五つの
組合があったのが一つにまとまり、
名古屋製作所労働組合となっておりまして、この間、
組合統合に際して、それぞれのイデオロギーの差はあっても、団結が
組合員のしあわせということで、これらを乗り越えて統一をはかられました。
その後、
昭和二十五年に新
三菱重工労働組合が結成され、翌二十六年、神戸の
組合本部へ副
委員長として勤務されるまでの間、よく
組合の進むべき方向と
社会の動向を直視しつつ、
現実に立脚した
活動家として、持ち前の
忍耐力と強い向学心、並びにチャンスをつかむ君独特の才能をもって的確なる
指導をされ、
組合の
発展に寄与されたのであります。
二十六年、
名古屋を離れられて以来、
最後まで家族の方々と別居し、
組合活動のため、また
政治活動のため、不自由な
生活を続けられたのであります。
昭和四十一年、
三菱東重工業、
中重工業、
西重工業と三つに分割されておりました
三菱労働組合が合併し、九万人を擁する大
組合となりました際、
会議はもろもろの問題で沸騰する中で、
柴田君が数分間の中に新
委員長に選任せられましたことは、君の円満なる
人格と高道なる
識見、
指導者としての抜群の才を万人が認めたからにほかなりません。
かくのごとく、生涯にわたり、君が、卓越した
指導力と
高通なる
識見、円満な
人格をもって、わが国の
労働運動の健全なる
発展に寄与せられました
功績は、絶大なものがあります。
昭和四十六年、
参議院議員選挙にあたり、君は、
全日本労働総同盟、民社党及び
三菱重工労働組合の強い要望により出馬を懇請されたのであります。が、固辞して受けられませんでした。しかるに、再三にわたる要請に、ついに意をひるがえし、働く者のための真の
政治を実現しようと決意を新たにして立候補せられ、みごとに
当選の栄冠をになったのであります。
自来、
国会においては、商工、
農林水産、運輸、外務の各
委員会委員として活躍せられ、ことに
交通安全対策特別委員会委員としては、
当選以来引き続き
理事の要職をつとめられ、
安全対策、
被害者保護、
救急医療対策等の諸問題に広範なる知識をもって真剣に取り組まれ、国民の
交通による
被害からの
保護に尽力されましたことは、全員が深く認めるところであります。
君は、資性きわめて温厚にして、思いやりの心厚く、人を愛し、感謝の念強く、なおかつたいへんな
努力家で、牛のようだと言われたほど
忍耐強い人であり、また、
団長団長と愛称されるほどみんなに親しまれた人でありました。また、理想に走らず、
現実を確実に見きわめつつ事に当たるという人でありました。
家にあっては、母親を大切にいたわられ、
夫人にはやさしく、深く感謝しておられたと、漏れ承っております。また、子煩悩の方で、弟妹にもやさしく、時には慈父のごとくさえあられたと聞いております。
昭和四十年、新
三菱労働組合の解散のおり、
功労者として
記念品を贈呈するにあたり、希望の品をお尋ねしたところ、鏡台を所望されたということでありますが、これも
組合運動に側面から絶大な援助を惜しまれなかった御
夫人に対して示された君のあたたかい心づかいであったろうと思います。
君は、元来健康に恵まれておられ、
政治活動も活発に、時間の許す限り遠路もいとわず活躍しておられましたことは、
同僚各位の羨望しおかざるところでありました。ことに、全国区
選出議員として、その責任上、遠隔の地にも
旅行が多く、ために最近若干からだのお疲れもおありでありましたでしょう。
国会の
委員会活動には、時間も正確に欠かさず出席され、
最後まで審議に加わっておられました。
一月三十一日の
交通安全対策特別委員会にも、ふだんと全く変わらず出席せられ、お別れした次第でございます。
二月二日には、いつもとお変わりなく
各種会合に御出席になり、夜行の新幹線で
名古屋にお帰りの車中で気分が悪くなられ、自宅にお着きになって間もなく急逝されたとの報に接しまして、一時、われとわが耳を疑ったような次第でございます。
社会が激動しつつある現在、ことに働く者のしあわせな
平和国家の
建設にさらにさらに力をいたさねばならぬ大切なときに、
政治家として、また
労働運動の
指導者として、君の力にまつところ多大なものがありました。このときに君を失ったことは、惜しみても余りあるもので、
参議院のため、ひいては
国家のためにも、痛恨のきわみであります。
ここに君の生前の数々の
功績をたたえ、君の人となりをしのび、
同僚各位とともに衷心から御冥福を祈り、
追悼のことばといたします。(
拍手)
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